NECESSITAS_VIS_LIBERTAS! 薄肉彫 ツルゲエネフ(生田春月訳)
NECESSITAS_VIS_LIBERTAS!
薄 肉 彫
鐡のやうな顏をした眼附の鈍くすわつた脊の高い老婆が、大股にふんばつて、そして棒のやうに乾いた腕で今一人の女を前に押出してゐる。
此の女は――大きた身體をして力がありさうに肥つてゐて、ヘラクレスのやうな筋肉をし、牡牛(をうし)やうな頭には小つぽけな頸(くび)が乘つてゐて、しかも盲目である――彼女もまた小さな瘠せた娘を前に押し出してゐる。
此の娘だけは眼が見える。彼女は反抗して、ふり返つて、その綺麗な優しい手をふり舉げてゐる。その顏は生々としてゐて、性急さと大膽さとを現してゐる……彼女は從ふまいとしてゐる、押される方へ行くまいとしてゐる……でも紋女は屈從して、行かなければならないのだ。
Necessitas_Vis_Libertas!
氣が向いたら譯して見たまへ。
一八七八年五月
【Necessitas_Vis_Libertas、羅甸語。これを譯して見ると必然、力、自由となる。卽ち鐡のやうな顏をしたのが必然で、大女が力、小娘が自由だ。三つの槪念を三人の女の彫刻になぞらへたのである。】
【薄肉彫、普通の彫像ではなくて、淺く浮彫にしたものを云ふ。】
【ヘラクレス、希臘神話に出る半神の英雄、獅子と格鬪して苦もなく組伏せてしまふ大力者。それで大男のことを、あれはヘラクレスだなどと云ふ。】
[やぶちゃん注:二ヶ所のハイフンの位置は中央よりやや下位置であるが、ピンとくる活ハイフンが見当たらなかったので、この完全下部ハイフンで示した。また、ラテン語部分はゴシックでは痩せ細って見えてしまうので、太字にした。
さて以上のラテン語であるが、この三つの単語は以下のような多様な意味を含んでいる。ツルゲーネフが最後にわざわざ「氣が向いたら譯して見たまへ」と言う時、こうしたラテン語の様々な意味を念頭に置いて、そこに多様な網の目のような思索を期待したのではないかと私は思うので、以下に示しておく。
「necessitas」(ネケッシタース)は①必然(的なこと)。②強制・圧迫。③境遇・立場。④危急・急迫・苦境。⑤繋がり・関係付ける力・情。
「vis」(ウィース)①力・権力・勢力・②活動力・実行力・勇気・精力。③敵意としての武力・攻撃。④暴力・暴行・圧制・圧迫。⑤影響・効果。⑥内容・意義・本質・本性。⑦多量・充満。
「libertas」(リーベルタース)①自由・解放。②自主・独立。③自由の精神・自立心。④公明正大・率直。⑤放縦・自由奔放・拘束のないこと。⑥無賃乗車券。
ツルゲーネフの「散文詩」はその作者不詳の素朴な挿絵が一つの良さでもあるのであるが、残念ながら本篇の挿絵は、非常に見づらい。私の中山省三郎訳の底本のそれは、左手の少女の画像が頗る見え難くなっている。両足は判別できるが、胴から上、特に頭部が全く不分明であるので、私の『トゥルゲーネフ「散文詩」全篇 神西清個人訳(第一次改訳) NECESSITAS, VIS, LIBERTAS」』で新たに掲げた、一九五八年岩波文庫刊の神西清・池田健太郎訳「散文詩」の方の挿絵を見られたい。言っておくと、少女はひどく小さいのである。]
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