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2019/05/11

ブログ・アクセス1220000突破記念 梅崎春生 囚日

[やぶちゃん注:本作は昭和二四(一九四九)年四月発行の『風雪』別冊第二号に発表され、後の同年十月に刊行された単行本小説集「ルネタの市民兵」に収録された。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 以下、少し、事前に言っておくべきことと、語注をネタバレにならぬように附す。

 初っ端から躓く若い方がいるかとも思われるので、最初に言っておくと、冒頭(二段落目)に登場する「水野国手」の「国手」は名前ではなく、「水野医師」の謂いである。「国手」は「こくしゅ」で、「国を医する名手」の意味であって、「名医」或いは「医師の尊称」である。但し、この語には別に各種の技芸に於ける「すぐれた名人」、中でも特に「囲碁の名人」を指すことがあり、梅崎春生は囲碁が好きであったから、以下は想像だが、この水野医師も実在のモデルがおり、その人物は囲碁仲間で、しかも相応な囲碁力を持っていて、職業は医師であったという、読者には伏せた楽屋落ちの含みをも持たせてあるのかも知れない。なお、正直、私自身、この語を使ったことはない。因みに「国手」の由来は、原始人氏のブログ「原始人の見聞」の『「国手(こくしゅ)」の由来』によれば、春秋時代を対象とした史書「国語」(著者は「春秋左氏伝」の著者とされる魯(紀元前十一世紀~紀元前二五六年)の左丘明であると言われているものの定かではない。但し、古くから本書は「春秋左氏伝」の「外伝」であるとする説が唱えられており、「漢書」の中では「国語」のことを「春秋外伝」という名称で記している)、の『中に「晋(しん)の平公(へいこう)が病気になった時、秦(しん)の景公がこれを聞き、医師を遣わして診察をさせたことがあった。その際に趙文子(ちょうぶんし)という人が』、『「一国の王様を治療するのだから医が国に及ぶ訳ですね」と申し上げると、景公は「全くその通りだ。上医は国を救い、その次のものは人を救うものだ」と答えた」とあり、それから名医のことを「国の病を治すほどの名手」だと尊敬して「国手」と呼ぶようになったという』とある。

 また、本作の、特に前半部には、そのロケーションや登場人物の特異性と、書かれた時代の限界性とから、差別的な言辞・表現・描写がかなり出現する。また、登場人物の不適切にして差別用語をも含む感懐が語られる場面もある。また、現行では、患者に対して差別的であると同時に当該疾患を示すのに医学的にも不適切であるという理由から、廃止されて新たに改称されたり、今は使われることが少ない旧疾患名も出てくる。それらについては、批判的視点からの読解をなされるようにお願いする(ネタバレになりそうな具体的なそれらについての語注は作品の最後に後注として置いておいたので、読後に、必ず、読まれたい)

 「エレクトロンのアトム」というのは「電子」を意味する“electron”(或いは“elektron”)、「原子」を意味する“atom”で、恐らく登場人物は原子構造の模型に於ける電子殻(でんしかく:electron shell)、所謂、原子核を取り巻く電子軌道或いはその複数の集まりをイメージしたものであろう。この人物、もとは相応の知識人かとも思われる。

 「麻葉模様」(あさばもよう)は、基本形は正六角形の幾何学模様である。グーグル画像検索「麻葉模様」をリンクさせておく。

 「焮衝(きんしょう)」とは、身体の一局部が赤く脹れて、熱を持って痛むこと。「炎症」に同じい。

 「配給」とあるが、戦後の配給制度(米穀通帳による米分配販売配給が減衰する時期)は本作が発表された翌昭和二十五年から二十六年(一九五〇年~一九五一年)頃までは未だ残っていたのである。

 因みに言っておくが、私は、本作を非常に高く評価している。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが1220000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年5月11日 藪野直史】]

 

 

   囚  日

 

 敷地が数万坪もあるというこの脳病院には、数百人の気の狂った人がいるという話であった。比較的軽症の人々は、敷地内の農耕にでていて、鍬(くわ)を使ったり収穫をはこんだりする姿が、遠くに見えた。重症の患者たちは、みな病棟に閉じこめられていた。空模様の面白くない午後であった。鉛色に垂れた雲のしたに、コの字型の病棟が、道をはさんでいくつも建っていた。

 水野国手に案内されて、病棟のなかをつぎつぎ、私たちは見て廻った。水野国手は白い清潔な診察着をつけ、廊下をゆっくりと先にたってあるいた。時々たちどまって、病室の患者と問答をかわし、私たちを振返って、その患者の病状をしずかな声で解説した。

 頑丈な扉のついた病室ばかりの棟があった。扉には銃眼に似た刳抜窓(くりぬきまど)があり、内部がのぞけるようになっていた。発作のはげしい患者などが、ひとりひとりそこに入っていた。扉の厚さは五寸ほどもあった。なかをのぞくと、布団にくるまって寝ていたり、またいきなり起き上って、顔を窓のところに持ってきたりした。そして訴えることは、訴えのなかだけで論理が通っていて、私たちの世界とは、ある一点ですさまじくかけ離れていた。この廊下には、動物の檻(おり)のようなにおいが、うっすらとただよっていた。麻痺性痴呆や、躁欝病や、分裂病の患者たちであった。そういう患者を、ひとりひとり見てゆくうちに、見ているこちらが狂っているのではないか、という錯覚に私はふと落ちたりした。廊下は乾いているにもかかわらず、踏むスリッパは、なにか濡れたものを引きずるような音をたてた。

 女ばかりの病棟があつた。

 うすぐらい一室の扉のかげに、わかい裸体の女が、顔を膝に埋めてうずくまっていた。一片の衣類もつけぬその裸体は、つめたく均勢がとれていて、むしろ陶器じみた白さであった。一切の物音から遮断されたかのように、それは身じろぎもしなかった。

 廊下の角に、いきなり声をあげてうたい出す女がいた。小刻みに身体をゆすり、身振りを交えながら、私たちのあとを追ってきた。女の顔は忘我的な陶酔のいろを濃く浮べ、瞳は色情をふくんで軽やかにうごいた。これほどたのしそうな歌声を、私は長い間、聞き忘れていたような気がした。

「躁病の爽快感情ですね」あるきながら水野国手が静かに言った。「あのひとは、発作が起きそうになると、自分で判って、進んで入院してくるのです。発作にも周期がありましてね、もう何回目の入院でしたかしら」

 眉をひそめた生真面目な表情で、忙しげに廊下の端をすりぬけてゆく中年の女もいた。襟(えり)には手巾(ハンカチ)をあて、歳にしては地味すぎる着物を、引き詰めるように着ていた。付添いの女かと思うと、これも患者なのであった。

 廊下をひとめぐりして、もとの入口にもどってくると、私たちは靴をはき、道をよこぎつて、また次の病棟に移って行った。その道をあるいていたり、入口の石段に腰かけて休んでいたりする男たちが、あれが軽症患者なのか、看護人なのか、私には見分けがつかなかった。私自身にしても、水野国手と同道でなかったら、他からはどう見えるかは判らなかった。その考えは幾分、私の心を寒くした。しかしそんなことを感じるのは、私だけであるらしく、数万坪のこの区域内に居住する人々は、おおむね他人の生き方に無関心なふうであった。放心とか黙殺というのではなく、もっとつめたく澄んだ無関心が、ここ全体を支配していた。

 大きな病室がつらなっている病棟では、ひとつの病室に、十人も十五人もいて、思い思いの姿勢で、じっと動かなかった。布団をかぶって寝ているのもいたし、壁に倚(よ)ったままにぶい眼を私たちにむけるのもいた。みな欝然として表情をなくし、自分の世界にとじこもっているようであった。病室をでて、中庭に休んだり、なんとなく廊下をゆききしているのも少しはいた。その一人は、私たちが廊下にふみ入ったとたんから、水野国手のそばにくっついて歩きながら、しつこく同じことばを操りかえしていた。

「ねえ。よその病棟にうつして呉れませんか。ここは面白くないですよ。ねえ。お願いしますよ」

 十秒ほどの間隔をおいて、同じ言葉を同じ抑揚で、まるで同じところを廻転するレコードのように、この男は早口に発音するのであった。しかし男の顔には、その語調ほどの切実な表情はうかんでいなかった。相手にされなくても、ただその言葉を、飽きず繰りかえすだけであった。

「ねえ。よその病棟にうつして呉れませんか。ここは面白くないですよ。ねえ。お願いしますよ」

 気持の重さをやや感じながら、私も水野国手のあとをあるいた。先に立つ水野国手の襟足は、わかわかしく脂肪をのせていて、なにか疲れを知らぬ、つよい精気のようなものが感じられた。医者という職業人が、ほとんど例外なくもつ、あの肉体的な感じであった。曲角の病室にくると、また水野国手は立ちどまって、廊下から部屋のなかに、しずかな声で話しかけた。

「どうだね。加減は?」

 話しかけられた男は、入口近くのすぐ下にうずくまり、布団をからだにぐるぐる巻きつけ、茸(きのこ)のように首だけを出していた。こちらに顔をあげて、のろのろとなにか答えた。男の答える言葉は、ひどく辛そうであった。唇のあたりに、亡友の死霊が憑(つ)いていて、どうしても離れず、それがいろんなことを命令するというのであった。

「……今朝からも、芋を食うな、食うちゃならん、と命令するもんですから、どうしても食べられんで、朝食も昼食も、まだすこしも食べずにおります……」

 くるしそうな声で、とぎれとぎれ言いながら、その男は片掌をあげて、黄色く褪(あ)せた唇の辺をはらうようにした。男の眼は、内側に折れまがったような暗い光をおびて、ちらちらと水野国手にむいて動いた。顔色は不自然なほど黄色で、すこしむくんでいた。自分の症状を正確にはなすことで、自分の苦痛をすこしでも柔らげることが出来るかのように、男はくるしそうに掌をふりながら、質問にこたえて、くぎりくぎり発音した。

「……なんと言ったらいいか……ここらあたりに……霧のような……もやもやとして……エレクトロンのアトムのような……そんな形になって……それがしょっちゅう私のここのところを……」

 男の指はふるえながら、しきりに唇の辺を探るふうにうごいた。水野国手の肩ごしに、私はその男を、そして身体に巻きつけた布団の柄を見おろしていた。その布団は、ところどころ生地がやぶれ、うすくなった綿が、ちぎれた旗のように垂れさがっていた。布もひどくよごれ、褪色(たいしょく)していたけれども、それはたしかに、青い地に白の麻葉の模様であった。その色調や模様と同じものが、とつぜん記憶の中からよみがえって、つよく私の心を射た。

(――ああ、あれは石狩の布団とおなじ模様ではないか――)

 まぎれもなく、同じ布地の布団であった。その布団を、まとめて千五百円でしか引取れないという古道具屋に、私は二千円で買えと、しつこく言いつのっていた。それは一週間ほど前のことであった。立合っていたわかい刑事は、腕組みをしたまま、にやにや笑っていたし、老人の古道具屋は、布団と本箱と古外套など合せて、六千円以上はだせないと、古物商特有の声を殺した口調で、頑固にくりかえした。

「コミじゃ困るんだ。別々に値をつけて」

「別々にしても、布団は千五百ですよ。結局は同じ値でさ。旦那」

 これらの品物の持主が私でないことを、ほんとの持主は警察に行っていて、当分戻る見込がないから、品物を処分していることを、この老人は知っているらしく、自分の言値をさらに動かす気配は見せなかった。その布団であった。その布団と同じ模様が、この怨霊(おんりょう)に憑かれた狂人の身体をくるんでいたのである。

「ええ。ええ」

 この男はほとんど泣きだしそうな声で、水野国手の質問にこたえていた。

「……それは、それは判っておりますが、それでも、なんだか、必ずたたりがあるような気がして……」

 声がだんだん小さくなって、そのまま麻葉模様に、顔をくるしそうに埋めた。もうなにも開いて呉れるなと、言っているように見えた。

「分裂病の病状としても、まだ初期ですから、幻覚じゃないかと言うと、あんな具合に反応するのですが――」

 廊下をあるきだしながら、水野国手が低い声で言った。

「これが進むと、すっかり自分の妄想の世界に入りこんでしまって――」

 つぎの大きな部屋には、私たちが廊下を通っても反応を示さない、うずくまったままの患者が何人も住んでいた。それらはなにか鉱物のように、ばらばらに孤立した感じであった。水野国手の指が、それらを漠然と指さした。

「ついには、あんな具合に、感情が鈍磨荒廃して、全く無為の状態になってしまったりするのです」

「――みんなああいう風になるのかね?」

 暫(しばら)くたって私の連れが、そんなことを聞いた。

「それが多いんだね」

 病棟の入口までもどってきたので、スリッパを靴にはきかえながら、水野国手はすこし陰欝な調子になってこたえた。

「彼等が閉じこもっている世界が、どんなものであるか、これは誰にも判らないんだよ。分裂病患者は、同一人に対して、愛と憎しみといったような、正反対の気持を同時に感じたり、また同時に泣くことと笑うことが出来たりするんだ。医者の方で、両価性と名付ける特性なんだが――」

 石階を降りて、鉛のような雲のいろを映した道に、私たちは出た。水野国手は道ばたにしばらく佇(たたず)んで、くろずんだ病棟の列をながめていた。

「――もう、こんなものですよ。あとの病棟も、同じようなものですよ」

 すこし経(た)って、水野国手がぼんやりと私にそう言った。その端麗な顔には、ふしぎな退屈の色が、つよく浮んでいた。それは、私の気持で、そう見えたのかも知れなかった。長い廊下をつぎつぎにあるいて、異様な緊張が私に持続していたにも拘らず、ある退屈感が私の胸に重くひろがっているようであった。なにかしなければならないことを、やり残しているような、そしてそれを忘れて思い出せないような、へんにはっきりしない気分が、鈍く私を押しつけてきた。

「ええ。もう結構です。これで大へん勉強になりました」

「――医局に行って、脳外科手術の器械などごらんに入れますか」

 もとの静かなはっきりした態度になって、水野国手がそう言った。

 本館にむかってあるくとき、すれちがって水野国手に頭を下げる軽症患者の、三人にひとりは、前頭部の両側に、うすい傷痕をつけていた。水野国手はいちいち会釈をかえしながら、また時には声をかけたりした。

「ちかいうちに、ここで演芸会をやりますよ。見にきて下さい」

 水野国手はそんなことを私に一言った。この病院のなかだけでやる会で、患者ばかりが出演する劇もあるそうであった。それを聞いたとき、焮衝(きんしょう)に似た感じが、私の胸の底をはしった。

「患者だけでもやれるのかい?」と私の連れが聞いた。

「やれるさ。軽症の患者だから」水野国手は連れの方をむいて答えた。「精神病というと、なにもかも僕らと違うと、君はかんがえているんだろう」

 本館の裏口から、看護婦がふたり、話しながら出てきた。背景が暗いので、それらは白く鮮かに浮き上って見えた。私たちはその方向へあるいた。

 

 郵便局によるために、新宿で私は連れの友人に別れた。別れると直ぐ、郵便局へゆくのも物憂くなって、また戻って友人の姿をさがしたが、人混みにまぎれてもう見当らなかった。この友人が水野医師と知合いで、今日見学に私を伴ってくれたのである。

 狭い鋪道の人混みを、私は反対の方角へのろのろ動きだした。人の進みが、いつもよりのろいような気がした。大きな建物が、ところどころ曇天をくぎっていて、その谷間にあたる小さな店に、おいしそうな麺麭(パン)がたくさん積まれていた。買おうかな、とふと思い、立ち止りかけたが、うしろから押されるまま、ずるずると通りすぎた。身体の芯(しん)が疲れているようで、気持を強く保つものが、私から失われているらしかった。はっきりしたあてもなく、大通りをそれて、私は横町にあゆみ入った。

 ある喫茶店に腰をおろして、私は珈琲(コーヒー)をのんでいた。珈琲はへんに甘たるかった。この契茶店は、両側の壁に椅子をならべてあるから、客たちはそれぞれ壁を背にして向きあうようになっていた。七八人の客がばらばらに腰かけていた。脚を組んだり頰杖をついたり、飲物を飲んだり莨(たばこ)をすったりしていた。鉢植の葉の影が、黄色の壁におちていた。お互につながりを持たぬ人々がかもしだす、ある一つの感じがそこにあつた。客が出て行ったり、新しく入ってきたりすると、その感じは揺れうごくが、やがて水面が波紋を消して倒影をとりもどすように、またもとの感じがたちかえってきた。

 遠くから流行歌が聞えていた。何かの具合で、聞えたり聞えなくなったりした。聞いたことがあるような節だと思うと、それはあの躁病の女がうたった同じ歌であつた。すると濡れたように重いスリッパの感じが、私によみがえってきた。つづいて私は唇に死霊がついた男の顔を思いうかべた。あの顔はむくんで、この喫茶店の壁のような色をしていた。とぎれとぎれにしゃべる声が、耳のそばで聞えるような気がした。

 そうだ、ととつぜん思い出した。あの男の口調が、なにか心にからみついたのも、私の故郷の訛(なま)りがそこにあったからであった。実際に聞いていたときに、なぜ私はそれに気が付かなかったのだろう。あの時、鼓膜にだけとどまっていたものが、今になって意識にのぼってきたのは何故だろう。

 あの病院は配給の関係上、患者を都民に限っていたから、あの男も私と同じ故郷から東京にでてきて、まだ訛りもとれないうちに発病して、そして病院に収容されたにちがいあるまい。どんな経歴の男か知るよしもないが、あまりゆたかでない証拠には、あれは公費患者の病棟であったし、そしてあの布団も、破れ目から綿がちぎれかけていた。布団の麻葉模様も、大きな汚れた蜘蛛のような形に見えた。

(布団まで売り払らったというのも、下獄の決心をしたからに相違ないのに、なぜ今となって、保釈をたのむような気持になったのか?)

 あの布団や道具をみんな整理して金に換えてくれと、最初に面会に行ったとき石狩は、直ぐ私に頼んだのであつた。留置場の食事は充分でないので、他から補充するために金を必要とするのかも知れなかったが、布団まで売る気持というのも、五年や七年の下獄を覚悟したからにちがいなかった。それだのに係りの刑事から、本人が保釈をつよく希望しているという連絡があったのは、昨日のことであった。その時私は、石狩の部屋で売れのこつたがらくたの中から持ってきた、彼の小説原稿をばらばらと拾い読みしていた。それはこういうところであった。主人公が暗い夜、北陸のある町をあるいている時、うしろから歩いてくる二人の男の会話を、ふと聞くともなく聞く場面であった。

 

「ええ、もう気持が駄目かと思った――」

「逃げれはよかったんだよ――」

「ええ、ほんとに逃げたいと思ったんです……だが――」

 くるしそうなほそい声だった。

「だがもなにもないよ、実行だけだよ此の世で通用するのは。逃げたいと思ったら逃げれはよかったんだ!」

 

 電話口にたって、保釈にかんする刑事の連絡をきいたとき、私ははげしい昏迷のようなものを感じた。

「保釈って、そんな簡単にできるものかしら。本人はどう言っているんです?」

 石狩が犯した罪というのは、強盗なのであった。一度は二三町離れた医者の家で、妻女をおどして六千円盗り、一度は四五軒はなれた家に入って、千円ほど盗ったというのであった。両方とも主人が留守の家であった。医者の家では、夜中に主人が往診にでかけるのを見すまして、玄関から押入ったのであり、あとの方は、主人が社用で遠方に出張していて、妻女と子供だけの留守宅であった。そのどちらも、彼は浴衣がけで、玄関にちやんと下駄を脱いで入って行った。面を覆うという細工もしなかったから、顔の特徴も見覚えられてしまっていた。すぐ近所に押入るというのに、覆面もしないというのは、なんという無計算だろう。しかもまるで招かれた客人のように、玄関にきちんと下駄をそろえて、捕縛されるのを予定しているようなふるまいであった。

「あなたにただそう連絡してくれという本人の話なんです」

 電話の声はそれだけであった。電話を切って部屋に戻ってきて、莨(たばこ)をいらいらと吸いつけながら、私はかんがえていた。

(――保釈で出てきて、何をやろうというつもりだろう、あの男は)

 保釈で出るとしても、いずれ刑の執行をうけねばならぬから、身の自由な期間もごく短い筈であった。それを石狩が知らぬわけがない。また保釈願いを出したとしても、再犯の危険なしとして、許されるかどうかは判らないことであった。そういう可能性のすくない保釈にまでたよって、束(つか)の間(ま)の自由を得たいというのは何だろう。警察に面会に行ったとき、留置場から刑事部屋へ呼出されてきた石狩の、くらい不気味な感じの眼を、私は思いだしていた。それはごく特徴のある眼のいろであった。

「うちには知らさないで」押しつけるような低い声でそう言った。「絶対にうちには知らさないで呉れ。心配させても仕様が、ないんだから」

 友人か誰かに会いたければ連絡しようか、と私が言ったとき、石狩はそれが聞えなかったのか、眼を宙に外(そ)らして、とつぜん早口で別のことを言った。

「あ。僕はやましくないんだよ。やましい気持はない」

 石狩の両親は、北陸のちいさな町にいて、鍼灸(はりきゅう)を業としていることを、私は聞いていた。父親は盲人であるし、母親もほとんど視力がなくて盲人に近く、だからそこの台所なども、よその家の台所とちがって、器物や棚の配置が、手探りに便利なように出来ているということであった。視力の欠けた者同士が、一緒になれるものかどうか、石狩の話を私はふと疑ったけれども、台所の話では、それは本当なのかも知れなかった。そういえば彼と相知ってから、私がよんだ七八篇の彼の小説はことごとく、ほとんど生理的な暗さに満ちていた。出生のくらさを底に秘めているようであった。そして近頃のものほど、その傾向がつよかった。光からわざと自分をしめ出すような作品が多かった。その頃から石狩は、自分の行手にくらい罠(わな)を感じていたのかも知れなかった。しかし石狩にとっては、小説そのものも暗い罠である筈であった。あの無計画な衝動に身をまかせたことが、彼にあっては、あのような小説を書き綴ることと、どう違うのだろう。違うと誰が言いきれるだろう。

 しかし石狩が、自分はやましくないと早口で言ったとき、私は聞えないふりをして、窓の外を眺めていた。しばらくして、金が要るかと私が聞いたとき、石狩は直ぐ、その時は自分の布団や道具を売払ってくれ、と私にこたえた。それは始めから考えていたような口振りであった。だから私はその日、刑事といっしょに石狩の部屋にゆき、古道具屋を呼んで、売れるものはみな売払った。復讐に似た感じが私にあった。古道具屋に、もすこし値良く買えと言いつのったのも、石狩の為をかんがえた訳(わけ)ではなかった。石狩が多くの金を得ようと得まいと、私の気持に関係はなかった。

 値段の折合いがついて、私たちは外に出た。古道具屋はリヤカーに荷をつんで、先をあるいた。布団はその一番上にのせられてあった。麻葉模様が白い蜘蛛の形にかんじられたのも、その時であった。私はあるきながら、金を刑事に手渡し、石狩にわたして呉れるようにたのんだ。石狩を逮捕したのは、このわかい刑事である。石狩にちがいないと目星をつけて、この刑事は四晩つづけて石狩の部星の窓のしたに、見張りをしていたということであった。あるきながら刑事はその時の話をした。

「二度やったんだから、また必ずやると思ってね。夜の九時頃から暁方まで、植込のなかに四晩張込みましたよ」

「その四日間は、彼は外に出なかった訳ですね」

「出なかったね。しかしあれはどうも変でしたよ。四晩とも、あれは三時ごろまで起きていてね。なにしてるかと思って、ときどきそっと窓から覗(のぞ)いてみたんだが――」

 石狩は机の前にすわって、本も読まず何も書かず、ただ眼をひらいたまま、いつ見てもじっとしていたという。何時間も何時間も、同じ場所にすわったまま、どんなことを石狩はかんがえていたのだろう。あの特徴のあるくらい眼を見ひらいたまま、彼が見ていたのはどんな世界なのだろう。それはもう救いというものがない世界にちがいなかった。今日脳病院で、ほとんど外界に反応をみせない分裂病患者をみたとき、私がすぐ思いうかべたのは、深夜の部屋にすわって、壁をながめている石狩のすがたであった。その石狩のすがたは、実際に私が見たわけでないにもかかわらず、眼底に鮮烈に浮き上っていた。あの時の刑事のかんたんな叙述が、私の胸にやきついていたのだ。

「――どうもあの眼は変だね。木莵(みみずく)の眼みたいな感じがしてね……」

 私はその日、刑事と途中でわかれると、心を決めて、その足で郵便局へ行った。そして石狩の実家あてに、電報を打った。そうすることに、気持の抵抗がない訳ではなかった。しかし家に知らせるなという石狩の言葉も、彼の根源のところではなにも意味がないのではないか。そう自分に言いきかせることで、私は電文を一字一字したためた。郵便局の備えつけのペンは、先が割れていて、粗悪な頼信紙はざらざらとささくれ立った。石狩がいま避けようとしている実家とのつながりを、この電文が一挙にむすびつけてしまうのだと、私は考えた。あるいはこのことが、彼の唯一の救いになるのかも知れない。しかしそう思うことは、私にひどく苦しかった。自分で嘘をかんがえていると思った。そして自分がそのつながりの中にいることが、私の心を重くした。私の気持は、ひどく退屈しているときの感じにそっくりであった。発信人の名前をしるすときに、ためらうものがあって、私は私の名を書かなかった。石狩の件について話があるから、あの警察まで来てくれ、という意味をつづり、名前は書かなかった。盲目の両親は、この電報をうけとって、どうやって読むのだろう。だれか晴眼のひとにたのんで、読んでもらうのだろうか。発信者のないこの電文を、ふた親はどういう心の状態でうけとるのだろう。それを想像したとき、軽い悪感(おかん)が身体をとおりぬけるのを私は感じた。

 

 石狩が保釈をのぞんでいる旨の電話を、あの刑事から受けたとき、まず私の頭にきたのは、親が上京したにちがいないということであった。しかし電話口で私がただしたところによると、その様子はなかった。それが私をすこし不安にした。電報は五六日前に、実家にとどいている筈であった。しかし盲人ゆえ、仕度に手間どるのであろうし、付添いの晴眼者も必要なのだろう。まだ上京していないとすれは、石狩のいまの心を揺り動かしているものは何だろう。あの時布団まで売払ったというのも、身の果てをそこに感じたからではなかったか。

(――両親に知らせてくれるな、と言った石狩の気持を、どう考えたらいいのか?)

 実刑を宣告され、執行されるときになれは、原籍地に通知がゆくことは、すぐ考えられることであった。あるいは石狩は、保釈で出る機会をつかみ、別の身の果てをかんがえているのかも知れないと思ったとき、強い疼(うず)きのようなものが私の心に起った。それはあの日、石狩の布団を売払ったときの気持にも似ていた。あの時の石狩の口吻(こうふん)は、直ぐ金が必要というのでもなさそうであった。いずれ機を見て金にかえてくれという語調であった。それにもかかわらず私は即日、刑事に立合いをたのみ、追っかけられるように一切を古道具屋に渡してしまった。そうすることによって、石狩がおちた罠の食いこみ目を、更に決定的にするかのように。すべて断ち切らせることで、彼の不幸が不幸でなくなるかも知れぬと、気持の表面だけでそのとき私は考えたが、しかもその足で、私は郵便局に行って電報を打ったのであった。それ以後は一度も石狩に面会しに行っていない。なにもかも放ったままであった。そういう自分の行動を、私は論理づけてとっている訳ではなかった。追われるように私はそうしていた。

 坂田という友人が、石狩に面会しての帰りだといって訪れてきたとき、先ず私が聞いたのはそれであった。

「保釈のことをなにか言ってたかね」

「そんなことも言っていた」

「どういうつもりだろうな、あれは。どうも判らない。おれはやましくない、と言やしなかったかい。おれのときは言ったけれど――」

「やましくなければ、保釈をねがわないだろう」

 坂田は考え考え、吟味するような口調で言った。坂田とはそんな言い方する男であつた。坂田は私と石狩の共通の友人で、どこかの小役人をつとめていた。

 この時私は脳病院で、この病室は不愉快だから変えてくれと、執拗(しつよう)に水野国手につきまとっていたあの患者を、ふと考えていたのである。あんなに執拗に言っていても、あの患者は常住それを感じているのではなく、医師の顔をみたとき、そんなことを思いついて繰り返しているにすぎないと、水野国手の説明はそうであった。石狩がその類だと思うのではなかった。ただ留置場が石狩にとって不愉快な場であるとしても、保釈で出てきた社会が、彼にとって不愉快な場でないとは、断言できないことである。むしろそれが不愉快な場であることは、彼が身をもって実験ずみの筈であった。

「保釈もあきらめさせるがいいだろうな。薄情のようだけれど」

「そうだな。それも相談してからだろう。おふくろさんも丁度上京したし――」

 今日坂田が石狩と面会していたとき、母親が刑事部屋にたずねてきたというのであった。そしてそこで始めて、石狩の犯罪を知った訳だった。それだけ言うと、坂田は口をつぐんで私を見た。つめたいものが身体を走りぬけるような気がした。

「今日出京してきたという訳だね」

「おふくろさんは眼が見えないということを、君は知ってるか?」

 知っていると私が答えると、坂田はなにか面白くなさそうな表情でうなずいた。

 坂田が帰ったあとで、私は気持がひどくだるい感じがした。退屈感に似たしらじらしさがあった。坂田が私のところに寄ったのは、石狩の伝言があったためだった。私に話したいことがあるから、一度来てくれという伝言であった。その言葉が、坂田だけとの面会中に話されたのか、母親が加わってから話されたのか、言わないままに坂田はかえって行った。母親が来ない前の言葉なら、母親が来たということで、意味がなくなったかも知れないとも考えたが、また新しく私に話したいことが出来たのかも知れなかった。私は石狩にかかわりを持つ自分を、微かにうとむ気分におちながら、また逆に、駆りたてられるような落着かぬ気持にもなった。

 身仕度をし、私は新宿にでて行った。そしてはっきりしない心持のまま、そこらをあるいた。あるきながら眼についた店で、ふくらんだ麺麭(パン)を三個買い求めた。石狩のところに直ぐ面会に行こうと、釣銭を待ちながら、ぼんやり私は考えていた。しかしこの麺麭も、石狩に食べさせようというはっきりした気持ではなかった。街では広告塔のような方向から、流行歌のにごった旋律がながれていた。あの脳病院の帰りに、横町の喫茶店に寄った日を、私はふと思いだした。

 ――脳病院だってあの喫茶店だって、似たようなものさ。

 人混みを縫って駅の方にあるきながら、そんなことを私は思った。その中にいる人たちが、お互に無関心で生きているという相似を、私はあの日も感じていたのであった。無関心で生きているというのも、ひとりひとりが他からは理解されない世界を、ひとつずつ内包しているせいなのだろう。その世界がだんだん歪んできて、この世の掟や約束を守れなくなると、人は脳病院に入ったり、刑務所に入ったりするのだろう。

 警察まで、電車で一時間かかった。警察は広い鋪装路に面した古い建物であった。玄関の脇から入り、逃亡防止の金網塀に沿ってすすむと、狭い廊下のむこうが刑事部屋であった。時刻が夕方であつたから、面会できるかどうかは判らなかった。あのわかい刑事がいれば、取計ってもらえるかも知れなかった。私は廊下に立ち、すこし背伸びして、部屋のなかをのぞいた。薄暗い部屋のなかには七八人の人間がいるらしかったが、眼の慣れない私には、よごれた硝子窓を通して、それはちらちら動く影であった。その影がしだいに私の限界に形をさだめてきて、私は机にむかって椅子にかけた小さな人影をとらえた。それは小さく黒い姿であつた。ある予感が私の胸をついた。

(石狩の母親か?)

 すこし背を曲げて机にむかっていた。そばに立っているのは、あの若い刑事に似ていた。視線をそこに定めたまま、私は身体をすこしずつずらせて、刑事部屋の扉のところまで来た。扉は半開きになっていた。押すとギイと軋(きし)んで、そこらにいる三四人が私の方を見た。椅子のそばに立っているのは、やはりあの刑事であった。

「あ、ちょっと」

 ちらと私の方を見て、手で制するようなしぐさをした。それも無意識でやったような軽いそぶりであった。椅子にはひとりの老女がかけていた。閾(しきい)に立って私はそれを見た。老女の手の指は机の上の白いものに触れていた。顔は半分伏せるようにして、眼のあたりは暗く影に沈んでいた。机上の白いものは、用箋じみた紙であった。横窓から入る夕方のあわい光がそこに落ちていて、紙面には黒い点のようなものが無数にちらばっていた。老女はその上に指をまさぐらせながら、顔をそこに近づけるようにした。

 ――点字電報だ、と私は直覚した。とたんに身体のどこかがばらばらに散らばるような不快な感覚が、私をはしって抜けた。それは石狩の母親にちがいなかった。そしてそれが、石狩の父親からの電報であることがすぐ胸にきた。すると紙の上にちらばった点々が、急におそろしいものとして、私の眼にせまってきた。老女の細い指が、確めるようにそこを動いた。

(このまま、帰ってしまおうか。石狩に会うのはこの次にして――)

 麺麭のつつみを振ったまま、私はそう考えた。ひとつの帰結をこういう形で見ることが、私に堪え難い感じを起させたのであった。ある無残な感じが、凝結してそこにあった。しかしそれは私の罪でもなければ、誰の罪でもなかった。老女の盲(めし)いた横顔から眼をそむけて、私は身体をうしろにずらした。

 

[やぶちゃん後注:「麻痺性痴呆」「進行性麻痺」「進行麻痺」という疾患名もあるが、一般人は「痴呆」にのみ目が行って心因性精神疾患と誤認する傾向があるので、ダイレクトであるが、「脳梅毒」の方が誤解を受けない病名であると私は思っている。脳実質が梅毒トレポネーマ(細菌ドメインのスピロヘータ門 Spirochetesスピロヘータ綱スピロヘータ目スピロヘータ科トレポネーマ属梅毒トレポネーマ Treponema pallidum)に侵されることによって発症する病気。梅毒に罹患してから数年から数十年ほどを経て後、梅毒の第二期及び第三期に出現する梅毒性脳膜炎(例外的に脳脊髄液に病的変化が認められるだけで他の症状を殆んど示さない無症候性神経梅毒もある)。第二期の場合は発熱・意識混濁・譫妄(せんもう:中・軽度の意識障害に加え、幻覚・妄想・運動不安などが加わった精神状態を指す)などの急性脳炎症状が強く出現し、第三期になると、他に性格変成・認知障害などの精神症状が強く現われ、正常な思考が不可能となり、末期は痴呆状態となる。完治は期待出来ない場合が多い。大正六(一九一七)年に野口英世が患者の脳からトレポネーマを発見し、疾患の原因究明に役立ったのみでなく、精神病に対する理解やその疾病分類学に大きく貢献した。進行麻痺は、嘗つては、精神科入院患者の二十%をも占め、統合失調症(後注参照)に次ぐ位置にあったが、梅毒罹患防止対策の進歩とともに患者数が減少し、日本では現在、殆んど発生することがなくなっている(以上は複数の百科事典を参考にして記載した。以下の二つも同様である)。著名人では哲学者のニーチェ、画家のヴァン・ゴッホ、小説家ギ・ド・モーパッサン等が高い確率でそれに罹患していたと考えられている。

「躁欝病」現行でも一般人や医師(患者や家族に判り易いため)もこの病名を現役のように用いているが、これは最早、病名としては古称であって、現在は「双極性障害」(Bipolar disorderと呼ぶ。有意な躁状態の時期と抑鬱状態の時期との病相を循環する精神疾患である。原因は外因性(或いは身体因性)・内因性・心因性(或いは性格環境因性)と多様であるが、一部の発症事例では遺伝的素因の可能性も指摘されている。

「分裂病」現在は「統合失調症」と呼び、「精神分裂病」の呼称は今は廃されており、使用してはならない。本邦では永く、かく呼ばれてきたが、もっとひどい呼称では「早発性痴呆」もかなり命脈を保った。思考・知覚・感情・言語・自己の感覚及び行動に於ける他者との歪みによって特徴づけられる症状を持つ精神疾患名(というか、原因(推定)や症状・病態遷移・器質的変化などによって明らかに異なる疾患の場合があるように見えることから「統合失調症候群」という方が私は正しいと考えている)。一般的には幻聴・幻覚・異常行動などを伴うが、罹患者によって症状は多種多様である。遺伝と環境の両方が関係しているが、現在では遺伝的要因の影響が大きいと考えられているものの、不明で、現代医学の一つの大きな壁とされる。欧米語の「スキゾフレニア」(英語:Schizophrenia/フランス語:Schizophrénie/ドイツ語:Schizophrenie)も元はギリシャ語由来の「schizo(分離した)+ phrenia(精神)」であるが、新称は、古くからの精神科医の本症状の観察の共通項である「思考の途絶」(思考が自分の意志に反して突如絶たれてしまうように感じられること)と「自生思考(じせいしこう)」(相互に無関係な考えが次々と浮かんでくることで思考が全く纏まらなくなったり、自身の意志ではなく、ある考えが自然に浮かんできて、それが異常な連想で以って繋がって拡大してゆく(関係妄想))という病態に基づいた新語として変更されたものである。ウィキの「統合失調症」によれば、本邦では当該疾患への理解が進まず、『患者の家族に対して』も『社会全体からの支援が必要とされておりながら、誤った偏見による患者家族の孤立』『も多く、その偏見を助長するとして』、『患者・家族団体等から、病名に対する苦情が多』くあり、『また、医学的知見からも「精神が分裂」しているのではなく、脳内での情報統合に失敗しているとの見解が現』わ『れ始め、学術的にも分裂との命名が誤りとみなされて』、二〇〇二年の「日本精神神経学会」総会で、『Schizophrenia に対する訳語を統合失調症にするという変更がなされた』とある。

「脳外科手術の器械」本作冒頭では「脳病院」とあり、後の病院内の様子からも判る通り、ここは精神病院であって、脳外科の専門病院ではない。但し、脳外科医はおり、脳外科の術式も行なうから、手術道具はあるということである。従ってここで言う「脳外科手術」というのは、この当時、精神疾患に有効とされた脳に対する外科的外部的術式を行う器具を指していることが判る。さすれば、時代的に見て、その「器械」とは、極めて高い確率で、かのおぞましい呪われたロボトミー(lobotomy:前頭葉白質切断術)の器具がそこにはあった可能性がある。まぶたの下から、単純な細く長いアイスピック状の器具(Orbitoclast当該の英文ウィキの画像)をハンマーで叩いて前頭葉まで打ち込み、それを左右に回すようにして、前頭葉を視床から切り離すという驚くべき粗野にして乱暴な術式である。かつては、統合失調症・双極性障害その他の精神疾患の内の重篤な患者に対して、抜本的な治療法として盛んに実施された。その歴史を辿ると、一九三五年、ポルトガルの神経内科医アントニオ・エガス・モニス(António Caetano de Abreu Freire Egas Moniz 一八七四年~一九五五年)が精神病患者に反復的な思考パターンを引き起こすと思われる神経回路を遮断するため、前頭葉前皮質に高純度のエチルアルコールを注入する手術を行なった。モニスはやがて脳内白質を切断する専用の器具を開発し、前頭前野と視床を繋いでいる神経線維の束を、物理的に切り離した。手術の結果にはばらつきがあったが、当時は興奮・幻覚・暴力・自傷行為などの症状を抑える治療法が他に殆んどなかったことから、この術式が広く行なわれるようになった。一九三六年、アメリカの脳神経科外科医ウォルター・フリーマン(Walter Jackson Freeman II 一八九五年~一九七二年)と同ジェームズ・ワッツ(James Winston Watts 一九〇四 年~一九九四年)が改良を加え、一九四〇年代にはごく短時間で行なえる術式を開発、多くの患者に実施した。ロボトミーを受けた患者の大部分は、緊張・興奮などの症状が軽減したものの、無気力・受動的で、意欲の欠如や集中力の減衰、さらには全般的な感情反応の有意な低下などの症状が多く現われた。しかし、こうした副作用は一九四〇年代には広く報じられず、長期的影響はほぼ問題視されなかった。それどころか、ロボトミーが幅広い成功を収めたという理由から、モニスは一九四九年にノーベル生理学・医学賞を受賞してさえいる。しかし、一九五〇年代半ば(昭和三十年前後)に入って、精神疾患患者の治療や症状緩和に有効な向精神薬が普及すると、ロボトミーは殆んど行なわれなくなった(ここは主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「前頭部の両側に、うすい傷痕をつけていた」間違えては困るが、これは前に注したロボトミーの手術痕ではない。「電気痙攣療法(Electro Convulsive TherapyECT)を複数回受けたその痕である(ネット上にはこれをロボトミーの手術佷と断定する記載を複数見かけるのであるが、私の認識する限り、この位置から切開したり、器具を挿入する術式を私は知らない。そうだと言う医師がおられれば、是非、御教授頂きたい)。ウィキの「統合失調症」によれば、『薬物療法が確立される以前には』、麻酔なしで行う、過酷な『電気痙攣療法(電気ショック療法)が多く用いられてきた。これは左右の額の部分から』百ボルト『の電圧、パルス電流を脳に』一~三『秒間』、『通電』することで、痙攣を『人工的に引き起こすものである』。『電気』痙攣『療法の有効性は確立されている』『が、一方で』、『有効性の皆無も臨床実験で報告されて』も『いる』。また、嘗つて電気痙攣療法が『「患者の懲罰」に使用されていたこともあり』(私は昭和四五(一九七〇)年の新聞連載記事(私は中学二年)で、その当時でも、この電気ショックによるサディズム的傷害懲罰行為が行われていた事実があったことを読んで、激しい憤りを覚えたのを忘れない。恐らく、その当時の切抜きは今も書庫の底に眠っているはずである)、『実施の際』、『患者が』痙攣『を起こす様子が残虐であると批判されている』。『稀に電気』痙攣『療法が脊椎骨折等の危険性があるため、現在では麻酔を併用した「無痙攣電気』痙攣療法」(修正型(modified)電気痙攣療法:mECT)が『主流である。しかし、副作用や無痙攣電気』痙攣『療法の実施の際には、麻酔科医との協力が必要であることなどからして、実質的に大規模な病院でしか実施できない。現在では、この治療法は主力の座を薬物療法にその座を譲ったものの、急性期の興奮状態の際などに行われることもある』。『NICE』(イギリス国立医療技術評価機構)『は「現在の根拠では、ECTを統合失調症の一般的管理としては推奨することはできない」として』、『ECTは全ての治療選択肢が失敗したか、または差し迫った生命危機の状況のみに使われるべきであるとしている』とある。]

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