スフィンクス ツルゲエネフ(生田春月訳)
スフィンクス
上の方は柔かく、底の方は硬(かた)くきしむ黃色がかつた灰色の砂……見渡す限り際涯(はて)のない砂。
そして此の沙漠の上、此の死せる砂埃(すなぼこり)の海の上には。埃及のスフィクスの巨大な頭が突出てゐる。
これ等の厚い出張つ脣や、動くことなく開いた仰向いた鼻孔、二つの眼、二重の弓門(アーチ)のやうになつた高い眉の下に半ば眠り半ば醒めてゐるやうな眼などは何を言はうとしてゐるのだらう?
それ等は何か言はうとしてゐるのだ。實際それ等は何か語つてゐるのだ。けれどもその無言の言葉を解し、その謎を解き得るものは、ただエヂプスだけである。
ところで、私はかうした容貌(かほつき)を知つてゐる……それには少しも埃及風のところはない。白い低い額、出張(でば)つた頰骨。短かい眞直(まつすぐ)な鼻、綺麗な口に白い齒、柔かな口髭にちぢれた顎髯、ずつと懸け離れた二つの大きからぬ眼……そして頭には眞中(まんなか)から分けた髮を頂いてゐる。……ああ。それは汝である、カルプである、シドルである、セミヨンである、ヤースラアフやリヤザンの百姓、我が同國人、血あり肉ある露西亞人である! 汝もまたスフィンクスの仲間であるか?
汝もまた何をか言はうとするか? 然り、汝もまたスフィンクスである。
そして汝の眼、汝の光澤(つや)のない窪(くぼ)んだ眼もまた語つてゐる……そして汝の言葉もまた無言で謎のやうである。
然し汝のエヂプスは何處にゐるか?
惜むぺし! 汝のエヂプスとなるためには、百姓服を着ただけでは十分では無いのである。おお、全露西亞のスフィンクスよ!
一八七八年十二月
【スフインクス、埃及のスフインクスは誰でも知つてゐるが、露西亞の農夫をそれに比したのである。】
【エヂプスはテエベの王、スフインクスの謎とは、朝は四本の足で行き、晝は二本の足で行き、夜には三本の足で行く者は何と云ふので、女面獅身翼を備へたスフインクスと云ふ怪物がこの謎に答へない者は皆岩から突落してしてしまふので、それを退治たものを王にすると云ふ布告が出ると、エヂプスが見事その謎を解いてそれは人間だと言つた。赤ん坊の時は四つん這ひ、大きくなると立つて步き、年を取ると杖を突くからだ。それでスフインクスは岩から身を投げて死に、エヂプスは王になる。その後の悲劇はソツオクレスの名作があつて、この間藝術座でも上演した。さう云ふ事からして、ツルゲエネフは埃及のスフインクスの面、更に露西亞農民の面それ自らを謎だと云つたのである。】
【カルプ等は皆ありふれた百姓の名前。】
【リヤザン等は地名。】
【百姓服云々は百姓服を着て人民の愛願を獲ようとした熱狂的なスラヴ主義者、國粹主義者を諷したものである。】
[やぶちゃん注:本文が「スフィンクス」で、註では「スフインクス」であるのはママ。
「ソツオクレス」古代ギリシアの悲劇詩人のソポクレス(ラテン文字転写:Sophoklēs 紀元前四九六年頃~紀元前四〇六年頃)のこと。言わずもがなであるが、彼の「名作」とはギリシャ悲劇の最高傑作とされる「オイディプス王」(ラテン文字転写:Oedipus Tyrannus)のこと。紀元前四二七年頃の作とされる。]
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