和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼨(とらふねずみ) (ハツカネズミの変種か品種か?)
とらふねすみ 鼮【音亭】
鼨【音終】
チヨン
本綱鼨鼠【郭璞云】大如掌其文如豹漢武帝會獲得以問終
軍者
△按廣博物志云竇攸治爾雅舉孝廉爲郎世祖與百寮
大會時得鼠身如豹文熒有光澤世祖異之問羣臣莫
知攸對曰名鼮問何以知之攸曰見爾雅詔案視書如
其言又辛怡諫爲職方有異鼠豹首虎臆大如拳怡諫
以爲鼮鼠而賦之韋若虛曰此說文所謂鼨鼠豹文而
形小一座敬服
*
とらふねずみ 鼮〔(てい)〕【音「亭」。】
鼨【音「終」。】
チヨン
「本綱」、鼨鼠は【郭璞〔(かくはく)〕云はく、】、大いさ掌のごとく、其の文、豹のごとし。漢の武帝、會(たまたま)獲〔(と)〕り得て、以つて、終軍に問ひただせし者なり。
△按ずるに、「廣博物志」に云はく、『竇攸〔(とういう)〕、「爾雅」を治め、孝廉〔(かうれん)〕に舉げられ、郎たり。世祖、百寮と大會〔(だいくわい)〕す。時に、鼠を得。身は、豹のごとく、文〔(もん)〕、熒〔(ひか)〕り、光澤有り。世祖、之れを異〔(あや)し〕みて羣臣に問ふ。知るもの、莫し。攸、對〔(こた)へ〕て曰はく、「鼮〔(てい)〕と名づく。」〔と〕。問ふ、「何を以つて之れを知るや。」〔と〕。攸、曰はく、「『爾雅』に見〔ゆ〕る」と。詔〔(みことの)〕りして、書を案(うかゞ)ひ視(み)せしむ〔に〕其の言のごとし。又、辛怡諫〔(しんいかん)〕、職方〔(しよくはう)〕[やぶちゃん注:官名。地図を司り、四方からの貢献物を取り扱った職。]を爲〔(な)〕せるとき、異鼠有り、豹の首、虎の臆〔(むね)〕、大いさ、拳(こぶし)のごとし。怡諫、以つて「鼮鼠〔(ていそ)〕なり」と爲〔(な)〕し、之れを賦〔(ふ)せり〕。韋若虛が曰はく、「此れ、『說文』に所謂〔(いはゆ)〕る、『鼨鼠〔(しふそ)〕』なり。豹の文にして、形、小さし」と。一座、敬服す』〔と〕。
[やぶちゃん注:これは思うに一つの候補としては、ただでさえ白・灰・褐色や黒色と体色が変異に富む、ネズミ科ハツカネズミ属ハツカネズミ Mus musculus の白黒斑(まだら)の変異体或いはそのように改良した品種ではないかと思われる。ウィキの「ハツカネズミ」の「実験用マウス」の項の最後に、『日本でも、江戸時代から白黒まだらのハツカネズミが飼われていた。ニシキネズミとも呼ばれる。この変種は日本国内では姿を消してしまったが、ヨーロッパでは「ジャパニーズ」と呼ばれる小型のまだらマウスがペットとして飼われており、DNA調査の結果、これが日本から渡ったハツカネズミの子孫であることがわかった。現在は日本でも再び飼われるようになっている』とあるからである。これは正確には「ジャパニーズファンシーマウス」と呼ばれ、俗に「パンダマウス」とも称されているものらしい。ぶち斑ではないが、候補の一人として挙げてやる資格はあると思う。しかし乍ら、後の独立項で「䶄(またらねすみ)」という悩ましいものが出、それの方が、実は遙かに上記の品種に合致するので、そこで再度、考察し、或いは、この注もその後に改稿することとなるやも知れぬ。悪しからず。さらに、中文サイトで「豹文鼠」として「百度百科」に写真が挙げられているものがあるにはあるのだが、この後ろ足で立った、薄鼠に白い斑のこの子(腹部は真っ白)、いくら調べても、学名が出てこない。顔を見てみると、鼠というよりは、栗鼠っぽい。有袋類の仲間のようにも見えてくるが、こんなのはいない(と思う)。ともかくも、この子は確かに、遙かにこの挿絵にそっくりではある。この子の学名がお判りの方は、是非とも、御教授を乞うものである。【2019年5月9日取消線挿入・追記】柳田國男を中心に私の電子化で私が判らなかった事柄について多くの貴重な御教授を下さるT氏が、この最後の部分の私の不審を完全解明して下さった! 「百度百科」の画像のその子は、オーストラリアにしか生息しない有袋類のフクロネコ(袋猫。ウィキの「フクロネコ」をリンクさせておく)なのであった! T氏は中でも獣亜綱後獣下綱有袋上目フクロネコ形目フクロネコ科 Dasyurinae 亜科 Dasyurini 族フクロネコ属 Dasyurus の内の、英文ウィキ他から以下の四種を候補として掲げられ、Dasyurus geoffroii(英名:Western quoll/和名:オグロフクロネコ)
Dasyurus hallucatus(英名:Northern quoll/和名:ヒメフクロネコ)
Dasyurus maculatus(英名:Tiger quoll/和名:オオフクロネコ)
Dasyurus viverrinus(英名:Eastern quollsi/和名:フクロネコ)
特に、三番目の「オオフクロネコ」=「Tiger quoll」(訳すなら「虎袋猫」。以下同じ)、別名「the spotted-tail quoll」(斑入りの尾を持った袋猫)「the spotted quoll」(斑入り袋猫)「the spotted-tail dasyure」「the tiger cat」がそれらしいとされ(「quoll」も「dasyure」も「フクロネコ」の意)、さらに《決定打》として、中文サイトの「澳洲动物图片集3」の画像内に「百度百科」と全く同じ写真が見出せることをご指摘戴いたのである(やってくれちゃいましたね「百度百科」!)。上記リンク先の画像を見ても、この写真の生物はネズミではなく、間違いなく、有袋類のフクロネコ科のフクロネコであることはもう間違いない。T氏に心から感謝申し上げる。
「郭璞云はく」東洋文庫訳には割注で郭璞の「爾雅注疏(じがちゅうそ)」からの引用とする。「爾雅」は字書で全三巻・十九編。撰者未詳。周代から漢代の諸経書の伝注を採録したものとされる。「爾雅注疏」は同書の書名注に、『十一巻、晉の郭璞』『注、北宋の刑昺(けいへい)疏。『爾雅』の注釈書。大変すぐれたもので、後世の人々から注疏の手本とされている』とある。
「漢の武帝」(紀元前一五六年~紀元前八七年)は漢の第七代皇帝。本名は劉徹。
「終軍」(?~紀元前一一二年)は人名。字は子雲。ウィキの「終軍」によれば、『若くして漢の使者となった』とする。『若い頃から学を好み、弁舌や文章に優れていたことで郡中でも有名だった』。十八『歳にして博士弟子に選ばれ、長安へ行くこととなった。徒歩で関所を通過する際、関所の役人が戻ってくる時のための割符を渡したが、終軍はそれを捨ててしまった』。『長安に到着すると』、『上書して建策をし、武帝は彼を認めて謁者給事中に任命した』。『武帝が雍に行き』、『五畤』(ごじ:天地の神五帝を祀る神聖な場所を指す)『を祀った際、白麟を捕らえた。また、横に伸びた枝がもう一度木にくっついているという奇妙な木が見つかった。武帝が群臣にそれが何の兆候であるか尋ねたところ、終軍は今に異民族が漢に降伏してくるという兆候だと答えた。武帝はこの兆候を元に』、『改元して元号を元狩と名づけた。数ヵ月後、越と匈奴の王が降伏してきたため、人々は終軍の言うとおりだと言った』。『博士徐偃という人物が、各地の風俗を巡察する使者となった際に皇帝の命令と偽って』、『膠東と魯国で塩と鉄を作らせたと言う事件があった。御史大夫張湯が彼を死罪にしようとしたが、徐偃は反論し、張湯は論破できなかった。そこで武帝は終軍に徐偃を詰問させ、徐偃を論破した』。『終軍は各地を視察する使者になり、皇帝の節を奉じてかつて通過した関所を通った。関所の役人は彼の顔を見て「この使者は以前に割符を捨てた学生ではないか」と驚いた』という。『終軍は匈奴に使者を出すという話を聞くと、自ら使者となることを願い出た。武帝は彼を諫大夫とした』。『その後、南越が漢と和親を結ぶと、武帝は終軍を南越に遣わし、王に長安への入朝を勧めさせようとした。終軍は「長い紐をいただければ南越王をつないで連れてきましょう」と言った』。『終軍は南越王を説得し、王は国を挙げて漢に従うこととしたが、南越の宰相である呂嘉は降伏を欲せず、挙兵して王や漢の使者を殺し、終軍も死んだ』。『終軍は死亡した時に二十数歳であり、世間では彼を「終童」と呼んでいた』とある。……puer eternus……プエル・エテルヌス……
「廣博物志」明の董斯張(とうしちょう)撰になる古今の書物から不思議な話を蒐集したもの。全五十巻。
「竇攸〔(とういう)〕」後漢の文人政治家らしい。
「孝廉〔(かうれん)〕」先の前漢の武帝期に定められた官吏登用科目。毎年、郡国から「孝」であるもの(「挙孝」)、「廉」(正直で私欲のないこと)であるもの(「察廉」)を推薦させるもので、宣帝の時、「挙孝廉」・「察廉」と改称された。後漢の和帝の時、郡国の人口十万人以下は三年に一人、二十万人以下は二年に一人、二十万人は年一人、以上、累増して百二十万人では年に六人と孝廉の人数が制限され、さらに順帝時代には孝廉は四十歳以上とし(のちに廃止)、また、課試の制も設けられた(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「世祖」後漢王朝の初代皇帝光武帝(紀元前六年~紀元後五七年)。
「百寮」朝廷に仕える官僚の総称。
「大會〔(だいくわい)〕」総見。
「時に、鼠を得」総見は戸外で行われたものとは思われるが、禁裏内の人工的な広場である。ということは、この鼠は野鼠ではなく、家鼠である可能性が濃厚である。
「辛怡諫〔(しんいかん)〕」唐代の文人官僚。中島敦の「山月記」(中唐の李景亮「人虎傳」原作)の主人公李徴と同じ出身地(そこでは正確には生地ではなく長く住んだ地)隴西の出で、殿中侍御史内供奉に昇った。
「賦(ふ)」中国の韻文の一体。形式としては対句を用いて句末に適宜押韻するものであるが、一句の字数や一篇全体の句数の規定はない。「楚辞」の流れを引くもので、比喩などを用いず、感じたことをありのままに詠むことを眼目とする。
「韋若虛」東洋文庫訳によれば、これは「韋」ではなく盧若虛(ろじゃくきょ)の誤りとする。同割注によれば、『唐の人、官は集賢院学士』とある。盛唐の文人官僚と思われる。
「說文」「説文解字」。後漢の許慎の著になる西暦一〇〇年頃に成立した現存する中国最古の字書。全十五巻。漢字を扁 (へん) と旁 (つくり) によって分類し、その成立と字義を解説したもの。書名は「文字」を「説解」したという意で、略して「説文」と呼ばれる。部首は「一」に始り、「亥」に終る五百四十に亙り、各部に属する文字が類義字の系列に配列されてある。各字は、まず秦代の小篆を掲げ、その古字がある場合は下に付記して(重文と称する)字体の変遷を示す。小篆九千三百五十三字・重文千百五十三字が収められてある。漢字の造字法を「象形」・「指事」・「会意」・「形声」・「転注」・「仮借」の現在も分類として現役の「六書 (りくしょ)」 に分類し、各字について、その造字法と字義とを解説している。漢字の本質を説明した最古にして最も権威ある書で、甲骨文字が発見され、音韻論・語源研究の発達した今日にあっても、その解説は概ね正しいとされ、逆に本書があって初めてこれらの研究が進んだ。漢字の配列・分析に使われる「部首」や、以上の「六書」の発明と相俟って、中国の実証的学問研究の端緒を成すものとされる。テキストは宋初の校訂本が規準とされ、清代にはそれを校合した「説文」研究が盛んとなり、多くの注釈が生れた。中でも段玉裁の「段注説文解字」(全三十巻・一八〇七年成立) が、強引な論証をも含むものの、最も精密なものとされている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]
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