最後の面會 ツルゲエネフ(生田春月訳)
最 後 の 面 會
曾て我々はたゞならぬ親しい友達であつた。……けれども不幸な日が來た……我々は敵となつて相分れた。
多くの年は過ぎ去つた……そして彼の住んでゐる市(まち)へ來たとき、私は彼が瀕死(ひんし)の床に橫はつて、私に會ひ度がつてゐることを聞いた。
私は彼を訪れて、彼の部屋(へや)へ入つた……二人の視線は出會つた。
これが彼だとは思へなかつた。あゝ! 病氣は彼をこんなに迄したのか?
黃色くなつて、皺が寄つて、すつかり禿げて、まばらな白い髯を生やして、特別な仕立方をした襯衣(しやつ)を着けたばかりで彼はすわつてゐた……彼は輕い着物の重みにすら堪へられないのだ。彼は忙しくその恐ろしく瘠(や)せ細(ほそ)つた嚙みへらされたやうな手を私に差しのべて、辛うじて二言三言わけの分らぬことを呟いた――それが歡迎の言葉か非難のそれかを誰か知らう? 彼の瘠せ衰へた胸は波打つて、その血走つた眼のどんよりした瞳には押し出された苦痛の淚が浮んでゐた。
私の心は搔(か)き亂(みだ)された……私はその傍の椅子にかけて、その物凄(ものすご)い姿に思はず眼を落しながらも、同じく手を差出した。
けれども私の手を握つたのは彼の手ではないやうに思はれた。
二人の間に脊(せい)の高い無言の白衣(びやくえ)の女がすわつてゐるやうに思はれた。長い着物は彼女を頭から爪先まで包んでゐた。彼女の深い蒼(あを)い眼は空(くう)を見、その蒼い嚴(いか)めしい脣からは一語も洩れなかつた。
彼女が我々の手を結ぴ合せたのだ……彼女が我々を永遠に和解させたのだ。
然り……死が我々を和解させたのであつた.
一八七八年四月
【友人と云ふのは前に言つた[やぶちゃん注:「我が競爭者」の生田の註を見よ。]ネクラソフである。二人は靑年時代に共に活動したが、のち長らく反對の地位に立つてゐたのだ。――露西亞っでは死は女性と見られてゐる。】
[やぶちゃん注:中山省三郎氏訳にある「註」がより詳しくてよい。以下に引く。
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・最後の會見:ここで「嘗ての友達」といつてゐるのは、有名な民衆詩人ネクラーソフ(一八二一-七七)のことであつて、彼はツルゲーネフの長年の發表機關であつた雜誌「現代人」の主幹で、一八五〇年代に同誌の編輯に參加したチェルヌィシェフキイに對するツルゲーネフの反感、同じくドブロリューボフとの反目、一八六〇年同誌に掲げられた「その前夜」についてのドブロリューボフの批評に對する忿懣、さては一八六二年、長篇「父と子」を「現代人」ならぬ「ロシヤ報知」に發表したこと、この小説によってまき起された事件等によつて、二人は絕交したのであつた。然るに、この頃から、十年、十五年の月日が經つて、一八七七年の五月下旬、パリからペテルブルグに歸つたツルゲーネフは雙方の友人の斡旋によつて、病篤きネクラーソフを見舞つたのであつた。そのときの情景をネクラーソフ未亡人は次のやうに記してゐる。
「死ぬまへ幾許もない時に、二人はめぐり會ふ運命にあつたのです。ツルゲーネフは二人の共通の知人から、良人が不治の病床にあると聞いて、良人に會つて、和解をしようと希望されました。しかし、良人はあまりにも衰弱してゐましたから、うまくお膳立てをしてからでないと、お通し申すことが出來ません。ツルゲーネフは宅へいらして、もうまへの控室にお待ちでした。で、私が良人にむかつて『ツルゲーネフさんがあなたにお會ひしたいさうですよ』と申しましたら、良人は悲痛な笑ひ方をして『やつて來て、おれがどんな風になつたか見て貰はう』と答へました。そこで私が寢卷を着せて、もう自分では步けませんでしたから――肩を貸して、寢室から食堂に連れ出しました。良人はテーブルについて、ビフテキの汁をすすりました、――その頃はもう固形物はとれなかつたのです。良人はやせて、血の氣もなく、衰へて、――見るも怖ろしいほどでした。私は窓の外を覗いて丁度そこへツルゲーネフが見えたかのやうな振りをして申しました、『さあ、ツルゲーネフさんがいらつしやいましたよ』と。それから暫くすると、背が高くて、風采の立派なツルゲーネフはシルクハットを手にして、控室に隣つてゐる食堂の戶口にあらはれました。が、良人の顏を覗いたかと思ふと、さすがに驚いた樣子をして、固くなつてしまひました。一方、良人はと見ると、その顏は苦しさうな痙攣が通り過ぎて、いひ知れぬ心の激動と鬪ふ力もなくなつたやうに見えました……。彼はやせ細つた手をあげて、ツルゲーネフの方に別れの身振りをしましたが、良人はツルゲーネフに對して、どうしても話をする元氣がないと言ひたさうな樣子でした……。ツルゲーネフの顏もやはり興奮に歪んで居りましたが、彼は良人の方へ祝福の十字を切つて、そのまま戶口の方へ消えて行きました。この會見のあひだ、ひと言も二人の口にのぼりませんでしたが、二人ともその胸中はどんなであつたでせう。」
この場合ネクラーソフが手をあげたのは、生理的にもはや話など出來ぬといふことを示すのか、或は不可能といふのではなく、「話したくない」の意味か……と或るジャーナリストがネクラーソフ未亡人に向つて愚かしい質問を投げたとき、暫く默想の後、やはり衰弱の極に達してゐたので、ああいふ仕草によつて別れの言葉を述べたのです、と未亡人が嚴然と答へたのは三十數年後の一九一四年であつた(エヴゲーニェフ・マクシモフの「ネクラーソフと同時代人」による)。
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補足しておくと、文中、底本では「その頃はもう固形物はとれなかたのです」「彼はやせ細つて手をあげて」「エヴゲーニュフ」とあるが、先行する昭和二一(一九四六)年八雲書店版との対比によって誤植と判断されるので、それぞれ「その頃はもう固形物はとれなかつたのです」「彼はやせ細つた手をあげて」「エヴゲーニェフ」と訂正した。]