太平百物語卷三 廿八 肥前の國にて龜天上せし事
○廿八 肥前の國にて龜天上せし事
肥前の大村は、多く、鯢鯨(くじら)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を取(とつ)て業(わざ)とする所なり。いつも、十月のころは、鯨、おほく集(あつま)るゆへ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]、りやうし、專ら、出て[やぶちゃん注:「いでて」。]、これを取(とる)。
一年(ひとゝせ)、例のごとく、網を下(おろ)し、小舩(せうせん)、數多(あまた)漕列(こぎつら)ねて、互に其業をはげみけるが、一日(あるひ)、むかふの方に、しき浪、逆だちて、いついつよりも、殊に冷(すさま)じかりければ、
「すはや、大くじらならん。」
とて、
「我、おとらじ。」
と舟(ふね)を飛し[やぶちゃん注:「とばし」。]、東西に散亂(さんらん)し、南北に走りて、一、二の銛(もり)をぞ爭ひけるに、程なく、海上(かいしやう)、治(おさま)りて、いと靜(しづか)なりければ、
「こは、ふしぎ。」
と思ふ所に、俄に、海陸(かいりく)、震動して、雷(いかづち)の音、天地も崩るゝ斗[やぶちゃん注:「ばかり」。]なりしが、其たけ、三丈斗[やぶちゃん注:九メートル超。]なる、さも冷(すさま)じき異形(ゐぎやう[やぶちゃん注:ママ。])のもの、顯れ出(いで)たり。
人々、これを見るよりも、
「あら、おそろし。」
といふ程こそあれ、我も我もと、舟をはやめて、迯吟(にげさまよ)ひしが、此(この)異形の者、次第に陸(くが)に上(あが)り、むかふの山にかけ上(のぼ)る、と、見へし、天より、黑雲(くろくも)、おほひ、稻光(いなびかり)、すさまじくして、雲に分入[やぶちゃん注:「わけいり」。]のぼりしが、雨の降(ふる)事、車軸(しやぢく)をなし、雷(いかづち)の音、百千なれば、皆々、經(きやう)・念佛(ねんぶつ)して泣(なき)かなしむ所に、程なく、空、晴(はれ)、雲、おさまれば、いかづちも止(やみ)て、海、又、靜(しづか)なりしかば、人々、甦(よみがへ)りたる心地して、其日のりやうは、やみにける。
後に、能(よく)々聞(きけ)ば、劫(ごう)つもりたる龜(かめ)、形を變じて天上(てんじやう)するにてありしとかや。
[やぶちゃん注:以下は、全体が明らかに少し小さな字で書かれてあって、しかも全体が本文文字で二~三字分(ぶん)下に記されてある(ブログ・ブラウザの不具合を考えて引き上げてある)。無論、本文同様、実際には改行はなく、ベタで書かれてある。]
或(ある)人のいはく、
「龜、劫をつみて、天にのぼらんとする時、さまざまの蟲魚(ちうぎよ)、此龜に取つき、共に上(のぼ)らん事をねがふゆへに、此[やぶちゃん注:「この」。]妨(さまた)げ、龜が身にせまりて、龜、天上する事を、あやまつ。此ゆへに、けしき冷(すさま)じくして、他のうろくづをおそれしめ、天上すれば、此災難を、のがるゝ。」
とぞ、語られ侍りき。
かゝる事もあるにや。猶、ぜひの眞僞をしらず。
[やぶちゃん注:最後の追記か評言のような部分は、本書の中では特異点であって、この話をかなり以前に聞き書きし、それから有意な後、この話をある人にしたところ、こうした、より詳しい亀昇天の仕儀に関わる話を聴いた、という〈体裁〉に見えはする。しかし、総ては基本的に作者の創作であるとする見解に立つならば(中国や日本の先行書籍に種本はある)、これは荒唐無稽な怪奇現象に対して、見かけ上、論理的に納得し得るような異譚説を添えて、閉じられたこの怪談世界の中では信じられそうなニュアンスを与え、またそうした変化球で読者を飽きさせないようにする一種の作者の構成上の仕掛けともとれなくもない。だとすれば、この正体不明の菅生堂人恵忠居士、あなどれない、なかなかの作家だと思う。少なくとも私はこの追記を甚だ面白く読んだから、私に対しては作者の装置は充分に機能したと言える。
「肥前の大村」肥前国彼杵(そのぎ)地方を領した大村藩の藩庁があった現在の長崎県大村市の海辺が舞台(グーグル・マップ・データ)。しかし、この大村地区が面している大村湾、これ、地図を見ても判る通り、非常に広い湾(南北約二十六キロ、東西約十一キロ、面積約三百二十一平方キロメートル)ながら、西側を西彼杵半島、南側を琴の尾岳山麓、東側を多良岳山麓に囲まれ、さらに湾口を針尾島が塞いでおり、北西の外洋と繋がる佐世保湾(佐世保湾の外海との湾口も最大でも一キロメートルほどで広くはない)との繋がりは、針尾島西岸の針尾瀬戸(伊ノ浦瀬戸)と東岸の早岐瀬戸だけで、極めて閉鎖的な海域であり、鯨が来るとしても、そんな大きなものは入ってこないように思われた。そこで、調べて見たところが、個人ブログ「amebatoysの佐世保ブログ」の「東彼杵でなぜ鯨?」で、「東彼杵は、大村湾にしか面していないのに、なぜ鯨料理が有名なのですか? 大村湾にも鯨はいたのですか?」というコメントに対する答えが書かれてあり、そこに、大村湾内でも鯨がかつては獲れたとあり、何よりも江戸初期、この大村地区の北西の彼杵地区に捕鯨基地があったとあったのである。鯨料理が名物なのは、『江戸時代初期に彼杵に九州で最初の捕鯨基地を作られたことに、由来するそうです』。『当時』、『くじらの宝庫であった五島灘や対馬海峡で捕えたくじらを』、『彼杵港から九州各地へ運んだことから、くじらの流通拠点として』、『にぎわうようになりました』。『捕鯨産業によって発展した東彼杵では、今も』、『くじらは郷土料理として』、『人々に愛され続けているとのことです』とある。さすれば、本書の作者は、大村に行ったことはなく(私もないが)、しかし、鯨の肉が大村湾の海辺の地区からもたらされる事実のみを知っていて、そこに見たことはない巨大な海の生き物、鯨がやってくるのだ、それが獲れるのだ、と早合点したとすれば、非常に腑に落ちるのである。
「鯢鯨(くじら)」通常は「鯨鯢」で「ゲイゲイ」と読み、「鯨」が♂の、「鯢」が♀のクジラを指す熟語である。
「しき浪」「頻波」「重波」「敷波」などと書き。次から次へと、頻(しき)りに寄せて来る波のこと。
「一、二の銛(もり)」一番銛を争うこと。一番銛で死なない場合、二番銛が打たれ、それが致命傷となれば、二番銛にも他に優先する所有権が生じよう。
「迯吟(にげさまよ)ひし」前にも出たが、当て訓としては不審。「吟」にはこのシーンに相応しい意味では「泣き叫ぶ」があるが、「彷徨(さまよ)う」の意はない。どうも筆者の固着した誤った思い入れに基づく用字のように思われる。
「蟲魚(ちうぎよ)」国立国会図書館蔵本底本の「叢書江戸文庫」版では「蠱魚」としてママ注記もないが、「蠱」には「むし」の意は第一義にあるものの、そこでは「穀物につく虫」或いは「食器につく虫」という限定がつくので「蠱」ではおかしい。この場合の「蟲」は中国の本草学で言うところの、広い意味のそれで、昆虫を含む無脊椎動物全般から、後に「魚」がつくからそれを除き、脊椎動物の爬虫類(架空の「龍」等の類を含む)や両生類まで包含したものである。国立国会図書館の活字本「徳川文芸類聚」でも「蟲魚」である。]