太平百物語卷四 卅八 藥種(やくしゆ)や長兵衞(ちやうびやうゑ)金子(きんす)をひろひし事
○卅八 藥種や長兵衞金子をひろひし事
泉州界(さかい)[やぶちゃん注:ママ。固有名詞地名の大坂の堺のこと。]に藥種屋長兵衞といふ人、有(あり)。
生得(しやうとく)、律義(りちぎ)なる人にて、常に此所の天神を崇敬(そうぎやう)し、每朝(まいてう)、怠る事なく社參しけるが、或日の事なりし、每(いつも)のごとく、未明に起き出でて參詣し、神前にぬかづき、歸らんとせしが、道の傍(かたはら)に、淺黃縞(あさぎしま)のさい布壱つ、落(おち)てあり。取り上げ見れば、金子(きんす)なり[やぶちゃん注:ずしりと持ち持ち重りのするのは明らかに多額の金子が入っていると見たのである。]。
『こは、誰(たれ)人の落しつらん。』
とおもひながら、先(まづ)取歸(とりかへ)り、改め見れば、五十兩包(つゝみ)にして、二つあり。
長兵衞、思ひけるは、
『我、はからずも大分(だいぶん)の小判を拾ひたり。これ、我(わが)幸(さいわい[やぶちゃん注:ママ。])に似たれども、落せし人の難義(なんぎ)[やぶちゃん注:ママ。]をおもへば、我(わが)悅びの十倍ならん。所詮、御(おん)奉行所へ訴へ、町中(まちぢう[やぶちゃん注:ママ。])に御觸(おふれ)を願ひ、辻小路(つぢかうじ[やぶちゃん注:ママ。])に札(ふだ)を出(いだ)さば、金主(かねぬし)出來(いできた)らん事は有(ある)まじ。』
と、おもひ定め居(ゐ)る所に、常々こゝろやすく出入する五介といふ者、來(きた)りければ、長兵衞、此事を五介に語るに、五介がいふやう、
「それは心得ぬ事かな。左程の金子を、落すべき物、ならず。まづ、其金子を見せ玉へ。」
といふに、頓(やが)で[やぶちゃん注:ママ。]取出(とりいだ)し見せければ、五介、能(よく)々見定め、大きに笑つていはく、
「これ、誠の小判なるまじ。御身、常々律義(りちぎ)なる人ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]狐のたぶらかしける物なり。見給へ、明日(あす)も、又、不思議あらん。若(もし)、さもなくば、誠の金子ならめ。先(まづ)、一兩日(りやうにち)御待(まち)あつて、奉行所へ訴へ玉へ。」
といふに、長兵衞も、
『いか樣。』
とおもひて、其日の訴へ、延引せり。
翌(あく)れば、長兵衞、例のごとく、疾(とく)起出(おきいで)て、
『天滿宮(てんまんぐう)へ參らん。』
と思ひ、表の戶口を開けば、檜臺(ひのきだい)の上に、何やらん、杉原(すぎはら)にて包みたる物あり[やぶちゃん注:「檜臺」ヒノキ材を平たい台状に削り出した台板であろう。檜材は当時は高級品であった。「杉原」杉原紙のこと。播磨 国杉原谷(現在の兵庫県多可郡多可町)原産の和紙。コウゾを原料とした高級品で、奉書紙よりも薄く柔らかい。鎌倉時代以降、慶弔・目録・版画などに用いられ、贈答品としても重宝された。但し、近世には各地で生産された。]。
長兵衞、あやしくおもひながら、取入置(とりいれおき)て、天神宮(てんじんぐう)へ參詣し、急ぎ、歸り、五介を呼寄(よびよせ)、此体(てい)を語りて、さし出(いだ)し、みせければ、五介、是をみて、
「さればこそ。」
と、まづ、杉原の包を明(あけ)て見るに、内には芥(あくた)に馬(むま)の糞(ふん)をつゝみ、砂にまじへて包み置きたり。
五介、長兵衞にいひけるは、
「御覽候へ。昨日(きのふ)、わがいひしに違(たが)はず。是、狐の所爲(しわざ)に極(きはま)りたり。昨日の金子も、はやく出(いだ)し玉へ。久しくおかば、いかなる災ひかあらん。某(それがし)、何方(いづかた)へも捨(すて)まいらせ申さん[やぶちゃん注:「まいらせ」はママ。]。」
と、いふ。
長兵衞、よろこび、頓(やが)て財布を取出、五介に渡し、
「能(よき)にはからひたび玉へ。」
と賴めば、
「御心安(こゝろやす)かれ。」
とて、金子百兩と檜臺とを受け取りて、出でける。
長兵衞は心をやすんじ、
「災(わざはひ)あらじ。」
と悅びけるが、後(のち)に能(よく)々きけば、金子は誠の金子にて、檜臺と杉原包は、五介が金子を橫取(よこどり)せん爲(ため)の工(たくみ)なりとぞ聞へける。
然(しかれ)ども、道に背(そむき)たる事なれば、此五介、俄に癩病(らいびやう)を煩らひ出(いだ)して、彼(かの)金子も、いつしか療治の爲に消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])はて、次㐧に、形(かた)り、くづれ、剩(あまつさ)へ、狂氣となり、每日、町小路(まちかうぢ)を裸になりて、くるひ步(あり)きしが、終に、苦しみ、死(しゝ)ける。
これを聞く人、
「誠に眼前の天罸(てんばつ)なり。」
とて、皆々、眉をひそめて、恐れあひけるとぞ。
太平百物語卷之四終
[やぶちゃん注:今回は本文ブラウザでの標題の不具合を考えて、タイトルの方にルビを配した。悪事の因果応報譚(それも差別されたハンセン病罹患という差別的な不快なそれ)を最後に附け足してあるが、これは偶発に基づく擬似怪談であって、差別助長の点も大きく働き、私は本書の中では特異的に全く評価しない。
「五十兩包(つゝみ)にして、二つあり」本書は享保一七(一七三三)年板行で江戸中期初めであるから、現在の一両は時代換算サイトでは九万円から十万円相当と考えられてあるので、九百万円から一千万円相当となる。
「癩病」現在は「ハンセン病」と呼称せねばならない。抗酸菌(細菌ドメイン放線菌門放線菌綱コリネバクテリウム目 Corynebacteriales マイコバクテリウム科 Mycobacteriaceae マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種である「らい菌」(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法「い予防法」が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く示す「癩病」という呼称の使用は完全に解消されるべきと私は考えるが、何故か菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。ハンセン菌でよい(但し、私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように、単なる「言葉狩り」をしても、各人の意識の変革なしには差別は永久になくならない)。ともかくも、コーダの部分はハンセン病への正しい理解を以って批判的に読まれることを強く望むものである。]
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