太平百物語卷四 卅四 作十郞狼にあひし事
○卅四 作十郞狼にあひし事
大坂北久寶寺町(きたきうほうじまち)に、白粉(おしろい[やぶちゃん注:ママ。])屋作十郞といふ者あり。
常に佛法をふかく信じけるが、一子、成人しければ、家の業(わざ)を讓りて、日本囘國にぞ出(いで)ける。
既に西國の方(かた)は廻(めぐ)り仕舞(しまひ)、關東の方に赴きけるが、上總の國、「かぎりの山」といふ所にて、日(ひ)暮(くれ)ぬ。
然(しかれ)ども、此麓には家居(いへゐ)もはかばかしく見へず。
『いざや、此山を過て[やぶちゃん注:「すぎて」。]、あなたに宿らん。』
とおもひつゝ、たどり行きしが、むかし、重保(しげやす)とかやいひし人の、
我爲(わがため)にうき事見へばよの中に
いまはかぎりの山に入なん
[やぶちゃん注:「見へば」はママ。以下同じ。「入なん」は「いりなん」。]
とよみけるよしを、つくづく思ひ出(いづ)るに付(つけ)て、いとゞ我身の上も心ぼそく覚へけるが[やぶちゃん注:ママ。]、元より、命のかぎりを修行する身なれば、足に任せて行く程に、しらぬ山路(やまぢ)をよぢ登り、山ぶところ[やぶちゃん注:「山懷」。]に入(いり)ぬれば、俄に身の毛だちて、物すごく、足の立所(たてど)も、しどろになりぬ。
作十郞、心におもひけるは、
『我、浮世の除(ひま)をあけ、佛法修行(ぶつはうしゆうぎやう[やぶちゃん注:ママ。])に、身命(しんみやう)を擲(なげうつ)とおもひしに、未(いまだ)煩惱のきづな、切(きれ)ざるにや。』
と淺ましくて、心中(しんぢう)に慚愧(ざんぎ)し[やぶちゃん注:現在は「ざんき」と清音で読むのが一般的。現在は専ら、ただ、「恥じること」の意味で使われるが、本来は仏教語で、しかも「慚」と「愧(ぎ)」とは別の語である。「慚」は「自らの心に罪を恥じること」を、「愧」は「他人に対して罪を告白して恥じること」を指す。或いは「慚」は「自ら罪を犯さないこと」を、「愧」は「他に罪を犯させないこと」とも言う。]、日比(ごろ)、尊(とうと)み奉りし「千手千眼(せんじゆせんげん)の陀羅尼(だらに)」を高らかに唱へて、猶、山ふかく步み行(ゆく)に、道の眞中(まんなか)に大石(たいせき)のごとくなる物ありて、動くやうに見へければ、近く寄(より)てみるに、さも冷(すさま)じき狼にて、眼(まなこ)をいからし、大き成(なる)口をひらき、控(ひかへ)ゐたり。
『こは、いかに。』
と跡(あと)を顧りみれば、いつの間にか來りけん、同じく、劣らぬほどの狼、金(こがね)のごとき眼(まなこ)を光らし、只一口(ひとくち)に喰はん勢ひなり。
作十郞、前後にはさまれ、今は遁(のが)るべき道なければ、
『我(わが)命、すでに限りの山(やま)に究(きはま)れり。』
と觀念し、肩に掛(かけ)たる笈(おひ)をおろし、心靜(こゝろしづか)に、念佛、四、五遍、唱へ終はり、狼にむかひ、いふやう、
「汝、畜生なりといへ共、わがいふ事を能(よく)聞(きく)べし。われ、此度(このたび)、日本囘國に志し、大方に廻(まは)りしまひ、今、既に關東に赴く所に、圖らずしも、此山にして汝等に出合(いであひ)たり。元來、不惜身命(ふしやくしんみやう)の修行者(しゆぎやうじや)なれば、命は、露(つゆ)よりも猶、かろし。されども、祈願、全(まつた)からずして、おことらが腹中(ふくちう[やぶちゃん注:ママ。])に入らん事、是、一つの歎きなり。畜類ながら、心あらば、此理(ことはり[やぶちゃん注:ママ。])を聞分(きゝわけ)て、わが一命を助くべし。然(しか)るにおゐては[やぶちゃん注:ママ。]、汝等が來世、畜生道を除(のが)るべき經文を誦して、報謝とせん。心なくんば、只今、餌食と(ゑじき)せよ。」
と、眼(まなこ)を塞(ふさぎ)て觀念しゐけるに、前後二疋の狼、さしも惡獸なれども、此理にやふくしけん、怒れる氣色(けしき)、引かへ[やぶちゃん注:「ひきかへ」。]、忽ち、頭(かうべ)をうなだれて、遙(はるか)あなたに退(しりぞき)しかば、作十郞、此体(てい)をみて、
「誮(やさし)くも聞き入れけるかや。今は心安し。」
とて、又、笈を肩にかけ、道を求めて過行(すぎゆけ)ば、雷(いかづち)のごとくなる聲して、二聲、さけびけるこそ、冷(すさま)じけれ。
夫(それ)より、やうやう山を越(こへ)て[やぶちゃん注:ママ。]、里に出[やぶちゃん注:「いで」。]、とある家に宿を乞ひ、山中(さんちう[やぶちゃん注:ママ。])の有樣を亭(あるじ)に語れば、あるじを始(はじめ)、家内の人々、橫手(よこで)を打(うち)、
「抑(そもそも)、此[やぶちゃん注:「この」。]ふうふ[やぶちゃん注:「夫婦」。オオカミの雌雄のペア。]の狼にあひたる者、一人も生(いき)て歸りし例(ためし)をきかず。殊に御身は、有難き桑門(よすてびと)かな。」
とて、いと念比(ねんごろ)に饗應(もてな)し、夜明(あけ)て、東に心ざし、終に日本國中、おもふまゝに修行して、近き比(ころ)、目出度、往生をとげられけるとかや。
[やぶちゃん注:「大坂北久寶寺町(きたきうほうじまち)」現在の大阪府大阪市中央区北久宝寺町(まち)(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「北久宝寺町」によれば、『かつて船場に久宝寺という寺院があったことに由来するという説と、道頓堀川が開削された際に河内の久宝寺から多くの人夫が来て、この地に集落ができたためという説の』二『つがある』とある。
「白粉(おしろい)屋作十郞」屋号通りの職種であるとすれば、白粉の製造業或いは問屋か。ウィキの「おしろい」によれば、日本では、七世紀頃に『中国から「はらや」(塩化第一水銀)、「はふに」(塩基性炭酸鉛)という白紛がもたらされ、国産化された』。『白粉に鉛白が使用されていた時代、鉛中毒により、胃腸病、脳病、神経麻痺を引き起こし死に至る事例が多く、また日常的に多量の鉛白粉を使用する役者は、特にその症状が顕著であった(五代目中村歌右衛門など)。また、使用した母親によって胎児が死亡や重篤な障害を蒙る場合もあった(大正天皇の脳症も生母ら宮中の女性が使用していた鉛白が原因との説がある』『)。胸元や背中に至るまで、幅広く白粉を付けるのが昔の化粧法として主流であったからである。昭和九(一九三四)年には『鉛を使用した白粉の製造が禁止されたが、鉛白入りのものの方が美しく見えるとされ、依然かなりの需要があったという』とある。
「上總の國」「かぎりの山」不吉な名であるが、サイト「BOSO LEGEND」の「十市姫と限りの山(筒森神社)」によれば、現在の千葉県夷隅郡大多喜町筒森にある筒森神社(グーグル・マップ・データ)から見える山とし、「壬申の乱」で敗れた大友皇子(大化四(六四八)年~天武天皇元年(六七二)年:弘文天皇とも称するが、即位していたかは定かでない)は琵琶湖の近くで縊死して自害したことになっているが、別伝承として、密かに大津の都を遁(のが)れ、上総の地に落ち延びたとするものがあり、ウィキの「弘文天皇」によれば、『壬申の乱の敗戦後に、妃・子女や臣下を伴って密かに落ち延びた」とする伝説があり、それに関連する史跡が伝わっている』。特に千葉県の『君津市やいすみ市、夷隅郡大多喜町には、大友皇子とその臣下たちにまつわる史跡・口伝が数多く存在しており』、十七『世紀前半に書かれたと考えられている地誌』「久留里記」(編者未詳)や、宝暦一一(一七六一)年に『儒学者の中村国香が編纂した』「房総志料」『に記載がみえる』とある。サイト「BOSO LEGEND」の「十市姫と限りの山(筒森神社)」に齊藤弥四郎による、大友皇子と、その后妃十市皇女(とおちのひめみこ 白雉四(六五三)年?(大化四(六四八)年説もある)~天武天皇七(六七八)年:特に)の悲劇の伝承が語られてある(筒森神社の主祭神は十市皇女)ので、是非、参照されたい。また、そこでは、ここで「重保」(不詳。あり得そうなのは、賀茂重保(かものしげやす 元永二(一一一九)年~建久二(一一九一)年:京都の賀茂別雷(かもわけいかずち)神社(通称は上賀茂神社)神主で歌人としても有名。治承二(一一七八)年に藤原俊成を判者に迎えて「別雷社歌合」を開き、賀茂神社の歌壇を形成した)であろうが、以下に見る通り、これは彼の歌ではない)の作として後に出る和歌は、生き延びよ、と大友皇子から突き放された身重の十市皇女が、山中に分け入り、大多喜で一番高い石尊山(せきそんさん:前のリンクはグーグル・マップ・データ。ピークは千葉県君津市黄和田畑。東北一・九キロメートル位置に御筒大明神(筒森神社)が見える。国土地理院図では山名が確認でき、標高は八百四十七・八メートル)に辿り着いた際に詠んだとする、
わがために憂きこと見えば世の中に
今は限りの山に入りなむ
一種であることが判る。作者が何故、このような錯誤をしたのかは不明。識者の御教授を乞う。
「千手千眼(せんじゆせんげん)の陀羅尼(だらに)」通称で「大悲心陀羅尼」と呼ばれ、正式には「千手千眼観自在菩薩広大円満無礙(むげ)大悲心陀羅尼」と言ういい、「なむからたんのー、とらやーやー」という出だしで知られる、日本では特に禅宗で広く読誦される基本的な陀羅尼の一つ。陀羅尼とは、仏教に於いて用いられる呪文の一種で、比較的長いものを指す語。通常は意訳せずにサンスクリット語原文を漢字で音写したものを各国語で音読して唱える。以下に見る通り、これは経典中の一部分を抽出したもの。ウィキの「大悲心陀羅尼」によれば、『禅宗依用のものは最初の漢訳とされる伽梵達摩』(がぼんだつま/だるま:生没年不詳。中国名は尊法。唐代の西インド出身の訳経僧)訳の「千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼經」の『陀羅尼の部分(当然のことながら梵語の音写)を取り出したものとされる』。「宋高僧伝」では『訳出を唐高宗の永徽年間』(六五〇年~六五五年)~顕慶年間(六六一年~六五六年)『と推測している。また』、『サンスクリット本は』存在せず、『偽経ともいわれる』とある。リンク先には全文の漢字表記と平仮名訓読文がある。
「狼」我々が絶滅させてしまった哺乳綱食肉目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax(カニス・ルプス・ホドピラクス:北海道と樺太を除く日本列島に棲息していた)。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ)(ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」を参照されたい。オオカミは雌雄のペアを中心とした平均四~八頭ほどからなる社会的な群れ(パック:pack)を形成し、群れはそれぞれ縄張りを持ち、特に大型の獲物を狩る時は雌雄のペアやそうした群れで狩うので、この挟み撃ちは決して架空ではない。
「不惜身命(ふしやくしんみやう)」仏道修行のためには身も命も惜しまず、死をも厭わない決意の謂い「法華経」の「譬喩品(ひゆぼん)」などにある語。
「怒れる氣色(けしき)、引かへ[やぶちゃん注:「ひきかへ」。]」怒り猛っていた表情や様子が、一転して変わって。
「雷(いかづち)のごとくなる聲して、二聲、さけびけるこそ、冷(すさま)じけれ」先の牡牝の狼のそれぞれの遠吠えと読めるが、怪異のコーダの上手いSE(サウンド・エフェクト)である。
「橫手(よこで)を打(う)」つ、とは、思わず、両手を打ち合わせることで、意外なことに驚いたり、深く感じたり、また、「はた!」と思い当たったりしたときなどにする動作を指す。室町末期以降の近世語。
「桑門(よすてびと)」「太平百物語卷二 十七 榮六娘を殺して出家せし事」で既出既注。]