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2019/05/13

鐘樓守 伊良子暉造(伊良子清白)

 

鐘 樓 守

 

なびく尾花の未遠く、

 雁金おつるこの夕、

入相告る鐘の音は、

 いかに悲く聞ゆらむ。

 

うしろの松の林より、

 まどかに月の影さして、

 まへの小川の水の面に、

黃金の色もうかぶなり。

 

花の都をはなれ來て、

 この山里にさすらへば、

月の光は隈なくて、

 くもるはおのが心なり。

 

戀しき人におくれては、

 たどるうき世のいとはしく、

この山寺にのがれ來て、

 心ほそくも暮らすなり。

 

年老いませし母上に、

 事ふる爲の業なれば、

富みたる人にへつらひて、

 惠をうくることもなし。

 

緖綱にぎりて二つ三つ、

 今も撞きたるこの鐘を、

草葉のかげにわぎ妹子は、

 いかにうれしく聞くならむ。

 

泪はらひて中空の、

 月の鏡をながむれば、

兎のかげをゆびざしゝ、

 妹がおもわも見ゆるなり。

 

くらく成り行く灯の、

 火影に見えし面影を、

袖引きとめてわぎ妹子と、

 よばむとすれば夢にして。

 

淸き心を墨染の、

 ころもに包む隙なくて、

おとしかねたる黑髮の、

 かはる色こそうたてけれ。

 

鐘撞きをへてながむれば、

 尾花の末のほのぐらく、

うき世の中のさま見せて、

 一ひらかゝる月の雲。

 

[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年七月の『靑年文』掲載。署名は本名の伊良子暉造。「事ふる爲」は「事舊るため」で「言い古された孝行のための在りがちな理由」の意であるが、だからと言ってそれが、已然形接続の原因・理由の接続助詞「ば」を伴って「富みたる人にへつらひて」「惠をうくることもなし」に繋がる論理的整合性は必ずしもあるとは言えず(ないわけではないが、腑に落ちる程度のものを私は想起し得ない)、読んでいて私はこの連で大きく躓いた。寧ろ、恋人に先立たれてしまった絶望から、「富みたる人にへつらひて」「惠をうくることも」にも興味が失せており、しかし「年老いませし母上」がいる以上、無為に生きるわけにはいかないから「事ふる爲の業」として、頼み込んで、山寺の修行僧となり、しかも特別に(寺の小坊主は無償で働くのが当たり前)雀の涙ほどの給金を「母のため」と頼み込んで(相応に人格のある僧なら慈悲で或いは請け合うやも知れぬが、普通はこれもまずあり得ない)恵んで貰っている、という意味でとるしか(私には)ない。しかし、これは近世や近代でもちょっと考えにくく(都合がよすぎる)、どうも現実離れした感じがして、今一つ、私の胸には、青年の撞く鐘の音は、響いてこない。

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