鐘樓守 伊良子暉造(伊良子清白)
鐘 樓 守
なびく尾花の未遠く、
雁金おつるこの夕、
入相告る鐘の音は、
いかに悲く聞ゆらむ。
うしろの松の林より、
まどかに月の影さして、
まへの小川の水の面に、
黃金の色もうかぶなり。
花の都をはなれ來て、
この山里にさすらへば、
月の光は隈なくて、
くもるはおのが心なり。
戀しき人におくれては、
たどるうき世のいとはしく、
この山寺にのがれ來て、
心ほそくも暮らすなり。
年老いませし母上に、
事ふる爲の業なれば、
富みたる人にへつらひて、
惠をうくることもなし。
緖綱にぎりて二つ三つ、
今も撞きたるこの鐘を、
草葉のかげにわぎ妹子は、
いかにうれしく聞くならむ。
泪はらひて中空の、
月の鏡をながむれば、
兎のかげをゆびざしゝ、
妹がおもわも見ゆるなり。
くらく成り行く灯の、
火影に見えし面影を、
袖引きとめてわぎ妹子と、
よばむとすれば夢にして。
淸き心を墨染の、
ころもに包む隙なくて、
おとしかねたる黑髮の、
かはる色こそうたてけれ。
鐘撞きをへてながむれば、
尾花の末のほのぐらく、
うき世の中のさま見せて、
一ひらかゝる月の雲。
[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年七月の『靑年文』掲載。署名は本名の伊良子暉造。「事ふる爲」は「事舊るため」で「言い古された孝行のための在りがちな理由」の意であるが、だからと言ってそれが、已然形接続の原因・理由の接続助詞「ば」を伴って「富みたる人にへつらひて」「惠をうくることもなし」に繋がる論理的整合性は必ずしもあるとは言えず(ないわけではないが、腑に落ちる程度のものを私は想起し得ない)、読んでいて私はこの連で大きく躓いた。寧ろ、恋人に先立たれてしまった絶望から、「富みたる人にへつらひて」「惠をうくることも」にも興味が失せており、しかし「年老いませし母上」がいる以上、無為に生きるわけにはいかないから「事ふる爲の業」として、頼み込んで、山寺の修行僧となり、しかも特別に(寺の小坊主は無償で働くのが当たり前)雀の涙ほどの給金を「母のため」と頼み込んで(相応に人格のある僧なら慈悲で或いは請け合うやも知れぬが、普通はこれもまずあり得ない)恵んで貰っている、という意味でとるしか(私には)ない。しかし、これは近世や近代でもちょっと考えにくく(都合がよすぎる)、どうも現実離れした感じがして、今一つ、私の胸には、青年の撞く鐘の音は、響いてこない。]