太平百物語卷五 卅九 主部隼太化者に宿かりし事
太平百物語卷之五
○卅九 主部隼太(とのべはやた)化者に宿かりし事
伊豫の國に主部隼太といふ者あり。
川(かはの江(ゑ)といふ所より、松山に用ありて行(ゆく)とて、東空(しのゝめ)の比(ころ)、宿(たど)を立出(たちいで)て、道を急ぎけるが、凡(およそ)、四、五里も行とおもへば、俄に、日、暮たり。
隼太、おもふ樣、
『日は未(いまだ)午(むま)の刻には過(すぐ)べからず。然(しか)るに、かく、日の暮ける事のふしぎさよ。』
とおもひ、向かふの方(かた)をみれば、農人(のふにん[やぶちゃん注:ママ。])の家(いへ)と見へて、灯(ともしび)の光、幽(かすか)に見へけるを便りて、表を叩きければ、内より、あやしげなる老女、立(たち)いで、
「たぞ。」
と答へしまゝ、
「さん候ふ。是は旅人にて候ふが、未(いまだ)日は高く侍ると思ひしに、俄に暮たり。此所に一夜(いちや)を明(あか)させたび候へ。」
といふ。
老女、きゝて、
「子細候はじ。此方(こなた)へ入らせ玉へ。」
とて、頓(やが)て宿をかしけり。
隼太、悅び、内に入りて休らひけるが、しばらくありて、隼太がふしける後(うしろ)の壁、
「めりめり。」
と。ゆるぎ出(いだ)し、そこらの柱より、臥居(ふしゐ)たる床(ゆか)に至るまで、殘りなくゆるげば、
「扨は、地震にや。」
と、暫くは、こらへけれども、次第次第に强くなりて、はや、臺所の方(かた)は、柱、たふれ、やね、落(おち)ければ、
「こは、いかに。」
と、迯出(にげいで)んとするに、納戶も崩れ、隼太が傍(そば)の柱も倒れかゝりて、天井、終に隼太が上に落たりければ、今は、なかなか動くべきやうもなくて、聲をばかりに泣(なき)さけび、
「やれ、人々よ、助け給へ。」
と、わめきければ、往來(ゆきゝ)の人々、これを聞付(きゝつけ)、立(たち)より見るに、とある三昧(さんまい)[やぶちゃん注:「三昧場(さんまいば)」。墓場のこと。本来は僧が中に籠って死者の冥福 を祈るため、墓の近くに設ける堂であるが、そこから転じて、墓所や葬場を指すようになった。]に、卒都婆木(そとばぎ)おほく、引かづき、泣ゐたりしかば、ありあふ人々、あきれ果て、やうやうに助けおこせば、隼太、茫然として、そこらをみるに、皆々、墓所(はかしよ)にて、「柱」と見しは、「そとば木」にて、「夜(よる)」とおぼへしも、其まゝ元の「日昼(につちう)」となりければ、隼太は大きに打驚(うちおどろ)き、もと來(き)し道に助け出(いだ)され、夫(それ)より、松山へは行かずして、引返(ひつかへ)し、川の江に歸りしとなり。
「此者、日ごろ、おほくの人をたぶらかしける、をきつねの、惡(にく)みて、かく惱ましける。」
とぞ申し合(あひ)ける。
[やぶちゃん注:「川の江」現在の愛媛県四国中央市川之江町(かわのえちょう)(グーグル・マップ・データ)及びその周縁地区。松山へは実測で九十キロメートル弱。
「四、五里」川之江からだと、実測では四国中央市土居(どい)町(グーグル・マップ・データ)かその手前の土井町野田附近となる。
「此者、日ごろ、おほくの人をたぶらかしける、をきつねの、惡(にく)みて、かく惱ましける」という種明かしは、何故、牡狐(おぎつね)が主部隼太を憎んだのかが示されておらず、不全である。]
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