空色の國 ツルゲエネフ(生田春月訳)
空 色 の 國
おゝ、空色の國よ! おゝ、光明と色彩と、靑春と幸福の國よ! 私は夢に汝を見た。私は幾人(いくたり)かの仲間と華かに飾られた綺麗な小舟に乘つてゐた。白鳥の胸のやうに白帆はふくらんでゐた、風に翻へる流旗(はた)のもとに。
仲間と云ふのは誰だか私は知らなかつた。けれども私自身のやうに、若い快活な幸福な人達だとは心底から感じられた!
しかも私は彼等には目もくれなかつた。私はたゞまはりの金の鱗(うろこ)の波立つ果て知らぬ海を眺めた。頭上にも同じ窮(きはま)りなき空色の海が橫はり、太陽は嬉しげに勝ち誇つたやうに動いてゐた。
我々の間には、時々諸神(かみがみ)の笑ひのやうによく透(とほ)る喜ばしいげな笑ひ聲が起つた!
それから不意に誰かの脣(くち)から言葉が出た。不思議な美や感激した力に充たされた歌が出た……天(そら)もそれに應(こた)へ、まはりの海もそれに調子を合せて顫(ふる)へるやうに思はれた。……それからまた樂しい平穩にかへつて行つた。
おだやかな波の上を輕く浮んで、我々の小舟は走つて行つた。風が走らせるのではなくて、我々自身の輕く波打つ心臟がそれを導いて行くのである。小舟は我々の行つて見たい方へ走つた、まるで生きた物のやうに從順に。
我々は群島(しま)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]に近づいた、紫水晶や綠柱石(エメラルド)などの寶石のきらきら光つてゐる半透明の仙島である。そのぐるりの海岸からは心を醉はす薰香が立ちのぽつてゐた、その或る島では薔薇や君影草(ヴアレイ・リリイ)の雨を我々に降らし、また或る島では紅の七色をした長い翼を持つた鳥のむれが舞ひあがつた。
鳥のむれは我々の頭上に輪を描き、百合や薔薇は我々の小舟の滑らか舷(ふなばた)を滑つて、眞珠のやうな泡の中へ溶け込んでしまふ。
そして花や鳥とともに、蜜のやうにスヰイトな音調が我々の方へ漂つて來た……その中には女の聲も聞えた……そして我々のまはりはすべて、天(そら)も、海も、高くあがつた帆も、舵のところでどくどく云ふ水も――すべて戀を語つた。幸福な戀を語つた!
そして彼女も、我々のそれぞれの戀人もまた其處(そこ)にゐたのである……目には見えなかつたけれども。いま一時(ひとゝき)、そして見よ、彼女の眼は汝等に輝き、彼女の頰は汝等に笑みゆらぐであらう………彼女の手は汝等の手を取つて、永久の樂園(パラダイス)へと導くであらう!
おゝ、空色の國よ! 私は夢に汝を見た。
一八七八年六月
[やぶちゃん注:「君影草(ヴアレイ・リリイ)」既出既注の単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科スズラン亜科スズラン属スズラン Convallaria majalis の異名。鈴蘭は実際、英名の別名を「lily-of-the-valley」、則ち、「谷間の姫百合」とも呼ぶのである。]