常盤の前 伊良子暉造(伊良子清白)
常盤の前
櫻はなさく高殿に、
琴かきならしあそびしも、
月影淸き秋の夜に、
笛吹きすさびあそびしも、
今はむかしとなりにけり。
よそほひ飾りしあともなく、
綾もにしきも色うせぬ。
かはるこの身は恨まねど、
いとし三人をいかにせむ。
* * * *
伏見の野路はくれはてゝ、
見渡すかぎりはるばると、
雪ふりつもる夕まぐれ、
いづこの誰れに宿からむ、
かるべき宿もあらなくに。
松の下蔭雲散りて、
すさぶ嵐の音凄し。
ひゆるこの身はいとはねど、
いとし三人やさむからむ。
[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年三月の『少年文庫』掲載。署名は本名の伊良子暉造。特異な和歌のような分かち書きはママ。
「常盤の前」源義朝(保安四(一一二三)年~平治二月三日(一一六〇年二月十一日))の側室で、かの源義経の実母である常盤御前(ときわごぜん 保延四(一一三八)年~?)。義朝との間に今若(後の阿野全成(仁平三(一一五三)年~建仁三(一二〇三)年:鎌倉幕府開幕後も有力御家人として将軍家に仕えたが、正治元(一一九九)年に頼朝が死去し、甥の頼家が将軍職を継ぐと、全成は、実朝を擁する舅北条時政及び義兄弟の義時と結び、頼家一派と対立するようになった。建仁三(一二〇三)年五月十九日の子の刻に先手を打った頼家は武田信光を派遣し、全成を謀反人として捕縛し、御所に押し込め、同月二十五日に常陸国に配流され、六月二十三日、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺された。享年)・乙若(義円(久寿二(一一五五)年~治承五(一一八一)年:異母兄の頼朝が挙兵すると、その指揮下に合流し、父である義朝から一字を採って義円と改名、治承五(一一八一)年、叔父源行家が尾張で挙兵すると、頼朝の命により、援軍としてその陣に参加した。墨俣川河畔にて平重衡らの軍と対峙(「墨俣川の戦い」)したが、この時、義円は単騎、敵陣に夜襲を仕掛けようと試みるも失敗し、平家の家人(けにん)高橋盛綱と交戦の末、討ち取られた。享年二十七)・牛若(義経(平治元(一一五九)年~文治五(一一八九)年:享年三十一)の三人(詩篇中の「三人」は「みたり」と読もう)に子を設けた。近衛天皇の皇后九条院藤原呈子の奥向きの召使いであったが、源義朝の側室となった。「平治の乱」(保元元(一一五九)年)で敗れた義朝が殺されると、常盤は平氏の追及を逃れて、三児を連れ、大和国に隠れた(本篇は現在の二月中旬のその折りの歴史詠である)。しかし、結局、平氏に捕らえられた母を助けるために六波羅に自首し、許された。この時、平清盛の妾となったとも伝えられる。のち一条大蔵卿藤原長成に嫁している。]

