稻舟 すゞしろのや(伊良子清白)
稻 舟
花の姿もうちしをれ、
匂へるまみもいと重く、
ぬぐふ袂もくつるまで、
なげく少女や誰ならむ。
閨もるかぜもいと寒み、
火影もいたくまたゝきて、
いたはりしらぬ小男鹿の、
妻こふ聲もきこゆなり。
かくとも知らばいかで我、
契むすばむかの君に、
契むすびてうらむなる、
おのが心ぞうらまるゝ。
ひきてかへらぬ梓弓、
いで羽のくにを出てより、
うき藻の草のうきてのみ、
うき世の上をたゞよひつ。
人のこゝろの裏表、
かへすかへすも見るまゝに、
筆のすさびのをりをりは、
戀のあはれもかきやりつ。
文にそへたる姿繪に、
京わらべのさがなさは、
よしなし言の言草を、
うたひはやしつ嘲りつ。
その折なれやかの君の、
やさしかりつる一言に、
いなにはあらぬ稻舟の、
いなみかねけり契をも。
えやは知るべきかくとだに、
君の心のつれなさを、
つれなき折に見てしより、
春は物うくなりにけり。
多くはいはじかなしさを、
幸なきわれは末つひに、
秋よりさきにすてらるゝ、
扇のつまとなりけるよ。
やがて歸りし故鄕も、
思ふ思のしげゝれば、
枕につきし其日より、
病さらぼひぬかくまでに。
君と二人がかきやりし、
峯を殘んの月影は、
かなたの空にきえて行く、
おのが今はのすがたなり。
あはれ幸なき少女子が、
つれなき人をうらみかね、
きえてうせきときゝまさば、
はかなき我と思ひてや。
深きなげきやそはりけむ、
淚のつゆのいやますに、
はては思ひにたへかねて、
さぐりもよゝとなきそめぬ。
夜や更けぬらし燈火の、
またゝく影も細りつゝ、
遠くなり行く小男鹿の、
聲はきこえずなりにけり。
[やぶちゃん注:明治二九(一八九六)年十一月『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]