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2019/06/30

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(64) 封建の完成(Ⅱ)

 

 德川の立法の今一つの人道的方面は、男女兩性の關係に關するその訓諭である。蓄妾は祖先祭祀の繼續に關する理由の爲めに、武士階級には默許されて居たけれども、家康は單に利己的理由の爲めに、此の特權を恣にする事を極めて非難した。『愚昧無識な人間は情婦の爲めに眞の妻を閉却し、かくして最も重要な關係を亂す……此の程度までに墮落した人は信實或は眞面目を缺く武士として常に知られるべきである』。〔愚者は昧ㇾ之爲愛妾本妻大倫溺ㇾ之者は非忠信之士と兼而可知事〕[やぶちゃん注:手前勝手で訓読する(以下同じ)。「愚者は、之れ、昧(くら)し。愛妾の爲めに本妻を蔑(ないがしろ)にし、大倫を亂し、之れに溺るる者は、忠信の士に非ずと兼ねてより知るべき事。」。]輿論によつて非とされて居た寡居は――佛教の僧侶の場合に於ける他――同樣に法典も是を非とした。『人十六歲以後は獨棲すべからず。凡そ人たらん者は結婚を自然の第一法則と認む』。〔男女居ㇾ室人之大倫也拾六歲以上獨居すべからず求媒酌而可ㇾ結婚姻之禮子孫相續する時は各先祖之開顏人人天理之本也〕[やぶちゃん注:「男女(なんによ)、室に居るは、人の大倫なり。拾六歲以上、獨居すべからず。媒酌を求め、而して婚姻の禮を結ぶべし。子孫、相續する時は、各々、先祖の開顏(かいがん)せる(「それでよしと許して、顔を和らげること」を指すか)、人人の天の理(ことわ)りの本なり。」。]子なき人は養子する事を强要された。そして遺訓の第四十七條は、男子無き者が、養子せずして死んだ場合、その財產は『親族緣者に顧慮する處なく沒收すべき者』〔無實子養子して相果る者は親疎に拘はらず沒收すべし[やぶちゃん注:「實子、無く、養子、無くして、相ひ果つる者は、親疎(しんそ)に拘はらず、沒收(もつしゆ)すべし。」。]〕なる事を制定した。勿論此の法律は祖先祭祀の擁護の爲めに設けられたもので、それを斷絕する事なく繼續するのが各人の至上の義務と思はれた。併し養子に關する幕府の制規は、各人が困難なく法律上の要求を充たす事を得せしめた。

[やぶちゃん注:〔 〕は底本で同記号で二行割注となっている。無論、訳者戸川秋骨が添えたものである。]

閑居松風・閑居雀  伊良子暉造(伊良子清白) / (伊良子清白十六の夏の今様二首) 

 

   閑居松風

心しつかに暮さんと、のかれてすめる柴の戶に、

峯の松風おとつれて、またもうき世となりにけり。

 

   閑居雀

世のうきふしはたえてなき、竹の庵のむらすゞめ、

千代とさへつる聲々も、いと樂しけにきこゆなり。

 

[やぶちゃん注:以上は、二〇〇三年岩波書店刊「伊良子清白全集」第一巻の俳句パート(伊良子清白の俳句は同書を底本にサイトで「伊良子清白句集」として全電子化済み)の末尾に『【今樣】』(この二首のみ)として載るもの。明治二七(一八九四)年八月十五日発行の『少年文庫』(第十二巻第一号)に載った。署名は本名「伊良子暉造」。清白、満十六歳の夏の詠である。]

野菊 (清白(伊良子清白)によるウーラントの訳詩) / 伊良子清白詩篇全電子化注~完遂

 

野 菊

 

 

  さゝなきしては

 

さゝなきしては鶯の

空音つくるぞきこえける

あざむくなかれ鶯よ

まことの歌をうたへかし

 

しげみの奧は暗くとも

いかに空音はたくむとも

春の鶯聲あげて

何戀ならぬ歌やある

 

 

  秋風白く

 

秋風白くあかあかと

夕日傾く波の上

悲むなかれ海士の子よ

かれの沈むはうみならず

 

なれらの胸に日は入りて

なれらの胸を日は昇る

晝は炎をあげよかし

夜は靜かに眠れかし

 

 

  少女の死を悼みて

 

何を悲む百合の花

なにをはぢらふ花さうび

なにを怖るゝ蓮のはな

夏の夕をただ一人

少女は行きぬうらぶれて

 

打かたぶける百合の花

紅なせる花さうび

色靑ざめし蓮の花

戰(ふる)ひつ泣きつ悲しみつ

夏の夕を語るなり

 

 

  墓場をいでゝ

 

墓場をいでて少女子は

盆(ぼに)の踊にまじりけり

白き衣を身にまとひ

萎(しを)れし花を手にもちて

 

踊の群は散りにけり

月靑白く秋の夜を

死にし少女ぞ踊るなる

むかしのうたをうたひつつ

 

月靑白く秋の夜を

萎れし花ぞ靡(なび)くなる

萎れし花も落ち散りて

少女は死ににけり (Uhland のうたのこゝろを)

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年十二月十五日発行の『文庫』(第二十四巻第五号)に掲載されたものを完全復元した。署名は「清白」。「少女の死を悼みて」「墓場をいでて」は後の昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」で二篇をそれぞれ独立させて載せている。なお、「盆(ぼに)」は誤りではなく、平安時代、「ぼん」の「ん」の字の使用が一般的に普及していない頃、「に」と表記したもので、盆或いはその折りの供物を指す語として普通に使われているものである。添え辞の「Uhland のうたのこゝろを」というのは、翻案というのではなく、ドイツ語の力を謙遜しての伊良子清白の謂いと採りたい。ドイツ語は解せないので、原詩は指示出来ない。

 清白、満二十六歳、この年は彼にとって波乱の年であった。「春の歌」の私の注を見られたい。

 これを以って二〇〇三年岩波書店刊「伊良子清白全集」第一巻の詩篇パートのオリジナル電子化注を完遂した。]

ウーランド(盾持ちローランドの原作者) 伊良子暉造 /(評論)

[やぶちゃん注:以下は、伊良子清白によるドイツ後期ロマン主義のシュワーベン詩派の代表的詩人であるヨハン・ルートビヒ・ウーラント(Johann Ludwig Uhland 一七八七年~一八六二年)の訳詩「盾持ちローランド」の最後の部分が「下」として発表された明治二八(一八九五)年七月発行の『もしほ草紙』(第三号)に同時に掲載されたウーラントについての評論である。署名は本名の「伊良子暉造」。確信犯の佶屈聱牙な表現部では、かなりの誤字が認められるものの、満十七歳の青年医学生のものとはとても思えない、かなり力(りき)の入った本格的なドイツ近代詩史を踏まえたウーラント論である。「盾持ちローランド」に添える形で特に電子化した。底本は同じく二〇〇三年岩波書店刊の「伊良子清白全集第二巻 散文篇」に拠ったが、この第二巻は第一巻の「詩歌篇」と違って、漢字が新字体になってしまっている。発表時制と文章が歴史的仮名遣の擬古文であることから、恣意的に概ね漢字を正字化して示した。私はドイツ語を解せないので、各所に出るドイツ語にはろくな注を附せなかったことをお断りしておく。判らぬながらも、主にドイツ語ウィキ「Ludwig Uhland」とそのリンク先に拠った。当時のヨーロッパの勢力関係は世界史に冥い私には不明な箇所が多いので自分のために注を附した。五月蠅いが、自身の確認のためであるので悪しからず。なお、中には遂に突き止められなかった詩人がいる。捜し得ないのは清白のカタカナ音写に問題があるものと思われるが、或いはとんでもなく有名な詩人なのかも知れない。お判りになる方は是非御教授あられたい。]

 

 

 ウーランド

   (盾持ちローランドの原作者)

 

   其 小 傳

 

 獨逸の文豪、ルードゥイヒ、ウーランドLudwig Uhand 氏は、一千七百八十七年四月廿六日を以て、本國チエービンゲンに生れぬ。其が兩親といふは極めて熱心なる人物なりしかば、ウーランドも亦此性を享け、一旦事に從ふ時は、一向專念敢へて飽かざるの氣性を有したり。優雅なる敎育に因り、武家氣質の間に成長しゝかば、其氣風自ら快活にして、彼の天才の美玉は益々琢磨せられぬ。生地は名勝舊蹟いと多く、歷史的の事實に富みたる鄕里なりしをもて、廢頽せる古城、剝落する寺院、苔むす奧城處、鎧掛ける老松、など趣味多き山水の間を逍遙して、古代の武者物語、さては名蹟の緣起など慈母の御伽談するを聞き、漫ろに詩的生活を送りぬ、ウーランドは少時よりかの有名なる騎士遊戲 Ritterspiel などをも好みしなるべし。六歲の頃より其鄕の小學校に入りぬ。固より多聞多識、才氣橫溢、の寧馨兒いかでか人後に落ちむや。萬綠叢中の紅一點常に級の首席を占めて、嶄然たる頭角を露はしぬ。特に奇なるは就中文才に長じ、詩は最も得意とする所にして、羅甸[やぶちゃん注:「ラテン」。]の六言詩なとを物しぬ。時の敎師之を驚嘆して、ウーランドの詩才は魔力なり。余は之を添刪する能はず唯だ悅ん之を讀むのみと、曰へり。以て其異常の神童なりしを知るに足るべし。長ずるに從がひて、囊錐いよいよ現はれ、僅々十四歲の弱年にして、Im Tanneheim Bitteum die Frühlings vakang を出しぬ[やぶちゃん注:不詳。ドイツ語サイトのウーラントの書誌記載でもこの書名は見当たらない。不審。]。越えて四年、十八歲に至て、有數の名作、Die Kapelle, Schafers Sonntagslied 等を公になしたり[やぶちゃん注:前者は「チャペル」でウルムリンガー礼拝堂を詠じた一篇。後者は「羊飼いの日曜日の歌」。孰れも一八一五年発表。]。此頃より彼の勉學は非常なるものにて、專ら古代の詩材をあさるに力を盡しぬ。牧者安息日歌の如き僅々三章六十餘言の短詩なりと雖、牧者一天麗らかに晴れ渡り、雲なく風なく、いと長閑なる曠野に塵世を脫して梵鐘の殷々たるを聞きて、專念上帝を拜し、心は六臺萬有と融合する樣、讀者をして自ら、

  Anbetend knie Ich hier

と叫ばしむ[やぶちゃん注:上記のドイツ語は、こちらのウーラントの原詩と訳によって先の「Schäfers Sonntagslied」の一節で、意味は『讃え祈りながら』、『ここにひざまずく』とある。]。純潔髙雅なる詩趣、格調の雙絕なるを見るべし。實にや此短詩が國歌の撰に上ぼりて、國民の賞讚かまびすしき迄なりしこと左もありぬべし、此の如くウーランドの幼時、少年時代を思へば、其遺傳、敎育、鄕地の風景は大に詩才を養ひたるや論なし。「詩人は天成なり、人爲に非ず」てふ古諺は彼に於ては適切にして「詩人は恰も告天子[やぶちゃん注:ヒバリの異名。]に似たり、外物の影響と境遇の勢力とに制せらるゝ事なくして歌ふ者也」といへる格言は甚だ不適當なり、蓋し彼は天然の兒にして人工の子に非らざれば也。

[やぶちゃん注:「寧馨兒」は「ねいけいじ」と読む。「寧馨」は中国の晋・宋時代の俗語で「あのような・このような」の意で、かくも取り立てて讃えるべき「優れた子・神童・麒麟児」を指す。「晋書」の「王衍伝」を出典とする。

「嶄然」の「嶄」は「高く嶮(けわ)しい」の意で、転じて「一段と高く抜きん出ているさま。一際目立つさま」を指す。

「囊錐」「なうすい」と音読みしておく。「嚢中(のうちゅう)の錐(きり)」(現代仮名遣)の略。袋の中の錐はその先が袋の外に突き出ることから、「すぐれた人は多くの人の中にあっても、その才能が自然に外に現れて目立つこと」の喩え。「錐の嚢中に処(お)るがごとし」とも言う。「史記」の「平原君伝」に由来する成句。]

 ウーランドは斯くの如く溢るゝばかりの詩才を有しゝかども、詩によりて麺麭を得んとは願はざりき、兩親の勸告もありし上に、詩は職業となすべからざる事を看破しゝかば、專ら法律學に熱中して、三十歲の頃には早くも一個の法律家となりぬ。然りと雖ももそが螢雪の間も、成業の後も、一日片時詩神を離るゝ事なかりき。ムーゼも彼を護りたるなるべし。これに付きておのれは一言すべき事あり。現今の靑年――文學書生など多く詩を以て衣食を供給せんと欲する者あり。是れ大なる誤といふ可し。蓋し詩の詩たる所以すなはち其高尙深遠なる點は、全く職業以外に立つて超然たる地位を有するに在り。されば衣食と關係し、隨て金錢と關聯したる職業を以て、直に詩を適合せしめむと欲するは無用の徒事なり。是れ詩と職業とは反對の位置にあれば也。若し疑はしくば本邦從來詩人の職業を見よ、王朝の歌人も幕世の俳人も悉く別に職業を有したりき。而して職業のなき詩人は、遠く塵世を解脫して詩を以て職業と迄は爲さざりき、芭蕉西行など此類なり。殊に近世わが帝國は新世界の空氣を吸ふに忙はしく、殖產興業の道に專らなる時代なれば、鶯囀燕舞[やぶちゃん注:「あうてんえんぶ」。天然自然に自由に詠む喩え。]、悠々たる作詩のみに耽るは國家に對しても不忠といふべし。されば將來詩壇に立て天才を發揮せんと欲せば、必ず先づ別に一個の職業に從事せざる可からざる也。ウーランドの如き、實に其理を了解したるものと謂はざる可からず。いさゝか附記するになむ。

[やぶちゃん注:この文章を書いた時、伊良子清白は未だ満十七歳(十月四日生まれ)、この四月に京都医学校に入学したばかりであった。既にして彼自身の将来の実際の在り方も、この時、既にして決していたということが、ここで今、判るのである。]

 ウーランドの詩的生涯は之を分て四期と爲す可し。

 彼に三人の親友あり、ケルネル氏、ヘルデルリン氏、マイエル氏、すなはち是れ也。其他同好の士を集めて一文會を組織しぬ。其機關として一雄誌を日曜每に發刊したり。文學史上シュワーベン詩壇なるものは則ちこれなり。ウーランドは此誌上に敍情詩を連載して、非常の賞讚を博し、世より詩聖ゲーテに並馳すべき名家なりとの好評を獲たりき。これすなはち第一期なり。

[やぶちゃん注:「ケルネル」ドイツのロマン主義詩人で医師・神秘主義者でもあったユスティヌス・アンドレアス・クリスティアン・ケルナー(Justinus Andreas Christian Kerner 一七八六年~一八六二年)。抒情的な民謡調の詩を多く書いたが、次第に神秘的傾向に傾き、霊力・交霊などを信じてその方面の著作も多い。次注のヘルダーリンの診察もしている。

「ヘルデルリン」ドイツの詩人で思想家ヨハン・クリスティアン・フリードリヒ・ヘルダーリン(Johann Christian Friedrich Hölderlin 一七七〇年~一八四三年)。説教師の子として生まれ、テュービンゲン大学で神学生としてヘーゲルやシェリングとともに哲学を学んだ。しかし卒業後は神職に就くことを拒否し、各地で家庭教師をしながら詩作を行い、書簡体小説「ヒュペーリオン」(Hyperion:第一部は一七九七年、第二部は一七九九年に刊行))や多数の賛歌・頌歌を含む詩を執筆した。しかし三十歳頃、統合失調症を発症し、狂人とされ、その後半生は不遇であった。一八〇七年から「ヒュペーリオン」の熱狂的な愛読者であった家具職人エルンスト・フリードリヒ・ツィンマーに引き取られ、死の年までの実に三十七年間、そのツィンマー家の、川に臨んだ塔の中で過ごした(軟禁ではない)のであった。ウィキの「フリードリヒ・ヘルダーリン」には、『生前はロマン派からの評価を受けたものの』、『大きな名声は得られなかったが、古代ギリシアへの傾倒から生まれた汎神論的な文学世界はロマン主義』・『象徴主義の詩人によって読み継がれ、また』、『ニーチェ、ハイデッガーら思想家にも強い影響を与えた』とある。

「マイエル」詩人で弁護士であったカール・フリードリヒ・ハルトマン・メイヤー(Karl Friedrich Hartmann Mayer 一七八六年~一八七〇年)のことかと思われる。

「シュワーベン詩壇」小学館「日本大百科全書」の「シュワーベン詩派」(Schwbische Dichterkreis)によれば、『ドイツ後期ロマン派の一詩派』で、『狭義にはウーラント、J・A・ケルナー、シュワープほか、ウュルテンベルク出身のロマン派詩人仲間をさし、広くはメーリケ、ハウフなども加える。しかしこの名称は、これらの詩人の仕事すべてを包括するには十分ではなく、今日、但し書なしに使用されることはまずない』。一八〇三年、『ウーラントを中心にチュービンゲン大学に形成された学生文学グループが起点となっている。このグループの解消後もウーラント、ケルナーの両者はシュワーベン・ロマン派の旗印のもとに同調者を集めた。彼らは、家郷の風土、詩的伝統を愛し、民謡調のバラード、物語詩などを表現形式として好んだ。アンチ・ロマンの「青年ドイツ派」とは反目し』、『別格扱いのウーラント以外は、ハイネなどの批判を浴びたが、彼らの運動の後代への影響は小さくない』とある。]

 彼が嗜好物なる、古事探究は年を積むに隨て愈佳境に入り文學、言語、小說、傳記、一として讀まざるなく、詩囊益重く、學識いよいよ博きを加へけれども、猶ほ滿足せざりけむ。其の熱心は逬發[やぶちゃん注:「はうはつ(ほうはつ)」で迸(ほとばし)り出ること。]して、ウーランド、其三十二歲の時、佛國巴里に遊び、數月滯在の末其圖書館に入り、諸多の珍書奇籍を獵涉し、大に古學探究の材料を得たり。其熱心なる、手をもおとさむばかりなる嚴冬積雪の日も、火氣なき寒威骨に徹する圖書館の一室に在りて側目もふらず一心に勉學してありしといふ。試に思へ當時、獨佛の間戰端開け(猶後に評論すべし)氷炭[やぶちゃん注:「ひようたん」。相違の甚だしいものを喩えて言う語。]相容れざるの間に非ずや。而して其本國を離れ不倶戴天の敵國に入る其熱心亦甚しと謂ふべし。この熱心の效果は乍ち[やぶちゃん注:「たちまち」。]あらはれて歸國の後、古代佛國詩歌論 Ueber das altfranzösische Epos の好論文と成りぬ[やぶちゃん注:一八一二年作。]。江湖の好評噴々として、洛陽の紙價爲めに價を加ふるに至れり。借問す、日本現今の文學者、日淸戰爭正に酣なるの際深く支那の内地に入り、以て其古蹟を探究するの勇氣あるや否や。

 此時に當り獨佛の葛藤結んで解けず、祖國多難、兵馬悾愡[やぶちゃん注:「こうそう」と読み、「忙しくて思うことが出来ないさま」を指す。なお、この後に読点はない。]社會は正に暗黑の中に棄擲せられたり。老者は黨を組みて、村間を守り、壯者は募に應じて國運に斃るゝの間も、彼の詩筆は一日も休む事なく、堂々整々、Fürs Vaterland を朗吟して獨逸國の森嚴と必勝を歌ひぬ[やぶちゃん注:「Fürs Vaterland」は「祖国のために」。現在のドイツ連邦共和国国歌の原型である「Deutschlandlied」(ドイツの歌)であろう。ウィキの「ドイツの歌」に載る三番の歌詞に「Für das deutsche Vaterland!」(父なる祖国ドイツのために!)とある。]。彼が從軍の希望は、其國ユルテンベルヒの仇敵ナボレヲンに同盟せるの故を以て果さざりしも、粉骨碎身、自個の職分を盡すに餘念なかりき千八百十五年ナボレヲン敗亡して、諸國安康と成りしの后、彼は故鄕の公役に從事して勉勵至らざるなく、其結婚の夜、新婦と客人とをして待つこと多時ならしめたりき、是れやがて其二期なり。

[やぶちゃん注:「ユルテンベルヒ」彼の生地テュービンゲン(Tübingen)は現在のバーデン=ヴュルテンベルク州(Land Baden-Württemberg)であるが、ここは当時はヴュルテンベルク王国(Königreich Württemberg)であった。この一八一五年にドイツ連邦に加盟。]。

 新婦名をエミーと呼び名族の女なり。ウーランドは此結婚に因りて大に幸福なる生活を得、和氣洋々たる家庭をつくり從來自個の性質に適合せざりし公役は之を避けて、公會議所に出ることも少かりき。左れば其境遇は一變して、蜜よりも嗜みたる詩神に近接せざるの日なく、本來の詩人たる境涯を送りぬ。一千八百二十九年、テユービンゲン大學の員外敎授と成り、獨逸文學幷に語學の講延を開きしが、蘊蓄の學識は滾々として盡きざること湧泉の如く、議論明晰、紛糺雜亂の語學を解釋し一糸亂れず。大に學生の好望を獲たり。これやがて第三期なり。

[やぶちゃん注:「エミー」一八二〇年に彼は十二歳下のエミリィエ・アゥグステ・フィッシャー(Emilie Auguste Vischer 一七九九年~一八八一年)と結婚している。裕福な商人の娘であった。]

 其後ウーランドは國會の議長に當選せられ、公共の義務辭するに語なく、且は諸多の有志者の推選もだし難くて、七年の長日月、國會議場に勤務したり。其後はチユービンゲンに住し、其友、カルヽ、マイエル、グスタフ、シユワープと共に互に往來して、作詩を以て樂めり。名聲益々籍甚し、一時はゲーテを壓する計りなりき。

[やぶちゃん注:「カルヽ、マイエル」で既出既注の詩人カール・メイヤーであろう。

「グスタフ、シユワープ」でウーラントやケルナーとともにシュワーベン・ロマン派の代表的詩人であったドイツの詩人グスタフ・ベンジャミン・シュワープ(Gustav Benjamin Schwab 一七九二年~一八五〇年)のこと。チュービンゲン大学で哲学と文学を学んだ。民謡風の小曲・学生歌・物語詩でウーラントの詩業を継ぐとともに、『教養人の朝刊』紙の文芸欄編集者として後輩を育成した。ギリシア・ローマ神話集「古典古代の伝説」(Sagen des klassischen Altertums 一八三八年~一八四〇年)の編者としても知られる。]

 ウーランド甚だ攝生に注意したりと見え、晚年に至りても衰弱の體格見えず、依然矍鑠たる老翁なりしが、親友ケルネルの葬式に臨みて、感冒症に罹り、遂に八十四歲の高齡を以て千八百六十二年十一月三日遠く天國に旅立ちけり。會葬するもの數千人、未だ一面識なきものにして、此大詩人が最終の葬禮に遇はむと欲するもの道路堵[やぶちゃん注:「かき」。垣根。]の如くなりき。其盛榮實に羨む可しと爲す、十七世紀の大文豪、チユービンゲンの麒麟兒はかゝる光榮の裡に消滅せり、亦溟目して可なりといふ可し。これやがて第四期なり。

 余は猶以上の傳記中、彼が性格上に於て一二の觀察を試みむと欲す。

 ウーランドは瓢逸快闊なる人なりき。其詩中にあらはるゝ人物の悉く滑稽的風趣に富める、實に彼自身の陰影なりき。

 ウーランドは專心熱中の人なりき。公務の餘課作詩に耽りたる、古事の探究に敵國に入り嚴冬猶寒風を忘るゝに至り、或は公務に忠勤にして新婦と客人とをして待たしむこと多時ならしめたる等其熱中なる性格は行爲の上にあらはれたりと謂ふ可し。

 ウーランドは愛國の情念に富みたる人なりき。ひたすら祖國の美を謠ひ、士氣を鼓舞せしめたるが如き、或は從軍を願ひて、敵國と戰はむと欲したるが如き、國會議事堂に議長として七年の長月日を勤務したる等以て其の一般を知るに足らむ。

 ウーランドは溫和朴良なる人なりき。夫人エミーに對する愛情、親友ケルネル、ヘルデルリンに對する友情、など懇切深厚なりしを見れば、明白なり。

 批評淺薄、例證甚だ乏しと雖、氏の性格として大差なきを信ずる也。

 

   其 時 代

 

 近古獨逸帝國が英雄割據の狀を呈してより、一たびは佛の食狼、ルードイヒ十四世の爲に國内を擾亂せられ、一たびはコルシカの大怪物ナポレヲンの爲めに、獨立を蹂躪せられ畧んど亡國の慘狀に陷落したりしもの、遠く其源を探究すれば人心の背離に因せずむばあらず、而して人心の背離は國語國文の獨立を失ひたるに因る、蓋し中古の末葉より十七世紀の末葉に至る迄は獨逸文學極衰の時期なりき。當時專ら流行せしは羅甸文にして、一般の學者悉く之に熱中し、誰一人として自個固有の國語を發揮するものなかりき。十六世紀の初葉、熱心なる愛國者ウツテンなる人あり、國語の衰頽を憂ひしきりに獨逸文を以て書を著はさむと心掛けしかど、到底羅甸文もて認むる如く巧妙なる能はざるを悟りて思ひ止りぬ。然るに千古の奇傑、路の崛起[やぶちゃん注:「くつき」。俄かに事が起こること。多数の中から頭角を現わすこと。]するあり、宗敎改革を唱へて從來の弊風を打破し、天主敎を剪除[やぶちゃん注:「せんじよ」で、ここでは本質を見失った教会体制の腐った部分を綺麗に刈り取って除去することを指している。]する一代方便として、基督敎聖書を俗語もて(所謂新高獨逸語)飜譯したりしより、啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]聖書の趣旨を一般人民に知らしむるのみならず、自個固有の國語を一般人民の用語に確定するを得たり。蓋し十六世紀の最大著書にして、亦最大現象なりき。然れども文學的散文、韻文、戲曲に至ては他國摸倣の弊風、依然として去らず、當時英國の喜劇など頗る獨逸人の嗜好に適ひ、文學者の之を摸倣するもの甚だ多かりき。十七世紀の初葉、各國に文學會數多設立せられたるが、そがうち、シレシア文學會の創立者なる、マーテン、オビツツ氏は一千六百二十四年を以て、獨逸詩歌書を公にせしが、此趣味豐富なる詩歌集は、忽ち時人の嗜好に投じ、同六十九年迄には第九版を發兌[やぶちゃん注:「はつだ」。発行。]するに至れり。此著述は獨逸に於ける韻文改革の基礎となりて、續々異論を出し、極衰時代を警醒するもの多かりき。惜い哉、氏の改良は唯詩の結構に止り、其精神を改良するに及ばざりしかば、其理想猶他國詩人の餘唾[やぶちゃん注:「よだ」。]に過ぎざりき。飜て當時の散文を見れば、路惕の情熱未だ冷へざるに、或る學者の如きは、趣味の如何を問はずして獨逸的羅甸文を用ゐ、或る學者の如きは佛語、伊太利語、西班牙語[やぶちゃん注:「ポルトガルご」。]、を詞間に插入する風を爲し此際大學校に於ては、歷史、法律、理化學、工藝、其他の諸學の講義錄には羅甸語を用ゐ、卒業論文にもー切羅甸を應用して無趣味、粗雜なること洵に[やぶちゃん注:「まことに」。]甚しかりき。當時戲曲家アンドレアス、グリフヲスなる人あり、憂國の熱情を以て、種々の戲曲を草し、工に[やぶちゃん注:「たくみに」。]當時の弊風を戒めたり。殊に共著「ホルビリクリブリフアツクス」に於ては、軍人の粗野なる風俗を描き、當時の通弊たる國語の混淆を冷嘲せる樣、頗る興味あり乃ち劇中の一人物は學校敎師にして拙き羅甸語を話し、一人は獨逸羅甸混交語を話し、又一人は間違ひたる佛語を話し更に一人は猶太人にしてへブリウ語[やぶちゃん注:ヘブライ語。]と拙き獨逸語とを混淆せり。語學紛亂、國文支離滅裂の時代を活寫せるものと謂ふ可し。加ふるに此時代は獨逸語にも外國語にも誤謬多く、文體粗野にして虛飾に亙り、往々自負誇大の言を加へたるを以て最も厭ふ可しと爲す。要するに上下四百年の間は獨逸文學極衰の時代にして、當時の短哥、長歌、諷詩、通俗說敎文、民間滑稽文等は之を緊要なる歷史として見るを得へきも[やぶちゃん注:「へきも」はママ。]、文學上より觀察すれば、寧ろ斥くべきの現象なりとす。或は曰はむ「哲學神學に關する羅甸文の著作は、續々發兌して枚擧するに暇あらざる可く、學術上の名著述また少からず」と、然り洵に然り、然りと雖も斯る名著述は、國文學殊に韻文學上の進步には寸效なしといひて可なり。鳴呼、斯くもすさみたる荒蕪の田園、天長く之を放置する者ならむや、忽ち一大偉人を下して開墾拓植の任を與えぬ[やぶちゃん注:「與えぬ」はママ。]。

[やぶちゃん注:「ウツテン」宗教改革期にカトリック教会を激しく批判したドイツの思想家ウルリヒ・フォン・フッテン(Ulrich von Hutten 一四八八年~一五二三年)。ウィキの「ウルリヒ・フォン・フッテン」によれば、『現在のヘッセン州フルダ南西のシュテッケルベルク城(現在はシュリュヒテルン市に含まれる)生まれで、騎士身分であった。ドイツ・イタリアの大学で学んだ。ラテン語の詩を書き』、一五一七年には『神聖ローマ皇帝マクシミリアン』Ⅰ『世から桂冠詩人の称号を受け』ている。『ロイヒリン』(Johann Reuchlin:『ヘブライ語研究を行ったためカトリック教会から異端の疑いをかけられた)を擁護し、同志と』「Epistolae obscurorum virorum」(「無名人士の手紙」)『を著し』、そ『の中で聖職者の偽善、腐敗、貪欲さなどを辛辣に批判した』。『一時』、『ルターを支持』した。『また、フッテンの思想的影響を受け、反カトリック的な騎士階層がトリーア大司教領を攻撃した(トリーア大司教は選帝侯を兼ねていた)。しかし、カトリック支持の諸侯から反撃を受け』て『敗退(騎士戦争』:一五二二年~一五二三年)し、『チューリヒのツヴィングリのもとに逃れるが、まもなく病死した』とある。

「高獨逸語」ドイツ語の言語変種で高地ドイツ語(Hochdeutsch)のこと。「ドイツ語高地方言」とも呼ばれる。また、現在の「標準ドイツ語」のことを「高地ドイツ語」と呼ぶ場合もある。「新」はまずは新訳であろうが、所謂、当時の「現代口語」の意味での「新」でもある。]

「マーテン、オビツツ」ドイツの詩人マルティン・オーピッツ(Martin Opitz 一五九七年~一六三九年)。ハイデルベルク・ライデンなどで学び、『成果をもたらす協会』(Die Fruchtbringende Gesellschaft)の一員として「ドイツ語浄化運動」に参加、「アリスタルコス」(Aristarchus:一六一七年)を著わし,「シュレジエン詩派」の中心人物として、また、バロック文学の理論的指導者として同時代人に大きな影響を与えた。「ドイツ詩学の書」(Buch von der deutschen Poeterey:一六二四年)ではアクセントを重視し、フランス詩のアレクサンドランの移入を唱えた。ほかにソフォクレスの「アンチゴネ」の翻訳などもものしている。なお本文の「シレジア」と「シュレジエン」は同じで(Silesia:Schlesien)、中部ヨーロッパのオーデル川上・中流域の地方名。現在、大半はポーランド領(ポーランド名「シロンスク」)で、一部はチェコ領。中世以来、ボヘミア・ポーランドの勢力下にあったが、十二世紀以後、ドイツ人の入植が盛んになり、急速にドイツ化した。十六世紀からはボヘミアとともにオーストリアのハプスブルク家の支配下になったが、十八世紀の「オーストリア継承戦争」の際、プロシアのフリードリヒⅡ世が侵入して占拠し、プロシア領となった。十九世紀後半には商工業が発展してプロシアで最も富裕な地となっていた。以上は総て「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。

「路惕」これには惑わされた。これで「ルテル」と読む。かの「宗教改革」で知られる聖アウグスチノ修道会所属のマルティン・ルター(Martin Luther 一四八三年~一五四六年)の「ルター」の漢字表記であった。国立国会図書館デジタルコレクションの明治一四(一八八一)年刊の物的爾(ウエルテル)他著の珀爾倔訳・西村茂樹重訳になる「泰西史鑑」下編の巻之一の「第二 馬尓丁路惕(マルチニュスルテル)」を見よ。

「アンドレアス、グリフヲス」バロック期を代表するドイツの詩人で劇作家のアンドレーアス・グリューフィウス(Andreas Gryphius 一六一六年~一六六四年)。「三十年戦争」を背景として無常観・厭世観に基いた作品を残した。ここに出る「ホルビリクリブリフアツクス」はイタリアの即興劇に影響を受けた風刺喜劇で「ホリビリクリブリファックス・トイッチュ 愛人選び」(Horribilicribrifax Teutsch:一六四七年~一六五〇年)である。]

 

  其時代(承前)

 

 偉人とは誰ぞ、十八世紀初葉の文豪、レツシング是れ也。氏空前の大手腕を以て、空前の大事業を成功し、玆に摸倣的精神と、混淆的國語を改良して千古文運の基礎を定めたり。固よりフレデリツヒ大王の功績、オビツツ、ウルフ、ライプニツツ諸氏の遺叢など預て力ありと雖、そもそも亦氏の火眼的[やぶちゃん注:聞いたことがない熟語だ。「炯眼」の誤りか。]敏腕に因らずむば非ざる也。奇拔なる批評は氏の得意とする所にして、摸倣的著作家に對する問答の最も簡單なる比喩(氏は最も比喩に長ぜり)は左の如し。

[やぶちゃん注:「レツシング」ドイツの劇作家・批評家ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing 一七二九年~一七八一年)。フランス古典劇の亜流であった従来のドイツ演劇を否定し、ギリシア劇・シェークスピア劇の精神を採り入れることによって、近代的な市民劇の創始者となった。また、演劇の他、美学・神学の評論を通して啓蒙思想を説き、ドイツ市民文化の発展に貢献した。美学評論「ラオコーン」(Laokoon: 一七六六年)はよく知られる。

「フレデリツヒ大王」第三代プロイセン王フリードリヒⅡ世(Friedrich II 一七一二年~一七八六年)。ウィキの「フリードリヒ2世(プロイセン王)」によれば、『優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされる。また、フルート演奏をはじめとする芸術的才能の持ち主でもあり、ロココ的な宮廷人らしい万能ぶりを発揮した。フランス文化を知り尽くすなど』、『学問と芸術に明るく、哲学者のヴォルテールと親密に交際し、全』三十『巻にも及ぶ膨大な著作』『を著し』、「哲人王」『とも呼ばれ、功績を称えて』「フリードリヒ大王(Friedrich der Große)」と『尊称されている。哲学者イマヌエル・カントはフリードリヒの統治を「フリードリヒの世紀」と讃えた』とある。

「ウルフ」ドイツの哲学者で近世自然法論者のクリスティアン・ヴォルフ(Christian Wolff 一六七九年~一七五四年)であろう。ライプニッツからカントへの橋渡し的存在である。

「ライプニツツ」かの「モナド(単子論)」で知られるドイツの哲学者・数学者ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz 一六四六年~一七一六年)。

 なお、以下の引用は全体一字下げなので、ブラウザ上の不都合を考えて一行字数を減じた。]

 猿、狐に言へらく「余が摸倣し得べからざる

 動物は何か、あらば之れを列擧せよ」狐答ふ

 らく「世に汝に摸倣せんと欲する程輕蔑すべ

 き動物ありや、あらば之を列擧せよ」

痛快なりと謂ふべし、氏の刺戟はいみじう劇し[やぶちゃん注:「はげし」。]かりけむ。獨逸當時の文學界は忽ち亢奮し來りて、所謂文學崛起時代を形成しぬ。

 シヱークスピーヤに對する熱中、オシアン及北方神仙譚に對する狂熱、佛國的模倣は、急劇なる潮流によりて斥けられたり。敬虔のクロプストツクは雄壯劇烈なる國文により、人情、自由、愛國の觀念を謠ひ、溫雅なるウヰーランドはクロプストツクに反對して、優麗婉曲の文辭に因り、オブロン、アガトン、等の名作を出し、深酷なるヘルデルは高妙なる哲學的觀察を以て、神明、戀愛の妙諦を解析しぬ。是より先、ライプチヒ、ハルレ、ヱナ、ゲッチンゲン諸大學の學生間には多くの熱心なる國文獨立論者を出し、外國文學摸擬の弊風を一變して自國美文の發揚を計り、他國文學に對峙せしめむと勉めたり。該世々紀二十年の頃よりライプチヒの敎授ゴツトセツドとチユーリヒの敎授ボートメルとの間に爭論を生じ、甲は佛文學を尊び、乙は英文學を悅び、甲は詩を以て自然の直寫にして思想力の發表に外ならずとなし、ミルトンの失樂園を難じ、乙は之を駁して、詩は想像を主とするもの也と爲し、パラダイスロストを以て最上乘の傑作と定めたり。此論爭は彼のクロブストツクが勇士譚メツシアスの著述より、一層の熱を騰め[やぶちゃん注:「たかめ」。]來り、一時は辨駁の聲囂々たりき。ライプチヒ派にはゲルネルありて、其風韻滑稽人をして舞はしめ、其崇高森嚴人をして危然たらしめたり。ボートメル派にはグライム、ウツの諸氏あり、巧妙なる敍情詩を以て、互に對峙したり。後クロブストツクの之が判決を與ふるに至て、玆に初めて一段落をなし、同時に獨逸文學上一種の改新を與えたりき[やぶちゃん注:ママ。]。降て十八世紀の末葉より十九世紀初葉に於ては、千古の大文學者、大詩人なるゲーテの輩出するあり、敏活淸麗なるシルレルの起るあり。こゝに於てか獨逸文學は大成しぬ。

[やぶちゃん注:「オシアン」Ossian は三世紀頃、イギリスのスコットランド高地地方及びアイルランドに居住した古代ケルト人の英雄フィン(またはフィンガル)の子として生まれ、ターラの宮廷に仕えた勇者で、吟唱詩人として幾多の叙事詩をつくったとされる伝説的人物。十八世紀に至って、スコットランドの詩人マクファーソンが、オシアンの詩をゲール語から散文詩風に英訳したものと称して、「スコットランド高地地方で集めゲール語から訳した古代詩集の断章」(一七六〇年)・「フィンガル」(一七六二年)・「テモラ」(一七六三年)の三編を発表した。さらに好評に応え、一七六五年にこれらを「オシアン作品集」として二巻にまとめるに及び、古代ケルト世界の醸し出すその縹渺たるロマン的情調は、イギリスのみならず、ヨーロッパ各国語にも訳され、ワーズワースをはじめ、ゲーテ」ヘルダー・シラー・シャトーブリアンら、いわゆるロマン派の作家・詩人たちに大きな影響を与えた。しかし、発表当時から、その真偽に関して論議があり、マクファーソンによる偽作とする説もかなり有力であったが、むしろ今日では、「オシアン原作説」はともかく、古代ケルト人の間に語り継がれた英雄叙事的主題を元に、マクファーソン自身が英語・ゲール語両方に亙る知識を縦横に駆使して創作したものと考えられている。二十世紀に於いて、詩人イェーツは「アシーン」(Oisin)の名のもとに、アイルランド文芸復興のシンボルとして歌っている。以上は小学館「日本大百科全書」に拠った。

「クロプストツク」ドイツの詩人フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック(Friedrich Gottlieb Klopstock 一七二四年~一八〇三年)。当時支配的であった合理主義的な啓蒙文学に対抗して、敬虔主義に根ざした感情溢れる作品を書いた。特に一七四八年に有力雑誌『ブレーマー・バイトレーゲ』(Bremer Beiträgen:「ブレーメン寄与」)に叙事詩「救世主」(Der Messias:一七四八年~一七七三年)の一部を発表、フランス詩法を排し、ドイツ詩に新しい躍動的な推進力を与えて新境地を開いたものとして、後代の詩人にも多大の影響を与えた。また,抒情詩「チューリヒ湖」(Der Zürchersee:一七五〇年)・「春祭り」(Die Frühlingsfeier:一七五九年)などは青年層に熱狂的に迎えられた。彼は主に叙事詩によって有名になったが、その類い稀な才能が最もよく現れたのは抒情詩であり、また、頌歌も賛美歌に似た荘厳さでよく知られている。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った。

「ウヰーランド」ドイツの詩人・翻訳家・作家クリストフ・マルティン・ヴィーラント(Christoph Martin Wieland 一七三三年~一八一三年)。ゲーテやシラーなどと並ぶドイツ古典主義時代に於ける重要勝大きな影響力を持った啓蒙主義の一人。

「オブロン」ヴィーラントが一七八〇年に発表した彼の代表作の詩篇「オーベロン」(Oberon)。

「アガトン」ヴィーラントが一七六六年から一七六七年にかけて著わした代表作の物語「アーガトン物語」(Agathon)。

「ヘルデル」ドイツの哲学者・文学者・詩人・神学者ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(Johann Gottfried von Herder 一七四四年~一八〇三年)。カントの哲学などに触発され、若き日のゲーテや「シュトゥルム・ウント・ドラング」・ドイツ古典主義文学及びドイツロマン主義に多大な影響を残すなど、ドイツの文学と哲学の両面に影響を及ぼした人物。優れた言語論や歴史哲学、詩作を残した他、一世を風靡していたカントの超越論的観念論の哲学と対決し、歴史的・人間発生学的な見地から自身の哲学を展開して、カントの哲学とは違った面で二十世紀の哲学に影響を与えた人物としても知られている。ここはウィキの「ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー」に拠った。

「ハルレ」ハレ大学(Universität Halle)。ドイツ東部のハレ市にある大学。一六九四年、プロイセン王フリードリヒⅢ世により創設され、学問・思想の自由を大学の本質として重んじた。一八一七年、ウィッテンベルク大学と合併して「マルティン=ルター大学ハレ‐ウィッテンベルク」となった。「ハレ」は「ハルレ」とも音写表記する。

「ヱナ」イエナ大学。現在の「フリードリヒ・シラー大学イェーナ」(Friedrich-Schiller Universitt Jena)。ドイツ中央よりやや東側に位置する、チューリンゲン州の都市イエナにある。ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒにより一五四八年に設立されたアカデミーを創建起源とし、一五五八年、ドイツ皇帝から大学としての認可を得た。十八世紀末から十九世紀初頭にかけて最も栄え、哲学部を中心にシラーやヴィルヘルム・フンボルト、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、ゲーテらが教授陣として活躍した。

「ゴツトセツド」ドイツ啓蒙主義の文学者ヨハン・クリストフ・ゴットシェート(Johann Christoph Gottsched 一七〇〇年~一七六六年)。ウィキの「ヨハン・クリストフ・ゴットシェート」によれば、『ケーニヒスベルクに牧師の子として生まれ、ザクセンに移住して』一七三四『年からライプツィヒ大学で詩学・哲学の教授として、フランスの合理主義思想を鼓吹した。哲学ではゴットフリート・ライプニッツやクリスティアン・ヴォルフの系譜をひく。当時のバロック風の歪曲・誇張された傾向に対してドイツの演劇・文学・言語の革新を志した。ゴットシェートは「文学の革新は全ドイツの共同の栄誉を目標とすべきである」と考えていたが、当時のドイツ文学は取るに足らぬ伝統しかないために、フランスのピエール・コルネイユとジャン・ラシーヌや』、『詩学ではニコラ・ボアロー=デプレオーを〈良き趣味〉の手本として推奨した。劇場が正統派ルター派にとっては悪魔の説教壇であった時代で、演劇に関心を持ち、俳優の地位と演目内容の向上、さらに近代標準語の純化と普及に功績があった』。一七二七年から一七四〇年『頃の名声は非常に高かったが、チューリヒの大学教授でイギリスのミルトンを模範とすべきと主張するボードマー』(次注)『やブライティンガーと論争をし、それを境としてゴットシェートの名は学問を鼻にかける愚物の代名詞となり、軽蔑にさらされる』こととなった。

「ボートメル」スイスの文献学者ヨハン・ヤーコプ・ボードマー (Johann Jakob Bodmer 一六九八年~一七八三年)。ウィキの「ヨハン・ヤーコプ・ボードマー」によれば、『大学で神学を学び、商人の修業を経た後、スイスの歴史と政治の教授としてチューリヒのギムナジウムに勤める。彼の活動で重要なのものは、中高ドイツ語文学の再発見と、ホメロスおよびジョン・ミルトンの翻訳である。他方、彼が、ホーエンエムス城の図書館でニーベルンゲンの歌の写本Cを実際に発見したヤーコプ・ヘルマン・オーベライトから、その栄誉を奪ったことも知られる』。『ボードマーがドイツ語文学の歴史にはたした決定的な貢献は、彼が友人のヨーハン・ヤーコプ・ブライティンガーとともに、ドイツ語文学の「文壇の法王」だったヨハン・クリストフ・ゴットシェートに対して行った論争である。ボードマーは』一七四〇年の著書「ポエジーにおける不思議なものに関する批判的論考」(Critische Abhandlung von dem Wunderbaren in der Poesie)で『自分の文学理論の原則を表明している。彼は、ゴットシェートが推奨するフランスの手本に対し、ミルトンのイギリス感覚主義を好意的に扱い、そして古典崇拝に対して、中世を高く評価した。これによって彼はロマン主義に決定的な影響を与えることになった。ボードマー、ブライティンガー、ゴットシェートの間で繰り広げられた論争は、ある意味、フランスでの「新旧論争」のドイツ語版であった』とある。

「ミルトンの失樂園」イングランドの詩人で共和派の運動家であり、オリバー・クロムウェルを支持したジョン・ミルトン(John Milton 一六〇八年~一六七四)が一六六七年に発表した「旧約聖書」の「創世記」をテーマとした壮大な初期近代英語の叙事詩「Paradise Lost」。

「勇士譚メツシアス」ウィキの「フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック」によれば、クロプシュトックがまだイエナ大学の神学生だった頃、そこで最初の「救世主」(Messias)の最初の三つの歌を散文で作成、一七四六年にライプツィヒに移った後の一七四八年、「救世主」の三つの歌が出版された。『ドイツ文学の新しい時代』が始まるとともに、『著者の名前はすぐに知られるようになった。ライプツィヒで彼はたくさんの頌を書い』ている。一七四八年に『大学を離れて、ランゲンザルツァで親戚の家族の家庭教師になった』が、『従姉妹への報われぬ恋が彼の平安をかき乱した』。それもあって、一七五〇年、『「失楽園」の訳者ボードマーから、チューリッヒへの誘いを受け』て移り、『ここで、クロプシュトックは最初』は『あらゆる親切と尊敬をもって扱われ、かれの精神は急速に回復した。しかしながらボードマーは、救世主の作者の若い詩人が、強くこの世に関心を持つ男であることを知って失望し』、二『人の友情には亀裂が走った』。『この危機の時に、デンマーク王フレデリク』Ⅴ『世から』『大臣の推薦によって、「救世主」の完成を見込んで』、『コペンハーゲンに年俸』四百『ターラーで定住するという誘いを受け、彼はその提案を受けた。クロプシュトックがコペンハーゲンへ向かう途中、ハンブルクでマルガリータ・モラーに出会った』。一七五四『年に彼の妻になるマルガリータは、彼の詩の熱狂的な崇拝者だった。彼の幸せは短く、彼女は』一七五八『年に死去し』てしまう。『彼女を失った彼の嘆きは、「救世主」の』十五『曲目の悲しみの表現に見られる』という。『詩人は妻の著作集を出版し』、『それらは、優しさと感受性と深い宗教的精神の証拠を与え』たものの、『クロプシュトックは悲観主義に陥り、アイデアは失われ、詩は一層あいまいに不明瞭になった』とある。

「ゲルネル」不詳。

「グライム」後にドイツ啓蒙主義の代表者となる詩人で作家のヨハン・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・グライム(Johann Wilhelm Ludwig Gleim 一七一九年~一八〇三年)。

「ウツ」不詳。

「シルレル」ゲーテと並ぶドイツ古典主義(Weimarer Klassik)の代表者で詩人・歴史学者・劇作家・思想家であったヨハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller 一七五九年~一八〇五年)。]

 獨逸文學は此の如くにして其獨立を得、進で[やぶちゃん注:ママ。]他國を凌駕したり、加ふるに文運の進步と共に他國の名著述は悉く輸入せられ、此輸入文學は盡く獨逸魂に同化せられて、文學の上にあらわれぬ。ウヰーランドはホレースの手簡文、及び諷詩、ルシアンの全著作、シセルの手簡文、アリストフアンスの喜劇等を飜譯し、又シヱークスピーヤの戲曲類をも巧に譯述したり。シユレーゲルは希臘羅馬歌史を著し、羅甸民族の文學、並にシヱークスピーヤの著述を紹介し、フォスは希臘の古文ホメルを獨譯しぬ。

[やぶちゃん注:「ホレース」古代ローマ時代の南イタリアの詩人ホラティウス(Horatius紀元前六五年~紀元前八年)のことであろう。彼の書簡詩「詩について」(Ars poetica)はアリストテレスの「詩学」と並んで、古典主義詩論に於いて重要視された。

「ルシアン」ギリシャ語で執筆したシリア人風刺作家ルキアノス(Lucianos/英語:Lucian of Samosata 一二〇年乃至一二五年頃~一八〇年以後)。

「シセル」共和政ローマ末期の政治家で文筆家・哲学者のマルクス・トゥッリウス・キケロ(Marcus Tullius Cicero 紀元前一〇六年~紀元前四三年)。

「アリストフアンス」古代ギリシャの喜劇詩人アリストファネス(Aristophanēs 紀元前四四五頃~紀元前三八五頃)。

「フォス」ドイツの詩人・翻訳家ヨハン・ハインリッヒ・フォス(Johann Heinrich Voß 一七五一年~一八二六年)。ウィキの「ヨハン・ハインリッヒ・フォス」によれば、祖父は農奴。『ノイブランデンブルクのギムナジウムに就学の後、一七七二年に学費を家庭教師をして稼ぎながら』、『ゲッティンゲン大学に通い、言語学を学ぶ。「詩人年鑑」り発行に携わり、それで多少の収入を得た。彼の周囲に若い詩人が集まり、それが』「ゲッチンガー・ハイン同盟」となった。「ハイン」(神苑)は、『ギリシアのパルナス山にちなんで名付けられた。ドイツの詩神の憩う場所の意味をもたせたものである』。『ホメーロスの作品を初め』、『ギリシャ・ローマの古典文学をドイツ語に多く翻訳したことで知られる』とある。

「希臘の古文ホメル」「ホメル」は古代ギリシャの紀元前八世紀末のアオイドス(吟遊詩人)であったとされるホメロス(Homerus/英語:Homer)のことであろう。フォスは彼の長編叙事詩「オデュッセイア」(Odyssea:訳一七八一年刊)と「イーリアス」(Ilias:訳一七九三年刊)を始めとして、ギリシャ・ローマの古典文学をドイツ語に多く翻訳したことで知られる。]

 この間に崛起したる詩人こそウーランドなれ。

 此時に當り、歐羅巴各國には一大變動を湧起し來り、政治上由々敷時代とは成りぬ。佛蘭西の天地慘憺たる光景を極め、路易十六世は廢黜せられて死刑に處せられ[やぶちゃん注:「路易」は「ルイ」と読む。Louis XVI(一七五四年~一七九三年)のこと。「廢黜」は「はいちゆつ(はいちゅつ)」で罷免の意。「フランス革命」に於いて「革命広場」(現在の「コンコルド広場」)でギロチンによって斬首刑にされた。]、昔日の榮華一夢に歸し。盟合黨派紛々として亂麻の如く、暴徒四方に起り、物情騷然、人心恟々[やぶちゃん注:「きようきよう」。恐れ慄くさま。]、一日の安きなく、殘忍酷剝[やぶちゃん注:「こくはく」。「刻剥」と同じで、「人を虐(しいた)げ痛めつけること・厳しく惨(むご)いこと」の意であろう。]、英澳[やぶちゃん注:「えいあう(えいおう)」でイギリスと「澳太利亞(オーストリア」。]諸國はしきりに佛國を窺ふの際、天の一角忽ちにして偉人生み、攻むれば取り、戰へば勝ち、連戰連捷、歐州の大半は、悉く彼が兵馬に蹂躪せられぬ。埃及の遠征、議院の解散、施政長、伊太利征討よりして、一躍帝位に昇り、威權赫々、名聲中外に轟き、ナボレヲンを知らざるなきに至れり。獨逸も亦此大怪物の侵略する所と成り、千八百八年バヽリヤ王、ユルテンベルヒ王並に其他の諸侯同盟して、獨逸帝の配下を脫し、ナポレヲンを奉して盟主と爲し、所謂ライン同盟を物しぬ。蓋し是れより先[やぶちゃん注:「さき」。読点が欲しい。]澳帝フランシス一世佛軍に抗する能はざるを知り、自ら屈してナポレヲンの帷幕に來り、和を乞ひ成を行ひ、二萬平方里の地を與えむ[やぶちゃん注:ママ。]ことを約す、ナポレヲン之を許し、バヽリヤ、ユルテンベルヒの二侯に送るに王號を以てしたるもの大に力ありしや論なし。外既に此の如し、獨逸の命運は將に旦夕に迫らむとするに當り、恰も國内騷擾の起るあり、プロイス、オストライヒの鬪爭連年連歲結んで解けず、獨逸國の瓦解は將に其極度に達するに至れり。憂國の士慨世の人は數多起りて此落日の勢を挽囘せんと欲し、愛國の詩人は、祖國歌、飛檄、刀劍詠を歌ひて國民の元氣を振興せんと計れり。ケルネル、アルント、シエンケンドルフ等の諸氏則ち是れ也。蓋し當時獨逸士人の士氣を挽囘し、斃て[やぶちゃん注:「たふれて」。]後止むの決心を誘導し得たる者、是等憂國詩人の賜物なりと謂はざる可からず、既にして佛國衰頽し、威權赫々、旭日を凌ぎたる當年の野心帝も絕海孤島裏一片の煙となりしより、國民の感情は獨逸帝國の合一を望めども、普澳兩國心の覬覦[やぶちゃん注:「きゆ」と読む。身分不相応なことを窺い狙うこと。非望を企てること。]は獨逸帝國の霸權を爭ひ、未だ全く合一をなすに至らず。

 この間に成長したる詩人こそウーランドなれ。

[やぶちゃん注:「バヽリヤ王」ババリア(Bavaria)はドイツ南部のバイエルン(Bayern)地方の英語名。ここは最後のバイエルン選帝侯(在位:一七九九年~一八〇五年)及び初代バイエルン王(在位:一八〇六年~一八二五年)であったマクシミリアンⅠ世(Maximilian I 一七五六年~一八二五年)。

「ユルテンベルヒ王」ドイツ南部のヴュルテンベルク王国(Königreich Württemberg)初代国王(在位:一八〇五年~一八一六年)フリードリヒⅠ世(Friedrich I 一七五四年~一八一六年)。

「ライン同盟」(ドイツ語:Rheinbund/フランス語:Confédération du Rhin)一八〇六年七月にフランス皇帝ナポレオンⅠ世の圧力により、神聖ローマ帝国内の全ドイツ諸侯が名目だけ存続していた帝国を離脱し、フランス帝国と同盟成立したナポレオンを盟主とした国家連合。一八一三年に起きた「ライプツィヒの戦い」でのナポレオンの敗退とともに解体した。

「澳帝フランシス一世」神聖ローマ帝国最後のローマ皇帝(在位:一七九二年~一八〇六年)で最初のオーストリア皇帝としてフランツⅠ世(Franz I 在位一八〇四年~一八三五年)を名乗ったフランツⅡ世(Franz II 一七六八年~一八三五年)。

「アルント」ドイツの愛国詩人で歴史家のエルンスト・アルント(Ernst Moritz Arndt 一七六九年~一八六〇年)。後にフランクフルト国民議会の議員となった。

「シエンケンドルフ」ドイツの愛国詩人マックス・フォン・シェンケンドルフ(Max von Schenkendorf 一七八三年~一八一七年)。ケーニヒスベルク大学に学び、プロシアの参事官となったが、「ナポレオン戦争」に参加するうち、歌曲を創るようになった。決闘によって片腕をなくしていたが、「解放戦争」に参加し、戦後はコブレンツの事務官となった。軍隊と民衆に愛唱された愛国詩「母国語」「自由」などで知られる。]

 

   其 詩

 

 此の如くにしてルードゥイヒ、ウーランドは一方に於ては文學崛起時代に生れ、一方に於ては國運多難の期運に會しぬ。彼の精密なる古詩の硏究は、全く文學崛起時代に一生面[やぶちゃん注:「いち(つ)せいめん」。新しい工夫。新生面。新機軸。]を開きたるものにして、其採究したる中古の言語、文學、小說、傳記は悉く溢れて詩想の上に表はれぬ。蓋し中古の末葉、十七世紀の末葉に至る、上下四百年間、文學極衰の原因は、全く語學を等閑視したるや明かなり。隨て中古の言語、文學、小說、傳記など誰一人硏察して、後世に傳へたるものなく、殊に興味深き言語の如きは全く放擲せられて、瓦礫中に埋沒せられたれば折角の美玉も見る人なしに埋れぬ。ウーランドが畢世の事業として、中古文學硏究に從事したるは洵に悅ぶ可し、換言すれば彼は非常なる國語尊崇家にして、同時に非常なる外國語排斥者なりき。故に彼は一代の責任義務として、寧ろ嗜好餘樂として、全く暗黑中に葬られたる中古の國語硏究に從事しぬ。漢文極盛時代の我國文學が現今に傳らざるもの多きが如く、一時半獨逸、半外國、と成りし獨逸語の、之を遡上りて、檢索する甚だ困難の事業なり。然りと雖文人の一大急務は自國の古文學を發揚するに在り、徒に煙滅埋沒せしむるは抑も亦不忠の行爲と爲さゞるを得ず、獨逸中古の文學は一種の趣味を有するものにして、其末葉こそ奇矯、摸倣の弊に流れたれ、ホーヘンストーフヱン朝の文學(自一千百五十七年至一千二百五十四年)の如き見るべきもの少からず、ニベランゲンリー、ガドランの如き良著作と謂ふ可し、此二作は當時の史詩にして、重に想像を以て成れり。一は勇壯なる戰爭談にして其敍事能く實況を穿ちたり。一は優雅なる史詩にして、戀愛、誠實、貞操、忍耐の分子を以て成立せり。加ふるに當時の稗史は武俠的事實に富み、其傑作パージヴアル及びツリスタン二書の如き兩々其理想文章に於て反するとは云へ、各自特得の長處あるは爭ふ可からず、十四世紀に於ける樂詩亦佳なりとす、要するに中古の文學は勿論進步せざる文學にして多少の短處ありしとはいへ、獨逸文學の一異彩として保存する價値は十分なり。況んや作家の技倆次第如何樣に嶄新に應用せらるゝに於てをや。何の點より論ずるもウーランドの硏究は賞讚せざる可からざる也。

[やぶちゃん注:「ホーヘンストーフヱン朝」ホーエンシュタウフェン(Hohenstaufen)朝は正確には一一三八年から一二〇八年、一二一五年から一二五四年までドイツ国王(皇帝)の地位を占めた中世ドイツの王朝。

「ニベランゲンリー」中高地ドイツ語で書かれた叙事詩「ニーベルンゲンの歌」(Das Nibelungenlied)のこと。英雄で龍殺しのジークフリートの非業の死と、ジークフリートの妻のクリームヒルトの復讐劇を描く。現在、「ニーベルンゲンの歌」は、他の詩篇などとの関わりから一二〇〇年から一二〇五年頃に成立したと考えられているとウィキの「ニーベルンゲンの歌」にあるから、伊良子清白が上記の時期を指定したのは正しい。

「ガドラン」不詳。

「パージヴアル」専ら、中世スペインを舞台とした聖杯伝説を巡るワグナーの楽劇「パルジファル」(Parsifal)で知られるが、これは中世の叙事詩に基づいて、ワグナー自身が再構築して台本をものした。その原型のこと。

「ツリスタン」トリスタン(英語:Tristan)は、中世宮廷詩人たちが広く語り伝えた恋愛物語で騎士トリスタンと主君マルク王妃イゾルデ(Isolde)の悲恋を描く「トリスタンとイゾルデ」や、は中世の騎士道物語「アーサー王物語」などに登場する伝説の人物。ウィキの「トリスタン」によれば、『アーサー王伝説においては「円卓の騎士」の一人となっている』が、『もともと』はトリスタン伝承は全く別の伝説であったものが、後代、『アーサー王物語に』『組み込まれた』ものである。『「トリスタン」という名前がピクト』(Picts:ローマ帝国支配下の頃にカレドニアと呼ばれていたスコットランド地方に居住していたコーカソイド種族)『系であり、またトリスタンの父親の名前もピクト系であることから』、『トリスタンの起源はピクト人の伝承にあるのではないかと思われている。そして、この物語がコーンウォールを経て、ブルターニュへ、そして西洋の各地に移ったと見られる』。『フランス語での名称はトリスタン』、『ドイツ語ではトリスタン』乃至『トリストラント』『とされる』とあるが、同ドイツ語ウィキの標題は「Drystan fab Tallwch」となっている。]

 ウーランドは國家多難、兵馬悾愡の間に成長しゝかば、其軍勢、戰爭に接する每に憂國の熱情は養成せられ、加ふるに彼が天性なる熱心を以てしゝかば、益慷慨の念止み難く、其詩に現はるゝ處多く慷慨の語氣を含みぬ。猶一層彼をして感奮せしめたるは友人ケルネルなりき。ケルネルは前述の如く慷慨悲歌の士にして、刀劍詠、祖國歌などに熱中しゝかばウーランドの同情を動す事多く、自然に感化せられて彼は全然愛國詩人と成りぬ。彼が生國なるユルテンベルヒは仇敵たるナボポレヲンと合一して、獨逸帝國に背きしかば、感憤愈措く能はず、其硏究したる古語を以て巧に國家的觀念を歌ひぬ。其材とする所悉く中古の勇士譚にして、其間彼が天性なる滑稽を含みしかば、時人爭ふて愛讀し、其益する所隨て大なりき。

 惟ふに人逆境に處せされば其言肺腑より出でず。逆境に處るの人初めて眞摯の語あり。國運旦夕に迫り、落旦孤城、極めて逆運に會するの時に非らざれば鬱勃たる國民の聲を聞く能はず當時獨逸の天地最大逆境に望み、十數ケ國の人民、神[やぶちゃん注:「しん」。精神・神経。]昂り氣激し、血燃え情熱し、抑へむと欲するも抑ゆる[やぶちゃん注:ママ。]能はず、鬱勃たる熱情、溢れて鮮血となりぬ。ウーランド一代の才識を、枝の筆に托し、切齒淚を奮て絕叫しぬ。語らむと欲して語る能はず、告げむと欲して告ぐる能はず、鬱然、勃然忽ち破裂して詩と成る所、眞情眞詩、極めて時人を感動せしめ、深く人心の根底に愛國公共の心を植し、南獨逸に帝國合一の氣運を盛ならしめたり。世彼を稱して愛國詩人といふ全く此に存す。

 ウーランドの特色は其詩材を中古の勇士譚に限りたると、語調多く古雅にして質朴なりし事と、趣向は平易にして文字極めて解し易き事と、合せて三つの點に在り。彼が好んで中古の事實に熱中したりし結果は、正しくかゝる勇士讚を推鼓せしめたるに相違なかるべきも、彼の詩材を此に取りしものそもそも亦理由無くむば非らず、蓋中古は獨逸がカルヽ家に統一せられて、豪雄輩出、國運隆盛の時代なり。是れ正しくウーランドがこの山櫻匂ふ如き極盛時代を謠詠して、當時四分五裂せる、獨逸國民の腦裏より、中古統一の獨逸帝國を銘じ國民公共團結の氣風を養成せしめんとしたる所以なり。太平記の軍話は如何に維新志士の心膽に貫徹せられたるよ、八犬傳の忠君愛國主義はいかに幕府末期の民心を沸騰せしめたるよ。吾人はレツシングが比喩的眼孔を知らざるに非らず、クロプストツクが深酷なる同情を知らざるに非らず、ウヰーランドが優雅なる筆致を賞せざるに非らず、ゲーテのフヲスト[やぶちゃん注:「ファウスト」(Faust)。]が絕世の妙作なるを贊せざるに非らず、シルレルがウヰルヘルムテルの愛國談として好談柄なるを知らざるに非らず、しかも猶、十八世紀末葉の文豪として、ゆるすに愛國詩人を以てするもの豈に他あらむや。彼か結構字句の末を解脫して、遠く着眼を精神理想の上に及ぼし、愛國の熱血を漑ぎて[やぶちゃん注:「そそぎて」。]、一字一淚、從て詩と成るもの、遠く他人の企て及ふ[やぶちゃん注:ママ。]所に非らざれば也。古昔蘇東坡評して曰く、古人詩人多し、而れども唯杜子美を以て首と爲す者[やぶちゃん注:「は」。]、豈に其飢寒流落して、而して一日も未だ嘗て國を忘れざるの故に非らずやと。近世の詩家梁川星巖氏、志士の盟主と成り、慷慨の餘、文詩を綴賎して其滿腔の熱血を吐露したるもの、彼等は皆、詩を以て時を傷み、亂[やぶちゃん注:「みだれ」。]を念ふの要具となしたる也。ウーランドの如きは實に獨逸の杜子美、梁巖と謂ふ可し。古聖の世道人心を稗益[やぶちゃん注:「ひえき」。助けや役に立つこと。]するの語、此に於てか全し。一言すればウーランドの詩は氣を以て勝りたるもの也。ウーランド去つて既に三十年、其名聲今に至て衰へず、國民擧てウーランド祭に熱中する者、彼が詩の感化なるを知るに足らむ。

[やぶちゃん注:「梁川星巖」(やながわせいがん 寛政元(一七八九)年~安政五(一八五八)年)は江戸時代後期の漢詩人。名は卯後に孟緯、通称は新十郎、「星巖」は号。美濃国生れ。古賀精里・山本北山に学び、初め、宋詩を学んだ後、唐詩に開眼し、広く元・明・清諸家の精を探り、律・絶を得意とした。妻の紅蘭と、足かけ五年に及んで西遊し、各地の名士と交わり、天保三(一八三二)年、江戸に「玉池吟社」を開いた。後、京で勤王の志士と交わり、「尊王攘夷」を唱えたことで知られる。]

 ウーランドの特色として古語を用ゐたるもの、亦大に理由の存するものあり。飜りて、近世古學の勃興に連れて、加茂、本居諸大家の崛起するあり、其著書、其歌謠が如何に、王政復古を誘導したるを知らば、思ひ半ばに過ぐるものあらむ。ウーランドは奇巧をてらはむが爲に、博識を誇らむが爲に極めて解し難き、古語を混へたるに非ざる也。其古語――其聯感はいみじうめでたき結果を賦與すべきを豫期したれば也、彼の「盾持ちローランド」中に於て一二の例を引けば、Wald をFaun、Die Waffe を Das Waffen、Hell を Degen Rauntt Kwunt、最と最と多なり。格調の何處となく質朴を覺ゆるは、彼が元來の特長にして、到底他人の企て及ふ[やぶちゃん注:ママ。]可からざるの妙處を有す。

[やぶちゃん注:「Wald をFaun」前者は「森」で、後者は「牧神」であるが、こちらのドイツ語「ウィキソース」の原詩では後者は使用していない。どうもリンク先は古語が現代ドイツ語に書き変えられているようだ。

「Die Waffe を Das Waffen」孰れも「武器」の意。伊良子清白の示したものは孰れも定冠詞であるが、こちらの原詩で使用されているのは不定冠詞を附けた「Ein Waffen」(一箇所のみ)である。

「Hell を Degen Rauntt Kwunt」「Hell」は「明るい」の意で、こちらの原詩では「Degen」は一度使われているが、これは「剣」の意だし、「Rauntt」「Kwunt」(孰れも意味不明)に至っては一字も見えない。]

 彼が三特長の外、一個の愛矯として等閑に附す可からざるものあり。そは無邪氣なる詼謔[やぶちゃん注:「諧謔」に同じい。]なり。Siegfried Schwert[やぶちゃん注:「ジークフリートの剣」。]にてジーゲフリードが小童にして太刀を鑄造する、König Karls Meerfahrt[やぶちゃん注:ウーラントの一八一五年の詩篇。「カール王の航海」か。原詩はこちら(ドイツ語「ウィキソース」以下同じ)。]にて諸勇士が陸上に死する時の勇氣にも似ず風波を恐れて進むこと得ざるが如き、可憐なる詼謔、趣味豐富なりと謂ふ可し。「盾持ちローランド」に於ても十分滑稽の分子を含むは諸君の知り給ふ所なるべし。彼の詩が美詞麗文の修飾あるに非ず、幽遠玄妙の哲理あるに非ず、對句比喩の巧妙あるに非らず、然かも讀み去り讀み來りて、念慮轉た[やぶちゃん注:「うたた」。]爽快、手にして放つ能はざるもの、其純朴にして滑稽の趣味に富みたれば也。

 敍情詩のゲーテと並稱せられたることは小傳中に略述しぬ

 Schaers Sonntagslied, Lied eines Armenrs, Des Knaben Berglied, Das Schloß am Meere の如き皆良好の作なり。

[やぶちゃん注:「Schaers Sonntagslied」既出既注の「Schäfers Sonntagslied」。

「Lied eines Armenrs」一八一五年作の「Lied eines Armen」(「貧しい人の歌」)。原詩はこちら

「Des Knaben Berglied」同年の「少年の山の歌」。原詩はこちら。後の「山童歌」もこれであろう。

「Das Schloß am Meere」同年の「海の上の城」。原詩はこちら。]

 Roland Schildtrager の如きは敍事詩中の勇壯なるものなり。艷麗なる者に至りては Die Kapelle, Fruhlingsglaube を推し奔放雄健なるは山童歌に及ぶものなし。

[やぶちゃん注:「Die Kapelle」既出既注。

「Fruhlingsglaube」一八一三年作。「春の信仰」。原詩はこちら。]

 ウーランドは可笑[やぶちゃん注:「をかし」と訓じておく。]の妙味のみを加へしと雖も、亦悲痛慘憺の文字と森嚴崇高の格調を有せざるに非らず。其著 Bertran de Born の如き實に悲痛の極致にして、ベルトランが勃々たる非望心を匿藏し、加ふるに其美妙なる魔力の音樂を以てし、王子王女を誘拐して父王に反せしめ、以て其大望を全ふせむと欲せしかども、事志と違ひ、王子は軍中にべルトランが腕に因りて沒し、殘卒は悉く牢獄につながれ、我が半身の力能く王を破らむと揚言したるベルトランも、今は全身の力其鐵縛を解く能はず、空しく淚をのんで、面縛[やぶちゃん注:「めんばく」。両手を後ろ手にして縛って顔を前に突き出させて晒すこと。後に読点が欲しい。]王の前に立てるの狀。讀者をして思はず扼腕せしむ。に至りては其敍事の森嚴にして崇高なる、ウーランド作中、稀に見る所なり。高樓天に聳へ[やぶちゃん注:ママ。]、玉欄山を壓す、滿園の春花硏を爭ひ、階上の侍臣羅星に似たり。暴王喫然この間に坐すたちまち聽く、洋々奏樂の聲、梁上の塵爲めに舞ひ、花間の黃鶴敢て囀[やぶちゃん注:「てん」と音で読みたい。]せず、一言なく一語なく、寂々寞々唯天上の妙音響くのみ、伶人父子胡弓を取りて一偶に坐す、父歌へば子和し、子歌へは[やぶちゃん注:ママ。]父和す、靈音靜鏦として殿堂に滿ち、寶珠亂墮して玉盤碎く、聽く者情に耐へず、流涕潛然[やぶちゃん注:「さめざめ」と訓ずる場合もあるが、文脈上、それは甚だ脆弱である。「せんぜん」と読んでおく。伏し隠すさま。]、肉血振動、后妃感動措く能はず、乍ち胸間の紅薔薇を取て伶人に按ず、暴王怒號、若伶人を殺す。老樂手大聲呪詛すれば、殿堂折け[やぶちゃん注:「くだけ」と読んでおく。]、花苑荒れ、曠野茫々、一の求むるなし。此詩全篇十六章又傑作と爲す可し。

[やぶちゃん注:「可笑」「をかし」と訓じておく。

「Bertran de Born」は「泉のベルトラン」か。原詩は「Balladen.de」のこちら

「喫然」意味不明。独りどっしりと構えるさまの「屹然」の誤りではないか?

「靜鏦」意味不明。「さうさう」と読んでおく。それは「鏦」は音「ショウ・シュ」では「鉾」・「刺す・突く」・「鐘や鼓を打つ」、或いは音「サウ(ソウ)」では「鏦鏦」「鏦錚(サウサウ)」で「金属が鳴る音の形容」だからである。しかし、こんな熟語はない。伊良子清白は金属製の打楽器の音を「鏦錚」とするところを誤って書いたか、植字工の誤植か。

「潛然」「さめざめ」と訓ずる場合もあるが、文脈上、それは如何にも脆弱で採れない。「せんぜん」と読んでおく。伏し隠すさまである。]

 ウーランド戲曲を草せざるに非らず。Ernst, Herzog von Schwaben, Ludwig der Baier 等は彼の作也。然れども舞臺の配付、臺詞の調合等彼の短處なりき。    (完)

[やぶちゃん注:「Ernst, Herzog von Schwaben」(「エルンスト・シュヴァーベン公」)で一つの題名。一八一五から一八一七年にかけて書かれた作。

「Ludwig der Baier」(「バイエルのルートビヒ」)一八一九年作。幸い、以上の二作については、武田昭氏の論文「ウーラントの二つの戯曲」(PDF)で梗概と解説批評が読める。それによれば、この二篇だけが完成作で、他に二十四もの未完成戯曲があるとある。]

2019/06/29

盾持ちローランド (伊良子暉造(伊良子清白)によるヨハン・ルートビヒ・ウーラントの訳詩)

[やぶちゃん注:以下、底本の「未収録詩篇」の伊良子清白による翻訳詩パート。二篇あるが、孰れもドイツ後期ロマン主義のシュワーベン詩派(Schwbische Dichterkreis)の代表的詩人であるヨハン・ルートビヒ・ウーラント(Johann Ludwig Uhland 一七八七年~一八六二年:生地チュービンゲン大学で法律を修め、パリに遊学、専攻の法学よりも、フランスやドイツの中世文学に傾倒した。弁護士を経て、自由民権の闘士として、州議会やフランクフルト国民議会の代議士となって活躍する一方、詩作と文学の研究をも続け、その学殖を認められて、一時、出身大学でドイツ文学の員外教授となった。ドイツ統一の夢が破れると、ドイツの中世文学や民謡の研究に専念した。その素朴な叙情詩は自然と郷土への親愛感に溢れ、洗練された格調で、人々に共通の心情や体験を詠じた。伝説や史実に拠る叙事的物語詩が特に優れ、「若きジークフリート」「良き戦友」「居酒屋の娘」などは好んで朗読され、歌曲としても愛唱されている。民謡収集・研究の成果である「ドイツ古民謡集」(一八四四年~一八四五年)は詳しい論考・注釈附きの最初の学問的ドイツ民謡集であり、ドイツの伝説や文学史の論著とともに、今なお高く評価されている。ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)のものである。既に先に昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に再録所収された「七騎落」(ウーラントの詩篇による翻案詩)及びウーラントの詩篇に基づく「少女の死を悼みて」「墓場をいでて」(次に出す総標題「野菊」四篇中の最後の二篇をそれぞれ独立させたもの)と、明白にウーラントの訳詩である「森を穿ちて」「ひばり」「狩人のうた」は電子化している。

 本作「盾持ちローランド」は全三十連から成る長詩で、明治二八(一八九五)年の五月・六月・七月発行の『もしほ草紙』(第一号・第二号・第三号)に「上・中・下」に分割して発表したものである。署名は孰れも本名の「伊良子暉造」である。当時、清白は未だ満十七歳(十月四日生まれ)、この四月に京都医学校に入学したばかりであった。『もしほ草紙』第三号には訳詩完結に合わせてかなりの量の原作者についての評論「ウーラント」も載せており、これは本篇を味読する上で有意に価値があると思われるので、次回、全文を電子化する。

本作の原題は最後に伊良子清白が注記している通り、原題は「Roland Schildträger」(カタカナ音写「ローラント・シルト-トレーガァ」で「盾持ちのローラント」。一八一五年刊)で原詩はドイツ語版ウィキソースのこちらにある。中世フランスの伝説の名騎士ローラン(フランス語:Roland(ローラン)/イタリア語:Orlando(オルランド)):中世ルネサンス期の文学作品に於いて「シャルルマーニュの聖騎士((Paladin:パラディン:高位の騎士称号)」(Charlemagne はフランク王国国王・西ローマ皇帝のカール大帝(七四二年~八一四年)のフランスでの呼称)の筆頭として登場する人物で、シャルルマーニュの甥に当たるとされる。イタリア・フランスの武勲詩の中でもその勇猛果敢な活躍が描かれ、十二世紀始めに成立した「ローランの歌」でとみに知られる。詳しくはウィキの「ローラン(シャルルマーニュ伝説)」「ローランの歌」を参照されたい)の少年時代の武勇伝を扱った非常な長篇叙事詩である。世界史に冥い私には、とてものことに注を附けきれないので、表記上の不審箇所以外は略すこととした。悪しからず。]

 

 

盾持ちローランド

 

 

   其一

 

御階の柳うち靡き、

春面白さアーヘンの、

宮居に來鳴く鶯は、

君が千年や祝ふらむ。

菫の花をむしろにて、

雲雀の聲を歌として、

ゆたけき御代の酒うたげ、

御門カルヽは國々の、

たけき武夫召し集へ、

たのしく遊び給ひけり。

 

   其二

 

御心たけき大君の、

集へる人にの給く、

「白金黃金あや錦、

千々の寶も何かせむ。

森陰くらきアルデネル、

光まばゆき天津日の、

てれるが如く照り渡る、

くしく妙なる玉こそは、

世に類なきたからなれ、

その寶こそその森の、

深き巖間にひそみたる、

巨人の手には隱れたれ。

あはれ雄々しき武夫は、

かくも妙なる寶玉を、

尋ねに行くは誰やらむ。」

 

   其三

 

せ丈の高きバイヱルン、

走るに奔きハイモンや、

弓矢に長けしトルビン侯。

くち鬚しげきガリン伯、

相撲につよきリカルドや、

槍に名を得しミロンなど、

いくさのなきを嘆きたる、

つよく雄々しき武夫の、

鎧をかたに駒に鞍、

巨人の方に向はむと、

ねがはぬ者はなかりけり。


   其四

ミロンの子なるローランド、

二葉の松の霜ゆきも、

知らぬ年にてありながら、

父の袂をひきとめて、

言葉をゝしくいひけるは、

「名譽(ほまれ)も玉も積みそえて、

錦着飾る父上の、

今霄の夢ぞ思はるゝ。

あはれ父上願くは、

おのがたのみを容れ給へ、

年幼くてなかなかに、

森の巨人にむかはむは、

かよわき力のおよばじと、

思ひ給へど父上は、

今日の門出の初陣に、

いとめざましく戰はむ、

槍と盾とをたのみにて、

力を添えむ父上に。」

 

   其五

 

あがきそろえて武夫の、

六人はやがて門出しぬ。

彌生の空のうらゝかに、

吹き來る風も長閑にて、

霞の中にほのぼのと、

一きはしるきアルデネル、

森のすがたも見ゆるなり。

駒も早めて武夫の、

かたみに先をきそひつゝ、

越方遠くなるまゝに、

木立も近く見え初めて、

苔の細道はるばると、

旅の行衞ををしへけり。

嵐をたえて姬小松、

かはらぬ綠行末の、

千世をしめたるローランド、

盾と槍とを右左、

こをどりしてぞ勇みける。

 

   其六

 

朝日の上るあしたにも、

夕月てらすゆふべにも、

たゆまずうまず武夫は、

巖間の寶尋ねけり。

蓬茂れる尾上にも、

落葉かさなる谷間にも、

巖のかげも草叢も、

人のすがたはなかりけり。

春の長日をかりくらし、

一夜の友は草枕、

結びもあへず明けて行く、

曉衣くりかへし、

尋ねあぐみて疲れけむ、

さすがに剛きミロンさへ、

日影をさふる柏樹の、

木の下かげにねぶりけり。

 

   其七

 

折しもあれや遠近の、

木の葉の數も見ゆるまで、

光りまばゆく照り渡り、

木の間を走る小男鹿の、

うは毛のつゆも見ゆるなり。

御空の雲はさながらに、

錦を織りしごとくにて、

谷の小川にうつりては、

黃金の浪をくだくなり。

奇しき光はいやましに、

光まばゆくなりにけり。

心雄々しきローランド、

さとき眼のいち早く、

山のそば路下りくる、

怪しきかげを見とめけり。

 

   其八

 

幼心にローランド、

心靜かに思ふやう、

「あはれ奇しき光かな。

この光こそやがてかの、

世に類なき寶なれ。

さまし奉らんか父上を、

いかにかせまし父上を、

いなわが父はねふるとも、

刀も盾もさめてあり。

駒もねぶらでつなぎたり。

槍もち添えてわれ行かむ。

われも眠りて醒めたれば。」

 

   其九

 

心雄々しく定めたる、

年いとけなき武夫は、

父の燒太刀腰に帶き、

槍を左に盾を右手、

ひたすら父をさまさじと、

駒のあがきもゆるやかに、

森の木の間をあゆませぬ。

手綱をとりてとめくれば、

松の木立の疎らにて、

落つる雫もおのづから、

黃金を散らすごとくなり。

谷の小川の岨みちを、

つたひつたひて行く程に、

光はいよゝ近きて、

巨人の姿あらはれぬ。

大音聲にローランド、

名のりをあげて呼ひけり。

[やぶちゃん注:「近きて」「ちがづきて」であろう。]

 

   其十

 

いはの峽間につきしとき、

巨人はひくき聲音にて、

いと冷やかに笑ひけり。

笑ひながらもいへるよう、

「峯の砂路にこぼれたる、

藤の木の實のたねよりも、

なほさゝやけき童べ子の、

なにをせむとてなれはかく、

深山路遠くきたるらむ。

なれの騎りたる駒を見よ、

木の間にすくふさゝがにの、

とわたるさまにことならず。

なれの帶びたる太刀を見よ、

秋野の末のかまきりか、

斧をふるふにさも似たり。

笹にもたぐふ其やりと、

紙よりうすきその盾と、

何をせんとて汝はかく、

深山路深く來るらむ、

あかるき中に歸り行け、

道しるべせむなれの爲め。」

 

   其十一

 

「深山路ふかく尋ね入る、

年いとけなきローランド、

いづこをさして歸るべき。

みちしるべこそなかなかに、

汝にこそせめ汝の爲め、

笑ふをやめていざや來よ。

父の傳へしこの槍の、

斬味見せむ今日こそは、

いざやよみ路の道しるべ、

太刀は硏ぎたり燒太刀は、

駒は勇めりあら駒は、

あら面白の今日の日や、

來れや來れ疾(と)く早く。」

 

   其十二

 

巨人の姿見てあれば、

怒りの眼血にあへて、

逆立つ髮のふり亂れ、

こぶしかためし其樣は、

鬼の長(をさ)にもにたりけり。

折しも空のかきくれて、

あやめもわかぬ木下闇、

折々まじる稻妻の、

はためくさまも物凄し。

星かと見ゆる寶玉の、

きらめく方をめあてにて、

槍をすごきてなげ付けぬ。

なげつと思ふひまもなく、

あやしの盾はさかしまに、

飛び來るやりをはねつけぬ。

 

   其十三

 

さとく雄々しきローランド、

手早く太刀をぬき放ち、

盾とたからをこゝろにて、

巨人のすきをうかがびぬ。

さらぬもくらき木下蔭。

嵐の音もそはりきて、

春ともわかぬ物すごさ。

聲をたよりにかけ合す、

太刀の稻妻ひらめきて、

またゝくひまもあらばこそ、

あなやとさけぶ一擊に、

血汐の瀧の沸きあがり、

いはほの上におちつらむ、

あやしき物のびゞきして、

巨人のうではたゝれけり。

 

   其十四

 

たゝれしうでと諸共に、

盾も寶もちりうせて、

怪しく奇(く)しき光さへ、

いつしか分かずなりにけり。

嵐のおとの靜まりて、

村雲遠く立ち別れ、

うらゝに晴るゝ禰生空、

なくなる鳥の聲そえて、

谷の小川の音淸し。

たえなる盾と寶玉は、

巖の上にすてられぬ。

あやしき迄にいたみけむ、

流るゝ血汐にたえかねて、

霜野にすだく蟲の聲、

巨人のいきはたえにけり。

 

   其十五

 

せわしきいきの絕間なく、

年いとけなき武夫は、

うす紅いろの面ばせに、

えならぬ笑みをうかべつゝ、

いくたびとなく行きかへり、

こおどりしては謠ひつゝ、

さては刀をふりかざし、

巨人の髮を手握りて、

右にひだりに前うしろ、

硏ぎたるまゝにこゝかしこ、

太刀にまかせて斬りつけぬ。

血汐のながれみなぎりて、

谷の小川をそめてけり。

[やぶちゃん注:「こおどり」はママ。]

 

   其十六

 

あやしき盾にかくれたる、

妙なる玉をしつかにも、

右のかくしにかくし入れ、

出しては入れつまた出しつ、

まばゆき光をよろこびぬ。

小川の岸を折れ下り、

裳裾の血汐うちそゝぎ、

かわきしのどをうるほしつ、

心もきよくなりぬれば、

太刀をさや帶き盾をもち、

ゆん手に槍をかいこみて、

駒のあがきもゆるやかに、

森の木の間をかへりきぬ。

柏の木蔭すゞしくて、

うまいの夢のさめやらず、

ミロンはなほも眠りけり。

さすがにたけき童子も、

いとゞいぐさにつかれけむ、

父のかたへを小床にて、

やがて夢路をたどりけり。

[やぶちゃん注:「しつかにも」はママ。「しっかりと」の意であろう。]

 

   其十七

 

柏の廣葉のうちそよぎ、

夕風淸く吹き初めて、

ほのめきいづる三日月の、

細きひかりもあはれなり。

おつる雫に夢さめて、

草の小床をおきはなれ、

森かげ遠くながむれば、

夕といへる手弱女は、

御空靜かに下りつゝ、

薄墨いろの衣手は、

こなたかなたに廣ごりて、

行くべき方も見えわかず、

いぬるわが子をよびさまし、

「はや日も暮れぬ月くらし、

いは間のたから尋ねむは、

今宵をおきていつかある。」

ミロンはをゝしくよばひけり。

[やぶちゃん注:「夕といへる手弱女は」は「ゆふべと言へる手弱女(たをやめ)」で、「『夕(ゆう)べ』という『手弱女(たおやめ)』」、夜を女性に擬人化したもの。]

 

   其十八

 

さゞめく川をたよりにて、

くらき木の間のつゞら折、

右にひだりに行き曲り、

しげる蓬をふみ分て、

二人は遠くたどり來ぬ。

流るゝ星の影見えて、

木立まれなる細みちを、

つたひつたひて來る程に、

月のひかりは暗けれど、

さやかにそれと見とめけり、

あけにそみたる岩が根に、

巨人のからはたふれたり。

 

   其十九

 

年いとけなきローランド、

あたりの樣をながめつゝ、

いともあやしく思ひけり。

巨人の左手は影もなく、

あやしき盾も散りうせて、

よろひも太刀もなかりけり、

針の黑髮たにぎりて、

うちにうちたるかうべさへ、

ありし姿のあともなく、

形見に殘るものとては、

あけにそみたるからなれば。

 

   其二十

 

「深山のおくの森かげに、

杣やま人の切りすてし、

其切株のひろさにて、

幹のすがたぞ思はるゝ。

いふにもまさるこのからは、

森の巨人の名殘なり。

あはれしばしのうたゝ寐に、

名譽も玉もうしなひぬ。

末のうき世の末かけて、

悲しきことのきはみなり。」

ミロンは空をうちあふぎ、

泪に袖をしぼりけり。

 

   其二十一

 

百鳥千鳥囀へつりて、

霞長閑けきアーヘンの、

春の宮居のうつくしさ、

玉の高殿まばゆくて、

天津都を見るばかり。

御門カルヽは白金の、

欄干ちかくたゞずみて、

彼方を遠く眺めつゝ、

「きのふも今日も歸らぬは、

いかにあへなく成りつらむ。

世に武夫のいさましく、

猛夫の中のかの六人、

いづこをさしてたどるらむ。

あなや彼處にきらめくは、

走るに奔きハイモンの、

槍の穗先にあらざるか。」

[やぶちゃん注:「囀へつりて」はママ。]

 

   其二十二

 

しぼれし面わ何となく、

うきをふくめるさま見えて、

駒の手綱も力なく、

御門のまゑを伏し拜み、

血にまみれたる生かうべ、

槍の穗先に貫きぬ。

「たどるも暗き森中に、

眩ゆき玉はあさり得で、

よしなきものゝ生かうべ、

捧くることの耻かしや、

さはさりながらこれもまた、

森の巨人の名殘なり。

これに代えてもいかでわが、

重きつみをもゆるしませ。」

[やぶちゃん注:「まゑ」はママ。「生かうべ」は「なまかうべ」で「生首」のことであろう。「され(しやれ)かうべ」では骨になってしまうから「血にまみれたる」に齟齬する。]

 

   其二十三

 

たけにもあまる手束弓、

張りしまゝにて荒駒の、

あがきをいたく疾めつゝ。

弓矢をほこるトルビンの、

血汐したゝる黑金の、

巨人の右手をさし出し、

先きにはめたる手袋を、

笑ひながらに外づしつゝ。

「しばし御門も見給へよ、

いみじき形見にはべらずや、

世に二つなきこの重荷、

駒のつかれも思はずて、

こゝまで運び候ひぬ。」

 

   其二十四

 

雲をしのぐとたゞゆべき、

高き背丈にくらべては、

類まれなるバイヱルン、

巨人の棒をうちふりて。

御門の方をなかめつゝ、

「土產を見給へこの土產を、

きらめきわたるこの土產は、

おのが丈にもくらぶべき、

長くするどき黑金よ、

寶は得ずていたづらに、

汗とつかれをになひ來ぬ。

うま酒一つたまはれよ、

それこそおのが寶なれ。」

[やぶちゃん注:「たゞゆ」はママ。「讚(稱・頌)(たた)ゆ」(但し、だったら「たたふ」が正しい)であろう。]

 

   其二十五

 

流石に駒もつかれけむ。

徒步のまゝにてリカルドは、

轡をとりてあゆみつゝ、

相撲につよき右の手に、

巨人の太刀を携えつ、

かぶとを腰に結び付け、

御門の方にさしよりぬ。

「森の中にて尋ねなば、

なほ物の具は多からむ。

探らまほしく思ひしも、

いとゞ重荷にかなはずて、

兜と太刀をあさりきぬ。」

[やぶちゃん注:「携え」はママ。]

 

   其二十六

 

くち鬚多きガリン伯、

うれしき事やあるならむ。

遠き方より聲あげて、

巨人の盾をうちふりぬ。

「ガリンは盾をさしあげぬ。

やがて寶もあるならむ。

うれしき聲にとめ來るは、

はやもほまれも歌ふらむ。」

御門カルヽはのたまひぬ。

「あはれ話をきゝ給へ、

岩のそばにてゆくりなく、

おのれは盾を拾ひ來ぬ。

玉はいづこと尋ねしも、

すでに剝がれて候ひき。」

ガリンはやがて答へけり。

 

   其二十七

 

いと勇ましく立出し、

門出の夢はいつしかに、

さめてはかなきアルデネル、

森の木陰のうたゝねに、

名譽も玉も失ひて、

鎧の袖もいとゞ猶、

包みかねたるうき思ひ、

ミロンは首をかたむけつ、

物思はしげなる面もちに、

くもりがちなる眼さしは、

かなしき數をこむるらむ。

父にはかへてローランド、

いと笑ましげにほゝえみつ、

鋭き槍はひだり手に、

盾は右手にたづさえぬ。

 

   其二十八

 

宮居に近く成りしとき、

御門カルヽはうれしげに、

ミロンの方を見給ひぬ。

はぢらふ父は後にして、

心をゝしきローランド、

盾にえりたるくさぐさの、

黃金の飾り剝き去りつ、

かくしの中にひそみたる、

寶をそれに代へければ、

妙なる玉はたちまちに、

朝日の光放ちけり。

 

   其二十九

 

ミロンの盾にさやかなる、

玉のひかりをながめつゝ、

御門カルヽはうれしげに、

手をさしあげてのたまはく、

「あはれミロンあはれミロン、

ミロンのためにことほがむ、

槍に長けたるミロンこそ、

森の巨人とたゝかひて、

血汐の果のいさをしに、

寶を得たる猛夫なれ。

あはれミロンあはれミロン、

ミロンのためにことほがむ。

今日のいさをの名譽には、

なれこそやがてかしらなれ。」

 

   其三十

 

まばゆき玉の面影に、

ミロンはいたくあやしみぬ。

「つばらに語れローランド、

いづこの誰にその玉を、

なにの緣に貰ひたる。

類まれなるその玉を、

いかなる人の携えし。」

「父君父君ゆるしませ、

今は語らむ神かけて、

君がうまいのそのひまに、

われは巨人をたふしたり。」

[やぶちゃん注:「携え」はママ。

 以下、伊良子清白の注は底本では全体が本文で一字下げで、ポイントも小さい。]

本詩は獨乙詩人ヨハン、ルードゥイッヒ、ウーランドの作也。原詩 Roland Schildtrager といふ。氏最も滑稽に長じ、其詠ずるところ、多くは中古の勇士譚にあり。本詩も亦その一なり。予今や之を譯す、意を一篇の趣向にとりて、敢へて字句章段の上に及ぼさず。蓋し直譯的文字却て原詩の眞面目を失すれば也。譯詩多く拙劣の文字、一意の條をたまはば幸甚。

2019/06/28

題詩 / (毛布小林)に寄す / (毛布小林)を送る   伊良子清白

 

[やぶちゃん注:以下の三篇は昭和一九(一九四四)年六月五日刊の小林政治著「毛布五十年」という私家版の書籍に載る伊良子清白名義の詩篇である。「題詩」の「躍てゐた」はママ。しかし……かの珠玉の詩集「孔雀船」の詩人の最後の詩篇がこの戦意高揚詩染みたものであったというのは……如何にも淋しい…………

 小林政治(明治一〇(一八七七)年~昭和三一(一九五六)年)ペン・ネームを天眠と称した元小説家で、伊良子清白と同じ『青年文』『文庫』『明星』『よしあし草』といった文芸誌の常連であったが、早くに創作活動から離れ、毛布商人として成功した。与謝野鉄幹とは終生の盟友であったという。日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」によれば、十五歳で大阪へ奉公に出、二十二歳で毛布問屋を開業後、「大阪変圧器」を設立するなど、実業家として活動、その傍ら「小林天眠」のペンネームで小説を書き、明治二九(一八九六)年に『少年文集』に小説「難破船」を発表、翌年には「浪華青年文学会」を結成して『よしあし草』創刊に協力。『よしあし草』『関西文学』『新小説』『万朝報』などに小説を書いた。また与謝野寛・晶子夫妻の後援者(パトロン)として、晶子に「源氏物語」の全釈をさせるなどし、文人らの物質的援助をしたとあった。

 この年、伊良子清白は満六十七。なお、本篇を以って底本の創作詩篇のパートは終わっている。則ち、生前に公表された詩篇としては、これが現在知られる最後のものとなる。

 伊良子清白は依然として鳥羽小浜で開業医を続けていたが、この翌昭和二十年七月、三重県度会郡七保(ななほ)村大字打見(うちみ)(現在の三重県度会郡大紀町(たいきちょう)打見(グーグル・マップ・データ))へ疎開し、村医として七保村診療所を営んだ。敗戦後の昭和二一(一九四六)年一月十日、七保櫃井原(ひついばら)に於いて、急患の往診途上、脳溢血を起こして倒れ、逝去した。村民はこぞってその死を悼み、十二日、村葬により、「諦翁観山居士」として打見の墓所に葬られた(以上は底本全集年譜に拠った)。満六十八歳と三ヶ月の生涯であった。

 

 

題 詩

 

三代功業の千生瓢簞が

輝くあなたの老後を飾る

あの沸きかへるやうな心齋橋筋の人波に

小林商店の看板は躍てゐた

 

船場の町の發祥地の毛埃は

走り步きの前垂の紐にたまり

たゝかふ上方商人の意欲が

大阪經濟界の側面史を描いた

 

大東亞の島陸山谷都市港灣

「毛布五十年」の展望は賑はふ

「小林產業株式合社」の發足を

次の縹緲の世界が謳ふであらう

 

 

(毛布小林)に寄す

 

   

飛行機獻(さゝげ)る

百機、千機、萬機

一億(おく)國民の赤誠(せきせい)が

今日(けふ)の今日(けふ)から

米英擊滅(げきめつ)の焰(ほのほ)となり

大東亞建設(けんせつ)の底力(そこぢから)となる

新(あたら)しい血

新(あたら)しい肉

美(うつく)しい獻(さゝ)げもの

淸(きよ)い飛行機

光る愛國飛行機を

限りなくたてまつる

   

飛行機獻(さゝげ)る

百機、千機、萬機

陛下の赤子(せきし)が

陛下(へいか)にたてまつる獻げもの

こんなうれしいことが

 世界の何處(どこ)にあるか

こんな有難(ありがた)いことが世界(せかい)の

 どこの國にあるか

百姓、商人、工員、

勤め人、家妻(いへづま)

老(お)いも若きも男も女も

手に手に

まごころの獻(さゝ)げ物いたす

日本は强い

   

飛行機獻る

わが友小林政治君は

かしこみて「毛布小林」を

 たてまつる

光る愛國飛行機を獻る

今日(けふ)の今日(けふ)から

皇軍(みいくさ)のため、國のため

「毛布小林」は强い

輝(かゞや)く翼(つばさ)

轟(とゞろ)く爆音(ばくおん)

新(あたら)しい雲

新しい風(かぜ)

陛下(へいか)の飛行機「毛布小林」は征(ゆ)く

貴い姿

たのもしい形容(かたち)

全身感激(かんげき)に滿(み)ちて

意氣に燃(も)えて

「毛布小林」は征(ゆ)く

 

 

(毛布小林)を送る


   

ほざく月產一萬機

何んの蚊蜻蛉輪破れ笠

手まひまいらぬ荒料理

今に日本の底力

思ひしらせる時が來る

   

勇士は睨む空の雲

前にうしろに蹴散らかす

凄い一機が體當り

送れ飛行機前線に

一億決死の意氣込(いきごみ)で

   

不二の朝雲今朝(けさ)晴れて

光る愛國新鋭機

「毛布小林」魁けて

爆音高し轟々と

征(ゆ)くよ戰線まつしぐら

   

遠いヒマラヤ印度洋

ガダルカナルやアッツ島

恨を晴らす太平洋

東亞の曙來(く)るまでは

「毛布小林」たのんだぞ

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(47) 「光月の輪」(2) / 山島民譚集~完遂

 

《訓読》

 【竈】更ニ今一タビ馬蹄ト竃トノ因緣ヲ說クべシ。馬ノ前蹄ノ上ニ兩空處アリ名ヅケテ竃門(ソウモン)ト謂フ。凡ソ善ク走ルノ馬、前蹄ノ痕地ニ印スルトキニ、後蹄ノ痕反リテ其先ニ在リ。故ニ軍中ニ良馬ヲ稱シテ跨竈トハ云フナリ〔一話一言所引獅山掌錄〕。兩空ト云フコト自分ニハ解セザレドモ、馬ノ足跡ノ三邊著クシテ中空洞ナルハ誠ニ竃ノ形トヨク似タリ。之ニ由リテ猶想像スレバ、馬醫等ガ馬ノ蹄ヲ磨ギシ岩ヲ靈地トシテ尊崇スルヤ、其形狀ノ如何ニモ家々ノ竃ト似タルヨリ、竃ノ神ト馬ノ神トハ同一又ハ深キ關係アリト信ズルニ至リシニハ非ザルカ。若シ然リトスレバ、後年新ニ馬ノ爲ノ手術場ヲ選定スルニ、亦力メテ地形ノ竃ニ似タル處ヲ求メ、或ハ廣敞ノ地ナラバ圓ク之ヲ劃シテ其三方ヲ圍ヒ、恐クハ南ノ一方ヨリ馬ヲ曳キ入ルヽコトヽナセシナラン。【ソウゼン場】越後南蒲原地方ニテハ馬ノ蹄ヲ切ル爲ニハ特定ノ用地アリ、之ヲ名ヅケテ「ソウゼン場」ト云フ〔外山且正君談〕。【勝善神】「ソウゼン」ハ即チ前章ニ述べタル蒼前神又ハ勝善神ニテ、今モ猿屋ノ徒ガ祀ル神ナリ。關東地方ノ村々ニモ、山野ノ片端ニ此種ノ一地區ヲ構フルモノ多ケレドモ、普通ニ之ヲ何ト呼ブカヲ知ラズ。信州小田井ノ光月ノ輪ハ、中仙道ノ通衢ニ近クシテ夙ニ其奇ヲ說ク者多シ。所傳既ニ失ハルト雖亦一箇ノ蒼前場ナルニ似タリ。今ノ北佐久郡御代田村ト岩村田町ノ境ハ以前ハ原野ナリ。往來ヨリ些シ脇ニ、一町バカリ眞丸ニ幅二尺ホドノ道輪ノ如クニ附キタリ。大勢ノ足ヲ以テ蹈ミ附ケタルガ如シ。輪ノ内外ハ夏草ナドノビヤカニ生ヒ茂リタルニ、道トオボシキ處ノミ草悉ク偃シタリ。之ヲ光月輪ト稱ス。俗談ニ所ノ氏神夜每ニ馬ヲ責メタマフ處ナリ、折トシテ轡ノ音ナド聞ユト云ヘリ〔本朝俗諺志一〕。此說ハ諸書若干ノ異同アリ。或ハ輪ノ中ノ草夏ニ入レバ枯ルト云ヒ〔和訓栞〕、或ハ草全ク生ゼズ雪モ亦此中ニハ積ラズ、【權現】木幡山ノ權現夜ハ出デテ此地ニ遊ビタマフト云ヒ〔和漢三才圖會〕、或ハ雪ノトキ輪ノ處ノミ低ク見ユト云ヒ、其附近別ニ一輪アリテ馬ヲ其中ニ乘リ入ルレバ必ズ死ストテ人之ヲ怖シガルト稱ス〔百卷本鹽尻二十五〕。輪ノ大サ及ビ數ニ就キテモ區區ノ說アリ、而モ今ハ既ニ跡ヲ留メザルガ如キナリ。【カウゲ】光月ノ輪ノ「クワウゲツ」ハ芝原ヲ「カヾ」又ハ「カウゲ」ト呼ブ古語ヨリ出デ、之ニ月ノ輪ヲ思ヒ寄セシモノナルべキモ、何ガ故ニカヽル地貌ヲ呈スルニ至リシカハ之ヲ解說スル能ハズ。近年東京ノ近郊ニ數多起リタル競馬場、賭事ノ禁令ヲ勵行スルニ及ビテバタバタト廢業シ、其址多クハ大正ノ新月ノ輪トナリタル例アレド、山上ノ農鳥又ハ農牛ヲ見テモ明ラカナル如ク、前代傳フル所ノ者ハ皆天然ノ一現象ナルべシ。甲州南都留郡盛里村ト北都留郡大原村トノ境ノ山ニ、賴朝公ノ大根畝(ウネ)ト呼ブ處アリ。頂ヨリ麓マデ數峯起伏シテ畝ノ如シ。其間ニ草ノ圓ク枯ルヽ所數所アリ。徑四五尺遠望スレバ環ノ如シ。【螺】其下ニ螺ノ潛メル爲此ノ如シト云フ。巖ノ上ニ天狗松アリ、之ヲ伐レバ災アリ〔甲斐國志三十六〕。同國北巨摩郡多麻村小倉ノ上ニ赭山アリ。黑キ岩斑ヲ爲スニヨリ名ヅケテ斑山(マダラヤマ)ト云フ。地中ニ螺ヲ棲マシムルガ故ニ草木ヲ生ゼズト傳ヘタリ〔同上二十九〕。同郡淸哲村靑木組ノ太日向山ニハ、山ノ草ノ圓形ニシテ黑ク見ユル處二所アリ。【山癬】之ヲ山癬(ヤマタムシ)ト云フ。圓形ノ大キサハ四十步バカリ、近ヅケバ見エズ、遠ク望メバ瞭然タリト云フ〔同上三十〕。今モアリヤ否ヤヲ知ラズ。「ホラ」ト云フ動物ガ地中ニ住ムト云フハ甚ダ當ニナラヌ話ナリ。法螺ト云フハモト樂器ナレド、之ヲ製スべキ貝ヲモ亦「ホラ」ト呼ビ、山崩レヲ洞拔ケナドヽ云フヨリ、ソレヲ此貝ノ仕業ト思フニ至リシナリ。此ノ如キ思想ハ疑モ無ク蟄蟲ヨリ起リシナランガ、大鯰白田螺ノ類ノ元來水底ニ在ルべキ物、地中ニ入リテ住ムト云ヒシ例少ナカラズ。備前赤磐郡周匝(スサイ)村ノ山ニハ、山腹ニ之ニ似タル圓形ノ地アリテ、一町或ハ二町ノ間夏ニ入レバ草枯ル。【蛇食】土人之ヲ蛇食(ジヤバミ)ト名ヅケ其地蛇毒アリテ此ノ如シト云ヘリ〔結毦錄[やぶちゃん注:底本では「結耗錄」であるが、これは誤字或いは誤植で、「結毦錄」(「けつじろく」と読む)が正しいので、特異的に訂した。]〕。土佐ニ於テ土佐郡秦村大字秦泉寺ノ中ニ、一所圓クシテ草ノ生ゼザル所アリ。【地下ノ寶】土人之ヲ解說シテ凡ソ土中ニ金銀アレバ草生ゼザルナリト云ヘリ〔土佐海續編〕。此等ノ土地ハ古今共ニ必ズシモ馬ノ祭場トシテハ用ヰラレズ。唯其外觀ノ如何ニモ顯著ナルガ故ニ、苟クモ駒形信仰ノ行ハルヽ地方ニ於テハ、終ニ之ヲ輕々ニ看過スル能ハザリシナルべシ。加賀ノ白山ノ上ニハ花畠平ト云フ地アリ。【サヘノカハラ】其一部ヲ「サヘノカハラ」ト云ヒ、其北ヲ角力場ト云フ。八九尺ノ間圓形ニシテ自然ニ角力場ヲ爲セリ〔白山遊覽圖記二〕。出羽ノ莊内ノ金峯山ノ峯續キニ鎧峯アリテ、山中ニ天狗ノ相撲取場ト云フ禿アリ。常ニ綺麗ニシテ草木ヲ生ゼズ〔三郡雜記下〕。陸中ノ大迫(オハザマ)ノ山ニ於テ龍ガ馬場ト云ヒシハ恐クハ之ト似タル處ナルべシ。【鏡】薩摩薩摩郡東水引村大字五代ノ鏡野ト云フハ、神代ニ天孫八咫鏡[やぶちゃん注:ここも底本は「八呎鏡」であるが、流石に誤植と断じて特異的に訂した。]ヲ齋キ祀リタマフ處ト稱ス。此原野ノ内ニ周圍一町バカリ、正圓ニシテ草ノ色他處ニ異ナル一區アリ。四季共ニ茂リテ霜雪ニモ枯レズ。又年々ノ例トシテ此野ヲ燒クニ、圓キ處ノミハ燒ケズト云ヒ、邑人常ニ之ヲ尊ビテ牛馬ヲ放チ繫グコト無シ〔三國名勝圖會〕。【池ケ原】美作勝田郡高取村大字池ケ原ノ月ノ輪ト云フ地モ、平地ニシテ狀況ヨク小田井ノ光月輪ト似タリ。往古ヨリ不淨アレバ牛馬損ズト言傳ヘテ、牛馬ニ草モ飼ハズ、永荒(エイアレ)減免ノ取扱ヒヲ受クル荒地ナリ〔東作誌〕。往來筋ニ接近シテ人ヨク之ヲ知ル。【月】時トシテ月影澤一面ニ見ユルコトアリト云ヘバ低濕ノ地ナルガ如ク、村ノ名ヲ池ケ原ト呼ブニ由ツテ案ズレバ、以前ノ池ノ漸ク水アセタルモノカ。東京ノ西郊ナドニハ、所謂井ノ頭ノ泉涸レテ、羅馬ノ劇場ノ如キ形ヲシテ殘レルモノ處々ニ在リ。信濃美作ノ月ノ輪モ亦此類ナリトスレバ、草ノ生長、霜雪ノ消エ積ル有樣、自然ニ他ト異ナルモノアリト云フモ怪シムニ足ラザルノミナラズ、之ヨリ推及ボシテ更ニ第二ノ奇跡、【ダイダラボウシ】「ダイダラボウシ」ノ足跡ヲモ解釋シ得ルノ見込ミアルナリ。

 

《訓読》

 【竈(かまど)】更に、今一たび、馬蹄と竃との因緣を說くべし。馬の前蹄の上に兩空處あり、名づけて竃門(そうもん)と謂ふ。凡そ善く走るの馬、前蹄の痕、地に印するときに、後蹄の痕、反(そ)りて其の先に在り。故に軍中に良馬を稱して「跨竈(こそう)」とは云ふなり〔「一話一言」所引「獅山掌錄」〕。兩空と云ふこと、自分には解せざれども、馬の足跡の三邊、著(しる)くして[やぶちゃん注:非常にくっきりとしていて、しかも。]、中、空洞なるは、誠に竃の形と、よく似たり。之れに由りて、猶ほ想像すれば、馬醫等が馬の蹄を磨(と)ぎし岩を靈地として尊崇するや、其の形狀の、如何にも家々の竃と似たるより、「竃の神」と「馬の神」とは同一、又は、深き關係ありと信ずるに至りしには非ざるか。若し然りとすれば、後年、新たに馬ノ爲めの手術場を選定するに、亦、力(つと)めて、地形の竃に似たる處を求め、或いは廣敞(くわうしやう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「こうしょう」で「高くて広々としているさま」の意。]の地ならば、圓(まろ)く之れを劃(かく)して、其の三方を圍(かこ)ひ、恐らくは南の一方より馬を曳き入るゝことゝなせしならん。【そうぜん場】越後南蒲原地方にては、馬の蹄を切る爲には特定の用地、あり。之れを名づけて「そうぜん場」と云ふ〔外山且正君談〕。【勝善神】「そうぜん」は、即ち、前章に述べたる「蒼前神(さうぜんしん)」又は「勝善神(しやうぜんしん)」にて、今も猿屋の徒が祀る神なり。關東地方の村々にも、山野の片端に此の種の一地區を構ふるもの、多けれども、普通に之れを何と呼ぶかを、知らず。信州小田井の「光月(くわうげつ)の輪」は、中仙道の通衢(つうく)[やぶちゃん注:四方に通じた交通の便の良い道路。往来の多い街道。]に近くして、夙(つと)に其の奇を說く者、多し。所傳、既に失はると雖も、亦、一箇の「蒼前場」なるに似たり。今の北佐久郡御代田村と岩村田町の境は以前は原野なり。往來より些(すこ)し脇に一町ばかり[やぶちゃん注:約百九メートル]、眞丸(まんまる)に、幅二尺ほどの道、輪のごとくに附きたり。大勢の足を以つて蹈み附けたるがごとし。輪の内外は夏草などのびやかに生ひ茂りたるに、道とおぼしき處のみ、草、悉く偃(ふ)したり[やぶちゃん注:「伏されてある・倒されている」の意。うっひゃあぁつっ! ミステリー・サークルそのものじゃんか!! 面白れええぞ!。之れを「光月輪(くわうげつのわ)」と稱す。俗談に、『所の氏神、夜每に、馬を責めたまふ處なり。折りとして、轡(くつわ)の音など聞ゆ』と云へり〔「本朝俗諺志」一〕。此の說は諸書、若干の異同あり。或いは、『輪の中の草、夏に入れば、枯るる』と云ひ〔「和訓栞」(わくんのしほり)〕、或いは、『草、全く生ぜず、雪も亦、此の中には積らず。【權現】木幡山(こばたやま)の權現、夜は出でて、此の地に遊びたまふ』と云ひ〔「和漢三才圖會」〕、或いは、『雪のとき、輪の處のみ、低く見ゆ』と云ひ、『其の附近、別に一輪ありて、馬を其の中に乘り入るれば、必ず死すとて、人、之れを怖ろしがる』と稱す〔百卷本「鹽尻」二十五〕。輪の大きさ及び數に就きても、區區の說あり、而も今は既に跡を留めざるがごときなり。【かうげ】「光月の輪」の「くわうげつ」は、芝原を「かゞ」又は「かうげ」と呼ぶ、古語より出で、之れに「月の輪」を思ひ寄せしものなるべきも、何が故にかゝる地貌(ちぼう)を呈するに至りしかは、之れを解說する能はず。近年、東京の近郊に數多(あまた)起こりたる競馬場、賭け事の禁令を勵行するに及びて、ばたばたと廢業し、其の址、多くは、大正の新「月の輪」となりたる例あれど、山上の「農鳥(のうとり)」又は「農牛(のううし)」[やぶちゃん注:『甲州南都留郡盛里村と北都留郡大原村との境の山に、「賴朝公の大根畝(うね)」と呼ぶ處あり。頂きより麓まで、數峯、起伏して畝のごとし。其の間に草の圓く枯るゝ所、數所あり。徑(わた)り四、五尺、遠望すれば、環のごとし。【螺】其の下に「螺(ほら)」の潛(ひそ)める爲め、此くのごとし、と云ふ。巖(いわほ)の上に天狗松あり、之れを伐れば、災ひあり〔「甲斐國志」三十六〕。同國北巨摩郡多麻村小倉(こごい/こごえ[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版全集は「こごい」と振るが、歴史的仮名遣でこれで正しいかどうかは不明。なお、現在の住所表示では「こごえ」。ただ、旧呼称は確かに「こごい」であったことは研究者の著作によって明らかではある。])の上に赭山(あかやま)あり。黑き岩、斑(まだら)を爲すにより、名づけて「斑山(まだらやま)」と云ふ。地中に「螺(ほら)」を棲ましむるが故に、草木を生ぜず」と傳へたり〔同上二十九〕。同郡淸哲村靑木組の太日向山には、山の草の圓形にして黑く見ゆる處、二所あり。【山癬】之れを「山癬(やまたむし)」と云ふ。圓形の大きさは四十步(ぶ)[やぶちゃん注:約百三十二平方メートル。畳換算で八十畳敷き相当。]ばかり、近づけば見えず、遠く望めば、瞭然たりと云ふ〔同上三十〕。今もありや否やを知らず。「ほら」と云ふ動物が地中に住むと云ふは、甚だ當てにならぬ話なり。法螺(ほら)と云ふはもと樂器なれど、之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼び、山崩れを洞拔けなどゝ云ふより、それを此の貝の仕業と思ふに至りしなり。此くのごとき思想は疑ひも無く、蟄蟲(ちつちゆう)[やぶちゃん注:ここは広義の本草学で謂う脊椎動物の両生類・爬虫類を加えて無脊椎動物以下の広義の「虫」類の内でも、特に地中に潜り潜む(冬眠や夏眠とは限らなくてよい。土中で孵化して地面から出現する種も含まれる)種類を指している。観察上は蛙・蛇・陸生貝類やミミズ・蟻・蟬或いはモグラなども皆、「蟄蟲」となろう。]より起りしならんが、大鯰(おほなまづ)・白田螺(しろつぶ)の類ひの、元來、水底に在るべき物、地中に入りて住む、と云ひし例、少なからず。【蛇食(じやばみ)】備前赤磐郡周匝村(すさいそん)の山には、山腹に之れに似たる圓形の地ありて、一町或いは二町[やぶちゃん注:約二メートル十八センチメートル。]の間、夏に入れば、草、枯(か)る土人、之れを「蛇食(じやばみ)」と名づけ、其の地、蛇毒ありて此くのごとしと云へり〔「結毦錄(けつじろく)」〕。土佐に於いて、土佐郡秦(はだ)村大字秦泉寺(じんぜんじ)の中に、一所、圓くして草の生ぜざる所あり。【地下の寶】土人、之れを解說して、『凡そ、土中に金銀あれば、草、生ぜざるなり』と云へり〔「土佐海」續編〕。此等の土地は、古今共に、必ずしも馬の祭場としては用ゐられず。唯だ、其の外觀の如何にも顯著なるが故に、苟(いやし)くも駒形信仰の行はるゝ地方に於いては、終に之れを輕々に看過する能はざりしなるべし。加賀の白山の上には花畠平と云ふ地あり。【さへのかはら】其の一部を「さへのかはら」と云ひ、其の北を「角力場(すまふば)」と云ふ。八、九尺の間、圓形にして自然に角力場を爲せり〔「白山遊覽圖記」二〕。出羽の莊内の金峯山の峯續きに鎧峯(よろひみね)ありて、山中に「天狗の相撲取場」と云ふ禿(はげ)あり。常に綺麗にして草木を生ぜず〔「三郡雜記」下〕。陸中の大迫(おはざま)の山に於いて「龍が馬場」と云ひしは、恐らくは之れと似たる處なるべし。【鏡】薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野と云ふは、神代に、天孫、八咫鏡(やたのかがみ)を齋(いつ)き祀りたまふ處と稱す。此の原野の内に周圍一町ばかり、正圓にして、草の色、他處に異なる一區あり。四季共に茂りて、霜雪にも枯れず。又、年々の例として此の野を燒くに、圓き處のみは燒けずと云ひ、邑人(むらびと)、常に之れを尊(たつと)びて、牛馬を放ち繫ぐこと無し〔「三國名勝圖會」〕。【池ケ原】美作勝田郡高取村大字池ケ原の「月の輪」と云ふ地も、平地にして狀況よく小田井の「光月の輪」と似たり。往古より、不淨あれば牛馬損ず、と言ひ傳へて、牛馬に草も飼はず、永荒(えいあれ)・減免の取り扱ひを受くる荒地なり〔「東作誌」〕。往來筋に接近して、人、よく之れを知る。【月】時として、月影、澤一面に見ゆることありと云へば、低濕の地なるがごとく、村の名を「池ケ原」と呼ぶに由つて案ずれば、以前の池の、漸(やうや)く、水、あせたるものか。東京の西郊などには、所謂、「井の頭」の泉、涸れて、羅馬(ローマ)の劇場のごとき形をして殘れるもの、處々に在り。信濃・美作の「月の輪」も亦、此の類ひなりとすれば、草の生長、霜雪の消え積る有樣、自然に他と異なるものありと云ふも、怪しむに足らざるのみならず、之れより推し及ぼして、更に第二の奇跡、【だいだらぼうし】「だいだらぼうし」の足跡をも、解釋し得るの見込みあるなり。

[やぶちゃん注:「馬の前蹄の上に兩空處あり、名づけて竃門(そうもん)と謂ふ」これは中国由来だね。中文サイトの「跨竈」を見られよ。馬蹄の後は確かにその通り! しかし、「自分には解せざれども」に諸手を挙げて、賛成! 蹄は竈の形に確かに似ている。しかし、その二つの空隙は確かに判らんね。

「越後南蒲原地方」旧南蒲原郡。ウィキの「南蒲原郡」の地図で旧域を確認されたいが、現存する南蒲原郡(グーグル・マップ・データ。以下同じ。なお、この表示域が概ね旧郡域)の他、三条市全域・長岡市の一部・加茂市の一部・見附市の一部・燕市の一部が含まれた。

「勝善神(そうぜんしん)」「蒼前神(さうぜんしん)」「勝善神(しやうぜんしん)」既出既注或いは「蒼前神」「勝善神」孰れも歴史的仮名遣を無視して「そうぜんしん」と読むのかも知れない。少なくともリンク先で引用した「ブリタニカ国際大百科事典」の「蒼前様(そうぜんさま)」の解説はそのように読めるからである。但し、「ちくま文庫」版は「勝善神」に『しょうぜんしん)』のルビを振っている。

「信州小田井」面倒なことに、長野県佐久市小田井と、長野県北佐久郡御代田町小田井が現存するが、以下の叙述から見て前者である。

「北佐久郡御代田村と岩村田町の境」長野県北佐久郡御代田町御代田の東西で、長野県佐久市岩村田の東北で、長野県佐久市小田井は接する。小田井は御代田を中に挟んで飛び地であるが、この謂い方と現在の地割から見ると、小田井の東の飛び地にそれはあったか。

「『草、全く生ぜず、雪も亦、此の中には積らず。【權現】木幡山(こばたやま)の權現、夜は出でて、此の地に遊びたまふ』と云ひ〔「和漢三才圖會」〕「和漢三才図会」の「巻第六十八」の「信濃」の以下。所持する原本画像から電子化する。

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小田井 廣野也此野草芝中自成輪形而草不生雪亦

 不降積其輪大尺許經一町許呼曰髙月輪未知其所

 以也相傳曰向山名木幡山其峯在權現社此神乘馬

 夜出遊于此

○やぶちゃんの書き下し文

小田井 廣き野なり。此の野、草芝の中、自(おのづ)から、輪の形を成す。草、生えず。雪も亦、降り積もらず。其の輪、大いさ尺許り。經(さしわたし)一町許り。呼んで「髙月輪(かうげつのわ)」と曰ふ。未だ其の所以を知らざるなり[やぶちゃん注:どうしてそうなるのかという理由は判らない。]。相ひ傳へて曰ふ、『向ふの山を「木幡山」と名づく。其の峯に、權現の社、在り。此の神、馬に乘り、夜、出でて此に遊ぶ』と。

   *

「木幡山」は確認出来ないが、良安は「向ふの山」と言っており、私の比定地が正しいとすれば、まさに湯川の対岸の長野県佐久市横根のここがそれらしく見える(国土地理院図)。南山麓に神社も確認出来、また、この「峯」を南東に登ると、千百五十五メートルの「平尾富士」があり、山頂には神社もある。如何にもこれっぽい感じはする。

「雪のとき、輪の處のみ、低く見ゆ」そんなの、全然、不思議じゃないぜ、柳田先生。

『近年、東京の近郊に數多(あまた)起こりたる競馬場、賭け事の禁令を勵行するに及びて、ばたばたと廢業し、其の址、多くは、大正の新「月の輪」となりたる例あれど』出ました! 柳田先生の落語!

『甲州南都留郡盛里村と北都留郡大原村との境の山に、「賴朝公の大根畝(うね)」と呼ぶ處あり』「甲州南都留郡盛里村」は山梨県都留市盛里で、「北都留郡大原村」は山梨県大月市猿橋町であるから、現在の九鬼山であろう。標高九百七十メートルで、大月市の百蔵山で生まれた桃太郎が鬼退治にやってきた山と言う伝承を持ち、東北東六百メートル弱の位置に「天狗岩」もある。登山サイトを見ると、この天狗岩から北西に下る尾根辺りを「賴朝公の大根畝」と称したらしい。この辺りが頼朝の狩場であったという伝承があることに由るらしい。

『同國北巨摩郡多麻村小倉(こごい/こごえ[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版全集は「こごい」と振るが、歴史的仮名遣でこれで正しいかどうかは不明。なお、現在の住所表示では「こごえ」。ただ、旧呼称は確かに「こごい」であったことは研究者の著作によって明らかではある。])の上に赭山(あかやま)あり』山梨県北杜市須玉町(すたまちょう)小倉(こごえ)。これは「甲斐国志」の巻之二十九の「山川部第十」にある。リンク先の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して以下に電子化する。カタカナを平仮名に代え、句読点や濁点を加えて読み易くした。傍点「ヽ」は太字にした。

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一〔斑  山〕東は塩川[やぶちゃん注:原典は「鹽」とごちゃついた字体。現行も「塩川」。]、西は玉川[やぶちゃん注:現行では「須玉川」。]に界し、南は東向、大蔵、小倉諸村に跨り、北は津金山に續き、頗る高大にして兀山[やぶちゃん注:「こつざん」。禿げ山。]なり。赭土の間に、往々、黑岩ありて斑文[やぶちゃん注:「はんもん」。斑紋。]をなす。故に名づく。今、訛して曼荼羅山、萬鳥山、眞鳥山なども云へり。土俗、云、地中に螺(ほら)を棲ましむるに因りて、草木を生ぜずと。○東向村御林 長百五拾間、橫五拾四間[やぶちゃん注:縦二百七十二・七メートル、横約九十八メートル。]。

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「同郡淸哲村靑木組の太日向山」山名の読み不詳。この名では現認出来ないが、「同郡」(旧北巨摩郡)となれば、山梨県北杜市白州町白須の日向山(ひなたやま)か。

『之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼び、山崩れを洞拔けなどゝ云ふより、それを此の貝の仕業と思ふに至りしなり』「之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼」ぶ、とは本末転倒。腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis は古くからオセアニア・東南アジア・日本で楽器(本邦では平安時代に既に見られる)として使用され、本邦では特に修験道の法具に用いた。ホラガイについては私の『毛利梅園「梅園介譜」 梭尾螺(ホラガイ)』を参照されたい。ここに書かれた崩落や地震が法螺貝が起こすという話は、一般の方は非常に奇異に感じられるであろうが(地震と地下の「大鯰」伝承はご存じでも)、民俗伝承上ではかなり知られたものである。例えば、私の「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」や同書の「法螺貝の出しを見る事」を参照されたい。これはホラガイが熱帯性で生体のホラガイを見た日本人が殆んどいなかったこと、修験者・山伏がこれを持って深山を駆けたこと等から、法螺貝は山に住むと誤認し、その音の異様な轟きが、山崩れや地震と共感呪術的に共鳴したものとして古人に認識されたためと私は考えている。

「白田螺(しろつぶ)」「ちくま文庫」版は『しろたにし』とルビするが採らない。私はこれは「白い」「田」=陸地に居る「螺」(つび・つぶ:巻貝の総称)で、実はホラガイのやや小型化した妖怪(同じく崩落や地震を起こす)を指すと考えるからである。この読みに異論のある向きは、例えば「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「シロツブ」を見られたい。そこでは「越後野志」巻十四を引用元として、かく訓じている(但し、その場合のそれはアルビノのタニシ(腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae)ではある)。無論、陸生貝類(有肺類)の誤認としてもよいが、純陸生のそれは日本本土では大型の個体は極めて少なく、しかもそのアルビノとなると、まず、ここで比定候補に挙げるべきものはない。

「備前赤磐郡周匝村(すさいそん)」「そん」はウィキの「周匝村」に拠った。それによれば、現在の岡山県赤磐(あかいわ)市河原屋(かわらや)・草生(しそう)・周匝(すさい)・福田(リンク先で河原屋地区から時計回りで川沿いに展開するのが判る)に当たるとある。草生地区(航空写真)は名前がそれらしくは見える。

「蛇食(じやばみ)」小学館「日本国語大辞典」に、山野で直径五~十メートルほどの円形に草木が生えない場所とあり、「俚言集覧」(十九世紀前期に成立したと考えられる国語辞書。福山藩の漢学者太田全斎が自著の「諺苑(げんえん)」を改編増補したものと見られる。全二十六巻。これは先行する国学者石川雅望(まさもち)の古語用例集「雅言集覧」に対するものとして企画したもので、口語・方言を主として扱い、諺も挙げてある。現行では後の幕末に井上頼圀・近藤瓶城(へいじょう)が五十音順に改めて増補刊行した「増補俚言集覧」(全三冊)が一般に使用される。江戸期の口語資料として重要。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)に載ることが記されてある。

「結毦錄(けつじろく)」儒者で博物学的本草学者でもあった松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:名は玄達)が宝暦九(一七九六)年刊の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁の画像を視認して以下に電子化する。同前の仕儀に記号も加えて読み易くした。但し、読みは一部に留めた。

    *

  「蛇ばみ」の事

備前周斉周匝(すさい)村と云村あり。その邉(あだり[やぶちゃん注:ママ。])の山に、夏に至れば、俄に山の半腹(はんふく)の処、一處[やぶちゃん注:両漢字表記の違いはママ。]、月暈(かさ[やぶちゃん注:「暈」ののみへのルビ。])の如く、一町餘も、草、枯れて、圓(まどか)にして、草、生(しやう)ぜず。春時は、草、生ずれども、夏に至れば枯(か)る。毎年(まいねん)此(かく)のごとし。土人、「蛇(じや)ばみ」と云。村田生[やぶちゃん注:不詳。松岡の門弟の学生か。]、物語に、『信州、「武藏野(むさしの)」と云[やぶちゃん注:「いふ」。]処あり。野中、夏に至れば、右の説の如く、圓(まろ)く圍(かこ)みの中(うち)、草を生ぜず。六、七十間(けん)[やぶちゃん注:百八~百二十七メートル。]、或いは半町[やぶちゃん注:五十九センチメートル。]餘(よ)も、かくのごとし。土人、「月の輪(わ)」と云』と。

    *

「土佐郡秦(はだ)村大字秦泉寺」高知県高知市東秦泉寺(ひがしじんぜんじ)・北秦泉寺・中秦泉寺附近(西に向かって展開している)であろう。

『加賀の白山の上には花畠平と云ふ地あり。其の一部を「さへのかはら」と云ひ、其の北を「角力場(すまふば)」と云ふ』私は白山に登ったことがないのでよく判らぬが、「ヤマケイ・オンライン」のこちらの「白山」の地図の東北部に「お花松原」があり、その西北には「地獄谷」が、白山方向に戻れば、「血の池」もあるので「さへのかはら」(賽の河原)も当然あろう。「角力場」は現認出来ない。

「出羽の莊内の金峯山の峯續きに鎧峯(よろひみね)」山形県鶴岡市砂谷のここ金峯山はその東北(直線で一・三キロメートルで、登山実測例では一時間かかる)のここ

「天狗の相撲取場」確認出来ない。なお、この手の有意な空隙地をかく呼称するケースは日本各地に見られる。

『陸中の大迫(おはざま)の山』岩手県花巻市大迫町(おおはさままち)大迫はここ(国土地理院図)。大迫を冠する地区は広いが、ここが本家っぽいから、この北後背地の何れかのピークか。

「薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野と云ふは、神代に、天孫、八咫鏡(やたのかがみ)を齋(いつ)き祀りたまふ處と稱す」この地名は確かに現在の薩摩川内(さつませんだい)市五代町(ちょう)なのであるが、かなりややこしい感じがする。何故なら、この八咫鏡を祭神としていた鏡山(かがみやま)神社は、五代町に西で接する鹿児島県薩摩川内市小倉町にあったのであるが(ここは伝承では邇邇杵尊が当地の国津神の抵抗にあった際に、八咫鏡を隠した場所と伝わる)後に小倉町の八尾神社に合祀されて廃絶している。ところがこの八尾神社というのは、現在は鹿児島県薩摩川内市宮内町(五代町東で隣接)の新田神社の境外末社になっているのである。従って、この三つの町が候補地になろか。しかし、最後の新田神社は合祀の結果であるから、もう除外してよい。そうすると、現在の小倉町か五代町が比定候補地となる。私は心情的には、失われた小倉町にあった鏡山神社の跡地(位置不明)附近を比定したくはなる(以上はウィキの「新田神社(薩摩川内市)」を参考にはした)。「鏡野」なんて素敵な名なのになぁ。【二〇一九年六月三十日追記】最後の最後までお世話になってしまった。T氏より昨日メール来信。

   《引用開始》

六か月に渡る「山島民譚集」有難うございます。

余計な御世話として、「薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野」の貴下註が面白く、『三國名勝圖會』の当該巻十三・十四の「薩摩國高城郡」の「水引」を読んでみました。

   *

鏡野【地頭館より酉方、四十町許、】 宮内村五代にあり、傳へ稱す、高古瓊々杵尊天降玉はんとするや、天照大神の御形見として親から皇孫に授け玉へる八咫(タ)鏡を齋き奉り玉ふ所なり、故に其名を鏡野といふ、今此原野の内周廻一町許、正圓(マンマル)の内艸の色他所に異りて四季共に生え茂り、霜雪にて枯るゝことなし、是其靈蹟なる故なりといへり、又年々火を以て、此野を燒ける例なるに、此一圓の所のみは、曾て燒る事なし、世人此傳を知らざる者見ても、艸色の異なるに驚くべし、邑人も常に尊ひ崇めて、牛馬を放ち繋がず、

[やぶちゃん注:以下、漢詩は一行二句表示であるが、ここのみ私が原典の訓点を加えて、その分、格好が悪くなったので、一段組みに直した。]

  鏡野叢       釋不石

 平野周遭似鏡圓

 春風春雨草綿々、

 人放火無煙起

 拍手同歌大有年、

   *

文章では、これだけですが、同じ巻十三にある図を見ると、「一之磧觀音堂」に「鏡野」と「小倉」(コクラ)の家並み及び川内川が描かれています。

推測するに、小倉川が川内川に流れ込む当たりの家並みが描かれ、其の奥に「鏡野」をもつ山があります。五代町と小倉町とは高城川右岸の山の稜線で区切られています。この位置関係をもとに国土地理院地図で見ると、七迫(ななさこ)の北にある「標高106.1」の山が「鏡野」を持つ山の候補となります(この山の北北東奥の「標高114」では川内川から見ると、手前のこの「標高106.1」が邪魔になるように思われます)。この山(奧の山でも)であれば、「五代」の人は五代、「小倉」の人は小倉と言ってもおかしくないと思います。

一番の収穫は「巻十三の図」に尽きます。

   《引用終了》

いや! この図はほんまに! ええなあ! 完結のT氏からのプレゼントや! みんな! 見なはれや!

『美作勝田郡高取村大字池ケ原の「月の輪」と云ふ地』岡山県津山市池ケ原。北を肘川が貫通し、池沼が有意に多い湿潤な一帯であることが、地図からもよく判る。「月の輪」も残したかった地名だなぁ。

「不淨あれば牛馬損ず」「永荒(えいあれ)・減免の取り扱ひを受くる荒地」……窪地……馬が死ぬ……永く荒れ果てた地で、年貢の対象からも外されてきた、異常な不可触禁忌の一帯……これを読んだ時、私は妖怪「だり」を直ちに想起した。……窪地で、そこにいると突然、身体が不自由になり、動けなくなる。それを妖怪「だり」の仕業とする記載を遠い昔に読んだ。ウィキの「ヒダル神」に、『人間に空腹感をもたらす憑き物で、行逢神または餓鬼憑きの一種。主に西日本に伝わっている』。『北九州一帯ではダラシと呼ばれ、三重県宇治山田や和歌山県日高や高知県ではダリ、徳島県那賀郡や奈良県十津川地方ではダルなどと呼ばれる』とあるものである。八甲田山では一九九七年、野外演習中の陸上自衛隊員三人が窪地で昏倒して死亡する事故があった。 その原因については二酸化炭素或いは硫化水素の滞留による中毒による窒息死が推定されたように記憶している。ウィキの「ヒダル神」にも『植物の腐敗で発生する二酸化炭素』中毒起因説が仮定の一つとして挙げられてある(酸素(純粋酸素は極めて強毒である)ほどではないが、二酸化炭素も有毒気体である)。この〈ミステリー・サークル〉は、実はそうした自然が自ずと形成した危険地帯だったのではなかったか? と私が思ったことを、ここに最後に言い添えておきたい気がした。

 以上を以って、本「山島民譚集」の本文は終わる。以下、この後、底本ではここから「目次」が載るが、略す。次に奥附を字配・ポイントを無視して電子化しておく。]

 

 

山島民譚集

  ―日本文化名著集―

 

昭和十七年十一月廿五日 印 刷

昭和十七年十一月三十日 發 行

      五千部發行

  • 定價 貮 圓

 

出文協承認

 50.441

 (検印)

[やぶちゃん注:以上の三行は上部横書(上記通りの左から右書き)。検印は「柳」の一字で、下地添付紙は「丸に違い矢」の紋が印刷されたもの。]

 

著 者  柳 田 國 男(やなぎたくにを)

發行者  矢 部 良 策

     大阪市北區樋上町四五番地

印刷者  井 村 雅 宥

     大阪市浪速區稻荷町二丁目九三五

        (會員番號西大一一九二)

配給元  日本出版配給株式會社

發行所  株式会社 創 元 社

     (會員番號第一一五、五〇一號)

     大阪市北区樋上町四五番地

     振替大阪五七〇九九番

     電話北三六八六・三七〇八番

 

[やぶちゃん注:以上を以って柳田國男「山島民譚集」(初版は大正三(一九一四)年七月甲寅(こういん)叢書刊行会刊(「甲寅叢書」第三冊))の再版版である昭和一七(一九三二)年創元社刊(「日本文化名著選」第二輯第十五)の全電子化注を終わる。

 結局、年初から五ヶ月半もかかってしまった(当初は、せいぜい三ヶ月ぐらいの短期で仕上げるつもりだった。やはり注に拘り過ぎたのが元凶であった)。

 なお、本作には「ちくま文庫」版全集第五巻で「山島民譚集㈡(初稿草案)」と「山島民譚集㈢(副本原稿)」という二篇の〈続篇〉稿が載る。実際、内容的には本書の続篇として確かに読めるものではあるのだが(特に「山島民譚集㈡(初稿草案)」は初っ端から『第三 大太法師』のタイトルで突然『二一 いろいろの物の足跡』という柱から始まるのは、完全に「山島民譚集」の続編として始まる(柱数字の「二一」は不明。或いは本「山島民譚集」の小項目見出しを整理して数を減らし、さらに書式(後述)も全部書き変えるつもりであったものと思われる)、何より書法が全く異なり(平仮名漢字交じりの完全口語表現)、個人的に読んで受ける印象は続篇の額縁を附けた全くの別物という感じである。しかも草稿或いは推敲原稿であり、注記号があって注がない箇所が殆んどであったりと、作品として読むには不備不満が多い(電子化し出したら、その不完全で不満な箇所に、これまた、過剰な注を附けたくなるに違いない)。されば、今は全く食指が動かぬ。少なくとも、本年中にこれらに手を着けるつもりは全くないこと、将来的にやるとしても、全く注を附けないものとなろうことを言い添えておく。

 さても。ここまでお付き合い戴けた数少ない読者の方々、取り分け、たびたび多くの注での誤認や不明箇所を御指摘戴いたT氏には心から感謝申し上げるものである。藪野直史]

2019/06/27

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(46) 「光月の輪」(1)

 

《原文》

光月ノ輪  蓋シ左右ノ馬寮ガ諸國ノ官牧ヲ支配セシ時代ニハ、儼然トシテ馬師馬醫ノ職アリキ。【馬學退步】彼徒行フ所ノ相馬ノ術醫養ノ法、之ヲ我々ノ理學ニ由リテ判ズレバ、固ヨリ「マジツク」ノ域ヲ脫スル能ハザルモノ多カリシナランモ、而モ學說ニ由來アリ推理ニ系統アリテ、幸ニ漸次ノ實驗ヲ以テ之ヲ補正スルヲ得シナラバ、終ニハ一科ノ技藝トシテ、永ク世用ヲ完ウスルモノトナリシヤ必セリ。惜シキカナ王制中ゴロ弛ミ法規行ハレズ、官ニ屬セシ術者四散シテ草莽ニ入リシヨリ、又其技ヲ究ムルノ機會無ク、僅カニ土民ガ馬ヲ愛スルノ情ニ賴リテ、生ヲ支ヘ職ヲ世(ヨヽ)ニスルヲ得ルノミナレバ、符呪ヲ以テ未熟ヲ補ヒ神異ヲ說キテ平凡ヲ蔽フノ傾キ、世降ルト共ニ愈盛ナリシナルべシ。サレバ彼ノ馬洗ト稱シテ馬ヲ沼川ノ水ニ入ルヽ風習ト、【野飼】野飼又ハ夏越ナドト云ヒテ一定ノ日家畜ヲ水邊ニ繫ギ置ク儀式ト、水神ヲ誘ヒテ牝馬ニ種付セントスル迷信トハ、何レカ起原何レカ變遷ト決スべキ。必ズシモ尋常進化ノ理法ヲ以テ輕々ニ推論スルコトヲ得ザルナリ。例ヘバ駒ケ池ノ跡ト稱スル地、大阪生魂神社ノ東、南谷町筋ニ殘レリ。【聖德太子】聖德太子駒ノ足ヲ濯ギタマヒシ處ト傳フ〔浪華百事談二〕。同ジ名ノ池ハ又天王寺ノ境内ニモアリキ〔同上七〕。太子ノ此地方ニ關係アルコトハ古來ノ說ナレドモ、此場合ニ於テハ單ニ所謂厩師ノ開祖某ト云フニ過ギザルべシ〔猿屋傳書〕。彼等ガ職トスル所、時々厩ニ來タリテ祈禱ヲ爲スニ止マラズ、或ハ一定ノ水邊ニ居ヲ占メテ農家ノ爲ニ馬ノ治療ヲ引受ケテアリシコトモ、略之ヲ想像シ得ルナリ。【猿橋】甲州ノ猿橋ハ近國ノ猿牽共集リ來リ、勸進シテ其架換ノ費ヲ辨ズルコト古クヨリノ風ナリキト聞ク。此橋下ノ碧潭モ亦恐クハ馬ノ醫術ト因緣アルモノナラン。馬蹄石ノ由來ノ如キモ必ズシモ解キ難キ謎ニハ非ズ。既ニ一區ノ靈場ヲ指點シテ馬ノ保護者ノ宅スル處ナリトスル風アル以上ハ、【駒爪石】附近ノ岩石ノ天然ノ形狀略馬蹄ニ髣髴スルモノヲ覓メ出シテ、之ヲ神變ノ現出セシメタル所ト推測スルハ、必ズシモ巫覡ノ詭辨ヲ煩ハスコトヲ要セズト雖、少ナクモ一部分ノ駒岩ニ在リテハ、更ニ一段ト顯著ニ、恐クハ實際傳說製作者ノ眼前ニ於テ、馬ノ跡ヲ其岩ノ上ニ印スルノ現象アリシナラン。此說甚ダ奇ヲ衒フニ似タレドモ然ラズ。石ヲ以テ馬ノ蹄ヲ磨スルハ古代普通ノ風習ナレバ、村ニ住スル馬醫等ノ其仕事ヲ托セラルヽ者、馬ヲ神前ノ岩上ニ曳キ來リ、特ニ之ガ爲ニ淨メ置キタル場處ニ繫ギテ、每囘同ジ窪ニ於テ馬ノ蹄ヲ磨ギシヨリ、終ニハ神馬ノ蹄ノ跡ト云フ物ヲ生ジタリトスレバ、諸處ノ口碑ノ多數ハ何等ノ誇張無キ歷史トシテ之ヲ受ケ入ルヽコトヲ得ルナリ。【馬蹄砥】延喜ノ左馬寮式ニ、季每ニ請フベキ馬藥ノ中ニ、每年馬蹄ヲ作ルノ料砥二顆トアリ〔延喜式四十八〕。右馬寮亦之ニ準ズ。安房日向等ノ馬蹄硯ハ勿論天產ニシテ、其生成ノ由來ハ岩石學者ノ說明ヲ乞フべキモノナランモ、他ノ一方ニ右ノ如キ砥石ノ古クナリテ形相似タルモノ、磊々トシテ到ル處人ノ目ニ見馴レタリトスレバ、比較ニヨリテ此ノ如キ名ヲ附與スルコトノ、決シテ不自然ナル事態ニ非ザリシヲ知ルナリ。

 

《訓読》

光月(くわうげつ)の輪  蓋し、左右の馬寮(めりやう)が諸國の官牧を支配せし時代には、儼然(げんぜん)[やぶちゃん注:「厳然」に同じ。動かし難い威厳のあるさま。]として馬師・馬醫の職ありき。【馬學退步】彼の徒(と)、行ふ所の相馬の術[やぶちゃん注:馬の相(そう)を見ること。]・醫養の法、之れを我々の理學に由りて判ずれば、固より「マジツク」の域を脫する能はざるもの多かりしならんも、而も學說に由來あり、推理に系統ありて、幸ひに漸次の實驗を以つて之れを補正するを得しならば、終には一科の技藝として、永く世用(せよう)を完(まつと)うするものとなりしや、必(ひつ)せり。惜しきかな、王制、中ごろ、弛(ゆる)み、法規、行はれず、官に屬せし術者、四散して草莽(さうまう)に入りし[やぶちゃん注:野に下ってしまった。これもまた、馬の縁語になっていますね、柳田先生。]より、又、其の技を究むるの機會無く、僅かに土民が馬を愛するの情に賴りて、生を支へ、職を世(よゝ)にするを得るのみなれば、符呪(ふじゆ)[やぶちゃん注:怪しげな呪(まじな)いや、御札・御守りの類い。]を以つて未熟を補ひ、神異を說きて、平凡を蔽ふの傾き、世降ると共に、愈々、盛んなりしなるべし。されば彼の馬洗と稱して馬を沼川の水に入るゝ風習と、【野飼】野飼又は夏越(なごし)などと云ひて、一定の日、家畜を水邊に繫ぎ置く儀式と、水神を誘ひて牝馬に種付(たねづけ)せんとする迷信とは、何れか起原、何れか變遷と決すべき。必ずしも尋常進化の理法を以つて輕々に推論することを得ざるなり。例へば、駒ケ池の跡と稱する地、大阪生魂(いくたま)神社の東、南谷町(みなみたにまち)筋に殘れり。【聖德太子】聖德太子駒の足を濯(すす)ぎたまひし處と傳ふ〔「浪華百事談」二〕。同じ名の池は又、天王寺の境内にもありき〔同上七〕。太子の此の地方に關係あることは古來の說なれども、此の場合に於いては、單に所謂、厩師の開祖某と云ふに過ぎざるべし〔「猿屋傳書」〕。彼等が職とする所、時々、厩に來たりて祈禱を爲すに止まらず、或いは一定の水邊に居を占めて、農家の爲に馬の治療を引き受けてありしことも、略(ほ)ぼ之れを想像し得るなり。【猿橋】甲州の猿橋は、近國の猿牽共、集まり來たり、勸進して、其の架換(かけかへ)の費(つひへ)を辨ずること、古くよりの風なりきと聞く。此の橋下の碧潭も亦、恐らくは馬の醫術と因緣あるものならん。馬蹄石の由來のごときも、必ずしも解き難き謎には非ず。既に一區の靈場を指點(してん)して馬の保護者の宅(たく)する處なりとする風ある以上は、【駒爪石】附近の岩石の天然の形狀、略ぼ馬蹄に髣髴するものを覓(もと)め出だして、之れを神變の現出せしめたる所と推測するは、必ずしも巫覡(ふげき)の詭辨を煩はすことを要せずと雖も、少なくも、一部分の駒岩に在りては、更に一段と顯著に、恐らくは、實際。傳說製作者の眼前に於いて、馬の跡を其の岩の上に印するの現象、ありしならん。此の說、甚だ奇を衒(てら)ふに似たれども、然らず。石を以つて馬の蹄を磨するは、古代普通の風習なれば、村に住する馬醫等の其の仕事を托せらるゝ者、馬を神前の岩上に曳き來たり、特に之れが爲めに淨め置きたる場處に繫ぎて、每囘、同じ窪(くぼ)に於いて、馬の蹄を磨ぎしより、終には「神馬の蹄の跡」と云ふ物を生じたりとすれば、諸處の口碑の多數は、何等の誇張無き歷史として、之れを受け入るゝことを得るなり。【馬蹄砥】「延喜」の「左馬寮式(さまりやうしき)」に、季每(ごと)に請ふべき馬藥の中に、每年、馬蹄を作るの料砥(りやうし)[やぶちゃん注:砥石として準備しておく物。]二顆(か)とあり〔「延喜式」四十八〕。右馬寮(うまりやう)、亦、之れに準ず。安房・日向等の馬蹄硯は、勿論、天產にして、其の生成の由來は、岩石學者の說明を乞ふべきものならんも、他の一方に、右のごとき、砥石の古くなりて、形、相ひ似たるもの、磊々(らいらい)として[やぶちゃん注:石が多く積み重なっているさま]、到る處、人の目に見馴れたりとすれば、比較によりて、此くのごとき名を附與することの、決して不自然なる事態に非ざりしを知るなり。

[やぶちゃん注:「光月(くわうげつ)の輪」次の本書の最終段落で語られるので、ここでは注しない。

「夏越(なごし)」既出既注

「駒ケ池の跡と稱する地、大阪生魂(いくたま)神社の東、南谷町(みなみたにまち)筋に殘れり。【聖德太子】聖德太子駒の足を濯(すす)ぎたまひし處と傳ふ」「大阪生魂神社」は現在の大阪府大阪市天王寺区生玉町にある生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)のこと(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「生魂」(いくたま)は通称。「南谷町(みなみたにまち)筋」柳田國男は「生魂(いくたま)神社の東」と言っているが、調べた限りでは正確には旧南谷町は神社の東北に当たるように思われる。現行、この遺跡はない模様であるが、この画面の上右半分辺りにあったものかと私は推定する。

「同じ名の池は又、天王寺の境内にもありき」聖徳太子建立七大寺の一つとされる大阪市天王寺区四天王寺にある荒陵山(あらはかさん)四天王寺。「天王寺」は四天王寺の略称。生國魂神社の南南東一キロほどとごくごく近いことから、この「聖徳太子駒洗いの池」は同一伝承の分化に過ぎないのではなかろうか。私は寺の中にちんまりあったそれより、上記の方が原型のようには感ずる。因みに「き」の過去形が気になっていた。現在の同寺の境内には現存しないようである。なお、ウィキの「四天王寺」によれば、同寺は『天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗』(教学上にそれ。三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗(以上を「南都六宗」と呼ぶ)・天台宗・真言宗)『兼学の寺であった』。『日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から』、昭和二一(一九四六)年、『「和宗」の総本山として独立している』とある。「四天王寺」公式サイト内の解説を見たところ、『戦前までは長らく天台宗に属していましたが、近年では日本の宗派の種類が増えていたこともあり、建立当初の基本に戻るべく、どの宗派の方でも四天王寺をご参詣いただける様にと願いを込めて』、上記の敗戦の翌年に『天台宗から独立し、十七條憲法の第一條「和を以って貴しとなす」の「和」をいただいて』昭和二四(一九四九)年に独自の『「和宗」となりました』とあった。

「甲州の猿橋」山梨県大月市猿橋町猿橋にある桂川に架かる刎橋(はねばし:両岸の懸崖から刎ね木を何段にも重ね、それで橋桁を受けるもの)として知られる「甲斐の猿橋」。因みに、現在のものは昭和五八(一九八三)年着工で翌年の八月に完成したもので、総工費は三億八千三百万円である(リンク先のサイド・パネルの大月市教育委員会の説明板に拠る)。その事実確認や費用の単純換算比較は出来ぬにしても、嘗つての猿回しの芸をした人々の隆盛がいよよ偲ばれるではないか。私は幼稚園児だった頃(私は昭和三二(一九五七)年二月生まれである)、練馬の大泉学園の日蓮宗倍光山(ばいこうざん)妙延寺の縁日で見たのが、一度、絶滅した猿回しの最後であった。]

2019/06/26

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(45) 「磨墨ト馬蹄硯」(2)

Surusumitoukotu

 熊谷氏ノ馬ノ首

駿國雜志卷二十五ヨリ

[やぶちゃん注:以上は底本のキャプション。「駿國雜志」江戸後期の旗本阿部正信(生没年不詳:忍藩主阿部正能の次男正明より分かれた家系で、旗本正章(知行六千石)の子。通称は大学。文化一四(一八一七)年九月、駿府加番となり、駿府城の守衛等を担った。任期は一年であったが、在任中から、また、江戸に戻ってからも、駿河国七郡の歴史・風土等を調査した)が榊原長俊の著した「駿河国志」を元として天保一四(一八四三)年に完成させた全四十九巻の駿河国の地誌。底本や「ちくま書房」版は画像が著しく悪いので、国立国会図書館デジタルコレクションの静岡の明治四五(一九一二)完刊の吉見書店刊の同書の刊行本の第八冊(附図集成巻)のこちらからトリミングし、汚損を清拭して示した。

 

第百三十二圖

 磨墨首骨の図

  (巻之廿五

   九  二)

[やぶちゃん注:原典図のキャプションを電子化する。まずは右上キャプション。最後の( )は割注状に大きな一つの丸括弧の中に二行書き。柳田國男の「山島民譚集」では「磨墨首骨の図」(「図」は或いは「圖」にも見える)の一行のみで前後は全くない。以下では、しかし私は有意な異同は認めない。

 

図の如く苧縄を

以て耳穴より引

通し上を結ひ梁

の臍に掛たり

[やぶちゃん注:左上。「苧縄」は「をなは(おなわ)」で、麻糸を縒り合わせて作った縄のこと。「梁の臍」「はりのほぞ」。梁(構造物の上部からの荷重を支えるため、または柱を繫ぐために架け渡す水平材。特に、桁(けた:柱の上に懸け渡した横木)に対して直角に渡されたものを指す)の材を接合するための突起のこと。]

 

耳穴[やぶちゃん注:図の上部左右に二箇所。]

眼穴[やぶちゃん注:図の眼窩の左右に二箇所。]

齒[やぶちゃん注:図の下部の左右と最下部で三箇所。]

 

眼穴竪一寸七分

横一寸八分計

[やぶちゃん注:右下。「一寸七分」五・一五センチメートル。「一寸八分」四・八五センチメートル。]

 

首大さ先の尖より前歯迠

長一尺四寸牙歯迄八寸

[やぶちゃん注:左下。「一尺四寸」四十二・四二センチメートル。「八寸」二十四・二四センチメートル。]

 

《原文》

 【硯ノ水】大ナル磐石ノ上ノ窪ミ、通例稱シテ神馬ノ足跡トスルモノノ中ニ、若シ絕エズ一泓ノ水ヲ湛フル處アレバ、人ハ又之ヲ硯ノ水ト名ヅケテ尊敬シタリシコト其例甚ダ多シ。昔ノ田舍者ハ本書ノ著者ノ如ク徒書(ムダガキ)ノ趣味ハ解シ居ラザリシ故ニ、硯ト言ヘバ經文トカ證文トカ、イヅレ重要ナル物ヲ認ムべキ道具ト考ヘタリシナリ。之ト靈馬ノ足跡トガ結合スレバ一通リヤ二通リノ有難サニ非ザリシハ勿論ノ話ナリ。從ヒテ磨墨ト云フ馬ガ其名ヨリモ實ヨリモ萬人ノ仰グべキモノトナリ得タリシハ想像シ易キコトニテ、斯ル名ヲ選定シタル昔ノ誰カハ智者ナリト謂フべシ。石見那賀郡石見村大字長澤ニハ、馬蹄ノ形ニ似タル石ヲ神體トスル社アリキ〔石見外記〕。石見國ハ硯ニ似タリ竹生島ハ笙ノ如シナドト云フ古諺モアレバ、此モ硯ノ水ノ信仰ト多少ノ因緣アリシカト思ハル。【駒形神】駿河安倍郡大里村大字川邊ノ駒形神社ノ御正體モ亦一箇ノ馬蹄石ナリ〔駿國雜志〕。此ハ多分安倍川ノ流ヨリ拾ヒ上ゲシ物ニテ、元ハ亦磨墨ノ昔ノ話ヲ傳ヘ居タリシナラン。此地方ニ於テ磨墨ヲ追慕スルコトハ極メテ顯著ナル風習ニシテ、此村ニモ彼村ニモ其遺跡充滿ス。前ニ擧ゲタリシ多クノ馬蹄石ノ外ニ、【馬ノ首】安倍川ノ西岸鞠子宿(マリコノシユク)ニ近キ泉谷村ノ熊谷氏ニテハ、磨墨ノ首ノ骨ト云フ物ヲ數百年ノ間家ノ柱ニ引掛ケタリ。其爲ニ此家ニハ永ク火災無ク、且ツ病馬悍馬ヲ曳キ來タリテ暫ク其柱ニ繫ギ置クトキハ、必ズ其病又ハ癖ヲ直シ得べシト信ゼラレタリ〔同上〕。之ニ由リテ思フニ、諸國ニ例多キ駒留杉鞍掛松駒繫櫻ノ類ハ恐クハ皆此柱ト其性質目的ヲ同ジクスルモノニシテ、之ヲ古名將ノ一旦ノ記念ニ托言スルガ如キハ、此素朴ナル治療法ガ忘却セラレテ後ノ話ナルべシ。陸中紫波郡東長岡ノ美々鳥(ミヽドリ)稻垣氏ノ邸内ナル老松ハ、昔此家ノ先祖山ニ入リテ草ヲ刈ルニ、其馬狂フトキ之ヲ此木ヘ繫ゲバ必ズ靜止スルニヨリ、之ヲ奇ナリトシテ其庭ニ移植スト云ヘリ〔大日本老樹名木誌〕。此說頗ル古意ヲ掬スルニ足レリ。更ニ一段ノ推測ヲ加フレバ、此種ノ靈木ハ亦馬ノ靈ノ寄ル所ニシテ、古人ハ之ヲ表示スル爲ニ馬頭ヲ以テ其梢ニ揭ゲ置キシモノニハ非ザルカ。前年自分ハ遠州ノ相良ヨリ堀之内ノ停車場ニ向フ道ニテ、小笠郡相草村ノトアル岡ノ崖ニ僅カナル橫穴ヲ掘リ、【馬頭神】馬ノ髑髏ヲ一箇ノ石塔ト共ニ其中ニ安置シテアルヲ見シコトアリ。ソレト熊谷氏ノ磨墨ノ頭ノ骨ノ圖トヲ比較スルニ、後者ガ之ヲ柱ニ懸クル爲ニ耳ノ穴ニ繩ヲ通シテアル外ハ些シモ異ナル點無ク、深ク民間ノ風習ニ古今ノ變遷少ナキコトヲ感ジタル次第ナリ。羽前ノ男鹿半島ナドニハ、今モ家ノ入口ニ魔除トシテ馬ノ頭骨ヲ立テ置クモノアリ〔東京人類學會雜誌第百八號〕。百五六十年前ノ江戶人ノ覺書ニ、羽前ノ芹澤ト云フ山村ヲ夜分ニ通行セシ時、路傍ノ林ノハズレニ顏ノ長ク白ク眼ノ極メテ大ナル物ノ立ツヲ見テ、化物カト驚キテ更ニヨク檢スレバ、竹ノ尖ニ馬ノ髑髏ヲ插ミ古薦ヲ纏ハセタル山田ノ案山子ナリシ事ヲ記セリ〔寓意草下〕。此モ只ノ鳥威シナランニハ斯ル手數ヲモ掛クマジケレバ、何カ信仰上ノ目的アリシモノト考ヘラルヽナリ。今些シ古キ處ニテハ、攝州多田鄕ノ普明寺ノ什物ニ馬頭アリ。【多田滿仲】多田滿仲曾テ龍女ノ爲ニ大蛇ヲ退治シ、其禮トシテ名馬ヲ贈ラル。【馬塚】滿信ノ代ニ此馬死シ之ヲ塚ニ埋ム。文明二年ノ頃ニ至リ馬塚ニ每夜光明ヲ放ツ。和尙之ヲ禮スレバ馬首出現ス。【龍馬神】之ヲ金堂ニ納メテ龍馬神トスト云ヘリ〔和漢三才圖會七十四〕。馬首出現トノミアリテハ漠然タル不思議ナレド、實ハ寺僧ガ塚ヲ發キテ頭骨ヲ得來リシナリ。村民駒塚山頂ノ光物ヲ怖レテ戶ヲ出ルコト能ハザリシニ、之ヲ金堂ニ鎭祭シテ其妖熄ムト見エタリ〔攝陽群談三〕。【馬鬼】思フニ死馬ノ骨ヲ重ンズルノ風、今人ハ古人ノ如クナラザリシガ故ニ、終ニ信ズべカラザル馬鬼ノ說ヲ起シ、或ハ南部ノ高架(タカホコ)ニ七鞍ノ大馬ヲ說キ、サテハ豐後直入郡朽網鄕(クダミガウ)ノ嵯峨天皇社ニ、神馬黑嶽山ニ入リテ鬼ト爲ルコトヲ傳フルガ如キ〔太宰管内志〕、寧ロ國内ノ馬蹄遺跡ヲシテ其眞ヲ誤ラシムルノ傾キ無シトセズ。古伯樂道ノ名譽ノ爲、返ス返スモ悲シミ且ツ歎ズべキコトナリ。

 

《訓読》

 【硯の水】大なる磐石(ばんじやく)の上の窪み、通例、稱して「神馬の足跡」とするものの中に、若(も)し、絕えず一泓(いちわう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「いちおう」。有意な大きさの水溜り。]の水を湛ふる處あれば、人は、又、之れを「硯の水」と名づけて尊敬したりしこと、其の例、甚だ多し。昔の田舍者は本書の著者のごとく徒書(むだがき)の趣味は解し居(を)らざりし故に、硯と言へば、經文とか證文とか、いづれ、重要なる物を認(したた)むべき道具と考へたりしなり。之れと靈馬の足跡とが結合すれば、一通りや二通りの有り難さに非ざりしは、勿論の話なり。從ひて、磨墨と云ふ馬が、其の名よりも實(じつ)よりも萬人の仰ぐべきものとなり得たりしは想像し易きことにて、斯(かか)る名を選定したる昔の誰かは、智者なりと謂ふべし。石見那賀郡石見村大字長澤には、馬蹄の形に似たる石を神體とする社ありき〔「石見外記」〕。石見國は硯に似たり、竹生島は笙(しやう)のごとし、などと云ふ古諺(こげん)もあれば、此れも硯の水の信仰と多少の因緣ありしかと思はる。【駒形神】駿河安倍郡大里村大字川邊の駒形神社の御正體(みしやうたい)も亦、一箇の馬蹄石なり〔「駿國雜志」〕。此れは多分、安倍川の流れより拾ひ上げし物にて、元は亦、磨墨の昔の話を傳へ居(ゐ)たりしならん。此の地方に於いて、磨墨を追慕することは、極めて顯著なる風習にして、此の村にも彼の村にも、其の遺跡、充滿す。前(さき)に擧げたりし多くの馬蹄石の外に、【馬の首】安倍川の西岸鞠子宿(まりこのしゆく)に近き泉谷村の熊谷氏にては、「磨墨の首の骨」と云ふ物を、數百年の間、家の柱に引き掛けたり。其の爲めに、此の家には、永く、火災無く、且つ、病馬・悍馬(かんば)[やぶちゃん注:性質の激しい荒馬。]を曳き來たりて、暫く其の柱に繫ぎ置くときは、必ず其の病ひ又は癖を直し得べしと信ぜられたり〔同上〕。之れに由りて思ふに、諸國に例多き駒留杉・鞍掛松・駒繫櫻の類ひは、恐らくは皆、此の柱と、其の性質・目的を同じくするものにして、之れを古名將の一旦の[やぶちゃん注:ある時のただ一度の。]記念に托言するがごときは、此の素朴なる治療法が忘却せられて後の話なるべし。陸中紫波郡東長岡ノ美々鳥(みゝどり)稻垣氏の邸内なる老松は、昔、此の家の先祖、山に入りて草を刈るに、其の馬、狂ふとき、之れを此の木へ繫げば、必ず靜止するにより、之れを奇なりとして、其の庭に移植すと云へり〔「大日本老樹名木誌」〕。此の說、頗る古意を掬(きく)する[やぶちゃん注:汲み取って(推し量って)理解する。]に足れり。更に一段の推測を加ふれば、此の種の靈木は亦、馬の靈の寄る所にして、古人は之れを表示する爲めに、馬頭を以つて、其の梢に揭げ置きしものには非ざるか。前年、自分は遠州の相良(さがら)より堀之内の停車場に向ふ道にて、小笠郡相草(あいくさ)村のとある岡の崖に僅かなる橫穴を掘り、【馬頭神】馬の髑髏(どくろ)を、一箇の石塔と共に其の中に安置してあるを見しことあり。それと熊谷氏の「磨墨の頭の骨の圖」とを比較するに、後者が之れを柱に懸くる爲めに耳の穴に繩を通してある外は些しも異なる點無く、深く民間の風習に古今の變遷少なきことを感じたる次第なり。羽前の男鹿半島などには、今も家の入口に魔除けとして、馬の頭骨を立て置くものあり〔『東京人類學會雜誌』第百八號〕。百五、六十年前の江戶人の覺書に、羽前の芹澤と云ふ山村を、夜分に通行せし時、路傍の林のはずれに、顏の長く、白く、眼の極めて大なる物の立つを見て、「化物か」と、驚きて、更によく檢(けん)すれば、竹の尖(さき)に馬の髑髏を插み、古薦(ふるごも)を纏はせたる「山田の案山子(かかし)」なりし事を記せり〔寓意草下〕。此れも只だの鳥威(とりをど)しならんには斯(かか)る手數をも掛くまじければ、何か信仰上の目的ありしものと考へらるゝなり。今、些(すこ)し古き處にては、攝州多田鄕の普明寺(ふみやうじ)の什物に馬頭あり。【多田滿仲】多田滿仲、曾つて龍女の爲めに大蛇を退治し、其の禮として名馬を贈らる。【馬塚】滿信の代に、此の馬、死し、之れを塚に埋む。文明二年[やぶちゃん注:一四七〇年。]の頃に至り、馬塚に、每夜、光明を放つ。和尙、之れを禮すれば、馬首、出現す。【龍馬神】之れを金堂の納めて「龍馬神」とすと云へり〔「和漢三才圖會」七十四〕。馬首出現とのみありては漠然たる不思議なれど、實は寺僧が塚を發(あば)きて頭骨を得來りしなり。村民、駒塚山頂の光物を怖れて戶を出づること能はざりしに、之れを金堂に鎭祭して、其の妖、熄(や)む、と見えたり〔「攝陽群談」三〕。【馬鬼】思ふに、死馬の骨を重んずるの風、今人(きんじん)は古人のごとしくならざりしが故に、終に信ずべからざる馬鬼の說を起こし、或いは南部の高架(たかほこ)に七鞍の大馬を說き、さては、豐後直入(なほいり)郡朽網鄕(くだみがう)の嵯峨天皇社に、神馬、黑嶽山に入りて鬼と爲ることを傳ふるがごとき〔「太宰管内志」〕、寧ろ、國内の馬蹄遺跡をして其の眞を誤らしむるの傾き、無しとせず。古伯樂道の名譽の爲め、返す返すも、悲しみ、且つ、歎ずべきことなり。

[やぶちゃん注:「石見那賀郡石見村大字長澤」島根県浜田市長沢町(ちょう)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。 現在、町内には長澤神社しか見当たらないが、それが「馬蹄の形に似たる石を神體とする社」の後身なのかどうか(或いはここに合祀されているとか)は判らない。引用が過去形だし。

「石見國は硯に似たり」石見国の形を馬鹿正直に古地図で見えも始まらない。「石見」の二字を結合して「硯」に似たりと言っている言葉遊びの類いである。

「竹生島は笙(しやう)のごとし」島の形が雅楽器の笙に似ている(とは私は思わない)ことから「笙」を分解して「竹生」島となったという、これまたまことしやかな島の名の語源説の一つだが、寧ろ、古来より「神を斎(いつ)く島」であったその「いつくしま」が「つくぶすま」と訛り、「ちくぶしま」となったとする説の方が遙かに腑に落ちる。

「駿河安倍郡大里村大字川邊の駒形神社」駿府城址の南西の静岡県静岡市葵区駒形通にある駒形神社であろう。安倍川の左岸で川にも近い。

「安倍川の西岸鞠子宿(まりこのしゆく)に近き泉谷村」静岡県静岡市駿河区丸子泉ヶ谷(いずみがや)(国土地理院図。右下方が丸子市街地が旧鞠子宿)。地図で見ると、山家と見えるが、実はここにある臨済宗吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)は今川家七代当主に仕えた連歌師宗長(宗祇の弟子)が、京の銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺め、余生を送った場所として知られ、借景や枯山水で国の名勝史跡にも指定されており、庵の前庭には北斗七星を模して配置した「七曜石」があって、古くから大名や文人が訪れた場所であった。

「陸中紫波郡東長岡ノ美々鳥(みゝどり)」岩手県紫波郡紫波町東長岡耳取(みみどり)であろう。「美々鳥」の方が美しいのになぁ。

「稻垣氏の邸内なる老松……」「大日本老樹名木誌」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁)。

「遠州の相良(さがら)より堀之内の停車場に向ふ道」「小笠郡相草(あいくさ)村」静岡県牧之原市相良がここで、「堀之内の停車場」というのは静岡県菊川市堀之内の東海道本線の菊川駅であろう。旧相草村は確かにその間(南東から北西に御前崎の根の部分を突っ切る形となる)の現在の菊川市南東部に当たるのであるが、この辺りは旧地名がごっそり消失してしまっており、この辺りとしか言いようがない。

『それと熊谷氏の「磨墨の頭の骨の圖」とを比較するに、後者が之れを柱に懸くる爲めに耳の穴に繩を通してある外は些しも異なる點無く、深く民間の風習に古今の變遷少なきことを感じたる次第なり』と言うか、馬の頭骨が極端に違ってたら、それこそ化け物でげしょう?!

「羽前の男鹿半島などには、今も家の入口に魔除けとして、馬の頭骨を立て置くものあり」どうも昨今はこの風習は廃れたようで、ネット検索に掛かってこない。淋しい。

「羽前の芹澤」山形県長井市芦沢か。

「攝州多田鄕の普明寺(ふみやうじ)」兵庫県宝塚市波豆(はず)字向井山ここは旧摂津国である)にある曹洞宗慈光山普明寺(ふみょうじ)。ウィキの「普明寺(宝塚市)」によれば、『平安時代中期に多田庄の領主であった源満仲の四男頼平が開山したと伝わる』。『当初』、『真言宗の寺院であり、長徳年間』(九九五年~九九八年)『には一条天皇の勅願寺となって寺領を有し栄えたと伝わる。しかし、鎌倉期以降は多田源氏の没落により』、『寺勢が傾き』、『衰退したという』。『江戸時代の初期には廃寺同様となっていたが、寛文年間』(一六六一年~一六七二年)の頃に『曹洞宗の寺院として再興され』た。現在も『源満仲が龍女の頼みで大蛇を退治したときに授けられたと伝えられる、二本の角を持つ馬の頭骨』が『寺宝として』あり、『雨乞いに使われる』とある。「多田滿仲」は既出既注「宝塚市」公式サイト内の「宝塚の民話」の「普明寺の龍馬神」が、満仲と龍女の話から、ここで語られる普明寺住職玉岩和尚(室町時代の文明二年のこととするから彼は真言僧である)のものまでも総てしっかり語れていて、必見!

『「和漢三才圖會」七十四』巻第七十四「攝津」の「川邊郡」のここ(標題。左下最後の一行のみ)とここ。国立国会図書館デジタルコレクションの明三五(一九〇二)年の版本。什物の「馬頭」の部分のみを所持する原本で電子化する。

   *

馬頭【什物】康保四年冬滿仲公入能勢山遊獵時夢龍

女來曰川下池有大蛇與我爲仇數年願君退治矣爲

贈一龍馬也果一馬在側滿仲以爲奇異乘其馬伐喪

大虵焉滿仲逝去後至滿信【滿仲之孫】甚愛之馬亦死焉藤

原仲光【家臣】埋馬屍於山岳上建一宇號駒塚山峯堂

後土御門院文明二年三月十八日以後毎夜駒塚有

光輝於普明寺住持玉岩和尚到駒塚誦普門品忽震

雷而馬首出現焉和尚携還納金堂以爲龍馬神

○やぶちゃんの書き下し文

馬頭【什物。】 康保四年[やぶちゃん注:九六七年。]の冬、滿仲公、能勢(のせ)の山に入り、遊獵する時、夢に、龍女、來たりて曰はく、「川下の池に大蛇有り。我と仇(あだ)を爲すこと、數年なり。願はくは、君、退治したまへ。爲めに一龍馬を贈る」と。果して、一馬、側らに在り。滿仲、以つて奇異と爲して、其の馬に乘りて大虵(だいじや)を伐(う)ち喪(ほろぼ)しぬ。滿仲逝去の後、滿信【滿仲の孫。】に至り、甚だ之れを愛すも、馬も亦、死せり。藤原の仲光【家臣。】、馬の屍(しかばね)を山岳に埋み、上に一宇を建て、「駒塚山(くちやうさん)峯の堂」と號す。後土御門院の文明二年三月十八日以後、毎夜、駒塚に光有り、普明寺に輝く。住持玉岩和尚、駒塚に到りて、「普門品」を誦すに、忽ち、震雷して、馬の首、出現す。和尚、携(たづさ)へ還り、金堂の納む。以つて「龍馬神」と爲す。

   *

ここに出る能勢の山」は兵庫県川西市及び大阪府豊能郡豊能町(とよのちょう)・能勢町及び京都府に跨る妙見山の異名で、山頂には嘗つて行基建立と伝える為楽山大空寺があったが、鎌倉時代に入ると、源満仲を遠祖とする能勢氏が領主となり、その地に妙見菩薩を祀ったとされる。その後、江戸初期に当時の領主能勢頼次の帰依を受けた日乾(後の日蓮宗総本山身延山久遠寺二十一世)の手によって新たな妙見菩薩像が彫られ、大空寺趾に建立した仏堂に祀ったのが現在の能勢妙見堂である(ここはウィキの「妙見山(能勢)」に拠った)。この山、馬との強い絡みがあることが判る。

「南部の高架(たかほこ)に七鞍の大馬を說き」既出既注。未だに「高架」は限定的にはどこだか判りませんが。

「豐後直入(なほいり)郡朽網鄕(くだみがう)の嵯峨天皇社」大分県竹田市久住町大字仏原の宮處野(みやこの)神社。ここは嵯峨天皇を祭神の一柱としていることから、旧称を「嵯峨宮樣」と呼ばれていた。こちらの解説によれば、原型は『景行天皇がこの地方の土蜘蛛を征伐した際の行宮跡に天皇をお祭りしたことに始まると伝えられて』おり、『その後、平安時代に直入擬大領の女『腎媛』が嵯峨天皇の采女とな』って、『上皇崩御の後、故郷来田見に帰り』、『剃髪し』て『尼となり、恩賜の品を産土の境内に埋め』、『日夜勤仕する。女の兄はこれを見て哀れみ』、『景行官の傍らに神宮を造営した。これが現在の神社の起源で『嵯峨宮様』と呼ばれ』、『永くこの地方の人々に崇敬され、明治になって宮処野神社と改称された』とある。

「黑嶽山」同神社の後背地と思われるが、不詳。

「太宰管内志」以上は同書の中巻の「豐後之四」の「直入郡」の「○嵯峨天皇社」(国立国会図書館デジタルコレクションの明四三(一九一〇)年日本歴史地理学会刊の版本)に書かれてある。えぇい! 序でだ! 視認して電子化するわな! 句読点や推定訓読を施して読み易くした。

   *

 ○嵯峨天皇社

〔社記略〕に、豐後國直入郡朽網鄕市村嵯峨、毎年十月十五日、當社に於いて神保會を行ふ。神官日野姓、此社に仕ふ。大友家、代々、神馬を献ず。大友政親[やぶちゃん注:文安元(一四四四)年~明応五(一四九六)年。室町・戦国時代の守護大名。豊後国大友氏第十六代当主。]の時に當り、神馬、放失し、畢んぬ。大友義鑑[やぶちゃん注:よしあき。戦国大名。文亀二(一五〇二)年~天文一九(一五五〇)年。同第二十代当主。]の時に至り、彼の馬、鬼に現じ、黑嶽山に住みて、晝夜を分かたず往來の人及び六畜[やぶちゃん注:馬・牛・羊・犬・豕・鶏の家畜。]等を取り食らふ。義鑑、此の事を聞き、將に黑嶽に狩らんとす。大友家臣大久保藏人(くらうど)・城後(じやうご)因幡二人、此の事を乞ひ請け、夜中、黑嶽の麓に到り、今の水越大草場に於いて、之れを待つ。黑嶽の上より、馬鬼、飛び來たり、城後を襲ふ。城後、長刀(なぎなた)を以つて、之れを貫き、大久保も亦、矢を放つ。羽を呑み、馬鬼、遂に死すとあり。〔森氏[やぶちゃん注:不詳。]云はく、〕嵯峨天皇社の祭を「かたげ市」といふ。祭の夜に參詣するもの、男女、みだりにあふことあり〔万葉集九卷〕に、『筑波嶺(つくばね)に登りて嬥歌會(かがひ)[やぶちゃん注:上代の東国地方で歌垣(うたがき)を指す語。]を爲(せ)し日に作れる歌』、『嬥歌は東(あづま)の俗語(くによりのこと)に「賀我比(かがひ)」と曰ふ』[やぶちゃん注:以上は一七五九番の前書と、後書の原注。]とあり、是れ、彼(か)の「嬥歌會」の遺風なるべしといへり。嬥歌會の事は日田郡五馬媛(いつまひめの)社の件(くだり)にも云へるを、かんむがふべし【嵯峨天皇の社の馬鬼の事は〔九州治亂記〕にも見えたり。さて、「かたげ市」と云ふは、かの神保會の事なるか、いまだ委しくも考へず。】。

   *

現在も宮處野神社の秋季大祭を「神保会(じんぼえ)」と称し、現行では毎年十月第二土曜日に行われている。先に引いたこちらの解説によれば、『県選択無形民俗文化財』に指定されており、これは『新任国司が有名神社へ神宝を奉った祭儀を』指す、「神宝会」に『由来すると云われている』とある。「五馬媛(いつまひめの)社の件」はここであるが、そこでも九月の祭礼の間、市が立っている間は、毎夜、男女が契る(野合であろう)ことが自由で、女性でも未婚既婚を問わず、既婚者の夫もこれを咎めないとあり(夫も他の女と交合するからとある)、それをやはり「かたげ市」と称するとする(古称は「かがひ市」であったかと推定している)。しかも、その最後の割注で筆者は、『こゝの方言にも男より、しひて女に交はるを「カタゲル」といふなり。是れなるべし』とも述べている。これは思うに「神保会」=「かがひ市」「かたげ市」なのではなく、神保会の「ハレ」の時空間に於ける神人交合の写しであり、これは近現代まで各地で「八朔の祭り」などと称して盛んに行われていたものである。それを「かがい」と呼んだのは如何にもお洒落ではないか。それで子供ができたらどうするかって? それは自分らの子と夫が認知するか、或いは「神の子」として秘かに処分するか、或いは「神の子」として村が責任を持つて共同で育てるのである。――自分の子を平気で捨てたり、虐待の末に殺す輩が跋扈している現代と――どっちが野蛮か――よく考えてみるがよかろう。]

サイト「鬼火」開設十四周年記念 伊良子清白句集(附・縦書版)

本日のサイト「鬼火」の開設十四周年記念として「伊良子清白句集」縦書版も附けた)を公開した。

2019/06/25

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(44) 「磨墨ト馬蹄硯」(1)

 

《原文》

磨墨ト馬蹄硯   源平合戰ノ語部(カタリベ)ガ磨墨ト云フ駿馬ヲシテ天下ニ有名ナラシメタルハ、亦誠ニ深キ用意ノ存スルモノアリシニ似タリ。此命名ハ察スル所單ニ毛ノ色ノ黑カリシ爲ト云フノミニ非ズ。東上總ノ硯村ノ口碑ガ之ヲ想像セシムル如ク、石上ニ印シタル馬蹄ノ跡ヲ以テ硯ニ譬フルコト常ノ習ヒナリシガ故ニ、乃チ此ニ思ヒ寄セタリシモノナリ。太夫黑ヲ一ニ薄墨ト稱ストアルモ同ジク此因緣無シトハ言ヒ難シ。何トナレバ此馬出デタリト稱スル房州太夫崎ノ海岸ニハ亦多クノ馬蹄石ヲ產スルナリ。即チ巨巖ノ表面ニ跡ノ存スルモノトハ別ニ、此ハ馬蹄ノ形ヲ打込ミタル石ノ小片ニシテ、世人之ヲ採リテ硯ニ製スル者少ナカラズト云フ〔千葉縣古事志〕。蓋シ其一端ノ深ク凹メル部分ヲ硯ノ海トスルトキハ、多分ノ工作ヲ加ヘズシテ之ヲ圓キ硯ニ用ヰ得べケレバナリ。日向ノ鵜戶濱(ウドノハマ)ニモ馬蹄石ヲ出ス。【自然硯】土地ノ人ハ之ヲ自然硯ト稱ス〔雲根志後篇〕。土佐ノ國產ニモ亦馬蹄石アリ。前年之ヲ墺太利ノ博覽會ニ出品セシコトアリ〔南路志續編稿草二十三〕。【陰陽石】甲州ノ駒ケ嶽ニモ所謂陰陽石ヲ多ク產ス。其陰石ノ一種ニ同ジ形ヲセシ物ヲ又馬蹄石トモ云ヘリ〔雲根志後篇〕。駿河ノ安倍川ノ溪ヨリ馬足石ト云フ硯石ヲ產セシハ古キ世ヨリノ事ナリ〔渡邊幸菴對話〕。同ジ川ノ支流藁科(ワラシナ)川ノ附近ニモ往々ニシテ小サキ馬蹄石ヲ出ス。或ハ片面或ハ兩面、恰モ馬蹄ヲ以テ踐ムガ如ク、色黑クシテ甚ダ堅キ美石ナリ、之ヲ割レバ石中ハ殘ラズ金星ナリ〔雲根志後篇〕。之ヲ硯トシテ願ヒ事ヲ書ケバ成就スト云フ俗信アリキ〔駿國雜志〕。蓋シ必ズシモ斯ル奇形ノ自然石ヲ以テ製セズトモ、圓キ硯ナラバ形似タルガ故ニ之ニ馬蹄ト銘ヲ打ツハ有リ得べキコトナリ。唯其硯ニ何カノ奇特ヲ附會セントスルニ至リシハ、ヤハリ亦神馬ノ崇敬ニ基スルモノト認メザルべカラズ。大和當麻寺(タエマデラ[やぶちゃん注:ママ。不審。誤植と断じ、訓読では現行通り、「たいまでら」に訂する。])ノ什物ノ中ニ、小松内大臣ガ法然上人ニ寄進シタリト云フ松蔭ノ硯ハ、硯筥ノ蓋ニ馬蹄ト書シテ野馬ノ繪ヲ蒔キタリ。硯ノ形ノ似タルガ故ニ馬蹄トハ名ヅケシナラント云ヘリ〔其角甲戌紀行〕。鎌倉鶴岡ノ八幡宮ニモ之ト同樣ノ馬蹄硯アリ〔集古十種〕。又別ニ源賴朝所持ノ品ト稱シ、上ニ雲ト片破月トヲ彫刻シタルモノアリ〔同上〕。【池月磨墨】天長元年ノ銘文アルニモ拘ラズ、何故カ人ハ之ヲ池月磨墨ノ硯ト名ヅケタリ。秩父吾野ノ子(ネノ)權現社ノ神寶ニモ一ノ馬蹄石アリシガ〔新編武藏風土記稿〕、此ハ硯ニ用ヰラレタリシヤ否ヤヲ知ラズ。

 

《訓読》

磨墨と馬蹄硯   源平合戰の語部(かたりべ)が、磨墨と云ふ駿馬をして、天下に有名ならしめたるは、亦、誠に深き用意の存するものありしに似たり。此の命名は、察する所、單に毛の色の黑かりし爲めと云ふのみに非ず。東上總の硯(すずり)村の口碑が之れを想像せしむるごとく、石上に印したる馬蹄の跡を以つて、硯に譬ふること、常の習ひなりしが故に、乃(すなは)ち、此れに思ひ寄せたりしものなり。太夫黑を一(いつ)に薄墨と稱すとあるも、同じく此の因緣無しとは言ひ難し。何となれば、此の馬、出でたりと稱する房州太夫崎の海岸には亦、多くの馬蹄石を產するなり。即ち、巨巖の表面に跡の存するものとは別に、此れは馬蹄の形を打ち込みたる石の小片にして、世人、之れを採りて、硯に製する者、少なからずと云ふ〔「千葉縣古事志」〕。蓋し、其の一端の深く凹める部分を硯の海とするときは、多分の工作を加へずして、之れを圓(まろ)き硯に用ゐ得べければなり。日向の鵜戶濱(うどのはま)にも馬蹄石を出だす。【自然硯(しねんけん)】土地の人は之れを「自然硯」と稱す〔「雲根志」後篇〕。土佐の國產にも亦、馬蹄石あり。前年、之れを墺太利(オーストリー[やぶちゃん注:読みは「ちくま文庫」版に従った。])の博覽會に出品せしことあり〔「南路志續編稿草」二十三〕。【陰陽石】甲州の駒ケ嶽にも、所謂、陰陽石を多く產す。其の陰石の一種に、同じ形をせし物を、又、馬蹄石とも云へり〔「雲根志」後篇〕。駿河の安倍川の溪より、馬足石と云ふ硯石を產せしは古き世よりの事なり〔渡邊幸菴對話〕。同じ川の支流藁科(わらしな)川の附近にも、往々にして小さき馬蹄石を出だす。或いは片面、或いは兩面、恰かも馬蹄を以つて踐(ふ)むがごとく、色、黑くして、甚だ堅き美石なり。之れを割れば、石中は、殘らず金星なり〔「雲根志」後篇〕。之れを硯として、願ひ事を書けば、成就す、と云ふ俗信ありき〔「駿國雜志」〕。蓋し、必ずしも斯(かか)る奇形の自然石を以つて製せずとも、圓き硯ならば、形、似たるが故に、之れに「馬蹄」と銘を打つは、有り得べきことなり。唯だ、其の硯に何かの奇特(きどく)を附會せんとするに至りしは、やはり亦、神馬の崇敬に基(もとゐ)するものと認めざるべからず。大和當麻寺(たいまでら)の什物(じふもつ)の中に、小松内大臣が法然上人に寄進したりと云ふ「松蔭の硯」は、硯筥(すずりばこ)の蓋(ふた)に「馬蹄」と書して野馬の繪を蒔(ま)きたり。硯の形の似たるが故に「馬蹄」とは名づけしならんと云へり〔其角(きかく)「甲戌紀行(かふいぬきかう)」〕。鎌倉鶴岡の八幡宮にも、之れと同樣の馬蹄硯あり〔「集古十種」〕。又、別に源賴朝所持の品と稱し、上に雲と片破月(かたわれづき)とを彫刻したるものあり〔同上〕。【池月磨墨】天長元年[やぶちゃん注:八二四年。]の銘文あるにも拘らず、何故か人は之れを「池月磨墨の硯」と名づけたり。秩父吾野(あがの)の子(ねの)權現社の神寶にも一つの馬蹄石ありしが〔「新編武藏風土記稿」〕、此れは硯に用ゐられたりしや否やを知らず。

[やぶちゃん注:「東上總の硯(すずり)村」既出既注。千葉県いすみ市下布施(しもぶせ)硯https://maps.gsi.go.jp/#16/35.238337/140.355556/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1
国土地理院図。何故かリンクが不具合を起こすので、URLで示した(見える部分だけを左ペーストし、そのままティルト・アップ)

「房州太夫崎」既出既注千葉県鴨川市江見太夫崎(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「日向の鵜戶濱(うどのはま)」鵜戸神社のある宮崎県日南市宮浦の浜と思われるが、不詳。浜なら、南の根の湾奧であろうが、浜で「馬蹄石を出だす」というのはおかしいから、鵜戸神社周辺の岬の南・北・東の何れかの海岸線(航空写真を見ると、総て非常に荒い岩礁性海岸である)と推定する。これは「雲根志」の後篇の巻之三の「二」の「馬蹄石(ばていせき)」で、その一部に『日向國ウトノ濱にて自然硯(しねんけん)と云』(これだけである)とあったので、その読みで振った(引用底本は思潮社の「復刻 日本古典全集」版(昭和五四(一九七九)年刊)に拠った。以下同じ)

「南路志續編稿草」書名注は附けない約束だが、これは文化一二(一八一五)年の高知地誌大叢書「南路志」(高知城下朝倉町に住む武藤到和・平道父子が中心となって編纂した百二十巻にも及ぶ高知地誌の大叢書)を受ける形で、明治以降、高知県史誌編輯係によって編せられた近代のものと思われ(高知県文化財団埋蔵文化センターの公式報告書の注データから推定)、書誌学的には「南路志」自体とのダイレクトな連関性を私は認めたくないので、『「南路志續編」稿草』とはせず、全体を鍵括弧で括って差別化した。

『甲州の駒ケ嶽にも、所謂、陰陽石を多く產す。其の陰石の一種に、同じ形をせし物を、又、馬蹄石とも云へり〔「雲根志」後篇〕』前注と同じ「雲根志」後篇巻之三の「二」の「馬蹄石」の一節。『大井川安部(あべ)川』(ママ)『にもこれを出す甲州駒嶽(こまがたけ)に同形同品のものあり此兩所ともに陰陽石(いんやうせき)をす馬蹄石(ばていせき)陰石の一種也陽石別條に出す考知るべし』(以下、前に引いた日向のそれに続く)とある。

「駿河の安倍川」安倍川(あべかわ)は静岡県静岡市葵区及び駿河区を流れる。ウィキの「安倍川」によれば、『清流としても有名で』、『その伏流水は静岡市の水道水にも使われて』おり、また『大河川でありながら』、『本流・支流にひとつもダムが無い珍しい川である』とあり、また、『「安部川」や「あべがわ」の表記もあるが、これらは誤りである』とある。ここ

『同じ川の支流藁科(わらしな)川の附近にも、往々にして小さき馬蹄石を出だす。或いは片面、或いは兩面、恰かも馬蹄を以つて踐(ふ)むがごとく、色、黑くして、甚だ堅き美石なり。之れを割れば、石中は、殘らず金星なり〔「雲根志」後篇〕』前注と同じ「雲根志」後篇巻之三の「二」の「馬蹄石」の冒頭。『相摸國府中藁科品』(ママ)『河(わらしながは)は大井(おほゐ)河の水上(みなかみ)なり此近邊に馬蹄石(ばていせき)あり大石に多し小石には稀なり或は片面にあり或は兩面踐(ふ)むが如し其堅き美石也是を破(やぶれ)は』(ママ)『石中不殘(のこらず)金星(きんせい)あり此邊の山中又河中に在』(で前注の大井川に続く)とある。抄録で面白くないってか? それじゃよ、全部やっといてやろうじゃあねえか! 句読点・送り仮名・濁点その他を振って訓読し、読み易くしといてやったっけな!

   *

     馬蹄石(ばていせき) 

相摸國府中、藁科品河(わらしながは)は大井(おほゐ)河の水上(みなかみ)なり。此の近邊に馬蹄石(ばていせき)あり。大石に多し。小石には稀なり。或いは片面にあり、或は、兩面、踐(ふ)むが如し。其れ、堅き美石なり。是れを破(やぶれ)ば、石中、殘(のこら)ず金星(きんせい)あり。此の邊りの山中、又、河中に在り。大井川・安部(あべ)川にも、これを出だす。甲州駒嶽(こまがたけ)に、同形同品のものあり。此の兩所、ともに陰陽石(いんやうせき)をす。馬蹄石(ばていせき)、陰石の一種なり。陽石、別條に出だす考へ、知るべし。日向國、「ウトノ濱」にて、「自然硯(しねんけん)」と云ふ。近江國石部宿(いしへのしゆく)の北、菩提寺(ぼだいじ)村の山中にあり、少し輭(やはらか)にて鼠色(ねずみいろ)なり。石、性、馬瑙[やぶちゃん注:ママ。](めのう)に似たり。里人云はく、『良弁僧都(りやうべんそうづ)、乘り給へる馬の足跡なり』と。同國石山寺子安(こやす)堂の下に馬蹄石あり。又、河内國下(しも)の太子(たいし)に、馬蹄石、有り。讚岐國陶村(すゑむら)にもあり。又、相摸國狐崎(きつねざき)に梶原(はじはら)が馬の足跡(あしあと)石といふものあり。大石上に、馬蹄、踏(ふむ)がごとし。又、大和國初瀨(はつせ)近邊、橫野(よこの)の石、越前江畑(ゑばた[やぶちゃん注:活字に不審があるが(実際には「ゐ■た」で判読不能)、これで採った。])といふ所の、江畑川の中なる大石、皆、馬蹄。數箇所あり。漢書に廣武(くはうぶ)の馬蹄谷(ばていこく)、馬(ば)蹄、石、踐(ふ)むがごとし、といへるも、今と同じかるべし。

   *

「大和當麻寺(たいまでら)」言わずもがな、奈良県葛城市當麻の二上山當麻寺。現在は真言宗と浄土宗の並立寺院。

の什物(じふもつ)の中に、小松内大臣が法然上人に寄進したりと云ふ

「松陰の硯」公式サイト「當麻寺奥院」(浄土宗側運営)のこちらに、「平家物語」に由来が登場する「松蔭硯」の写真有り。私はこれ以上調べる気は、ない。悪しからず。

「蒔(ま)きたり」「蒔絵にしてある」の意。「蒔絵」とは器物の表面に、漆で文様を描いて金・銀などの金属粉や色粉を散らし埋め込んだ日本独自の漆工芸。多様な手法があり、奈良時代に始まる。

『其角(きかく)「甲戌紀行(かふいぬきかう)」』宝井其角が元禄七(一六九四)年九月に紀州・摂州を中心に遊歴した際の日記風の糞のような短文。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの「紀行文集 続」(明治四二(一九〇九)年博文館刊「続帝国文庫」版)の当該記載)で読める。おう! これも次いでだ! 電子化しといてやろうじゃねえか!(歴史的仮名遣の誤りは総てママ)

   *

當朝寺(たへまでら)。奥院(をくのいん)にとまりて。

  小夜しぐれ人を身にする山居哉

當院にて靈寳(れいはう)什物(じうもつ)さまざまあり、中にも小松殿(こまつどの)、法然(ほうねん)上人へまゐらせられる松陰(まつかげ)の硯あり。箱の上に馬蹄(ばてい)と書(かい)て野馬(やば)を書けり。硯の形が蹄(ひづめ)に似たるゆゑなるべし。

  松陰のすゞりに息(いき)をしぐれ哉

   *

ロケーション・クレジットは記載から、九月二十四日より後の二十八日以前の近日。

『鎌倉鶴岡の八幡宮にも、之れと同樣の馬蹄硯あり〔「集古十種」〕』これかしらん(国立国会図書館デジタルコレクション)。「新編鎌倉志」の巻第一の鶴岡八幡宮の「神寶」にある(リンク先は私の電子化注)、

   *

硯箱(スヾリハコ) 壹合。梨地(ナシヂ)蒔繪(マキヱ)、籬(マガキ)に菊(キク)を金具(カナグ)にす。内に水入(ミヅイレ)筆管あり。共に銀にて作る。

   *
とあるのはこれであろう。

「源賴朝所持の品と稱し、上に雲と片破月(かたわれづき)とを彫刻したるものあり」こちら(国立国会図書館デジタルコレクション。左ページ。「天長元年」、読めますな)かな。

「秩父吾野(あがの)の子(ねの)權現社」埼玉県飯能市大字南にある天台宗大鱗山雲洞院天龍寺。通称、子権現(ねのごんげん)天龍寺で知られ、足腰守護を謳っているから、馬蹄石があって(あったとして)もおかしくはない。公式サイトはこちらであるが、「馬蹄石」の記載はない。]

序に代へて 伊良子清白 /(歌集の序の代わりとした詩篇)

 

序に代へて

 

 

   

 

若き人達集(つど)ひて、

涼しき夏の濱邊に、

オリンポスの神々の如(ごと)、

若やかなる饗宴を開きぬ。

靑き髮微風に縺れ、

微笑(ほゝゑみ)の唇忘我の花匂へり。

殘燻未だ山の端に薄く、

蒼茫として萬波一頃(けい)を湛ふ。

島の上投げ揚げられし月の球は、

おどけたる樣(さま)に空に浮び、

雲の林水脈(みを)曳きて、

あるかなきかに漂ふ。

 

   

 

此時我は思ふ。

⦅あはれ、人生の哀求(あいぐ)は、

血の夕暮、淚の曉を過ぎて、

なほ滿し難し。

何故の生死(いきしに)ぞ!、

かの永遠をおもふて、

寂しさ限りなし。

刹那(せつな)の蝶を眼前に追ひ、

愁(うれ)ひの市(まち)に幻(まぼろし)を繫ぐ。

ああ朱(あか)き陽(ひ)は虞淵(ぐゑん)に沒りぬ。

われは老いて之を知る、

われは哭(な)きて人に告ぐ、

紅顏の因緣(いはれ)を、

欒園の悲哀(ひあい)を。

死者よ、紺碧の氷河を越えて去れ。

嬰兒(みどりご)よ、月界の崫(いはや)を開きて來れ。

すべてはとどまらず、すべては慌(あわただ)し、

滅(ほろ)びの奏鳴曲(ソナタ)!、

時の妖魔(あやかし)蒼ざめて立つ。

パンドーラの小筐(ばこ)の紐は美し⦆と。

 

   

 

おお、黃金の牡牛よ、

偉大の肉體よ、

健康の立像よ

淸艶の薔薇(せうび)に

聖愛の祠(ほこら)を齋(いつ)きて

光耀(くわうゑう)の白鳥(はくてう)は

魂(たましひ)の故鄕(ふるさと)に翔(かけ)る。

ああ、今し滿ちきたる新潮(にひじほ)の音、勝利の響

とうとうとして、トリトン螺(ら)を吹く。

(饗宴の莚(むしろ)、酣なりや)

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年二月二十五日志支良社刊の「志支浪歌集」。署名は「伊良子清白」。「!、」の読点はママ。「虞淵(ぐゑん)」と後の「光耀(くわうゑう)」のルビの「ゑ」は孰れもママ。「小筐(ばこ)」の「ばこ」は「筐」一字へのルビ。本歌集は清白が特別同人となっていた三重歌壇の代表的歌人印田巨鳥(いんだきょちょう 明治二七(一八九四)年~昭和五四(一九七九)年)の主宰した歌誌『志支浪』(しきなみ)の単行アンソロジー歌集である。但し、この月を以って同誌は休刊しているから(戦後に復刊している)、その名残の集大成とも言うべきものであろう。清白は本書に「歸鄕」と総標題した十二首の新作短歌を発表している。なお言っておくと、私は大の短歌嫌いなので、向後、伊良子清白の短歌群を電子化する意思は残念ながら全くない。悪しからず。それはまた、私のような好事家で短歌好きの方がやってくれることを期待されよ。但し、詩篇電子注化も残すところ五篇なので、近々、伊良子清白の全俳句は電子化するつもりではある。

「頃(けい)」は本来は中国古代からの田畑の面積単位で百畝相当(時代によって大きさは異なる)であるが、ここは「萬頃」(ばんけい)の熟語で「水面が広々としていること」を指す。

「虞淵(ぐゑん)」(歴史的仮名遣は「ぐえん」でよい)は中国の伝説上の、太陽の没するところとされる場所。]

2019/06/24

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(43) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(4)

Tatunosutego

海馬  タツノステゴ

 日東魚譜卷四ヨリ

[やぶちゃん注:図は「ちくま文庫」版の挿絵をトリミングしたもの。キャプションは原典では右から左書き。「日東魚譜」(原本は全八巻)は本邦(「日東」とは日本の別称)最古の魚譜とされるもので、魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説する。序文には「享保丙辰歳二月上旬」とある(享保二一(一七三六)年。この年に元文に改元)。但し、幾つかの版や写本があって内容も若干異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたものである(以上は主に上野益三「日本動物学史」平凡社一九八七年刊に基づく『東京大学農学部創立125周年記念農学部図書館展示企画 農学部図書館所蔵資料から見る「農学教育の流れ」』の谷内透氏のこちらの解説に拠ったが、それよりも序についてみると、もっと古い版がある模様である)。多様な写本類については「Blog版『MANAしんぶん』」の「日東魚譜について」が詳しい。著者神田玄泉(生没年不詳)は江戸の町医。出身地不詳。玄仙とも。他の著作として「本草考」「霊枢経註」「痘疹口訣」などの医書がある(事蹟は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの書写版では「巻三」所収で、明らかに図が異なる私のブログ・カテゴリ「日東魚譜」のこちらで本文を含めて全電子化訓読と注を施しておいたので是非参照されたい。

 

《原文》

 肥前五島ノ生月島ハ式ニ所謂生屬牧(イケヅキノマキ)ノ故地ナリシト共ニ、後世マデモ海ニ臨メル一箇ノ產馬地ナリキ。甲子夜話ノ記スル所ニ依レバ、此島ノ岸壁ニ生ズル名馬草ト云フ植物ハ、牝馬之ヲ食ヘバ必ズ駿逸ヲ生ム。故ニ之ヲ求メントシテ足ヲ誤リ屢崖落ヲシテ死スル馬アリト〔續甲子夜話五十七〕。悲シイ哉馬ヤ、汝モ亦人ノ親ト其痴ヲ競ハンコトヲ欲スルナリ。但シコノ絕壁ノ端ニ生ズト云フ名馬草ハ果シテ如何ナル草カ、自分ハ唯寡聞ヲ恥ヅルノミナレドモ、【神馬草】此ト些シク名ノ似タル海邊ノ植物ニ神馬草ト云フ物ハアリ。萬葉集ナドニ所謂莫告藻(ナノリソ)、今モ正月ノ注連飾ニ用ヰル「ホダハラ」又ハ「ホンダハラ」ハ即チ是ナリ。「ナノリソ」ヲ神馬草ト書クハ、神ノ馬ナレバ騎ル勿レト云フコト、即チ莫騎(ナノリソ)ノ意ニ托シタルモノナリト云フ說アリ〔倭名砂〕。前ニ擧ゲタル重之ノ歌ノ

  チハヤフルイヅシノ宮ノ神ノ駒ユメナ乘リソネ祟リモゾスル

ト云フ例モアレド、些シク信ジニクキ口合ナリ。又一說ニハ神功皇后征韓ノ御時、船中ニ馬ノ秣無クシテ海ノ藻ヲ採リテ之ニ飼フ。其時ヨリ此草ヲ神馬草ト呼ブト云ヘリ〔下學集、言塵集其他〕。羽後ノ古名所蚶潟(キサカタ)ノ浦ニテハ、皇后此渚ニ御船寄セタマヒシ時此事アリキト稱ス〔齶田乃苅寢〕。海草ヲ以テ馬ヲ養フト云フコトハ疑ハシケレド、例ヘバ馬醫ノ藥ノ料トスト云フガ如キ、何カ然ルべキ仔細ノ古クヨリ存セシ爲此名アルナランカ。要スルニ海ハ永古ノ不可思議ナリ。人ハ朝夕其渚ニ立チ盡スト雖、終ニ蒼波ノ底ニ在ル物ヲ知リ得ズ。【海ノ寶】故ニ萬ノ寶ハ海ヨリ出デテ海ニ復ルト考フル者多カリシナリ。殊ニ日本ノ如キ島國ノ人ハ斯ク思ハザリシナラバ却リテ不自然ナリ。近キ歷史ニ於テモ、例ヘバ鹿兒島縣ノ今ノ馬ノ種ハ異國ノ名馬ニ由リテ之ヲ改良スト稱ス。或年タシカ海門嶽ノ沖合ニ於テ歐羅巴ノ船一ツ難船ス。乘客ハ皆死歿シ、馬二頭陸地ヲ目掛ケテ泳ギ著キタリシヲ、取繫ギテ之ヲ領主ノ牧ニ放セリ云々。アマリ古キ代ノ事ニモ非ズト云ヘド、心カラカ聊カ傳說ノ香ヲ帶ビタル話ナリ。【海馬】海ノ中ニハ又海馬ト云フ物アリ。海馬ニハ大小全ク別箇ノ二種類アリ。大ハ即チ「トヾ」トモ云フ獸ニテ、北蝦夷ノ海馬島(トドジマ)其他、洋中ノ孤島ニ住ム物ナリ。土佐駒ノ高祖父ト稱スル海鹿ハ海驢(アシカ)ニ非ザレバ即チ此物ナルべシ。小サキ方ハ名ヲ龍ノ落子ナドトモ云フ一種ノ蟲ナリ。薩州上甑島串瀨戶ノ甑島大明神ノ社ニテハ、九月九日ノ祭ノ日ニ蜥蜴ニ似タル奇魚必ズ渚ニ飛上ル。土人之ヲ名ヅケテ龍駒ト云フト云ヘリ〔三國名勝圖會〕。漢名ヲ海馬トモ水馬トモ書キ、我邦ニテハ「アサノムシ」、「シヤクナギ」又ハ「タツノステゴ」ナドト云フ物ハ此ナリ。【子安ノ守】乾シ貯ヘテ婦人ノ產ヲスルトキ、之ヲ手中ニ持タシムレバ產輕シト云フ〔大和本草〕。沖繩ニテ「ケーバ」ト云フ物モ、首ハ馬ノ如ク身ハ蝦ノ如シ安產ノ守トスト云ヘバ同ジ物ナリ〔沖繩語典〕。此等ノ學說ハ其漢名ト共ニ支那ヨリ渡來セシモノトモ云フべシ。例ヘバ證類本草ニハ異物志ヲ引キテ、海馬ハ西海ニ生ズ大小守宮蟲ノ如ク形ハ馬ノ形ノ若シ云々、婦人難產ヲ主ル、之ヲ身ニ帶ブト云ヒ、神驗圖經ニハ頭ハ馬ノ形ノ如シ蝦ノ類ナリ、婦人將ニ產セントシテ之ヲ帶ブ、或ハ手ニ之ヲ持チ或ハ燒末シテ飮服スルモ亦可ナリト謂ヒ、異魚圖ニ之ヲ收メ暴乾シテ雌雄ヲ以テ對ト爲ス、難產及ビ血氣ヲ主ルト云ヘルガ如キ〔古名考五十三所引〕皆彼國ノ說ナリ。サレド日本ニテモ源平ノ時代ニ、貴人御產ノ後御乳付ノ具御藥ナドト共ニ海馬六ヲ箱ニ納レテ獻上セシコト見ユレバ〔同上所引山槐記治承二年十一月十二日條〕、古クヨリ此信仰ハアリシナリ。此物越後ヨリ羽前ノ海岸ニ掛ケテハ之ヲ龍ノアラシ子ト云フ。浦々ノ小魚ニ交リテ稀ニ漁夫ノ網ニ入ル。形ハ一寸四五分ヨリ二寸ホド、頭ハ馬ニヨク似テ腰ハ曲リテ蝦ノ如ク尾ハ蜥蜴ト同ジ。雄ハ靑ク雌ハ黃色ナリ〔越後名寄十七〕。【鳥海山】出羽ノ鳥海山ハ頂上ニ鳥海ト云フ湖水アリ。不思議ナルコトニハ海馬亦此湖水ニモ住シ、全ク海ニ居ル龍ノ荒兒ト同物ナリ。或ハ海氣ノ雨ヲ釀ストキ此物雲ニ乘リテ空ニ騰リ山山ノ岩際ニ下ルナラント謂ヘリ。此地方ノ田舍人モ之ヲ難產ノ女ノ手ニ持タシム〔莊内物語附錄〕。古書ニハ之ヲ記シテ鳥海山頂ノ池ニ長サ六七寸ノ龍アリト云ヘリ。常民ハ敢テ登ラズ行人等獨リ往キテカノ龍ヲ取來ル。一年バカリノ内ハ生アリト見エテ、座敷ニ置キテ扇ニテアオゲバヒラリヒラリト竪橫ニナリテ畫ニ描ケル龍ノ如ク飛ブ。一年過ギテハ死スルニヤ扇ギテモ舞ハズト云ヘリ〔觀惠交話上〕。龍ト馬トハ兎ニ角ニ因緣深シ。【白馬釣龍】朝鮮ノ古傳ニテモ、扶餘縣ノ釣龍臺ハ昔蘇定方百濟征討ノ時、江頭ニ風雨ヲ起ス物ヲ退治セントテ、白馬ヲ餌トシテ淵ニ一龍ヲ釣リ得タリ。故ニ江ヲ白馬江ト名ヅケ岩ヲ釣龍臺ト云フコト、前章ニ一タビ之ヲ說キタリ〔東國輿地勝覽十八〕。龍ノ吟ズル聲ハ馬ノ嘶クニ似タリト云フ說アリ。帝釋天乘リタマフ龍馬ヲ伊羅波(イラハ)ト云フ。鼻長クシテ馬ノ如クナル龍ナリ〔塵添壒囊抄〕。況ヤ龍ハヨク牝馬ニ其胤ヲ假スコトアレバ、頭ノ馬ニ似タル海中ノ動物ヲ龍ノ捨子ナドト呼ブハ必ズシモ珍シカラズ。【甑及ビ竃】唯薩摩ノ甑島ノ神ガ年々此物ヲ贄ニ召シタマフト云フハ注意スべキ話ナリ。甑ハ即チ釜ノコトニテ釜ト竃トハドコ迄モ馬ト因緣アリ。而シテ此神ノ社頭ニモ亦甑ノ形ヲシタル一靈石ノ存スルモノアリシ也。

 

《訓読》

 肥前五島の生月島は「式」[やぶちゃん注:「延喜式」。]に、所謂、「生屬牧(いけづきのまき)」の故地なりしと共に、後世までも、海に臨める一箇の產馬地なりき。「甲子夜話」の記する所に依れば、『此の島の岸壁に生ずる「名馬草」と云ふ植物は、牝馬、之れを食へば、必ず、駿逸を生む。故に之れを求めんとして足を誤り、屢々、崖落(がけおち)をして死する馬あり』と〔「續甲子夜話」五十七〕[やぶちゃん注:こちらで原文全文を電子化済み。]。悲しい哉(かな)、馬や、汝も亦、人の親と其の痴を競はんことを欲するなり。但し、この絕壁の端に生ずと云ふ「名馬草」は果して如何なる草か、自分は、唯だ、寡聞を恥づるのみなれども、【神馬草(なのりそ)】此れと些(すこ)しく名の似たる海邊の植物に「神馬草」と云ふ物はあり。「萬葉集」などに、所謂、「莫告藻(なのりそ)」、今も正月の注連飾(しめかざ)りに用ゐる「ほだはら」又は「ほんだはら」は、即ち、是れなり。「なのりそ」を「神馬草」と書くは、『神の馬なれば、騎(の)る勿れ』と云ふこと、即ち、「莫騎(なのりそ)」の意に托したるものなりと云ふ說あり〔「倭名砂」〕。前に擧げたる重之の歌の[やぶちゃん注:ここ。そこで私は不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae(或いはホンダワラ属 Sargassum)の話を柳田國男に先んじてやってあるので、その注とリンク先の「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ)(ホンダワラ)」の本文と私の注を参照されたい。ここでは繰り返さない。]

  ちはやふるいづしの宮の神の駒ゆめな乘りそね祟りもぞする

と云ふ例もあれど、些しく信じにくき口合(くちあひ)[やぶちゃん注:「話を持って行くそのやり方」の意。]なり。又、一說には、神功皇后、征韓の御時、船中に馬の秣(まぐさ)無くして、海の藻を採りて之れに飼ふ。其の時より、此の草を「神馬草」と呼ぶと云へり〔「下學集」・「言塵集」其の他〕。羽後の古名所、蚶潟(きさかた)の浦にては、皇后、此の渚(なぎさ)に、御船、寄せたまひし時、此の事ありきと稱す〔「齶田乃苅寢(あきたのかりね)」〕。海草を以つて馬を養ふと云ふことは疑はしけれど、例へば、馬醫の藥の料とすと云ふがごとき、何か然るべき仔細の古くより存せし爲め、此の名あるならんか。要するに、海は永古の不可思議なり。人は朝夕、其の渚に立ち盡すと雖も、終に蒼波(さうは)の底に在る物を知り得ず。【海の寶】故に、萬(よろづ)の寶は、海より出でて、海に復(かへ)ると考ふる者、多かりしなり。殊に日本のごとき島國の人は斯く思はざりしならば、却りて不自然なり。近き歷史に於いても、例へば、鹿兒島縣の今の馬の種は異國の名馬に由りて之れを改良す、と稱す。或る年、たしか海門嶽(かいもんだけ)の沖合に於いて、歐羅巴(ヨーロツパ)の船一つ、難船す。乘客は皆、死歿し、馬二頭、陸地を目掛けて泳ぎ著(つ)きたりしを、取り繫ぎて、之れを領主の牧に放せり云々。あまり古き代(よ)の事にも非ずと云へど、心からか、聊(いささ)か傳說の香を帶びたる話なり。【海馬(かいば)】海の中には、又、「海馬」と云ふ物あり。海馬には、大小、全く別箇の二種類あり。大は、即ち、「とゞ」とも云ふ獸(けだもの)にて、北蝦夷の海馬島(とどじま)其の他、洋中の孤島に住む物なり。土佐駒(とさごま)の高祖父と稱する「海鹿」は海驢(あしか)に非ざれば、即ち、此の物なるべし。小さき方は、名を「龍(たつ)の落し子」などとも云ふ、一種の蟲[やぶちゃん注:ここは広義の本草学で謂う脊椎動物の両生類・爬虫類を加えて無脊椎動物以下を総称する「むし」である。]なり。薩州上甑島(かみこしきじま)串瀨戶の甑島大明神の社にては、九月九日の祭りの日に、蜥蜴(とかげ)に似たる奇魚、必ず、渚に飛び上る。土人、之れを名づけて「龍駒」と云ふと云へり〔「三國名勝圖會」〕。漢名を「海馬」とも「水馬」とも書き、我が邦にては「あさのむし」・「しやくなぎ」又は「たつのすてご」などと云ふ物は、此れなり。【子安(こやす)の守(まもり)】乾し貯へて、婦人の產をするとき、之れを手中に持たしむれば、產、輕しと云ふ〔「大和本草」〕[やぶちゃん注:私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海馬」で全文電子化注済み。]。沖繩にて「けーば」と云ふ物も、『首は馬のごとく、身は蝦(えび)のごとし。安產の守とす』と云へば、同じ物なり〔「沖繩語典」〕。此等の學說は、其の漢名と共に、支那より渡來せしものとも云ふべし。例へば、「證類本草」には「異物志」を引きて、『海馬は西海に生ず。大小、守宮蟲(やもり)のごとく、形は馬の形のごとし』云々、『婦人難產を主(つかさど)る。之れを身に帶ぶ』と云ひ、「神驗圖經」には、『頭は馬の形のごとし。蝦の類なり。婦人、將に產せんとして、之れを帶ぶ、或いは、手に之れを持ち、或いは、燒末(しやうまつ)にして飮服するも亦、可なり』と謂ひ、「異魚圖」に之れを收め、暴(さら)し乾して、雌雄を以つて對(つい)と爲す。難產及び血氣を主る』と云へるがごとき〔「古名考」五十三所引〕、皆、彼の國の說なり。されど、日本にても、源平の時代に、貴人御產の後(のち)、御乳付(おちつけ)[やぶちゃん注:生まれた子に初めて母乳を飲ませること。]の具・御藥などと共に、海馬六つを、箱に納(い)れて獻上せしこと見ゆれば〔同上所引「山槐記」治承二年十一月十二日條[やぶちゃん注:ユリウス暦一一七八年十二月二十二日(グレゴリオ暦換算では十二月二十九日)。]〕、古くより、此の信仰はありしなり。此の物、越後より羽前の海岸に掛けては、之れを「龍のあらし子」と云ふ。浦々の小魚に交りて、稀に漁夫の網に入る。形は、一寸四、五分より、二寸ほど、頭は馬によく似て、腰は曲りて蝦のごとく、尾は蜥蜴と同じ。雄は靑く、雌は黃色なり〔「越後名寄」十七〕。【鳥海山】出羽の鳥海山は、頂上に「鳥海」と云ふ湖水あり。不思議なることには、海馬、亦、此の湖水にも住し、全く海に居る龍の「荒兒(あらしご)」と同物なり。或いは、海氣の、雨を釀(かも)すとき、此の物、雲に乘りて、空に騰(のぼ)り、山山の岩際に下るならん、と謂へり。此の地方の田舍人も、之れを難產の女の手に持たしむ〔「莊内物語」附錄〕。古書には、之れを記して、『鳥海山頂の池に、長さ、六、七寸の龍あり』と云へり。常民は敢へて登らず、行人(かうじん)[やぶちゃん注:旅人。他国の人。]等(ら)獨り往きて、かの龍を取り來たる。一年ばかりの内は生(せい)ありと見えて、座敷に置きて扇にてあおげば、「ひらりひらり」と、竪橫になりて、畫(ゑ)に描(か)ける龍のごとく、飛ぶ。一年過ぎては死するにや、扇(あふ)ぎても舞はず、と云へり〔「觀惠交話」上〕。龍と馬とは、兎に角に、因緣、深し。【白馬釣龍】朝鮮の古傳にても、扶餘縣の釣龍臺は、昔、蘇定方(そていはう)、百濟征討の時、江頭に風雨を起す物を退治せんとて、白馬を餌(ゑさ)として淵に一龍を釣り得たり。故に江を「白馬江」と名づけ、岩を「釣龍臺」と云ふこと、前章に一たび之れを說きたり[やぶちゃん注:ここで既出既注。]〔「東國輿地勝覽」十八〕。龍の吟ずる聲は、馬の嘶くに似たり、と云ふ說あり。帝釋天、乘りたまふ龍馬を「伊羅波(いらは)」と云ふ。鼻、長くして、馬のごとくなる「龍」なり〔「塵添壒囊抄(じんてないなうしやう)」〕。況んや、龍は、よく、牝馬の其の胤(たね)を假(か)す[やぶちゃん注:仮りに与える。]ことあれば、頭の馬に似たる海中の動物を「龍の捨て子」などと呼ぶは、必ずしも珍しからず。【甑及び竃(かまど)】唯だ、薩摩の甑島の神が、年々、此の物を贄(にへ)に召したまふと云ふは、注意すべき話なり。「甑」は、即ち、「釜」のことにて、「釜」と「竃」とはどこまでも馬と因緣あり。而して、此の神の社頭にも亦、「甑」の形をしたる一靈石の存するものありしなり。

[やぶちゃん注:「名馬草」不詳。「平戸市生月町博物館 島の館」公式サイト内の「生月学講座」第三十六の「御崎の牧」には、

   《引用開始》

 生月島北端の御崎地区は、古くは「牧」と呼ばれていました。奈良時代に編纂された『肥前国風土記』によると、昔このあたりに住んでいた者達は、容貌は「隼人」と呼ばれる現在の鹿児島県辺りにいた種族に似ていて、騎射、すなわち馬に乗って弓矢を用いる事を好むとあり、相当古い時代から馬が飼われていた事が分かります。『風士紀』松浦郡値嘉郷の条にも、当時、値嘉島と呼ばれた平戸諸島は牛・馬に富むとされています。また平安時代の延長5年(927)に完成した法令書の『延喜式』の兵部省諸国馬牛牧条にある肥前国六牧の一つに、「肥前国生属(いきつき)馬牧」という牧場の名前が出てきますが、恐らくは生月に置かれた牧場を指すと考えられ、その最有力の候補地が御崎です。

 さらにここに中世に牧場が置かれた傍証として、源平合戦の頃、源頼朝が飼っていた当時最高の名馬と言われた池月(いけづき)がここで生まれ育ったという伝説があります。平安時代の終わり頃、関東に拠る源頼朝と、一足先に平家を破って京都を押さえた源(木曽)義仲との間で戦いが起こりますが、『平家物語』によると、寿永3年(1184)に頼朝の軍勢が関東から京都に攻め上り、義仲の軍勢と琵琶湖から流れ出る宇治川を挟んで睨み合いになります。その時、頼朝の家来である佐佐木高綱は、頼朝から譲り受けた池月に騎乗し、もう一頭の名馬・磨墨に騎乗する梶原景季と競争した末に、見事川を泳ぎきって先陣を果たし戦闘を勝利に導きます。「生月人文発達史」は後世の文書ですが、「生月の牧の地は上古より馬牧場であった。西部絶壁の所に名馬草と称する草がある。容易に食べることは出来ないが、これを食べる馬は名馬となる。かの池月もこの草を喰い、また鯨島に泳ぎ渡り同所の牧草を喰ったので名馬となり、頼朝の所望に依って献上した」とあります。池月が生まれ育ったとする伝説は全国に分布しており、直ちに史実云々とする事は難しい所はありますが、馬の飼育が盛んだった所に伝説が残っている事は間違いないようです。なお、池月の名が訛って「生月」になったという説がありますが、源平合戦より遡ること350年の承和6年(839)に、唐(現在の中国)から帰国した遣唐使船が肥前国松浦郡にある生属島に着いたという記事が、貞観11年(869)に編纂された『続日本後紀』に掲載されていることから、以前から用いられていた事は確かです。

 御崎の牧は、松浦党に属する一部、加藤、山田の三氏が生月島を支配した中世や、有力なキリシタン領主である籠手田氏、一部氏が支配した戦国時代にも、これらの領主が保有する軍事力に伴って軍馬用の牧が設けられたと思われます。「生月人文発達史」によると、籠手田氏、一部氏が退去した後、平戸藩の直接統治となった江戸時代にも、御崎は御料馬牧場という藩営の牧場として使用されましたが、文政9年(1826)に平戸島の春日に牧場を設けたのに伴い、生月の馬牧は廃止されたとあるので、それに伴って島内の壱部、堺目、元触集落から移住・入植が行われ、御崎集落が成立したと考えられます。そのため、かくれキリシタンの組織もそれぞれの出身集落に属しており、また集落内には神社を持たず、やはり出身集落によって白山、住吉両神社に属しているそうです。

   《引用終了》

引用文中に出る「御崎」は長崎県平戸市生月町(いきつきちょう)御崎(みさき)で、生月島の北端のここ(グーグル・マップ・データ)。「鯨島」は「げじま」と読むようで、その先端から五百メートル弱東北の直近の海上にある島。無人島。少なくとも、ここで語られている草は海藻ではなく、陸性の植物であるようにしか私には思われない。気になる。モデルとなる実在する草があるのではなかろうか?

『神功皇后、征韓の御時、船中に馬の秣(まぐさ)無くして、海の藻を採りて之れに飼ふ。其の時より、此の草を「神馬草」と呼ぶと云へり』「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ)(ホンダワラ)」の本文と私の注を参照。

「蚶潟(きさかた)の浦にては、皇后、此の渚(なぎさ)に、御船、寄せたまひし時、此の事ありきと稱す」「蚶潟(きさかた)の浦」とは無論、方向の真逆な秋田県にかほ市の象潟(きさかた)である。現在は水田の中に百二の小丘が散在する平地の陸地だが、かつてはここは広大な潟湖であったことは、芭蕉の「奥の細道」御存じのことと存ずる。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』の私の注などお読みあれ。文化元(一八〇四)年に発生した象潟地震(マグニチュード7クラスと推定される)で海底が隆起して広汎に陸地化が起こり、その後は干拓事業による水田開発の波に呑まれて「象潟」は消えてしまったのである。また、「蚶」の字が気になる方はやはり私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蚶(アカガイ)」の注をどうぞ。また、そこでは神功皇后の話もしてある。それは当地にある曹洞宗皇宮山蚶満寺(かんまんじ)の「縁起」に載る伝承で、神功皇后が三韓征伐の帰路(前の伝承は往路であった)、大時化(おおしけ)に遭遇して象潟沖合に漂着、小浜宿禰が引き船で鰐淵の入江に導き入れたが、その時、皇后は臨月近かったことから、清浄の地に移したところ、無事に皇子(のちの応神天皇)を産み終え、その後も象潟で半年を過ごし、翌年四月に出帆して筑紫の香椎宮に向かったという。ここはホンダワラを秣にしたのは、その折りのことと言うらしい。広大な潟で秣がなかったっていうのかなぁ? ただ、漂着する途中の日本海上でというのなら、これ、すこぶる腑に落ちるのだ。何故なら、ホンダワラ類は外洋表面を気泡を用いて漂流する「流れ藻」としても知られるからである。

「海草を以つて馬を養ふと云ふことは疑はしけれど、例へば、馬醫の藥の料とすと云ふがごとき、何か然るべき仔細の古くより存せし爲め、此の名あるならんか」ホンダワラ類を馬が食うかどうかは知らない。しかし、ホンダワラ類は「玉藻(たまも)」(貴重な(「玉」)塩を産む藻)・「馬尾藻(ばびそう)」(藻形の類似から)・「銀葉草」等とも称し、各地で食用とされ、私も佐渡産のそれは大好物で丼で何杯も食べてしまう。しかも、馬にとって塩の欠乏は致命的で、死に至ることも稀ではない。さすれば、乾して塩分を落とさないままのホンダワラ類(例えば、最近は関東でも流通している東北の「ギバサ」ホンダワラ属アカモク Sargassum horneri)を与えれば、馬は食うと私は大真面目に思うのである。そこで笑ってる奴よぉ! 「岩手アカモク生産協同組合」公式サイト内のこの記事を見いや! 『千数百年以上にわたって出雲大社を守ってきた出雲の国造家では、力祝(杵でこねた程度の餅)にホンダワラを巻き上げます。歳徳神の馬に献ずるという意味で、神馬藻(ホンダワラ・アカモク)を用います。小笠原流家元が、年賀のお客に献ずる前菜は、三宝にホンダワラ又は布を敷き、その上に梅干、田作、干柿、勝栗等をのせた蓬莱盤です』。『現在の東京でも、門飾りにホンダワラを〆縄に使っているのを見ることができます』。『江戸時代初期にかけて全国各地で特産とされていた海藻を一覧できる書物に「毛吹草」(寛永』一五(一六三八)年『があります』が、『その中で紹介されたホンダワラは、和泉神馬藻(大阪)・「石津神馬藻」です。その当時は和泉(大阪)の特産品とされていました』とあった後に、『また、「疲れきった馬に海水と海藻あかもくを食べさせた。次の朝には元気になっていた」という神馬の由来にもなっています』とあるだに!!!(太字はやぶちゃん)

「或る年、たしか海門嶽(かいもんだけ)の沖合に於いて、歐羅巴(ヨーロツパ)の船一つ、難船す」「海門嶽」は「開聞岳」だ。私もこの話、事実(馬が生き残った話は知らない)として聴いたことが確かにあるのだが、今、調べてみても、事実史料が見当たらない。識者の御教授を乞うものである。

「とゞ」一属一種の食肉目アシカ科トド属トド Eumetopias jubatus。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 胡獱(とど)(トド)」を参照されたい。

「海馬島(とどじま)」「かいばとう」とも。宗谷海峡のここにある島。ウィキの「海馬島(樺太)」によれば、樺太島(サハリン島)の南西沖にあり、晴れた日には、『宗谷岬や利尻島・礼文島からも見ることができる。現在は無人島となっているが、日本領時代には集落が存在した。別称として探検家ラ・ペルーズの命名によるモネロン(Moneron)島があり、ロシア語による名称(Остров Монерон)の由来となっている。現在はサハリン州の一部としてロシアが統治している』。『古くは正保日本図において「いしよこたん」として描かれており、元禄』一三(一七〇〇)年の「松前島郷帳」では『西蝦夷地の離島として「いしよこたん」が記されている。寛政』二(一七九〇)年の最上徳内の「蝦夷国風俗人情之沙汰」では、『「トヾシマ」についてナヨシ』(名好郡は樺太島中部のこの附近であるが、測定起点位置がおかしいから、これは広義に南樺太のことを言っているようである。但し、海馬島は最短でも樺太からは五十キロメートル弱はある)『から南に』六『里ないしは』七『里離れた海上にある島としている』。その後の記載では「モシロヽ」「トヽモシリ」『として記されており、別名として「イシヨコタン」をあげ』、嘉永七(一八五四)年刊の「蝦夷闔境輿地全図」に『おいても「トヽモシリ」として見える』。明治四二(一九〇九)年発行の「東亜輿地図」では「トドモシリ島」として記載されている』。『島内にのみ見られる種を含む』三百八十『種類の植物が自生しており、海馬島特殊植物群落地帯として樺太庁の天然記念物に指定されていた。礼文島とは海底山脈によってつながっている』。『日本統治時代には本斗郡海馬村に属しており』、昭和一六(一九四一)年時点で七百五十一人の『居住者がいた』。昭和二〇(一九四五)年八月、不当なソ連軍の侵攻に『よって占領され』たが、『島民は略奪や暴行を恐れ』、『すでに島を脱出していた』とある。理解されている方が少ないが、南樺太の領有権の帰属先は如何なる条約に於いても「未定」のままなのであって、ロシアの所有権は国際的に認められていない。

『土佐駒(とさごま)の高祖父と稱する「海鹿」』ここで既出既注。そこでは柳田國男は「海鹿」に「あしか」と振っている。

「海驢(あしか)」食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ)(アシカ類・ニホンアシカ)」及び次項の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海鹿(あしか)(前と同じくアシカ類・ニホンアシカ)」を見られたい。但し、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 胡獱(とど)(トド)」では「海驢」の異名としているので、柳田國男のこの謂いは和名漢字名としては混乱を招くだけである。但し、現行でも混同使用は相変わらず続いているから、柳田を批判は出来ない。

「薩州上甑島串瀨戶の甑島大明神の社」グーグル・マップ・データではここ(鹿児島県薩摩川内市上甑町中甑)だが、サイド・パネルの画像で見ると、恐るべきおいそれとは行けそうに見えないとんでもない場所に巨岩がそそり立っていて海に面したその前に鳥居がポツンとあるだけである。というより、実はこの明神は鳥居しかないのである(「串瀨戶」はこの位置から、岬(串)と瀬戸のカップリングが実に相応しい名称であることは判る)。薩摩川内市観光物産協会のサイト「薩摩川内市観光ガイド こころ」の「甑大明神」によれば、『甑』(「こしき」とは穀物を蒸す用器で、甕(かめ)に似た器の底に一つ或いは二つ以上の穴を開け、これを湯沸しの上に重ねて穴を通って上る湯気によって穀物を蒸す仕組みとなっているものを指す。弥生時代以来、使われるようになり、平安以降は木製の桶や曲げ物の甑が普通となって、江戸時代に「蒸籠(せいろう)」に引き継がれた。中国・東南アジアにも甑があって朝鮮の楽浪郡の遺跡からも発見されている。これらの孰れかが日本に伝来したものと思われるものの、その経路は実は明らかではない)『形の大岩が御神体で』、『祭日は、旧暦』九月九日とあり、『元来、甑大明神には社殿はなく、岩そのものを神として拝してい』たのであり、『祭儀も甑岩の近くにある平岩の上で行われてい』たとあって、この大岩がまさに『「甑島」地名発祥の地といわれてい』るとあった。ロケーションも祭りもともに個人的に激しく惹かれる。但し、現在はここから一・五キロメートルほど離れた中甑湾奧の集落にある甑島神社が通常参拝の遥拝所となっている。

「龍駒」「りゆうのこま」と訓じておく。これだと、伊予でのタツノオトシゴの異名方言でもある。

「三國名勝圖會」巻第三十「甑島郡」の「甑島」の神社パートの冒頭にある「甑島大明神」の条。ここここ(間に見開きで二コマ分、同島の浦の図が二葉入っている)。

と云ふと云へり〔「三國名勝圖會」〕。

『漢名を「海馬」とも「水馬」とも書き』他の中国の本草書の漢名では「朝雲」「水鴈」「海蛆」「海蠍子」等がある。小野蘭山(口授)「重訂本草綱目啓蒙」第四十巻の「海馬」に拠る(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁。次注も典拠は同じ)。

『我が邦にては「あさのむし」・「しやくなぎ」又は「たつのすてご」などと云ふ』他に「かいば」(「海馬」讃岐)・「みつちのこ」(「蛟之子」。讃岐)・「りゆうぐうのこま」(「龍宮之駒」。豊後)・「りゆうのこま」(「龍之駒」。豊後・伊予)・「たつのおろしご」(「龍之降子」。土佐)・「りゆうぐうのをば」(「龍宮之姨」か)・「じやのこ」(「蛇之子」か。この場合は「蛇」は「龍」の前段階のこと。加賀)・「うみうま」(長門)・「をくじのまへ」(意味不明。仙台)。「あさのむし」は不詳。「しやくなぎ」(しゃくなぎ)は私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海馬」を参照。

『沖繩にて「けーば」』不審。調べてみると、使用頻度は低いらしいが、「うみんまぐゎー」(「海馬子」か?)である。そもそも母音の口蓋化で「けー」はやや不審であった。しかし確かに「沖繩語典」のここ(国立国会図書館デジタルコレクション)にそう出ている(「海馬」を当てている)。でも、どうもおかしいと感じる。そこでさらに調べたところ、しかし、或いはこれは「沖繩語辞典」の誤りなのではないか? と思うに至った。何故なら、琉球王府公用語の中に「けーば」を見出したからで(「琉球大学博物館 風樹館」のここ)、しかもそれは哺乳綱カイギュウ目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon のことなのだ。さてもだったら、少なくとも「首は馬のごとく」は大当たりで、「身は蝦(えび)のごとし」だってスケールは違うが、スタイルは拡大相似形だ。流石にデカすぎて「安の」御「守」り「とす」るわけにはゆかないけれども、古来、ジュゴンは沖縄で子育てをする海洋動物として知られていたはずで、それ(例えば骨)は安産のシンボルともなろうと思うのだ。大方の御叱正を俟つものではある。

「證類本草」本草書。本来は北宋末の一〇九〇年頃に成都の医師唐慎微が「嘉祐本草」と「図経本草」を合冊し、それに約六百六十項の薬と、多くの医書・本草書からの引用文を加えて作った「経史証類備急本草」の通称。しかし、「証類本草」の語は未刊のまま終わったらしい唐慎微の書を元に、一一〇八年に艾晟(がいせい)手を加えたものの刊本である「大観本草」と、さらに一一一六年に曹孝忠らがそれを校正して刊行した「政和本草」を加えた、内容的に殆んど同一の三書の総称として用いられることの方が多い。

「異物志」漢の学者楊孚が南方地域の変わった事物を記載した書か。

「守宮蟲(やもり)」爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科 Gekkonidae のヤモリ類。

「神驗圖經」不詳。

「燒末(しやうまつ)」焼いて砕いて粉末にしたもの。

「異魚圖」大陸のそれでは、不詳。仄峰に渡辺崋山筆の天保一一(一八四〇)年があるが、文脈上、違う。

『出羽の鳥海山は、頂上に「鳥海」と云ふ湖水あり』現在の鳥海山頂上から西方に下った最も古い登山路の中間の御浜(おはま)小屋(七合目)の南方下にある、標高千五百九十メートルのカルデラ湖である鳥海湖のことであろう(山形県飽海郡遊佐町(ゆざまち)吹浦(ふくら)所在)。但し、山頂ではない。鳥海山の標高は二千二百三十六メートル(新山ピーク)であるが、直線でも西へ三キロほど離れる。平均直径二百メートルほどの小さなものだが、人気のある景勝地である。本文の記す、「古書には、之れを記して、『鳥海山頂の池に、長さ、六、七寸の龍あり』と云へり。常民は敢へて登らず、行人(かうじん)等(ら)獨り往きて、かの龍を取り來たる」とか、それは『一年ばかりの内は生(せい)ありと見えて、座敷に置きて扇にてあおげば、「ひらりひらり」と、竪橫になりて、畫(ゑ)に描(か)ける龍のごとく、飛ぶ。一年過ぎては死するにや、扇(あふ)ぎても舞はず』というわけの判らぬ似非フェアリー話は真面目に考証するのも馬鹿馬鹿しいが、しかし、ネットを調べると、複数の登山者の記載にここで「魚影を見た」とあるのを見かけた。高地の火山性湖には普通は魚は棲息しない。しかもここは冬は氷結し、残雪もかなりの期間残ようで、相応に生物には過酷な環境である(周囲の高山性植物種は多種で非常に多様性に富んでいるようだが)。誰かが違法に放った(国定公園内である点でも違法)ものか、両生類の誤認の可能性はあろう。或いは、根拠も資料もないのだが、嘗つて(或いは今も)ここに小型のサンショウウオ類の一種が棲息していた(いる)と仮定するなら、ここにタツノオトシゴ(サンショウウオを龍と比喩するのは如何にも自然である。西欧の高地系のサンショウウオは古伝承でサラマンダーやドラゴンに比喩されているからである)にに似た生き物がいたとするここの古い記載は虚言ではない可能性もあるように思われる。高地性サンショウウオ類は極めて限定された地域にしか棲まない(棲めない)種が多くおり、少しでも環境が変わったり、人為的に有意な数が捕獲されれば(サンショウウオ類は黒焼きにして精力がつくと古くから薬餌されてきた歴史がある)、簡単に絶滅してしまうのである。

「扶餘縣の釣龍臺」既出既注であるが、補足しておくと、崔仁鶴の「朝鮮伝説集」(日本放送出版協会)の要約が、ここに「白馬江と釣龍台」(韓国の忠清南道扶余郡)として以下のようにある。

   《引用開始》

唐の将軍蘇定方が、大軍を率いて、百済の都を陥落させた後のこと。戦勝を祝う中、大王浦にあった唐の兵船が突然流れ出し、いきなり吹き出した颱風で皆川に沈んでしまう、という事件が起きた。

蘇定方が日官(暦法官)に伺うと、日官は百済の守護神である江龍の怒りだと告げた。ではその退治法はないかと蘇が問うと、日官は、龍は白馬が大好きだから、それを餌にして釣り上げればよい、と答えた。

さっそく蘇は兵たちに命じて鉄の釣針に太い鉄線の釣糸を用意し、白馬を餌にして川の岸にある岩の上に座ってそれらを川に投げ入れた。はたして日官の言ったように、程無く白馬を捕ろうとした龍が釣れ、蘇らに捕らえられてしまった。

このような出来事があったので、蘇定方が龍を釣った場所を釣龍台といい、さらに錦江の扶余一帯の川を、白馬を餌に龍を釣ったとして、白馬江と呼ぶようになったのだという。

   崔仁鶴『朝鮮伝説集』(日本放送出版協会)より要約

   《引用終了》

以下も既出既注であるが、新たに附しておくと、「蘇定方(そていはう)」(五九二年~六六七年)は初唐の武将。定方は字。冀州武邑(河北省))の人で、太宗の貞観(六二七年~六四九年)頃より突厥・高句麗への外征や、西突厥の叛臣の阿史那賀魯の討伐で功を挙げた。六六〇年には左武衛大将軍として新羅の要請を受け、水軍を率いて百済の義慈王らを滅ぼした。翌年、遼東道行軍大総管として高句麗に進撃し、八月、平壌城を包囲している。帰国後には涼州安集大使として吐蕃や吐谷渾(とよくこん)を平定している。

「白馬江」既出既注。現在の大韓民国忠清南道扶余郡。「白馬江」(はくばこう)はこの郡域を東北から南西に貫通している川の部分名であろうと思われる。「釣龍臺」(ちょうりょうだい)の位置はハングルは読めないので判らない。なお、この伝承はサイト「龍学」の「白馬江と釣龍台」に詳しい。

『帝釋天、乘りたまふ龍馬を「伊羅波(いらは)」と云ふ。鼻、長くして、馬のごとくなる「龍」なり』帝釈天(たいしゃくてん)は梵天(ぼんてん)と並び称される仏法守護の主神。十二天の一つとして東方を守る。忉利天(とうりてん)の主で、須弥山(しゅみせん)上の喜見城に住むとされる。四天王は彼に仕えるともされる。もとヒンズー教の英雄神で神の代表者であったインドラが仏教に取り入れられたもの。東大寺・唐招提寺などに彫像があるが、柳田國男が言っているのは、もしかして、東寺の講堂にある、平安前期の密教系の作像と推定されている、「白象」に乗った木像帝釈天像の、「象」を「龍馬」と誤認したものではなかろうか?

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(42) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(3)

 

《原文》

 遠州御前崎モ近海ニ著シキ大岬ナリ。突端ノ駒形大明神ハ是レ亦昔ノ牧馬ノ名殘ナランカト思ハル。此權現ノ古キコトハ一ノ證據アリ。【駒形三社】前ニ擧ゲタル伊豆ノ輕井澤ノ駒方神ノ如キ、手近ノ箱根ノ社トハ却リテ關係無ク、日下開山鎌倉彌左衞門、三國相傳橫須賀與惣右衞門ト云フ兩人ノ舍人司、遠州白和駒方(シロワコマガタ)ノ書ヲ以テ駒方祝(ハフリ)ヲ行フト言傳ヘ、其三社ノ御正體ハ中央白和王ニ右鵲王左鵲王ヲ合セ祀ルト云ヘリ〔伊豆志〕。白和ハ今ノ白羽村ニテ即チ御前崎ノ鄰村ナリ。御前崎ト海ヲ隔テヽ相對スル駿河ノ三保ニモ、安藝ノ馬島ト同ジク亦馬ヲ愛惜スル神ヲ祀レリ。今日ハ單ニ謠ノ羽衣トノミ聯想セラルヽ土地ナレドモ、三穗明神ハ實ハ熱心ナル馬ノ神ニテ深ク馬ヲ愛セラレ、【野飼】神前ノ松原ニハ野馬常ニ遊ビ居タリキ。此松原モ到頭開墾セラレテ桃ヤ甘蔗ノ畠ト成リ、舊領主德川公爵ヲシテ歎息セシメタリト云フ程ナレドモ、昔ハ此半島ノ風趣ヲ添フルモノハ松陰ニ遊ベル野馬ノ群ナリシナリ。村々ノ農家ニ於テハ馬疾ムトキハ此濱ニ曳キ來リ、神ノ保護ノ下ニ放牧シ置ケバ必ズ平癒スト信ジタリ〔駿國雜志〕。思フニ此慣習ハ必ズ諸國ノ野飼馬洗ナドノ行事ト關聯スル所アルナルべシ。昔ハ人間ノ醫藥モ尋常草根木皮ノ外ニ出デズ。病馬ヲ治スルノ術ニ於テ獨リ大奇法ノ存スルモノアランヤ。多クハ伯樂ガ神傳ニ託シテ其道ヲ靈祕ニシ、モシクハ村老ガアマリニ手段ノ平凡ナルヲ訝リテ之ヲ信心ノ力ニ歸スルガ如キ、何レモ極メテ自然ナル徑路ト言フべキモ、要スルニ新鮮ナル草ト水トヲ得テ休養セバ、普通ノ病馬ハ大抵其健康ヲ復スルコトヲ得シナランノミ。三河寶飯郡ノ小松原ト云フ處ノ、觀音寺ノ本尊馬頭觀音ハ行基ガ作ナリ。【初午】每年二月初午ノ日ニ參詣スル者、此山ノ隈笹ノ葉ヲ得テ歸ル。馬ノ煩フ時御影ヲ厩ニ揭ゲ此笹ヲ以テ飼フトキハ忽チ癒ユ〔諸國里人談四〕。【熊野神】長門阿武郡宇田鄕村大字惣鄕ノ熊野神社ハ、境内ニ一ノ馬蹄石アリ。牛馬熱ニ苦シム者アルトキハ、一束ノ草ヲ刈リ來リテ此石ノ上ニ置キ退キテヨク祈リ、サテ其草ヲ以テ病畜ニ飼フトキハ則チ治スト云フ〔長門風土記〕。美濃惠那嶽(エナダケ)ノ笹ノ葉ハ既ニ之ヲ述ブ。此等無名ノ植物モ只一步ヲ進メバ又カノ狐ケ崎ノ矢筈ノ笹ナリ。伊賀阿山郡布引村大字中馬野(ナカバノ)左妻(ヒダリツマ)ニハモト左妻岩屋アリ。中古洪水ニ沒シテ今其處ヲ知ラズ。【窟ノ神】昔此巖窟ニ馬ヲ愛スル神イマシテ、屢橫根山ノ溪流ニ馬ヲ洗ヒタマフ。馬洗淵ノ今モ存セリ。其神人間ニ應接スルコト里俗ノ口碑ニ殘リ、葛城一言主ノ談ニ類ス。福地某ナル者曾テ此邑ニ在リテ馬ヲ獻ジ、古來此地ノ名馬ヲ出スコトヲ申スニ因リテ牧馬ノ命ヲ蒙リヌ。又伊賀次郞重國モ名馬ヲ本村ヨリ獻ジタリト言ヘバ、馬野ノ名空シカラザルニ似タリ〔三國地誌〕。【竈神】三保明神ノ馬ヲ愛シタマフコト誠ニ其由來ヲ知リ難シト雖、此地ハ鹽燒ク濱ナレバ夙ニ竃ノ神ノ信仰起リ、興津彥興津媛ノ說ナドニ感化シテ中世三社ノ神靈ヲ仰グニ至リシニハ非ザルカ。或ハ又單ニ一箇水ニ臨メル牧トシテ、深クモ牧神ノ德ヲ仰グニ至リシモノカ。後世ノ硏究ヲ須ツノ他ナキナリ。此半島ト相對シテ愛鷹山(アシタカヤマ)ニハ人ノ飼ハヌ野馬アリ。即チ愛鷹明神ノ神馬ナリト云ヘリ。非常ノ駿足ニテ人ハ容易ニ其姿ヲ見ルコト能ハズ〔駿國雜志〕。【九十九】或ハ傳フ、三保ト愛鷹トハ不思議ノ交通アリ野馬ノ數雙方ヲ合セテ常ニ九十九匹、曾テ增減アルコト無シ。三保ニ多ケレバ愛鷹ニ少ナク、愛鷹ニ多ケレバ三保ニ少ナシト云ヘリ〔本朝俗諺志〕。人モ知ル如ク愛鷹山ハ近キ世迄ノ幕府ノ牧場ナリキ。牧場ノ一方ガ高山ニ續キシ爲ニ、野飼ノ駒ノ逸出シ點檢ニ洩レタル者モ多カリシナラン。唯東海道ヲ越エ海ヲ隔テタル半島ノ松原ニ通フト云フニ至リテハ、即チ甲斐ノ黑駒同樣ノ神話ト見ザル能ハザルナリ。【馬神根原】勿論牧童ノ保護ヲ離レテ而モ熊狼ノ害ヲ免レ得シ程ノ野馬ナリトスレバ、必ズ荒ク且ツ逞シキ逸物ニ相違ナケレバ、稀ニ之ヲ思ヒ掛ケヌ谷間ナドニテ見タル人ハ、自然ニ神馬又ハ之ヲ率ヰル馬ノ神ノ信仰ヲ起シ、一方ニハ各自ノ凡馬ノ安全ヲ禱ルト共ニ、他ノ一方ニハ其蹄ノ跡ナドヲ尊崇セズニハ居ラレザリシナルべシ。

 

《訓読》

 遠州御前崎も近海に著しき大岬なり。突端の駒形大明神は、是れ亦、昔の牧馬の名殘ならんかと思はる。此の權現の古きことは一つの證據あり。【駒形三社】前に擧げたる伊豆の輕井澤の駒方神のごとき、手近の箱根の社とは、却りて、關係無く、日下開山(ひのしたかいさん)鎌倉彌左衞門、三國相傳橫須賀與惣右衞門と云ふ兩人の舍人司(とねりのつかさ)、遠州白和駒方(しろわこまがた)の書を以つて、「駒方祝(はふり)」を行ふと言ひ傳へ、其の三社の御正體(みしやうたい)は、中央、白和王(しろわわう)に、右鵲王(うじやくわう)・左鵲王を合はせ祀ると云へり〔「伊豆志」〕。白和は今の白羽村にて、即ち、御前崎の鄰村なり。御前崎と海を隔てゝ相ひ對する駿河の三保にも、安藝の馬島と同じく、亦、馬を愛惜する神を祀れり。今日は、單に謠(うたひ)の「羽衣」とのみ聯想せらるゝ土地なれども、三穗明神は實は熱心なる馬の神にて、深く馬を愛せられ、【野飼】神前の松原には、野馬、常に遊び居たりき。此の松原も到頭、開墾せられて、桃や甘蔗(かんしよ)の畠と成り、舊領主德川公爵をして歎息せしめたりと云ふ程なれども、昔は此の半島の風趣を添ふるものは、松陰に遊べる野馬の群れなりしなり。村々の農家に於いては、馬、疾(や)むときは、此の濱に曳き來り、神の保護の下に放牧し置けば、必ず平癒すと信じたり〔「駿國雜志」〕。思ふに、此の慣習は、必ず、諸國の「野飼」・「馬洗」などの行事と關聯する處あるなるべし。昔は人間の醫藥も、尋常、草根・木皮の外に出でず。病馬を治するの術に於いて、獨り大奇法の存するものあらんや。多くは伯樂が神傳に託して其の道を靈祕にし、もしくは、村老が、あまりに手段の平凡なるを訝りて、之れを信心の力に歸するがごとき、何(いづ)れも極めて自然なる徑路と言ふべきも、要するに、新鮮なる草と水とを得て休養せば、普通の病馬は大抵、其の健康を復することを得しならんのみ。三河寶飯(ほい)郡の小松原と云ふ處の、觀音寺の本尊、馬頭觀音は、行基が作なり。【初午】每年二月初午の日に參詣する者、此の山の隈笹の葉を得て歸る。馬の煩ふ時、御影(みえい)を厩に揭げ、此の笹を以つて飼ふときは、忽ち、癒ゆ〔「諸國里人談」四〕。【熊野神】長門阿武郡宇田鄕村大字惣鄕(さうがう)の熊野神社は、境内に一つの馬蹄石あり。牛馬、熱に苦しむ者あるときは、一束の草を刈り來りて、此の石の上に置き、退(しりぞ)きて、よく祈り、さて、其の草を以つて病畜に飼ふときは、則ち、治すと云ふ〔「長門風土記」〕。美濃惠那嶽(えなだけ)の笹の葉は既に之れを述ぶ。此等、無名の植物も。只だ一步を進めば、又、かの狐ケ崎の矢筈(やはず)の笹なり。伊賀阿山郡布引村大字中馬野(なかばの)左妻(ひだりつま)には、もと、左妻岩屋あり。中古、洪水に沒して、今、其の處を知らず。【窟(いはや)の神】昔、此の巖窟に馬を愛する神いまして、屢々、橫根山の溪流に馬を洗ひたまふ。馬洗淵の今も存せり。其の神、人間に應接すること、里俗の口碑に殘り、葛城一言主(かつらぎひとことぬし)の談に類す。福地某なる者、曾つて、此の邑(むら)に在りて、馬を獻じ、古來、此の地の名馬を出すことを申すに因りて牧馬の命を蒙りぬ。又、伊賀次郞重國も名馬を本村より獻じたりと言へば、馬野の名、空しからざるに似たり〔「三國地誌」〕。【竈神】三保明神の馬を愛したまふこと、誠に其の由來を知り難しと雖も、此の地は鹽燒く濱なれば、夙(つと)に竃の神の信仰起り、興津彥(おきつひこ)・興津媛(おきつひめ)の說などに感化して、中世、三社の神靈を仰ぐに至りしには非ざるか。或いは又、單に一箇水に臨める牧として、深くも牧神の德を仰ぐに至りしものか。後世の硏究を須(ま)つの他なきなり。此の半島と相ひ對して、愛鷹山(あしたかやま)には人の飼はぬ野馬あり。即ち、愛鷹明神の神馬なりと云へり。非常の駿足にて、人は容易に其の姿を見ること能はず〔「駿國雜志」〕。【九十九】或は傳ふ、三保と愛鷹とは不思議の交通あり、野馬の數、雙方を合はせて、常に九十九匹、曾つて增減あること、無し。三保に多ければ、愛鷹に少なく、愛鷹に多ければ、三保に少なし、と云へり〔「本朝俗諺志」〕。人も知るごとく、愛鷹山は近き世までの幕府の牧場なりき。牧場の一方が高山に續きし爲めに、野飼の駒の逸出し、點檢に洩れたる者も多かりしならん。唯だ、東海道を越え、海を隔てたる半島の松原に通ふと云ふに至りては、即ち、甲斐の黑駒同樣の神話と見ざる能はざるなり。【馬神根原】勿論、牧童の保護を離れて、而も熊・狼の害を免れ得し程の野馬なりとすれば、必ず、荒く、且つ、逞しき逸物に相違なければ、稀に之れを思ひ掛けぬ谷間などにて見たる人は、自然に神馬、又は、之れを率ゐる馬の神の信仰を起こし、一方には各自の凡馬の安全を禱ると共に、他の一方には、其の蹄の跡などを尊崇せずには居られざりしなるべし。

[やぶちゃん注:「遠州御前崎も近海に著しき大岬なり。突端の駒形大明神は、是れ亦、昔の牧馬の名殘ならんかと思はる」既出既注。以下の叙述もそちらの私の注を参照されたい。

「前に擧げたる伊豆の輕井澤の駒方神」ここ

「日下開山(ひのしたかいさん)」天下無双の強者、また、技量の優れた者のこと。現在はは主に横綱力士の代名詞である。天和二(一六八二)年、江戸幕府は武芸者・芸能者らが「天下一」の呼称を乱用するので、その使用の禁止令を布告したが、その後は「天下」と同義語の「日の下」を冠し、「日下開山」と言い換えるようになった。元禄年間(一六八八年~一七〇四年)に勧進相撲の興行の際、抜群の強さを見せた大関や、何年も負けたことのない力士を「日下開山」又は「日下相撲開山」と褒めそやしたことから、後に横綱力士を指すようになった(小学館「日本大百科全書」に拠る)。ここは尊大な自称尊称であろう。

「鎌倉彌左衞門」不詳。

「三國相傳」本来は「三国伝来」と同義で、天竺(インド)から中国又は朝鮮に伝わり、さらに日本に伝来してきた仏法を指す。前の「日下開山」と同じく神仏習合時代の自称尊称であろう。

「橫須賀與惣右衞門」不詳。「よそゑもん」と読んでおく。

「舍人司(とねりのつかさ)」ここは単に下級官人としての神職を指していよう。

「遠州白和駒方(しろわこまがた)」既注の御前崎市白羽(しろわ)に鎮座していた白羽神社元宮、現在の白羽神社のことであろう。

「書」神託の書と礼式の謂いと採り、それを私は「駒方祝(はふり)」という固有的名詞表現として採って鍵括弧を附した。

「白和王(しろわわう)に、右鵲王(うじやくわう)・左鵲王を合はせ祀る」「静岡県神社庁」公式サイト内の白羽神社の由緒書きには、承和四(八三八)年二月に元宮である『岬の駒形神社より』ここへ遷ったとあり、「延喜式」に載る「白羽官牧」の『地と伝えられ、旧社地の駒形神社は、往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる。残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う。式内服織田(はとりだ)神社とも云われ、旧』県『社として古くより信仰が厚い社である。また当社は、往古は馬をお祀りしていた。これは、龍神信仰によるもので、海辺では名馬が育つと信じられたため』であるとある。『また、当社附属の神宮寺もあり、神社所蔵の棟札に神宮寺社僧の名前が見え、当時社僧を置かれていたことが知れる。当社は延喜式に云う白羽官牧に発生した牧場(馬)の守護神として古来より馬持ちの参詣する者が多いために、祭典を白羽馬祭と称し、遠近より参詣の馬は何れも装飾の美を競い、境内は馬と人で埋まったと云う。近代、農業が機械化され、馬の姿すら見られなくなったが、馬は疾走中といえども絶対に人を踏むことのない霊獣であり、自動車交通安全にと信仰が変わっている』ともある。ここに出るのは、その古いプロトタイプに近い祭神像或いはその御影の名指しと思われる(現在の祭神はリンク先を見られたい)。

『今日は、單に謠(うたひ)の「羽衣」とのみ聯想せらるゝ土地』インキ臭い学者の如何にもな謂いだな。専ら「羽衣伝説」でのみ知られる、でよかろうが。

「三穗明神」、静岡県静岡市清水区三保にある御穂(みほ)神社。。「みほ」の字は他に「御廬」「三穂」「三保」にも作る。ウィキの「御穂神社」によれば、『三保の松原には「羽衣の松」があり、羽衣の松から御穂神社社頭までは松並木が続くが、この並木道は羽衣の松を依代として降臨した神が御穂神社に至るための道とされ』、『「神の道」と称される』。『現在でも』、『筒粥神事では』、『海岸において神迎えの儀式が行われるが、その際に神の依りついたひもろぎは』、『松並木を通って境内にもたらされる』。『これらから、御穂神社の祭祀は海の彼方の「常世国」から神を迎える常世信仰にあると考えられている』とある。古くより祭神は大己貴命(大国主)と三穂津姫命(みほつひめのみこと)とされるが、私はこの馬を愛する神とはこの二神とは無縁で、まさにその神迎えのアプローチの長いことから、そこに神の騎る神馬が必要だったのではなかったかと推理している。さればこそ、以下の「神前の松原には、野馬、常に遊び居たりき」が自然に腑に落ちるのである。

「甘蔗(かんしよ)」これは同じ発音の「甘藷」(サツマイモ)の誤りであろう。「甘蔗」と書く場合はサトウキビ(単子葉植物綱イネ目イネ科サトウキビ属サトウキビ Saccharum officinarum)を指す。ウィキの「サトウキビ」によれば、『世界におけるサトウキビの商業栽培の最北限は、四国から伝播した遠州横須賀地区(静岡県掛川市南西部)とみられる』とあるものの、同地区は三保よりも以南である。或いは一時期、ここで植栽が試されたのかも知れないが、そのような資料を確認出来ない。

「舊領主德川公爵」徳川宗家第十六代当主(元は田安徳川家第七代当主)で静岡藩(明治二年八月七日(天保暦。グレゴリオ暦では一八六九年九月十二日)に成立したが、二年後の明治四年七月十四日(一八七一年八月二十九日)に「廃藩置県」により廃藩となった。日本のグレゴリオ暦導入は一八七三年一月一日に当たる明治五年十二月三日を明治六年一月一日とした時に始まる)初代藩主であった徳川家達(いえさと 文久三(一八六三)年~昭和一五(一九四〇)年)。従一位大勲位公爵。世間では「十六代様」と呼ばれた。第四代から第八代までの貴族院議長・ワシントン軍縮会議全権大使・昭和一五(一九四〇)年開催予定であった東京オリンピックの組織委員会委員長・第六代日本赤十字社社長・学習院評議会議長・日米協会会長などを歴任した。大正期には組閣の大命も受けたが、拝辞している(ここはウィキの「徳川家達」その他に拠った)。

「三河寶飯(ほい)郡の小松原と云ふ處の、觀音寺の本尊、馬頭觀音」これは愛知県豊橋市小松原町(ちょう)坪尻にある臨済宗小松原山東観音寺(とうかんのんじ)であろう。ここは「小松原観音」とも呼ばれ、本尊は馬頭観音菩薩である。「行基が作なり」とあるのは当寺の伝承で天平四(七三二)年に行基が夢告を受け、翌年にこの小松原の海岸で一株の霊木を感得し、これを以って馬頭観音像を刻み、堂宇を建立したのを起源とすることから謂いに過ぎず、現在の本尊(御正体)は金銅馬頭観音像で銘は文永八(一二七一)年である。

「每年二月初午の日に參詣」現在も行われている。個人サイトと思われる「東三河を歩こう」の「馬頭観音二の午祭」のページに、『東観音寺のご本尊の馬頭観音のお祭りで、旧暦』二『月の午の日に開催され、本堂ではご祈祷が行われ、牛馬の飼い主が祈願を行う』。『境内では植木市・金魚市の他、多くの屋台が並』び、『また、この祭礼には、豊橋の民話「二ノ午大祭の絵馬」が伝えられている』(リンク先は同サイトの別ページ。荒馬鎮静の話なのでリンクさせておいた)。

『「諸國里人談」四』「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」の画像の、ここここ

「長門阿武郡宇田鄕村大字惣鄕(さうがう)の熊野神社」山口県阿武郡阿武町惣郷はここ。現在、熊野神社はないが、熊野三所権現を祀る御山(おやま)神社があるから、ここであろうか(この神社の東北の同地区内に今一つの御山神社があるが、諸データとグーグル・マップ・データの画像を見る限りでは前者かと思われる)。「馬蹄石」は確認出来ない。

「美濃惠那嶽(えなだけ)の笹の葉は既に之れを述ぶ」こちら

「かの狐ケ崎の矢筈(やはず)の笹」こちら

「伊賀阿山郡布引村大字中馬野(なかばの)左妻(ひだりつま)」三重県伊賀市中馬野。同地区を貫通する川が左妻川である。

「橫根山」不詳。国土地理院図を見ると、同地区や周辺には複数のピークはある。

「馬洗淵」北のピークを超えた直近の伊賀市奥馬野地区に「馬野溪」ならある(国土地理院図)。

「葛城一言主(かつらぎひとことぬし)」ウィキの「一言主」を引く。「古事記」の「下つ巻」に『登場するのが初出で』、雄略天皇四(四六〇)年、『雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある』。少し後の「日本書紀」では、『雄略天皇が一言主神に出会う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になって』おり、さらに『時代が下がっ』た「続日本紀」の巻二十五では、『高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された、と書かれている。これは、一言主を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかと』も『言われている』。さらに、弘仁一三(八二二)年成立の景戒(生没年不詳:奈良時代の薬師寺の僧)が書いた日本最初の説話集「日本霊異記」では、『一言主は役行者(これも賀茂氏の一族である)に使役される神にまで地位が低下しており、役行者が伊豆国に流されたのは、不満を持った一言主が朝廷に讒言したためである、と書かれている。役行者は一言主を呪法で縛り』、「日本霊異記」『執筆の時点でも』、『まだそれが解け』てい『ないとある』。『また、能の』「葛城」では『女神とされている』。『葛城山麓の奈良県御所市にある葛城一言主神社が全国の一言主神社の総本社となって』おり、『地元では「いちごんさん」と呼ばれており、一言の願いであれば』、『何でも聞き届ける神とされ、「無言まいり」の神として信仰されている』。『このほか』、「続日本紀」で流されたと『書かれている土佐国には、一言主を祀る』とされる『土佐神社があり』、『土佐国一宮になっている』。『名前の類似から、大国主命の子の事代主神と同一視されることもある』とある。

「伊賀次郞重國」「長秋記」の天永二年(一一一一)八月二十一日の条に、上皇(白河法皇か)相撲御覧の際に相撲人の「三番、左、淸原重國」として見える伊勢平氏の清原重国は「伊賀住人、字首持、義親首入洛、仍此名流ㇾ世。」とあり、『彼が』源『義親』(河内源氏三代目棟梁源義家の嫡男であったが、対馬守に任ぜられた際に九州で略奪を働いて官吏を殺害したため、隠岐国へ流された。しかし脱出して出雲国へ渡り、再び官吏を殺して官物を奪ったため、平正盛(清盛の祖父)の追討を受けて誅殺された)『の首を持った五人の下人の一人だったことがわかる。おそらく伊賀国にあった正盛の私領を通じた郎等だろう』とある(個人サイト「千葉一族」のこちらに拠ったが、史料は論文等で確認して添えた)が、この人物か?

「興津彥(おきつひこ)・興津媛(おきつひめ)」ウィキの「かまど神」によれば、『日本の仏教における尊像』三宝荒神(日本特有の仏教における信仰対象の一つで、仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する仏神)は、『かまど神として祀られることで知られる。これは、清浄を尊んで不浄を排する神ということから、火の神に繋がったと考えられている』。『また』、『近畿地方や中国地方では、陰陽道の神・土公神がかまど神として祀られ、季節ごとに』、『春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭へ移動すると考えられている』。『神道では三宝荒神ではなく、竈三柱神(稀に三本荒神)を祀る。竈三柱神はオキツヒコ(奥津日子神)・オキツヒメ(奥津比売命)・カグツチ(軻遇突智、火産霊)とされる。オキツヒコ・オキツヒメが竈の神で、カグツチ(ホムスビ)が火の神である』とある。

「愛鷹山(あしたかやま)」静岡県東部にある、富士山の南隣りに位置する火山。最高峰は標高千五百四・二メートルの越前岳であるが、狭義には南方にある千百八十七・五メートルの愛鷹山峰(国土地理院図)を指す。三保の松原の東北で対するが、頂上からは直線でも富士市を挟んで約三十六キロメートル離れている。

「愛鷹山は近き世までの幕府の牧場なりき」料理店「どんぶる家 伊豆海」のサイトの「沼津の歴史・文化の紹介 愛鷹三牧場 愛鷹牧の歴史」に、

   《引用開始》

古代の律令制国家のもと、全国各地に牧が置かれ、牛や馬が飼育された。

最初、牧は兵部省の管轄の下、国司が管理してきたが、十世紀初頭の駿河国には、岡野馬牧、蘇弥奈馬牧という二つの牧が置かれていた。岡野の岡宮、蘇弥奈は比奈という後世の地名に継承されたとも言われ、現在の沼津市から富士市にかけての愛鷹山南麓ではないかと推定されている。古代末期から中世へと時代が移り、律令制が衰退していくと、牧も私牧・荘園化していくことにより愛鷹山の牧の施設・機能もなくなった。しかし、野生の馬は、生き続け、愛鷹山頂を本宮とする愛鷹明神の神主奥津家がそれを保護し、今川氏や武田氏からも神領・神馬の安堵を受け近世に至った。

近世に入ると、諸藩では独自に牧を設置・経営したが、江戸幕府自身も小金五枚、佐倉七枚、安房国の嶺五枚、駿河国の愛鷹三枚という合計二十箇所の牧を経営した。

古代・中世以来放置されていた愛鷹山の野馬に江戸幕府が最初に目を付けたのは、房総において牧の準備・新設を進めていた享保期のことであった。

しかし、愛鷹明神神主奥津氏や農民たちは愛鷹山野馬が建久五年(1194)に源頼朝によって奉納された九十九頭の神馬に由来すること、今川義元・武田信玄・川毛惣左衛門・井出志摩守正次ら歴史の支援者たちも神馬・神領を安堵してきたことなどを理由に、牧設置に反対の意向を示したことにより上の歳月が流れた。

寛政八年(1796)同年十一月、幕府は神罰が下ることを恐れ執行に反対する奥津神主の主張を退け、牧の開設を断行した。

元野・尾上・霞野三牧の用地選定を行った、その年十二月から翌年二月にかけて、土手の築造をはじめとする牧場施設の建築が地元農民たちによって行われ寛政九年(1797)三月、はじめての捕馬が実施されたのである。

明治維新後は一部が明治政府に引き継がれ御料牧場になったほか、開墾され農地や宅地になったり、軍隊の演習場になったりした。

[やぶちゃん注:ここに「駿州愛鷹牧捕獲馬之図」(世古明夫氏所蔵)がある。]

愛鷹三牧場

愛鷹三牧場は、今から二〇〇年ほど前の寛政九年、江戸幕府によって設置された馬の三つの牧場で、明治初年に廃止されたため、期間はわずか八〇年ほどでしたが、江戸幕府の直営した全国的にも数少ない牧場でした。

牧場が出来る前の愛鷹山麓には、源頼朝が奉納した神馬が、半ば野生化し野馬となり数百頭が疾駆していました。この周辺もかつては三牧馬の一つがあった所です。

   《引用終了》

この解説で「九十九」の名数の意味が腑に落ちた。感謝申し上げる。]

種子 伊良子清白

 

種 子

 

初冬の

晴れたる緣に

夕顏の種子(たね)を干し

厚き紙に包み

机の抽斗(ひきだし)に深く藏めぬ

 

落葉して

冬の眠に入る

木々と共に

夕顏の種子は

生きてあり

 

大地柔らぎて

夕顏の播かるる日

一粒の種子は

夢よりさめて

靜かに

眼(まなこ)開かん

 

  また

 

稚子の齒ににたる

うす白(じろ)き

夕顏の種子を

掌(たなぞこ)にのせ

動かせば

つぶやく音して

寄りあひぬ

 

  また

 

深山幽谷に

落ちる木の實が

岩の上で

ころがるやうに

わたしのてのひらに

夕顏のたねは

あそんでゐる

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四一)年一月一日発行の『女性時代』(第十二年第一号)。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、当年満六十四。同年十二月八日、太平洋戦争勃発。]

學歌 伊良子清白 / 現在の京都府立医科歯科大学(伊良子清白の出身校の後身)の公式学歌

 

學 歌

 

   一

比叡(ひえ)は明(あ)けたり鴨(かも)の水(みづ)

學城(がくじやう)立(た)てり儼(げん)として

眞理(まこと)の證(あかし)神祕(くしび)の扉(と)

生命(いのち)の燭火(ともし)常(とこ)照(て)りて

星(ほし)の群花(むればな)地(つち)を灼(や)く

   二

鐘鳴(かねな)る白晝(まひる)かうかうと

橘井(きつせい)の健兒(けんじ)眉(まゆ)昂(あが)る

制霸(せいは)の業(げふ)を受(う)け繼(つ)がん

豪邁(がうまい)の歌(うた)鑠石(しやくせき)の

巷(ちまた)の風(かぜ)に轟(とゞろ)きぬ

   三

見(み)よ夕暮(ゆふぐれ)の空(そら)の月(つき)

靑蓮(せいれん)の花(はな)今(いま)咲(さ)きて

圓(まど)に匂(にほ)ふ史(ふみ)の色(いろ)

永久(とは)の學府(がくふ)の榮光(かゞやき)は

綠(みどり)の旗(はた)の虹(にじ)の橋(はし)

   四

神(かみ)と澄(す)むもの雪(ゆき)祭(まつ)り

醫道(いだう)古賢(こけん)の敎(をしえ)あり

生贄(いけにへ)の日(ひ)の曙(あけぼの)に

燃(も)ゆる血潮(ちしほ)を捧(さゝ)げ來(き)ぬ

仁慈(めぐみ)の愛(あい)の赫灼(あかあか)と

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年作の母校京都医学校の後身である京都府立医科歯科大学の学歌作詞の依頼を受けて、八月に完成したもの。署名は「伊良子清白」。作曲は服部正。「をしえ」はママ。本年、清白、満六十三。同大学「学生便覧」(PDF)の六十八ページに楽譜附きで載る。なお、校歌は別にあり、金子伊昔紅(いせきこう)作詞で(俳人金子兜太の父で医師で俳人)、次のページに載る(但し、金子伊昔紅の名を「金子伊音紅」と誤っている)こちらで全曲を混声合唱とオーケストラで聴くことが出来る(それによればこの曲は通称「比叡は明けたり」と呼ばれているらしい)。京都府立医科大学校史パンフの一部と思われるものの、第五章「激動の医科大学――戦争と民主化の渦にもまれて」(PDF)の最後にも載るが(作詞・作曲の次行に皇紀で『紀元二千六百年九月』と附すから、公式に学校・学生へ披露されたのは翌九月であったことが判る)、ここでは「教」のルビが正しく「をしへ」となっているものの、一番の「燭火(ともし)」が「独火」と致命的に誤っている

 同大学公式サイトの沿革によれば、同校は、京都市民らの請願を受けた僧侶が発起人となり、寺院・町衆・花街などから寄附を募って設立、運営を京都府に乞い、明治五(一八七二)年十一月、京都東山の名刹粟田口にある青蓮院内に仮療病院を設け、患者の治療を行う傍ら、医学生を教育したものが発祥であった。明治一三(一八八〇)年七月に現在地である上京区河原町通広小路上る梶井町に療病院を移転し、明治十五年、「文部省達第四号医学校通則」に準拠し「甲種医学校」と認定された(伊良子清白は明治三二(一八九九)年にここを卒業した)。後、明治三六(一九〇三)年六月に「専門医学令」により「京都府立医学専門学校」となり、大正一〇(一九二一)年十月には「大学令」により「京都府立医科大学」を設置(同時に予科を開設)している。

「學歌」とは校歌とは異なり、学生たちの歌のニュアンスなのであろうか。

「橘井(きつせい)」医者のこと。西晋・東晋期の葛洪(かっこう)著と伝えられる神仙書「神仙伝」に、漢の蘇仙公が死に臨んで母に遺言して、「来年は疫病が流行するが,庭の井戸水と軒端の橘の葉とを用いれば、病を治すことができる」と告げ,果たしてその通りとなった。この故事から転じて「橘井」を医師の敬称となった。因みに、京都府立医科大学の校章には「橘の葉」がデザインされており、現在の「京都府立医科大学リポジトリ」の名は「橘井(きっせい)」である。

「鑠石(しやくせき)」石をも溶かす暑さを言う。この四番歌は恐らくは四季をイメージしているもので、とすれば「二」は夏で、苛烈な京の夏の暑さを意識しつつ、医学生の医道研鑚への熱意を掛けたものと私はとる。]

2019/06/23

ゆく春三章 伊良子清白

 

ゆく春三章

 

 

  ほのぼの遠き

 

ほのぼの遠き海の果

白帆はすぎて春山幾日(いくひ)

椿は落ちぬ音もなく

岩の峽間(はざま)の波のうへ

 

躑躅(つゝじ)花燃え山煙り

鷗(かもめ)叫びて海靑し

いそのこちごち霞立つ

春のわかれの浪の音

 

 

  東の、東の

 

東(ひんがし)の、東(ひんがし)の

見えざる遠(とほ)に伊豆はあり

伊豆の七島(なゝしま)まぼろしの

沖のとよもす潮騷(しほさゐ)は

そなたよりこそきこえくれ

牡丹繪がける鰹舟

燒津(やいづ)のふねも往くらんか

 

 

  磯のかけぢの

 

磯の懸路(かけぢ)の

夜の空は

星影淡(あは)く

波靜か

漕ぎ囘(た)む舟の

櫓の軋(きし)み

夜網揚ぐるか

岸づたひ

ぬすむがごとき

水の音

 

[やぶちゃん注:昭和一四(一九三九)年六月一日『花椿』(第三巻第六号)に掲載。署名は「伊良子清白」。この年、伊良子清白六十二歳。

「懸路(かけぢ)」原義は「険しい道」であるが、近世、崖の中腹に懸けた桟道の意でも用いた。ここは後者で私はとる。

「囘(た)む」マ行上二段活用の上代よりの古い自動詞。「ぐるりと巡る」の意。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(41) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(2)

 

《原文》

 駿馬ノ龍ヲ父トスルコト、近世ニ於テモ正シク其實例アリキ。【龍ケ池】羽前東田川郡淸川村ノ對岸ニ龍ケ池アリ。【鞍淵】此水ハ山中ノ靑鞍淵ト地下ニ相通ズト傳ヘラレ、曾テ領主ガ池水ヲ切落サントセシ時ニモ、掘ルニ從ヒテ底愈窪ミ、漫々トシテ終ニ其深サヲ減ゼザリキ。此池ニモ龍アリテ住ムガ故ニ、池ノ空ニ龍ノ形ヲシタル雲ノ折レ棚引クヲ見ルコトアリ。【野飼】酒井侯忠眞ノ治世ニ、成澤村ノ農長右衞門ガ家ノ女馬、此池ノ岸ニ野飼スル間ニ龍ノ子ヲ孕ミタリ。生レシ駒ハ鹿毛ノ駿逸ナリキ。忽チニ藩主ノ乘馬トナリ後ニ之ヲ公儀ニ獻ズト云フ〔三郡雜記下〕。士佐ノ果下馬(トサゴマ)ハ體コソ小サケレ、健カニシテ且ツ鋭キコトヨク彼國ノ人物ニ似タリ。其開祖モ亦水邊ノ牧ヨリ出デシモノニテ、一說ニハ牝馬ノ海鹿(アシカ)ト交リテ生ミシ子ナリト稱シ、ソレ故ニ性質チト順良ナラズトモ評セラル〔有斐齋剳記〕。此等ノ事實ヲ參酌シ、兼テ又多クノ池月ガ池ノ邊ヨリ生レ出シコトヲ思ヒ合ストキハ、我邦ニテ延喜式以來ノ諸國ノ牧場ノ海ニ臨メル地ニ多カリシハ、決シテ單ニ土居ヤ圍障ノ經費ヲ節約センガ爲ノミニ非ザリシコトヲ疑フ能ハズ。即チ斯クスレバ良キ駒ヲ產スべシト云フ經驗乃至ハ理論ノ確乎タルモノアルニ非ザレバ、島地岬端ヲ求ムルコト此ノ如ク急ナルべキ理無キナリ。俗說ノ傳フル所ニ依レバ、馬ハ應神天皇ノ御代ニ高麗國ヨリ初メテ之ヲ貢獻ス。【生駒山】之ヲ飼フべキ途ヲ知ラズ、山ニ放チタルニ依リテ其山ヲ生駒山ト云フ。其後高麗ヨリ人渡リテ申ス、岩石峯海ノ邊鹽風ニ當ル處ニ放チ飼ヘバ駿馬トナリテヨシト申ス。依リテサアリヌべキ處ヲ尋ネ、但馬國ノ海峯ニ斯ル處ヲ求メ得テ馬ヲ追放ツ。其後子ドモ多ク生レテ馬此國ニ充滿シケリ。故ニ多馬(タマ)ノ國ト號ス云々〔但馬考所引國名風土記〕。【島ノ牧】島ノ牧ニ至リテハ近世ニモ例甚ダ多シ。羽前ノ海上ニ飛島ナリシカ粟島ナリシカ、今モ共有ノ野馬山ニ多ク居リ、島人其用アル時ノミ繩ヲ携ヘ行キテ之ヲ捕ヘテ使ヒ、用終レバ復之ヲ放ツト云フ話ヲ聞キシコトアリ。伊豆ノ大島ニテハ里ニ飼フハ牛ノミナレドモ、八代將軍ノ時ニ放牧セシ野馬ノ子孫、三原山ノ中腹ニ永ク住ミテアリシト云ヘリ。津和野ノ龜井伯ノ始祖龜井琉球守玆矩ハ雄圖アル武將ナリキ。曾テ大船ヲ購ヒテ明國安南暹羅ナドト貿易セシ頃、多クノ驢馬野牛ヲ舶載シ來リテ之ヲ因幡湖山池(コナンイケ)ノ靑島ニ放牧ス。其種永ク盡キズ、寬永年中ニ至リテ尙其姿ヲ見タリト云フ〔漫遊人國記〕。瀨戶内海ニハ島ノ牧殊ニ多カリキ。熊谷直好ノ歸國日記ニ

  赤駒ニ黑ゴママジリ遊ビ來ル島ノ松原面白キカナ

ト詠ジタルハ、今ノ何島ノ事ナリヤハ知ラザレドモ、安藝ノ海中ニモ馬島ト稱シテ野馬ノ多キ一島アリキ。但シ之ヲ取還ラントスル者アレバ、其舟必ズ覆沒スト云ヘバ〔有斐齋剳記〕、世用ニ於テハ益無キナリ。播州家島(エジマ)ノ南方十五町ノ處ニモ、寬文ノ頃一ノ馬島アリテ牧ヲ設ケラル〔西國海邊巡見記〕。安藝賀茂郡阿賀町ヨリ一里ノ海上ニ、情島(ナサケジマ)ト云フ大小二箇ノ島アリ。大情ノ方ハ承應三年ニ藩ノ牧場ト定メラレ之ニ十匹ノ馬ヲ放ス。追々ニ繁殖シテ明曆ノ頃ニハ二十餘頭ニ達シタリ。後年其數ノ減ズルヲ以テ文化十四年ニハ更ニ一頭ノ月毛ヲ放ス。此月毛ハ廣島ノ東照宮ノ祭ノ神馬ナリキ。後ニ又牝馬二匹ヲ以テ其牧ニ加ヘタリト云ヘリ〔藝藩通志〕。讚州高松藩ニテハ慶安年中ニ大内郡ノ大串山ト云フ處ニ馬牧ヲ開キ馬ヲ放ス。大串山ハ島ニ非ズ、一里バカリ海中ニ突出スル半島ナリ。陸續キノ一面ニハ塹ヲ掘リテ馬ノ逸出スルヲ防ギタリ。此牧ハ良馬ヲ出サザリシガ故ニ終ニ之ヲ罷ムトアリテ〔讚岐三代物語〕、爰ニモ明カニ龍神信仰ノ末法ヲ示セリ。此序ニ申サンニ、大串山ノ串ハ半島又ハ岬ノコトナリ。地方ニ由リテハ之ヲ久慈又ハ久枝トモ書ケド、是レ恐クハ二字ノ嘉名ヲ用ヰシモノニテ、紀州ノ串本、長門ノ小串其他、串ト書スル例モ多シ。串ハ朝鮮語ニテモ亦半島若シクハ岬ヲ意味シ、本來「コツ」ノ語音ニ宛テタル漢字ナランカト云ヘリ。而シテ朝鮮ニテモ島又ハ串(コツ)ヲ馬牧トスルハ最モ普通ノ慣習ナリシナリ。其例ヲ擧グレバ限無シト雖、中ニモ大ナルハ全羅道大靜縣ノ加波島、慶尙道熊川縣南海ノ加德島、同ジク長髻縣ノ冬乙背串、忠淸道ニテハ瑞山郡ノ安眠串、奉安郡ノ和靈山串、大小山串梨山串薪串ノ四串、河川郡ノ金宅串、唐津縣ノ西ニ在ル孟串ノ如キモ皆古來ノ牧ナリキ〔東國輿地勝覽〕。獨リ日本内地ノミノ風習ニハ非ザリシコトハ此ダケニテモ容易ニ察スルコトヲ得ルナラン。

 

《訓読》

 駿馬の龍を父とすること、近世に於いても正(まさ)しく其の實例ありき。【龍ケ池】羽前東田川郡淸川村の對岸に龍ケ池あり。【鞍淵】此の水は山中の靑鞍淵と地下に相ひ通ずと傳へられ、曾つて領主が池水を切り落とさんとせし時にも、掘るに從ひて、底、愈々、窪み、漫々として、終に其の深さを減ぜざりき。此の池にも龍ありて住むが故に、池の空に龍の形をしたる雲の、折れ棚引くを見ることあり。【野飼】酒井侯忠眞(ただざね)の治世に、成澤村の農長右衞門が家の女馬、此の池の岸に野飼する間に、龍の子を孕みたり。生れし駒は鹿毛(かげ)の駿逸なりき。忽ちに藩主の乘馬となり、後に之れを公儀に獻ずと云ふ〔「三郡雜記」下〕。士佐の「果下馬(とさごま)」は體こそ小さけれ、健かにして、且つ、鋭きこと、よく彼の國の人物に似たり。其の開祖も亦、水邊の牧より出でしものにて、一說には牝馬の海鹿(あしか)と交りて生みし子なりと稱し、それ故に、性質、ちと、順良ならずとも評せらる〔「有斐齋剳記(いうびさいたうき)」〕。此等の事實を參酌し、兼ねて又、多くの池月が池の邊より生れ出でしことを思ひ合すときは、我が邦にて「延喜式」以來の諸國の牧場の海に臨める地に多かりしは、決して單に土居(どゐ)や圍障(ゐしやう)の經費を節約せんが爲めのみに非ざりしことを疑ふ能はず。即ち、斯くすれば、良き駒を產すべしと云ふ經驗乃至は理論の確乎たるものあるに非ざれば、島地(しまち)・岬端(こうたん)を求むること此くのごとく急なるべき理(ことわ)り、無きなり。俗說の傳ふる所に依れば、馬は應神天皇の御代に高麗國(こうらいこく)より初めて之れを貢獻す。【生駒山】之れを飼ふべき途(みち)を知らず、山に放ちたるに、依りて其の山を生駒山と云ふ。其の後、高麗より、人、渡りて申す、「岩石峯海の邊、鹽風に當たる處に放ち飼へば、駿馬となりてよし」と申す。依りて、さありぬべき處を尋ね、但馬國の海峯に斯る處を求め得て、馬を追ひ放つ。其の後、子ども、多く生れて、馬、此の國に充滿しけり。故に「多馬(たま)の國」と號す云々〔「但馬考」所引「國名風土記」〕。【島の牧】島の牧に至りては、近世にも、例、甚だ多し。羽前の海上に飛島(とびしま)なりしか粟島(あはしま)なりしか、今も共有の野馬、山に多く居り、島人、其の用ある時のみ、繩を携へ行きて、之れを捕へて使ひ、用終れば、復た之れを放つ、と云ふ話を聞きしことあり。伊豆の大島にては、里に飼ふは牛のみなれども、八代將軍の時に放牧せし野馬の子孫、三原山の中腹に永く住みてありしと云へり。津和野の龜井伯の始祖龜井琉球守玆矩(これのり)は雄圖ある武將なりき。曾つて大船を購ひて、明國・安南[やぶちゃん注:現在のヴェトナム。]・暹羅(しやむ)[やぶちゃん注:シャム。現在のタイ。]などと貿易せし頃、多くの驢馬・野牛を舶載し來たりて、之れを因幡湖山池(こさんいけ)の靑島に放牧す。其の種、永く盡きず、寬永年中[やぶちゃん注:一六二四年~一六四五年。]に至りて尙、其の姿を見たりと云ふ〔「漫遊人國記」〕。瀨戶内海には島の牧、殊に多かりき。熊谷直好(くまがいなほよし)の「歸國日記」に

  赤駒に黑ごままじり遊び來る島の松原面白きかな

と詠じたるは、今の何島の事なりやは知らざれども、安藝の海中にも馬島と稱して野馬の多き一島ありき。但し、之れを取り還らんとする者あれば、其の舟、必ず覆沒すと云へば〔「有斐齋剳記」〕、世用(せよう)に於いては、益、無きなり。播州家島(えじま)の南方十五町[やぶちゃん注:一キロ六百四十メートル程。]の處にも、寬文[やぶちゃん注:一六六一年~一六七三年。]の頃、一つの馬島ありて、牧を設けらる〔「西國海邊巡見記」〕。安藝賀茂郡阿賀町より一里の海上に、情島(なさけじま)と云ふ大小二箇の島あり。大情の方は承應三年[やぶちゃん注:一六五四年。]に藩の牧場と定められ、之れに十匹の馬を放す。追々に繁殖して、明曆[やぶちゃん注:一六五五年~一六五八年。]の頃には二十餘頭に達したり。後年、其の數の減ずるを以つて、文化十四年[やぶちゃん注:一八一七年。]には更に一頭の月毛を放す。此の月毛は廣島の東照宮の祭の神馬なりき。後に又、牝馬二匹を以つて其の牧に加へたりと云へり〔「藝藩通志」〕。讚州高松藩にては、慶安年中[やぶちゃん注:一六四八年~一六五二年。]に大内郡の大串山と云ふ處に馬牧を開き、馬を放す。大串山は島に非ず、一里ばかり海中に突出する半島なリ。陸續きの一面には塹(ほり)を掘りて、馬の逸出するを防ぎたり。此の牧は良馬を出ださざりしが故に、終に之れを罷むとありて〔「讚岐三代物語」〕、爰にも明らかに龍神信仰の末法を示せり。此の序でに申さんに、大串山の「串」は「半島」又は「岬」のことなり。地方に由りては之れを「久慈」又は「久枝」とも書けど、是れ、恐らくは二字の嘉名を用ゐしものにて、紀州の串本、長門の小串其の他、「串」と書する例も多し。「串」は、朝鮮語にても亦、「半島」若しくは「岬」を意味し、本來、「コツ」の語音に宛てたる漢字ならんかと云へり。而して朝鮮にても、「島」又は「串(コツ)」を馬牧とするは、最も普通の慣習なりしなり。其の例を擧ぐれば限り無しと雖も、中にも大なるは、全羅道大靜縣の加波島、慶尙道熊川縣南海の加德島、同じく長髻縣の冬乙背串(とうつはいこつ)、忠淸道にては瑞山郡の安眠串、泰安郡の和靈山串、大小山串・梨山串・薪串の四串、沔川(べんせん)郡の金宅串、唐津縣の西に在る孟串のごときも皆、古來の牧なりき〔「東國輿地勝覽」〕。獨り日本内地のみの風習には非ざりしことは此れだけにても容易に察することを得るならん。

[やぶちゃん注:「羽前東田川郡淸川村の對岸に龍ケ池あり」山形県東田川郡庄内町清川はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。最上川左岸の集落で、対岸の山の中腹に池が現存する(少し外れた北西にも別に小さな池沼があるが、航空写真に切り替えて見ると干上がっている可能性が濃厚であり、国土地理院図(後掲)ではこの小さな池自体が確認出来ない。雰囲気からすると、谷筋を堰堤で仕切った人工の滞水域のようにも見えるが、後の「成澤村」の注をも参照されたい)。但し、こちら側(最上川右岸)は山形県酒田市成興野(なりこうや)須郷(すごう)であり、調べても池の名は判らない(しかし有意な池であるから、名はあるはずである)。「山中の靑鞍淵」も判らぬが、池があるその上のピークは低く、流れも北の谷になるので、或いは、東北部に聳える山塊の大きな複数の谷(国土地理院図)の孰れかの淵を指すものかも知れない。

「曾つて領主が池水を切り落とさんとせし時にも、掘るに從ひて、底、愈々、窪み、漫々として、終に其の深さを減ぜざりき。此の池にも龍ありて住むが故に、池の空に龍の形をしたる雲の、折れ棚引くを見ることあり」この話、私は以前、全く別の江戸の奇談集で確かに読んだ記憶があるのだが、思い出せない。思い出した時は追記する。

「酒井侯忠眞」出羽庄内藩第四代藩主酒井忠真(寛文一一(一六七一)年~享保一六(一七三一)年)。天和二(一六八二)年に父忠義の死により家督を相続した。元禄六(一六九三)年には側用人に就任している。

「成澤村」ロケーションの続きから、国土地理院図で調べると、山形県酒田市成興野の北に成沢の地名を見出せる。ところが、この地区を北から流れる「又右ェ門川」(柳田國男の言う「農長右衞門」の名が冠された川だ)の中途部分が先のグーグル・マップ・データで確認出来る池のような溜まりなのである。ちょっと悩ましいが、しかし、ここは谷の途中が堰き止められたようなもので、地形的に見ても周囲に平地が殆んどない。駒を野飼いするスペースを池の周囲が有するのは、圧倒的に先の、ここの東南東にある大きな方であるから、私の同定は変更しない。

「果下馬(とさごま)」広義の「果下馬(かかば)」は所謂、現在のポニー(pony:肩までの高さが百四十七センチメートル以下の小さな馬)の元になった品種の一つ。柳田國男が振っている「とさごま」=土佐馬は小柄な馬で、山の坂道を良く歩くとされたが、既に純血種は絶滅してしまっている。個人サイトらしき「Private Zoo Garden」の「カカバ(果下馬)」によれば、中国広西チワン自治区原産で、丈は一メートルから一メートル二十センチメートルほどで、『毛色は茶褐色、赤茶色、乳白色などで、顔は広く、ロバに似た感じがする』。『古くは騎馬用などにも用いられたようであるが、婦女子の乗馬用などにも好まれていたようである』。『カカバは丈夫でおとなしい性格のため、近年まで使役動物としても用いられてきたが、現在では在来のものが少なくなっている』。『主に青草などを食べ、習性などはポニーの仲間と同じと思われる』。『カカバは「果下馬」と書かれるが、この名前は、体が小さいので』、『果樹の木の下を通り抜けることが出来るということ』に由来するとある。『また、現在、韓国で天然記念物に指定されている「済州馬」は、カカバと同種であると思われ、かつてカカバは朝鮮半島にも生息していたと考えられている』。『国内にもノマウマ (野間馬) などの小型の在来馬が生息しているが、いずれも生息数は少なく、保護されている』とある。貝原益軒の「大和本草」の巻之十六の「獸類」の「猿」と「貒(まみ)」(タヌキ)の間に「果下馬」がある。私のブログ・カテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部』のポリシーに従って電子化する。底本は「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」PDF版を視認してタイプした(リンク先は目次のHTMLページ)。

   *

【外】大明一統志曰果下馬肇慶府瀧水縣出

 者爲最高不踰三尺長者有兩脊骨號雙脊馬健

 而能行是土佐駒ナルヘシ土佐駒ハ草ヲ食シテ能重

 キヲ䭾フ不要飼穀甚便于民用又范石湖カ桂海

 獸志ニモノセタリ與一統志所載略同是一統志ヨリ

 古書ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

【外】[やぶちゃん注:この「外」とは、本書が主に拠るところの明の李時珍の「本草綱目」には載せないが、他の中国の本草書には載る種の謂いである。]

「大明一統志」に曰はく、『果下馬、肇慶府瀧水〔(らうすい)〕縣に出づる者、最と爲す。高さ三尺の長〔(たけ)〕に踰〔(こ)〕ゑざる[やぶちゃん注:ママ。]者、兩〔つながら〕、脊骨、有り、「雙脊馬」と號す。健かにして能く行く』〔と〕。是れ、「土佐駒」なるべし。土佐駒は草を食して、能く重きを䭾(を)ふ[やぶちゃん注:ママ。「負ふ」「擔ふ」であるから歴史的仮名遣は「おふ」でよい。]。穀を飼〔(かひばと)する〕ことを要せず、甚だ民用に便〔(びん)〕:なり。又、范石湖が「桂海獸志」にものせたり。「一統志」の載する所と、略〔(ほぼ)〕同じ。是れ、「一統志」より古書なり。

   *

・「大明一統志」は明の勅撰の地理書。一四六一年完成。全九十巻。

・「范石湖」南宋の政治家で詩人で「南宋四大家」の一人に数えられる范成大(一一二六年~一一九三年)の号。「桂海獸志」は恐らく彼が書いた桂林・広西の民俗誌の「桂海虞衡志」の中の獣類パートを指すものと思われる。

「海鹿(あしか)」食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科アシカ亜科 Otariinae のアシカ類。詳しくは「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ)(アシカ類・ニホンアシカ)」を見られたい。そこでも、アシカを「頭は馬のごとく」とか言っているが、全然違うっうの!

「土居(どゐ)」土塁。

「圍障(ゐしやう)」垣根・塀・柵。孰れも、所謂、人工のテキサス・ゲート。

「馬は應神天皇の御代に高麗國(こうらいこく)より初めて之れを貢獻す」これっておかしいだろ! 「古事記」の素戔嗚尊が機屋に投げ込んだんは何の皮やねん!! 但し、ウィキの「馬」によれば、『先史時代の日本には乗馬の歴史はなく、大陸から伝来した文明、文化とされる。日本に馬が渡来したのは古くても、弥生時代末期』(紀元後三世紀中頃)『ではないかといわれ』、四『世紀末から』五『世紀の初頭になって』、『漸く乗馬の風習も伝わったとされる』とある。因みに、応神天皇の在位期間は機械換算で二七〇年から三一二年。しかして以上は「日本書紀」の応神天皇十五(二八四)年八月六日の記載に無批判に拠ったもの。

   *

十五年秋八月壬戌朔丁卯。百濟王遣阿直岐。貢良馬二匹。卽養於輕坂上厩。因以以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐亦能讀經典。卽太子菟道稚郞子師焉。於是天皇問阿直岐曰。如勝汝博士亦有耶。對曰。有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖荒田別。巫別於百濟。仍徴王仁也。其阿直岐者。阿直岐史之始祖也。

   *

「羽前の海上」「飛島(とびしま)なりしか粟島(あはしま)なりしか」山形県酒田市飛島なら羽前。新潟県岩船郡粟島浦村の粟島は羽前ではない。馬の話もネットでは掛かってこない。ただ、柳田國男がいい加減な誤認で粟島を出したものではないようには思う。粟島と飛島は対馬海流の影響下にあり、南方系の文化北上のルートとしてダイレクトに繋がっているからである。但し、だから、これらの島に南の馬が運ばれてきたなどと軽々に言おうと言うのではない。

「津和野の龜井伯の始祖龜井琉球守玆矩(これのり)」(弘治三(一五五七)年~慶長一七(一六一二)年)は戦国大名で、因幡鹿野(しかの)藩初代藩主。父は尼子氏家臣であった湯左衛門尉永綱。武蔵守。尼子氏の滅亡後、諸国を流浪し、天正元(一五七三)年、因幡国に来住、尼子氏再興を図る旧臣山中鹿之介幸盛に従って各地に転戦、同二年、幸盛の養女を妻に迎え、同じく尼子氏旧臣で幸盛の外舅に当たる亀井秀綱の家号を継いだ。後、幸盛とともに織田信長に属し、幸盛が死去すると、その部下を率いて羽柴(豊臣)秀吉に属した。同八年、因幡国に入り、鹿野城(現在の鳥取県気高郡鹿野町)に籠って毛利軍と戦い、秀吉の鳥取(久松山)城攻略に貢献、同国気多郡に一万三千八百石を与えられ、鹿野城主となる。その後、九州征討・朝鮮出兵にも従軍し、秀吉から琉球征服の朱印を得て、前代未聞の「琉球守」を称した。慶長五(一六〇〇)年の「関ケ原の戦い」では、家康方に属し、同国高草郡を宛がわれ、計三万八千石を領した。気多郡日光池や高草郡湖山池の干拓を手掛け、千代川左岸に延長二十二キロメートルにも及ぶ「大井手用水」を設けた。また、南方種の稲を栽培させ、桑・楮(こうぞ)の植樹に努めるなど、産業振興を図るとともに、文禄年間(一五九二年~一五九六年)から伯耆国日野郡に銀山を経営した。また、慶長一二(一六〇七)年から、三度に亙ってサイヨウ(現在のマカオ周辺)やシャム(タイ)に貿易船を派遣、家康とシャム国王の仲介にも努めている(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」よった。さて、以下、ウィキの「亀井茲矩」によれば、『茲矩は東アジアへの関心に影響されてか、秀吉が中国大返しによって姫路城に戻った』六月七日の『翌日、毛利と講和したため』、『茲矩に約束していた出雲半国の代わりに恩賞となる別国の希望を聞いたところ』、『「琉球国を賜りたい」と答えたため、秀吉は「亀井琉球守殿」と書いた扇を茲矩に授けたという』。『琉球守』と『は律令にないユニークな官職名であり、茲矩も琉球征伐を秀吉に申し出て』、『一度は許可されている。しかし豊臣政権として』は『琉球政策は島津氏を取次とする支配体系と』決した『ため、権益を有する島津家からの妨害もあって』、『茲矩の官職名は九州征伐の頃から小田原征伐の頃にかけて武蔵守となっている。その後、台州守の号を称したが、これは現在の中』『国浙江省の台州市のことである。ただし、文禄・慶長の役で明攻略が挫折した以降は』、『再び武蔵守を名乗っている』とある。

「因幡湖山池(こさんいけ)の靑島」鳥取県鳥取市北部にある、「池」と名に付く湖沼の中では日本最大の広さを持つ汽水湖湖山池(こやまいけ)の南部に浮かぶ最大の無人島青島。陸地からは五百メートルも離れておらず、現在は青島大橋で陸と結ばれている。

「熊谷直好(くまがいなほよし)」(天明二(一七八二)年~文久二(一八六二)年)は江戸後期の周防国岩国藩士で歌人。鎌倉初期の名将熊谷直実の第二十四世を称した。ウィキの「熊谷直好」によれば、もとは『萩藩藩士となった安芸熊谷氏分家の出身』。先祖の一人『熊谷信直の五男』『熊谷就真』(なりざね)『が熊谷騒動(毛利家による熊谷本家・熊谷元直の粛清事件)に連座』して『萩を追われ』、『岩国に一時』、『滞在し』た。『のち』、『一族が赦された際、就真の子』『正勝は萩に戻らず』、『岩国藩士となった』が、その『子孫が直好であ』った。十九歳の時、『上洛して香川景樹に師事、桂門』一千『人中の筆頭と称された。香川景樹の桂園十哲の一人にも数えられ』たが、文政八(一八二五)年、『香川家の扶持問題に絡んで脱藩している。京都に住んだが、その後』、『大阪へ移っ』て歌業に専念した。『歌集に「浦のしお貝」、著書に「梁塵後抄」「法曹至要抄註釈」「古今和歌集正義序註追考」など』がある。「歸國日記」も「赤駒に」の一首も不詳。

「安藝の海中」「馬島」広島県呉市三津口湾に馬島(まじま)という無人島はある。ここかどうかは知らぬ。

「播州家島(えじま)の南方十五町」、瀬戸内海東部の播磨灘(姫路市から沖合約十八キロメートル)にある家島(いえしま)諸島。東西二十六・七キロメートル、南北十八・五キロメートルに亙って大小四十余りの島嶼で構成されている(現在は諸島全域が兵庫県姫路市に属する)が、この家島は主島「家島」を含めて地元では「いえしま」ではなく、「えじま」と呼ばれるウィキの「家島諸島」にある。ここで言う「一つの馬島」は、示された方角と距離と牧を設け得る島の大きさから見て無人島「矢ノ島」しかない(航空写真をリンクさせたが、しかし、およそ現況は馬の飼えるような状態にはない)

「安藝賀茂郡阿賀町より一里の海上に、情島(なさけじま)と云ふ大小二箇の島あり」大情島(有人島)と無人島の小情島がある。広島県呉市阿賀町。なお、ここについては、ウィキの「情島」に、『江戸時代、広島藩はこの島に放牧場を設けた』。『そして阿賀の農民に管理させるため移住させている』とあった。但し、『昭和初期で人口約』百四十人で『柑橘栽培に従事してい』たが、『太平洋戦争時には』『大日本帝国海軍呉鎮守府が接収し』、『竜巻作戦(特四式内火艇)や伏龍の秘密訓練場となった』。『大戦末期には浮砲台として日向がこの沖に置かれ、呉軍港空襲により大破』した『戦後、帰ってきた元島民により』、昭和二二(一九四七)年時点では人口二百七人にまで伸びたものの、『以降』、『減少を続け』、二〇一〇年『現在で人口は』六世帯九人、高齢化率八十八・九%、『平地自体』が『極端に狭いという地形的制約から』、『今後の人口増を望むことが難しく、将来的には集落維持が困難になることが懸念されている』。『上水道施設は存在しておらず、各家庭』、『井戸を用いている』。『周辺は小型底引き網の漁場で』、『住民はいわゆる半農半漁』ではあるものの、『島内の漁業従事者は』二〇一〇年現在、ただ一人、農家は三世帯あるものの、『あくまで自給的なものに留まっている』ありさまである。

「讚州高松藩」「大内郡の大串山」この香川県東かがわ市の海岸線の二箇所の突出部の孰れか。西の鹿浦越岬の突出部或いは西の引田城跡(近くに「大池」「大安戸」と「大」の附く地名がある)辺りか? 「大串」の古称の名残がないために孰れとも言い難い(どちらも根を内陸の海浜線の平均線上からは岬まで一里ほどになり、それぞれ山を成している)。地元の郷土史研究家の御教授を乞う。

「二字の嘉名」発音を分解して二字を縁起の好さそうな当て字とすること。

『「串」は、朝鮮語にても亦、「半島」若しくは「岬」を意味し、本來、「コツ」の語音に宛てたる漢字ならんか』現代韓国語で「串」は「꼬치」(ッコチ)で、「岬」は「갑」(カプ)だが、「~岬」のように地名の末尾に附けるときは、「곶」(ゴッ)。

「全羅道大靜縣の加波島」韓国語音写で「カバド」。ここ

「慶尙道熊川縣南海の加德島」「カドクド」。ここ

「長髻縣の冬乙背串(とうつはいこつ)」この岬附近らしい。以下、地図上でのハングルは私には判らないので、大まかな位置推定であって大間違いかも知れぬのでご注意あれ。

「忠淸道にては瑞山郡の安眠串」この附近か

「泰安郡の和靈山串」「大小山串・梨山串・薪串の四串」孰れもこの半島の一画か。

「沔川(べんせん)郡の金宅串」「唐津縣の西に在る孟串」この半島部の北の先の附近か。よく判らぬ。悪しからず。]

岩波文庫本のはしに 清白(伊良子清白) / 岩波文庫版詩集「孔雀船」の序

     岩波文庫本のはしに

 阿古屋の珠は年古りて其うるみいよいよ深くその色ますます美(うる)はしといへり。わがうた詞拙く節(ふし)おどろおどろしく、十年(とゝせ)經て光失せ、二十年(はたとせ)すぎて香(にほひ)去り、今はたその姿大方散りぼひたり。昔上田秋成は年頃いたづきける書深き井の底に沈めてかへり見ず、われはそれだに得せず。ことし六十(むそ)あまり二つの老を重ねて白髮(しらが)かき重り齒脫けおち見るかげなし。ただ若き日の思出のみぞ花やげる。あはれ、うつろなる此ふみ、いまの世に見給はん人ありやなしや。

   ひるの月み空にかゝり
   淡々し白き紙片(かみびら)
   うつろなる影のかなしき
   おぼつかなわが古きうた
   あらた代の光にけたれ
   かげろふのうせなんとする

  昭 和 十 三 年 三 月
               淸 白 し る す

[やぶちゃん注:昭和一三(一九三八)年四月五日岩波文庫刊の詩集「孔雀船」に添えられた再序。かの献辞「故鄕の山に眠れる母の靈に」の次の次(左ページ)に記され、既に電子化した昭和四年三月クレジットの梓書房版の詩集「孔雀船」再版の「小序」が次の次(左ページ)に記されてある。
 ここでは底本は岩波版全集ではなく(そちらは漢字が新字)、所持する岩波文庫の原本を用いた。]

鄕軍勇士におくる歌 伊良子清白

 

鄕軍勇士におくる歌

 

   

聖戰すでに酣に

皇軍の意氣天を衝く

君等を送りて早(はや)幾(いく)日

凱歌は故國に轟けり

   

醜賊未だ平がず

山河(が)草木掃蕩の

神軍さながら火(ひ)の如し

潰滅期(き)して待たんのみ

   

外力(ぐわいりよく)依存(いぞん)あるはまた

長期抗戰敵は吼ゆ

堂々威武の進擊に

四百餞州の空(そら)朗(ほがら)

   

斷乎の決意邁進の

一路は前に橫たはる

堅忍持久膺懲(ようてう)の

皇師(し)はいよいよ猛からん

   

祖國日本の興廢は

君等の肩にかゝるなり

戰線銃後團々と

一つに燃ゆる焰かな

 

[やぶちゃん注:昭和一三(一九三八)年二月三日附『伊勢新聞』に掲載。底本は総ルビに近いが、五月蠅いので、パラルビとした。「膺懲(ようてう)」はママ(歴史的仮名遣では「ようちよう」でよい)。「皇師(し)」は「皇」にルビなくして「し」は「師」一字のみへのルビである。署名は「伊良子清白」。この年、伊良子清白、満六十一。四月五日に岩波文庫版の詩集「孔雀船」が刊行されている。その序「岩波文庫本のはしに」はこの後で電子化して示す。

「膺懲(ようてう)」敵や悪者を打ちこらしめること。この場合の「膺」は「胸」ではなく、「負わせる」の意。但し、この時、この熟語は特殊な限定的意味を持っていた。則ち、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」(「暴戻(ぼうれい)支那(しな)ヲ膺懲(ようちょう)ス」(「暴虐な中国を懲らしめよ」)を短縮した四字熟語)で、これはこの前年に勃発した「日中戦争」(一九三七(昭和一二)年七月七日に発生した「盧溝橋事件」に端を発する「支那事変」)に於ける大日本帝国陸軍のスローガンであったからである。ウィキの「暴支膺懲」によれば、『大本営が国民の戦闘精神を鼓舞するために利用したスローガンでもあ』り、『盧溝橋事件および通州事件』(昭和一二(一九三七)年七月二十九日に中国の通州(現在の北京市通州区)に於いて、中国人部隊の冀東(きとう)防共自治政府保安隊が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃殺害した事件)『以降は特に用いられるようになり、「暴支膺懲国民大会」が数多く開催された。同年』七月二十一日にはファッショ政党『日本革新党が日比谷公会堂で開催した』『ほか』、九月二日に『東京府東京市(当時)の芝公園で開催された対支同志会主催・貴族院及び在郷軍人会、政財界後援による暴支膺懲国民大会では「抗日絶滅」や「共匪追討」がスローガンとなっており、政財界・言論界の人物が登壇したという』。『対米英開戦後(太平洋戦争中)は「鬼畜米英」が前置されるようになり、合わせて「鬼畜米英、暴支膺懲」となった』とある。さすれば、この表題もそれに合わせた如何にもなものであることが判る。「鄕軍勇士」は一語ではない。「鄕軍」は「在郷軍人」であり、「勇士」は中国の戦線にいる兵隊を指しているのである。]

2019/06/22

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(40) 「水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム」(1)

 

《原文》

水邊ニ牧ヲ構ヘテ龍種ヲ求ム   池月磨墨ハ名馬ノ最モ高名ナルモノニハ相違ナキモ、弘ク其名ノ諸國ノ傳說ニ採用セラルヽニ至リシ原因ハ別ニ又存ス。先ヅ第一ニ池月ハ池ヨリ生レシ者、即チ水ノ神ノ子ナリト想像セシムルニ最モ似ツカハシキ名前ナリ。池月ハ太ク逞シキ黑栗毛ナル馬ノ、尾ノ先チト白カリケルトアル昔ノ記錄ハ、各地ノ古傳之ヲ認メザル者多シ。事ノ外ノ荒馬ニシテ生類ヲ好ミテ食ヒケル故ニ生唼(イケズキ)ト云フトノ說ハ、殊ニ牽强附會ノ感アリ。其議論ハ兎モ角モ、其名ヲ耳ニ聞キテ先ヅ思フハ白クシテ光アル馬ノ毛ノ水ノ月ト緣アルコト、更ニ步ヲ進ムレバ龍馬ハ龍ノ胤ト云フ古來ノ俗信ナリ。此思想ハ申スマデモ無ク支那カラノ輸入ナレド、而モ日本ノ土ニ移シテ後ニモ國相應ノ美シキ花ヲ開ケルナリ。【長者】例ヘバ陸中鹿角郡小豆澤(アヅキザハ)ノダンブリ長者ノ如キハ、家富ミテ數百頭ノ馬ヲ山ニ放牧ス。山上ニハ池アリテ龍下リ住メリ。長者ガ駒此池ノ水ヲ飮ミテ龍馬ト成リシガ故ニ、今モ其故跡ヲ龍馬嶺ト云フ〔鹿角志〕。池月產地ノ一トシテ傳ヘラルヽ羽後ノ木直(キヅキ)ニテハ、昔百姓ノ家ニ一頭ノ牝馬ヲ飼ヘリシガ、夜ニ入リテ厩ノ中物騷ガシキコト屢ナリ。灯火ヲ挑ゲ行キテ見ルニ何物ノ影モ無カリシガ、朝每ニ厩ノ周ニ必ズ新ナル蹄ノ跡アリ。副馬嶽(ソウマガダケ)ノ神馬飛降リテ此家ノ牝馬ガ處ニ夜遊ビニ來リシナリト云ヘリ。其後此牝馬ニ七寸ノ駒生レタリ。池月ナリト傳ヘラレシハ此駒ノコトナルガ如シ。非常ノ荒駒ナレバ山ニ杙ヲ打チテ之ヲ繫グ。【ツクシ】仙北ノ名山大ツクシ小ツクシノ二峯ハ、即チ此杙ノ化シテ成レル山ニテ、「ツクシ」トハ杙又ハ標木ノコトナリト云ヘリ〔月乃出羽路四〕。厩ノ戶口ニ新シキ蹄ノ跡ト云フ話ハ我邦バカリノ物語ニハ非ズ。支那ニテモ大昔ヨリワザト牝馬ヲ水際ニ放チテ龍ノ出來心ヲ誘ヒシ例アリト聞ク。水中ノ靈物ガウマウマト人間ノ誘惑ニ罹リシ場合ニハ、必ズ其足跡ヲ岸上ノ砂ニ遺シタリトナリ〔南方氏神足考〕。磨墨太夫黑ノ徒ガ時トシテ巖窟ノ奧ヨリ飛出セリト傳ヘラルヽモ、思フニ亦龍馬ガ文字通リニ龍ヲ父トシテアリシコトヲ示スモノニテ、即チ神馬ハ河水ノ精ナドト云フ思想ヨリ一轉シテ、之ヲ龍ノ變形又ハ龍ノ子ト考フルニ至リシナランノミ。

 

《訓読》

水邊に牧を構へて龍種を求む   池月・磨墨は名馬の最も高名なるものには相違なきも、弘く其の名の諸國の傳說に採用せらるゝに至りし原因は、別に又、存す。先づ第一に池月は池より生れし者、即ち、水の神の子なりと想像せしむるに最も似つかはしき名前なり。「池月は太く逞しき黑栗毛なる馬の、尾の先、ちと白かりける」とある昔の記錄は、各地の古傳、之れを認めざる者、多し。事の外の荒馬にして、生類(しやうるい)を好みて食ひける故に生唼(いけずき)[やぶちゃん注:今まで注していないが、ここで言っておくと、「唼」(この場合の音は「サフ(ソウ)」は「啜る・啜り込んで食う・啄む」の意。]と云ふとの說は、殊に牽强附會の感あり。其の議論は兎も角も、其の名を耳に聞きて先づ思ふは、白くして光ある馬の毛の、水の月と緣あること、更に步を進むれば龍馬は龍の胤(たね)と云ふ古來の俗信なり。此の思想は、申すまでも無く、支那からの輸入なれど、而も日本の土に移して後にも國相應の美しき花を開けるなり。【長者】例へば陸中鹿角(かづの)郡小豆澤(あづきざは)の「だんぶり長者」のごときは、家、富みて、數百頭の馬を山に放牧す。山上には池ありて、龍、下り住めり。長者が駒、此の池の水を飮みて龍馬と成りしが故に、今も其の故跡を「龍馬嶺」と云ふ〔「鹿角志」〕。池月產地の一つとして傳へらるゝ羽後の木直(きづき)にては、昔、百姓の家に一頭の牝馬を飼へりしが、夜に入りて、厩の中、物騷がしきこと、屢々なり。灯火を挑(かか)げ、行きて見るに、何物の影も無かりしが、朝每に厩の周りに、必ず新たなる蹄の跡あり。副馬嶽(そうまがだけ[やぶちゃん注:ママ。])の神馬、飛び降(くだ)りて、此の家の牝馬が處に夜遊びに來りしなりと云へり。其の後、此の牝馬に七寸(しちき)[やぶちゃん注:既注であるが、再掲しておくと、国産馬の標準は四尺(一・二一メートル)が「一寸(いつき)」であるから、「七寸」は一メートル四十二センチメートルとなり、国産馬では有意に異常に大きい。]の駒、生れたり。池月なりと傳へられしは此の駒のことなるがごとし。非常の荒駒なれば、山に杙(くひ)[やぶちゃん注:「杭」の同じい。]を打ちて、之れを繫ぐ。【つくし】仙北の名山「大つくし」「小つくし」の二峯は、即ち、此の杙の化して成れる山にて、「つくし」とは、杙、又は、標木のことなりと云へり〔「月乃出羽路」四〕。厩の戶口に新らしき蹄の跡と云ふ話は、我が邦ばかりの物語には非ず。支那にても、大昔より、わざと牝馬を水際に放ちて、龍の出來心を誘ひし例ありと聞く。水中の靈物が、うまうまと人間の誘惑に罹(かか)りし場合には、必ず、其の足跡を岸上の砂に遺したりとなり〔南方氏「神足考」〕。磨墨・太夫黑の徒が、時として巖窟の奧より飛び出だせりと傳へらるゝも、思ふに、亦、龍馬が、文字通りに龍を父としてありしことを示すものにて、即ち、神馬は河水の精などと云ふ思想より一轉して、之れを龍の變形、又は、龍の子と考ふるに至りしならんのみ。

[やぶちゃん注:「陸中鹿角(かづの)郡小豆澤(あづきざは)」現在の秋田県鹿角市八幡平小豆沢(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「だんぶり長者」秋田県と岩手県に跨る伝説。ウィキの「だんぶり長者」によれば、『主に、盛岡藩の鹿角郡の伝承であり、米代』(よねしろ)『川の名前の由来や、大日霊貴』(おおひるめむち)『神社の縁起を伝えている』。『昔、出羽国の独鈷(とっこ)村(現在の秋田県大館市比内町独鈷)に気立ての良い娘がいた』。『ある夜、娘の夢に老人が現れ』、『「川上に行けば夫となる男に出合うだろう」と告げる。お告げ通り、娘は川上の小豆沢(現在の鹿角市八幡平小豆沢)で一人の男に出合い、夫婦となって貧しいながら』、『仲睦まじく暮らした。ある年の正月、また老人が夢に現れ』、『「もっと川上に住めば徳のある人になるだろう」と告げる。夫婦は川をさかのぼり』、『現在の米代川の源流に近い田山村(現在の岩手県八幡平市田山)に移り住み、よく働いた』。『ある日、夫が野良仕事に疲れうとうとしていると、一匹のだんぶり(とんぼ)が飛んできて、夫の口に尻尾で』二、三度、『触れた。目を覚ました夫は、妻に「不思議なうまい酒を飲んだ」と話し、二人でだんぶりの後を追った。そして、先の岩陰に酒が湧く泉を発見する。酒は尽きることがなく、飲めばどんな病気も癒された』。『夫婦はこの泉で金持ちとなり、多くの人が夫婦の家に集まってきた。人々が朝夕に研ぐ米の汁で川が白くなり、いつしか川は「米代川」と呼ばれるようになった。夫婦には秀子という一人娘がいた。優しく美しい乙女に成長し、やがて継体天皇に仕えて、吉祥姫と呼ばれた。夫婦も天皇から「長者」の称号を与えられ、「だんぶり長者」として人々に慕われた』。『年月が過ぎ、夫婦がこの世を去ると、酒泉はただの泉になった。両親の死を悲しんだ吉祥姫は都から戻り』、『小豆沢の地に大日霊貴神社を建てて供養した。この姫も世を去ると、村人達は姫を大日霊貴神社の近くに埋葬し、銀杏の木を植えた。これが、大日霊貴神社の境内にあった大銀杏と言われている』とある。佐藤友信氏の「だんぶり長者」について解説された「暁(あけ)の方から(4)」PDF)に、本伝承と龍馬の話が載る。

   《引用開始》

 『大日堂舞楽』に掲載されている「だんぶり長者物語」には「竜馬」というのが出てきます。だんぶり長者は霊泉のお礼に角が一本生えた黒馬をもらい、これを近くの山に放しておいたところ、日に数百里を走る馬が生まれたということです。この山には大きな沼があり時々天から竜が降りてきて水を飲むのですが、その水を飲んだ馬たちが「竜馬」になったのです。そこは「竜馬ヶ森」と呼ばれたとありますがその名は今はなく、代わりに「竜ヶ森」という山が青森・岩手・秋田三県に五つあります。青森県の田子町に一つ、岩手県八幡平市に二つ、大館市の北秋田市と鹿角市の境に一つずつです。

 物語では「南部馬」の優秀さを竜の血を引いているとでも言わんばかりですが、そこにはちゃんとした根拠があるようです。まず奥州藤原氏は毎年貢馬(くめ)として朝廷に糠部駿馬(ぬかのぶしゅんめ)を贈ったとあります。また戦国時代の武将たちは競って南部馬を求めたとありますから、その優秀さは折紙付きだったのです。その主産地が糠部というところだったようですが、ここは青森県の東部と岩手県の北部にかけての一戸から九戸の地名のあるところです。とくに三戸・五戸・七戸は名馬の産地として名高かったようです。そしてこの糠部と鹿角は境界を接して隣り合っていたのです。

 天明8(1788)年の徳川幕府の巡見使に随行した地理学者の古川古松軒(こしょうけん)は、来満峠から大湯を通って鹿角入りしたときに、「南部の地、辺鄙ながら馬のよきには皆みな驚きしことにて、日々数百疋の馬を見ることなるに見苦しき馬はさらになし。何れを見ても、一疋ほしきことなりとおもわぬ人もなし。東海道・中国筋の馬とは違いて、幾疋一所に置きてもはね合い喰い合うこともなく、乗りよく人などに喰いつくということを知らぬ体なり。南部立ての馬を以て海道第一と称せることもっとも道理なり」とその旅日記『東遊雑記』において絶賛していたようです。(関友征「葦名神社と南部馬」鹿角市文化財保護協会発行『上津野』No.37 より)

 巡見使一行は南部入りしてからずっと名馬の産地を通ってきていますので、この部分は鹿角も含めてこれまでの印象をまとめたものと考えられます。古川古松軒の印象を推測してみると、「南部入りしてからいい馬を随分たくさん見てきたが、ここにもこんなにいるとは驚きだなあ。どれを見ても見事な馬ばかりで見苦しい馬など一疋だっていやしない。どれでもいいから一疋欲しいなあ。私だけでなくみんなそう思っているようだな。ホントここの馬は日本一だ。」となるのではないでしょうか。ちなみに古川古松軒はめったに褒めることのない人だったそうですから、この賛辞は価値があります。

 ただ鹿角は鉱山資源も厳しく管理され馬改めも相当厳しかったようですから、名馬の産地と公にすることができなかったのではないでしょうか。昨年大湯ストーンサークル館で芦名神社の絵馬が公開されましたが、『上津野』を見ると、これは郷土史学習会による十年近くにわたる継続調査の集大成であったようです。これらを見ると鹿角の馬文化の奥深さがひしひしと感じられます。

 前回お伝えした八戸・三戸の「えんぶり」にも馬の烏帽子(えぼし)をかぶった太夫の舞がありました。ここから八戸・三戸から鹿角に至る幕府巡見使の通り道に沿って、南部馬の主産地と馬文化があったと思われます。「だんぶり長者物語」の黒馬は名久井郡から贈られたとあります。名久井は三戸郡にありますので、鹿角を経由して田山・盛岡方面に展開したとは考えられないでしょうか。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

「龍馬嶺」不詳。秋田県秋田市上新城白山に竜馬山(りゅうばさん)が、秋田県由利本荘市北ノ股に竜馬山(りゅうばさん)があるが(国土地理院図)、先の鹿角からはひどく離れているから違う。

「羽後の木直(きづき)」秋田県大仙市の木直(きじき)地区

「副馬嶽(そうまがだけ)」不詳。但し、『「月乃出羽路」四』の当該部はここ(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)であるが、そこ(右ページ一行目から始まる『○木直村』の条)には『副河の岳』とある。

『仙北の名山「大つくし」「小つくし」の二峯』前注の指示した箇所には、『小杙(こづくし)大杙(をづくし)とて、今化(くゑし[やぶちゃん注:ママ。])て小山、小岑となれるあやしの物語もあれど、七寸(しちき)村と云ひつるよしは云々』とある。となれば、現在の木直地区の近くとなり、地図を見ると、秋田県大仙市南外(木直の南東直近)に「土筆(つくし)森山」と「土大(どだい)森山」があり(国土地理院図)、これではないかと私は思うのだが、如何?

「支那にても、大昔より、わざと牝馬を水際に放ちて、龍の出來心を誘ひし例ありと聞く。水中の靈物が、うまうまと人間の誘惑に罹(かか)りし場合には、必ず、其の足跡を岸上の砂に遺したりとなり〔南方氏「神足考」〕」割注のそれは南方熊楠の「神跡考」の誤り。但し、これは柳田國男の誤りではなく、南方熊楠自身の誤りであるが、彼はたびたびこの誤りを犯しており、その原論文は英文「Footprints of Gods, &c.」(Notes & Queries 10s. ii. Jul. 23, 1904)であって、彼自身は誤りとは認識していないものと思う(邦訳題は南方熊楠によって「神跡考」とされているので書誌上では、やはり誤りであるが)。「南方熊楠より柳田国男宛(明治四四(一九一一)年九月二十二日書簡)」を参照。所持する「南方熊楠選集」第六巻の邦訳によれば(同論文「Ⅱ」に出る)、

   *

また貴州では、人が竜駒を得ようとして牝馬を浜辺につれて来て交わらせるうち、そのたびに竜の足跡が現われるという(『淵鑑類函』二六巻二〇丁目)。

   *

という一文がそれ。「淵鑑類函(えんかんるいかん)」は清の康熙帝の勅撰で編纂された類書(百科事典)で一七一〇年成立。全四百五十巻で、書名は「古今の類書の奥深いもの」という意味。本書は詩文を作る際の用例集としても用いられ、江戸時代に日本にも伝えられた。中文サイトから原文を引く(巻二十六の「育龍駒」一節。巻二百三十五にも似たような文脈が出るが、「貴州」のはないのでこちらと採る。漢字の一部を恣意的に正字化した。引用元は全くの白文なので、句読点は私が勝手に附した。当てに成らぬ)。

   *

育龍駒 福建侯官縣有五花石坑、去夀山十許里、其石有、紅者綠者紫者惟艾綠色者最少。春貴州、養龍坑在兩山之中泓澄淵深蛟龍藏其下當。始和夷人立栁坑畔擇牝馬之貞者繫之已而。雲霧晦冥類有物蜿蜒跨馬腹上迨開霽。視馬傍之沙有龍跡者、是與龍遇矣。至產必生龍駒。明洪武間、夏幽主明昇獻良馬十匹一正白色乃得之於此者、振鬛一鳴萬馬辟易上乘之行夕月之禮於淸涼山正如躡雲而馳一塵不驚、賜名飛越峯命學士宋濓爲贊繪形藏焉。

   *

「うまうまと」は、これまた、柳田國男のオツでない洒落である。]

南嶋小曲――博歌(ホアコア)に擬す―― 伊良子清白

 

南嶋小曲

  ――博歌(ホアコア)に擬す――

[やぶちゃん注:「博歌(ホアコア)」不詳。現代の標準中国音では「bó gē」(ポォー・グゥー(ァ)」。閩南語の台湾方言の音写なのかも知れない。「博」の意からは「流行歌」とか「広く知られた民謡」等を想起するが、判らぬ。識者の御教授を乞う。第三連終行の「惚(と)れる」はママ。]

 

   

わしが寢てゐる寢藁の上に

朱塗の棺桶吊てある

わしが死んだら納れてくれ

あの娘の髮も一撮(つま)み

   

水を汲まうに桶は漏る

に出ようも破れ沓

あの娘はおいらの齒がたたぬ

ことしや全く旱魃だ

   

沖に白帆の耳が生え

山に林の耳が生え

お庭に草の耳が生え

お前の胡琴にきき惚(と)れる

   

刺竹(しちく)の刺(はり)ほど刺がある

刺竹の節ほど節が多い

節は多い程刺はあるほど

竹の性は上等だ

[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ホウライチク属シチク Bambusa blumeana。中国南部原産の竹の一種。本邦では沖縄・九州などで防風用に人家に栽植され、高さは三メートルから二十メートルにもなる。幹の表面は当初は緑色で、二年目から黒紫色に変わり、やがて黒色となる。葉は長さ七~一二センチメートルの披針形を成し、縁に細かな鋸歯を有する。よく分枝し、特に下方の小枝は退化して頑丈な刺(とげ)になる。「トゲダケ」の異名もある。]

   

白頭雀(べたこ)が啼いて

苦楝(ぐれん)が咲いて

春に成つたで

滿地(まんち)の草が

わしの思で

萠え出した

[やぶちゃん注:「白頭雀(べたこ)」台湾の回想を含んだ仮想ロケーションと考えられることから、台湾原産のスズメ目ヒヨドリ科シロガシラ属シロガシラ亜種タイワンシロガシラ Pycnonotus sinensis formosae としておく。同シロガシラ種は中国南部を中心に多く棲息しており、本邦では南西諸島に限定的見られるが、とすると、純粋な日本語の異名である可能性は低いと思い、調べてみたこところ、中文ウィキの同種のページ「白頭鵯」を見ると、「白頭鵠仔」の異名を掲げ、『臺灣話:pe̍h-thâu-khok-á』とあり、これはこの発音はこの「べたこ」に非常によく似ているように思われた。

「苦楝(ぐれん)」ムクロジ目センダン(栴檀)科センダン属センダン Melia azedarach。本邦でも異名を「オウチ」(楝)と呼ぶが、中文ウィキの同種のページ標準漢名を「苦楝」とする。本邦でも、生薬として樹皮を「苦楝皮(くれんぴ)」と呼んで駆虫内服剤(虫下し)に、果実を「苦楝子(くれんし)」としてひび・あかぎれ・霜焼けの外用、或いは、整腸・鎮痛薬として内服薬として用いる。]

   

晚(ばん)から朝まで月來香(げつらいこう)

ぶんぶん匂つて眠られぬ

あの娘の夢をおれは見る

さめてゐながらおれは見る

[やぶちゃん注:「月來香(げつらいこう)」ナデシコ目サボテン科クジャクサボテン属ゲッカビジン Epiphyllum oxypetalum の異名。]

   

牡丹は花の王といふ

男の癖に氣が弱く

女のやうにはにかみで

さいた牡丹がなぜこはい

   

白い月餅(げつぺい)露がおく

橋の袂や藪の前

十五夜お月さんまんまるい

あの娘も妙齡(としごろ)月の餅

[やぶちゃん注:「月餅(げつぺい)」言わずと知れた中国菓子であるが、起原伝承は知らなかった。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、十三世紀初頭、蒙古からの侵入軍を撃退するため、「八月十五日の名月の夜を期し、総攻撃をかける」という秘密文書を饅頭の中に入れて伝令した故事に因むと言われ、また、その形が満月の形をしているところから「一家の大団円をはかる」という意で、八月十五日の「中秋節」には中国の家庭では欠かすことの出来ない菓子となっている。種々の木の実・野菜の種を入れる。日本に伝わったのは十七世紀初め頃で、長崎名物となったとある。]

   

山の淸水に水汲みに

川のせせらぎ洗衫(そえさん)に

行くは所の娘ども

わたしや箱入一人ぼち

[やぶちゃん注:「洗衫(そえさん)」「そえ」はママ。中国語で「洗濯」或いは「洗濯女」の意。現代中国音では「xǐ shān」(シィー・シァン)であるから「そえさん」は現地音の音写と思われる。]

   

一年三百六十五日

三百七十日雨が降る

基隆(きいるん)港は雨の町

雨がふらねば槍がふる

[やぶちゃん注:「基隆(きいるん)」台湾(温帯湿潤気候圏)北端にある現在の省轄市基隆(キイルン)市。基隆港は台湾南端の高雄(カオシュン)港に次ぐ、台湾第二の貨物取扱量を誇り、台湾の貿易・物流の重要拠点として知られる。雨が多いことでも知られ、「雨の港」「雨の都」の異名も持つ。特に三月下旬から 九月下旬までの 凡そ半年もの間が降雨確率の高い時期ととなっており、この期間中の特定の日が降水日になる確率は四十一%以上、で降水日確率が最大となる特異日は六月六日で実に六十%を示す(サイト「Weather Spark」の「基隆市における平均的な気候」のデータを参照した)。ウィキの「基隆市」の「歴史」よれば、『基隆はもともと同地一帯に住んでいた台湾原住民平埔族ケタガラン族の族名がなまってケランとなり、それに台湾語音によって漢字が宛てられ、鶏籠(雞籠』・『ケーラン)と呼ばれていた。今日でも台湾語での呼称はこれで呼ばれる。』。一六二六『年にスペイン人が社寮島(現在の和平島)を占領し』、『サン・サルバドル城を築き、その頃には先住民や漢人の町が形成された』。一六四二『年にオランダ人がスペイン人に代わって社寮島を占領し、石炭や金の採掘に着手したが』、一六六八『年に鄭成功がオランダ人を駆逐し』て『拠点とした港町である。その後』、一六八三『年に清朝が鄭成功一派を撃破した後に清国の支配下に入る。これにより』、『入植する漢人が増えたが、イギリスの軍船による侵犯事件が起こ』っている。『清朝統治時代の』一八六三『年、対外的に正式に開港し』、八年後の一八七五年には『清朝政府がここに台北分防通判を置いたことから、ケーランと近い音でさらに「基地昇隆」の意味を込めて、鶏籠から基隆(キールン)に改変した』。一八八四『年に』は『フランス軍が基隆に上陸』、『劉銘伝率いる部隊と』八『ヶ月に渡』って『対峙する清仏戦争が起こった』一八八六『年に劉銘伝は台湾巡撫に就任し、基隆の重要性を認識していたので、鉄道の施設、港湾や砲台の修復を積極的に進め、台湾初となる鉄道トンネルとなる獅球嶺隧道を完成させた』。一八九五『年に日本が馬関条約により台湾を接収、澳底』(アオディ(おうてい):基隆の南東外の新北市の海岸の町)『に上陸ののち』、『基隆に入った。基隆は日本統治時代以前から対外貿易の拠点となっていたが』、『港湾の水深が浅く岩礁も多かったため』、『大型船の停泊には適さず、近代的な港としての発展には限界があった。日本政府は台湾統治を開始した』四『年後の』一八九九(明治三十二)『年より港湾周囲の浚渫』『工事と防波堤の建設などを進め』、一『万トン級の船舶が停泊可能な近代港湾として整備した。同時に基隆は台湾縦貫鉄道の北側の起点とされ、その経済的な重要性はさらに高まった。また軍事面でも基隆は日本海軍が駐留する軍港とされ』、『要塞地帯(基隆要塞)にも指定されていた』。『基隆は台湾北部に位置し』、『日本に最も近い立地より日本内地との貿易港としても繁栄した。また内地から移住する多くの日本人により』、『急速に都市化が進展』一九二五(大正十四)『年には市制が施行され』、『人口は約』七万(内、内地人は二十五%に達していた)『の都市へと発展した。太平洋戦争(大東亜戦争)中は、その重要性から米軍の攻撃も受けている』とあり、このひっきりなし紛争と戦争の明け暮れを考えれば、終行の「雨がふらねば槍がふる」も頗る腑に落ちる。]

 

[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年六月十五日発行の雑誌『媽祖』(第十四冊)に、「題詞(尺より)」(「鼻」の注で電子化した)の添えと、旧作の「五月野」・「コロンブス」(前の「海上雲遠」の改題作。本雑誌『媽祖』についてはその私の注を参照されたい)・「鼻」「梅」と本篇「南嶋小曲」の一題詞と五篇で掲載された(これは伊良子清白特集号であった模様である)。署名は「伊良子清白」。]

2019/06/21

梅 伊良子清白

 

 

風塵の中に成長(ひととな)り、

梅のはずえのやうに

野放圖に伸びて、

點々と蕾を着けてをる處女(をとめ)。

 

[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年六月十五日発行の雑誌『媽祖』(第十四冊)に、「題詞(尺より)」(「鼻」の注で電子化した)の添えと、旧作の「五月野」・「コロンブス」(前の「海上雲遠」の改題作。本雑誌『媽祖』についてはその私の注を参照されたい)・「鼻」・「梅」(本篇)・「南嶋小曲」の一題詞と五篇で掲載された(これは伊良子清白特集号であった模様である)。署名は「伊良子清白」。「はずえ」はママ。]

鼻 伊良子清白

 

 

船長の鼻は航海のたびごとに巨(おほ)きくなる。

母國の港の前で船長は憂鬱になる。

風物蕭々と海は荒れてゐる。

 

[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年六月十五日発行の雑誌『媽祖』(第十四冊)に、「題詞(尺牘より)」(「尺牘」は「せきとく(どく)」と読み、「石素 (せきそ) 」「尺書」「尺翰」などとも称し、「手紙」のこと。古来、中国では一尺四方の牘 (木の札) を書簡に用いたことに由来する。日本では狭義にはその由来から漢文体の消息文を指すのが普通)の添えと、旧作の「五月野」・「コロンブス」(前の「海上雲遠」の改題作。本雑誌『媽祖』についてはその私の注を参照されたい)・「鼻」(本篇)及び後に掲げる「梅」「南嶋小曲」の一題詞と五篇で掲載された(これは伊良子清白特集号であった模様である)。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、満六十歳。底本全集年譜によれば、この年、『白鳥(しらとり)』『志支浪(しきなみ)』に加えて『志良珠(しらたま)』などの歌誌への投稿がいや盛んとなり、二月には志支浪社が清白還暦記念歌集の上梓を企画したが、清白はこれを謝絶しているとある。

 「題詞(尺牘より)」を底本全集の第二巻から電子化しておく。但し、恣意的に漢字を正字化した。

   *

 臺灣では私にはパラダイスです 古い戀です 西方淨土です カナンです

   *

「西方淨土です カナンです」は「カナンです」が改頁で底本の版組では続いているのであるが、私の判断で一字空けを施した。]

海上雲遠 伊良子清白

 

海上雲遠

 

コロンブスは西へ西へと走る。――

荒涼と雨と風と、

晝と夜が交織する、

月日は波と共に流れた。――

かくて、

無風帶の暑い夕べ、

水夫が見る磔上(たくじよう)の基督。

赤い日沒の、

壯麗な悲劇の雲が、

遠く遠く聳えてゐた。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年二月二十五日『廣野』(書誌不詳)に先の「かもめ」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。「たくじよう」のルビはママ。底本全集の「著作年表」によれば、後に「コロンブス」と改題したとする。それは翌昭和十二年六月十五日発行の雑誌『媽祖(まそ)』(第十四冊)での再録時である。同雑誌は詩誌で、媽祖書房(台湾・台北)から編集兼発行人西川澄子(同書房社主西川満の妻)で、昭和九(一九三四)年十月に発刊、昭和一三(一九三八)年三月まで通巻十六冊が発行されており、内地からの寄稿者は他に西脇順三郎・百田宗治・日夏耿之介や、河上澄生の絵など、錚錚たる面々である。

「交織」「かうしよく」で、元来は「綿糸と絹糸・絹糸と毛糸などを混ぜて織ること」を言う。]

か も め 伊良子清白

 

か も め

 

●、●、●、●、●、…………

力のない、單獨な、ポイントの浮泳、

裏向ひのお孃さんは、朝から琴を彈じてゐる。

こてこて塗てゐるが、

極く初心な 無垢な 田舍娘だ。

放心したやうな琴の響が

二階の窓から落花する。

 

年は暮れる、

海は靜かだ、空は晴れてゐる。

ポツン、ポツン、ポツン……

生白い琴の音の彈道が

馥郁と雨(ふ)る……

私(わたし)は撫でた。

新春の姿をした鷗が、私の膝の下を飛ぶのを。

 

[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年二月二十五日『廣野』(書誌不詳)に次の「海上雲遠」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。「塗て」はママ。「ぬつて」であろう。伊良子清白、満五十九。前の昭和十年には詩篇の発表はない。その昭和十年七月二十三日、父政治が享年八十で逝去している。この昭和十一年にはこの年に創刊された歌誌『志支浪(しきなみ)』の特別同人となっている。個人的には、この一篇、好きだ。]

けんけん白雉 伊良子清白

 

けんけん白雉

 

けんけん白雉(しろきじ)飛んで來(こ)い

農鳥山(のうとりやま)からとんでこい

赤石山(あかいしやま)からとんで來い

けんけんほろほろ飛んでこい

 

けんけん白雉脚(あし)起たず

けんけんほろほろ眼も昏れる

黃ろい蹴爪(けつめ)に血が慘む

紅い鷄冠(とさか)は色褪せる

 

けんけん白雉孤(ひと)り鳥(とり)

よべばこたへる空の聲

春の雪間の蝦夷櫻(えぞさくら)

苧環草(をたまぐさ)も花咲かず

 

けんけん白雉山の鳥

氷る翼の寒苦鳥(かんくてう)

高い頂(いただき)雪しぶき

音はひようひよう雲の中

 

けんけん白雉はなれ鳥

白日(まひる)戀しき番鳥(つがひどり)

山の牢屋の巖(いは)の室

白い火をきる鳥のこゑ

 

けんけん白雉神の鳥

凍(こほ)る現身(うつしみ)魂(たま)燃ゆる

雲路故鄕(ふるさと)虹の國

遠い日影が淡々と

 

[やぶちゃん注:昭和九(一九三四)年三月三日附『伊勢新聞』に掲載。署名は「伊良子清白」。底本は総ルビに近いが、五月蠅いので、パラルビとした。「けつめ」はママ。この年、伊良子清白、満五十七歳。底本の「著作年表」では、この年の詩篇はこの一篇のみである。この発表の直前の二月十四日、盟友の橫瀬夜雨が満五十六で亡くなった。清白は同じ二月二十六日附『伊勢新聞』に追悼文「横瀨夜雨の思ひ出」を、後の四月一日発行の『女性時代』にも彼への追悼である「憶ひ出」を掲載している。

「白雉」キジ目キジ科キジ属キジ Phasianus versicolor の亜種類(シマキジ Phasianus versicolor tanensis(本州の伊豆半島・紀伊半島・三浦半島・伊豆大島・種子島・新島・屋久島)・トウカイキジ Phasianus versicolor tohkaidi(本州中部・四国)か)のアルビノ(albino:白化個体)或いは、長崎を経由して舶来してきた大陸産のキジ目キジ科キジ属コウライキジ Phasianus colchicus のアルビノか、同様に齎された、本邦のキジに体型が酷似した、大陸産のキジ科 Phasianidae の仲間のアルビノ。無論、アルビノは少ないが、稀有ではない。「和漢三才圖會第四十二 原禽類 白雉(しらきじ)」及び「和漢三才圖會第四十二 原禽類 野鷄(きじ きぎす)」の私の注を参照されたい。

「農鳥山(のうとりやま)」三重県内とすると不詳だが、次の「赤石山(あかいしやま)」を赤石山脈(南アルプス)の長野県と静岡県に跨る赤石岳(あかいしだけ:標高三千百二十一 メートル)と措定するなら、同じ赤石山脈の、山頂が山梨県と静岡県の県境に跨る農鳥岳(のうとりだけ:標高三千二十六メートル。直線で赤石岳の北北東約十九キロメートル位置。ウィキの「農鳥岳」によれば、『北岳間ノ岳』(あいのだけ)『とともに白峰三山の一つに数えられる。名前の由来は、春に山頂東面に白鳥の形の残雪(雪形)が現れるためだとされている』。『しかし、似たような形の残雪は間ノ岳にも現れるため、明治時代までは現在の間ノ岳が農鳥岳と呼ばれる場合もあるなど、呼び方は一定していなかったようである』ともある)がある(孰れもグーグル・マップ・データ)。しかし、ここで突如、ロケーションとして赤石山脈が登場するのは違和感があるから、或いは三重県・奈良県の山名の異名(ネットでは確認出来ない)である可能性があるようにも思われる。ただ、「氷る翼の寒苦鳥(かんくてう)」/「高い頂(いただき)雪しぶき」/「音はひようひよう雲の中」という第四連は赤石山脈らしくはある。識者の御教授を乞う。

「蝦夷櫻(えぞさくら)」バラ亜綱バラ目バラ科サクラ属オオヤマザクラ Cerasus sargentii は北海道・北陸・中部地方以北・山陰・四国(剣山・石鎚山脈)等に自生する野生種の桜で、北海道に多く植生していることから、この異名を持つ。

「苧環草(をたまぐさ)」モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科オダマキ属 Aquilegiaの内、本邦にはオダマキ変種ヤマオダマキ Aquilegia buergeriana var. buergeriana 及び高山性の同変種ミヤマオダマキ Aquilegia flabellata var. pumila が自生する。

「寒苦鳥(かんくてう)」ヒマラヤに住むとされた想像上の鳥。終夜、雌は夜寒を歎いて鳴き、雄は「夜が明けたら巣を作ろう」と鳴くが、夜が明けると、朝日の暖かさに夜寒を忘れてそのまま巣を作らないで怠けるとし、仏教では、この鳥を「怠けて悟りを求めようとしない人」に譬える(ここは小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

2019/06/20

ほし柿の唄 伊良子清白

 

ほし柿の唄

 (大關さんからとてもうまいほし柿を頂いた、そのうた)

 

羽前山形、ほし柿を

一心不亂に味へば

身は煙立(だ)つ暖かさ

冥加(みやうか)あまりて目も見えず

  ほい この、つるし柿

 

羽前山形、干柿は

衣(きぬ)は剝(は)がれし膚(はだ)の皺

日練夜練(ひねりよねり)の肉の色

眞實(しんじつ)こもる核(たね)二つ

  ほい この、晒(さら)し柿

 

羽前山形、雪國の

黑い干柿何んとせう

蔕(ほづ)はあれども陰囊形(ふぐりがた)

男の物とぶらさがり

  ほい この、いぶし柿

 

[やぶちゃん注:昭和八(一九三三)年二月一日発行の『新日本民謠』に掲載。底本ではこの年(伊良子清白満五十六歳)の詩篇はこの一篇のみである。

「大關」思うに『新日本民謠』を主宰していた詩人大関五郎(明治二八(一八九五)年~昭和二三(一九四八)年)か。大正一〇(一九二一)年頃、「詩話会」の機関誌『日本詩人』に作品を発表、後、童謡や民謡に転じ、北原白秋らの協賛で、昭和六(一九三一)年に雑誌『新日本民謡』を刊行した。但し、彼の出身は茨城県である。

「蔕(ほづ)」漢字から「ほぞ」(「臍 (ほぞ) 」と同語源。古くは「ほそ」)で、「果実の蒂(へた)の謂い(方言か)。]

神田玄泉「日東魚譜」 海馬 (タツノオトシゴ)

Tatunootosigo

リウグウノウマ

タツノオコトシロ

[やぶちゃん注:画像は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここ(標題のみ前頁にある)からトリミングし、補正を加えた。以上、本文上部の頭書。「ロ」は画像の通り、ママ。]

サクナギ    シヤクナギ

カイバ

[やぶちゃん注:以上、下部図版の右と左のキャプション。]

 

海馬【拾遺】

釋名水馬【抱朴子】佐久奈

岐【和名】名義未詳又呼

海馬也藏器曰海馬

出南海形如馬長五

六寸鰕類也【拾遺】宗奭

曰首如馬其身如鰕

其背傴僂有竹節紋

二三寸雌者黃雄者

青色氣味甘平無毒

主治難産帶之於身

甚驗臨時燒末飲服

幷手握之卽易産【拾遺】

南州異物志云海馬

有大小如守宮其色

黃褐婦人難產割裂

而出者手持此蟲卽

如羊之易産也時珍

曰暖水臟壯陽道消

瘕塊治疔瘡腫毒【綱目】

○やぶちゃんの書き下し文

海馬【「拾遺」】

釋名水馬【「抱朴子」】。佐久奈岐(〔さ〕くなぎ)【和名。】。名義、未だ詳らかならず。又、海馬と呼ぶなり。藏器曰く、「海馬、南海に出づ。形、馬のごとく、長さ五、六寸。鰕の類なり」【「拾遺」】〔と〕。宗奭〔(そうせき)〕曰く、「首は馬のごとく、其の身、鰕のごとく、其の背、傴-僂〔(まが)〕りて竹節〔の〕紋、有り。二、三寸。雌なる者(〔も〕の)、黃、雄なる者(〔も〕の)、青色」〔と〕。

氣味甘、平。無毒。

主治難産に之れを身に帶ぶれば、甚だ驗あり。時に臨みて、燒末〔にして〕飲服す。幷びに手に之れを握れば、卽ち、産、易し」【「拾遺」】。「南州異物志」に云はく、「海馬、大小有り。守宮〔(やもり)〕のごとく、其の色、黃褐。婦人、產、割裂して出で難き者の手に此の蟲を持〔たせ〕ば、卽ち、羊の易きがごとし〔→く〕産〔み〕しなり」〔と〕。時珍曰はく、「水臟を暖め、陽道を壯し、瘕塊〔(かくわい)〕を消し、疔瘡腫毒を治す」【「綱目」】〔と〕。

[やぶちゃん注:ブログで枠文字表記が出来なくなったので、太字で示したトゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus。本邦産は、

タツノオトシゴ Hippocampus coronatus(北海道南部以南の日本近海・朝鮮半島南部に分布する代表種。全長八センチメートル内外。形態・色彩とも個体変異に富むが、胴の部分は側扁し、尾は長く物に巻きつけるようになっている。頭部は胴部にほぼ直角に曲り、馬の頭部を思わせる形状を成す。後頭部にある頂冠は高い。♂の腹部に育児嚢があり、♀はこの中に産卵し、卵は育児嚢の中で孵化し、親と同じような形にまで成長して後、外へ出る。この時の♂の出産の様子はすこぶる苦痛を思わせる様態を成す。海藻の多い沿岸や内湾に棲息する。私も富山の雨晴海岸で銛突き中に見かけことがある)

ハナタツ Hippocampus sindonis(南日本・朝鮮半島南部)

イバラタツ Hippocampus histrix(伊豆半島以南。インド太平洋熱帯域に広く分布)

サンゴタツ Hippocampus japonicus(北海道南部から九州・中国及びベトナム沿岸)

タカクラタツ Hippocampus takakurai(南日本。インド太平洋に広く分布)

オオウミウマ Hippocampus keloggi(伊豆半島以南。インド太平洋熱帯域に広く分布し、全長三十センチメートルにも達する大型種)

クロウミウマ Hippocampus kuda(南日本。オオウミウマと同じくインド太平洋熱帯域に広く分布し、全長もやはり三十センチメートルに達する大型種)

の七種とされるが、近年、

ピグミーシーホース Hippocampus bargabanti(pygmy seahorse。本来の分布は西太平洋熱帯域とされ、二センチメートルほどしかない小型種)

が小笠原や沖縄で確認されて、通称「ジャパニーズピグミーシーホース」なる未確認種もあるらしい。しかし、英文ウィキの「Hippocampus bargibantiでは、当該種の分布域として日本南部を明記するので、これも既にして本邦産種としてよい(但し、個人的には「ピグミー」に纏わってしまった差別的認識から考えた時、和名は別なものを正式に附けた方がよいと私は思う)

「拾遺」唐の陳蔵器撰になる本草書「本草拾遺」(七三九年成立)。原本は散佚。但し、本記載は総て明の李時珍の「本草綱目」からの抄出孫引き。

「抱朴子」晋の道士葛洪(かっこう)著。百六編とされるが、現存しているもは全七十二編。三一七年成立。葛洪は「道教は本、儒教は末」という儒・道二教併用の思想の基づいて,内編では仙人の実在・仙薬製造法・道士の修道法・道教の教理などを論じて道教の教義を組織化したものとされ、外編は翻って儒教の立場からの世事・人事に関する評論となっている。

「佐久奈岐(〔さ〕くなぎ)【和名。】」この和名は不審。思うに、これはやはり奇体な形状を成すシャコ(節足動物門甲殻亜門軟甲綱トゲエビ亜綱口脚目シャコ上科シャコ科シャコ属シャコ Oratosquilla oratoria)の古称異名の一つである「しやくなげ」と混同したものではあるまいか? 既に『神田玄泉「日東魚譜」 鰕姑(シャコ)』で示した通り、人見必大の「本朝食鑑」では「石楠花鰕(しゃくなげえび)」でしゃこを項立ており、『色、石楠花のごとし。故に海西、俗に石楠花鰕(しやくなげえび)と名づく。是れも亦、石楠の略号であろうか』と述べている。実は神田はその「鰕姑」の本文で「志夜姑(シヤコ)〔和名。〕。鰕姑の誤稱なり」と断じていることから、これを恣意的にここに当ててしまっている可能性があるように思われる。だからこそ「名義、未だ詳らかならず」と言わざるを得なくなったのではなかったか? 因みに、現小学館「日本国語大辞典」では「さくなぎ」は鳥の鴫(チドリ目チドリ亜目シギ科 Scolopacidae)の一種に当てられた古名か、とする。実は私は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷸(しぎ)」でこれをシギ科ダイシャクシギ(大杓鷸)属 Numenius のダイシャクシギ類に比定している。そこの注で私は以下のように述べた。

   *

「大杓」はダイシャクシギ Numenius arquata(サイト「馬見丘陵公園の野鳥」の同種のページを参照)、「小き者」「加祢久伊〔(かねくい)〕」はコシャクシギNumenius minutus である(「加祢久伊〔(かねくい)〕」の異名の意は不詳)。サイト「馬見丘陵公園の野鳥」の同種のページを参照されたいが、そこに、『奈良時代から種類を区別せず』、シギ類は一括して『「シギ」の名で知られていたが、平安時代からシャクシギ類を総じて「サクナギ」、室町時代から「シャクナギ」と呼ぶ。江戸時代前期になって他のシャクシギと区別して「コシャク」「コシャクシギ」と呼ばれた。異名』に『「カネクイ」』があるとある。因みに、サイト「馬見丘陵公園の野鳥」によれば、ダイシャクシギ属には、しっかり、チュウシャクシギNumenius phaeopus という種もおり(同サイトの同種のページはここ)、他にホウロクシギ(焙烙鷸)Numenius madagascariensis という種もいるとある。しかも同サイトのホウロクシギのページによれば、『ダイシャクシギと似ているので』、『古くから一緒にして「ダイシャクシギ」と呼ばれていたと思われ、江戸時代後期に区別して「ホウロクシギ」と呼ばれるようになった』とあるから、ここに挙げておく必要がある。なお、この種の和名は『腹部の灰黄褐色の色彩が焙烙(素焼きの土鍋)に似る』ことによる、とある。

   *

「宗奭〔(そうせき)〕」北宋の医官で本草(薬物)学者の寇(こう)宗奭。「本草演義」の著者として知られ、ここもそこからの引用か。

「傴-僂〔(まが)〕りて」「傴僂」(音「クル」)は、背をかがめること。差別用語としての「せむし」の意もあるが、ここは本来の意味でよいであろう。

竹節〔の〕紋、有り。二、三寸。雌なる者(〔も〕の)、黃、雄なる者(〔も〕の)、青色」〔と〕。

氣味甘、平。無毒。

「南州異物志」三国時代の呉の萬震の撰になる南方地誌。

「守宮〔(やもり)〕」爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科 Gekkonidae のヤモリ類。

「羊の易きがごとし〔→く〕」羊の出産は中国ではそのように認識されていたらしい。

「水臟」五行の水気に属する臓器の謂いであろう。「腎」や「膀胱」か。

「陽道」陽気。

「瘕塊〔(かくわい)〕」腹部内に生ずる腫瘤。

「疔瘡腫毒」蜂窩織炎等を伴った劇症性の皮膚の腫瘍。面疔(めんちょう)等。]

2019/06/19

魚屋の金八さんは 伊良子清白

 

魚屋の金八さんは

 

魚屋(なや)の金八さんは

入札場(ふだば)の鍾馗

いつも高札

一とにらみ

 

魚屋(なや)の金八さんは

三年に片頰

船で神鳴り

稻光り

 

魚屋(なや)の金八さんは

敲けば鳴らう

意地じや負けまい

情(なさけ)で折れる

 

魚屋(なや)の金八さんの

商賣(あきなひ)は

伊勢は一圓

雜喉場(ざこば)の浪華(なには)

鯛の千疋

いつもうごかす

 

[やぶちゃん注:昭和七(一九三二)年十一月三十日刊の『新日本民謠年刊』(第一)に掲載されているが、底本全集の「作品年表」では初出はそれ以前の『新日本民謠』かとする。署名は「伊良子清白」。

「魚屋(なや)」「さかなや」であるが、その音の略ではなく、原義は「納屋」で、室町時代に海産物を保存するために海岸に設けられた納屋に基づくものである。

「入札場(ふだば)」漁港の競り場。

「鍾馗」中国の民間信仰の魔除けの神。俗説では、唐の玄宗が病中に鍾馗が悪鬼を退治する夢を見、鍾馗の図を呉道子に描かせたことから始まるという。本来は大みそかに鍾馗の図を貼って悪霊を祓ったが、その後、端午の行事に吸収され、本邦にもそれで伝わった。容貌魁偉にして黒髭で、右手に剣を握る。

「三年に片頰」「みとせにかたほ」と訓じておく。「三年に片頰」で「滅多に笑わない」の意。慣用句「男は三年(さんねん)に片頰(かたほお)」で「男は何時も笑っていると威厳が損なわれるから、滅多に笑わぬ方がよい」という意味で用いる。

「雜喉場(ざこば)」広義には小魚(雑魚)を始めとする大衆魚を扱う魚市場を言い、「雑魚場」などとも表記されるが(但し、「雑魚」は当て字で、「喉」は魚を数える数詞という。ただ、「うじゃうじゃといる小さな物」という意味の「じゃこ」が語源であって「雑喉」も当て字とする説もある)、ここは狭義のそれで昭和六(一九三一)年まで大阪府大阪市西区の旧靱(うつぼ)地区の西部(この中央附近。グーグル・マップ・データ)にあった「雑喉場魚市場」を指す。慶安・承応(一六四八年~一六五五年)の頃にかけてここに開かれた古い魚市場で、遠近から魚介類が集積し、天満(てんま)の青物市場とともにその名をうたわれた(以上は所持する一九八四年講談社学術文庫刊の牧村史陽編「大阪ことば事典」に拠った)。]

入江のある風景 伊良子清白

 

入江のある風景

 

入江のある風景――

リヤス式海岸地形の一角、

白い燈臺が君臨する。

蜑女(あま)の眼鏡は黑い。

海圖にある大松が、

今日は全幹を以て震搖する。

内灣は川のやうに、

陸地に侵入した。

何と光つた秋の空だ、

鷗の翼が燒失する。

 

[やぶちゃん注:昭和七(一九三二)年九月一日発行の『女性時代』(第三年第九号)に前の「神島外海」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。

「リヤス式海岸地形」リアス式海岸。「rias」はスペイン語で「深い入り江」(「ria」で「入江」)の意で、スペイン北西部ガリシア地方の入り江の多い海岸地形に因む)浸食で多くの谷の刻まれた山地が、地盤沈降又は海面上昇によって沈水し、複雑に入り組んだ海岸線を形成したものを指し、本邦では三陸海岸・志摩半島・若狭湾などが代表的である。]

神島外海 伊良子清白

 

神島外海

 

どうしてこんな景色があるか。

靑い髮の海が食ひちぎつたのだ。

危巖亂立、目もはるかに續く。

波の手が白く閃めく。

ど、ど、どーん、ど、ど、どーん、

ひつきりなしの釣瓶打だ。

天地廓寥、ただ響。

この沸えくりかへる坩堝(るつぼ)が、

がらんどうの中でつぶやく。

灰色の退屈が、

霧のやうに降るではないか。

 

[やぶちゃん注:昭和七(一九三二)年九月一日発行の『女性時代』(第三年第九号)に次の「入江のある風景」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。この年、伊良子清白、満五十五歳。年初より歌誌『白鳥(しらとり)』への短歌の投稿が定期的となり、十月からは『鳥人』で毎号短歌評も手掛けるようになった。十二月四日、佐藤惣之助が来訪、一泊している。

「神島」既出既注

「廓寥」「くわくれう(かうりょう)」は「広いだけで何もなくて寂しい様子・なんとなく寂しいこと」を謂う。]

2019/06/18

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(39) 「池月・磨墨・太夫黑」(6)

 

《原文》

 正史演義ノ卷々ヲ飜シ見ルモ、池月磨墨ハ共ニ古今ヲ通ジテ唯一ツノ他ハ無キ筈ナリ。從ヒテ以上二十數處ノ產地ナルモノハ、其何レカ一箇ヲ除キテ悉ク虛誕ナリ。虛誕ト言ハンヨリモ最初ハ單ニ日本第一ノ駿馬トノミニテ名ハ無カリシヲ、後ニ誰カノ注意ヲ受ケテ池月ナリ磨墨ナリニ一定セシモノナルべシ。之ヲ觀テモ昔ノ田舍人ガ固有名詞ニ無頓著ナリシ程度ハ測リ知ラルヽナリ。今トナリテ之ヲ比較スルトキハ、コノ歷史上有名ナル名馬ハ數ケ處ニ生レテ數ケ處ニテ死スト云フコトニ歸着ス。神變驚クニ堪ヘタリ。池月ノ如キハ中國ニ老死シ或ハ阿波ノ海岸ニ飛ビテ天馬石ト化セシ外ニ、【馬洗川】筑後三井郡ノ内舊御原郡ノ馬洗川ト云フ處ニモ之ヲ埋メタリト云フ古塚アリ〔筑後地鑑〕。此邊ノ地ハ佐々木高綱ガ宇治川ノ戰功ニ因リテ封ゼラレシト云フ七百町ノ中ニテ、今モ多クノ佐々木氏ノ彼ガ後裔ト稱スル者居住ス。而シテ馬洗川ハ池月ヲ洗ヒシヨリ起レル地名ナリ〔筑後志〕。【駒形神】東國ニテハ武藏橘樹郡城鄕村大字鳥山ト云フ一村ハ、佐々木ガ馬飼料トシテ將軍ヨリ拜領セシ恩地ニシテ、村ノ駒形社ハ亦池月ヲ埋メタル塚ト稱セラル。祠ノ傍ニハ厩ニ用ヰシ井戶アリ。曾テ附近ノ土中ヨリ古キ轡ヲ掘リ出ス。觀音堂ノ莊司橋ハ亦池月ヲ洗ヒタリト稱スル故跡ナリ〔新編武藏風土記稿〕。下總猿島郡五霞村ノ幸館(カウダテ)ニハ、藥師堂ノ側ニ生月塚アリテ、梵文ヲ刻シタル奇形ノ石塔立テリ。併シ池月此地ニ埋メラルト云フ傍證無キ限ハ、以前ハ只名馬塚ト呼ビシモノイツノ世ニカ斯ク誤リ傳ヘシナラント、前代ノ地誌家モ之ヲ危ミタリ〔利根川圖志〕。【馬塚】近江阪田郡西黑田村大字常喜(ジヤウキ)ノ水田ノ間ニアル馬塚ハ、今モ之ヲ池月ノ墓トセズンバ止マザル人アリ。傳說ニ曰ク、池月曾テ病ス、當時馬灸ノ名人此村ニ住スト聞キ遠ク曳キ來リシガ、其人死シテ有ラザリケレバ馬モ終ニ此地ニテ果テタリ。同村大字本莊ニハ病馬ノ飮ミシト云フ泉アリ。之ヲ池月ノ水ト稱ス〔阪田郡誌下〕。【胴塚首塚】相州足柄上郡曾我村大字下大井ニモ一ノ生月塚アリ。塚ハ二箇ナレバ之ヲ池月ノ胴塚首塚ト稱ヘタリ。【山王】胴塚ハ路傍ニ在リ、首塚ハ村ノ取附ニ在リテ之ヲ山王社ニ祀レリ。塚ノ上ニハ松アリ。【馬頭觀音】又同ジ村ノ畠ノ中ニモ松一本アル塚ヲ馬頭觀音ト名ヅケ、此ハ又磨墨ノ塚ト云フコトニ決著ス。【橋ノ忌】此地ノ古傳ニテハ、池月ハ鄰村足柄下郡酒勾(サカワ)村大字酒匂ノ鎭守ノ森ノ東、僅カノ溝川ノ石橋ヲ架ケタル處ニテ、橋ヨリ落チテ死シタリト云ヒ、永ク此橋ヲバ馬曳キテ渡ルコトヲ戒メタリキ〔相中襍誌〕。磨墨塚ノ尾張ニ在ルコトハ前ニ之ヲ述ブ。首府ノ南郊荏原郡馬入村ニ於テモ、小田原北條時代ノ舊領主ヲ梶原氏ト稱セシ爲ナルカ、同ジク摺墨塚ノ傳說アリ。源太景季愛馬ヲ大澤ニ乘入レ、馬死シテ之ヲ塚ニ埋ムト云フコト全ク馬引澤ノ口碑ト同ジ。近年新タニ石ヲ立テヽ之ヲ勒ス。塚ノ西ニ鐙(アブミ)ケ谷(ヤツ)アリ。磨墨ノ鐙ヲ棄ツト云ヒ或ハ此馬斃レシ時鐙飛ンデ此地ニ至ルト云ヘリ〔通俗荏原風土記稿〕。阿波ニモ勝浦郡小松島町大字新居見(ニヰミ)、【馬塚】竝ニ海岸ノ赤石ト云フ里ノ山中ニ各磨墨ノ塚アリテ眞僞ノ爭アリ。或ハ此塚ノ所在ニ由リ義經行軍ノ路筋ヲ證セントスル人アリキ〔阿州奇事雜話三〕。然ルニ此馬ノ壽命ハ猶十數年長カリシト云フ說ハ頗ル有力ナリ。磨墨ハ駿州狐ケ崎ニ於テ梶原ガ一黨討死ノ後飢ヱテ斃レタリトモ云ヒ、又或ハ源太ガ仇ノ手ニ渡スヲ惜シミテ之ヲ斬殺シタリトモ傳ヘラレタルニ、更ニ一方ニハ同ジ駿河ノ西部ニ於テ、此馬ガ終ヲ取レリト云フ村アリテ、【馬ノ首】百姓某ナル者其首ノ骨ヲ所持ス〔駿國雜志〕。又狐ケ崎ノ笹葉ガ今モ矢筈ノ形ヲシテ名馬ノ齒ノ痕ヲ留ムト云フ話ト類似スル例アリ。【片割シドメ】武州都築郡都岡(ツヲカ)村大字今宿ト二俣川村トノ境ナル小川ノ岸ニ、片割シドメト稱シテ年々花葩ノ半ノミ咲ク「シドメ」アリ。磨墨昔此地ニ來リテ彼花ヲ蹈ミテヨリ、此如キ花ノ形トナルト云フ〔新編武藏風土記稿〕。石ト花トノ差コソアレ、此モ名馬ノ蹄ノ跡ヲ記念シ、永ク里人ガ之ヲ粗末ニセザリシ一ノ徵ナリ。

 

《訓読》

 正史・演義の卷々を飜(ひるがへ)し見るも、池月・磨墨は、共に古今を通じて唯一つの他は無き筈なり。從ひて、以上、二十數處の產地なるものは、其の何れか一箇を除きて、悉く虛誕なり。虛誕と言はんよりも、最初は單に日本第一の駿馬とのみにて、名は無かりしを、後に誰(たれ)かの注意を受けて、池月なり、磨墨なりに一定せしものなるべし。之れを觀ても、昔の田舍人が固有名詞に無頓著なりし程度は測り知らるゝなり。今となりて之れを比較するときは、この歷史上有名なる名馬は、數ケ處に生れて、數ケ處にて死すと云ふことに歸着す。神變、驚くに堪へたり。池月のごときは、中國に老死し、或いは、阿波の海岸に飛びて天馬石と化せし外に、【馬洗川】筑後三井(みい)郡の内、舊御原(みはら)郡の馬洗川と云ふ處にも、之れを埋めたりと云ふ古塚あり〔「筑後地鑑」〕。此の邊りの地は佐々木高綱が宇治川の戰功に因りて封ぜられしと云ふ七百町[やぶちゃん注:約七平方キロメートル。]の中にて、今も多くの佐々木氏の彼が後裔と稱する者、居住す。而して、馬洗川は池月を洗ひしより起れる地名なり〔「筑後志」〕。【駒形神】東國にては、武藏橘樹(たちばな)郡城鄕(しろさと)村大字鳥山と云ふ一村は、佐々木が馬飼料として將軍より拜領せし恩地にして、村の駒形社は亦、池月を埋めたる塚と稱せらる。祠の傍らには厩に用ゐし井戶あり。曾つて附近の土中より古き轡(くつわ)を掘り出だす。觀音堂の莊司橋は亦、池月を洗ひたりと稱する故跡なり〔「新編武藏風土記稿」〕。下總猿島(さしま)郡五霞(ごか)村の幸館(かうだて)には、藥師堂の側に生月塚ありて、梵文(ぼんもん)[やぶちゃん注:梵字の種子(しゅじ)。]を刻したる奇形(きぎやう)の石塔、立てり。併し、池月、此の地に埋めらると云ふ傍證無き限りは、以前は只だ名馬塚と呼びしもの、いつの世にか、斯く誤り傳へしならんと、前代の地誌家も之れを危みたり〔「利根川圖志〕」。【馬塚】近江阪田郡西黑田村大字常喜(じやうき)の水田の間にある馬塚は、今も之れを池月の墓とせずんば、止まざる人、あり。傳說に曰く、「池月、曾つて病ひす、當時、馬灸の名人、此の村に住すと聞き、遠く曳き來たりしが、其の人、死して、有らざりければ、馬も終に此の地にて果てたり。同村大字本莊(ほんじやう)には病馬の飮みしと云ふ泉あり。之れを「池月の水」と稱す〔「阪田郡誌」下〕。【胴塚首塚】相州足柄上郡曾我村大字下大井にも一つの「生月塚」あり。塚は二箇なれば、之れを池月の「胴塚」・「首塚」と稱へたり。【山王】胴塚は路傍に在り、首塚は村の取り附きに在りて、之れを山王社に祀れり。塚の上には松あり。【馬頭觀音】又、同じ村の畠の中にも松一本ある塚を「馬頭觀音」と名づけ、此れは又、「磨墨の塚」と云ふことに決著(けつちやく)す。【橋の忌(いみ)】此の地の古傳にては、池月は鄰村足柄下郡酒勾(さかわ)村大字酒勾の鎭守の森の東、僅かの溝川の石橋を架けたる處にて、橋より落ちて死したりと云ひ、永く此の橋をば、馬曳きて渡ることを戒めたりき〔「相中襍誌(さうちゆうざつし)」〕。磨墨塚の尾張に在ることは、前に之れを述ぶ。首府の南郊、荏原郡馬入村に於ても、小田原北條時代の舊領主を梶原氏と稱せし爲るなるか、同じく摺墨塚の傳說あり。源太景季、愛馬を大澤に乘り入れ、馬、死して、之れを塚に埋づむと云ふこと、全く馬引澤の口碑と同じ。近年、新たに石を立てゝ之れを勒(ろく)す[やぶちゃん注:碑を刻んだ。「勒」には「轡」の意味もあるのでこれを縁語的に使ったものであろう。]。塚の西に「鐙(あぶみ)ケ谷(やつ)」あり。磨墨の鐙を棄つと云ひ、或いは、此の馬、斃(たふ)れし時、鐙、飛んで、此の地に至ると云へり〔「通俗荏原風土記稿」〕。阿波にも、勝浦郡小松島町大字新居見(にゐみ)、【馬塚】竝びに海岸の赤石と云ふ里の山中に各々、磨墨の塚ありて眞僞の爭ひあり。或いは、此の塚の所在に由り、義經行軍の路筋を證せんとする人、ありき〔「阿州奇事雜話」三〕。然るに、此の馬の壽命は、猶ほ、十數年長かりし、と云ふ說は頗る有力なり。磨墨は駿州狐ケ崎に於いて梶原が一黨討死の後、飢ゑて斃れたりとも云ひ、又、或いは、源太が、仇(かたき)の手に渡すを惜しみて、之れを斬り殺したりとも傳へられたるに、更に一方には、同じ駿河の西部に於いて、此の馬が終りを取れりと云ふ村ありて、【馬の首】百姓某なる者、其の首の骨を所持す〔「駿國雜志」〕。又、狐ケ崎の笹葉(ささば)が、今も矢筈(やはず)の形をして、名馬の齒の痕を留むと云ふ話と類似する例あり。【片割(かたわれ)しどめ】武州都築郡都岡(つをか)村大字今宿と二俣川村との境なる小川の岸に、「片割しどめ」と稱して、年々、花葩(はなびら)[やぶちゃん注:花弁(はなびら)に同じい。]の半ばのみ咲く「しどめ」あり。磨墨、昔、此の地に來たりて、彼の花を蹈みてより、此くのごとき花の形となると云ふ〔「新編武藏風土記稿」〕。石と花との差こそあれ、此れも名馬の蹄の跡を記念し、永く里人が之れを粗末にせざりし一つの徵(しるし)なり。

[やぶちゃん注:「演義」もとは中国で歴史上の事実を面白く脚色して俗語を交えて平易に述べた小説の類を指す。

「筑後三井郡ノ内、舊御原(みはら)郡ノ馬洗川」個人サイトと思しい「福岡史伝と名所旧跡」のこちらの「【池月の塚】(小郡市八坂)」に、『寿永二』(一一八三)年、『源頼朝より木曽義仲征討の命を受けた源範頼・義経は、京都に向い、宇治川をはさんで義仲軍と対陣した』。「源平盛衰記」に『よると、義 仲は橋を落として防備を固めたが、流れが急で渡河は非常に困難であった。このとき、佐々木四郎高綱は源頼朝より賜わった名馬「池月」にまたがり、梶原源太影季と先陣を争い、弓矢をあびながら』、『両軍環視の中で渡河に成功し、先陣の第一声をあげた。(宇治川先陣争い)』。『この村の古老の言い伝えによると』、『佐々木高綱はその後』、『平氏征討の軍功によって、筑後国鯵坂庄(もと平氏の領地)七〇〇町歩を賜わり、名馬「池月」と鯵坂の地に移り住んだ。そして』、『ここに城を築き、三瀦郡笹渕村より嫁をもらい』、『一子をもうけ、佐々木三蔵利綱と名づけたが、三年後に鎌倉幕府の命によって、利綱をこの地に残して鎌倉に帰った。この地にいる時、名馬「池月」に鞭打って領地を乗り廻っていたが、その名馬がこの地で死亡したので、その遺体をこの塚に葬った言われている』。『「池月」は』、『青森県上北郡七戸町の産とか、鹿児島県揖宿郡の産とか伝えられるが』、『はっきりしない。黒栗毛の馬で背丈は四尺八寸』(一・四六メートル)『あり、大きくて逞しく、性質』、『強猛で、人も馬も寄せつけず喰ってかか』った『とも言われている』。『塚のそばに、梵字』(キリーク(阿弥陀如来)か?)『を刻んだ供養塔と馬頭観世音が建てられている。老松宮の横を流れる川を』馬洗川『と言い、又』、『馬渡(もど)という地名も、この名にちなんでつけられたと考えられる。小郡音頭に「ねむる池月、馬渡の里」とあるは、ここのことを歌ったものである』『(昭和五十七年二月四日』『小郡市教育委員会』『小郡市郷土史研究会』『「名馬池月塚」案内板より』)とあって、『写真は』(リンク先参照)『佐々木高綱が池月に跨り』、『何度も何度も飛び越えたと伝わる「馬洗川」と呼ばれた小川で』、『そのことで、この地は馬渡(もど)と呼ばれようになったといわれてい』るとあり、また、現在、『「池月の塚」は養護老人ホーム「小郡池月苑」の裏手にあり、見学するには「小郡池月苑」の敷地を通らせて』貰うことになるので、『見学予定の方は一度「小郡池月苑」事務所のご担当者の方に連絡を取って出かけられた方がよい』とされ、『「池月伝説」は北は青森、南は鹿児島まで日本各地に残るよう』だが、『その多くは池月の産地としての伝説で、墓や塚の伝説のみが残る地は極』く僅かなようであり、こ『この「名馬池月塚」も産地としてではなく』、『池月の終焉の地として紹介されて』おり、柳田國男が言うように、『この鰺坂周辺には佐々木性の方々が古くから住まわれていて、もしかしたらこの方々は高綱の末裔に当たるのかもしれ』ないとされつつ、ただ、『残念な事に、佐々木高綱が筑後鰺坂に領地を得た事実が歴史書の中に見あたらないため、あくまでも「古老の言い伝え」という事になっ』ているとする。また、『ところで、この言い伝えはかなり古くからあったようで』、『久留米藩の学者・矢野一貞によって書かれた「筑後国史」には西鰺坂村城跡(池月塚より南』五百メートル『の地)について「土人相伝え言う佐々木高綱の城跡なり」と記されて』ある、とある。ここに出る福岡県小郡(おごおり)市八坂にある「小郡池月苑(おごおりいけづきえん)」はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。西側に老松神社があり、その西に接して小川があるので、これが「馬洗川」であると断じてよい。

「武藏橘樹(たちばな)郡城鄕(しろさと)村大字鳥山」「駒形社」神奈川県横浜市港北区鳥山町のここに「名馬生唼(池月)の墓」として辛くもポイントされており、小祠も現存する。リンク先のサイド・パネルの個人の撮影になる画像を見ると、扁額に「馬頭觀世音」とある。サイト「散歩日記」の「馬頭観音堂(名馬池月の墓)」に堂(祠)内部の明瞭な画像が載り(今も供養がなされている様子がよく判る)、『佐々木高綱が駆っていた名馬「池月」(生唼)の墓として、霊を慰めるために建立された駒形明神が起源と伝わる「馬頭観音堂」』とあり、『この側には、佐々木高綱が建立した「鳥山八幡宮」や「三会寺」があり、また高綱の館もあったと云われて』おり、『「池月」を祀っていると云われる場所は(特にその発祥・由来について)日本各地にあるようですが、「最後の地」(お墓)ということならこちらで確定しているようです。現在は「馬頭観音堂」として、小さな祠が残されているのみとなっています』とある。「祠の傍らに」「厩に用ゐし井戶」とあるが、それは現認出来ない(祠の前方左に説明板があるが、老朽化して下半分が欠損しており、サイトの画像の撮影者も判読出来ないとしている。民家の角地であるから、或いはその個人宅地内に痕跡はあるのかも知れない)。

觀音堂の莊司橋」現認出来ない。

「下總猿島(さしま)郡五霞(ごか)村の幸館(かうだて)」「藥師堂の側に生月塚あり」現在の茨城県猿島郡五霞町(ごかまち)幸主(こうしゅ)に薬師堂が現存する。また、ウィキの「幸主名馬尊」(こうしゅめいばそん)によれば、この幸主地区内には、『鎌倉源氏の武士である佐々木四郎高綱並びに梶原源太景季』、二『人の陣屋の跡として伝えられている』とあって、『後に村人』が『それぞれの名馬の名をとって、五霞町小福田』(幸主の西北。ここ)『に磨墨を、五霞町幸主には池月を祭った。今でも名馬様と呼んで、馬の神として厚く信仰されている』ともあった。「五霞町」公式サイト内の「幸主名馬尊」によれば、『宇治川合戦』後、『生唼(いけづき)』は、『幸主にあった高綱の陣屋までたどり着いたとき、息を引きとってしまいました。高綱は生唼をまつるため』、『塚をつくり、のちに拝殿が建立され』、『名馬尊として信仰され、農耕馬が使われていた昭和の戦前までは多くの参拝者があり、祭礼はにぎやかなものでした』ともあったが、磨墨を祀った方の記載はなく、個人ブログ「小さなまちの夢」の「幸主名馬尊」によると、『「する墨の池」は、五霞町小福田に約』三千『平方メートルの沼地で、大正』九(一九二〇)『年頃まであったが、現在は干拓して水田になっている』とあり、どうも磨墨を祀ったそれは現存しないようである。なお、この奇体な石碑であるが、個人ブログ「神社ぐだぐだ参拝録」の「幸主名馬尊(五霞町幸主)」に、薬師堂の『裏に回ると、塔があるが、こちらが名馬尊の御本体なのか』? 『そして石塔の前の石仏は馬頭観音だろうか』? として、頭部から明らかに馬頭観音と比定出来る石仏と、その背後に建つ巨大な石造物(形状は確かに類を見ない奇体なものであり、碑面上部には確かに梵字らしき陰刻が認められる)の写真が添えられてある。引用元である江戸末期の医師赤松宗旦著した利根川中下流域の地誌(安政二(一八五五)年序)「利根川圖志」の巻二に載る「生月塚」とする石碑と同じ形であるから、これで間違いない。本文の「五ヶ村島」の最後に赤松は(所持する一九三八年岩波文庫刊柳田國男校訂のそれに拠る)、

   *

幸舘村に生月の塚あり。下に載す。(生月といふは信(う)けがたし。されど古駿馬の塚なるべし)。

Meibaduka

   *

と記す。画像も同じ岩波文庫版の画像をトリミングして示した。図の右にあるキャプションは上から下へ、

幸舘村藥師堂
 生月塚

栗橋隆岩寺領

惣高三尺四寸五分 高二尺二寸
笠石前幅一尺九寸 奥行尺六寸

で、全体の高さが一メートル四センチメートル弱、笠を除いた本体部が六十七センチメートル弱。笠石は前方の幅が五十七・五七センチメートル、奥行き(本体部であろう)は四十八・四八センチメートルとなる。

「近江阪田郡西黑田村大字常喜(じやうき)の水田の間にある馬塚」滋賀県長浜市常喜町(じょうぎちょう)。塚は現存しないか。なお、「坂田郡」が正しい。「阪田郡」という表記は明治期に突如、有意に現われたもので、どうもこれは「坂」の字の正字を「阪」と誤って使用したためらしい。

「同村大字本莊(ほんじやう)」恐らく、常喜町に北で隣接する滋賀県長浜市本庄町(ほんじょうちょう)のことである。

「池月の水」現存しないか。

『相州足柄上郡曾我村大字下大井」神奈川県足柄上郡大井町下大井。以下に記される通り、複数のランドマークを持つにも拘わらず、ネットには全く掛かってこない。総て残存しないというのはちょっと考え難いのだが。

「鄰村足柄下郡酒勾(さかわ)村大字酒勾」神奈川県小田原市酒匂。酒匂川河口の海に接した左岸。下大井のある曾我村とは三キロメートル強しか離れていないので近隣ではある。但し、狭義の「鄰村」、所謂、「隣り村」ではない。間に少なくとも「上府中村」「下府中村」「田嶋村」等が挟まっている。私がしばしばお世話になっている優れものの、近現代地図の対比が見られる埼玉大学教育学部の谷謙二(人文地理学研究室)Leaflet版の時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」のこちらを参照。

「僅かの溝川の石橋」上記に最後の比較地図に現在の酒匂堰が既に小流れとして存在しているから、この流れは江戸以前にあったと考えられ、位置的には当該マップのこの辺りが想定出来るのではないかとも思われる。

「荏原郡馬入村」不詳。しかしこれ、「馬込村」の誤りではあるまいか? 現在の東京都大田区の馬込地区である(ここは旧荏原郡である)。塚の正確な位置は不明だが、少なくとも同地区の南馬込三丁目十八番二十一号のここ(グーグル・ストリートビュー)に、明治三三(一九〇〇)年に馬込村の人々によって建てられた碑が現存しているからである(「大田区」公式サイトのこちらにその記載が有る)。「新たに石を立てゝ之れを勒(ろく)す」とあるが、本書の初版は大正三(一九一四)年刊である。これは正しく「近年」であろう。

「鐙(あぶみ)ケ谷(やつ)」南馬込四丁目に「鐙坂」がある。サイト「坂マップ」のこちらに、『大正末期から始まった耕地整理によって出来た坂道で、もとは狭い農道であった』。『坂の名は、伝説によると、梶原景季の愛馬磨墨が、鐙を谷に落としたところという。鐙谷の地名から名づけられたものという』(『大田区の標識より』)とある。先の比のある位置の僅か真東四百メートル位置である。

「阿波」「勝浦郡小松島町大字新居見(にゐみ)」「竝びに海岸の赤石と云ふ里」徳島県小松島市新居見町(今、「徳島乗馬倶楽部」が地区内にある)並びにそこから僅か四キロメートル東南東に離れた徳島県小松島市赤石。と言うかねぇ……この新居見町と赤石の間のド真ん中にある、小松島市芝生町宮ノ前には、既出既注だけど、池月が石に化したとされる天馬石があるだけどなぁ? 以前にも引いたことがある個人ブログ「awa-otoko’s blog」の、「磨墨の天馬石(小松島 田野)」を見ると、ここにそれ(ブログ主がここを田野(ちっちゃな宮ノ前の南東の、広大な町域)とするのは旧郡の広域地名)がガッツリと書かれてあって、それに新居見を対比して別に掲げてある。まんず、そこたらじゅうにあるわけね! ただね、気になったのは、「山中に各々」でね、現在の赤石地区は、まさに柳田國男も言っている通り、完全な海岸端で「山中」の「山」がない(西橋の川の左岸で丘陵の麓がかかるだけ)わけよ。

「百姓某なる者、其の首の骨を所持す〔「駿國雜志」〕」次の次の「磨墨ト馬蹄硯」で図像附きで出る。見易い画像を既に用意してある。お楽しみ!

「しどめ」バラ目バラ科ナシ亜科ボケ属クサボケ Chaenomeles japonica。ボケ Chaenomeles speciosa の仲間。本州・九州の山林や山裾に自生する落葉小低木。早春にボケと似た花が咲く。ボケの代用として果実を鎮痛・咳止め・利尿に、果実酒を疲労回復・強壮などに用いる。

「武州都築郡都岡(つをか)村大字今宿と二俣川村との境なる小川」現在の神奈川県横浜市旭区内の、今宿地区と二俣川地区の境となると、「今昔マップ on the web」ではこの中央辺りが候補となろうか。]

やれ買はう、それ買はう 伊良子清白

 

やれ買はう、それ買はう

 (小濱懷古)

 

やれ買はうそれ買はう、諸國は來るし

世間が明(あか)るていつも春

きけよ昔の小濱(をはま)の浦は

黃金(きん)の瓦が光つてた

 

浦は兩浦ふところ湊

冬は南受(したう)け溫室(むろ)の中

千石船があたたまりによ

小濱民部(をはまみんぶ)(一)の森したによ

 

東京通ひの船頭の泊(とま)る

宿は伽羅の橋渡り

成田屋擬(もど)きで緞子(どんす)に胡坐(あぐら)よ

何虞でも夜(よ)つぴて風呂がたつたよ

 

所娘がやの字の帶で

お母(か)ん往(い)て來る提燈點けな

金魚のやうな花魁(おいらん)が

古市(ふるいち)(二)からもきてゐたよ

船に殘るは船靈御精靈(ふなだまごしやうりやう)

灘(なだ)の新菰(しんこも)鏡を拔いて

だだらあそびの風待(かざま)ちよ

戀の中宿東京は遠いしよ

 

山が枯れると帆檣(はしら)の林

雪の下にも歌舞の里よ

海からあがる日天(につてん)樣でも

揚屋(あげや)の大戶はあけられまいよ

 

昔々の赤鉢卷で

も一つ踊ろかそもそもの起りは

伊達の若衆の鞘當(さやあて)で

大船頭(おほせんどう)の頭(あたま)も剃つたよ

 註(一) 室町時代の地頭の名、今も旧址に
    お臺所松あり。

  (二) 冬は山田古市の遊廓より妓女多く
    來りて加勢せりといふ。

 

[やぶちゃん注:底本で昭和六(一九三〇)年十二月一日に推定された『新日本民謠』(第二年第二号。茨城県水戸出身で東京主計学校卒の口語自由詩詩人大関五郎(明治二八(一八九五)年~昭和二三(一九四八)年:大正一〇(一九二一)年頃、「詩話会」の機関誌『日本詩人』に作品を発表、後に童謡や新民謡に転じ、北原白秋や野口雨情らの協賛で昭和六(一九三一)年に雑誌『新日本民謡」を刊行。詩集に「愛の風景」、民謡集に「煙草のけむり」など)の主宰した雑誌)に掲載。署名は「伊良子清白」。江戸以前の、当時、伊良子清白が診療所を構えていた鳥羽小浜(おはま)(現在の鳥羽市小浜町(おはまちょう))の時代懐古詠。「帆檣(はしら)」の「はしら」は二字へのルビ。

「冬は南受(したう)け溫室(むろ)の中」「南受(したう)け」は既出既注の南風のことで、「溫室(むろ)の中」はそのお蔭で冬でもとても暖かなことの比喩。

「小濱民部(をはまみんぶ)」答志郡小浜村に本拠を置き、伊勢湾に勢力を持っていた海賊の頭目で、戦国時代から安土桃山時代にかけては伊勢国司の北畠家に属した海賊的集団「小浜衆」の内、知られた小浜景隆(天文九(一五四〇)年~慶長二(一五九七)年:志摩国出身で、後に武田信玄・徳川家康に仕えた水軍の将。通称は民部左衛門。伊勢守)は大型の軍船安宅船(あたけぶね)を所有し、北畠家の海賊衆を束ねていたが、織田信長の援助を受けて志摩国統一を狙った九鬼嘉隆に敗れ、伊勢湾を追われた(以上はウィキの「小浜景隆」に拠った)。

「伽羅の橋」「伽羅」は「きやら(きゃら)」。梵語の漢訳で、狭義には香木として有名な沈香(例えばアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha 等)の別名であるが、ここは高級材を用いた贅沢な橋の謂い。

「成田屋」もとは歴代の歌舞伎俳優市川団十郎及びその一門の屋号。代々、成田不動を信仰したのに由来するという。ここは、後に彼らが荒事を得意としたところから転じて、「江戸前の景気のよいこと・威勢のよいこと」の意となった、それの意。

「緞子(どんす)」経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の色を変えて、繻子織(しゅすおり:経糸・緯糸それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方。密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い)の手法で文様を出す絹織物のこと。精錬した絹糸を使う。

「古市(ふるいち)」三重県伊勢市古市地区(グーグル・マップ・データ)。ウィキの古市(伊勢市)によれば、『参宮街道の、外宮・内宮の中間にある古市丘陵』部に当たる一帯で、『江戸時代以前は、丘陵にあるため』、『水利が悪く民家もほとんどなく楠部郷に含まれていたが、伊勢参りの参拝客の増加とともに、参拝後に精進落としをする人々が増加したことにより』、『遊廓が増え』、『歓楽街として発達し、宇治古市として楠部』(くすべ)『郷から分かれた』。『江戸時代前期に茶立女・茶汲女と呼ばれる遊女をおいた茶屋が現れ、元禄』(一六八八年~一七〇三年)『頃には高級遊女も抱える大店もできはじめた』。寛政六(一七九四)年の大火では『古市も被害を受けたものの、かえって妓楼の数は増え、最盛期の天明』(一七八一年~一七八九年)『頃には妓楼』七十『軒、遊女』千『人、浄瑠璃小屋も数軒、というにぎやかさで、「伊勢参り 大神宮にもちょっと寄り」という川柳があるほどに活気に溢れていたという』。『十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場した』。『江戸時代末には、北は倭町から南は中之町まで娼家や酒楼が並び』、『江戸幕府非公認ながら、江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊廓、あるいはさらに大阪の新町、長崎の丸山をたして五大遊廓の一つに数えられた。代表的な妓楼としては、備前屋(牛車楼・桜花楼とも呼ばれた)、杉本屋(華表楼とも)、油屋(油屋騒動で有名』『)、千束屋(一九の膝栗毛に登場』『)などがあった』。『明治期に古市丘陵を迂回する道路が整備され』るに伴い、『衰退し』た、とある。

「鏡を拔いて」「鏡」は形が古鏡に似ていることから酒樽の蓋を指し、これで祝宴で酒樽の蓋を槌で割り開くことを言う。

「揚屋(あげや)」江戸時代、客が置屋(おきや)から太夫・天神・花魁などの高級遊女を呼んで遊んだ店のこと。

「鞘當(さやあて)」意地立てから起こる喧嘩を言う。ここは遊女絡みのそれ。「恋の鞘当て」がまさにそれを意味する語で、もとは遊里で一人の遊女を巡って二人の武士が鞘当てをする歌舞伎の題材から生まれた語である。

「お臺所松」現存しないようである。]

吐綬鷄の賦 伊良子清白

 

吐綬鷄の賦

 

七面鳥は飛ばぬ鳥ですが

笑ふ鳥です

また、歌ひ手です

希代の艶魔で

煤を朱にする羽根を持てゐます

古風な勇婦ですが

また、派手な近代女性です

老孃で肥滿家です

日光の健啖家です

吐綬鳥です

美しい肉の組紐を見せびらかします

 

巴峽や閩廣(びんくわう)の山中には

野生の七面鳥が棲むといひます

それは神話中の鳥です

あなたの家の主婦は

朝な朝な大空によびかけます

天使は靑銅色と黑色とを授けます

七面鳥は廢墟ですか

そうです、薔薇の谷です

七面鳥は爛れてゐますか

そうです、美は創痍(きづ)の一種です

七面鳥は春の鳥ですか

そうです、地上の太陽です

 

七面鳥は殺さないで下さい

   (お聽きなさい)

千一夜物語の美女の肉が

巨人の家の鍋の底で

黑焦げに成つたといひます。

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三〇)年十一月一日発行の『女性時代』(第二年第十一号)に掲載。署名は「伊良子清白」。「創痍(きづ)」のルビはママ。

「吐綬鷄」ここはまずは、アメリカ合衆国・カナダ南部・メキシコに分布するキジ目キジ科シチメンチョウ亜科シチメンチョウ属シチメンチョウ Meleagris gallopavo の異名としてよかろう。和名「七面鳥」は、頭部や頸部の羽毛がない赤い皮膚が露出して発達した肉垂(にくだ)れが、興奮すると赤・青・紫などの色に変化することに由来する。羽色は暗褐色と暗緑色とからなり、金属光沢を有する。しかし、詩篇中、第二連で中国の山中に「野生の七面鳥が棲む」として語られるのは、キジ目キジ科ジュケイ属 Tragopan で、全くの別種である。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 吐綬雞(とじゆけい)(ジュケイ類)」を見られたい。ジュケイ類はインド北部・台湾・中国・ネパール北部・パキスタン北部・ブータン・ミャンマー西部に分布し、ジュケイ Tragopan caboti・ミヤマジュケイ Tragopan blythii・ハイイロジュケイ Tragopan melanocephalus・ヒオドシジュケイ Tragopan satyra・ベニジュケイ Tragopan temminckii がいる。ジュケイ類は♂の側頭部に角のように見える二つの肉質突起があり、頸部の青や黄の肉垂れも大きく膨らむ(但し、この肉質突起と肉垂れは通常は収縮しており、興奮すると見える)。羽色も緋色・褐色・灰色などからなり、白っぽい円形斑紋を多数有し、和名はこの円紋が勲章(「綬」は「勲章に付ける短い紐」のこと)のように見えることに由来する。

「巴峽」「巴猿」の語で知られる湖北省恩施トゥチャ族ミャオ族自治州巴東県(グーグル・マップ・データ)の長江の急峻な渓谷。所謂「三峽」の域内である。

「閩廣(びんくわう)」狭義には福建省南部、広義にはそこに加えて台湾・浙江省南部・広東省東部と西部・海南省などを含むところの、所謂、閩南語を使用する地域の旧名。

「千一夜物語の美女の肉が」「巨人の家の鍋の底で」「黑焦げに成つたといひます」ちゃんと読んだことがないので判らぬが、巨人が出てくるところからは、「ハサン・アル・バスリの冒険(第五百七十六夜~第六百十五夜)」辺りか。]

2019/06/17

はだかむすめ 伊良子清白

 

はだかむすめ

 (浮世繪風に)

 

はだか娘は

千兩持むすめ

はだかなれども

あや錦

 

はだか娘は

海の精

靑い波間を

分けて入る

 

はだか娘は

寶をあさる

海の都の

たまあさる

 

はだか娘と

眞珠の貝は

波にもまれて

珠となる

 

裸むすめは

人魚か

しぼる濡髮

日に曝らす

 

はだかむすめよ

いつまではだか

金の解きがみ

櫛一つ

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三〇)年六月一日発行の『女性時代』(第二年第六号)に掲載。署名は「伊良子清白」。]

若布採り 伊良子清白

 

若布採り

 

嶋の二月(ぐわつ)は

若布採(わかめと)り。

若布採る日の

寒凪(かんなぎ)に、

海はちらちら

雪催ひ。

わかめ苅るとて

鎌(かま)次(す)げて、

すげた鎌の刅(は)

船首(みよし)にひかる。

夜明け千鳥の

磯めぐり。

 

島の二月は

若布採り。

雪の降る日の

薄くらがりに、

つめたい覗(のぞ)き箱(はこ)

波が越す。

やんれ、波越す

船(ふな)ばたに、

あがる若布の

淺みどり。

淚(なみだ)垂(た)るやうな

うしほの雫。

 

島の二月は

若布採り。

山は南(した)うけ、

なぞえのほし場(ば)。

若布かけたよ、

日和雲(ひよりぐも)。

風も眼を持つ

繩のはし。

まだ如月(きさらぎ)の

日脚(ひあし)は早く。

わかめほす手の

やれさて忙(せは)し。

 註 覗き箱は四方を硝子張に密閉した龕灯がたの箱、

 海底を窺ふに用ふ。

 

[やぶちゃん注:底本で昭和六(一九三〇)年一月に推定された『むれ星』(第四巻第二号。東京中央電話局発行の雑誌か?)に掲載。署名は「伊良子清白」。同年四月二十日の詩人協会編アトリエ社刊のアンソロジー「一九三一年詩集」に再録(但し標題は「若布採」)。底本では数字を除く総ルビであるが、五月蠅いので、私の判断で必要と感じた部分だけのパラルビとした。「すげた鎌の刅(は)」の「刅」(刃)は底本では右の点はない字体である。「なぞえ」はママ。

「鎌(かま)次(す)げて」「挿げる」「箝げる」で、「枘(ほぞ)に嵌め込む」の意。海底から立ち上るワカメの仮根部分から上を掻き採るために長い竿の先に鎌を装着した漁具のそれである。

「南(した)うけ」既注。南風の異名と採る。

「なぞえ」斜面。歴史的仮名遣は「なぞへ」が正しい。

「覗き箱は四方を硝子張に密閉した」正直、一読、変な感じがする。私も嘗つて、能登の狼煙(のろし)の漁師の栄螺獲りに同乗させて貰ってそれを使用したことがあるが(バケツ一杯獲れた)、ワカメ刈り等に用いる覗き箱は、四方が板張りで底だけが硝子張りになっていて、覗くこちら側は無論、何もないのが普通ではないか? 四方も硝子張りにしたのでは強度が低下して壊れ易くなるし、水中の四方部分が硝子張りである必要性は私は全くないと思うのだが? これが正しいと言われる方は御教授あられたい。

「龕灯がた」「がんどう」型。「強盗提灯(がんだうぢやうちん(がんどうぢょうちん))」のことであろう。銅板・ブリキ板などで釣鐘形の枠を作り、中に自由に回転出来る蝋燭立てを取り付けた提灯。光が正面だけを照らすので、持つ人の顔は見えない。]

鳥羽小うた 伊良子清白

 

鳥羽小うた

 

伊勢でご參宮(さんぐ)二見をかけて

鳥羽の入江の島めぐり

  鳥羽はよいとこよい港

  いつもあかるい海の色

 

戀の港の土產の中に

磯のあわびの片おもひ

  鳥羽はよいとこよい港

  いつもあかるい海の色

 

お伊勢參りに鳥羽見てかんせ

海の鏡に月もさえ

  宿の庭先港につゞく

  町になでしこ咲いてまつ

 

志摩の磯邊に波かきわけて

海女の握る手波の花

  一度見せたや殿方に

  主(ぬし)と焚火(たきび)にゆるすはだ

 

[やぶちゃん注:底本で昭和六(一九三〇)年一月に推定された『鳥羽のうた』(詳細書誌不詳)に掲載。署名は「伊良子清白」。底本では総ルビであるが、五月蠅いので、私の判断で必要と感じた部分だけのパラルビとした。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(38) 「池月・磨墨・太夫黑」(5)

 

《原文》

 池月ハ又四國ニ出ヅト云フ說アリ。其說ハ此馬最後ニ阿波ノ勝浦ニ飛降リテ石ト化セリト云フ話ト共ニ、後太平記ノ記スル所ニカヽル。後太平記ハ諸君御信用御隨意ノ書ナリ。但シ此著者之ヲ知リタリシヤ否ヤハ別トシテ、此地方ニモ一二同種ノ傳說ハ存セリ。阿波三好郡加茂村ノ井内谷ハ、山中ニ牧アリテ昔ヨリ良馬ヲ出ス。或說ニ池月此牧ニ出デタリ、之ヲ名西郡第拾(ダイジフ)村ノ寺ニ飼フ。至ツテノ駿足ナリ。村ノ若者等戲レニ之ニ騎リテ大川ヲ渡ス。宇治ノ高名モツマリハ吉野川ニテ鍛煉シタルガ爲ナラン。【馬長壽】老馬トナリテ後中國邊ニテ休息シ三百餘歲ノ壽ヲ以テ終ルト云ヘリ〔阿州奇事雜話一〕。土佐ニモ古クヨリ池月ノ口碑ハアリキト見ユ。曾テ此國ニテ駿馬ヲ長曾我部元親ニ獻ズル者アリシ時、元親ガ詞ニ、【池】昔當國池村ヨリ池月ト云フ名馬ヲ出シ之ヲ鎌倉ニ獻上セリト聞ケドモ、此馬共ノ池月ニヲサヲサ劣ルマジイト喜ビタリト傳ヘタリ〔南路志四十七〕。其池村ニシテ果シテ土佐日記ニモ見エタル「池ト云フ處」ナリキトセバ、即チ又三足ノ鬼鹿毛ヲ出シタル名譽ノ地ニシテ、海ト沼地トノ間ニ挾マレタル岡ノ上ノ牧ナリシガ如シ。【海邊ノ牧】九州ニ於テ一ツニハ豐後北海部郡ノ牧山、此モ同ジク海ニ臨ミタル磯山ノ上ニ古來設ケラレタル公ケノ牧ニシテ、磨墨ハ此牧ヨリ出ヅト云フ說アリ〔豐國小誌〕。薩摩揖宿郡今泉村大字池田ハ昔ノ池田ノ牧ノ地ナリ。風景優レタル火山湖トシテ有名ナル池田湖ノ岸ニシテ、片手ニハ又近ク漫々タル蒼海ヲ控ヘタリ。此牧ニモ夙ニ池月ヲ產シタリト云フ明瞭ナル記錄アリ。池月ト云フ馬ノ名モ牧ノ名ノ池田ト共ニ湖水ヨリ出デタルモノナルべシト云フ〔三國名勝國會所引伊佐古記〕。北部ノ沿海ニ在リテハ肥前北松浦郡生月村、即チ鯨ヲ屠ル五島ノ生月ハ、既ニ亦延喜式ニモ載セタル生屬牧(イケヅキノマキ)ノ故地ナリトスレバ、必ズヤ地名ニ因緣シテ同ジ傳說ノ存スルアルナランモ、自分ハ未ダ之ヲ聞カズ。以前ノ領主タル松浦靜山侯ノ隨筆ニハ、單ニ後ニ述べントスル名馬草ノ記事ヲ錄スルアルノミ。對馬ノ島ノ牧ニ於テハ亦黑白二駿ヲ併セ產シタリト云フ說アリ。同國仁田村大字伊奈ノ近傍ニテ後世磨墨田ト稱スルアタリ、治承ノ昔ハ一ノ池アリキ。磨墨此池ノ岸ニ遊ビ聲高ク嘶クトキハ、其聲奴可嶽(ヌカダケ)村大字唐洲(カラス)ノ池田ト云フ處マデ聞エタリ。唐洲ノ池田ニモ又一匹ノ名馬アリテ住ス。即チ一匹ト呼ブノモ失禮ナル位ノ名馬池月是ナリ。池月ノ嘶ク聲モ亦伊奈ノ磨墨田マデ聞エタリ。【妙見】二ツノ馬ハ朝ニ往キ夕ニ還リ二村ノ境ナル妙見山ノ麓ニ於テ相會スルヲ常トス。妙見ハ即チ前ニモ云ヘル北斗星ノ神ナリ。島人ハ此往來ヲ名ヅケテ朝草夕草ト云フトアリ。仁田村大字飼所ノ南ニ白キ石アリ。峯村大字三根トノ境ノ標ナリ。【馬蹄石】此石ノ表ニ奔馬ノ蹄ノ跡數十アルハ、磨墨ガ池田ニ往來スル通路ナリシガ爲ナリト云ヘリ〔津島記事〕。千古ヲ空シクスル二箇ノ駿足ガ牧ヲ接シテ相生スト云フコトハ餘リニ完備シタル物語ニハアレドモ、既ニ安房ノ簑岡ヤ伊豆ノ弦卷山ナドニモ同ジ話ヲ語ル外ニ、隱岐島ニテモ今日ハ亦此如ク傳說スルニ至レリト云ヘバ〔日本周遊奇談〕、何カ深キ仔細ノ存スルコトナルべシ。

 

《訓読》

 池月は又、四國に出づと云ふ說あり。其の說は、此の馬、最後に阿波の勝浦に飛び降りて石と化せりと云ふ話と共に、「後太平記」の記する所にかゝる。「後太平記(ごたいへいき)」は諸君御信用御隨意の書なり。但し、此の著者、之れを知りたりしや否やは別として、此の地方にも、一、二、同種の傳說は存せり。阿波三好郡加茂村の井内谷は、山中に牧ありて、昔より良馬を出だす。或る說に、池月、此の牧に出でたり、之れを名西(みやうざい)郡第拾(だいじふ)村の寺に飼ふ。至つての駿足なり。村の若者等、戲れに之れに騎(の)りて大川を渡す。宇治の高名も、つまりは吉野川にて鍛煉(たんれん)したるが爲めならん。【馬長壽】老馬となりて後、中國邊りにて休息し、三百餘歲の壽を以てつ終ると云へり〔「阿州奇事雜話」一〕。土佐にも、古くより池月の口碑はありきと見ゆ。曾つて、此の國にて駿馬を長曾我部元親に獻ずる者ありし時、元親が詞に、【池】「昔、當國池村より池月と云ふ名馬を出だし、之れを鎌倉に獻上せりと聞けども、此の馬共の池月にをさをさ劣るまじい」と喜びたりと傳へたり〔「南路志」四十七〕。其の池村にして、果して「土佐日記」にも見えたる「池と云ふ處」なりきとせば、即ち、又、三足の「鬼鹿毛(おにかげ)」を出だしたる名譽の地にして、海と沼地との間に挾まれたる岡の上の牧なりしがごとし。【海邊の牧】九州に於いて、一つには豐後北海部(きたあまべ)郡の牧山、此れも同じく海に臨みたる磯山の上に、古來、設けられたる公けの牧にして、磨墨は此の牧より出づと云ふ說あり〔「豐國小誌」〕。薩摩揖宿(いぶすき)郡今泉村大字池田は、昔の「池田の牧」の地なり。風景優れたる火山湖として有名なる池田湖の岸にして、片手には又、近く漫々たる蒼海を控へたり。此の牧にも、夙(つと)に池月を產したりと云ふ明瞭なる記錄あり。池月と云ふ馬の名も牧の名の池田と共に、湖水より出でたるものなるべしと云ふ〔「三國名勝國會」所引「伊佐古記」〕。北部の沿海に在りては、肥前北松浦郡生月村、即ち、鯨を屠(はふ)る五島の生月は、既に亦、「延喜式」にも載せたる「生屬牧(いけづきのまき)」の故地なりとすれば、必ずや地名に因緣して同じ傳說の存するあるならんも、自分は未だ之れを聞かず。以前の領主たる松浦靜山侯の隨筆には、單に後に述べんとする「名馬草」の記事を錄するあるのみ。對馬の島の牧に於ては、亦、黑白二駿を併せ產したりと云ふ說あり。同國仁田村大字伊奈の近傍にて、後世、磨墨田と稱するあたり、治承[やぶちゃん注:一一七七年~一一八一年。]の昔は一つの池ありき。磨墨、此の池の岸に遊び、聲高く嘶くときは、其の聲、奴可嶽(ぬかだけ)村大字唐洲(からす)の池田と云ふ處まで聞えたり。唐洲の池田にも又、一匹の名馬ありて住す。即ち、一匹と呼ぶのも失禮なる位の名馬、池月、是れなり。池月の嘶く聲も亦、伊奈の磨墨田まで聞えたり。【妙見】二つの馬は朝に往き、夕(ゆふべ)に還り、二村の境なる妙見山の麓に於いて相ひ會するを常とす。妙見は、即ち、前にも云へる北斗星の神なり。島人は、此の往來を名づけて「朝草夕草」と云ふ、とあり。仁田村大字飼所(かひどこ)の南に白き石あり。峯村大字三根との境の標(しるべ)なり。【馬蹄石】此の石の表に奔馬の蹄の跡、數十あるは、磨墨が池田に往來する通路なりしが爲めなりと云へり〔「津島記事」〕。千古を空しくする二箇の駿足が、牧を接して相生(さうせい)すと云ふことは餘りに完備したる物語にはあれども、既に安房の簑岡や、伊豆の弦卷山などにも同じ話を語る外に、隱岐島にても、今日は亦、此くのごとく傳說するに至れりと云へば〔「日本周遊奇談」〕、何か深き仔細の存することなるべし。

[やぶちゃん注:「阿波の勝浦」現在の徳島県勝浦郡勝浦町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「後太平記(ごたいへいき)」南北朝後期から室町・戦国時代まで扱う軍記物で、「太平記」の後を引き継いだ形を採っている。江戸前期の多々良南宗庵一竜著で、延宝五(一六七七)年刊。全四十二巻。史実的には信用度が低い。

「阿波三好郡加茂村の井内谷」徳島県三好郡東みよし町(ちょう)加茂

「名西(みやうざい)郡第拾(だいじふ)村の寺」徳島県名西郡石井町藍畑(あいはた)第十附近。寺は不詳。暴れ川「四国三郎」の異名で知られる大河吉野川の右岸。

「長曾我部元親」(天文八(一五三九)年~慶長四(一五九九)年)戦国大名。永禄三(一五六〇)年に家督を継ぎ、本山氏を始めとする土佐の諸豪族を倒して勢力を得、国司家一条氏を追放し、天正三(一五七五)年、土佐を統一した。さらに阿波三好氏・讃岐香川氏・伊予河野氏などの土豪を次々と滅ぼし、同十一年、四国全域を支配した。しかし、その前年から、たびたび織田信長に攻撃され、同十三年、遂に豊臣秀吉の四国征伐に屈服してその支配下に入り、土佐一国を安堵された。その後、九州征伐・小田原征伐・「文禄・慶長の役」や朝鮮出兵に従軍して、国力を疲弊させた。領内では惣検地を行い、分国法「長宗我部元親百箇条」を定めたことで知られる。

「當國池村」『「土佐日記」にも見えたる「池と云ふ處」』「土佐日記」は初めの方の「大湊」滞留中の一条。以下。

   *

七日(なぬか)になりぬ。同じ港にあり。けふは白馬(あをむま)を思へど、甲斐なし。ただ浪の白きのみぞ見ゆる。かかるあひだに、人の家の、「池」と名ある所より、鯉はなくて、鮒よりはじめて、川のも海のも、こと物ども、長櫃に擔ひつづけておこせたり。若菜ぞ今日をば知らせたる。歌あり。その歌、

  あさぢふの野邊にしあれば水もなき池に摘(つ)みつる若菜なりけり

いとをかしかし。この池といふは所の名なり。よき人の、男につきて下りて、住みけるなり。この長櫃の物は、みな人、童までにくれたれば、飽き滿ちて、船子(ふなこ)どもは、腹鼓(はらつづみ)を打ちて、海さへおどろかして、浪立てつべし。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

この「池」については、一九七九年岩波文庫刊「土佐日記」の鈴木知太郎氏の注によれば、『南国市十市』(とおち)『の西部にある池』とする。これに從えば、これは現在の石土池(いしづちいけ)の前身に比定されているようである。既出既注であるが、この石土池の西方に現在の高知県高知市池地区が広がるのである。偶然であろうが、ここでこの日(事実に基づくと、承平五(九三五)年の一月七日)に宮中で行われる「白馬の節会」を想起しているのもまた、柳田國男の文脈の中で読むと異様に目を引く。

『三足の「鬼鹿毛(おにかげ)」を出だしたる……」既出既注

「海と沼地との間に挾まれたる岡の上の牧」柳田國男はその牧を現在のこの附近に比定していることになる。

「豐後北海部(きたあまべ)郡の牧山」大分県大分市佐賀関(国土地理院図)の先端にある山らしいが、確認出来ない。

「薩摩揖宿(いぶすき)郡今泉村大字池田」鹿児島県指宿市池田。池田湖湖岸北東部。

「肥前北松浦郡生月村、即ち、鯨を屠(はふ)る五島の生月」長崎県平戸市生月島

「延喜式」「弘仁式」・「貞観式」以降の律令の施行細則を取捨して集大成したもの。全五十巻。延喜五(九〇五)年、醍醐天皇の勅により、藤原時平・忠平らが編集。延長五(九二七)年に成立、康保四(九六七)年に施行された。

『以前の領主たる松浦靜山侯の隨筆には、單に後に述べんとする「名馬草」の記事を錄するあるのみ』これは「甲子夜話続篇」の第之五十七の第十五条目の「信州望月驛、月毛馬の事」である。以下(所持する東洋文庫版を参考に恣意的に漢字を正字化して示す。柳田國男の言うのは後半であるが、前半も含めて電子化した。【 】は割注)。

   *

予、先年木曾路旅行のとき、信州望月驛に宿せしに、牽せし月毛の馬は旅宿に留ずと云て、從臣等がこまりしことを、頃ろ[やぶちゃん注:「このごろ」。]左右にて語り出せしに、往事は忘れしが、何(イカ)さまかゝることも有りし迚、彼是の書を見るに、今(イマ)世に流布する「木曾路道中記」には、

『望月のみまきの駒は寒からじ布引山を北とおもへば 西行 望月の馬は月毛たるゆゑに、所の者は今に月毛の馬をば飼ざる也。』。

是に據れば、今俗もかゝるゆゑにて有んが、その忌憚[やぶちゃん注:「はばか」。]る故をしらず。又「木曾路名所圖會」に云。

『望月衡牧(モチヅキノミマキ)【望月の驛の上の山を云。今牧の原といふ】〕、昔は例年敕有りて駒牽あり。是により牧に望月の名あり。苦は御牧七鄕とて此近邊みな御牧有りしと云。望月の駒は性よし。又望月の神の嫌ひ給ふよしにて、望月幷に七鄕の内鹿毛の馬を置ず。他所より來れるも、一夜も駐ることを許さずとぞ。』。

是にては又齊しからず。

又、予が城下に生月(イケヅキ)と云島あり。居城より三里程なり。此島の中に古來より牧ありて馬を畜ふ。邑人傳ふ。昔賴朝卿のときに出し名馬の生囑(イケヅキ)と稱せしは、この牧より產せし所の駒なりと。又この牧地には、以前より其駒間々嶽落(ダキオチ)して死せり【嶽落とは岸上より地に墜るを謂ふ。里俗岸を云て嶽と謂ふ】。今里人の所ㇾ云は、この島に名馬草と云へる草あり。牧馬これを食すれば必ず名馬を產(ウ)む。されどもこの草、危岸絕壁の閒にありて、これに下臨せざれば喰ふこと難し。因て馬これを喰んとして則ち墜つ。このこと厩吏の局には云及さゞれど、里人は皆これを傳ふ。又「盛衰記」佐々木高綱宇治川を先登せし條に、この生囑のことを屢々擧れども、何國の產なることは記さず。又このとき梶原が乘たる磨墨(スルスミ)と云し名馬は、駿河國の產なりと云こと、彼國に云傳へりと。生囑のこと何かゞなるべき。

   *

「同國仁田村大字伊奈の近傍にて、後世、磨墨田と稱するあたり」長崎県対馬市上県町(かみあがたちょう)伊奈はここだが、近傍というのは曲者で、判らぬ。現地名では見出せない。

「奴可嶽(ぬかだけ)村大字唐洲(からす)の池田」これがもし、長崎県対馬市豊玉町(とよたまちょう)唐洲だとすると、直線で伊奈の南南西二十四キロメートル以上離れている。すみっこ氏のブログ「対馬 すみっこ」の「対州馬たいしゅうば・対馬馬つしまうま」、及び、三河馬氏のブログ『「日本在来馬」歴史研究会』の「Ⅲ:対州馬ー対州馬の伝説」を見ると、表記や謂い方に違いはあるものの、孰れも、麿墨の方を――上県町田の浜――とし、池月の方を――豊玉町唐洲の池田――としているように読めるので、この同定で問題ないと思われる。

「妙見山」伊奈と唐洲の間にそのような山は確認出来ない。参考までに、「(一社)対馬観光物産協会ブログ」の「独断と偏見の対馬の神社セレクション」によれば、二村の境でなく、完全に唐洲地区内の海辺にあるのだが、元嶋神社というのがあって、ここは別名を妙見神社と呼び、現在の祭神は素戔嗚命であるが、元は『「北辰妙見」=「北極星」、あるいは天の中心を意味する「アメノミナカヌシ」で』あったとある。なお、最後の注も参照されたい。

「朝草夕草」読み不詳。個人的には「あさくさゆふぐさ」と訓じたい。

「仁田村大字飼所(かひどこ)」長崎県対馬市上県町飼所。伊奈からは直線で南東六キロメートル前後の位置にある。

「峯村大字三根」対馬市峰町(みねちょう)三根(みね)。言っておくと、ここが実は伊奈と唐洲の中間地点に当たり、町の名からも、ここのどこかのピークが「妙見山」なのではないかと私は思っている。]

鳥羽小唄 伊良子清白

 

鳥羽小唄

 

   

伊勢で御參宮二見をかけて

鳥羽の入江の島めぐり

  鳥羽はよいとこよいみなと

  いつも明るい海の色

   

坂手菅島答志を越えて

七ツ飛び島阿古浦まで

   

三十六島大島小島

見えりやかくれるかくれりや見える

   

日和山から伊勢の海ながめ

吹くは春風眞帆片風

   

沖の神島伊良古も見えて

末の霞の遠州灘

   

昔語れば九鬼嘉隆よ

今も城山眞珠じま

   

海女の鮑採り荒磯埼で

玉のはだへが黑むやら

   

磯の焚火にあたるは海女よ

十歲二十歲波かきわけて

   

春の朝富士秋の夜の月を

鳥羽で見て來た樋の山で

   

町は千軒海には萬波

出船入船川となる

   十一

東、東京口、西、大阪口よ

うらは振分け鳥羽みなと

   十二

潮のみちひきそりや海の水

志摩の女は實がある

   十三

戀のみなとの土產の中に

磯の鮑の片思ひ

   

小濱鯛池千疋鯛が

はねてとびます水の上

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年一月十八日附『朝日新聞』三重版に掲載。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、この年、満五十四歳。この年の一月に鳥羽の短歌雑誌『白鳥』(歌人で朝日新聞記者であった宮瀬渚花主宰の『白鳥(しらとり)』に新作の短歌九首を載せ、十二月にも同誌に発表、以後、この白鳥を中心に短歌の創作発表が続けられることとなる。九月十六日には五女明が生まれ、十二月には三女千里が結婚している。また、この年の十二月二十三日に春陽堂から刊行された「明治大正文学全集」第三十六巻「詩篇」に、詩集「孔雀船」から「安乘の稚兒」「五月野」「鬼の語」「月光日光」「不開の間」「秋和の里」が再録されている。

「坂手」三重県鳥羽市の沖六百メートルの直近の、伊勢湾口にある三重県鳥羽市坂手町坂手島(さかてじま)。地元では坂手を「さかで」とも呼ぶ。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「菅島」「すがしま」。既出既注

「答志」三重県鳥羽市市答志町及び桃取町に属する答志島(とうしじま)。東西約六キロメートル、南北約一・五キロメートル。面積約七平方キロメートルで、鳥羽湾及び三重県内では最大の島である。位置は、前の「菅島」の地図で確認出来る。

「七ツ飛び島」「七つ飛島」に既出既注そこで私なり考証をしている。

「阿古浦」「あこうら」。これは「阿漕浦」(あこぎうら)で、三重県津市東部の、三重県津市阿漕町(あこぎちょう)津興(つおき)附近を中心とした、岩田川河口から相川河口まで単調な砂浜海岸で、春は潮干狩り、夏は海水浴に利用され、冬は海苔の漁場となる。嘗つては伊勢神宮の供物の漁場で、殺生禁断の海であった。昔、貧しい漁夫平治(平次)が病母のためにこの海で魚を漁ったために罰せられ、簀巻きにされて海に沈められたという物語は、謡曲・浄瑠璃に歌われてよく知られる。同地の柳山津興に彼の霊を祀る阿漕塚がある。南半分は「御殿場浜」とも呼ぶ。この地名は、後世、より古い万葉以来の歌枕で、和歌山県御坊(ごぼう)市野島(のしま)附近の海岸とされるものの、未詳である「阿古根の浦」と混同され、この漢字表記もそれによるものと考えてよい。

「日和山」三重県志摩市磯部町的矢。私は毎年取り寄せる「的矢牡蠣」とともに、大好きな壺井栄の、ここをロケーションとし名掌品「伊勢の的矢の日和山」を思い出すのを常としている(リンク先は有峰書店新社の写真附きの電子テクスト)。私は嘗つて牡蠣を食いに訪れたが、タクシーの運転手に「日和山」と聴いても判らなかった。今回、再読してこの辺り(国土地理院図)の丘陵部と考えてよいことが判った(作品中で墓地のある高台で、ここにある禅法寺という寺の過去帳を見せてもらうシーンが出る)

「神島」既出既注

「伊良古」伊勢湾口対岸の伊良湖(いらご)岬。

「九鬼嘉隆」(天文一一(一五四二)年~慶長五(一六〇〇)年)は安土桃山時代の武将。右馬允・大隅守。代々、志摩国波切城(城址は三重県志摩市大王町波切のここ)を根拠地とし、初めは北畠氏に仕えたが、永禄一二(一五六九)年、織田信長が北畠具教を攻めるや、信長に応じ、以来、彼の麾下となり、水軍を率いてこれに従った。天正二(一五七四)年の伊勢長島の一向一揆、同五年の紀伊雑賀(さいか)の一向一揆を海上から攻撃し、また、翌六年の石山本願寺との合戦に際しては、本願寺側の援軍である毛利の水軍と対戦して、これを打ち破った。信長の死後、豊臣秀吉に仕え、四国・九州の両役及び「文禄・慶長の役」に際しても、水軍の将として軍功があって、鳥羽城主となり、三万五千石を領した。しかし、秀吉の死後、徳川家康と和せず、「関ヶ原の戦い」では、その子守隆が東軍に属したが、嘉隆は西軍に属して、敗れた。戦後、家康に許されたが,紀伊で自殺している(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠ったが、一部を別史料で書き変えた)。

「城山」三重県鳥羽市鳥羽の鳥羽城址

「眞珠じま」上の地図で直近にある現在の「ミキモト真珠島」(正式島名)。明治二六(一八九三)年、当時「相島(おじま)」と呼ばれていたこの島で、御木本幸吉(安政五(一八五八)年~昭和二九(一九五四)年)が真珠養殖に成功して、ここを本拠地としたが、この当時はまだ「相島」であった。

「海女の鮑採り」音数律(小唄であるからより厳密であるはずではある)から「鮑」は「はう」と音読みしているかとも考えたが、如何にも耳障りが悪い。「あわび」で読んでおく。

「荒磯埼」わざわざ「埼」の字を選んでいるので、固有名詞と思ったが、見当たらない。一般名詞で採っておく。

「朝富士」三重県鳥羽市にある灯明(とうめい)山(遠目山とも書く)の別称。先の神島にあり、標高百七十一・七メートル(国土地理院図)。

「樋の山」鳥羽市鳥羽町の、旧伊良子清白の診療所の西方背後にある「樋ノ山」

「小濱鯛池」{おはまたひいけ」。サイト「鳥羽デジタルアーカイブズ」のこちらによれば、伊良子清白が診療所を開いていた小浜(おはま)村現在の鳥羽市小浜町(おはまちょう)(国土地理院図))明治二二(一八八九)年に鳥羽町に合併されるが、昭和四二(一九六七)年に浜辺橋が完成するまでは、町営の渡船を利用しなければ、往来出来ない漁村であった。また、鳥羽町大字小鳥羽町大字小浜にあった料理旅館「鯛池 相生館」には鳥羽浜辺浦から定期船が運航されていた。ブログ「三重の鳥瞰図デジタルアーカイブ」のこちらで、往時の案内図が見られ(必見!)、「鯛池案内」の表紙絵を見ると、「千疋鯛」も判る気がする。]

2019/06/16

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(37) 「池月・磨墨・太夫黑」(4)

 

《原文》

 飛彈國[やぶちゃん注:ママ。「今昔物語集」の一本では「飛驒」を「飛彈」とする表記を見るが、今までも柳田國男は「飛驒」と記しているから、ここは誤植と断ずる。訓読では混乱するので特異的に訂した。]ニテハ池月ハ大野郡丹生川村(ニブカハ)大字池俣ヨリ出ヅト稱ス〔飛州志〕。池俣ハ乘鞍嶽西麓ノ村ナリ。恐クハ亦神聖ナル池アリシヨリノ村ノ名カ。乘鞍ト云フ山ノ名モ或ハ又馬ノ神ト緣由アリシモノナラン。池月ハ又近江ヨリ出デタリトノ說アリ〔越後名寄三十一〕。犬上郡東甲良村大字池寺ハ古クハ河原莊ノ内ニシテ、大伽藍アリシ地ナリ。名馬池月ハ此邊ニ生ル。池月ハ即チ池寺月毛ヲ略シタル名ナリ。而シテ磨墨ハ同ジ國伊香郡ノ摺墨鄕ニ於テ生レタルガ故ニ其名アルナリト云ヘリ〔淡海木間攫〕。伊勢鈴鹿郡庄内村大字三畑鳩峯ハ亦此地方ニテノ池月出生地ナリ。【爪石】同郡椿村大字小社牧久保ニ駒爪石アリ。徑(ワタリ)三尺バカリノ圓石ニシテ中央ニ爪ノ痕ニ類スル者存ス。池月此村ニテ育成セラレシ時蹈立テタル跡ナリト云フ〔伊勢名勝志〕。【駒ノ淵】然ルニ程遠カラヌ河藝郡河曲(カハワ)村大字山邊内谷ニモ同ジ傳說アリ。駒ノ淵ト稱スル周圍五十間餘ノ低地ハ即チ是ニシテ、以前幕府ノ官吏巡視ノ折之ヲ承認シ、右大將源賴朝卿之逸馬生唼出生之地ト云フ標木ヲ建テタルコトアリト云フ〔同上所引勢陽雜記〕。平蕪遠ク連ナル河内ノ枚方(ヒラカタ)ノ如キ土地ニ於テモ、尙池月ハ此地ニ生レタリト云フ口碑アレバ〔越後名寄所引寺島長安說〕、神馬ハ誠ニ至ラザル所無キナリ。更ニ中國ニ在リテハ安藝山縣郡原村大字西宗ノ四滿津(シマヅ)ト云フ處ヨリ磨墨出デタリト稱ス〔藝藩通志〕。或ハ又之ヲ池月ナリトモ云フ。【駒繫松】此村淨土ノ勇ケ松ハ、池月ヲ此樹ニ繫ギタリトテ古ヨリ其名高ク、神木トシテ崇メラル〔大日本老樹名木誌〕。石見鹿足郡藏木村大字田野原ニ早馬池アリ。池月此邊ヨリ出ヅト稱ス。元來野馬ニシテ池水ヲ泳グコト陸行ノ如シ。故ニ池月ト稱スト云フ。此地ハ山中ノ別天地ニシテ總稱シテ俗ニ吉賀ト呼べリ。吉賀鄕モト馬無シ。古今唯三名馬ヲ產スルノミ。磨墨ハ亦其一ナリト傳フ〔吉賀記上〕。但シ池月ハ或ハ長門須佐ノ甲山ニ生ルト云フ一說アル由ニテ、吉賀ノ故老ハ此一頭ノミハ隣國ノ口碑ニ割讓スルノ意アリシガ如シ〔同上〕。須佐ハ長門ノ東北隅ニシテ石見ト境スル山村ナレバ、龍馬ガ來往シテ其本居ヲ定メ得ザリシモノトモ解スルヲ得ン。而モ長門ノ通說ニ於テハ池月ノ生レタリシハ豐浦郡ノ御崎山ニシテ懸離レタル西隅ノ海岸ナルノミナラズ、磨墨モ亦同ジ牧ノ產ナリト主張スルナリ〔大日本老樹名木誌〕。【馬影池】之ト同時ニ石見ノ邑智郡出羽(イヅハ)村大字出羽ニ於テモ、馬影池ト云フ池アリテ亦池月此池ヨリ出ヅト傳フ。出羽ノ池月ハ誠ノ龍ノ駒ニテ、常ニ我影ヲ池ノ水ニ映シ又其池ノ水ヲ飮メリ〔石見外記〕。隱岐島ニテハ周吉郡ノ東海岸津居(ツヰ)ト云フ里ニ、牡池牝池ノ二ツノ池アリ。池ノ深サハ測リ知リ難ク岸邊ノ石ハ墨ノ如ク黑シ。白馬池月ハ則チ此水中ヨリ現ハレタリトアリテ、池ノ北ニ今モ駄島ナド云フ地名アリ。駄島ノ駄ハ牝馬ノコトナルべシ。【海ト馬】此池月ハ飛ビテ島前ニ渡リ、ソレヨリ大海ヲ泳ギテ出雲ニ來リシヲ、浦人之ヲ捕ヘテ亦鎌倉殿ニ獻上ス〔隱岐視聽合記〕。出雲ニ於テハ今ノ八束郡美保關村大字雲津ニ正シク其遺蹟アリ。池月ガ隱岐ヨリ渡リ著キシ時ノ蹄ノ跡岩上ニ殘レル外ニ、又自然ニ馬ノ姿ノ現ハレタル奇巖モアリト云ヘリ〔出雲懷橘談上〕。但シ雲津ハ夙ニ彼島渡航ノ船津ナリケレバ、二處ノ口碑ガ響ノ如ク相應ズルモ、特ニ之ヲ奇トスルヲ要セザルナリ。

 

《訓読》

 飛驒國にては、池月は大野郡丹生川村(にぶかは)大字池俣(いけのまた)より出づと稱す〔「飛州志」〕。池俣は乘鞍嶽西麓の村なり。恐らくは亦、神聖なる池ありしよりの村の名か。乘鞍と云ふ山の名も、或いは又、馬の神と緣由(えんいう)ありしものならん。池月は又、近江より出でたりとの說あり〔「越後名寄」三十一〕。犬上(いぬかみ)郡東甲良(ひがしかふら)村大字池寺は、古くは河原莊(かはらのしやう)の内にして、大伽藍ありし地なり。名馬池月は、此の邊りに生る。池月は、即ち、「池寺月毛」を略したる名なり。而して磨墨は同じ國伊香(いか)郡の摺墨鄕(がう)に於いて生れたるが故に其の名あるなりと云へり〔「淡海木間攫(あふみこまざらへ)」〕。伊勢鈴鹿郡庄内村大字三畑鳩峯は亦、此の地方にての池月出生地なり。【爪石】同郡椿村大字小社(こやしろ)牧久保に「駒爪石」あり。徑(わたり)三尺ばかりの圓石(まるいし)にして、中央に爪の痕に類する者、存す。池月、此の村にて育成せられし時、蹈み立てたる跡なりと云ふ〔「伊勢名勝志」〕。【駒の淵】然るに、程遠からぬ河藝(かはげ)郡河曲(かはわ)村大字山邊内谷にも同じ傳說あり。駒の淵と稱する、周圍五十間[やぶちゃん注:約九十一メートル。]餘の低地は、即ち、是れにして、以前、幕府[やぶちゃん注:江戸幕府。家康が清和源氏(新田氏)を祖と謳い、「吾妻鏡」を愛読書としたことは頓に知られる。]の官吏、巡視の折り、之れを承認し、「右大將源賴朝卿逸馬生唼出生之地」と云ふ標木を建てたることありと云ふ〔同上所引「勢陽雜記」〕。平蕪(へいぶ)遠く連なる河内の枚方(ひらかた)のごとき土地に於いても、尙ほ、池月は此の地に生れたりと云ふ口碑あれば〔「越後名寄」所引・寺島長安說〕、神馬は誠に至らざる所無きなり。更に中國に在りては、安藝(あき)山縣郡原村大字西宗(にしむね)の四滿津(しまづ)と云ふ處より、磨墨、出でたりと稱す〔「藝藩通志」〕。或いは又、之れを、池月なりとも云ふ。【駒繫松】此の村淨土の「勇ケ松」、池月を此の樹に繫ぎたりとて、古へより、其の名、高く、神木として崇めらる〔「大日本老樹名木誌」〕。石見(いはみ)鹿足(かのあし)郡藏木村大字田野原に「早馬池」あり。池月、此の邊りより出づ、と稱す。元來、野馬にして、池水(いけみづ)を泳ぐこと、陸行(りくかう)のごとし。故に池月と稱すと云ふ。此の地は山中の別天地にして、總稱して俗に「吉賀(よしが)」と呼べり。吉賀鄕、もと、馬、無し。古今、唯だ、三名馬を產するのみ。磨墨は亦、其の一つなりと傳ふ〔「吉賀記」上〕。但し、池月は、或いは、長門須佐(すさ)の甲山に生ると云ふ一說ある由にて、吉賀の故老は此の一頭のみは、隣國の口碑に割讓するの意ありしがごとし〔同上〕。須佐は長門の東北隅にして石見と境する山村なれば、龍馬が來往して其の本居(ほんきよ)を定め得ざりしものとも解するを得ん。而も、長門の通說に於いては、池月の生れたりしは、豐浦郡の御崎山にして、懸け離れたる西隅の海岸なるのみならず、磨墨も亦、同じ牧の產なりと主張するなり〔「大日本老樹名木誌」〕。【馬影池】之れと同時に、石見の邑智(おふち)郡出羽(いづは)村大字出羽に於いても、「馬影池」と云ふ池アリテ、亦、池月、此の池より出づ、と傳ふ。出羽の池月は誠の龍の駒にて、常に我が影を池の水に映し、又、其の池の水を飮めり〔「石見外記」〕。隱岐島(おきのしま)にては、周吉(すき)郡の東海岸、津居(つゐ)と云ふ里に、「牡池」・「牝池」の二つの池あり。池の深さは、測り知り難く、岸邊の石は、墨のごとく黑し。白馬池月は、則ち、此の水中より現はれたりとありて、池の北に今も「駄島(だしま)」など云ふ地名あり。「駄島」の「駄」は「牝馬」のことなるべし。【海と馬】此の池月は、飛びて島前(とうぜん)に渡り、それより大海を泳ぎて出雲に來たりしを、浦人、之れを捕へて、亦、鎌倉殿に獻上す〔「隱岐視聽合記」〕。出雲に於いては、今の八束(やつか)郡美保關村大字雲津に正(まさ)しく其の遺蹟あり。池月が隱岐より渡り著きし時の蹄の跡、岩上に殘れる外に、又、自然に馬の姿の現はれたる奇巖もあり、と云へり〔「出雲懷橘談」上〕。但し、雲津は夙(つと)に彼(か)の島、渡航の船津(ふなづ)なりければ、二處の口碑が響(ひびき)のごとく相ひ應ずるも、特に之れを奇とするを要せざるなり。

[やぶちゃん注:「大野郡丹生川村(にぶかは)大字池俣(いけのまた)」現在の高山市丹生川町(にゅうかわちょう)池之俣(いけのまた)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「神聖なる池ありしよりの村の名か」上記地図を拡大して見ると、高い位置に「丹生池」、少し下がった位置に「土樋池」を見出すことは出来る。

「乘鞍と云ふ山の名も、或いは又、馬の神と緣由(えんいう)ありしものならん」ウィキの「乗鞍岳」によれば、『飛騨山脈(北アルプス)南部の長野県松本市と岐阜県高山市にまたがる剣ヶ峰(標高』三千二十六メートル『)を主峰とする山々の総称。山頂部のカルデラを構成する最高峰の剣ヶ峰、朝日岳などの』八『峰を含め、摩利支天岳、富士見岳など』二十三もの『峰があ』るとし、「山名の由来と変遷」に項には、延喜元(九〇一)年成立の歴史書「日本三代実録」(編者は藤原時平・菅原道真ら)の貞観一五(八七三)年の条に、『飛騨の国司の言葉』として、『大野郡愛宝山に三度』、『紫雲がたなびくの見た』、『との瑞兆を朝廷に言上した』とあり、この山は『「愛宝山(あぼうやま)」と呼ばれ』て、『その当時から霊山として崇拝されていた』。『平安時代から室町時代にかけて古歌で「位山」と呼ばれ』、正保二(一六四五)年頃には『乗鞍岳と呼ばれるようになったとされている』。文政一二(一八二九)年の「飛州誌」では、『「騎鞍ヶ嶽」と記されていた』。『飛騨側から眺めた山容が馬の鞍のように見えることから、「鞍ヶ嶺(鞍ヶ峰)」と呼ばれていた』とある。『日本には同名の乗鞍岳が複数あ』るが、一般に『「乗鞍」は馬の背に鞍を置いた山容に由来している』とされる。『信州では最初に朝日が当たる山であることから「朝日岳」と呼ばれていた』。『最高峰の剣ヶ峰の別称が、「権現岳」』。『魔王岳と摩利支天岳は円空が命名して開山したとされている』とある。因みに、池之俣直近の下方にある旗鉾伊太祁曽(はたほこいたきそ)神社(旗鉾はここの地名(高山市岐阜県丹生川町旗鉾)を単に冠したものだったようである)があり、サイト「大屋毘古神・五十猛命」(「おおやびこがみ」「いたけるのみこと」と読んでおく)の「伊太祁曽神社」には、その神社所有の素敵な円空作の男女神像の画像がある。

「犬上(いぬかみ)郡東甲良(ひがしかふら)村大字池寺」犬上郡甲良町(こうらちょう)池寺(いけでら)

「河原莊(かはらのしやう)」不詳。

「大伽藍ありし地なり」池寺の地名由来でもある(事実、広くない地域に現在も十余りの池塘が確認出来る)、同地区に現存する天台宗龍応山西明寺(さいみょうじ)のこと。金剛輪寺・百済寺とともに「湖東三山」の一つに数えられる名刹である。詳しくはウィキの「西明寺(滋賀県甲良町)」を参照されたい。

「伊香(いか)郡の摺墨鄕(がう)」湖北内陸の滋賀県長浜市余呉町(よごちょう)摺墨

「伊勢鈴鹿郡庄内村大字三畑鳩峯」三重県鈴鹿市三畑町と思われるが、「鳩峯」は見当たらない。

「同郡椿村大字小社(こやしろ)牧久保」三重県鈴鹿市小社町(小社町)(周縁(特に町外の北)に「椿」を冠する施設多し)と思われるが、「牧久保」は見当たらない。

「河藝(かはげ)郡河曲(かはわ)村大字山邊内谷」三重県鈴鹿市山辺町かと思われるが、内谷は見当たらない。

「安藝(あき)山縣郡原村大字西宗(にしむね)の四滿津(しまづ)」広島県山県郡北広島町西宗と思われるが、「四滿津(しまづ)」『此の村淨土の「勇ケ松」』は孰れも見当たらない。但し、引用元の「大日本老樹名木誌」のこちら(国立国会図書館デジタルコレクション。左ページ上段頭)には確かにそう書かれてある。

『石見(いはみ)鹿足(かのあし)郡藏木村大字田野原に「早馬池」あり』以下のこの周辺域の名馬輩出は既出既注島根県鹿足郡吉賀町田野原。吉賀町内の東方端。殆んどが山岳で、深い渓谷を成す。可能性としては、南の端の方の高津川沿いにある一本杉神社、及び、そこに附帯する施設「吉賀町水源会館」附近か。池は確かにある。

「長門須佐(すさ)の甲山」山口県萩市須佐と思われるが、「甲山」は見当たらない。

「豐浦郡の御崎山」「懸け離れたる西隅の海岸」と云う表現からは、山口県下関市吉母(よしも)にある小倉ヶ辻、通称「吉母富士(よしもふじ)」(標高三百八・六メートル)か。しかし、御崎山という別称は現在見られない。この東直近の岬は本州最西端の地である「毘沙ノ鼻」である。別にずっと北の山口県下関市豊北町大字神田上に御崎神社があるが、周辺に有意なピークが見当たらない(東直近の堂山は標高百三十五・一メートル。国土地理院図)。そもそもがこれ、「大日本老樹名木誌」のどこに乗ってるのか、判らなかった。

『石見の邑智(おふち)郡出羽(いづは)村大字出羽に於いても、「馬影池」と云ふ池あり』島根県邑智郡邑南町(おおなんちょう)出羽(いずわ)

『隱岐島(おきのしま)にては、周吉(すき)郡の東海岸、津居(つゐ)と云ふ里に、「牡池」・「牝池」の二つの池あり』現行では「男池」・「女池」とし、合わせて「津井(さい)の池」と呼ぶ以下の場所である(グーグル・マップ・データ国土地理院図)。八年前、隠岐に旅した際、行きたいと思いながら、足の悪い妻を連れては行けそうになかったので、行きそびれた場所である。何故、行きたかったか? 小泉八雲がこの話に触れているからである。『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十三章 伯耆から隱岐ヘ (十七)』の本文(原文附き)と私のかなり詳細な注を見られたい。それで、ここに注する必要はなくなるからである。今回、サイト「京見屋分店」の「津井の池~サイノイケ~探訪」(男池探訪とそこにあった奇体な石等の画像複数有り)及びその続編「津井の池伝説」を見つけたので、是非、見られたい。

『「駄島(だしま)」など云ふ地名あり』現認出来ず。

『「駄島」の「駄」は「牝馬」のことなるべし』何故、柳田國男はわざわざこんなことを言っているのか? まさか、「駄馬」だから♀なんて考えじゃないよね? 「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 馬(むま)(ウマ)」を参照されたいが、「駄馬」の用法は正当ではなく、「駄」は荷を背負う耐久力のある馬の謂いである。

「島前(とうぜん)」隠岐島という島があると思っている人が多いが、これは隠岐諸島の総称であり、「島前」(「島前三島」と呼ばれる「知夫里島」(知夫(ちぶり)村)・「中ノ島」(海士(あま)町)・西ノ島(西ノ島町)から構成される群島である)に対し、「島後」は「島前三島」から東の「島後水道」を隔てた「島後」(隠岐の島町)の一島から構成される。主な島はこの四島であるが、付属の小島は約百八十を数え、それらを纏めて「隠岐島」と呼ぶのである。

「八束(やつか)郡美保關村大字雲津」島根県松江市美保関町雲津。]

新涼三景 伊良子清白

 

新涼三景

 

 

  都 市

 

秋が走るよ

町々を

をとこをんなの

秋の脚

舖道(ほだう)のしめり

暑うても

秋の日射しは

花やかに

深山の奧の

生栗(なまぐり)が

靑い八百屋で

ゑみ割れる

無花果(いちじゆく)、葡萄

秋の實(みの)り

人の稔(みの)りの

秋の裝ひ

時が流れる

なめらかに

銀器(ぎんき)の

手ざはり

夕冷えに

月の片割れ

一つは空に

のこる一つは

ふところに

涼しや涼しや

 

 

  漁 村

 

とぶよ若鯔(わかいな)

  火のやうに

走る秋雲

  風や吹く

ただならぬ空の

  けしきとて

船はみだるる

  をちこちに

沖の朝日の

  鈍(にび)いろよ

 

 

  農 村

 

暑いとて、あついとて

  畠(はた)のとうもろこし

     毛があついとて

  星のふる夜は

     露もふる

  露にぶたれて

     玉蜀黍(とうもろこし)の

  赤い毛並(けなみ)が

     よれよれに

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年六月九日発行のアンソロジー「一九三〇年詩集」(詩人協会編アルス刊)に先の「ここは雲の路」及び後の「近代女性の顏」とともに掲載。「とうもろこし」のルビはママ。署名は「伊良子清白」。

「若鯔(わかいな)」出世魚として知られる条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus の比較的成長した若魚(通常成体の「ボラ」(体長五十センチメートル前後)の前段階)の呼称。地域によって多少異なるが、概ね十八センチメートルから三十センチメートルほどまでのものを指すことが多い。]

ここは雲の路 伊良子清白

 

ここは雲の路

 

ここは雲の路

   神の路

人は通らぬ

   巖のみち

けんけん小雉子が

   雲で啼く

雉子は白雉子

   神の鳥

山々越えて

   火を鑽(き)りに

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年六月九日発行のアンソロジー「一九三〇年詩集」(詩人協会編アルス刊)に以下の「新涼三景」「近代女性の顏」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。本篇は伊勢神宮などの「鑽火神事(きりびのしんじ)」などの具体なそれと結びつけて読む必要は全くないと思われる。民俗社会の古代宗教幻想と読む方が遙かに胸に落ちる。]

志摩の神島 伊良子清白

 

志摩の神島

 

志摩(しま)の神島(かみしま)

    岩山で

冬涸(が)れ米硏ぐ

    水もない

をとこをんなの

    餅搗は

水の涸れたる

    岩山で

水はなうても

    餅は搗く

空臼(からうす)搗くのか

    かんからかん

 註 神島、伊勢灣口の小島、全島巖石を以

  て成り水利最も乏し。冬天降雨なきとき

  は岸の伊良子より水を搬入すといふ。

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年四月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第四号)に掲載。署名は「伊良子清白」。

「神島」伊勢湾口の中央部やや渥美半島の伊良湖(いらご)岬寄りに位置する三重県鳥羽市神島町(ちょう)神島。周囲三・九キロメートル、面積〇・七六平方キロメートル。後の三島由紀夫の「潮騒」の舞台になったことで知られる(但し、作中の島名は神島の古名「歌島(うたじま)」)。現在の人口は三百人ほどで過疎化が進んでいる。参照したウィキの「神島」によれば、『古くは、歌島(かじま)、亀島、甕島などと呼ばれた。神島の名が示すように、神の支配する島と信じられていた。後に八大龍王を祭神として八代神社(やつしろじんじゃ)が設けられた。神社には、古墳時代から室町時代にわたる総数百余点の神宝が秘蔵されている。各種の鏡(唐式鏡、和鏡)や陶磁器などである』。『鳥羽藩の流刑地であったため、志摩八丈と呼ばれたこともあった』とあり、『かつては水を島内の』二『か所の小さなため池と井戸のみに頼っており、水不足にたびたび悩まされた』昭和五四(一九七九)年になって、やっと『鳥羽市より送水されるようになったが、本土の鳥羽市内も頻繁に水不足に悩まされる地域であったことから、鳥羽市とともに神島を含む離島も』、『また』、一九九二年四月より「南勢志摩水道用水供給事業」によって三重県松阪市飯高(いいたか)町の蓮(はちす)ダムから『給水を受けている。蓮ダムからの安定した給水により、水洗トイレ普及率が』百%に『なるなど』、『島民の生活の質が大幅に改善された。しかし』、二〇〇七年十月には、『船舶の投錨を原因とする海底送水管の破損により』、『島全体が断水する事態に陥った』りもしたとある。]

農村迎年歌 伊良子清白

 

農村迎年歌

 

水は雲出川(くもづ)の

砂さへ澱(よど)む

天(てん)の惠は

ふる白露(しらつゆ)か

反に九俵取り

名も豐田(とよだ)村

米は白玉

粒(つぶ)ぞろひ

米が光れば

田が光る

ほめて踊つて

働いた

田植稻苅り

籾挽(もみひき)すんで

四方(はう)米倉(こめぐら)

俵の山よ

明けりや正月

朝日がてらす

雪がつもつて

お宮よ

お城よ

 註 雲出川、南北伊勢を兩分する大河。

  豐田村、美田豐沃を以て鳴る農村。

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年三月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第三号)に掲載。署名は「伊良子清白」。

「雲出川」奈良県との県境に位置する三峰山(みうねやま標高千二百三十五・二メートル)に源を発し、伊勢湾に注ぐ雲出川(くもずがわ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。中央下部に三峰山を配した。

「豐田村」は明治二二(一八八九)年の町村制施行によって新屋庄村・川原木造村・川北村・須賀村・権現前村・小村の区域を以って成立している(ウィキの「豊田町(三重県)に拠る)。現在の松阪市嬉野町(うれしのちょう)の東端北部の、名松線権現前駅の北東一帯、この中央部の雲津川右岸広域に当たる。少し拡大すると、「嬉野新屋庄町(にわのしょうちょう)」・「嬉野川原木造(かわらこづくり)町」・「嬉野川北(かわぎた)町」(雲津川の南の中央部なので注意)・「嬉野須賀(すか)町」・「嬉野権現前町」・「嬉野小村(こむら)町」の総ての旧村名を含んだ現住地名を総て現認出来るのが嬉しい。]

伊良子清白の二つの文章を以前の記事の間に遡及挿入させた

今朝、先日、挟もうと思って、うっかり忘れてしまっていた、

詩集「孔雀船」の再版版(昭和四(一九二九)年四月十日発行の梓書房版)に附された、伊良子清白の「小序」

昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊の「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に附された「伊良子淸白自傳」

の二つの文章を、未収録詩篇の年次系列に合わせて、特異的に操作して、これより前の位置に挿入した。特に前者の短文は、痛烈にして悲愴とも言える。

2019/06/15

魳子曳き 伊良子清白

 

魳子曳き

 

いばら背負(しよ)やこそ

女房はなげく

裸百貫荒灘稼ぎ

酒の負債(おいめ)が

海まで責(は)たる

雪のふる日に

魳子(こなご)曳き

 註 魳子(こなご)は魳(かます)の幼魚、

 荒天風雪の日に漁獲するを利とす。海上網を

 投じ急遽之を曳く、ために往々漁船の顚覆す

 ることあり。

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年三月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第三号)に掲載。署名は「伊良子清白」。

「魳子」「こなご」「魳(かます)の幼魚」条鰭綱スズキ目イカナゴ亜目イカナゴ科イカナゴ属イカナゴ Ammodytes personatus の幼魚の異名の一つ。ウィキの「イカナゴ」によれば、『様々な地方名があり、稚魚は東日本で「コウナゴ(小女子)」』(無論、私もこれで認識している)、『西日本で「シンコ(新子)」。成長したものは北海道で「オオナゴ(大女子)」、東北で「メロウド(女郎人)」、西日本では「フルセ (古背)」、「カマスゴ(加末須古)」、「カナギ(金釘)」などと呼ばれる。イワシなどと並んで沿岸における食物連鎖の底辺を支える重要な魚種である。季語、晩春』。『北半球の寒帯域から温帯域を中心に熱帯域まで、世界中に』五属十八種が分布し、沿岸の粒径〇・五から二ミリメートルの』『砂泥底に生息し、主にプランクトンを餌としている』。『日本産イカナゴは移動性が小さく』、『各地に固有の系統群が存在している』。『北方系の魚であるため』、『温暖な水域では夏には砂に潜って』、『夏眠を行う』。『水深』十~三十メートルの『砂底に粘着質の卵を産卵する。産卵期は冬(』十二『月)から翌年春(』五『月)で』、『寒冷な水域ほど』、『遅くなる』。一歳で十センチメートル『程度まで成長し、成熟』し、三年から四年で二十センチメートル『程度まで成長する』。『日本では沿岸漁業の重要な位置にあり、集魚灯を用いた敷網漁や定置網漁、船曳網により捕獲され、生食や加工用のほか養殖用飼料としても利用される。しかし、乱獲や生息環境の悪化および海砂の採集による生育適地の破壊』『により、日本各地で漁獲量は激減している。伊勢湾や瀬戸内海では年ごとに生育度合いや推定資源量を調査し』、『その年の漁獲量を決定している』。『特に、瀬戸内海では夏眠に適した粒度分布の海砂がコンクリートの骨材にも適していたため』、『夏眠水域の海砂が建設資材として大量に採取され、多くの漁場は壊滅的被害を受けた』。伊勢湾では、現在、冬季に資源調査を行って、春の漁獲実施の可否を判断しているが、二〇一六年及び二〇一七年には、前年末から二月にかけて行われた資源調査の結果、稚魚の捕獲数が著しく少なかったため、愛知県及び三重県では禁漁となっている。『兵庫県淡路島や播磨地区から阪神地区にかけての瀬戸内海東部沿岸部(播磨灘・大阪湾)では』、『イカナゴは』「いかなごの釘煮」という郷土料理として『親しまれている。佃煮の一種で、水揚げされたイカナゴの幼魚(新子)を平釜で醤油やみりん、砂糖、生姜などで水分がなくなるまで煮込む。この際、箸などでかき混ぜると身が崩れ、団子状に固まってしまうため』、『一切』、『かき混ぜない。炊き上がったイカナゴの幼魚は茶色く曲がっており、その姿が錆びた釘に見えることから』、『「釘煮」と呼ばれるようになったとする説が有力である。「くぎ煮」は神戸市長田区の珍味メーカーである株式会社』「伍魚福(ごぎょふく)」の『登録商標である』。『解禁と同時に水揚げされた』二センチメートル『ほどのいかなごの幼魚は、鮮度が落ちないよう』、『収穫後』、『ただちに釜揚げにされ、店頭に並ぶ。これを』「新子」又は「新子ちりめん」と『呼ぶ。釜茹でした後に乾燥させたものは』「カナギ(小女子)ちりめん」と『呼ばれる。これより大きいもの、およそ』四~五センチメートルの『大きさのものを釜茹でしたものは』「カマスゴ」と『呼ばれ、そのまま酢醤油やからし酢味噌で食べる。この際、一度炙ると香ばしさが出ておいしくなる』。『阪神地区、播磨地区では』、『春先になると』、『各家庭でイカナゴの幼魚を炊く光景が見られる。また』、『毎年』三『月末頃、出荷された釘煮が阪神地区、播磨地区のスーパーに山積みされるようになると、春の訪れとして消費が盛り上がる。明石海峡大橋のたもとにある淡路サービスエリアやJR新神戸駅・新大阪駅、神戸空港、大阪国際空港、関西国際空港などの土産物店でもイカナゴの釘煮は販売されており、生姜味のほか』、『山椒味、唐辛子味のものもみられる』。『なお、近畿地方のなかでも、前述の地域を除く他の地域ではイカナゴの釘煮は』、『あまり食されない。例えば』、『京都市では』、『いかなごの釘煮よりもちりめん山椒が主流である。年配者の中にはイカナゴ自体を下魚として嫌う傾向も散見される。また、前述の通り、一般にいかなごのくぎ煮は、幼魚である新子を調理したものであるが、淡路島などでは成魚であるフルセを調理する地域もある。フルセを調理したものはくぎ煮と明確に区別するため、佃煮の名称で扱われる』とある。いつもお世話になっている「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「イカナゴ」もリンクさせておく。「漢字・学名由来」の「語源」パートの、『「いかり魚=カマス」の幼魚の意味。地方の呼び名に「かます子」とあるのと同じ。「いかり」とは「いかる=とがる」の意味で』、『栗の毬(いが)と同義語』。『イカナゴの小さいものが、いかなる魚の子であるかわからないため、「如何子」の意味』ともあり、さらに『〈い〉は語声強調の接頭語、〈かな〉は古語で糸のように方添いもの、〈ご〉は接尾語』とあって、まさにまさに眼から「鱗」!

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(36) 「池月・磨墨・太夫黑」(3)

 

《原文》

 武藏ニハ固ヨリ池月・磨墨ノ遺蹟ト云フモノ甚ダ多シ。就中西多摩郡調布村大字駒木野ノ傳說ニ於テハ、亦池月此國ニ產セシコトヲ主張スルナリ。其說ニ依レバ駒木野ハ古クハ駒絹ト書ケリ。【池田】源平ノ頃ニ村ヨリ西ニ當ツテ多摩川ノ北岸、今ノ三田村大字澤井ノ地ニ池田ト云フ沼アリ。【駒牽澤】或日此沼ノ邊ヨリ一頭ノ駒飛出シ、今ノ吉野村大字日影和田ト同村大字畑中トノ境ナル駒牽澤ト云フ處ヲ過ギテ、駒木野ノ里マデ馳セ來リシヲ、村民等網ヲ以テ奔馬ニ蔽ヒ掛ケテ終ニ之ヲ捕ヘ、亦鎌倉將軍家ニ獻上ス。後ニ高名ノ駿足池月ト聞エタルハ即チ此馬ノコトナリ〔新編武藏風土記稿〕。一匹ノ素絹ヲ引カセテ末ガ地ニ落チヌ程ニ奔セタリト云フ駿馬ノ話ハヨク之ヲ聞ク、ソレヲ思ヒ出サシムべキ昔物語ナリ。伊豆ノ田方郡弦卷山ノ中腹ニモ池月磨墨ヲ野飼ニ育テタル話アリ。磨墨此山ニ在リテ高ク嘶ケバ、池月ハ丹那村ノ山ヨリ遙カニ聲ヲ合セタリト云フ。【駒形神】弦卷山ノ山中ニハ其跡トシテ駒形ノ地名アリ、且ツソコニハ駒形神ヲ祀レリ。祠ノ傍ニ別ニ一箇ノ立石アリテ衣冠騎馬ノ神像ヲ刻スト云ヘバ〔日本山嶽志〕、即チ前ニ擧ゲタル輕井澤ノ駒形權現ト同ジ物ナランカ。駿河ハ普通ニ磨墨終焉ノ地トシテ認メラルヽガ、猶其西郡ニハ彼ガ生レタリト云フ家アリ。即チ安倍郡大川村大字栃澤ノ舊家米澤氏ニテハ、磨墨ハ此家ノ厩ニ產レタリト傳ヘ、厩ノ地ナリト云フ大岩ノ上ニ、【姥强力】蹄ノ跡及ビ其駒ヲ育テシト云フ老女ノ下駄ノ齒ノ跡殘レリ。此村ニハ更ニ一箇ノ奇巖ノ面ニ無數ノ馬蹄ノ痕ヲ印スルモノアリテ、里人之ヲ崇拜ス〔駿國雜志二十五〕。一說ニ栃澤村ノ民五郞左衞門ガ厩ニ池月ハ生レタリト云フハ、同ジ家ノ事ニシテ名馬ノ名ノミ何レカ誤聞ナルべシ。此家ハ又昔名僧聖一國師ヲ產シタリ。【明星】元亨釋書ノ傳記ニ、國師ノ母手ヲ擧ゲテ明星ヲ採ルト夢ミテ孕ムトアルハ因緣ナキニシモアラズ〔遊囊賸記〕。尙此ヨリ遠カラザル久須美ト云フ村ニモ、磨墨ノ生地ト稱シテ蹄ノ跡ヲ印シタル石アリト云フ〔駿國雜志同上〕。

 

《訓読》

 武藏には、固より、池月・磨墨の遺蹟と云ふもの、甚だ多し。就中、西多摩郡調布村大字駒木野の傳說に於いては、亦、池月、此の國に產せしことを主張するなり。其の說に依れば、駒木野は古くは「駒絹」と書けり。【池田】源平の頃に、村より西に當つて、多摩川の北岸、今の三田村大字澤井の地に「池田」と云ふ沼あり。【駒牽澤】或る日、此の沼の邊りより、一頭の駒、飛び出だし、今の吉野村大字日影和田と、同村大字畑中との境なる「駒牽澤」と云ふ處を過ぎて、駒木野の里まで馳せ來たりしを、村民等、網を以つて奔馬に蔽ひ掛けて、終に之れを捕へ、亦、鎌倉將軍家に獻上す。後に高名の駿足池月と聞えたるは、即ち、此の馬のことなり〔「新編武藏風土記稿」〕。一匹の素絹(そけん)を引かせて、末が地に落ちぬ程に奔(は)せたりと云ふ駿馬の話は、よく之れを聞く、それを思ひ出ださしむべき昔物語なり。伊豆の田方郡弦卷山の中腹にも、池月・磨墨を野飼に育てたる話あり。磨墨、此の山に在りて高く嘶けば、池月は丹那村の山より遙かに聲を合はせたりと云ふ。【駒形神】弦卷山の山中、其の跡として「駒形」の地名あり、且つ、そこには駒形神を祀れり。祠の傍らに、別に一箇の立石ありて、衣冠騎馬の神像を刻すと云へば〔「日本山嶽志」〕、即ち前に擧げたる輕井澤の駒形權現と同じ物ならんか。駿河は普通に磨墨終焉の地として認めらるくゝが、猶ほ、其の西郡には彼が生れたりと云ふ家あり。即ち、安倍郡大川村大字栃澤の舊家米澤氏にては、磨墨は此の家の厩に產れたりと傳へ、厩の地なりと云ふ大岩の上に、【姥强力(うばがうりき)】蹄の跡及び其の駒を育てしと云ふ老女の下駄の齒の跡、殘れり。此の村には、更に一箇の奇巖の面に無數の馬蹄の痕を印するものありて、里人、之れを崇拜す〔「駿國雜志」二十五〕。一說に栃澤村の民、五郞左衞門が厩に池月は生れたりと云ふは、同じ家の事にして、名馬の名のみ何れか誤聞なるべし。此の家は又、昔、名僧聖一(しやういち)國師を產したり。【明星】「元亨釋書」の傳記に、國師の母、手を擧げて明星を採ると夢みて孕むとあるは、因緣なきにしもあらず〔「遊囊賸記(いふなうしやうき)」〕。尙ほ、此(ここ)より遠からざる久須美と云ふ村にも、磨墨の生地と稱して、蹄の跡を印したる石ありと云ふ〔「駿國雜志」同上〕。

[やぶちゃん注:「西多摩郡調布村大字駒木野」現在の東京都八王子市裏高尾町のこの附近であろう(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。高尾駒木野庭園などの名にそれが残る。【公開同日夕刻:削除・追記】何時もお世話になっているT氏より、これは多摩川の右岸にある現在の東京都青梅市駒木町であると御指摘を受けた。同氏によれば、「西多摩郡調布村大字駒木野」は明治二二(一八九八九)年四月一日の町村制施行により、下長淵村・上長淵村・駒木野村・友田村・千ヶ瀬村・河辺村が合併し、神奈川県西多摩郡調布村が成立、昭和二六(一九五一)年四月一日に青梅町・霞村との合併により、「青梅市」が発足して「調布村」は消滅している。確かに、この位置だと、以下の柳田國男の言う「西」が適合する。全くの私の錯誤であった。T氏に感謝申し上げる。

「三田村大字澤井」多摩川の北岸にある東京都青梅市沢井と思われる(上記旧駒木野から直線で約六キロメートルほど西北の多摩川上流)【前記追記により同日夕刻改稿】

『「池田」と云ふ沼』沢井地区には現認出来ない。

「素絹(そけん)」練っていない生糸で作った粗悪な絹布のこと。

「伊豆の田方郡弦卷山」以下も合わせて、前に出た「此の火山の南側、伊豆の輕井澤を下(くだ)りに赴けば、路の右なる松の中に、駒方權現の社あり」の注で詳細に考証済み。私はここと推定した(国土地理院図)。

「安倍郡大川村大字栃澤」静岡県静岡市葵区栃沢ウィキの「磨墨塚」に、伝承の各項の一つとして静岡県静岡市葵区大間の「福養(ふくよう)の滝」(栃沢の北北西七キロメートル)を挙げ、『大間の部落は、静岡西部を流れる藁科川の水源付近。昔、毎年』五月五日『の午前十時頃になると』、一『頭の馬が福養の滝の滝つぼにつかり』、『毛並みを整えていたという。後に米沢家で飼われて駿馬「磨墨」となった。これに因んで、この滝は「お馬が滝」と呼ばれるようになった』とあり、また、『福養の滝は別名「御馬の滝」あるいは「磨墨の滝」とも呼ばれた。名馬「磨墨」は、実は藁科の里「栃澤」の生まれということに由来する。また、福養の滝は、古来から「雨乞の滝」としても有名で、智者山神社の信仰と深い関係がある』とあった。

「厩の地なりと云ふ大岩の上に、【姥强力(うばがうりき)】蹄の跡及び其の駒を育てしと云ふ老女の下駄の齒の跡、殘れり。此の村には、更に一箇の奇巖の面に無數の馬蹄の痕を印するものありて、里人、之れを崇拜す」ネット検索では掛からない。孰れも現存しないか。

「聖一(しやういち)國師」鎌倉中期の臨済僧円爾(えんに 建仁二(一二〇二)年~弘安三(一二八〇)年)の諡号(しごう)。ウィキの「円爾」によれば、駿河国安倍郡栃沢(現在の静岡市葵区栃沢)に生まれる。『幼時より久能山久能寺』(静岡県静岡市清水区にある臨済宗補陀落山鉄舟寺の前身。当時は天台宗)で十八『歳で得度(園城寺にて落髪し、東大寺で受戒』『)し、上野国長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学』んだ。嘉禎元(一二三五)年、『宋に渡航して無準師範の法を嗣いだ。法諱は初め弁円と称し、円爾は房号であったが、後に房号の円爾を法諱とした』。仁治二(一二四一)年、『宋から日本へ帰国後、上陸地の博多にて承天寺を開山、のち』、『上洛して東福寺を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく』、『真言・天台とまじって禅宗を広めた。このため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た』。『晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの蕨野に医王山回春院を開き』、『禅宗の流布を行った。また、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称される。墓所ともなった「医王山回春院」の名は茶の持つ不老長寿の効能をうたったものと伝えられる』。『なお、静岡市では、円爾の誕生日(新暦)である』十一月一日『を「静岡市お茶の日」に制定し、茶業振興のPRに努めている』。『没後の』応長元(一三一一)年、『花園天皇から「聖一」の国師号が贈られた』。因みに、『博多の勇壮な夏祭りである博多祇園山笠は、円爾が起源とされ』、『疫病が流行していた博多で、円爾が博多町人に担がれた施餓鬼棚の上に乗り、水を撒きながら疫病退散を祈祷したのが山笠の始まりとされ、今日ではこの時を山笠の歴史の始まりとしている。櫛田神社のお祭りである山笠が承天寺前をコースとし、各舁き山が櫛田神社のみならず承天寺にも奉納するのはこうした歴史的経緯があるため』ともある。

「元亨釋書」は日本初の仏教通史で全三十巻。その著者である臨済僧虎関師錬(こかんしれん 弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)は円爾の孫弟子である。但し、私の持つ同書の電子データでは、ここに出るとする逸話が見当たらない。]

譚海 卷之三 水戶中納言殿の事

 

水戶中納言殿の事

○水戶中納言光圀卿、經濟に達し給ひし事は、世に知る所也。有職儒臣に命ぜられて、撰述の物若干也。中に就て禮儀類典といふものは、好古の第一のものなり。本朝古禮車服等の制に至るまで、殘りなく集られ、二首卷餘に及べりとぞ。其中書面にて別れがたきものは、皆雛形にせられて、衣服の紋織物などは、其絹をそのまゝ少しづつあつめ、古代の塗物の色あひは板を少しばかりづつそのまゝにぬりて、其うるしの色あいを傳へ、古器の見合(みあはせ)になる樣にしてあり。圖籍(ずせき/とせき)ひながたぬりものの類、併(あはせ)て唐櫃に二舁(ふたかき)有、公儀へも一通進獻せられて、今紅葉山の書庫に納めありといへり。又大日本史と云もの撰述有、大部にて板行(はんぎやう)に成(なし)がたき故、書寫にて藏書有、今に於て筆耕の者日々書寫する事なり。その家中の二男已下を皆水戶の學校の彰考館に召れ、筆耕の役を勤させられ、筆耕料二人扶持づつ賜る事なりとぞ。

[やぶちゃん注:目録では標題は次と続けて「水戶中納言殿 柳澤吉保朝臣の事」となっているが、かく示した。

「水戸中納言光圀」水戸藩第二代藩主水戸(德川)光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年。初代頼房と側室久子の子。同母兄の頼重が病身であったため、六歳の時に継嗣となり、九歳で元服、寛文元(一六六一)年、父の死によって藩主となった。この間、放蕩無頼の行動が多かったが、十八歳の時、「史記」「列伝」巻頭の「伯夷伝」を読んで感激し、学問に志すとともに、兄弟の序を尊び、のちに頼重(讃岐国高松藩主)の子綱条を養子として、藩主の地位を譲った。頼房の方針を継承して、藩政の整備に努め、水戸城下への上水道(笠原水道)を創設したりした。特に注目されるのは文教政策であって、明暦三(一六五七)年から「大日本史」(神武天皇から後小松天皇(在位:永徳二(一三八二)年~応永一九(一四一二)年)まで(厳密には南北朝が統一された元中九/明徳三(一三九二)年までを区切りとする)の百代の帝王の治世を扱った紀伝体の史書。本紀(帝王)七十三巻、列伝(后妃・皇子・皇女を最初に置き、群臣はほぼ年代順に配列、時に逆臣伝・孝子伝といった分類も見られる)百七十巻、志・表百五十四巻、全三百九十七巻二百二十六冊と目録五巻に亙る。携わった学者たちは「水戸学派」と呼ばれた)の編纂に着手し、寛文一二(一六七二)年には「史局」を開設して「彰考館」と命名した。本書は、漢文の紀伝体による本格的な日本の通史で、光圀が藩の財政支出の三分の一を費やしたと伝えられるのは過大としても、完成するのに明治三九(一九〇六)年までかかった大事業であった。このため、多くの学者を登用し、また、家臣を京都などへ派遣して、史料の収集に努めた。さらにこれと並行して、「礼儀類典」(朝廷の恒例・臨時の朝儀・公事に関する記事を抽出・分類して部類分けした書。目録一巻、恒例二百三十巻、臨時二百八十巻、附図三巻の計五百十四巻)などの編纂を進め、また、「万葉集」の注釈を計画して、大坂の国学者契沖(近世最初の本格的「万葉集」訓読法で知られる)に依頼し、光圀の援助により、「万葉代匠記」の完成をみた。光圀の学問は、朱子学を基本とし、「大日本史」の構想にも、その立場から歴史上の人物に対し、道徳的評価を明確にしようとする意図があった。その朱子学の立場から、仏教に対しては極めてきびしく、領内の寺院を整理して、ほぼ半数を破却させた。元禄三(一六九〇)年に退隠し、翌日、権中納言に叙任された。在職中に昇任されなかったのは、時の将軍徳川綱吉との不和によると推測される。綱吉の「生類憐み令」などに対して光圀は批判的態度を示していたことはよく知られる。退隠後は、久慈郡太田に近い西山荘に住み、文事に専念したが、元禄七年に家老藤井紋大夫を手討ちにしたのは、その性格の激烈であったことを物語る。黄門(中納言の唐名)の漫遊記は、明治時代の創作で、事実ではない。諡は義公(以上は主文を「「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。彼は延宝元(一六七三)年の藩主就任から五回目の江戸出府に際して、通常の経路を採らず、上総から船で鎌倉に渡り、江戸へ向かうという迂遠な経路を辿って漫遊し、鎌倉では英勝寺を拠点として名所名跡を訪ね、この旅の記録を翌年、「鎌倉日記」という記録として纏めたが、それでは飽きたらず、これを元に貞享二(一六八五)年に河井恒久らに実務担当をさせて、地誌「新編鎌倉志」全八巻を作っている。私はオリジナル注釈を附した「新編鎌倉志」全巻の電子化をサイト内で遠い昔に完成し、原型の「鎌倉日記」もブログで電子化注を終えている。知らない人があまりに多いので言っておくと、「水戸黄門さま」は生涯に旅をしたのは、この鎌倉遊覧の一度だけなのである。さらに先の引用にも出てくるが、この旅の途中、金沢八景附近では仏像を損壊破棄したり、やりたい放題のことをしている、トンデモ爺さんなんである。

「車服」朝廷・公家の乗り物や服制。

「別れがたきもの」「わかれ」と読むしかないが、要するに判り難きもの、文面で認識することが難しいものの謂いである。

「圖籍」絵図と図書。

「見合(みあはせ)になる樣にしてあり」文章(或いは現行の器)と比較対照することが出来るようにしてある。

「紅葉山」前回、既出既注。]

譚海 卷之三 田安中納言殿樂堪能

 

田安中納言殿樂堪能

○田安中納言殿は、風流好(ごのみ)古人に超(こえ)させ給へり。音樂は殊に好(このま)せ給ふ餘りに、天下の禁書を集め折衷し給ひて、中古斷絕の舞樂までも悉く興しをこなひ給ふ。その再興の舞樂を一書に集成有て、紅葉山の伶人多(おほ)氏に給はり、今その家につたへてあり。伶家にも此御事をば樂(がく)の聖(せい)成(なる)べしと沙汰しあへる程の事也。攝家より簾中嫁取ののち、その女房にみな音樂を教へ傳へさせましまして、時々女樂(ぢよがく)の合奏有。又西陣の織屋の女を召下(めしくだ)し、邸中にて織物をおらせ、堀川の染物する女をも召れて、機(はた)の模樣このみ染(そめ)させ給ひ、京都の女工をそのまゝ江戸にて調じさせ給へり。深川の屋敷に時々をはしまして、手ぬぐひを戴き、木綿の浴衣など着たまひ、下種(げす)のわざをもせさせ給ふとぞ、其處(そこ)もさながら田舍の住居の如く、ゐろりに燒火(たくひ)し手自(てづから)茶などをもせんじめされけるとぞ。和歌は萬葉の風を好みよみ給へり、岡部衞士(ゑじ)と云もの萬葉を執し、その注解の新意を著(あらは)せしも新たに出來たり。此等をも殊に寵し給ひて、衞士を大和廻りに遺し給ひ、往古名所の分明ならざるをも多く糺させ給へり。又猿樂の觀世流の謠の章の說を正し、詞をも直し改(あらため)させ給へり。高砂の能のあひの狂言のことばなどは、全く此卿の御作也とぞ。

[やぶちゃん注:「田安中納言」田安(徳川)宗武(正徳五(一七一六)年~明和八(一七七一)年)第八代将軍徳川吉宗の二男。御三卿(ごさんきょう)田安家の祖で。国学者・歌人としても知られた。享保一四(一七二九)年元服、従三位左中将兼右衛門督に叙任され、「徳川氏」を称し、明和五(一七六八)年には権中納言に累進した。幼少より学問を好み、国学者荷田在満(かだありまろ)を召し抱え、ついで彼の推薦によって賀茂真淵(かもまぶち)を家臣とし、古典研究を深めて、三者互いに影響を与え合った。後の国学に与えた影響も大きい。歌集「天降言(あもりごと)」のほか、在満・真淵との歌論について議論の末に纏めた「歌体約言(かたいやくげん)」や、古典の注解評論である「伊勢物語註」「小倉百首童蒙訓」「古事記詳説」などを著し、また服飾・音楽・植物などの研究も行った、一種、博物学的好奇心の強い人物であったようである(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「紅葉山」(もみじやま)は旧江戸城の西丸の東北にある丘。ウィキの「紅葉山」によれば、『本丸と西丸のほぼ中間にあたる。古くは「鷲の森」とも呼ばれた。現在は東京都千代田区に属し、皇居を構成する一部となっている』。『太田道灌の江戸城築城以前から存在し、元は古墳であったとする説』『もあるが』、『確証はない。また、目青不動(最勝寺)は、元は紅葉山にあったものが』、『道灌の江戸城築城時に城外に移されたと言われている。その後は日枝神社が置かれたが、江戸城拡張工事により』、『これも移転』した。『江戸幕府成立後の』元和四(一六一八)年、『紅葉山に徳川家康の廟所(東照宮)が置かれ、家康の命日である』四月十七日『には、将軍が紅葉山の東照宮を参詣する「紅葉山御社参」は幕府の公式行事の』一『つであった。また、秀忠以後の歴代将軍の廟所も紅葉山に設置された。また、寛永』一六(一六三九)年『には城内の文庫が富士見亭から紅葉山に移転・整備され、「紅葉山文庫」と称された。また、「紅葉山御社参」などの重要行事に備えて音楽を掌る楽所も設置されていた』。『紅葉山の警備・防災のために紅葉山火之番(留守居→寺社奉行支配)、霊廟の管理を行う紅葉山坊主、楽所の管理と演奏を行う紅葉山楽人、東照宮や各将軍の霊廟を掃除する紅葉山掃除之者が置かれていた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「伶人」雅楽を奏する楽人。

「多氏」の内、大和等畿内出身の一流に、有名な宮廷伶人である多臣自然麻呂(おおのじねんまろ/しぜまろ/じぜまろ ?~仁和二(八八六)年)を祖とする家系がある。自然麻呂は、宮中での公的な雅楽と右舞を創始し、三十九年間の長きに亙って「雅楽の一者(いちのもの)」の座を占め、今日まで宮中に伝わる神楽の形式を定めた人物とされる。

「攝家より簾中嫁取」宗武は、後陽成天皇の男系五世子孫で関白・太政大臣となった近衛家久の娘通姫(通子 享保六(一七二一)年~天明六(一七八六)年:院号は宝蓮院或いは法蓮院)を正室に迎えている(享保一八(一七三三)年に江戸城二の丸に入り、二年後の享保二十年に婚姻)。

「堀川」京の堀川通り。元禄期(一六八八年~一七〇四年)発祥の友禅染めで知られる。

「深川の屋敷」江戸切絵図で確認すると、田安中納言下屋敷は旧深川、現在の東京都江東区森下のこの附近にあった。

「岡部衞士」賀茂真淵のこと。岡部は本姓、衛士は通称。]

磯の蛸壺殼 伊良子清白

 

磯の蛸壺殼

 

  北のうみ

 

因幡の國の

    しろうさぎ

雪の降る日は

    草の根齧(か)じる

白砂山(しろすなやま)に

    防風が萠えて

雪のなかにも

    春が來た

あらい浪打ち際

    兎はおどる

北のうみべの

    朝日の濱を

 

 

  蜜 柑 山

 

山は南受(したう)け 晴南(はれみなみ)風

みかんばたけは 小六月

潮のぬくみの 熊野の浦は

蜂がみかんの 臍を刺す

 

靑い浦波 靑い草

冬も蒲公英 咲く路で

靑い蜜柑の 籠(かご)の山

鋏(はさみ)ちよきちよき 日が永い

 註 此蜜柑山は奧熊野新宮以南の海岸潮岬近くをうたふたもの。

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年二月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第二号)に掲載。署名は「伊良子清白」。

「防風」これは海岸の砂地に自生する多年草である、セリ目セリ科ハマボウフウ属ハマボウフウ Glehnia littoralis。本邦には北海道から南西諸島にかけて広く植生する。食用・薬用になる。花期は五~七月頃で、温暖なところほど早く開花する。花茎は立ち上がり、大きいものは五十センチメートルを越えることもあるが、一般には背は低いことが多い。白色の毛が多数生え、花序は肉質で白色、見た感じは、ごく小さなカリフラワーに似ている(以上はウィキの「ハマボウフウ」に拠る前のリンクは同ウィキの開花画像。因みに、薬草として知られる「防風」はセリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata であって、属の異なる別種であり、しかも中国原産で本邦には自生しない)。

「南受(したう)け」初めて見る読み方であるが、小学館「日本国語大辞典」の「くだり」の方言解説で、主に東北及び北陸地方に於いて「南風」のことを「くだり」「くだりかぜ」と呼ぶことが判った。「くだりかぜ」には隠岐の採取が含まれており、伊良子清白の生地鳥取が近い。本篇は気におけない小唄民謡の拵えであるからには、鳥羽或いはロケーションの紀伊半島南部でも通用される語でなくてはならないと私は思う。それらの現地で「南風」を「したうけ」(下受け)と呼ぶ事実を御存じの方は御教授あられたい。

「小六月」陰暦十月の異称。雨風も少なく、春を思わせる暖かい日和(ひより)の続くところからいう。「小春」に同じいから、ここは初冬の頃と読み換えてよかろう。

「奧熊野新宮以南の海岸潮岬」和歌山県東牟婁郡串本町の岬(しおのみさき)(グーグル・マップ・データ)。和歌山県の最南端で太平洋に突出する。ここは本州最南端でもある。長さ約九百メートルの砂州で紀伊半島と結ばれた陸繋島で、標高 四十~六十メートルの海食台地から成る。台地上には上野 (うわの) ・出雲などの集落があり、各家は防風林や石垣で囲まれている。黒潮の影響で気候は温暖である。]

わかめ 伊良子清白

 

わ か め

 

苅れたか かれたか

   雪の日の わかめ

雪の朝あけ

   わかめを苅れば

濡れた細葉の

   うすみどり

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年一月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第一号)に先の「暖冬」「囃子」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。]

囃子 伊良子清白

 

囃 子

 

鳥羽の菅嶋

   鵜の鳥は

冬の日中に

   水くゞり

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年一月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第一号)に先の「暖冬」と後の「わかめ」 とともに掲載。署名は「伊良子清白」。

「菅嶋」は「すがしま」で三重県鳥羽市沖の伊勢湾口の東西に長い菅島のこと。現行の一島の住所表記は鳥羽市菅島町。人口は二〇一〇年の国勢調査では六百八十九人。島の面積は四・五二平方キロメートルあり、人口・面積ともに三重県では、菅島の北西近くにある答志島に次いで第二位で、同じ鳥羽市内の相差(おうさつ)及び志摩市志摩町和具と並んで、海女の多い地域として知られる(以上はウィキの「菅島」に拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

2019/06/14

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(35) 「池月・磨墨・太夫黑」(2)

 

《原文》

 磨墨ハ多數ノ故鄕ヲ併セ有スル點ニ於テモ池月ト容易に兄弟シ難キ馬ナリ。【引田】關東方面ニ於テハ此名馬ノ生レ在所ト云フモノ、一ツニハ下野上都賀郡東大蘆村大字引田ナリ。【釜穴】村ヲ流ルヽ大蘆川ノ摺墨淵ノ片岸ニ、釜穴ト稱スル入口八九間ノ洞窟アリ。磨墨ハ此洞ヨリ飛出セリト云フコトニテ、岩ノ上ニ大キサ七八寸深サ一尺ニ近キ蹄ノ痕アル外ニ、【駒留石】村ノ長國寺ノ境内ニモ亦一箇ノ馬蹄石アリテ、其名ヲ駒留石ト稱シタリ〔駿國雄志二十五〕。同國安蘇郡飛駒(ヒコマ)村ハ元ハ彥間ト書ケリ。昔ノ牧ノ址ナルヲ以テ今ノ字ニ改メシナルべシ。土地ノ人ノ說ニテハ世ニ名高キ池月磨墨ハ共ニ此地ノ出身ナリト云フ〔山吹日記〕。上總國ニモ磨墨出デタリト傳フル地少ナクモ二處アリ。其一ツハ木更津ノ町ニ近キ疊池(タヽミイケ)ト云フ池、【硯】其二ハ則チ東海岸ノ夷隅郡布施村硯ト云フ地ナリ。硯ニテハ高塚山ト名ヅクル丘陵ノ頂上、僅カナル平ニ一本松ノ名木アル邊ヲ昔ノ牧ノ跡ナリト傳ヘ、愛宕ヲ祀リタル小祠アリ。此岡ノ中腹ニモヤハリ小サキ池アリテ、其水溜リノ如何ナル旱魃ニモ涸レザルヲ、或ハ磨墨ノ井ト稱ス。此地方ノ口碑ニ依レバ、磨墨ハ此牧ノ駒ナリシヲ平廣常取リテ鎌倉將軍ニ獻上スト云ヘリ〔房總志科〕。此ヨリ更ニ一日程ノ南方、安房ノ太海村ノ簑岡ト云フ海邊ノ牧モ、池月磨墨ノ二駿ヲ產セリト云フ名譽ヲ要求ス。而シテ村ノ名ニモ池月村磨墨村ノ稱呼アリキト言ヘド、今日ノ何ニ該當スルカ不明ナリ〔十方菴遊歷雜記五篇下〕。此海岸ヨリハ、兎モ角モ或名馬ヲ出セシコトノミハ事實ナルガ如シ。同ジ太海村ノ大字太夫崎(タイフザキ)ハ、義經ノ愛馬薄墨一名ヲ太夫黑ト云フ駿足ヲ出セシヨリノ地名ナリト云フ。【岩穴】岬ノ岸ニ不思議ノ巖窟アリ。深黑測ルべカラズ。太夫黑ハ則チ其洞ヨリ出デタリト云ヒ、【硯】附近ニハ硯トスべキ多クノ馬蹄石ヲ產シ、且ツ馬ノ神ノ信仰ヲ保存セリ〔千葉縣古事志〕。一說ニ賴朝石橋山ノ一戰ニ敗レテ此半島ニ落チ來タリシ際、太夫黑ヲ手ニ入レタリ。【名馬不死】後ニ此馬ハ獨リ故鄕ニ還リ來タリ、今モカノ洞ノ奧ニ住シテ不死ナリ。山麓ノ名馬川ノ岸ヨリ波打際ニカケテ、折々駒ノ足跡ノ殘レルヲ見ルハ、人コソ知ラネ龍馬ノ胤ノ永ク絕エザル證據ナリト云ヘリ〔遊歷雜記同上〕。然ルニ右ノ太夫黑ハ古クハ奧州ノ秀衡ガ義經ニ贈ル所ト稱シ、池月磨墨ト共ニ南部三戶ノ住谷ノ牧ニ產スルコト、同處ノ馬護神ノ天明元年ノ祠堂記ニ詳カナルニ〔糠部五郡小史〕、或ハ又越後北蒲原郡南濱村大字太夫濱ニ生レタリト云フ說アリ〔越後名寄三十一〕。讚岐木田郡牟禮村ニテハ此馬終焉ノ古傳碑文ニ依リテ明白ナリ〔讚岐案内〕。結局何レガ眞實ノ話ナルカ、予ハ之ヲ決シ得ズ。

 

《訓読》

 磨墨は、多數の故鄕を併(あは)せ有する點に於ても、池月と容易に兄弟し難き馬なり。【引田】關東方面に於いては、此の名馬の生れ在所と云ふもの、一つには、下野(しもつけ)上都賀(かみつが)郡東大蘆(ひがしおほあし)村大字引田(ひきだ)なり。【釜穴】村を流るゝ大蘆川の摺墨淵の片岸に、「釜穴」と稱する、入口、八、九間[やぶちゃん注:約十五、六メートル。]の洞窟あり。磨墨は此の洞より飛び出だせりと云ふことにて、岩の上に大きさ、七、八寸、深さ一尺に近き蹄の痕ある外(ほか)に、【駒留石】村の長國寺の境内にも亦、一箇の馬蹄石ありて、其の名を駒留石と稱したり〔「駿國雄志」二十五〕。同國安蘇郡飛駒(ひこま)村は元は「彥間」と書けり。昔の牧の址なるを以つて、今の字に改めしなるべし。土地の人の說にては、世に名高き池月・磨墨は、共に此の地の出身なりと云ふ〔「山吹日記」〕。上總國にも、磨墨出でたりと傳ふる地、少なくも二處あり。其の一つは、木更津の町に近き「疊池(たゝみいけ)」と云ふ池、【硯】其の二は、則ち、東海岸の夷隅郡布施村硯(すずり)と云ふ地なり。硯にては高塚山と名づくる丘陵の頂上、僅かなる平(ひら)[やぶちゃん注:平地。]に一本松の名木ある邊りを昔の牧の跡なりと傳へ、愛宕(あたご)を祀りたる小祠あり。此の岡の中腹にも、やはり小さき池ありて、其の水溜りの、如何なる旱魃にも涸れざるを、或いは「磨墨の井」と稱す。此の地方の口碑に依れば、磨墨は此の牧の駒なりしを、平廣常、取りて鎌倉將軍に獻上すと云へり〔「房總志科」〕。此れより更に一日程の南方、安房の太海(ふとみ)村の簑岡(みのをか)と云ふ海邊の牧も、池月・磨墨の二駿を產せりと云ふ名譽を要求す。而して村の名にも池月村・磨墨村の稱呼ありきと言へど、今日の何に該當するか不明なり〔「十方菴遊歷雜記」五篇下〕。此の海岸よりは、兎も角も、或る名馬を出せしことのみは事實なるがごとし。同じ太海村の大字太夫崎(たいふざき)は、義經の愛馬「薄墨(うすずみ)」一名を「太夫黑(たいふぐろ)」と云ふ駿足を出せしよりの地名なりと云ふ。【岩穴】岬の岸に不思議の巖窟あり。深黑、測るべからず。太夫黑は、則ち、其の洞より出でたりと云ひ、【硯】附近には硯とすべき多くの馬蹄石を產し、且つ、馬の神の信仰を保存せり〔「千葉縣古事志」〕。一說に、賴朝、石橋山の一戰に敗れて此の半島に落ち來たりし際、太夫黑を手に入れたり。【名馬不死】後に此の馬は、獨り故鄕に還り來たり、今も、かの洞の奧に住して不死なり。山麓の名馬川の岸より波打際にかけて、折々、駒の足跡の殘れるを見るは、人こそ知らね、龍馬の胤(たね)の永く絕えざる證據なりと云へり〔「遊歷雜記」同上〕。然るに、右の太夫黑は、古くは奧州の秀衡が義經に贈る所と稱し、池月・磨墨と共に、南部三戶の「住谷(すみや)の牧」に產すること、同處の馬護神の天明元年[やぶちゃん注:一七八一年。]の「祠堂記(しだうき)」に詳かなるに〔「糠部五郡小史」〕、或いは又、越後北蒲原郡南濱村大字太夫濱(たいふはま)に生れたりと云ふ說あり〔「越後名寄」三十一〕。讚岐木田郡牟禮村にては、此の馬、終焉の古傳、碑文に依りて明白なり〔「讚岐案内」〕。結局、何(いづ)れが眞實の話なるか、予は之れを決し得ず。

[やぶちゃん注:「下野(しもつけ)上都賀(かみつが)郡東大蘆(ひがしおほあし)村大字引田(ひきだ)」栃木県鹿沼(かぬま)市引田(ひきだ)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

『大蘆川の摺墨淵の片岸に、「釜穴」と稱する、入口、八、九間[やぶちゃん注:約十五、六メートル。]の洞窟あり』個人サイトと思われる「鹿沼見て歩き」の「磨墨ケ渕 引田」の記載と、ストリートビューでの確認から、この橋(「天王橋」)附近と思われる。上記ページにはサイト主が手書きで写して電子化した、鹿沼図書館蔵の禁帯出の藁半紙に謄写版で印刷された上沢謙二氏著になる「磨墨ケ渕」という冊子(昭和三二(一九五七)年七月二十二日クレジット)の全文があるので是非読まれたい。子供向けに書かれ、大阪中央放送局のラジオ番組(昭和二年九月から翌年にかけて放送)のために上沢氏が執筆されたものであるが、非常に素敵な内容である。

「長國寺」不詳。引田地区の天王橋の左岸東北約四百メートル位置に曹洞宗大盧山長安寺という寺ならある。この誤りかと思ったが、「駿國雜志」の当該箇所(国立国会図書館デジタルコレクション)(右ページの十行目)を確認したところ、確かに「長國寺」とあって、わざわざ『真言』宗と割注もあり、しかも『淵より三四町、東』(三百二十八~四百三十六メートル)とあるから、ちょっと違う。しかし、そこでは山号が字抜けになっており、どうもなんとも怪しい感じはする。

「同國安蘇郡飛駒(ひこま)村」栃木県佐野市飛駒町

『木更津の町に近き「疊池(たゝみいけ)」』千葉県木更津市朝日に畳ヶ池(たたみがいけ)として現存する。「畳ヶ池」については磨墨に関わる記載を見出せないが、別に、頼朝絡みの由来ならたっぷりある。「石橋山の戦い」から辛くも房州に遁走した源頼朝が、兵を募りつつ、北上した際、木更津の人々ここの水辺に畳を敷きつめ、もてなしの宴を開いたことによるという。以上は個人サイトと思われる中の「千葉の歴史の道 房総往還を歩く」に拠ったが、そこにはまた、『頼朝が畳ヶ池で数度』、『昼を取る時、長須賀にいる農民が小さな籠に綺麗なお弁当を作り』、『献上した』ところ、『頼朝はこの気持に大層喜び』、『その農民に』「小籠」という『名字を与えた』ともあり、また、『食事の時に箸を忘れ』、頼朝の家臣が、或いは『頼朝が』、『池に生えていた葦を箸替わりにしようと切った』ところ、『手を怪我した。怒った頼朝は「葦なんて生えなきゃいい」と言った。それ以降』、『この池に葦生えない。(地元の人が根から取った』『という話もある)』ともあった。

「夷隅郡布施村硯(すずり)」国土地理院図で発見した。千葉県いすみ市下布施にある硯である。同地区には天台宗硯山(すっずりさん)長福寺という寺があるが、当寺公式サイト(ウエッブサイト・アドバイザーが危険リスクを表示するのでリンクはしない。私は山号の読みと磨墨の記載を確認するためにリスクを容認した)には、『平家により鎌倉に追われた源頼朝は、平家追討の援軍を求めて房総にやって来た折、当寺に立ち寄ったと言われています。時の住職との話の中で、未だ山号の無いことを知った頼朝は「山号を授けるので書くものを持て」とおっしゃいました。住職の差し出した硯のあまりの見事さに「硯山」とすることになりました。そのとき以来この寺は「硯山無量壽院長福寺」(すずりさんむりょうじゅいんちょうふくじ)が正式名称になりました』。『また、書状を認めていた折、近くの山で馬のいななきが聞こえ、平家の追手かも知れないと考えた頼朝は、手にしていた筆を境内の槙の枝に掛け(これで、筆掛けの槙といわれるようになりました)』(現存するとある)、『見てくるように家来に命令』しましたが、『家来の連れて来た馬は、全身真っ黒な立派な馬でした。すっかり気に入った頼朝は』、『その馬に「磨墨」という名を付け、可愛がったといいます。都内某寺に「磨墨の墓」があり、墓誌に「布施の郡より得た馬」と書かれているそうです』とあった。『都内某寺』とはどこやねん!? 宗派が違うから伏せてるのだろうけれど、ちょっとムカつく!

「安房の太海(ふとみ)村の簑岡(みのをか)と云ふ海邊」『「十方菴遊歷雜記」五篇下』のここであるが(国立国会図書館デジタルコレクション)、その幾つかの道程の地名を考えるに、これは千葉県鴨川市太海のこの附近ではないか? 則ち、「簑岡」は「嶺岡」の誤認か古名なのではないかというのが私の推理なのである。ここから東の内陸にかけて、自衛隊駐屯地などのいろいろな施設名に「嶺岡」の旧地名が複数冠り、その果てに大山(不動尊)があるからである。

「太海村の大字太夫崎(たいふざき)」千葉県鴨川市江見太夫崎。次注参照。

「名馬川」「LocalWiki」の『名馬橋 名馬「太夫黒」の伝承のこる小さな橋』に地図附きで以下のようにある。『鴨川市江見の吉浦地区(大字・太夫崎)の旧道に架かる「名馬橋(めいばはし)」。この橋の名も源頼朝の伝承に因んでいるらしい』。『この橋が架かっているのは「名馬川(めいばがわ)」という小川』で、『地元の人からこんな話がのこっていると聞いた』として、『頼朝が太夫崎(たゆうざき)まで来た時に、洞穴で黒い毛並みの立派な馬を見つけた。地名をとって「太夫黒(たゆうぐろ)」と名を付け、自身の乗る馬とした。この橋から少し上流に、波切不動があり、伝承の馬がいたのはそこにある洞穴だという』(ここ)。名馬橋の改修前の画像と記事もこちらにある

『南部三戶の「住谷(すみや)の牧」』既注であるが、再掲しておくと、「南部九牧」の一つである「住谷野牧」のこと。青森県三戸郡の旧名久井村、現在の青森県三戸郡南部町にあった(リンク先は「歴史的行政区域データセット」の同村。グーグル・マップ・データではこの南北一帯)。

「越後北蒲原郡南濱村大字太夫濱(たいふはま)」新潟市北区太夫浜(たゆうはま)

「讚岐木田郡牟禮村にては、此の馬、終焉の古傳、碑文に依りて明白なり」既出既注の佐藤継信と太夫黒の墓の伝承。再掲しておくと、現在の香川県高松市牟礼町牟礼にある真言宗眺海山円通院洲崎寺(すさきじ)にある。ウィキの「洲崎寺」によれば、『源平合戦の際に負傷した源氏方の兵士がこの寺に運ばれた。戦いが激しくなると』、『戦災により』、『当寺院は焼亡した。源義経の身代わりとなり』、『戦死した佐藤継信は本堂の扉に乗せられ、源氏の本陣があった瓜生ヶ丘まで運ばれた。これが縁で継信の菩提寺となり』、『毎年』三月十九日には『慰霊法要が行われている。義経は焼亡した寺院を再建したと伝えられている』とある。]

譚海 卷之三 樂器の家々 琴(続き)

 

(樂器の家々 琴)[やぶちゃん注:前回の続きと採る。]

○きんは本朝に其傳(でん)絕(たえ)たる時、延寶の比(ころ)華僧心越禪師彈法を傳へ來り、再たびきんをひく事になりて、「琴經(きんけい)」抔(など)云(いふ)書、人の見る事に成(なり)たり。然れども今時の琴は甲を用ひず、爪にてひく事にて、調子も甚微音也。物を隔ては分明に聞得る事かたきやう也。土屋某の茶道小野田東川と云者心越の弟子にて、琴を能(よく)ならひ取たる故、四辻殿關東下向有て御願有、東川を召れ、傳奏屋敷にて琴の彈法東川より御傳授有、數月の後(のち)事畢(ことおはり)て歸洛有、以來堂上方にきん有と云。

[やぶちゃん注:「琴」「きん」筝との相違は門外漢の私(妻はプロ級だが。後述)がぐたぐた述べるよりは、サイト「中国語スクリプト」の『「琴」と「箏」の歴史と構造の違い【図説】』が詳しくヴィジュアル的もの最適なので、そちらを見られたい。

「延寶」一六七三年~一六八一年。次注参照。

「心越禪師」江戸初期に清から亡命した禅僧東皐心越(とうこうしんえつ 一六三九年~元禄九(一六九六)年)。ウィキの「東皐心越」によれば、『俗姓は蒋氏、名は初め兆隠のちに興儔、心越は字、東皐は号で別号に樵雲・越道人がある』。『詩文・書画・篆刻など中国の文人文化、なかんずく』、『文人の楽器である古琴を日本に伝え、日本の琴楽の中興の祖とされる。また独立性易とともに日本篆刻の祖とされる』。『明国浙江省浦江県で生まれる。幼くして仏門に帰依し』、『呉門の報恩寺において寿昌無明の法嗣となる』。一六七六年(延宝四年)、『清の圧政から逃れるため』、『中国杭州の西湖にあった永福寺を出て日本に亡命。薩摩に入』った。『澄一禅師の招聘によって延宝』九(一六八一)年に『長崎の興福寺に住』したが、『黄檗山萬福寺の木庵を訪ねるなど』、『各地を遊歴』したが、『外国人でありながら』、『日本国内を旅行したため』、逆に『清の密偵と疑われ』、『長崎に幽閉され』てしまう。天和三(一六八三)年、『水戸藩の徳川光圀』『の尽力により釈放』され、『水戸に』移って、『天徳寺に住し』、『篆刻や古琴を伝え』た。元禄七(一六九四)年、体をこわし、『翌年、江戸の菊坂長泉寺、相州塔之沢温泉などで療養するも回復せず、天徳寺に戻ると同年』九『月に示寂した。享年』五十八。『心越の禅風は明代中国禅の特徴である念仏兼修であ』り、『また』、『心越自身も黄檗僧との交流が深かった。このため』、『心越を黄檗宗とする資料も多いが、法系上は曹洞宗に属する。日本曹洞宗の開祖道元とは別系であり、心越の法孫は曹洞宗寿昌派を称した』とある。現行の「金沢八景」の命名者としても知られる。詳しくは私の光圀の「新編鎌倉志卷之八」の「能見堂」の私の注や、植田孟縉(もうしん)の「鎌倉攬勝考卷之十一附録」の「八景詩歌」の私の注(心越の漢詩、及び、歌川広重の代表作である天保五(一八三四)年頃から嘉永年間にかけて刊行された大判錦絵の名所絵揃物「金沢八景」の全カラー画像を電子化掲載してある)を参照されたい。

「琴經」明の張大命纂になる琴学書。

「甲を用ひず、爪にてひく」「甲」は不詳。明らかに「爪」と差別化しているのだが、妻(五歳より琴を始め、画期的な現代邦楽研究所の第一期生にもなった(但し、卒業演奏の足を引っ張るのが嫌で、勿体ないことに、卒業一ヶ月前に退所した)に聴いたが、判らないとのことである。琴爪は別名「義甲(ぎこう)」とも呼ぶが、調べても「爪」との違いが判らない。識者の御教授を乞う。「調子も甚微音也」というところを見ると、大きく硬い素材か? 当初、鼈甲を考えたが、それでは却って柔らかな音になってしまうように思う。因みに、私の妻は三味線も所持するが、その撥は先端部分を鼈甲で蔽ってある。

「土屋某の茶道小野田東川」(おのだとうせん 貞享元(一六八四)年~宝暦一三(一七六三)年)は京生れの七弦琴の奏者。名は廷賓。先の心越が伝授した琴法を、杉浦正職(まさもと)から学ぶ。七弦琴の名人として知られ、その弾法を後世に伝えた。

「四辻殿」前回で注したが、室町家の別名で、花亭家とも呼ぶ。藤原北家閑院流。西園寺家一門。家業は和琴と箏。江戸時代の家禄は二百石。]

甲子夜話卷之六 1 林子、古歌を辨ず

 

甲子夜話六

 

6-1 林子、古歌を辨ず

林氏云。「碧玉集」二、

 くだる世に生れあふ身は昔とて

      しのばむほどの心だになし

今其時を去る事又數百年なれば、昔を忍ぶ人の稀なるも怪しむべからず。近き世の一節あることさへ、今は語り合ふ友も少ければ、見るにつけ聞につけつつ語り候半。間中の慰寂に、筆まめに書とり玉へ。左あらば昔忍の草、此春雨におひひろごり申べし迚、ひたものひたもの慫慂なれば、又此册を書はじめけり。

■やぶちゃんの呟き

 最後は本巻の巻頭言となっている。

「林子」お馴染みの静山の友人である林述斎。

「碧玉集」「碧玉和歌集」。室町後期から戦国期の下冷泉家の公卿で歌人の冷泉政為文安三(一四四六)年~大永(たいえい)三(一五二三)年)の家集。父持為は下冷泉家の祖。正二位・権大納言。後柏原天皇時代の歌壇で活躍し、本家集は後柏原天皇の「柏玉集」、三条西実隆の「雪玉集」とともに「三玉集」と称され、重んじられた。初名は成為であったが、足利義政より「政」の字を偏諱(へんき)を受けた。所持しないので歌の校合は出来ない。

「候半」「さふらはん」。

「間中」「かんちゆう」か。一般的ではないが人の命の「僅かの間」の意味か。

「慰寂」底本で編者は二字に『なぐさみ』と振る。

「ひたもの」副詞。ひたすら。やたらと。

甲子夜話卷之五 36 予三十一文字の歌章を筝曲に製する事 /甲子夜話卷之五~完遂

 

5-36 予三十一文字の歌章を筝曲に製する事

予久しく憶ふに、古へは歌はうたふことにて有けるを、今は哥はよみ出たる計にて、うたふことなし。流俗のうたふものは、別に其詞ありて殊にいやしければ、花前月下など哥よまんとき、其詞を弦詠せん迚、其頃名ありし山田檢校【豐一】に謀れば、山田乃予が爲に、三十一文字の歌章の筝曲を作りぬ。其後、家老長村内藏助が歸邑しけるにも、又同姓伊勢守が堺の奉行となり、其地に赴しときも、予餞別の歌をよみて、其祖筵にて侍妾に弦詠せしめければ、伊勢も長村も殊更に感悅して入興しける。長村を餞せしとき、

 鶯の谷より出て峰たかき

      霞にうつる春の初こゑ

伊勢を餞せしとき、

 住の江の松と久しきやがてまた

      岸による波かへりこん日も

然るにいつか世の中にても、風雅を好めるものは此筝曲を用るとぞ。林氏このことを面白き思立なりとて、度々激賞して、後には其本を知らぬやうにもなれば、記し置けと勸るまゝ玆にしるす。

■やぶちゃんの呟き

「山田檢校【豐一】」「豐一」は「とよいち」。宝暦七(一七五七)年生まれで、文化一四(一八一七)一四(一八一七)年没。江戸中期の音楽家で山田流箏曲の始祖。都名(いちな:もとは琵琶法師などがつけた名。名前の最後に「一」「市」「都」などの字がつく。特に、鎌倉末期の如一(にょいち)を祖とする平曲の流派は一名をつけたので、「一方(いちかた)流」と呼ばれた。後には広く一般の盲人も用いた)は斗養一(とよいち)。号は勝善、幽樵など。尾張藩宝生流能楽師といわれる三田了任の子。幼時に失明。第二十八代惣録(江戸時代に検校・勾当の上にあって盲人を統轄した官職)長谷富(はせとみ)検校門下の山田松黒(しょうこく)に師事し、寛政九(一七九七)年一月、寺家村(じけむら)検校を師として検校に登官。寛政~享和年間(一七八九年~一八〇四年)にその作風が円熟し、その一門は、それまでの江戸の生田流を圧倒する勢力となった。文化一四(一八一七)年二月、第六十八代惣録に就任したが、その二ヶ月後に没した。河東節(かとうぶし:浄瑠璃の流派の一つで、享保二(一七一七)年に江戸半太夫の門から分かれた十寸見河東(ますみかとう)が創始したもの。優美で渋い江戸風の音曲で、古曲の一つに数えられている)をはじめ、その頃、江戸で行われていた各種の三味線音楽に通じ、彼の作品は、三味線音楽を箏曲化した新しい種目の音楽と評価される。門下から多数の派が生れた。主作品は「初音曲」「葵の上」「長恨歌」「小督曲(こごうのきょく)」「熊野(ゆや)」(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。静山より三つ年上。

「乃」「すなはち」。

「家老長村内藏助」(明和四(一七六七)年~文政三(一八二〇)年)は肥前平戸藩藩士で家老。京都の儒者皆川淇園(きえん)に学び、後に江戸に出て、佐藤一斎と交わった。帰藩後、藩校維新館学頭などを務め、家老となった。名は鑒(てらす)、通称、内蔵介。著作に「乙丑西帰記」「蒙古寇紀」などがある学者でもあった。

「歸邑」「きいふ(きゆう)」。帰藩。

「同姓伊勢守」松浦忠(まつらただし)であろう。文化一〇(一八一三)年から文化一二(一八一五)年まで堺奉行を務めている。

「祖筵」「そえん」。旅に出る人を送る送別(餞別)の宴席。この「祖」は道祖神のことで「筵」は席(場所)で、旅に際してそれを祀ることが語源であろう。漢語。

「住の江」大阪市住吉  の古称で歌枕。松浦の堺奉行出向に洒落たもの。

「林氏」お馴染みの静山の友人である林述斎。

甲子夜話卷之五 35 小宮山木工進の事

 

5-35 小宮山木工進の事

享保中、御代官にて名高かりし小宮山木工進【昌世】は、元御廣敷の賤吏より拔擢せられ、幹事の才は衆にすぐれたるものなりしとなり。小金原御狩のとき、百姓勢子のはたらき方、思召の如くならず。樣々御指麾を傳ふれども、兎角におもはしからざりしとき、木工進召せとの仰にて御前に出ければ、しかしかと御指授ありける。畏り候迚、その儘乘返して下知すれば、有合數多の百姓どもを、手足を使ふ如く自由に引廻しけるとなん。又鴻臺へ成せ玉ひしとき、數日前より北條、里見などの事ある書を檢點して、其地理古戰の次第を硏究しぬ。御遊覽の日に至り、果して此地の事心得る者や有と問せ玉へば、昌世御案内申ながら、來歷戰場の樣子など、詳明に言上せしかば、深くめでさせ玉ひしとなり。又一日御郊遊のとき、昌世路傍に蹲踞して拜し奉る。今年は作毛いかゞあらんと御尋ありければ、昌世謹で豐稔に候とぞ答奉りける。翌日老臣進謁のとき、今年諸國不登と聞しが、昨木工進に問せ玉へば、豐熟なりと云。兼て聞しめす所とは違へり。いづれか實なるべきとの仰なり。老臣退て司農官を呼び、木工進を詰問せしむ。木工進申けるは、今年の凶荒は衆の知る所なり。上より實に豐凶を問玉はんには、上に執政あり、下に奉行あり。各其順次を以て某に問玉ふべし。その時は實を以て答申さん。昨の御遊、殊に御機嫌もうるはしく、御興がてら御言葉を玉はりしことと存候へば、臣も亦御興を添奉らんと思ひて、答奉りき。もし凶荒と申さば、御遊興の中、俄に御憂念をも生じ奉らんやと、斟酌して申上つるまでなりと申けり。其次第、老臣より言上せしかば、いと御機嫌なりしとなん。又月光大夫人、飛鳥山へ遊ばせ玉ひしが、道より驟雨降出しければ、先金輪寺に雨を避させ玉ひしに、程なく雨は止たれど、木履無くては、山上の芝地露滋く、いかゞあらんとありしに、陪從數百の女中の履、俄に辨ずべきにあらず。とやかくと人々申合うち、折節金輪寺修繕のことありて、匠作局より運置し杉の貫板あまた有しを、いつか木工進かりの木履に作り出して、立所に辨ぜり。大夫人の遊山、陪從の輩少しもさゝはらざりしとなん。其機智敏捷なる、皆此類なりしと。

■やぶちゃんの呟き

「小宮山木工進」「こみやまもくのしん」と読む。平凡社「世界大百科事典」によれば、江戸中期の代官。生没年不詳。初め「源三郎」、後に「木工進・杢進・杢之進」と称した。字は君延、号は謙亭。辻弥五左衛門守誠(もりのぶ)の四男として生まれ、小宮山友右衛門昌言(まさとき)の養子となった。太宰春台に古学を学び、享保六(一七二一)年閏七月に幕府代官となっ。下総佐倉・小金牧の開墾などに当たり、褒賞されたこともあるが、晩年は不遇であった。「地方凡例録(じかたはんれいろく)」には、辻六郎左衛門守参(もりみつ)とともに「地方の聖」としてあげられている、とある。

「享保」一七一六年~一七三六年。

「御廣敷」「おひろしき」。江戸城本丸と西の丸の大奥の側に設けられていた大奥勤務の役人の詰所。広敷用人以下の役人が詰め、大奥の総ての事務を司った。

「小金原」現在の千葉県松戸市小金原(こがねはら)附近か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「御狩」第八代将軍吉宗のそれ。

「御指麾」「ごしき」。「指麾」は「指揮」に同じ。「麾」も「揮」ももとは軍勢の指揮を執る旗の意。

「有合數多の」「ありあふあまたの」。

「鴻臺」「こうのだい」。旧下総国の国府が置かれた、現在の千葉県市川市国府台(こうのだい)の古称。

「北條、里見」後北条氏と安房里見氏。両者は二次に亙る「国府台合戦」(天文七(一五三八)年、及び、永禄六(一五六三)年と翌年にかけての第二次合戦に大別される)の両雄。詳しくはウィキの「国府台合戦」を見られたい。

「作毛」稲の出来。

「不登」吉宗の問いであるので「ふとう」と音読みしておくが、訓じて「みのらず」とも読める。

「某」「それがし」。

「月光大夫人」第六代将軍徳川家宣の側室で、第七代将軍徳川家継の生母であった月光院(貞享二(一六八五)年~宝暦二(一七五二)年)本名は勝田輝子。家宣が死去して後、月光院と呼ばれた。父は元加賀藩士で浅草唯念寺住職勝田玄哲。

「飛鳥山」現在の東京都北区にある区立公園飛鳥山公園(あすかやまこうえん)は、東京都内の桜の名所の一つ。ウィキの「飛鳥山公園」によれば、『徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った』。享保五(一七二〇)年から『翌年にかけて』千二百七十『本の桜が植えられ』、『現在もソメイヨシノを中心に約』六百五十『本の桜が植えられている』とある。また、『「飛鳥山公園」の名の通り一帯は小高い丘になっているが、「飛鳥山」という名前は国土地理院の地形図には記載されておらず、その標高も正確には測量されていなかった。北区では、「東京都で一番低い」とされる港区の愛宕山(』二十五・七『メートル)よりも低い山ではないかとして』、二〇〇六年に『測量を行い、実際に愛宕山よりも低い』二十五・四『メートルであることを確認したとして』、『北区は国土地理院に対し、飛鳥山を地形図に記載するよう要望したが』、『採択されなかった』ともある。

「先」「まづ」。

「金輪寺」「きんりんじ」。飛鳥山北西直近の東京都北区岸町にある真言宗王子山(おうじさん)金輪寺。歴代江戸幕府将軍の御膳所を務めた格式ある寺院。

「木履」「ぼくり」。下駄。

「辨ず」適切に素早く処理する。

「匠作局」「しやうさくのつぼね」。「匠作」は旧修理職(しゅりしき)、木工(もく)寮の唐名。

「運置し」「はこびおきし」。

「貫板」「ぬきいた」貫(ぬき:柱と柱との間を横に貫いて繫ぐ材木)に用いる板材。

暖冬 伊良子清白

 

暖 冬

 

海が靑けりや

   冬やあたたかい

女黑けりや

   雪や降らぬ

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年一月一日発行の『民謠音樂』(第二巻第一号)に以下の「囃子」「わかめ」とともに掲載。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、満五十三歳。以下、新作民謡調俗謡が少し続く。不二子の自死を天が癒すかのように、この年の二月九日、三男朴(すなお)が生れている。]

伊良子淸白自傳 / 昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に附されたもの

 

 伊良子淸白自傳

 

 名は暉造、明治拾年拾月四日鳥取縣八上(やかみ)郡曳田(ひけた)村に生る。幼時父母に伴はれて三重縣に轉住。其の地の小學校を經て津中學校を卒業した。中學在學中同志數名と共に和美會雜誌經文學等發行。詩は十六七歲から習作を試みた。次で京都府立醫學校(今の府立醫科大學)に入學三十二年卒業、後東京に出で傳染病硏究所東京外國語學校獨逸語學科に學んだ。醫學校在學中から「文庫」「靑年文」に寄稿し、出京後は「明星」初期の編輯に參與、またその頃大阪で發行せし「よしあし草」(後に「關西文學」)にも執筆した。常に「文庫」の同人として河井醉茗橫瀨夜雨其他の多くの同志と共に詩作に努力した。三十九年五月詩集『孔雀船』を出版、所載詩篇僅かに拾八篇であつた。出版と同時に東京を去り島根大分を經て台灣に在ること十年、大正七年京都まで歸住、其の間皆官衙病院の醫師として多忙に生活した。十一年現住志摩鳥羽に移りはじめて開業漸く時間を惠まれた。かくて前後二十三年全く詩に遠ざかつたが、昭和三年出京と共に舊友との再會を機とし再び詩に復活するに至つた。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊の「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」版に出版社の編集コンセプトとして依頼されて書いたもの。底本は詩篇と同じ全集の二〇〇三年岩波書店刊平出隆編集「伊良子清白全集」第二巻を用いたが、詩篇は正字を用いているのに、何故か、こちらの巻は新字採用であるため、恣意的に漢字を概ね正字化した。なお、この年の彼をめぐる状況は詩篇「鳥羽の入江」の注で記した。

「暉造」「てるぞう」。

「明治拾年」一八七七年。

「鳥取縣八上(やかみ)郡曳田(ひけた)村」(現在の鳥取市河原町(かわはらちょう)曳田(ひきた)。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「幼時父母に伴はれて三重縣に轉住」この母は伊良子清白の生母ではなく、継母である。彼を産んだツネは彼が生後十一ヶ月の、明治一一(一八七八)年九月四日に僅か二十歳で他界している。三重県津市下部田(現在の津市栄町(県庁前公園辺り附近)への一家転住は明治二〇(一八八七)年、清白満十歳の時のことである。

「小學校」立誠尋常小学校(現在の津市立南立誠小学校)へ転入学。翌年三月、同小学校を卒業後(この年で満十一歳)、四月から養正学校高等科(現在の津市立養正小学校)に進学し、翌明治二二(一八八九)年三月の同高等科一年修了を以って、四月より私立四州学館に入学、翌明治二十三年四月に「津中學校」(三重県津中学校(現在の三重県立津高等学校)に入学、卒業は明治二七(一八九二)年。

「經文學」同人誌『輕文學』の誤り。底本「凡例」では、明らかな誤りは編者が注記なしで訂することになっているから、或いは底本全集自体の誤植の可能性がある。

「京都府立醫學校(今の府立醫科大學)」現在の京都府立医科大学。入学は明治二十七年四月。

「三十二年卒業」正規の卒業試験に失敗して追試験で合格したため、卒業は明治三二(一八九九)年六月にずれ込んだ。

「傳染病硏究所」この叙述はちょっと悩ましい。年表では明治三四(一九〇一)年の条に、『十月から十二月まで、北里伝染病研究所で細菌学の講義を受けた』とあるのであるが、この当時、現在の国立東京大学医科学研究所の前身である「私立伝染病研究所」の初代所長が北里柴三郎であったが、「北里伝染病研究所」ではないからである。「北里伝染病研究所」は、そのずっと後の大正三(一九一四)年に、「私立伝染病研究所」が内務省から文部省に移管され、東京大学に合併されるに際して、初代所長北里が移管に反対し、所長を辞任(この時、志賀潔を始めとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出し、「伝研騒動」と称される)、北里は同年十一月五日に私費を投じて「北里研究所」を設立しているからである。この年譜の方は「北里」柴三郎が所長をしていた「私立伝染病研究所」と読み換えないといけない。

「東京外國語學校」現在の東京外国語大学のメインの前身。

「三十九年五月詩集『孔雀船』を出版」明治三九(一九〇六)年五月五日佐久良書房刊の詩集「孔雀船」初版。

「出版と同時に東京を去り島根大分を經て台灣に在ること十年、大正七年京都まで歸住、其の間皆官衙病院の醫師として多忙に生活した」この辺りの状況や経歴は「梅村二首」の私の注で略述しているので、それを参照されたい。

「十一年現住志摩鳥羽に移りはじめて開業漸く時間を惠まれた」大正一一(一九二二)年九月十二日、三重県志摩郡鳥羽町大字小浜(現在の)へ転居、村医として診療所に住んだ。この中央附近に伊良子清白の家はあったが、現在は移築されて鳥羽マリンパーク内(ここ)に「伊良子清白の家」として復元されている。公式ガイド・データ(PDF)。

「昭和三年出京と共に舊友との再會を機とし再び詩に復活するに至つた」昭和三(一九二八)年五月十九日に東京会館で催された橫瀬夜雨・伊良子清白誕辰五十年祝賀会出席を指す。この時、夜雨とともに河合酔茗の家に泊まって語り合った(しかし、これが三人が集った最後となった)。その後、鳥羽で清白は密かに新作の詩(主に民謡俗謡)の創作を再開し始めたのであった。]

小序 伊良子清白 / 詩集「孔雀船」の再版(昭和四(一九二九)年四月十日発行の梓書房版)に附されたもの

 

 小 序

 

 この廢墟にはもう祈禱も呪咀もない、感激も怨嵯もない、雰圍氣を失つた死滅世界にどうして生命の草が生え得よう、若し敗壁斷礎の間、奇しくも何等かの發見があるとしたならば、それは固より發見者の創造であつて、廢滅そのものゝ再生ではない。

   昭和四年三月        淸 白

 

[やぶちゃん注:再版の、昭和四(一九二九)年四月十日発行の梓書房版(明治三九(一九〇六)年五月五日発行の初版「孔雀船」は佐久良書房刊)詩集「孔雀船」で追加されたもの。底本は詩篇と同じ全集の二〇〇三年岩波書店刊平出隆編集「伊良子清白全集」第二巻を用いたが、詩篇は正字を用いているのに、何故か、こちらの巻は新字採用であるため、恣意的に漢字を概ね正字化した。なお、この年の彼をめぐる状況は詩篇「鳥羽の入江」の注で記した。]

鳥羽の入江 伊良子清白 (初出形復元)

 

鳥羽の入江

 

 

  春は鯛繩

 

春は鯛繩

夜延(よばえ)の大漁

からだちいばらも

花が咲く

 

 註 夜延は夜間海上に釣繩の絲を延べるをいふ

 

 

  鱶 釣 り

 

裸一貫 男で候

波は立つ程 吹け吹けあらし

やんれ、乘り出す、灘の上

鯛や鰆(さはら)の 小魚にや飽いた

漁師泣かせの

      鱶釣りに

 

 

  寢たか起きぬか

 

寢(ね)たか起きぬか

  萱野の貉(むじな)

 よいそらよい

沖の夜繩を

  鮫がとる

 

岳(たけ)の朝西風(あさにし)

  飛び出せ螇蚸(ばつた)

 よいそらよい

濱の鰯(いわし)を

  鮪(しび)が逐ふ

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十二月一日発行の『民謠音樂』(第一巻第一号)に掲載されたもの。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、満五十二歳。但し、この内、最後の「寢たか起きぬか」の一篇は、先行するこの年の四月十五日改造社刊の「現代日本文学全集」第三十七篇「現代日本詩・漢詩集」の「伊良子淸白篇」に九篇(八篇は「孔雀船」から採録)載った際に「ねたか起きぬか」(既に昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊の「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」版を電子化済み。今回はその注で復元したそれを合成(底本ではここは注記附きでカットされている)して初出形を復元した)という題で単独独立詩篇新作追加として先行発表されているという、変わった経緯がある。また、この年は四月にロシア文学者中山省二郎の尽力で梓書房から詩集「孔雀船」の再刻本が刊行(伊良子清白は「小序」を追加している。この後に電子化する)され、同月には上記改造社のアンソロジーが、十一月には新潮社のそれが相次いで刊行された(新潮社版には「伊良子清白自伝」が書かれている。因みにこれは同全集編集コンセプトとして依頼されて書いたものである。やはりこの後に電子化する。また前者の改造社版に附された解説「明治大正詩史槪觀」では、北原白秋が伊良子清白を絶讃、この年の一月と十一月に出た日夏耿之介の「明治大正詩史」(上下巻)などによって、まさに伊良子清白再評価の機運がいやさかに高まった年であった(中山省二郎や北原白秋はこの年中に鳥羽に清白を訪ねてもいる)。しかし一方で、十一月十九日、次女不二子が自殺するという痛烈な不幸に遭遇している。不二子は大正一五(一九二六)年に大阪の女子神学校を卒業し、東成区の会社に就職したが、翌年には肺尖カタルを発症して入院しており、その予後は不詳であるが、自死したのは、伊良子清白の異母弟岡田道寿の鳥取の家でであった。

山も見えぬに 伊良子清白

 

山も見えぬに

 

   

 

山も見えぬに

釣する人は

妻子(つまこ)まつ身の

かなしかろ

 

   

 

十里二十里

日の沖中で

賴む雲行(くもゆき)

潮のいろ

 

   

 

小(こ)べりすふ浪

さびしいか浪も

底は百尋(ひろ)

絲(いと)が泣く

 

[やぶちゃん注:昭和三(一九二八)年七月一日発行の『詩神』(第四巻第七号)に掲載。署名は「伊良子清白」。本詩篇は漢数字を除いて総ルビであるが、五月蠅いので、私が必要と思った部分のみのパラルビとした。伊良子清白、五十一歳。同号には「雁」(後の昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に手を加えて収録。その際に「雁、雁」に改題)と「參宮船」(同作品集に収録。その際に題名を「參宮ぶね」に改題)の三篇の詩が載り、底本全集年譜のデータでは、実に大正一四(一九一五)年十一月の「海村二首」以来、実に三年二ヶ月振りの新詩篇発表である。底本全集年譜によれば、『五月十九日、東京会館での夜雨・清白誕辰五十年祝賀会に出席した。夜雨とともに酔茗宅に宿泊、三人が集う最後の機会となった。このころから翌年にかけて、ひそかに民謡俗謡を数多く詩作した』とある。]

2019/06/13

海村二首 伊良子清白

 

海村二首

 

  

 

船は小さくて見えぬが

突立つた巨人は

凱旋將軍のやうに

勇ましく姿を現はす

幾たりもいくたりも次々に歸てくる

港の灯は輝き波止場の浪は笑ふ

太い指と廣い掌(てのひら)

がつしりと櫓先を握んで

輕く船を操り乍ら

近づく海の勝利者

太い聲で最愛の者共をよびかけ

漁具を濱に卸すと

嬉しさうに寄り添ふ優しい聲と幼い響

今日の獲物は水子(かんこ)に一杯だ

人間の歡喜は陸に滿ち海に溢れる

彼はもう一日の疲れも忘れて仕舞ふ

烈しい勞働の苦痛も甘い思出となる

全世界の幸福はここに集る

一本の酒と妻子の笑顏の外

今は全く何物も彼の頭にないのだ

[やぶちゃん注:「歸て」はママ。「水子(かんこ)」は既注であるが、再掲すると、この「活間(いけま)」で、船の中に設えた「生簀(いけす)」のこと。]

 

   

 

海は妖魔である

私の窓からそつと忍びこんで

幾條の白髮を植ゑ去つたことであらう

老いは靜かに步み寄りて

塵の如く積り皺のごとくくひ入る

わたしの聽診器と手術刀は

黑と白とを象徵して

幾歲月の夜に董に

わたしの命運を暗くし明くし

そしてある夜颶風の眼が過ぎ去る時

わたしの病(やま)ひは重り

わたしの氣息(いき)は絕えんとし

子等は皆枕邊に集り

最後の祈禱(いのり)を捧げるであらう

その時曙は美しく輝き

海面一帶に大なる陽(ひ)は流れて

帆は集ひ私の船出を待つであらう

私は此村の巖陰で死ぬるのだ

故鄕の山の家を思はない

 

[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年十一月五日アルス刊の北原白秋・三木露風・川路柳虹編「現代日本詩人選」収録。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、既に四十八歳。同アンソロジーには伊良子清白の詩集「孔雀船」の「漂泊」「淡路にて」「安乘の稚兒」も再録されている。本刊行に際して出版社から新作の依頼があったものであろうが、伊良子清白にして、この口語自由詩はその内容(特に「二」)とともにここまで読んでくると一見、唐突で、驚愕に値する。但し、実は明治四一(一九〇八)年七月十五日発行の『文庫』(第三十四巻第五号)の翻案詩「七騎落」を最後として、伊良子清白は明治四二(一九〇九)年から大正一三(一九二四)年までの、実に凡そ十五年半の間、底本全集の「著作年表」では、伊良子清白は詩篇は一篇も発表しておらず(旧作再録は除く)、詩壇というよりも文壇自体から完全に訣別してしまっていたのであった(明治四三(一九一〇)年三月の短い世論批評文三篇があるのみ)。しかも思えばまた、一方で詩壇にはこの間、大正六(一九一七)年には、かの萩原朔太郎が満三十一歳で第一詩集「月に吠える」を引っ提げて、そのかぶいた姿で登場しているのであってみれば、この口語自由詩は時代の流れとしてすこぶる附きで腑に落ちるとも言えるのである。因みに、この間の波乱万丈と言ってよい事蹟を底本全集年譜に拠りながら、端折って述べると、明治四十一年三月七日、次女不二子が誕生、同年夏より胃腸カタルの症状が深刻となり、紫静養を決意、十月を以って島根での勤務を辞して、大分県臼杵を静養地とし、妻と長女とともに移った。明治四十二年四月に大分県警察部検疫官となって大分町に住むも、翌年五月には日本領であった妻子とともに台湾へ渡り、台湾総督府直轄の台中病院内科部に勤務、明治四四(一九一一)年九月、三女千里誕生。翌年四月、台湾総督府台中監獄医務所長に就任、ゴシック建築の洋館の官舎に住んだ。同年八月長男力(つとむ)誕生。大正四(一九一五)年七月、同前医務所長を辞任し、台湾総督府防疫医となる。台北へ移り、台北病院及び台北監獄医務所の双方に勤務した。翌大正五年、三月、前記防疫医を辞し(以下は既注であるが、再掲する)、大嵙崁(だいこかん:現在の中華民国(台湾)桃園市市轄区である大渓(たいけい)区(グーグル・マップ・データ)の日本占領当時の旧称)に移住して開業(昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に突如、出現した詩篇「聖廟春歌(媽姐詣での歌)」「大嵙崁悲曲」の注も参照)したが、十一月には台北に戻り、医務室を経営(同府鉄道部医務嘱託兼務)翌大正六年十二月には北ボルネオのタワオへの移住を考え(診療所医師として単身赴任が条件であった)、翌年には渡航するはずであったが、南洋開発組合の中の有力者の一人の、個人的な横槍によって移住が承認されず、万事休すとなる。大正七年三月末、思い立って、台中・台南・橋頭・阿猴を旅し、同年四月上旬、内地帰還を決意、四月十九日に妻と神戸に入港した。同年六月下旬、京都市左京区浄土寺馬場町の川越精神病院に勤務が決まった。台北から子供たちを迎えて浄土時真如町の借家に住んだが、翌大正八(一九一九)年六月二十一日、妻幾美(きみ)が死産の上、逝去してしまう。次女不二子を父のところに預け、秋より後妻を探し、長女清の学校の担任であった鵜飼寿(とし)との縁談が年末に決まり、翌年一月五日に挙式、四月に鳥取に帰郷して亡き幾美を供養している。この頃より、開業の方途を探り始めている。大正一〇(一九二一)年三月七日、寿が次男正を産むが、六月、後妻寿は腹膜炎後に感染したとされるリンパ腺結核で休職、後に退職となった。同七月、三重県南牟婁郡市木村に転居し、区医及び下市木小学校校医として、村営市木医館に居住した。翌年九月十二日、三重県志摩郡鳥羽町大字小浜に転居し、村医として診療所に住んだ。年末の十二月十八日には、四女和が生れている。大正十二年、小浜小学校校医となる。大正一三(一九二四)年五月、長女清が大坂の医師と結婚している。なお、この間、大正一一(一九二二)年十月、翌年の一月と四月、日夏耿之介が『中央公論』に、後に「明治大正詩史」に大成されるものの原型評論を連載、そこで伊良子清白を『稀に見る天稟の技能者』『彗星の如き「孔雀船」』と激賞し、同じく大正十一年末頃には西条八十も講演で清白を再評価しており、これらが昭和四(一九二九)年の伊良子清白再評価の遠因ともなった。

燈火の花 伊良子清白

 

燈火の花

 

夕間暮いぶせき晝の

はてに咲く燈火(ともしび)の花

一つ立ち二つ雙(なら)び

千々にまた遠く連り

香も細く波漂はせ

闇の海根(うみね)をこそ絕ゆれ

 

沈みつゝ浮きつゝはるに

その花の花瓣(はなびら)ゆらぐ

夜(よる)の神(かみ)快樂(けらく)の家(いへ)に

摘みためぬ色美(いろよ)き花を

いぶきしぬ圓(まど)かに闇を

花の露外(と)にしたゝるか

 

また咲きぬ淚の家に

低首(うなだ)れて色褪せし花

ほのぼのと花片(はなびら)けぶる

その花のわなゝく每(ごと)に

蒼ざめし死の息(いき)通ひ

すさみ行く望(のぞみ)の光

 

惡の家(いへ)花(はな)穢(え)に咲きぬ

黑鈍(くろにび)のめぐりを纏(まと)ひ

蝕(むしば)みにひそめる花は

執(しふ)の色あくどくにほひ

蛇の髮(かみ)漂ふ莖(くき)を

力(ちから)にて廣(ひろ)ごり浮きぬ

 

かくて闇(やみ)波(なみ)いと高し

なべて花(はな)底(そこ)ひにかくる

濕(しめ)らへる曉(あかつき)の風

冷やかに香りを誘ふ

花消えて人(ひと)醒めはてぬ

求めつゝ垣根を繞(めぐ)る

 

[やぶちゃん注:明治四〇(一九〇七)年四月一日発行の『女子文壇』(第三巻第五号)に掲載。署名は「伊良子清白」。本篇は特異的に総ルビ(これは高い飼率で当該雑誌の編集方針であろう)であるが、五月蠅いので、私が恣意的にパラルビとした。]

夏の夜 伊良子清白

 

夏 の 夜

 

林洩る菓物の

濃きかをり今しばし

高まりぬ時すぎし

花の香も殘るかに

くゆるめりめざめたる

家をめぐりひたひたと

波よせぬそは大き

夜の息この時に

われ思ふ外の方を

霰降り月光は

地に箔すまた磯は

家も低くいくみ竹

波に乘る浩々と

白き夜は海に居り

眠られずいとけなき

子心にかへりつゝ

われなきぬ

 

[やぶちゃん注:明治四〇(一九〇七)年一月十五日発行の『文庫』(第三十三巻第四号)に掲載。署名は「伊良子清白」。底本全集年譜によれば、この年、六月前後、『文庫』編集部内で、伊良子清白が投稿した評論「鏡塵錄」と翻案詩「七騎落」について、早稲田派のグループが採用掲載の可否について問題提起をして紛争が起こり(結果的には七月十五日発行の『文庫』(第三十四巻第五号)に二篇とも掲載された)、伊良子清白の『文庫』からの訣別が決定的になった。なお、この六月には島根県検疫医も兼任している。

「いくみ竹」「組竹」。葉が組み合って繁茂している竹の意。「古事記」に出る古語。]

小詩三篇 伊良子清白

 

小詩三篇

 

 

  帆 影

 

朝に來て浮木をひろひ

夕に出て寄藻(よりも)を燒きぬ

海士の子のすまひにをれば

貝がらに臥するも同じ

 

沖の方城廓(じやうかく)湧きぬ

須臾(すゆ)にしてまた沈み行く

帆づたひに漂ふ海を

眺めつゝ今日も暮しぬ

 

 

  い ま は

 

くだ物落ちぬさと漏るゝ

水のきほひに流れつゝ

月の光はかげ射しぬ

うれはしげにもをののきて

 

野の深林(ふかばやし)濕やかに

かをる一つの香をかげば

あえかの人の面影も

最後(いまは)の腕に觸れずやは

 

 

  風雨の後

 

雷(いかづち)默(もだ)し風雨(あらし)休(や)みて

天の大野は光滿ちぬ

焰の窓より落つる流

雲の盤溫(うづま)に爛(ただ)れ入りぬ

 

背(そびら)の鋒杉風を帶びて

峰路の景色は未だ止まず

隼(はやぶさ)斜(ななめ)に羽を伸して

日の入る彼方に翔り飛びぬ

 

[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年十二月三日発行の『金箭』(雑誌か。底本は当該初出ではなく、転載で、書誌データが附帯しない)に掲載。署名は「伊良子清白」。]

嵐の山 清白(伊良子清白)

 

嵐 の 山

 

嵐の山に來て見れば、

花は雪とぞ降りにける。

渡月橋上、繁華(はんげ)の子、

袖振りあふも名所かな。

 

一年前に花咲いて、

人のこゝろの切なりし。

二年前にはな散りて、

人の姿の艶なつし。

あはゝ、それは昔の物語。

 

今復た來る、天龍寺。

松の綠の深くして、

――深くもよしや、松は常盤木。

斷膓の音、鳴るは梵鐘。

 

我や捨てけむ、人やまだ

われを捨てけむ、辨へず。

落花風前、春は盡く。

戶無瀨に啼かむ、郭公鳥。

 

狂亂の躰(てい)、身は空殼、

流を渡り、峯を越え、

花の吹雪に、いざさらば、

消えて去なうよ、消えて去なうよ。

 

  (見れば可愛(いたいけ)、少人の、

  十三詣で、京の兒等、

  綺羅錦繡に身をまとひ、

  一步ふめば、轉法輪、

  二步ふめば、常樂土、

  此世からなる天人界。

  あらけたゝまし、屋方船、

  何に驚く、笛太鼓、

  またきこゆるは、天竺の、

  迦陵頻伽の歌の聲。

  蛾眉玉顏の花の盛りは、

  千々の黃金も擲たん。)

 

可笑しや心亂れては、

花を惜むの情(なさけ)だになし。

耳目に障る人間の、

行樂況して羨むべき。

 

ふりしきる雪、花の木蔭、

飛で四方に散亂し、

地(つち)を叩き水を撲ち、

咒咀(のろひ)の聲は、われ乍ら

あら面白の景色かな。

あはゝ、死ぬともうらまじ。

 

[やぶちゃん注:明治三九(一九〇六)年一月一日発行の『白鳩』(第一巻第三号)に掲載。署名「清白」。同年、伊良子清白、満二十九歳。底本全集年譜に『一月、旧年来の父の負債の負担、保険会社の職場環境との不適合などが嵩じ、また早稲田派の台頭で』、古巣の雑誌『文庫』『からも旧風が放逐されていく傾向』があからさまに現われてきていること『に不満を』抱き、『詩壇と訣別する意思を固めた』とある。また、三月頃には、河合酔茗が辞めた後の『文庫』の詩欄の選者問題では同人らと齟齬をきたしたりもした、とある。一方で自らの隠退の決意の証としたか、詩集「孔雀船」の出版への動きも同時進行で起こしている。また、三月末、現在の浜田市内にあった島根県立細菌検査所赴任の話が持ち上がり(赴任後は浜田則天堂病院副医院長を兼務)、酔茗ら詩人仲間の反対を押し切って、四月二十九日、六月には出産をひかえていた幾美を遠縁の人物に託して、再び東京の地を踏まぬかも知れぬという思いで、単身、旅立ち、大阪から瀬戸内海を海路で向かって、五月六日に着いているが、さても、その前日の五月五日、東京の左久良書房から彼の唯一の単行詩集「孔雀船」が刊行され、七日後の十二日、自らの詩集を手にしている(六月二十四日に長女が誕生)。本篇に漂うネガティヴな雰囲気、ある種、世紀末的「今様」風の趣きは、こうした伊良子清白自身の鬱屈を反映していると読めるように思われる。

「戶無瀨」「とむせ」と読み、京都市西京区嵐山にある渡月橋上流の古い地名。歌枕で紅葉の名所。

「空殼」私は「しひな(しいな)」と読みたい(「うつがら」の読みもあるが、如何にもリズムが悪いし、響きも悪い)。漢字表記は「粃」「秕」で、本来は、殻(から)ばかりで実のない籾(もみ)の意で、転じて、草木の果実のよく稔っていないものとなり、さらに広義に「中身の欠けているもの」「空っぽのもの」「価値のないもの」の意となった。

「況して」「まして」。]

天馳使 清白(伊良子清白)

 

天 馳 使

 

霜の光の白々(しらじら)と

おほはぬ空にうつろひて

秋は末なる星月夜

まほにうち見る人もなし

 

其夜の夢に我妹子(わぎもこ)は

最(いと)美(よ)き稚兒を見たりてふ

陽炎(かげらふ)燃ゆる春の國

いつか和子(わくご)は來るらん

 

天馳使(あまはせづかひ)翼伸(の)して

腕に花環をもたらさば

母の二人が亡魂(なきたま)も

或(ある)は仄かに復活(かへ)るべき

 

庭の木立のはらはらと

落葉は八重に積れども

稚兒が隱れし天(あま)の原

朝(あした)の色は綠なり

 

[やぶちゃん注:明治三八(一九〇五)年十二月一日発行の『白鳩』(第一巻第二号)。署名は「清白」。底本の「未収録詩篇」の同年パートはこの一篇のみ。本篇は特異的に総ルビである。しかし、これ、如何にも五月蠅い(電子化で読み難くなる)ので、今回は読みが振れると私が判断したもののみに限った。

 なお、前年、明治三十七年の「未収録詩篇」所収(一篇のみ)の長詩「海の聲山の聲」は既に以前に電子化している。同年、伊良子清白、二十七歳。一月、内国生命嘱託を辞し、二月に帝国生命保険会社の正式社員となっている。父政治は二月中旬に和歌山に転居し、三月初旬に医院を開業した。十二月半ば過ぎに「冬の夜」と総標題した「月光日光」「漂泊」(孰れも後の詩集「孔雀船」にごく僅かな手入れをして所収)「無題」の三篇を『文庫』投稿、翌年の一月一日発行の同誌(第二十七巻第六号)に掲載されている。

 全集年譜によれば、この翌明治三十八年は年初より父政治の医員開業が再び頓挫していた。同じ頃、父と別居し、縁談を求め始めたものの、胃腸カタルを発症している(これは生涯の彼の病いとなった)。二月から四月まで、帝国生命の出張で四国へ長期に巡回出張している。この間、青木繁の絵「海の幸」を『明星』誌上で見て後の詩篇「淡路にて」詩集「孔雀船」に改作して所収)の詩想を受けている(初出は同年九月発行『文庫』)。また、「万葉集」「枕草子」「紫式部日記」「更科日記」「方丈記」など多数の古典の読書も重ねている。『五月下旬、鳥取市東町の漢学者森本歓一・なかの長女で、鳥取女子師範学校を出て同附属小学校の訓導として勤務していた幾美(きみ)との縁談がまとまり、五月末、鳥取市で結婚、六月から大阪で新婚生活に入っ』ている。この頃、「戲れに」(手入れして詩集「孔雀船」に所収)が執筆されている。同月、帝国生命保険会社大阪支社から東京への転任の辞令を受けて、同月末の二十七日、妻とともに上京し、赤坂区新町の酒屋の持家を新居とした。保険診査医として関東周辺各地へ出張するが、最後の八月下旬の横須賀でのそれに於いて、「花柑子」「かくれ沼」「安乘の稚兒」(孰れも詩集「孔雀船」に所収。異同はリンク先を見られたい。なお、「かくれ沼」は「五月野」に改題している)を詩作している。十月には河合酔茗の家の近くに、十一月初旬には赤坂区台町に転居している。]

甲子夜話卷之五 34 常憲廟、毒法にて銅中の金を取ることを止らる御仁心の事

5-34 常憲廟、毒法にて銅中の金を取ることを止らる御仁心の事

憲廟御世、國用匱乏に及べる頃、蘭人の、銅に毒藥を塗り、幾度も燒返せば金に變ずると云奇方を識るもの渡來せり。勘定頭の荻原近江守など、荐りに此事を建言せしに、憲廟肯じ玉はず。金は煎して病藥に用ることあるものなり。誤りて毒製の金を用ゆるものあらば、人命に係るべきことなりとて、遂にその事を停めて、行はしめ玉はざりしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「常憲廟」五代将軍徳川綱吉。

「匱乏」「きぼふ(きぼう)」。物資が不足していること。「匱」は「尽きる」の意。

「荻原近江守」荻原重秀(万治元(一六五八)年~正徳三(一七一三)年)は旗本で、勘定奉行を務め、管理通貨制度に通じる経済観を有し、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで知られる。

「荐りに」「しきりに」。

甲子夜話卷之五 33 鳥越の邸にて人魂を打落す事

 

5-33 鳥越の邸にて人魂を打落す事

人魂、蟾蜍の說、前に云へり。又先年の事を思出せしは、鳥越の邸にて、群兒薄暮に乘じ、竿を以て蝙蝠の飛を撲つ。其時靑色なる光のもの、尾を曳きて飛來る。兒、皆、人魂なりと云て、相集て竿を以て打落す。靑光地に墮て猶光り有り。兒、足を以て踏で、而其ものを視に、豆腐の滓の如きものなりしと。是は何物のしかあるや。果して世に言ふ人魂か。

■やぶちゃんの呟き

「鳥越」平戸藩松浦家上屋敷(六義園・小石川後楽園などと並んで、江戸時代に造営された代表的な大名庭園の一つと謳われ、明治から大正にかけて多くの人々から親しまれた「蓬莱園」はその跡地であった)であろう。現在の東京都台東区鳥越の南直近の東京都台東区浅草橋の柳北公園の西北角に平戸藩松浦家上屋敷跡(蓬莱園跡)碑があると、サイト「Google Earthで街並散歩(江戸編)」のこちらにある。

「人魂、蟾蜍の說、前に云へり」「蟾蜍」は「ひきがへる」。「5-10 人魂を打落して蟾蜍となる事」を指す。

「蝙蝠」「かはほり」。コウモリ。

「飛を撲つ」「とぶをうつ」。

「相集て」「あひつどひて」。

「靑光」「あをびかり」。

「視に」「みるに」。

「滓」「かす」。何らかの発光物質をコウモリが附着させて飛翔していたようである。これだけでは、それが自然物か人造物かは不詳。コウモリは雑食性であるから、ホタル(江戸であるから、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ホタル科ヘイケボタル Luciola lateralis としておく)などを捕食し、その発行物質が附いたものか。ロケーションから見ると、同じルシフェリン(luciferin)-ルシフェラーゼ(luciferase)反応で発光するウミホタル(甲殻亜門顎脚綱貝虫亜綱ミオドコパ上目ミオドコピダ目ウミホタル亜目ウミホタル科ウミホタル属ウミホタル Vargula hilgendorfii)やヤコウチュウ(渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属ヤコウチュウ Noctiluca scintillans)由来(海中の生物死骸等をコウモリが摂餌した際に附着した可能性を私は考えている)かも知れない。何らかの発光バクテリアやそれを共生させる発光植物類等も考え得るが、当時の江戸市中でそれらがコウモリに附着するほど有意に繁殖している場所を私は想起し得ない。

甲子夜話卷之五 32 長卷の事

5-32 長卷の事

眞田豐後守【幸善】語りしは、「大業廣記」の中に、小田原攻のとき、神君の御馬先に、長卷(ナガマキ)二百人とか三百人とかあり。其物は柄は三尺ばかり、刃は二尺ばかりのものと云ふ。今尾侯の家中、塚松彥之進と稱する人、この技の師範す。尾州居住と云。此兵器の用法は廣く傳へたきものなり。

■やぶちゃんの呟き

「長卷」「長巻の太刀」の略とされる。太刀の柄を一メートル余りの長さとしたもので、長大な野太刀の発生と同じく、斬撃戦用の武器として案出されたもの。江戸期に至って混同されたように、柄長で、石突(いしづき)をつけて、長刀(なぎなた)に類似したもので、また、長刀の形状発展にも影響したが、本来は太刀がその原形であるので、鞘はないものの、鐔を附け、長い柄には、一部分に組糸や革で巻き締めた柄巻(つかまき)も施される。「結城合戦絵詞」や、永正四(一五〇七)年成立の「細川澄元出陣影」に既に描かれることから、室町中期には盛行していたものと推定される(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。グーグル画像検索「長巻」をリンクさせておく。

「眞田豐後守【幸善】」江戸後期の大名で、老中・信濃松代藩第八代藩主の真田幸貫(ゆきつら 寛政三(一七九一)年~嘉永五(一八五二)年)の初名。ウィキの「真田幸貫」によれば、『徳川吉宗の曾孫に当たる。老中として天保の改革の一翼を担ったほか、藩政改革にも多くの成果を上げた。江戸時代後期における名君の一人として評価されている』とある。静山より三十一歳下。

「大業廣記」樋口栄芳(人物不詳)著「国朝大業広記」(こくちようたいぎようこうき)。徳川氏の来由、および天文一一(一五四二)年の家康の誕生から、元和二(一六一六)年の死没(没後の諸供養等の記事含む)までの、家康の事跡を中心とした編年体史書。明和元(一七六四)年自跋。

「小田原攻」「攻」は「ぜめ」。天正一八(一五九〇)年二月から七月の豊臣秀吉が家康軍を主力部隊として後北条を攻めた小田原征伐。

「尾侯」徳川御三家中筆頭格の尾張侯。尾張徳川家。

「塚松彥之進」不詳。

甲子夜話卷之五 31 暹羅國の古書翰

 

5-31 暹羅國の古書翰

[やぶちゃん注:「暹羅國」は「しやむろこく(しゃむろこく)」でタイ王国の古名(一九三九年までの正式国名)。以下は特別にまず返り点と送り仮名(カタカナ)を除去し句読点のみ残したものを示し、後に訓点に従って訓読したものを附す。その場合、漢文訓読に従った最低限の送り仮名を附した。また、どうしても読みに不都合が生ずる部分には、今回のみ、特異的に〔 〕で送り仮名や句読点を推定で補った。なお、底本では「明公」「日本國」「國王」「貴國」「王」などに於いて知られた礼法書式としての「平出」(へいしゅつ/びょうしゅつ:改行して行頭出しにすること)や闕字(けつじ:当該尊敬対象の単語の前を一字(時に二字)分空けること)らしきものが行われており、それらが二行に亙る場合は、一字下げを採っているが、ブラウザでの不具合を考え、字下げは無視した。訓読では繋げて機械的に句点部で改行した。書翰冒頭の一字下げのみ再現した。]

或人暹羅國の古書翰を示す。珍しければ茲に載。

 

 暹羅國臣握浮哪詩握科喇語末耶屢匕提匹喇那納興沙動勑釐、謹致書于

日本國臣酒井雅樂頭臺下。   恭惟、

明公紀綱明肅、綜理調停、雄鎭一方、藩屛金湯鞏固、撫綏萬姓、閻閭歌頌歡騰。偉政素著、芳聲邁聞、我

國王深嘉焉。茲奉我

國王普臘來森烈摩倫摩匹普臘勃妥照柔華普臘勃離照古郞席夏陸悃那華釐西啞出毘耶令旨。謂人共一天、國分兩地。海外諸邦、惟惟我國與

日本國、稱爲上最。自古以海道舟楫未通之時、傳聞

貴國威望名重。今則遐邇輳集、舟車所至、稔知

貴國地雄人傑。信諸邦視若天淵之異。今幸

天與良緣、同結和好。喜溢望外。第爲滄溟參商、不能親炙耿光以快素願。雖商舟絡繹、曾未得

王音頻教、盛使特臨、使知國土昇平、

起居殊勝。亦籍令諸邦咸羨我兩國厚愛之雅聲、名何其重耶。歳癸亥特遣使進短札菲儀、問候致敬。使囘拜喜

華翰厚貺。雖知

貴國政平俗美、永盟通和之意、止據本价之口說。故未得其眞。於心似有歉然爾。玆荷

貴國王餘波、國治民安、五穀登盛。惟柬埔寨逆醜尚未順服。必欲整師征討、歸向而後已。謹顓坤納實替悶通事啞烈越直那汪悅齎書。敢仗將此情由、轉啓

貴國王、詳知其意、視同一國、相期和好、與天地日月並久。更祈彼此使者、歲々無間、凡有所欲、惟命是聽。商舶所至、悉聽兩平交易、不致濡滯、依汛通歸。均祈一體是幸。外有鸞采野惇今陞浮哪臘那毘目納斜文低釐發舟。商販已經三載未囘。不知何望、鼎力維持遣歸。均感無涯、我

國王最喜貴地所產良驥。前年差人求買。未得其超絕者。煩爲留心搜求奇駿、許來役購買。務在必得以副我

國王素望之意。

明公輔佐忠誠。維持兩國、同于一家、功莫大焉、來役望賜囘音、依汛道歸。統惟

炤亮、不宣。

Kanboijiakokusi

   奉將

 敬意。筦留幸甚。

 

○やぶちゃんの書き下し文

暹羅國臣の握浮哪詩握科喇語匕末耶屢七提匹喇那納興沙動勑釐、謹〔み〕て〔、〕日本國の臣酒井雅樂頭台下に書を致す。

恭しく惟〔ふ〕れば、明公紀綱明肅、綜理調停、一方に雄鎭し、藩屛金湯鞏固、萬姓を撫綏し、閻閭歌頌歡騰す。

偉政素と著はれ、芳聲遙に聞ふ、我〔が〕國王深く嘉す。

茲に我〔が〕國王普臘來森烈摩倫摩匹普臘勃妥照柔華普臘勃離照古郞席夏陸悃那華釐西啞出毘耶の令旨を奉す。

謂ふ〔、〕人〔、〕一天を共にし、國〔、〕兩地を分つ。

海外の諸邦、惟惟〔、〕我國と日本國と、稱して上最と爲す。

古〔へ〕より海道舟楫〔、〕未だ通ぜざるの時を以〔て〕すら、貴國の威望〔、〕名重きことを傳聞す。

今は則〔ち、〕遐邇輳集し、舟車の至る所、貴國の地〔、〕雄に〔、〕人〔、〕傑なるを稔知す。

信に諸邦に視ふれば〔、〕天淵の異なるがごとし。

今〔、〕幸に〔、〕天〔、〕良緣を與へ、同じく和好を結〔ぶ〕。

喜望〔、〕外に溢る。

第第〔、〕滄溟參商なるが爲に、耿光に親炙して以〔て〕素願を快すること能はず。

商舟〔、〕絡繹すと雖〔も〕、曾て未だ王音〔、〕頻〔り〕に教へ、盛使〔、〕特に臨み、使〔ひす〕ることを得ず〔。〕

國土昇平、起居〔、〕殊に勝れるを知〔る〕。

亦〔、〕籍に諸邦をして咸〔、〕我〔が〕兩國厚愛の雅聲を羨〔ま〕しむるは、名〔、〕何ぞ其れ重きや。

歳の癸亥〔、〕特に使を遣して〔、〕短札菲儀を進め、問候〔、〕敬を致す。

使〔、〕囘る、華翰厚貺を拜喜す。

貴國〔、〕政〔、〕平〔らか〕に、俗〔、〕美に、永く通和の意を盟ふを知ると雖〔も〕、止止〔、〕本价の口說に據〔る〕。

故に未だ其〔の〕眞を得ず。

心に於て歉然たること有るに似たるのみ。

玆に貴國王の餘波を荷ひ、國〔、〕治〔ま〕り、民〔、〕安く、五穀登盛なり。

惟惟〔、〕柬埔寨の逆醜〔、〕尚〔、〕未だ順服せず。

必〔ず〕師を整〔へ〕て征討し、歸向して後〔、〕已〔め〕んと欲す。

謹〔み〕て坤納實替悶通事啞烈越直那汪悅を顓〔く〕して〔、〕書を齎す。

敢〔へ〕て仗る〔、〕此の情由を將〔つ〕て、貴國王に轉啓して、詳〔か〕に其意を知らしめ、視ること〔、〕一國に同〔じ〕、和好を相〔ひ〕期し、天地日月と並びに久しからんことを。

更に祈る〔、〕彼此の使者、歲々〔、〕間無〔く〕、凡そ欲する所有らば、惟惟〔、〕命〔、〕是〔れ、〕聽〔か〕ん。

商舶の至〔る〕所、悉く〔、〕兩平〔、〕交易することを聽し、濡滯を致さず、汛に依〔り〕て通歸せよ。

均しく祈る〔、〕一體に是〔れ、〕幸。

外に鸞采野惇今陞浮哪臘那毘目納斜文低釐が發舟〔、〕有〔り〕。

商販〔、〕已に三載を經て〔、〕未だ囘〔らず〕。

知らず〔、〕何〔をか〕望〔み〕、鼎力〔、〕維持して遣歸〔するかを〕。

均しく無涯に感ず、我〔が〕國王〔、〕最〔も〕喜ぶ〔、〕貴地〔、〕產する所の良驥。

前年〔、〕人を差〔は〕して求〔め〕買ふ。

未だ其〔の〕超絕なる者を得ず。

煩しく〔、〕爲に心を留〔め〕て奇駿を搜求し、來役に購買ふことを許せ。

務〔め〕て必〔ず〕得て以〔て〕我〔が〕國王〔の〕素望の意に副ふに在〔り〕。

明公輔佐忠誠〔たり〕。

兩國を維持して、一家に同ぜば、功〔、〕焉より大なるは莫〔く〕、來役に望む囘音を賜〔り〕て、汛〔に〕依〔り〕て遣歸せよ。

統〔て〕惟〔ふ〕るに〔、〕炤亮せよ、不宣。

[やぶちゃん注:以下、添えた原典の画像の文字列を電子化する。なお、二ヶ所に打たれた大きな丸印は意味不明。本邦の花押みたような、シャムの公文書の印なのか? 識者の御教授を乞う。

 

 歳丙寅孟夏望日  謹書

   謹具

     花幔帕肆端

 

     白絞沙肆端

 

   敬意を奉將す。筦留〔、〕幸〔、〕甚し。

 

書の始に酒井雅樂頭とあるは、按るに忠世と云し人なり。初名は萬千代。寬永譜に據に、元和三年父重忠卒するにより、仰を蒙て遺跡三萬三千石を領し、厩橋の城を賜ふ。擧用らるゝこと日々に進んで、政務を與り聞く。公家武家の事を沙汰し、異國他邦のことを相謀る【下略】。寬永十三年卒す。年六十四。然れば翰末に歲丙寅と云ものは、吾寬永三年にして、猷廟御代嗣の後四年に當る。台廟いまだ御在世の時の事なり。

■やぶちゃんの呟き

 総ての語をテツテ的に読解してここにそれを記す力は私にはないし、そのつもりも、さらさら、ない。そもそも「甲子夜話」の電子化コンセプトは「やぶちゃん注」ではなく、「やぶちゃんの呟き」なのでここでは特異的に気分次第なのである。しかし、それでも知らんぷりの知ったかぶりは嫌だから、相応の記載はしたつもりではある。まあ、しかし、この奇体なシャム国使節の漢訳された奉書の本文とそのケッタイな訓読の電子化とだけでも、やった意味は「ある」と私は勝手に納得している。恐らくは誰かがその内に私の杜撰なこれを見つけては正確な注解をものして呉れることであろう。それまで私が生きて居られるかは判らぬが、それを楽しみにしている。

「臺下」「だいか」。手紙の脇付の一つ。相手に対する敬意を表わす。

「握浮哪詩握科喇語匕末耶屢七提匹喇那納興沙動勑釐」長いけれど、これがそのシャム国の使節団団長の名前(官職や称号も含んだそれ)なのであろう。音で取り敢えず読んでおくと(歴史的仮名遣)、「アクフ(/ブ)ダシアクカラゴヒバツヤルシチダイ(/テイ)ヒツラナナウコウシヤドウライ(/チヤク)リ」辺りか。

「酒井雅樂頭」静山が後で記している通り、戦国から江戸前期の大名で老中・大老を務めた、上野那波藩主・伊勢崎藩主・厩橋藩(上野国群馬郡厩橋。現在の群馬県前橋市)藩主、雅楽頭(うたのかみ)系酒井家宗家第二代の酒井忠世(ただよ 元亀三(一五七二)年~寛永一三(一六三六)年)である。ウィキの「酒井忠世」によれば、『後世に成立した新井白石『藩翰譜』や『武野燭談』などの史料から、土井利勝や青山忠俊とともに家光が師事したとされる「三臣師傅説」に数えられている』。『酒井重忠の長男として三河国西尾(現在の愛知県西尾市)に生まれる。徳川家康に仕え、天正』一六(一五八八)年に『後陽成天皇の聚楽第行幸に供奉』し、天正十八年一月には『家康の継嗣・秀忠が豊臣秀吉に初見目した際に腰物役を務める。家康が関東へ入部すると』、『父の重忠とは別に加増され、武蔵国川越城主となる。以後は秀忠に付き、秀吉の朝鮮出兵では肥前国名護屋城に在陣』、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では六月の「会津征伐」、七月の第二次「上田合戦」に従った。慶長一〇(一六〇五)年に『将軍職を譲られた秀忠付きの筆頭年寄となり』、慶長十二年七月には『駿府城へ移った家康を賀し、雅楽頭に任じられる。大坂の陣では秀忠の旗本を務め』ている。元和三(一六一七)年七月、『父重忠が死去して遺領の厩橋』三万三千石を『継ぎ、それまでの領地と併せて』八万五千石となった。元和九(一六二三)年、『秀忠の嫡子である竹千代(徳川家光)の世継が確定すると、家光付きの家老のうち死没していた内藤清次の席を埋めるかたちで、従弟の忠勝とともに家光付きの年寄衆に加わ』った。寛永九(一六三二)年五月には『松平康長の後任として西の丸留守居となり、江戸城大橋外から家臣を引き連れて旧秀忠屋敷である西の丸へ移』ったが、その七『月に家光が増上寺へ詣でた際』、『中風を起こして倒れ、家光から養生を命じられる。幕政には復帰しているが』、寛永一一(一六三四)年六月、『家光が』三十『万の大軍を率いて上洛した際』、翌七『月に西の丸が火災で焼失する事態が起こり、忠世は報をうけた家光の命により寛永寺に退去し、失脚する。徳川御三家からの赦免要請もあり』、同年十二月には『登城が許され』、翌十二年二月に家光が『忠世を面謁』し、五月に『西の丸番に復職』したものの、『老中職からは退けられた』。寛永一三(一六三六)年三月に『大老に任じられたが、まもなく』六十五『歳で没』したとある。静山の示す通り、このシャム国使節団来訪は「寬永三年」「丙寅」(一六二六)年のことで、当時、彼は第三代将軍家光の老中の一人であった。なお、この当時、シャムには山田長政(天正一八(一五九〇)年頃?~ 寛永七(一六三〇)年)がおり、大佐級の軍人になっていたから、この使節団の背後には彼の長政の意図が働いているものとも思われる

「惟〔ふ〕れば」「かんがふれば」(考ふれば)と仮に読んだ。

「明公」高位者への尊称。底本では平出されている上に実は一字下げとなっている。これは最初なので平出と闕字を合わせたものと見ておく。なお、この当時の天皇は後水尾天皇(在位:慶長一六(一六一一)年三月~寛永六(一六二九)年十一月)である。無論、これは形式上で、その「王」の「配下」の事実上の支配者である家光をも暗に示唆する。

「紀綱明肅」で一語で、本邦の政(まつりごと)が道義的に正しく「綱」「紀」「肅」(粛)正(=「明」)されていることを示すものであろう。

「綜理」「総理」に同じで、全体を統合監督して管理処理すること。

「雄鎭」「ゆうちん」。一国を治めるに相応しい雄大なる勢力を有すること。

「藩屛」「はんぺい」。防備のための囲い。「国防」の意であろう。

「金湯」「金城湯池(きんじやうたうち(きんじょうとうち)」の略。「守りが非常に固く、攻めるのが難しい城」の形容から、転じて、「堅固にして他から侵害されることのない勢力範囲」の意。「漢書」の「蒯通(かいとう/かいつう)伝」に基づくもので、「湯池」は「熱湯を張り湛えた堀」のこと。

「萬姓を撫綏し」「ばんせいをぶすいし」。総ての国民を労わり、その生活を安定させ。

「閻閭」「えんりよ」。村里の門や都城内の区画のを指す語であるが、ここは本邦の都鄙或いは巷間の謂いであろう。

「歌頌歡騰す」「かしようくわんとうす」。人民は歌い褒め称え、歓びの声を高らかに挙げている。「鼓腹撃壌」を支配者賛美に変質させたもの。

「素と」「そと」。文字通り、そのままに。

「聞ふ」「きこふ」か。「聴こえてくる」の意か。

「我〔が〕國王普臘來森烈摩倫摩匹普臘勃妥照柔華普臘勃離照古郞席夏陸悃那華釐西啞出毘耶」やはり音を当ててみると、「フラウライシンレツマリンヒツフラウボツダシヤウシヂウクワフラウボツリシヤウコラウシヤク(セキ)カリクコンナクワリサイ(セイ)アシユツヒ(ビ)ヤ」か。シャムではこの年にアユタヤ王国(プラサートトン王朝)第二十七代プラーサートトーン王サンペット五世(一六〇〇年~一六五六年)が王位に就いている。「普臘」はその名に少し似ている感じがする。彼についてはウィキの「プラーサートトーン」を見られたいが、そこには、彼は『同時代にアユタヤ王朝に仕えた日本人傭兵山田長政』(彼はスペイン艦隊の二度に亙るアユタヤ侵攻を孰れも斥けた功績によって先のアユタヤ王朝の国王ソンタム(後述)の信任を得、シャムの王女と結婚し、第三位の官位と王からの賜名を授けられていたほどの高官であった)『と自身の即位をめぐって宮廷内で対立したため、これを左遷した後、密命によって毒殺したとオランダの史料は記している。更に』彼は、『反乱の恐れがあるとして日本人傭兵隊の本拠地と言えるアユタヤ日本人町を焼き払った。この事件以降、日本人勢力はアユタヤ王朝において軍事的・政治的な力を失い、二度と往時の権勢を取り戻すには至らなかった』とある。

「遐邇」遠い所と近い所、遠近。また、遠方も近辺も。後者であろう。

「輳集」「そうしふ」。一つ所に集まり来たること。

「稔知す」そうした認識が長年に亙って積まれてよく知られている。

「信に」「まことに」。

「視ふれば」「うかがふれば」か。比して見させて戴くならば。

「天淵の異なるがごとし」天と地もの違いがあるのと同じである。

「滄溟」「滄海」に同じ。

「參商」「しんしやう」。「參商之隔(しんしょうのへだて)」の略。「參」が現在のオリオン座の「参星」、「商」が蠍座の「商星」で、東西に遠く離れたこの二つの星は、空に同時に現れることはないということから、「距離が非常に離れているために、会う機会がないこと」を指す故事成句となった。別に、夫婦・家族が離別したり、不仲になることの悪い譬えとしても使われ、こちらの方が語源的には先で、古代中国の神話上の帝王嚳(こく:高辛氏とも呼ぶ)の二人の息子は仲が悪くて常に争いをしていたことから、父嚳が互いに遠く離れた参星と商星を掌らせたという伝説に基づくからである。

「耿光」「こうこう」。明瞭にちかちかと光り輝くこと。転じて、堂々として徳にすぐれていること。

「素願を快すること能はず」素懐(普段からの切なる願い)を遂げて心の底から喜ぶことが出来なかった。

「絡繹」「らくえき」。往来が絶え間なく続くこと。

「王音〔、〕頻〔り〕に教へ」本邦の王(この場合は形の上はやはりあくまで「天皇」を意味しつつも、実質上の支配者たる将軍を意識しているものと読まねばなるまい)の名声を頻(しき)りに拝聴して。

「盛使」厳かな正規の使者・使節団。

「籍に」「しきりに」か。

「咸」「みな」(皆)か。

「名〔、〕何ぞ其れ重きや」ここは「その名聞(みょうもの)たるや、どんなにか重いことでありましょうか」という強調形。

「歳の癸亥」「癸亥」(みづのとゐ/キガイ)は元和九(一六二三)年で、この寬永三(一六二六)年の三年前に当たる。但し、この時のシャム王はアユタヤ王国(スコータイ王朝)第二十四代ボーロマトライローカナートソンタム王ボーロマラーチャー一世(一五九〇年~一六二八年十二月十三日)であった。ウィキの「ソンタム」によれば、前君主であった『シーサオワパーク親王』『を処刑し、即位』した人物で、『ビルマとの戦で同士討ちを嫌ったポルトガル人傭兵隊が役に立たなかったところに、当時戦国時代を終えたばかりの日本から渡ってきた、津田又左右衛門を筆頭とする日本人』六百『人を傭兵として雇った。このころ、アユタヤ日本人町は隆盛を極めた』とある。なお、この時の奉書が何月であったか判らないが、この元和九年七月二十七日に家光は伏見城で将軍宣下を受けて、第三代将軍に就任している(満十九歳)

「短札菲儀」孰れも卑称の謙譲語で、「短札」は自身の書状を遜(へりくだ)って言う語、「菲儀」(ひぎ)は「薄謝」(如何にも粗末な礼物)の意。

「貺」音「キヤウ(キョウ)・カウ(コウ)」。「賜」に同じい。

「政」「まつりごと」。

「盟ふ」「ちかふ」(誓ふ)。

「止止」「ただただ」。

「本价」「ほんかい」。「我が方(シャム国)の使者」か。

「口說」「口頭の説明報告」か。

「歉然たる」「けんぜんたる」。「慊然」とも書き、「満足出来ないさま」の意。

「柬埔寨」「カンボジヤ」。カンボジア王国。当時の王政は弱体化しつつあり、ヴェトナムやシャムが侵攻を始めていた。

「逆醜」「逆らう下賤の輩(やから))」の謂いであろう。

「坤納實替悶通事啞烈越直那汪悅」「コンナウジツモン通事アレツエツチヨクナワウヱエツ」「通事」の前が地名か官職か、後が名前か。

「顓〔く〕して」「うやうやしくして」と読んだ。礼を尽くして。

「齎す」「もたらす」。

「仗る」「よる」。「依る」で「頼む」の意。

「情由」「じやういう」。現在、以上で述べたところの現在のシャム国の置かれている事情。

「轉啓」事実上は本書簡の内容意図を天皇に上奏することであろう。言わずもがな、ひいては事実上の実権者たる将軍へ伝えることであるが、或いは、だから天皇に直ちに上「奏」され、その奉書着信の許諾を天皇に認められた上で、次に実務判断を下す将軍へと転送されるという本邦のシステムを存知した上で、「轉」と「啓」(絶対敬語のの「奏」の次位の語)が使われているのかも知れない。

「視ること」「我が国(シャム)を認識されること」の意。

「一國に同〔じ〕」「天皇の支配なさっておられる日本国と同じ天(あめ)の下にある一国として」の意か。

「並びに」同様に。

「間無〔く〕」「お時間をおとらせすることなく」の意か。

「兩平」「隔てなく平等に」の意か。

「濡滯」「じゆたい」。滞ること。遅れること。躊躇って遅れること。「遅滞」に同じ。

「汛に」不詳。「注ぐ」とか「増水」とか「水」に関わる漢字だが、これ、「迅」で「すみやかに」の意ではなかろうか?

「通歸」スムースに交流交易を開始することを指すか。

「鸞采野惇今陞浮哪臘那毘目納斜文低釐」例の如く音で示すと、「ランサイヤトンキンシヨウフ(/ブ)ナラウナビモクナウシヤブンテイリ」か。

「發舟」「出航」か。

「三載」三年。

「囘〔らず〕」「かへらず」。本国に戻って来ていない。

「鼎力」人に依頼や感謝する際に用いて「大いに力を尽くすこと」の意。

「良驥」「驥」は一日にして千里を走る名馬。駿馬。「なんだ、それが欲しかったのか、シャムの王様は」と思うかも知れぬが、ネットで見出し得た数少ない、当時の国外との交易公文書を見ると、本邦は朝鮮にも良驥を贈呈している。本邦が駿馬の産地であることは中国・挑戦・ヴェトナムなどの東アジア一帯によく知れ渡っていたものと思われ、それはまた、シャムでは山田長政を通じて、より詳しく伝えられていたと考えてよいのではあるまいか。

「差〔は〕して」「さしつかはして」。

「來役」「さしあたり来たるところの最初の正式な交易」のことを指すか。

「購買ふ」二字で「あがなふ」と読んだ。

「明公輔佐忠誠〔たり〕」王(天皇→将軍)輔佐役酒井雅楽頭への。

「焉より」「これより」。指示語。

「囘音」「お応え」(応答)か。

「遣歸」「使者を(よい返書を下賜下さって)送り返すこと」か。

「統〔て〕」「すべて」。

「炤亮」「せいりやう(しょうりょう)」。「洞察」の意。

「不宣」「ふせん」。手紙の末尾に記し、「書きたいことを十分に尽くしてはいない」という意を表す謙遜の結語。「不一」「不尽」に同じい。

「孟夏望日」陰暦四月十五日でグレゴリオ暦五月十日である。

「花幔帕肆端」「白絞沙肆端」「帕」の音は「パ」。よく判らぬが、私が最終的に至った推理結果は、これは奉書に添えた贈答品の目録ではあるまいか? 「肆端」は「四反」(したん)の替え字で、「花幔帕」「白絞沙」ともに高級絹織物の名称のように私には見えるのだが? 識者の御教授を乞う。

「奉將す」「奉行」(行ひ奉る)に同じい。

「筦留」「くわんりゆう(かんりゅう)」であるが、よく意味が解らない。「筦」は「司る」の意があるから、「本奉書を気にとどめて相応に処理すること」を指すか。

「按るに」「あんずるに」。

「據に」「よるに」。

「仰を蒙て」「おほせをかうむりて」。

「擧用らるゝ」「あげもちひらるる」。

「與り」「あづかり」。

「吾」「わが」。本邦の。

「猷廟」家光。

「御代嗣」「およつぎ」と訓じておく。

「台廟」秀忠。彼の戒名「台德院殿興蓮社德譽入西大居士」による尊称。

 なお、辻善之助校訂「史料 異國日記(十四)」(立教大学学術リポジトリPDFでダウン・ロード可能)の最後の方に、この文書と大炊頭藤原(土井)利勝(元亀四(一五七三)年~寛永二一(一六四四)年:当時は老中で下総国小見川藩主。徳川家康の母方の従弟(家康の落胤説もある)に当たり、家康・秀忠・家光の三代に亙って老中(最後は大老)職を務め、絶大な権力を誇った)と雅楽頭藤原(酒井)忠世の返書二通(但し、総て白文)が載る。それを見るに、馬は確かに返礼として贈っているように書かれてある。

2019/06/12

春の歌 清白(伊良子清白)

 

春 の 歌

 

みどりいろこき野のすゑを

きよき小川ぞ流れける

きよき小川をきて見れば

れんげの花ぞ流れける

 

流しつ摘みつはるの日を

かれはひねもすあそぶなる

摘みつ流しつはるの日を

かれはひねもすうたふなる

 

   ○

 

ゆめにうぐびすおとづれて

こがねの鈴をならしゝが

うつゝに蛙なきいでゝ

泥の海となしにけり

 

ゆめにこてふの舞ひいでゝ

花の粉雪をふらしゝが

うつゝに蟇のあらはれて

軒の蚊柱すひにけり

 

   ○

 

をとめマリアのあらはれて

千々の寶をたびにけり

ことにすぐれてめでたきは

ちごのおもわのうつくしさ

 

二人のあねは雲にのり

一人のあねは草にたち

みそらの雨にうるほひて

ちごを守ると見えにけり

 

[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年六月十五日発行の『文庫』(第二十三巻第四号)掲載。署名は「清白」。この年、伊良子清白満二十六歳。一月から三月までに、「鬼の語」「花賣」「旅行く人」(孰れも後の詩集「孔雀船」に改作して所収)などの詩を次々に発表し、四月からはシラー・ハイネ・ウーラントなどのドイツ語の詩の翻訳作業に没頭、十一月の発表までを合わせると、二十六篇に及んだ。実生活では、横浜市戸部町から神田三崎町に転居し、『恵まれた文学環境』に至ったと思った最中、『父窮す、の報が』それを『破った』。父『政治の』『負債は総計』五千三百八十『円にのぼっ』ており、伊良子清白は貯えていた『預金の半ば近くを引き下ろし』、父に『送金』するとともに、『歩合制の嘱託医として三重県一帯をまわ』るという事態となった。なお、『この時の旅から、長篇詩』「海の聲山の聲」(この内の一部(「上の卷」内の「一」を独立させたもの)が後の詩集「孔雀船」に「海の聲」と改題改作されて所収された)『が生まれた』。この年の『十二月二十五日、父とともに』和歌山県東牟婁郡の『古座から和歌山市に移り』、父のこれまでの負債『清算と新規開業のために奔走』するという(引用は底本全集年譜に拠る)、波乱があった年でもある。]

甘き木の葉を手に載せて 清白(伊良子清白)

 

甘き木の葉を手に載せて

 

 

   

 

尊き君の手に解れて

よみがへりたるわが戀よ

尊ききみの手にふれて

花に隱るゝわが戀よ

 

尊き君の手に觸れて

形失ふわが戀よ

尊ききみの手にふれて

罪と知りぬるわが戀よ

高き調の悲哀(かなしみ)と

淸きしらべのほこりとを

生れながらにそなへたる

尊き君よこび人よ

 

丈(たけ)にあまれる黑髮を

雙(そう)のかひなにまつはせて

沖の小岩にたゞずめる

尊き君よ戀人よ

 

   

 

夢としいはゞ夢ならむ

あゝ夢よりもさらに夢

月に更けたる松原の

彼方に續く砂原

 

繪を見るごとき海の面に

月の光はかゞやきぬ

きみとふたりが手をとりて

渡らば愛の花咲かむ

 

甘き木の實を手に載せて

行くは夏の夜磯づたひ

高きにさめしわが戀は

再び君と醉(ゑ)ひにけり

 

[やぶちゃん注:明治三五(一九〇二)年九月十五日発行の『文庫』(第二十一巻第二号)掲載。署名は「清白」。]

新綠 清白(伊良子清白) / 河合酔茗との合作(初出形復元)

 

新 綠

 

 

  雜司ケ谷鬼子母神に詣でゝ

 

江戶の面影、並木道

古き榎(えのき)は荒くれて

行く人小さし見上ぐれば

日は勝ち若き葉に透る

 

雜司ケ谷(やつ)の樹の煙

蒸せて汗じむ古衣(ふるごろも)

冬の名殘のありありと

春は目につく薄汚(うすよご)れ

 

羽蟲を避けて木に隱る

都少女のかげ見えて

暮れ行く春の絲遊は

鳩の翼の銀を縫ふ

 

涅槃(ねはん)五千の春の暮

無數の童子(どうし)あらはれて

供養、飛行を見るごとく

みだれみだれて花ぞ散る

 

足蹠(あうら)冷たく僧は過ぎ

瓔珞(やうらく)寂(じやく)に垂るる時

圓(まろ)き桂の繪に擦れて

白毛、拂子空(くう)を飛ぶ

[やぶちゃん注:本最終連三行目の「桂」は「柱」の誤植の可能性が高い。]

 

  晚春鶯賦

 

のぞみ、やはらぎ、悲みの

汝(な)が聲聞けば鶯よ

野邊の若葉の春の暮

「不思議」流るる心地する

 

美しき物人を去り

屬(たぐひ)も低き花鳥(はなどり)に

うつるは何の現象(あらはれ)ぞ

愧づ、われまたも樹を仰ぐ

 

瘦せたる鳥よ永劫に

女の胸は薄からん

嗚呼その聲の持ち主は

愁を語るつとめあり

 

夕の文(あや)は黑牡丹(こくぼたん)

聞くが如し薄墨の

闇を怖れぬ鶯は

靈(れい)なればなりいと高き

 

 

  十二社にて

 

茶汲女、興をたすけんと

他の緋鯉に麩を投げて

掌たゝくものごしの

こゝは都に遠からず

この子都路に家を持ち

母屋に鳩飼ふ過世(すぐせ)ならば

訛語(なまり)にはぢて積藁(つみわら)の

くどのかげにや隱れしを

 

藤山吹に行く春の

よきまらうどを送りても

瑞枝かげさすおばしまに

鏡は出さじふところの

 

聲も若きに鶯の

出ては野邊に捕らるゝを

けなげや君は花の上に

羽づくろひして世にゆかず

 

都少女がさゞめきの

もゝ囀りをよそにして

若葉のかげのさはやかに

襟くつろげて君と語らむ

 

[やぶちゃん注:これは明治三五(一九〇二)年五月十五日発行の『文庫』(第二十巻第三号)掲載。河合酔茗との合作。署名は「清白」。この年、伊良子清白、満二十五歳。三月に横浜海港検疫所が廃止となり、検疫医の任を解かれ、翌四月からは、内国生命保険会社に調査医として勤務した。同時に四月から九月まで、独逸協会学校独逸語専修科に入り、ドイツ語の学び直しを始めた(それが翌年明治三十六年と三十九年に『文庫』に発表されるハイネ・シラー・ウーラントなどの多くの訳詩に発揮されることとなる)。六月十三日から八月五日にかけて、同前の保険診査医として庄内平野の鶴岡・酒田などを拠点として出張旅行をしている。しかし、八月、同職を依願退職し、九月、東京外国語学校本科独逸語学科に入学している。しかし、十月には退職した内国生命から再び嘱託診査医の辞令を受けて復職している(その後の東京外国語学校の学籍等については、参考にしている底本全集年譜には記されていないので不明)。同月、京都医学校より「医学得業士」の称号(旧制専門学校の医学専門学校の卒業生に与えられた称号)が届いている。十月三十日より診査医として信越地方へ十日ほどの出張旅行をしたが、この帰途、秋和に滝沢秋暁を訪ね、既に電子化した、後の詩集「孔雀船」に所収されることとなる「秋和の里」が詠まれた。

 さて、本篇は一部を既に「新綠(雜司ケ谷鬼子母神に詣でて)」「晚春鶯語賦」の注で電子化している。それは、後に伊良子清白が三篇の内、「十二社にて」の前の二篇のみを昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」(全電子化済み)に少し手を入れてそれぞれ独立作として収録していたためである。しかし、ここで問題なのは、この三篇が合作であることである。何故、伊良子清白は最後の「十二社」を同作品集に再録しなかったのかを考えてみると、この詩篇が収録に値せずと彼が考えたとするよりも、この「十二社」のみはその主詠者が酔茗だったから、それを控えたのではなかったか? という推理である。

「十二社」「じうにそう(じゅうにそう)」と読む。東京都新宿区西新宿二丁目にある新宿総鎮守である熊野神社の古名。ウィキの「熊野神社(新宿区)によれば、『当神社は中野長者と呼ばれた室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎によって応永年間』(一三九四年~一四二八年)『に創建されたものと伝えられている』(天文(一五三二年~一五五五年)或いは永禄(一五五八年~一五七〇年)『年間に当地の開拓を行った渡辺興兵衛という人物が祀ったという異説もある)。『鈴木九郎は代々熊野神社の神官を務めた鈴木氏の末裔で、現在の中野坂上から西新宿一帯の開拓や馬の売買などで財を成し、人々から「中野長者」と呼ばれていた。鈴木九郎は当初』、『自身のふるさとである熊野三山の若一王子を祀ったところ、商売が成功し家運が上昇したので』、『後に熊野三山から十二所権現をすべて祀るようになったのが始まりとされている。かつて存在した付近の地名「十二社」(じゅうにそう)はこれに因んでいる。この地名は現在でも通り(十二社通り)や温泉(新宿十二社温泉)の名などに見られる』。『神社境内には大きな滝があり、また隣接して十二社池と呼ばれていた大小ふたつの池があり、江戸時代には付近は江戸近郊の景勝地として知られていた。江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれていた。江戸時代あたりから付近には茶屋や料亭などが立ち並びやがて花街となっていった。最盛期には茶屋や料亭が約』百『軒も並んでいたという。この賑わいは戦前まで続いていた』とあるから、この「茶汲女」というのが腑に落ちる。『その後』、『明治時代に入り名が熊野神社となり、その後神社の滝や十二社池は淀橋浄水場の造成や』、『付近の開拓により姿を消し』、『景勝地としての様相は徐々に見られなくなっていった。しかし、熊野神社はその後』、『付近が日本有数の高層ビル街と変貌した現在でも新宿一帯の守り神として人々から信仰を得ている』。『祭神は櫛御気野大神』(くしみけぬのおほかみ:素戔嗚尊の別名)『・伊邪那美大神』とある。]

龍頭鷁首 清白(伊良子清白)

 

龍頭鷁首

 

 

  天 の 河

 

戀の臺の夢語り

葡萄葉深く露深く

軒端を走る栗鼠の

早きを時に恨みけり

 

椽に亂るゝ四つの袖

ほのめき光る夕つゞは

雲紫の西の方

情の花を照らすかな

 

耻らふらしく繪團扇の

影にかくるゝ戀人よ

涼しき風に端居して

夢見る勿れ星の眸

 

繁りあひたる八重葎

蚊柱たゝぬ庭石に

昔の跡を尋ぬれば

逢瀨久しき愁かな

 

嵐をいたみ雨をわび

若き命を惜しむまに

君とわれとに橫へて

白く流るゝ天の河

 

 

  蠟燭の火

 

暈をかぶれる蠟燭の

てらせる方にかたぶきて

眞白に咲ける山百合の

花の恐をさそふなり

 

巖の室なる壁のへに

のこりてともる火のために

血汐ぞ踴るいかなれば

かくまで弱きわれならん

 

迷の宮をさまざまに

つくりてくづす室の口

風に消えむの火の上に

あやしく惜しき思あり

 

火は消えにけりおどろきて

蘿閉せる巖を攀ぢ

みづからともす蠟燭の

美しき火を樂みぬ

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年九月五日発行の『文庫』(第十八巻第五号)掲載。署名は「清白」。

「龍頭鷁首」読みは「りようとうげきしゆ(りょうとうげきしゅ)・りゅうとうげきしゅ(りゆうとうげきしゆ)・りようとうげきす(りょうとうげきす)」。船首にそれぞれ、竜の頭と鷁(中国の想像上の水鳥。白い大形の鳥で風によく耐えて大空を飛ぶとされた。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷁(げき)〔?〕」を参照されたい)の首とを彫刻した二隻一対の船の呼称。中国由来であるが、本邦でも平安時代に貴族が池や泉水などに浮かべ、管弦の遊びなどをするのに好んで用いた。]

2019/06/11

夏祭 伊良子清白

 

夏 祭

 

雲の峯湧く眞晝中

顔(ぬか)より汗は溢(こぼ)れ出で

高くもうつか腕の脈

かつげや神輿(みこし)練(ね)れや町(まち)

 

胸は廣くも露はれて

聳ゆる肩や怒り肉(じし)

白き埃(ほこり)に塗(まみ)れたる

毛脛(けづね)は集(つど)ひ亂れけり

 

碎けて落つる金(きん)の鈴

亂れ打ちふる神の輿(こし)

心を奪ひ目を奪ひ

町を縱橫(たてよこ)練りて行く

 

出で入る息(いき)は荒立ちて

妻子(つまこ)も知らず家も見ず

太(ふと)き縞(しま)なる浴衣地(ゆかたぢ)の

肌ぬぎすつる男振り

 

汗と膩(あぶら)の眼に入りて

眩(くら)む彼方(かなた)の夏霞(なつがすみ)

咽喉(のんど)の渴(かわ)き鬨(とき)の聲

かつげや神輿(みこし)練れや町(まち)

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年九月五日発行の『明星』(第十五号)掲載。署名は「伊良子清白」。]

水仙の葉 清白

 

水仙の葉

 

むねに開くも花ならむ

むねに凋むも花ならむ

をとめの身にて强からば

さしもいたみを覺えずや

 

人めもはぢよ人の世に

美しきものゝ强かるは

すでにいたみを身にうけて

いまだ癒えぬをしめすなり

 

あらず弱きはをとめなり

水仙の葉のたをやかに

おひいでゝこそ冬空の

高く澄めるを持てるなれ

 

常に瞳はかゞやきて

常に唇しつかなる

をとめのために御空より

濃き甘露(あまつゆ)はくだるなり

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年八月十五日発行の『文庫』(第十八巻第二号)掲載。署名は「清白」。なお、底本全集の「著作年表」に載るデータでは、同じ明治三四(一九〇一)年八月の先立つ一日に発行された『明星』(第十五号)の「郭公の歌」で彼は「伊良子清白」の署名を初めて使用している。また、古巣の『文庫』誌では、彼がこの「清白」署名を用いた最初の作品となった。]

朝みだれ すゞ(伊良子清白)

 

朝みだれ

 

鐘よりつゞく鳥の聲

聞くや朝日の影はれて

君を夢みしあかつきは

人目忍びてくしけづる

振分髮の朝みだれ

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年五月二十五日発行の『東海文學』(第一巻第五号)掲載。署名は単に「すゞ」。]

冨士椿 すゞしろのや(伊良子清白)

 

冨 士 椿

 (旅にて)

 

一ゆりゆれて南に

くづるゝ山や足柄の

果にあたりて箱根山

春の霞に歷史あり

 

はたけはたけの燒岩の

蛇紋の渦や麥五寸

それよ嶮はしき坂路に

つかれて下る廣野原

 

椿まづしき赤鳥居

鳩は噴火の夢をよぶ

葉がくれ落つる花の名に

强て名づくる富士つばき

 

市女小笠のま深にて

海道百里の花さかり

恩賜の琵琶を抱き行く

落人あらばふさはしき

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年四月十五日発行の『東海文學』(第一巻第四号)掲載。署名は「すゞしろのや」。底本全集著作年表では伊良子清白が「すゞしろのや」と署名する最後の作品である(次の「朝みだれ」は単に「すゞ」)。]

薔薇の毒 すゞしろのや(伊良子清白)

 

薔薇の毒

 

美の神々のみ手よりそ

こぼれおちたる白露の

凝りて成りたるをとめゆゑ

そのこのはだはきよくして

かりの疵さへあらざりき

 

一日うらゝに空はれて

やわらかにふく春の風

小草ふみわけをとめごは

うばら匂へる野の奧の

花の園生にきたりけり

 

千本の花の園生には

あかきのみこそさきにけれ

あかきうばらは野の風も

やへのかすみもおくつゆも

みなくれなゐにそめにけり

 

にほへる花の一枝を

をらんとすればあやにくの

刺はするどくをとめごの

たまの小指をきづつけて

血汐はきぬにしたゝりぬ

 

うまれてしより人の身の

血を見しことのあらざれば

またくうばらのくれないの

毒にそまりてあしざまに

指はいたむとおもひけり

 

年へてをとめうつぐしき

國のクヰーンとなりけるが

はじめておきし掟には

あかきうばらはとこしへに

うゝるなかれとかゝれけり

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年二月十二日発行の『東海文學』(第一巻第三号)掲載。署名は「すゞしろのや」。

「美の神々のみ手よりそ」の「そ」、「年へてをとめうつぐしき」の「ぐ」はママ。]

 

短篇一章 すゞしろのや(伊良子清白)

 

短篇一章

 

筆筒孔雀の尾羽(をば)を拔きて

弄(ろう)ずる紅顏(こうぐわん)君の爲に

興(きよう)ある傳奇(でんき)講(かう)じ行けば

梅花(ばいくわ)机頭(きとう)の席(せき)に點(てん)ず

 

氷踏みて藪の前に

橇引く群の後(あと)な追ひそ

裾長紫地に觸るゝを

女人(によにん)と嘲る童子(どうじ)あらん

 

藏(くら)の小窓(こまど)に獨り凭(もた)れ

柔(やら)かき髮を柱に垂れて

春の午(ご)葉を卷き笛に啣めば

囀(てん)ずる鶯律(りつ)を補ふ

 

名門(めいもん)の子氏(うぢ)を憚り

野路(のぢ)の末の蓬(よもぎ)に隱れ

時俟つ身と知らず

技藝(ぎげい)の園(その)に落ちんとす

 

[やぶちゃん注:明治三四(一九〇一)年一月一日発行の『國文學』(第二十五号)掲載(雑誌書誌不詳。底本全集の「著作年表」にはこの誌名と号数の後に『「初日影」』とあるが、これは新年号の謂いか? よく判らぬ)。署名は「すゞしろのや」。

「啣めば」「ふくめば」。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(34) 「池月・磨墨・太夫黑」(1)

 

《原文》

池月・磨墨・太夫黑   名馬池月ハ陸奧七戶立ノ馬ニテ鹿笛(シヽブエ)ヲ金燒ニ當テタル五歲ノ駒云々ト云フコトハ、口拍子ニモ言ヒ馴レタル盛衰記ノ本文ナルニ、妙ニ諸國ニ其出生地ト名乘ル處多シ。今試ミニ其數箇例ヲ擧ゲンカ。奧州三戶ニ在リテハ池月ハ名久井嶽(ナグヰダケ)ノ麓ノ牧住谷野(スミヤノ)ニ於テ生ルト云フ。【龍住ム池】嶽ノ頂ニ池アリ、龍アリ之ニ潛ミ住ム。一夜月明ニ乘ジテ牧ノ駒登リテ其水ヲ飮ミ忽チニ駿馬トナル。仍テ池月ト名ヅク云々〔糠部五郡小史〕。此說ハ最モ古記ノ所傳ニ近キガ如キモ、其由來ニ傳說ノ香高キノミナラズ、磨墨太夫黑スべテ同ジ牧ノ產ナリト稱スルガ如キ、寧ロ比較ヲ怠リタル地方學者ノ輕信ナリ。【月山權現】是レ恐クハ山ニ月山權現ヲ勸請セシ後ノ話ニシテ、池ト云ヒ名馬ト云フガ爲ニ乃チ池月ノ名ヲ推定セシナランノミ。羽後仙北郡南楢岡村大字木直(キツキ)ニテハ、池月ハ彼地ニ生レタリト云ヘリ。木直ハ古クハ木月ト書キ又七寸(シチキ)トモ唱フ。池月生レ落チテ其長四尺七寸(ヨサカナヽキ)アリシ故トモ云ヒ、又木月ハ「イキツキ」ノ上略ナリトモ說明シタリ〔月乃出羽路〕。此村ニ就キテハ後ニ猶一ツノ話アリ。同國飽海郡日向(ニチカウ)村大字下黑川ニ於テハ、池月ハ此村ノ百姓與平ナル者ノ先祖ガ獻上スル所ト稱ス。【池】村ニ一處ノ古池アリ。往昔此池ヨリ龍馬出デテ嘶キ、與平ガ家ノ牝馬之ニ感ジテ池月ヲ產ムト云フ。【馬塚】其母馬ノ塚ハ今モ此地ニ殘レリ〔三郡雜記上〕。羽前南村山郡西鄕村大字石曾根モ亦同ジ名馬ノ故鄕ナリト傳ヘラル。此村ノ地以前ハ大ナル沼ニシテ龍蛇之ニ住ス。池月ハ則チ之ヲ父トシテ生レシナリ。【駒ケ池】其後沼ノ水次第ニ乾キ、今ハ小サキ池トナリテ名ノミ昔ノ駒ケ池ト呼ブト云フ〔山形縣地誌提要〕。岩代河沼郡ノ谷地(ヤチ)ト云フ村ニモ之ト似タル傳說アリキ。【四十八沼】村ノ羽黑神社ノ境内ニ古クハ四十八箇ノ沼アリ。【竈】其最モ大ナルヲ親沼又ハ竈沼ト云フ。竈沼ノ主ハ則チ月毛ノ駒ニシテ、名馬池月ハ其子ナリ。此因緣ヲ以テ近世マデモ此邊ニ牝馬ヲ放牧スレバ往々駿馬ヲ得ルコトアリト信ゼラル〔新編會津風土記〕。越後西蒲原郡岩室村大字樋曾(ヒソ)モ亦池月ノ生レタル地ト稱ス〔越後名寄三十一〕。即チ彌彥山ノ麓ナリ。彌彥ノ神ハ或ハ特ニ駒形ト緣故多キ神ナリシカ、此山ノ北麓ノ米水浦ニモ竃窟ト云フ洞アリテ靈泉湧出ス〔地名辭書〕。【島ノ牧】能登鹿島郡中之島村大字向田(カウダ)ト云フ村ノ池ニ、昔一頭ノ馬ノ牧ヨリ出デ來タリテ住スルアリ。之ヲ此村ノ彌彥神社ノ神馬ニ獻ジタリシヲ、比類無キ名馬ナルコト世ニ聞エテ終ニ鎌倉殿ニ之ヲ奉ル。其折ノ賴朝公ノ下文及ビ梶原ガ添狀、共ニ判形アル者ヲ村ニ傳フルガ何ヨリノ證據ナリ。馬ノ名ヲ池好(イケズキ)ト呼ビシモ、全ク常ニ水邊ヲ愛シテ住ミシ爲ナリト云フ〔能登國名跡志〕。而シテ此地ハ疑モ無ク古代ノ島ノ牧ナリ。

 

《訓読》

池月・磨墨・太夫黑(たいふぐろ)   名馬池月は陸奧七戶立(しちのへだち)の馬にて、鹿笛(しゝぶえ)を金燒(かなやき)[やぶちゃん注:焼印。]に當てたる五歲の駒云々と云ふことは、口拍子にも言ひ馴れたる「盛衰記」の本文なるに、妙に諸國に其の出生地と名乘る處、多し。今、試みに其の數箇例を擧げんか。奧州三戶に在りては、池月は名久井嶽(なぐゐだけ)の麓の牧、住谷野(すみやの)に於いて生まると云ふ。【龍住む池】嶽の頂きに池あり、龍あり、之(ここ)に潛み住む。一夜、月明に乘じて、牧の駒、登りて、其の水を飮み、忽ちに駿馬となる。仍(よ)つて「池月」と名づく云々〔「糠部(ぬかべ)五郡小史」〕。此の說は、最も古記の所傳に近きがごときも、其の由來に、傳說の香(か)、高きのみならず、磨墨・太夫黑、すべて、同じ牧の產なりと稱するがごとき、寧ろ、比較を怠りたる地方學者の輕信なり。【月山權現】是れ、恐らくは、山に月山權現を勸請せし後の話にして、池と云ひ、名馬と云ふが爲めに、乃(すなは)ち、池月の名を推定せしならんのみ。羽後仙北郡南楢岡村大字木直(きつき)にては、池月は彼の地に生れたりと云へり。木直は古くは「木月」と書き、又、「七寸(しちき)」とも唱ふ。池月、生れ落ちて、其の長(たけ)四尺七寸(よさかなゝき)ありし故とも云ひ、又、木月は「いきつき」の上略なりとも說明したり〔「月乃出羽路」〕。此の村に就きては、後に、猶ほ一つの話あり。同國飽海(あくみ)郡日向(にちかう)村大字下黑川に於いては、池月は此の村の百姓與平なる者の先祖が獻上する所と稱す。【池】村に一處の古池あり。往昔、此の池より龍馬出でて、嘶き、與平が家の牝馬、之れに感じて、池月を產むと云ふ。【馬塚】其の母馬の塚は今も此の地に殘れり〔「三郡雜記」上〕。羽前南村山郡西鄕村大字石曾根も亦、同じ名馬の故鄕なりと傳へらる。此の村の地、以前は大なる沼にして、龍蛇、之(ここ)に住す。池月は、則ち、之れを父として生れしなり。【駒ケ池】其の後、沼の水、次第に乾き、今は小さき池となりて、名のみ、昔の「駒ケ池」と呼ぶと云ふ〔「山形縣地誌提要」〕。岩代河沼(かはぬま)郡の谷地(やち)と云ふ村にも、之れと似たる傳說ありき。【四十八沼】村の羽黑神社の境内に古くは四十八箇の沼あり。【竈】其の最も大なるを「親沼」又は「竈沼(かまどぬま)」と云ふ。「竈沼」の主(ぬし)は、則ち、月毛の駒にして、名馬池月は其の子なり。此の因緣を以つて、近世までも此邊に牝馬を放牧すれば、往々、駿馬を得ることありと信ぜらる〔「新編會津風土記」〕。越後西蒲原郡岩室村大字樋曾(ひそ)も亦、池月の生れたる地と稱す〔「越後名寄」三十一〕。即ち、彌彥山(やひこさん)の麓なり。彌彥の神は、或いは特に駒形と緣故多き神なりしか、此の山の北麓の米水浦(よねみづうら)にも「竃窟(かまどのいはや)」と云ふ洞ありて、靈泉、湧出す〔「地名辭書」〕。【島の牧】能登鹿島郡中之島村大字向田(かうだ)と云ふ村の池に、昔、一頭の馬の、牧より出で來たりて住するあり。之れを、此の村の彌彥神社の神馬に獻じたりしを、比類無き名馬なること、世に聞えて、終(つひ)に鎌倉殿に之れを奉る。其の折りの賴朝公の下文(くだしぶみ)及び梶原が添へ狀、共に判形(はんぎやう)ある者を村に傳ふるが、何よりの證據なり。馬の名を「池好(いけずき)」と呼びしも、全く常に水邊を愛して住みし爲めなりと云ふ〔「能登國名跡志」〕。而して此の地は、疑ひも無く古代の「島の牧」なり。

[やぶちゃん注:「七戶立(しちのへち)」青森県上北郡七戸町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)はここ。これは「戸立(へだち)馬」のことで奥州最大の駿馬の産地であった糠部郡(ぬかのぶのこおり:現在の岩手県と青森県に跨る)の「戸(へ)」のつく名馬産地の産であることを示す一種のブランド的呼称で、鎌倉時代前期には既に知られていた。

「鹿笛(しゝぶえ)」猟師が鹿を誘(おび)き寄せるために吹く、鹿の鳴き声に似せた笛。本邦のそれは、竹や鹿の角に、鹿の胎児の皮や蟇蛙の皮を張って作った。

『「盛衰記」の本文』「源平盛衰記」(わたしは「じょうすいき」と読むことにしている)の巻第三十四」の「東國兵馬の汰(さた)並びに佐々木、生唼(いけずき)を賜ふ」「事」の一節。引用は示さない。何故なら、「日本文学電子図書館」(J-TEXT)の国民文庫版を加工用に用いたものの、私が多量に字を推定で規定し、読み易く勝手に推定で訓じたものだからである(私は「源平盛衰記」は前半分の活字本しか持っていない)。これは書誌学的に正規表現の原文ではないので、引用は避けられたいである。

   *

[やぶちゃん注:前略。]此中に佐々木、梶原、馬に事をぞ闕たりける。折節、祕蔵御馬三匹也。生唼・磨墨・若白毛とぞ申しける。陸奥國三戶立(さんんへだち)の馬、秀衡が子に元能冠者が進めたるなり。太く逞(たくま)しきが、尾髮、あくまで足りたり。此の馬、鼻、强くして、人を釣りければ、異名には「町君」と付けられたり。生唼とは黑栗毛の馬、高さ八寸、太く逞しきが、尾の前、ちと白かりけり。當時五歲、猶もいでくべき馬也。是も陸奥國七戶立の馬、鹿笛を金燒きにあてたれば、少も紛るべくもなし。馬をも人をも食ひければ生唼と名たり。梶原源太景季、佐殿の御前に參りて、

「君も御存知ある御事に候へども、弓矢取る身の敵に向ふ習ひは、能き馬に過ぎたる事なし。健馬に乘りぬれば、大河をも渡し、巖石をも落とし、蒐(あつむ)るも引くも、たやすかるべし。力は樊噲(はんくわい)、張良が如くつよく、心は將門、純友が如くに猛けれども、乘りたる馬、弱ければ、自然の犬死をもし、永き恥をも見事に侍り。されば生唼を下し預りて、今度(このたび)、宇治河の先陣、つとめて、木曾殿を傾け奉り候ばや。」

と、傍若無人に、憚る所なく、申したり。

 佐殿、良(やや)案じ給けるは、

『我、土肥の杉山に、七人、隱れ居(ゐ)たりしに、梶原に助けられて、今、世に出づる事も、忘れ難き思ひなり、賜らばや。』

と思し召しけるが、又、案じて、

『蒲冠者も人してこそ所望申しつれ、景季が推參の所望、頗る狼藉なり。又、是れ程の大事に、馬に事闕(ことか)きたりと申すを、たばでも如何(いかが)有るべき。』

と、左右(さう)を案じて宣(のたま)ひけるは、

「景季、慥(まこと)に承れ。此の馬をば、大名小名・八箇國の者ども、内外につけて、所望ありき。就中(なかんづ)く大將軍に差し遣はす蒲冠者が、『ひらに罷(まか)り預らん』と云ひき。然(しか)れども、源平の合戰、未だ落ち居ず、木曾追討の爲めに東國の軍兵、大旨(おほむね)、上洛す。知んぬ、平家と木曾と一つに成りて大きなる騷ぎと成さなば、賴朝も打ち上ぼらん時は、馬なくても、いかゞはせん、其の時の料(れう)にと思ひて、誰々(たれたれ)にも給はざりき。是れは、生唼にも相ひ劣らず。」

とて、磨墨を、たびにけり。景季は生唼をこそ給らねども、磨墨、誠に逸物なりければ、咲(ゑ)みを含み、畏(かしこ)まつて罷り出づ。黑漆しの鞍を置き、舍人(とねり)、餘多(あまた)付けて、氣色(けしき)してこそ引かせたれ。

   *

「名久井嶽(なぐゐだけ)の麓の牧住谷野(すみやの)」中世、南部氏がより馬産供給に応えるために形成した「南部九牧」の一つ「住谷野牧」で青森県三戸郡の旧名久井村、現在の青森県三戸郡南部町にあった(リンク先は「歴史的行政区域データセット」の同村。グーグル・マップ・データではこの南北一帯)。「南部九牧」は他に「北野牧」(現在の岩手県九戸郡洋野町大野附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)・「三崎牧」(青森県九戸郡野田村)・「相内牧」(青森県三戸郡南部町相内)・「又重牧」(青森県三戸郡五戸町倉石又重及び五戸町等)・「木崎牧」(青森県三沢市及びその南の上北郡おいらせ町百石地区)・「蟻戸牧」(青森県上北郡野辺地町)」・「大間牧(青森県下北郡大間町)」・「奥戸牧(同大間町奥戸)」。

「地方學者」近世以前の研究者を指す。

「羽後仙北郡南楢岡村大字木直(きつき)」現在の秋田県大仙市南外(なんがい)木直沢(きじきざわ)附近かと思われる。

「七寸(しちき)」馬の丈(脚の先から肩までの高さ)を指す語を地名に転用したもの。因みに、以前に述べた通り、国産馬の標準は四尺(一・二一メートル)が「一寸(き)」であるから、「七寸」は一メートル四十二センチメートルとなり、「四尺七寸」は国産馬では有意に異常に大きい。

「飽海(あくみ)郡日向(にちかう)村大字下黑川」山形県酒田市下黒川

「羽前南村山郡西鄕村大字石曾根」山形県上山(かみのやま)市石曽根

「岩代河沼(かはぬま)郡の谷地(やち)と云ふ村」福島県河沼郡会津坂下町(あいずばんげまち)三谷谷地(みたにやち)である(実際には三谷と谷地は別地名であるが、合わせた地名も通用している模様である)。捜すのに手間取ったが、「新編會津風土記」の巻之八十九の「河沼群之四」「靑津組」の「靑津組二十六箇村」の中に「谷地(ヤチ)村」があり、その「谷地村」の当該箇所(次の頁に跨り、「羽黑神社」の記載有り)の前書部分の鶴ヶ城からの距離、隣接する地名から推理した結果、ここに到ることが出来た。問題はグーグル・マップ・データではその羽黒神社が見当たらないことであった。しかし、この現行の「谷地」の地名が記された南直近には「馬洗場」、西直近には「山ノ神」という柳田國男が喜びそうな地名が残っていることが、まず判った。そうして谷地の東の三谷地区に「廣瀬神社」というのがあり、最も直近であるのだ、調べてみても、ここが旧羽黒神社であった痕跡はなかった。しかし、どうも無視出来ない。何故なら、この廣瀬神社の位置は現在の谷地地区の南西に当たり、「新編會津風土記」の「羽黑神社」の記載の、「未申ノ二町五十間ニアリ」(二百二十七メートル)に一致するからであった。私はこの神社こそがこの「羽黑神社」なのではないかと思う。そこには「祭神保食神ナリ」(うけもちのかみ)とあるから、現在或いは嘗つてこの廣瀬神社の祭神が保食神であった事実が判れば、と期待したのだが、ネットでは祭神は判らなかった。ところが、ランダムに検索を掛けてゆくうちに、個人サイトと思しい「会津名水紀行」のこちらに、会津坂下町の「広瀬神社目薬沼(ひろせじんじゃめぐすりぬま)」というのを発見、そこに『坂下町から塩川方面へ車で走ると、田んぼの中、右側にうっそうとした杜が見えてきます。その杜に囲まれるように広瀬神社があり』(これはグーグル・マップ・データを航空写真に換えると、まさにその通りであることが判る)、『いくつかの沼が神沼として点在しています』。『目薬沼とは広瀬神社神沼の一つで、他に親沼、竈沼などの名があります。眼疾に効能があるといわれており、当村はもとより青木、青津村の養水となり、古くより地方開発の水利の神としても祭られています』とあったのだ! 則ち、やっぱり「羽黑神社」は現在の廣瀬神社なのだ! しかも、柳田國男の叙述では、もう沼は全部なくなっちまったように読めたのだが、まだ、ちゃんと幾つか残っているんだ! これで決まり! 気持ちいいゾ!!!

「四十八沼」これは各地に認められる名数で、言わずもがな、「阿弥陀如来の四十八願」に掛けたものである。

「越後西蒲原郡岩室村大字樋曾(ひそ)」新潟市西蒲(にしかん)区岩室村樋曽。「彌彥山(やひこさん)」の北北東四キロメートル弱の山間部。

「米水浦(よねみづうら)」吉田東伍著の明治四〇(一九〇七)年冨山房刊の「大日本地名辭書」を調べたところ、ここにあった(左ページ上段中ほどから中段)。その記載から、弥彦山の東方直下の海岸、現在の新潟県長岡市寺泊野積であることが判明した。しかも同海岸の北には「竃窟(かまどのいはや)」=「男釜・女釜」(上記記載を見よ)という名勝として今もある。但し、「大日本地名辭書」の記載によると、海食洞であったが、記載時には既に一つは崩落して洞を呈していないとある。

「能登鹿島郡中之島村大字向田(かうだ)」石川県七尾市能登島向田町(のとじまこうだまち)であろう。次に国土地理院図を見てもらおう。すると、向田町の北西の突き出た半島があるが、此の尖端の地名を見ると、「牧鼻」とあるのが判る。「牧」だ。「でも、向田町じゃなくて、少なくとも今は能登島曲(まがり)町でしょう?」と返すかね? ではもう一度、グーグル・マップ・データに戻ってもらおう。そこでこの半島の中央にある「能登島家族旅行村Weランド」をクリックするぞ! どう? 住所は? 「あれ? 石川県七尾市能登島向田町になってるぞ? これってグーグル・マップ・データの間違いじゃないの?」ってか? それじゃ、同施設の公式サイトの「アクセス」を見て貰おうか。どうよ? 住所のところに「石川県七尾市能登島向田町牧山」て書いてあるだろ。そこで国土地理院をよ~く見てもらうと、「牧鼻」からこの附近にかけて、点線が引かれてあるのが判るんだ。則ち、この半島の先端部の東北の半分の一帯が、向田町の飛び地になっていることが判るんだ。その理由は古い時代の取り決めか、近現代の地権者の問題なのか何かは、私は知らない。しかし、地名をごろうじろ! 「鼻」に「山」なんだ。考えてみりゃ、島に馬の牧場を設置するのは、海が自然のテキサス・ゲートとなって、馬の脱出の心配をする必要が一切いらないから、理に叶っているじゃないか!

「彌彥神社」これをぼんやりと読んでしまい、さっき出てきた、越後平野西部の弥彦山(標高六百三十四メートル)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る彌彦神社(いやひこじんじゃ:住所は新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦。ウィキの「彌彦神社」によれば、『正式には「いやひこ」だが、神体山とする弥彦山など』、『関連する地名が全て「やひこ」と読む関係で、一般には「やひこ」とも呼ばれる』とある。「万葉集」にも『歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信(輝虎)などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている』とあり、ここが馬と関わるところの武人らとの関係が深い神社であることは言い添えておく)と勘違いしてはいけない! よく読んで! 柳田國男は「之れを、此の村の彌神社の神馬に獻じたりし」と言ってるんだ。「此の村」ってえのはこの能登島の旧向田村のことなんさ! 「そんな神社、ないよ?」ってか? ほれほれ! 石川県七尾市能登島向田町のここをご覧な! 「伊夜比咩神社」があるやろ、これ、「いやひめじんじゃ」や! 柳田が言っているのはこれやで!

「其の折りの賴朝公の下文(くだしぶみ)及び梶原が添へ狀、共に判形(はんぎやう)ある者を村に傳ふ」鎌倉フリークの私としては、現存するならば是非、見たいものだ。

「古代の島の牧」中世、能登島には伊勢神宮領の「能登島御厨(のとじまのみくり(や))」(「御厨」は神饌の調進をする場所)や荘園が置かれていた。そもそもが「向田」とは、この伊勢神宮御厨としての「神田(こうだ)」から「向田」となったのである。ここに古代の馬の牧があったという記載は遂に調べ得なかったが、神饌には神馬も当然含まれるわけで、ここに古代に「能登島の牧」があったとしても何ら不思議ではないと私は思う。その証拠に「牧」を附した地名があるとも言えるのではないか?

2019/06/10

靈泉 すゞしろのや(伊良子清白)

 

靈 泉

 

河上よどむ岩が根の

水に浸りて山芹の

白き根にこそ氷りたれ

まだ雪ふらぬ岨の松

 

鳥の落羽と松の葉と

まじりてたまる河の隈

山の奧にもあたゝかき

玉の泉の湧きいづる

 

箭に傷きし山鳩も

ぬらさば癒えむ靈泉の

わくとも知らで山賤の

妹脊は冬を迎へけり

 

小さき泉のおとなれば

松の風にやまぎれけむ

やがてうまれんうましごの

幸をのみこそ祈りけれ

 

のぼる朝日を身にうけて

女の兒は山にうまれけり

產湯くまむとおりくれば

氷りて白き谷の水

 

まつの木陰におとありて

ほそきけぶりはあがりたり

くしき泉の巖村や

湯の香ぞ深き冬霞

 

髮を洗へば髮のいろ

面に灌げばおものはえ

玉の泉淨めたる

そのこは光はなちけり

山路のすゑにさまよひて

冬をさびしととくなかれ

泉と人のゑにしには

美しきこのうまれたり

 

[やぶちゃん注:ここより底本の明治三四(一九〇一)年パート。明治三四(一九〇一)年一月一日発行の『新潮』(第二年第一号)掲載。署名は「すゞしろのや」。この年で伊良子清白満二十四歳。一月、日本赤十字社病院を辞し、横浜海港検疫所検疫医員と横浜慈恵病院勤務を兼ねた生活が九月まで続いた。十月から十二月まで、北里伝染病研究所に於いて細菌学の講義を受講している。]

冬の水車場 すゞしろのや(伊良子清白)

 

冬の水車場

 

冬は來にけり水車場の

木立は枯れて霜柱

立つや宵々小狐の

來ては粉糠をぬすみ去る

 

苔むす杭に折かゝる

葦の枯葉に行く水の

水は朝に瘦せゆけど

からから車は廻りけり

 

廻れよ車汝が爲めに

主の身上も太らねば

米つく臼も太らねば

くるりくるりと廻れとぞ

 

藁屋の軒にうづくまる

里の小砂の山をつき

雀は低く下りなれて

小舍のひゞきに驚かず

 

古びし蜂の巢はあれど

恐れな子供病葉の

朽ちて重なる軒の梁

敵の甲は上にあり

 

いづれ土性、火性でも

水性でもなし畠に來て

麥蒔き了へし夕ぐれを

彼は聲なく歸るなり

 

鶴を放たばふさはしき

岸の並木の中にして

一本楡の木高きを

この小字の名にもせり

 

右せば里に出づるべく

左りは山と敎へたる

標の石の倒れしを

小舍の主は忘れたり

 

冬は來にけり倒れたる

石を忘るゝ冬は來て

今年も村にゆとりなく

橋はかゝらで暮るゝらん

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年十二月十五日発行の『東海文學』(第一巻第二号)掲載。署名は「すゞしろのや」。]

噴火の後日 すゞしろのや(伊良子清白)

 

噴火の後日

 (數篇中一篇を揭ぐ)

 

石垣壞(くづ)れて立木を損じ

兒等喜悅(よろこび)の柿皆折れて

灰降り濁れる庭の池に

小手を拍(たゝ)けど鯉は寄らず

 

村人誰彼門(もん)に迫りて

米庫(こめぐら)開くを切(せつ)に乞へば

明日は戸の前蓆(むしろ)を布きて

施米(せまい)の料(りやう)の俵(たわら)を積まむ

 

岩屑落ちたる道を踏みて

木戶より山の燒を望めば

また地震(なゐ)震り來て鎭守の楠(くす)の

上に焰は强く上りぬ

 

竹の林の小家(こいへ)の中(なか)は

諸人(もろびと)互(たがひ)に肘を摩(す)りて

狹莚(さむしろ)一枚(ひとひら)席(せき)を學び

暗きを責むるか汚く罵(そし)る

 

白髮(しらが)の媼珠數を繰りて

佛名(みな)を唱ふる殊勝なれど

落ち行く夕日を朝日と誤り

物の笑の種を蒔きぬ

 

恐怖(おそれ)に人の性(さか)を損ひ

鍬硏ぎ鎌揮る勤を厭へば

教へ導く術(すべ)も盡きて

われ村長(むらをさ)の德は至らず

 

山燒焰しばし歇みて

野の色黃ばめば左右(さう)雲分れ

夕の空は步(ふ)の星屑の

領ずる境に限を見せぬ

 

大(だい)なる天地(てんち)の力を信じ

常の理及ばぬ微妙と知らば

自然の變轉旋るを俟ちて

我(われ)他(ひと)榮(さかえ)の時は到らん

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年十一月二十三日発行の『新潮』(第四号)掲載。署名は「すゞしろのや」。現行の『新潮』(明治三七(一九〇四)年五月創刊)とは無関係。「料(りやう)」「俵(たわら)」「性(さか)」のルビはママ。意識的にルビを振っているのに、この歴史的仮名遣の誤りは異常。しかもこの一篇、今までの伊良子清白の詩篇に比して、有意に確信犯で韻律を崩そうとしているかのようにも思われる。最終二連の奇妙な事前哲学的叙述は、どうも私には言葉がいい加減に滑っているようで気に入らない。

「步(ふ)の星屑の」「領ずる境に限を見せぬ」よく判らない謂いだが、「步」には「天体の運行を推し量る」の意があるから、「雲の裂け目に見えている夜空の星くずの動きを司ってるところのその天界の力」に対して火山の自然力は自ずとその限界を見せていた、とでも言うのであろうか。]

自然は人に近づきて すゞしろのや(伊良子清白)

 

自然は人に近づきて

 

自然は人に近づきて

握手の時を與へけり

破れたる窓に飛び來るは

小鳥にあらぬ木の葉なり。

 

木の葉を拂ふこと勿れ

蝴蝶の墓も草花の

少さき枕も其中に

葬り隱す庭の土。

 

かの美しきと盛なると

亡ぼして後冬の日は

若き命の新しき

聲と色とをもたらせり。

 

八つ手の花の散るところ

南天の實は赤らみて

庭石傳ひいとけなき

冬は笑ひて來りけり。

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年十一月三日発行の『文星』(第四号)掲載。署名は「すゞしろのや」。この雑誌は、恐らく、この年の五月に四海堂から創刊された投稿雑誌と思われる。参照したサイト「大宅壮一文庫」の「創刊号コレクション明治収録雑誌一覧」によれば、社会・学界・詩学・美学・『時流文芸などを募集。投稿作品には文末に寸評を付して掲載』したとある。

「蝴蝶」蝶の美称である「胡蝶」に同じ。

「葬り」「はうふり」。

「かの美しきと盛なると」音数律から「かのくはしきとせいなると」と読んでおく。]

一ふし すゞしろのや(伊良子清白) / 河合酔茗・橫瀬夜雨との合作

 

一 ふ し

 

あやひも赤き加賀笠の

やがては嫁となる君も

あたらま白きたな首に

蛭藻からまる苗代や

 

七つ下りの杜のうへ

橫目を受けて卷帶の

植つかれては泥ながら

けしぎ休むる土手の芝

 

ほのめき出る明星の

光は水にあはけれど

苗をな投げそ苗投げて

飛沫も袖にかゝるもの

 

肩上ほそき撫肩や

膝にはつせば紅梅の

うつろひ易き染色を

謎にはかけぬあや襷

 

誰が戀さそふ橫笛か

背戶に吹なす音をきゝて

寐覺の夜半の木枕に

わりなき泪ながしたる

 

小窓の機に帶織りて

許せし人にくれしより

うき名そしげき藪のかげ

顏を袂におほひけり

 

夢はづかしき此ごろの

思を人にさとられて

うたになろともまゝよ只

なき名にあらぬ戀なれば

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年十月十日発行の『關西文學』(第二十九号)掲載。であるが、河合酔茗・橫瀬夜雨との合作。署名は「すゞしろのや」。

「加賀笠」加賀菅笠。加賀国(石川県南部)から産出する菅笠。天和年間(一六八一年~一六八四年)の頃から流行したとされ、町家の女房や尼僧などが用いた。色が白く、糸縫いが細かくしてあり、恰好がよく、上物とされた。

「たな首」手首。

「蛭藻」「ひるも」であるが「蛭」と「藻」では気持悪過ぎ。ここは単子葉植物綱オモダカ亜綱オモダカ目ヒルムシロ科ヒルムシロ属ヒルムシロ Potamogeton distinctus 或いは同属の仲間の異名であろう。ウィキの「ヒルムシロ」によれば、『浮葉性の水草で』、『また、ヒルムシロ属の種のうち、浮葉を展開するものの総称でもある』。『楕円形の葉を水面に浮かせる。穏やかな流水条件化で生育することもあり、細長い浮き葉の形はそれへの適応かとも見えるが、池などの止水にもよく出現する』。『地下茎は泥の中にあって横に這い、水中に茎を伸ばす。茎には節があり、節ごとに葉をつける。葉は互生するが、花序のつく部分では対生することもある』。『水中では水中葉を出す。水中葉は細長く、薄くて波打っている。次第に茎が水面に近づくと浮き葉を出し始める。浮き葉は細長い柄を持ち、葉身は楕円形で長さ』五~十センチメートルで、『幅』は二~四センチメートルほど。『先はやや』、『とがる。表側はつやがあって水をはじくが、ハスほどではない。葉はやや赤みを帯び、表側は黒っぽく、裏側は赤っぽく見える』。『花は夏以降に出る。葉腋からやや長い柄が出て、先端に棒状の花穂がつく。開花時には穂は水面から出て直立するが、花が終わると』、『横向きになって水中に入る』。『秋になると茎の先は膨らんで芋状になり、越冬芽を形成する』。『池や用水路で普通にみられるが、水田周辺からはほとんど消失した』。『日本では北海道から琉球列島まで、国外では朝鮮半島から中国、ミャンマーにまで分布する』。『名前の由来は蛭筵で、浮葉を蛭が休息するための筵に例えて名付けられたとされる』とある。

「七つ下り」夕七ツ(定時法で午後四時頃。不定時法だと季節的には午後四時半頃)を有「泥ながら」「ひぢながら」。

「けしぎ」不詳。「氣色」の濁音表記で、気持ちの謂いか。

「飛沫」「しぶき」。

「膝にはつせば」不詳。「發せば」で、「膝に向かって差し出した」或いは「放ったなら」だとしても、意味がよく判らない。識者の御教授を乞う。

「うき名そしげき」「そ」の清音はママ。強意の係助詞「ぞ」。

「なき名にあらぬ戀なれば」無意味な他愛もない軽い気持ちではない恋だから、の謂いか。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(33) 「龍馬去來」(2)

 

《原文》

 【養生奇瑞】土佐ノ龍馬ノ生立ハ正シク人間ノ阪田公時又ハ武藏房辨慶ナドト其類ヲ同ジクシ、不倫ナル比較ニテハアレドモ遠ク釋尊誕生ノ古傳ニ線(イトスヂ)ヲ引クモノ、即チ自分ガ假ニ名ヅケテ鬼子(オニノコ)傳說ト云フモノ是レナリ。此口碑ヤ本來單ニ現出ノ稀有ヲ誇張セントスル動機ニ基クモノナルべキカ。鬼鹿毛既ニ絕代ノ珍トスべクハ、ソノ小栗判官ノ如キ伯樂ト遭遇センコトハ愈多ク有リ得べカラザル機會ナリ。此故ニ諸國ノ靈山ニハ往々ニシテ人界ノ羈絆ヲ超脫シタル龍馬ノ住スルモノアルナリ。同ジク土佐ノ幡多郡足摺山ノ緣起ニモ、山中ニ龍馬ケ原ト云フ處アリ、千場ケ瀧ノ上ナリ。此原ニハ每夜龍馬出デテ笹ノ葉ヲ喰ムト云ヒ〔西郊餘翰四〕、又長岡郡岡豐(ヲガウ)村大字瀧本ノ毘沙門堂ノ瀧ハ、高サ十七間バカリニシテ中程ニ一段ノ水溜リアリ、【岩ノ窪】其傍ニモ龍ノ駒ノ足跡ト稱スル岩ノ窪アリト傳ヘタリ〔土州淵岳志〕。阿波阿波郡林村大字西林ノ岩津ノ淵ノ側ニ在ル馬蹄石モ、石ノ面ニ殘レルハ爪ヲ以テ押シタルガ如キ形ナレバ、俗ニ又牛ノ爪石トモ云フ〔燈下錄〕。要スルニ只ノ馬ノ蹄ノ痕ニハ非ザルナリ。薩摩ノ薩摩郡鶴田村大字紫尾(シビ)ノ祁答院(ケタフヰン)神興寺ノ山ニモ胎生尾(タイシヤウノヲ)ト云フ岩アリ。紫尾八景ノ一トシテ此地ヲ詠ジタル詩ノ句ニモ

   曾生天馬世皆譚   苜蓿蹄痕與ㇾ蘚參

ナドト見エタリ〔三國名勝圖會〕。【赤子足跡】美作久米郡福岡村大字橫山ノ嶺平(ミネノダヒラ)ニハ、岩ノ上ニ駒ノ右ノ蹄ノ跡ト赤兒ノ右ノ足跡ト殘レリ。其場處ヲ「ノゴハズ」ト呼ブハ、觸ルレバ忽チ雨降ルト云フ信仰ニ基クモノヽ如シ〔山陽美作記〕。【岩ノ窪】同國苫田郡神庭(カンバ)村大字草加部ニハ、賀茂川ノ東岸ノ岩ニ龍馬ノ爪ノ跡數多ト、竝ニ馬桶ト名ヅケタル岩ノ窪二箇處アリテ龍ケ爪淵ト稱ス。其附近ニハ龍神ノ社アリ。楢村ト云フ部落ノ地ニ屬ス。【雨乞】旱魃ニ雨乞シテ靈驗アリ〔東作誌〕。【龍ケ爪】同郡堀阪ト云フ地ニモ川ニ臨ミシ岩ノ上ニ馬蹄ノ跡アルヲ、龍ケ爪ト名ヅケテ參詣スル者多カリキ〔山陽美作記〕。同國英田郡大野村大字川上ノ增(マス)ケ乢(タワ)ニモ古ヘ天ヨリ下リシ龍駒ノ爪形ヲ石ノ上ニ遺スモノアリ。之ヲ駒ケ爪石ト稱ス〔東作誌〕。此トハ遙カニ懸離レテ、陸前名取郡秋保(アキフ)村大字新川(ニツカハ)ニハ龍駒(リユウク)ケ嶽アリ。東嶽ト相竝べリ。山上ニ樹ナク只茆草ヲ生ズ、鄕人曰ク山中ニ龍駒アリ常ニ出デテ草ヲ食ムト、仍テ其山ニ名ヅケタリ〔奧羽觀迹聞老志〕。加賀ノ白山ニ於テモ古來龍馬ヲ生ズト傳ヘ、土人往々ニシテ蹄ノ跡ヲ峻巖邃壑ノ間ニ見ル。石川郡吉野谷村大字佐良ハ白山ノ麓ニ在リ。村ノ南半里ニ丈溪ト云フハ石壁千仭ナリ。村民市平ナル者曉ニ行キテ小サキ馬ノ尾ト鬣ト甚ダ長キガ躍リテ谿ニ入ルヲ見タリ。岩角ヲ蹴ツテ飛ブコト平地ノ如ク、忽チ其影ヲ見失フ云々〔白山遊覽圖記七〕。【龍宮】羽前西田川郡西鄕村大字馬町ノ善法寺ノ池ノ水ハ龍宮ニ通フト稱シテ數數ノ奇特アリ。本堂ノ西南山ニ入ルコト三町バカリニシテ龍ケ澤アリ。龍馬ノ蹄ノ跡ト云フモノ存スト云フ〔三郡雜記下〕。羽後地方ニテモ龍馬ノ傳說ノ少ナカラザルコトハ後ニ再ビ之ヲ說クべキガ、【駒爪石】北秋田郡ノ戶鳥内(トトリナイ)ト云フ地ニモ路ノ傍ニ駒爪石ト稱スル神馬ノ跡アル石ヲ、祠ノ中ニ安置シテ崇敬シテアリキ〔眞澄遊覽記三十二下〕。【沼】同郡萩生山(ハギナリヤマ)ノ山奧ニハ怖シキ一ツノ沼アリ。雨降リ風吹カントスル際ニハ龍馬現ハレテ其岸ヲ馳セアルク。山民之ヲ見テ日和ノ占ト爲セリト云ヘリ〔同上三十一〕。此等ノ馬ドモハ單ニ凡人ノ羈絆ヨリ超脫スト謂フニ止マラズ、獨立シテ既ニ一箇ノ神ナリシニ似タリ。假ニ然ラズトスルモ、少ナクモ其生死出沒ノ點ニ於テ、尋常市井ノ荷車ニ營々スル者トハ全ク其範疇ヲ異ニシタリ。即チ一言ニシテ言ハヾ、彼等ハ皆天ヲ其鄕里トスル者ナリシ也。【龍ケ馬場】陸中稗貫郡大迫(オハザマ)町ノ橫岨山(ヨコガケヤマ)ノ頂上ニハ龍ケ馬場ト稱スル地アリ。町ヨリ南方ニ當リテ眺望良キ地ナリ。龍ケ馬場ト云フハ廣サ七八尺長サ三十間バカリノ白砂淸淨ノ一區ニシテ、雷ノ烈シク鳴ル日ニハ必ズ白馬ノ毛ノ如キ五寸乃至八寸ノ毛ヲ降ラス故ニ、此ノ如キ珍シキ名ヲ負ヘルナリ〔和賀稗貫二郡鄕村志〕。但シ此毛ハ白馬ノ毛ナリヤ否ヤ多少ノ疑アリ。現ニ馬ヲ重要視セザル江戶ノ市中ニモ澤山ニ降リシコトアリ。時ハ寬政五年ノ七月十五日、江戶小雨降リテ其中ニ毛ヲ交ヘタリ。丸ノ内邊ハ別シテ多シ。多クハ色白ク長サ五六寸、殊ニ長キハ一尺二三寸ニ及ブ。色赤キ毛モタマタマ有リ。太サハ馬ノ尾ホドノ物ナリ。江戶中ニ遍ク降リシコト、何獸ノ毛ニテ幾萬疋ノ毛ナルヤ不審ノ事ナリト云ヘリ〔北窻鎖談二〕。此ヨリモ遙カ前ノ年ニ、阿部伊勢守殿居間ノ十間バカリ脇ノ櫻ノ木へ雷落チ、木ニモ其邊ニモ長サ五六寸ノ毛夥シク降リタリ。主人之ヲ集メテ蠅拂ニセラレシトハ氣樂ナル話ナリ〔觀惠交話下〕。近クハ明治四十五年四月十八日ノ時事新報ノ記事ニ、伊豆ノ大島三原山ノ麓ニ此毛降ル。【火山毛】新シキ學問ニテハ之ヲ火山毛ト呼ブ由ナレドモ、布哇ナドノ土人モ之ヲ神ノ毛ト尊敬スルト聞クノミナラズ、更ニ他ノ一方ニハ馬ガ丸ノマヽ降リタリトノ話モアレバ、要スルニ天ハ何ヲ降ラスカ到底測リ知ルべカラズ。此モ江戶ニテノ出來事ナリ。【馬降ル】今ヨリ凡ソ百六十年ホドノ昔、江戶ニ大霰ノ降リシ日、旗本ノ橋本安房守ガ庭前ニ一頭ノ馬降リ來ル。龍ノ揚ゲタルモノナラントノ說アリキ。落ツルハズミニカ腰ノ骨ヲ痛メテアリシ故ニ療養ヲ加ヘタリトアリ。不思議ノ上ノ不思議ハ、此馬ハ背ニ娑婆世界ノ乘鞍ヲ置キテアリシト云フコトナリ〔寓意草下〕。

 

《訓読》

 【養生奇瑞】土佐の龍馬の生立(おひたち)は、正(まさ)しく人間の阪田公時(さかたのきんとき)又は武藏房辨慶などと其の類を同じくし、不倫なる比較にてはあれども、遠く釋尊誕生の古傳に線(いとすぢ)を引くもの、即ち、自分が假に名づけて、「鬼子(おにのこ)傳說」と云ふもの、是れなり。此の口碑や、本來、單に現出の稀有を誇張せんとする動機に基づくものなるべきか。「鬼鹿毛(おにかげ)」、既に絕代の珍とすべくは、その小栗判官(おぐりはんがん)のごとき伯樂と遭遇せんことは、愈々、多く有り得べからざる機會なり。此の故に諸國の靈山には往々にして人界の羈絆(きはん)[やぶちゃん注:「羈」も「絆」も繋ぎ止める意で、一般には「何らかの行動を起こす際の足手纏いとなること」を言うが、ここは単に「現存在に於ける種々の制約。現実的しがらみ」の意。]を超脫したる龍馬の住するものあるなり。同じく、土佐の幡多(はた)郡足摺(あしずり)山の緣起にも、「山中に龍馬ケ原と云ふ處あり、千場ケ瀧の上なり。此の原には、每夜、龍馬出でて、笹の葉を喰む」と云ひ〔「西郊餘翰」四〕、又、長岡郡岡豐(をがう)村大字瀧本の毘沙門堂の瀧は、高さ十七間ばかり[やぶちゃん注:約三十一メートル。]にして中程に一段の水溜りあり、【岩ノ窪】其の傍らにも「龍の駒の足跡」と稱する岩の窪みありと傳へたり〔「土州淵岳志」〕。阿波阿波郡林村大字西林の岩津(いはづ)の淵の側に在る馬蹄石も、石の面に殘れるは、爪を以つて押したるがごとき形なれば、俗に又、「牛の爪石」とも云ふ〔「燈下錄」〕。要するに、只だの馬の蹄の痕には非ざるなり。薩摩の薩摩郡鶴田村大字紫尾(しび)の祁答院(けたふゐん)神興寺の山にも「胎生尾(たいしやうのを)」と云ふ岩あり。「紫尾八景」の一つとして此の地を詠じたる詩の句にも、

   曾生天馬世皆譚   苜蓿蹄痕與ㇾ蘚參

などと見えたり〔「三國名勝圖會」〕。【赤子足跡】美作久米郡福岡村大字橫山の嶺平(みねのだひら)には、岩の上に駒の右の蹄の跡と、赤兒の右の足跡と、殘れり。其の場處を「のごはず」と呼ぶは、觸るれば、忽ち、雨降ると云ふ信仰に基くものゝごとし〔「山陽美作記」〕。【岩の窪】同國苫田(ともた)郡神庭(かんば)村大字草加部には、賀茂川の東岸の岩に、龍馬の爪の跡、數多(あまた)と、竝びに「馬桶(むまをけ)」と名づけたる岩の窪、二箇處ありて、「龍ケ爪淵」と稱す。其の附近には龍神の社あり。楢村と云ふ部落の地に屬す。【雨乞】旱魃に雨乞ひして靈驗あり〔「東作誌」〕。【龍ケ爪】同郡堀阪と云ふ地にも、川に臨みし岩の上に馬蹄の跡あるを、「龍ケ爪」と名づけて參詣する者多かりき〔「山陽美作記」〕。同國英田郡大野村大字川上の「增(ます)ケ乢(たわ)」にも、古(いにし)へ、天より下りし龍駒の爪形を石の上に遺すものあり。之れを「駒ケ爪石」と稱す〔「東作誌」〕。此れとは遙かに懸け離れて、陸前名取郡秋保(あきふ)村大字新川(につかは)には「龍駒(りゆうく)ケ嶽」あり。東嶽と相ひ竝べり。山上に樹なく、只だ茆草(かやくさ)を生ず。鄕人曰く、「山中に龍駒あり、常に出でて草を食む」と。仍つて其の山に名づけたり〔「奧羽觀迹聞老志」〕。加賀の白山に於いても、古來、龍馬を生ずと傳へ、土人、往くにして蹄の跡を峻巖邃壑(しゆんげんすいがく)の間に見る。石川郡吉野谷村大字佐良(さら)は白山の麓に在り。村の南半里に「丈溪」と云ふは、石壁千仭なり。村民市平(いちへい)なる者、曉に行きて、小さき馬の尾と鬣(たてがみ)と甚だ長きが、躍りて谿(たに)に入るを見たり。岩角を蹴つて、飛ぶこと、平地のごとく、忽ち、其の影を見失ふ云々〔「白山遊覽圖記」七〕。【龍宮】羽前西田川郡西鄕村大字馬町の善法寺の池の水は、龍宮に通ふと稱して、數數(かずかず)の奇特(きどく)あり。本堂の西南、山に入ること、三町ばかり[やぶちゃん注:約三百二十七メートル。]にして、「龍ケ澤」あり。龍馬の蹄の跡と云ふもの存すと云ふ〔「三郡雜記」下〕。羽後地方にても、龍馬の傳說の少なからざることは、後に再び之れを說くべきが、【駒爪石】北秋田郡の戶鳥内(ととりない)と云ふ地にも、路の傍らに「駒爪石」と稱する神馬の跡ある石を、祠の中に安置して崇敬してありき〔「眞澄遊覽記」三十二下〕。【沼】同郡萩生山(はぎなりやま)の山奧には、怖しき一つの沼あり。雨降り、風吹かんとする際には、龍馬、現はれて、其の岸を馳せあるく。山民、之れを見て、日和(ひより)の占(うら)と爲せりと云へり〔同上三十一〕。此等の馬どもは、單に凡人の羈絆より超脫すと謂ふに止まらず、獨立して、既に一箇の神なりしに似たり。假りに然らずとするも、少なくも、其の生死出沒の點に於いて、尋常市井の荷車に營々する者とは全く其の範疇を異にしたり。即ち、一言にして言はゞ、彼等は皆、天を其の鄕里とする者なりしなり。【龍ケ馬場】陸中稗貫郡大迫(おはざま)町の橫岨山(よこがけやま)の頂上には、「龍ケ馬場」と稱する地、あり。町より南方に當りて眺望良き地なり。「龍ケ馬場」と云ふは、廣さ、七、八尺、長さ三十間[やぶちゃん注:五十四・五四メートル。]ばかりの、白砂淸淨の一區にして、雷の烈しく鳴る日には、必ず、白馬の毛のごとき、五寸乃至八寸の毛を降らす故に、此くのごとき珍しき名を負へるなり〔「和賀稗貫二郡鄕村志」〕。但し、此の毛は白馬の毛なりや否や、多少の疑ひあり。現に、馬を重要視せざる江戶の市中にも澤山に降りしこと、あり。時は寬政五年の七月十五日、江戶、小雨降りて、其の中に、毛を交へたり。丸の内邊りは、別して多し。多くは、色、白く、長さ、五、六寸、殊に長きは、一尺二、三寸に及ぶ。色、赤き毛も、たまたま有り。太さは馬の尾ほどの物なり。江戶中に遍(あまね)く降りしこと、何(なん)の獸(けだもの)の毛にて、幾萬疋の毛なるや、不審の事なりと云へり〔「北窻鎖談」二〕。此れよりも遙か前の年に、阿部伊勢守殿、居間の十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]ばかり脇の櫻の木へ、雷、落ち、木にも、其の邊りにも、長さ、五、六寸の毛、夥しく降りたり。主人、之れを集めて、「蠅拂ひ」にせられしとは、氣樂なる話なり〔「觀惠交話」下〕。近くは明治四十五年[やぶちゃん注:一九一二年。]四月十八日の『時事新報』の記事に、伊豆の大島三原山の麓に、此の毛、降る。【火山毛(くわざんげ)】新しき學問にては、之れを「火山毛」と呼ぶ由なれども、布哇(ハワイ)などの土人も、之れを「神の毛」と尊敬すると聞くのみならず、更に、他の一方には、馬が丸のまゝ降りたりとの話もあれば、要するに、天は何を降らすか、到底、測り知るべからず。此れも江戶にての出來事なり。【馬降る】今より凡そ百六十年ほどの昔、江戶に大霰(おもほあられ)の降りし日、旗本の橋本安房守が庭前に、一頭の馬、降り來たる。龍の揚げたるものならんとの說ありき。落つるはずみにか、腰の骨を痛めてありし故に、療養を加へたりとあり。不思議の上の不思議は、此の馬は、背に、娑婆世界の乘鞍(のりくら)を置きてありしと云ふことなり〔「寓意草」下〕。

[やぶちゃん注:「阪田公時(さかたのきんとき)」「今昔物語集」巻第二十八「賴光郎等共紫野見物語第二」(賴光の郎等共、紫野に物を見たる語(こと)第二)、「古今著聞集」「巻第九 武勇」の「源賴光、鬼同丸を誅する事」、「古事談」巻第六(藤原道長の私的な競馬(くらべうま)の相手役として登場)などに登場する武士で、姓を「酒田」、また「金時」とも書き、幼名を金太郎、源頼光四天王の一人とされ、実在の人物と言うが、後世の「御伽草子」や伝承では山姥の子と設定され、相模国足柄山で育った怪童で頼光に見出され大江山の酒呑童子の征伐などに加わったとする伝承上の人物。総体を抱え込んだ限定された個人としての実在性は低い。

『「鬼鹿毛(おにかげ)」、既に絕代の珍とすべくは、その小栗判官(おぐりはんがん)のごとき伯樂と遭遇せんこと』「小栗判官」は中世から近世にかけて流行した説経節や浄瑠璃などの語り物の貴種流離譚の主人公。知られたもののでは以下のような筋立てである。京三条高倉の大納言兼家の嫡子小栗判官は、北菩薩(みぞろ)池の大蛇の化身と契ったが、罪を得て、常陸に流される。やがて美女の照手姫と結ばれるが、姫の一族(横山。姫は養女)に毒殺されてしまう。死んだ小栗は閻魔大王の命で、善人のゆえに娑婆へ帰され、「餓鬼阿弥(がきあみ)」と名づけられた。藤沢の上人の配慮によって、生きたミイラの如き餓鬼阿弥は、車に引かれ、熊野本宮へと向かい、そこで三七日(みなぬか:二十一日)の間、湯に浸され、めでたく元の体に戻る。一方、照手姫は海に沈められるところを救われるものの、人買いの手に渡され、各地を転々として重労働に苦しめられるが、知らずに餓鬼阿弥の車を運び、後、小栗と再会して都へ行く。細部にかなりの紆余曲折があり、ヴァージョン違いも多いが、その中で、横山一党が小栗に馬芸を乞うて、人食い馬「鬼鹿毛」に乗せて謀殺しようとするシークエンスを指す。サイト「み熊野ねっと」の「小栗判官」「小栗判官3 人喰い馬」が現代語訳で判り易い。

「土佐の幡多(はた)郡足摺(あしずり)山の緣起」高知県南西部土佐清水市の、所謂、足摺岬の尖端近くにある丘の上に建つ、真言宗蹉跎山(さだざん)補陀洛院(ふだらくいん)金剛福寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の縁起に由来するものかと思われる。

「千場ケ瀧」恐らく、「千万滝」ではないかと思われ、推定落差五十メートルで足摺岬の断崖の南西に近年まで、存在したが、今は滝自体(水流)は完全に消失しているらしい滝フリークのこだる氏のブログ「長野県の滝」の中の「高知県の滝 土佐清水市の滝(10)足摺岬の千万滝」に写真附きで五十年(記事は二〇一二年のもの)前にはまだ存在したことが、感懐を以って書かれてある。当地に残る案内板の写真に「千万滝」と書かれたそれから、この中心附近(グーグル・マップ航空写真)「千万滝」はかつて存在したと思われるから、「龍馬ケ原」はその画面の上部一帯(金剛福寺の門前の足摺岬先端部の根の部分相当或いは南西部分の崖上部)となろう。

「長岡郡岡豐(をがう)村大字瀧本の毘沙門堂の瀧」現在の高知県南国(なんこく)市岡豊町(おこうちょう)滝本にある「毘沙門の滝」で「龍の駒の足跡」も現存する(地名は現在は清音)。「南国市」公式サイト内の「毘沙門の滝」の解説によれば(地図有り)、高さ三十メートル、三段に『わかれて落ちる滝で』、『中段には竜の駒の足跡といって、岩に大きな馬の蹄のような跡があ』ると明記されてある。『すぐ近くに毘沙門堂が建って』おり、『これは、昔弘法大師が大津の港に着いたとき、滝の音を聞いてここを訪ねて滝にうたれて身を清め、毘沙門天を彫刻しこれを祀ったのが毘沙門堂であると』されるとある。

「阿波阿波郡林村大字西林の岩津(いはづ)の淵」現在の岩津橋(いわづばし)附近か(ウィキの「岩津橋」にある Wikimedia OpenStreetMap のデータ)。同ウィキによれば、吉野川に架かる徳島県道百三十九号船戸切幡上板線の橋で、南岸は徳島県吉野川市山川町(ちょう)一里塚、北岸は同県阿波市阿波町乙岩津(おついわづ)である。

「薩摩の薩摩郡鶴田村大字紫尾(しび)の祁答院(けたふゐん)神興寺」現在、この寺は廃寺となって存在しない。現在の鹿児島県薩摩郡さつま町(ちょう)紫尾(しび)にある紫尾神社の境内地(推定。北直近)に寺の跡があるウィキの「紫尾神社(さつま町)」によれば、『旧くは「紫尾山三所権現」と称し』、『古くから祁答院七ヶ郷(山崎、大村、黒木、佐志、藺牟田、宮之城、鶴田)の総社として尊崇された』。なお、『当神社の拝殿の下から紫尾温泉の源泉が湧いていることから「神の湯」とも呼ばれている』とあり、さらに『社伝に、第』八『代孝元天皇の時代に開山され』、『「紫尾山」と号して創祀されたとも、また第』二十六『代継体天皇の時代に山中で修行をしていた空覚上人という僧の夢の中に神が現れ、「われはこの山の大権現なり、あなたが来るのを長い間待っていた。わがために社寺を建てて三密の旨を修し、大乗の法を広めよ」とのお告げがあり、翌朝上人が山頂に立つと尊い、いかめしい気があたりをつつんでいて』、『麓へ向かって』、『紫の美しい雲がたなびいていた。これを見た上人はこの山を紫尾山と名付けお告げに従い』、『山を下り、その麓を聖地と定め』、『社殿を建立「紫尾山三所権現」と称したという』。貞観八(八六六)年に『正六位上から従五位下へ昇叙された薩摩国「紫美神」に充てられるが』、『これを紫尾山の対麓に鎮座する出水市高尾野町唐笠木の同名神社に充てる説もある』。『上記紫尾山は神社の裏山に当たり、最初の社祠は紫尾山の山頂近くにあった。これを「上宮」と呼ぶのに対し、昔この山頂近くにあった社がたびたび暴風で倒壊し、また祭祀にも不便だったことから、当神社と出水市高尾野町唐笠木の同名神社の』二『か所に里宮として分祀し』て『「下宮」と呼んだといい』『(但し、薩摩郡さつま町柏原の「古紫尾神社」を下宮とする場合は「中宮」と呼ばれる)ともに紫尾山を信仰の対象とする山岳信仰を背景に建立された神社であったと思われ、当神社には中世に西国高野山の異名をとった「紫尾山祁答院神興寺」という供僧の坊が置かれ、修験者が群参したという』。『鎌倉、室町の両幕府に崇敬されたといい、江戸時代には薩摩藩主島津氏から尊崇され、この地域の鎮守神として社領の寄付や社殿の修復が行われた。また、寛永末年(』十七『世紀中頃)に当神社の神託によって永野金山が発見されたことで有名になった。このような金山発見のお告げをした神が座す社であるという伝承から、鉱山関係の参詣者が多かった。交通不便な場所に鎮座しているが、現在でも初詣には』一『万人ぐらいの人出で賑わう』とある(下線太字はやぶちゃん)。この記載から見る限りでは、近世初期には神興寺は廃されていたように読めてしまうのだが、そうではなかった巡礼者 rinzo 氏のブログ「薩摩旧跡巡礼」のこちらでは、この紫尾神社及び後背地の神興寺跡を実に丁寧に探索されており(画像多数。状態の非常によい(風化していない)馬頭観音像数体を見ることが出来る。必見! なお、これらから見ても、近世まで同寺は存在したことが素人にも推理出来る)、而してそこに以下のようにあったのである。『天正年間』(ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年))『に災害があった。それにより』、『神興寺の堂宇がことごとく荒廃し、ただ』、『権現廟だけが残っている状態となった』。『貞享二』(一六八五)『年四月、宮之城の真言宗寺院である神照寺の住持であった権大僧都快善という僧が』、『この山を訪れ、自らの閑居の地を占っていたのだが、この古跡のあまりの荒廃ぶりを哀れみ、資材を投じて当寺を再興し』、『朝は遠くの山を望んで心を澄まし、日が暮れると』、『温泉に入り』、『身を休め、日々』、『杖をついて徘徊し、春夏秋冬の風景を楽しみとしていた』とあり、さらに『元禄十』(一六九七)『年の春、紫尾八景を選び、狩野昭信に絵を頼み、それに諸山の僧侶が詩をつけ、一つの軸にして神興寺に納めた』。『その八景を胎生山』(本文に柳田國男が言う「紫尾八景」の『「胎生尾(たいしやうのを)」と云ふ岩』がある山であろう。但し、現在もその岩があるかどうかは不明)『・筆之山・錦之尾・両鹿勢・三日月山・光石・綾織山・陰陽師峯という』。『また、当山不動谷に奥の院を開き、そこから上宮権現に参詣する際』、『一歩一遍光明真言を唱え、また仁王経一万二千二百余巻を読誦した』とあって、途中で荒廃期はあったものの、戦国時代に復興し、その後、江戸中期までは神興寺はしっかり現存していたことが判るのである。

「曾生天馬世皆譚」「苜蓿蹄痕與ㇾ蘚參」訓読を試みておく(底本には返り点のみ)。

曾つて天馬生ずるも 世(よ)皆(みな)譚(たん)たるのみ

苜蓿(もくしゆく)蹄痕(ていこん) 蘚(せん)に與(あた)へて參(しん)たり

一句目は、「天馬は最早、ただ語りのなかにのみにしかいない」ことを言ふ。「苜蓿」は飼い葉となるはずの、双子葉植物綱マメ目マメ科マメ亜科シャジクソウ連ウマゴヤシ属ウマゴヤシ Medicago polymorpha の異名。「蘚」は苔、「參」はよく判らぬが、「相並ぶこと」「交々(こもごも)になっていること」で、『天馬がいなくなって久しいから、「うまごやし」も天馬の蹄の跡も、ただ空しく苔に塗れていることだ』の意で私はとる。誤読とせば、御教授あられたい。

「美作久米郡福岡村大字橫山の嶺平(みねのだひら)」岡山県津山市横山はここ。航空写真を見ると、ど真ん中の丘陵部に有意に平たい土地が見えるが、これは近代の開墾のよう。

「のごはず」「拭(のご)はず」で不可触の謂いである。こうした禁忌の石の場合、残っている可能性は大きいはずだが、ネットでは掛かってこない。

『同國苫田(ともた)郡神庭(かんば)村大字草加部には、賀茂川の東岸の岩に、龍馬の爪の跡、數多(あまた)と、竝びに「馬桶(むまをけ)」と名づけたる岩の窪、二箇處ありて、「龍ケ爪淵」と稱す』現在の岡山県津山市草加部。現行、地区の東を流れる川は「加茂川」の表記であり、現在は加茂川の東岸は津山市楢(後に出る旧「楢村」)であるが、「歴史的行政区域データセット」を「岡山県苫田郡神庭村」を見ると、旧神庭村の村域は加茂川東岸を舐めるように含んでいることが判る。残念ながら、ネット上には二種の龍馬絡みの岩の窪や「龍ケ爪淵」は掛かって来ない。

「其の附近には龍神の社あり。楢村と云ふ部落の地に屬す」同地区には「一寸鏡(ますかがみ)神社」という変わった名の神社が現存するが、龍神を祀っているというデータはない。そこから南西南に少し行った位置の川畔に鷹山稲荷大明神というのはある。

「同郡堀阪」岡山県津山市堀坂。先の草加部と楢の北直近の加茂川東岸部。これらが極めて接近して、しかも川の岸辺に存在することから、これは地質学上の岩石の性質やその浸食様態の説明(私は高い確率で甌穴であろうと思う)で解明し得るものと思われる。

『同國英田郡大野村大字川上の「增(ます)ケ乢(たわ)」』美作市川上。「乢」は山岳の尾根や山稜の窪んで低い場所などを指す語。サイト「遺跡ウォーカー」のこちらで、この川上地区には「桂坪乢」の地名が現存し、しかもこの周辺には柳田國男の嫌いな古墳が多数あることが判り、この「龍駒の爪形」というのも、そうした古墳絡みである可能性が窺われる。

『陸前名取郡秋保(あきふ)村大字新川(につかは)には「龍駒(りゆうく)ケ嶽」宮城県仙台市青葉区新川(にっかわ)はここであるが、「龍駒ケ嶽」「東嶽」は現認出来ない。但し、国土地理院図で見ると、同地区内の東に麓の地名から見て、明らかに山岳信仰のあったと思われるピークが複数存在するから、この辺りがそれかと思われる。

「茆草(かやくさ)」茅(ちがや)。

「峻巖邃壑(しゆんげんすいがく)」峻(けわ)しい巌(いわお)や幽邃なる渓谷。

「石川郡吉野谷村大字佐良(さら)」石川県白山市佐良。手取川の東岸。白山山頂から南西約二十キロメートルの位置にある。

「丈溪」不詳。この辺りの手取川は渓谷を成してはいる。

「羽前西田川郡西鄕村大字馬町の善法寺」これは現在の山形県鶴岡市下川関根にある曹洞宗龍澤山(りゅうたくさん)善寳寺(ぜんぽうじ)の誤りではないか? ウィキの「善寳寺」によれば、『姿を顕した二龍神(龍宮龍道大龍王、戒道大龍女)が寺号を授け、寺内の貝喰池』(かいばみいけ)『に身を隠したという伝承が残り』、『龍神信仰の寺として航海安全を祈願する海運関係者や大漁を祈願する漁業関係者などから全国的に信仰を集める』とあるからである。因みに、この貝喰池、多くの方が御存じのはず。一九九〇年頃に、この池にいる鯉が「人面魚」として盛んに喧伝され、シミュラクラ「人面魚」の都市伝説の元祖となったからである。グーグル画像検索「貝喰池 人面魚」をリンクさせておく。ほら! 覚えてるでしょ?

「北秋田郡の戶鳥内(ととりない)」秋田県北秋田市阿仁(あに)戸鳥内。「駒形石」は現存するかどうか不明。

「同郡萩生山(はぎなりやま)」不詳。

「日和(ひより)の占(うら)」天候急変の予兆とすること。

「陸中稗貫郡大迫(おはざま)町の橫岨山(よこがけやま)」岩手県花巻市大迫町(おおはさままち)を冠するこの一帯(ポイントはその中の大迫町大迫)。「橫岨山(よこがけやま)」の位置は不明。

「白馬の毛のごとき、五寸乃至八寸の毛を降らす」ここを読んだ途端、昔(中学・高校時代)、「未確認飛行物体研究調査会」の会長(会員はたった二名)であった私は、一九五二年十月十七日、フランス南西部のオロロン=サント=マリー(Oloron-Sainte-Marie)に「空飛ぶ円盤」が出現、それに伴って白い糸状のものが大量に降ったという事件を思い出した。これは「エンゼル・ヘア」と呼ばれ、写真にも撮られている(まんず、古参のUFO研究家なら知らない奴はモグリと言ってもいいほど知られた事件である)。個人ブログ「きよりんのUFO報告」の『1952年円盤群と「エンゼルヘア」降下事件』から引用させて戴くと、この毛、『降下して電線などに引っかかっても、やがて蒸発して消えてしまったと』されており、『フランスのUFO研究家エメ・ミシェル』(Aimé Michel 一九一九年~一九九二年)『は、彼の著書』(原本は「Lueurs sur les soucoupes volantes」(「空飛ぶ円盤の光り」。一九五四年刊)。邦題は「空飛ぶ円盤は実在する」(一九五六年高文社刊・田辺貞之助訳)。私も実はこれで読んだ。今も持っているが、積み上げた下方にあって、引き出すと、本の山の下敷きになるので諦めた)『にこう書いてい』るとして当該書を引用されておられる。

   《引用開始》

 オロロンとガイヤック-1952年10月

1952年10月17日金曜日、オロロンでは素晴らしい天気だった。空は青く、雲ひとつなかった。12時50分ごろ、オロロン中学の舎監長イーヴ・プリジャン氏は中学の二階にある自分の部屋で食卓へ向かおうとしていた。かたわらに女教員であるプリジャン夫人と三人の子供らがいた。

 部屋の窓はすべて町の北方へ向かって開かれ、広い景観を示していた。息子のジャン・イーヴメプリジャンは窓のところに立っていた。人は彼を食事に呼んだ。が、そのとき、彼が叫んだ。

 「パパ、来て御覧よ、変なものが見えるよ!」すべての家族が彼のそばへ行った。プリジャン氏は次のように語っている。

 「北の方、青い空の奥に、奇妙な格好の綿のような雲がただよっていた。その上に、細長い円筒形のものが、明らかに45度ばかり傾いて、真直ぐに南西の方へゆっくり移動していた。私はその高さを二千ないし三千メートルと見積もった。そのものは白っぽく、光がなく、輪郭がはっきりしていた。上の端から白い煙が前立のように吹き出していた」

 「その円筒形のものの前に少し距離をおいて、30ばかりのほかのものが同じ進路を通っていた。肉眼では、それらは煙の塊に似た不恰好な球の形をしていた。しかし、双眼鏡でみると、中が赤く、まわりが非常に傾斜した黄色っぽい輪のようになっている球をはっきり見ることができた。その傾斜は」と、プリジャン氏は念を押していう。「中央の球体の下の部分をほとんど隠していた。しかし、上の方ははっきり見えていた。その〈円盤〉は2つずつならんで別々の道をすすみ、全体として、速くみじかいジグザグをなしていた。その2つの円盤が離れると2つのあいだに電光形に白っぽい筋ができた。」

 「これらの奇妙なものはたくさんの筋をうしろへ残し、それがゆっくりと分解しながら地面の方へおりてきた。数時間のあいだ、木立や電話線や家々の屋根の上にふわりとしたものがひっかかっていた。」

 これは未知の器械の飛翔によってオロロンの野にまきちらされた〈聖母の糸〉(蜘蛛の糸)の奇妙な物語である。その糸は毛糸かナイロンに似ていた。そして、もつれて塊になり、すみやかにジェラチン状になり、それから昇華して、消え去った。多くの目撃者がそれをとり、速やかな昇華の現象を見ることができた。中学の体操教師は運動競技場から大きな糸束をもってきた。中学の教師たちは大いにあやしみ、火をつけてみたところが、セロファンのように燃えた。理科の教師プーレ氏はその糸を入念にしらべたが、分析をする暇がなかった。しかし、彼は棒にまきつけた10メートルばかりの糸が昇華し消失するのを観察することができた。(以下略)

10月27日ガイヤックのトゥールーズ街に住むドール婦人は鳥小屋で鶏たちがさわいでいるのに気がついた。彼女は眼を空へあげてみた。そしてオロロンの人々が10日前に見たのとまったく同じものを見た。(中略)45度に傾斜した前立のある円筒形がゆっくり南西へ向かって行き、それを20個ばかりの〈円盤〉が取り巻き、太陽にきらめきながら、2つずつジグザグ形にすみやかにとんでいく。唯一の相違は、ここでは2つずつ並んだ円盤の幾組かが時によると非常に低いところまで降りてきたことで、その高さは証人により三百ないし四百メートルと見積もられた。これが約20分ほどつづき、やがて葉巻も円盤も地平線に消え去った。

 すると、早くも白い糸のかたまりが降りはじめ。円盤が見えなくなってしまったあとまでも、長いこと落ちてきた。

   《引用終了》

ああっ! 懐かしい! 英文のUFOサイト「LUFORU」の「Oloron-Sainte-Marie, Pyrénées-Atlantiques, France, Europe」で「エンゼル・ヘア」の写真その他が見られる。軽蔑の眼で見ている読者諸君のために、後の「火山毛」の注でちゃんとそれに応じているので安心なされよ。

「北窻鎖談」「鎖」は「瑣」の誤り。江戸後期の医者で紀行家橘南谿(たちばななんけい 宝暦(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の随筆。当該話は巻之二の以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。頭の見出し用の「一」をカットした。

   *

寛政丑年[やぶちゃん注:寛政五年は癸丑(みずのとうし)で正しい。]七月十五日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七九三年八月十四日。]、江戶小雨(こさめ)降て、其中に毛を降らせり。丸の内邊は別して多かりしとぞ。多くは色白く長サ五六寸、殊に長きは一尺二三寸もあり。色赤きもたまたま有しとぞ。京へも親しき人より拾(ひろひ)とりし毛を送り越(こ)せしが、馬の尾のふとさの毛なり。江戶中にあまねく降りし事、何獸の毛にて幾万疋の毛なりや。いと不審の事なりき。

   *

「阿部伊勢守殿」前の寛政五(一七九三)年よりも「遙か前」の人物で「阿部」姓で「伊勢守」となると、調べたところでは、備後福山藩第二代藩主で阿部家宗家第六代阿部正福(まさよし 元禄一三(一七〇〇)年~明和六(一七六九)年)しかいない。

「蠅拂ひ」獣毛を束ねて柄をつけた蠅や蚊を追うための道具。後に法具の一つとして邪鬼・煩悩などを払う功徳があるとされた。払子(ほっす)に同じ。但し、其れとは別に、武具・指物(さしもの)として、棹の先端に犛(やく)の毛を纏めて短く下げたもの(「かぶろ」とも呼ぶ)があり、ここは後者で採るべきか。

「今より凡そ百六十年ほどの昔」本書の刊行は大正三(一九一四)年であるから、単純計算では宝暦四(一七五四)年前後となる。徳川家重・家治の治世。

「橋本安房守」不詳。

「火山毛(くわざんげ)」Pele's hair のこと。ウィキの「ペレーの毛」によれば、『火山の爆発の際に、マグマの一部が吹き飛ばされ』、『空中で急速冷却し』て『髪の毛のようになったもののことを言う。非常に軽いため数』キロメートル『先まで風で運ばれる。ペレーの涙』(Pele's tear。火山の爆発の際にマグマの小さな塊りが固結したガラス質の粒の噴出物。礫状意外に滴型を呈するものがあり、「火山涙(かざんるい)」とも呼ぶ)『と同じように、火山噴出物の一つである。火山毛(かざんもう)』『ともいう。ペレーはハワイに伝わる火山の女神のことである』。『おもに玄武岩質の火山ガラスからなる褐色の細い単繊維であり、典型的なものは断面が円形に近く、直径は』〇・五ミリメートルよりも『細』く、『長さは最大』二メートルにも『およぶことがある』。『キラウエアに限らず』、『ニカラグアのマサヤ火山等でも知られる』とある。……でもね……オロロンのはそれじゃないようだよ……一九五二年にヨーロッパ近縁で大規模な噴火は起こってないもん…………なお、これらの本邦での「ペレーの毛」の降下を、古文献から蒐集し、学術的に仔細に検証したものとして、『地学教育と科学運動』第六十八号(二〇一二年七月発行)の小泉潔氏の論文「江戸(東京)にペレーの毛が降った?」PDFで読める。必見!

2019/06/09

誕生 すゞしろのや(伊良子清白)

 

 誕 生

 

谷の淸水をあたゝめて

產湯とらせし狹筵に

其子の肌は淸くして

松の嵐に吹かれけり

 

紅閉す薄霞

あまりかたちの稚さに

年まだわかきふた親は

なで抱くさへはゞかりぬ

 

炭燒く家の子なれども

菫咲く野の若草に

をとめとならん行すゑの

夢こそ花の園生なれ

 

產衣の色はみどりにて

柳にまじるさくら花

梢にまよふ胡蝶こそ

かりにその子の風情なれ

 

香ひの露のしたゝりて

むすぶがごとき唇の

まだ蕾なる紅に

夕の風のさはるてな

 

松の枯葉をたきくべて

夕げをかしぐその父の

かまどになれぬ手つきこそ

けふの吉き日にをかしけれ

 

この靜かなる夕暮を

產屋の窓に雲下りて

小雨はれ行く女松原

弱き日の影てらすなり

 

世を新しくなすものは

夕の星の色ならじ

小百合の花の野にあらじ

草のとぼそに聲あげて

すがたすぐれしちごをこそ

美の神々は招きけれ

 

藁屋の前にながれあり

ながれの上のまろ木ばし

故に繁る栗の樹を

うす紅ににほはして

よき子うまれし軒端より

夕の虹は根ざしたり

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年九月十五日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。]

海の墓 すゞしろのや(伊良子清白)

 

海 の 墓

 

ますらたけをのおくつきは

黃金よそほふ宮ならじ

砂漠のくにの塔ならじ

たゞおほいなるわだつみを

はかばとわれはこたふべし

 

たいへいやうのめぐりなる

岸につらなる火の山の

火の環を見ればとこしえに

きみがたてたるいさをしの

花なるさまをあらはして

焰は空にのぼるなり

 

年うらわかきふなをさは

つとめのために身をすてゝ

おほくの人をすくひけり

沈みし舟にさゝげたる

ふかき感謝の花束は

紅匂ふ珊瑚樹か

巖のうへの星くづか

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年九月十二日発行の『明星』掲載。署名は「すゞしろのや」。「とこしえ」はママ。

「珊瑚樹」マツムシソウ目レンプクソウ科ガマズミ属サンゴジュ変種サンゴジュ Viburnum odoratissimum var. awabukiウィキの「サンゴジュ」によれば、朝鮮半島・台湾・東南アジア温帯から亜熱帯地域に野生し、本邦では千葉県以西に分布し、『樹皮は灰褐色で皮目が多く、荒い』。『葉は長楕円形で、縁に小さくまばらな鋸歯がある。光沢と厚みのある革質で、枝から折り取ると白い綿毛が出る。若葉は褐緑~褐色であるが、やがて濃緑色へと変化する』。『初夏に円錐花序を出して小型の白い花を多数開花する』。『夏から秋にかけて赤く美しい楕円形の果実をつける。それを宝石』の珊瑚に喩えて『名付けられた。果実はさらに熟すと藍黒色となる』。『種小名の awabuki に示されるように、厚く水分の多い葉や枝は、火をつけても泡をふくばかりで燃えにくい。それゆえ、火災の延焼防止に役立つともいわれ、防火樹として庭木や生垣によく用いられる。また、魚毒植物としても知られており、沖縄県ではかつて毒流し漁に利用されていた』。現在、『横浜市、大東市、防府市の市の木』であるとある。私は三十二年間に亙って横浜市内の各高校に勤務し続けたが、市の木はサンゴジュだったとはつゆ知らなんだわ。]

ブログ1230000アクセス突破記念 梅崎春生 不動

[やぶちゃん注:本篇は作家デビュー以前の梅崎春生のごく初期の作品の一つである。昭和一八(一九四三)年六月発行の『東京市職員文芸部雑誌』第一号初出(当時、梅崎春生二十八歳)。戦後の昭和二三(一九四八)年八月講談社刊の第三作品集「飢ゑの季節」に収録された。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。戦前の作であるから、少なくとも本篇初出は正字・旧仮名であるはずだが、原本を所持しないので、底本通り、新字新仮名とする。傍点「ヽ」は太字とした。本文中に私のオリジナルな注を挿入した。

 梅崎春生は昭和一四(一九三九)年三月に東京帝国大学文学部国文科を卒業(満二十五歳。卒業論文は「森鷗外」八十枚)後、この当時は東京市教育局養育研究所に勤務していた(同研究所は上野公園にあった。現在は国立西洋美術館が建っている)。実は本篇発表時は最後の「東京市」なのであって、この翌月七月一日に内務省主導による「東京都制」が施行され、地方自治体としての「東京市」と「東京府」は廃止されて現在の「東京都」が設置され、それまでの「東京市役所」の機能はこれ以降、「東京都庁」に移管されたのであった。但し、本作発表の前年の昭和十七年一月に召集を受けて対馬重砲隊に入隊したものの、肺疾患のために即日帰郷となり、同年一杯、福岡県津屋崎療養所、後に同福岡市街の自宅で療養生活を送っているので、ほぼ一年近くの休職期間がある。因みに、翌昭和十九年三月には、徴用を恐れて東京芝浦電気通信工業支社に転職したが、六月に二十九歳で再び海軍に召集され、佐世保相ノ浦海兵団に入団、そこで暗号特技兵となって、終戦まで九州各地を転々としたのであった(以上は底本全集別巻年譜に拠った)。

 また、本作の主人公の友人として登場する「天願氏」は初期作品の傑作「風宴」(昭和一四(一九三九)年八月号『早稲田文学』(副題『新人創作特輯号』)に掲載された。リンク先は「青空文庫」のもの)でも一種、主人公のトリック・スターのように重要な役回りをするが、彼のモデルは梅崎春生の終生の友人であった同い歳の作家霜多正次(しもたせいじ 大正二(一九一三)年~平成一五(二〇〇三)年:沖縄県国頭郡今帰仁村生まれ。沖縄県立第一中学校から旧制五高に進学し、そこで梅崎春生と同級となって親交を結んだ)であるとされる。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、十三年で、本ブログが昨夜、1230000アクセスを突破した記念として公開する。因みに、本作は掌品ながら、後の漫画家つげ義春のある種の作品のような、奇妙なるリアリズムを感じさせる佳品と思う。【2019年6月9日 藪野直史】]

 

   不  動

 

 午後の二時頃、天願氏と私は上野駅のホールに立って、壁にかかっている時間表を眺めたり、ぼんやりと構内の雑踏を見渡したりしていた。日曜日のことであつたから、駅内はいつもより混んでいて、リュックサックを背負ったような男女や、バスケットを提げた田舎風の人々や、野菜行商の女達が、改札のあたりから出入口にかけて忙がしく往来した。窓や出入口から射す昼の光はあかるくて、拡声器の声は、次から次に、はっきりしない語尾をひびかせながら、建物の天井を這って消えて行った。

 此処まで来ても、まだ何処に行こうというあてはなかった。曖昧な気持で時間表を見上げたり、また行くのは止そうかと思ったりした。駅の構内に入っただけで、もう疲れたような気がした。

「とにかく、松戸まで買おうか」

 うん、と生返事しながら、まだ私はためらっていた。新宿の、鬼堂という友人のところへあそびに行こうか、などと思ったりして、気持がはっきり定まらなかった。しかし、駅内の群集の動きや、時折聞える汽笛の音が、何となくしきりに天願氏の旅情をかき立てるらしかった。

「とにかく、先ず松戸まで買つて、気がむけば途中で江戸川あたりに降りてもいいじゃないか」

「それもそうですね。しかし、もう二時だから」

「充分だよ。日が長いからね。とにかく切符を買う」

 天願氏は、渋団扇(しぶうちわ)のように張った肩を左右に振るような歩き方で、切符売場の方に急いで行った。私は、ふところ手をしたまま、そのまま佇(た)っていた。郊外に、新緑を見に行くという試みを、さまたげる事情は私には何もなかった。しかし、野や山に生い立った青葉や若葉を頭に浮べようとしても、なにか感興がうすかった。

 やがて切符を買って来た天願氏と共に、改札を通って歩廊に出た。歩廊は、季節にしては強い日光のために、鮮やかに日の当る部分と影の部分にわかれていた。そして歩廊の果ての、混凝土(コンクリート)の坂になったあたりを、風が白く吹いていた。私達は、歩廊の真中ほどにあるベンチにもの憂(う)く腰をおろした。長い間経った。線路の遠くから、カーヴのところでは少し傾きながら、電車が近づいて来る。その振動が、微かではあつたが歩廊ににぶく伝わって来た。それはだんだん大きくなる。私達は莨(たばこ)を捨てて立ち上った。

 

 松戸で電車からはき出された。歩廊から見る松戸の町は、昼間だのに夕暮のような感じがした。奥行きのなさそうな、此の佗しい町のむこうは、砂塵がうつすりと立っている。

「なにも、無さそうだな」

 ふところに突込んだ手で、肋(あばら)のあたりを撫でながら、私は向うの歩廊に目を転じた。汽車が着いていて、機関車が白い蒸気を出していた。

「あの汽車は何処行きだろう」

「我孫子(あびこ)に行こう」

 突然天願氏がさけんだ。「あの汽車にのれば間に合う」

 私達はそのまま、考える間もなく歩廊を走った。階段をかけ降りて、またかけ昇った。昇降口にかけ込んだとき、汽車がごとりと動き出した。私達は息を切りながら、顔を見合わした。

「よかったですね。間に合って」

「まったく」

 何がよかったのか、自分でもはっきり判らなかったが、私はそう言い、大へん得をしたような気持になっていた。列車は、大へん混んでいた。

 私達は車掌室の横に止ち、それから中には入れなかった。人いきれのこもった室の中で、私はじっと立っていた。私のそばには、陸軍の将校が二人やはり立っていて、時折低く話し合っていた。故郷に行くところらしかった。二人とも純粋な東北訛(なま)りで話していたが、将校というものは何時も立派な標準語で会話するものだというような、漠然たる感じを持っていた私は、そのことが珍しく、また親しみ深い良い感じがした。久し振りにうちに帰ると、小さい子供が自分を見忘れていて、もとのようになるまで十日位かかるという話をしていた。一駅も過ぎないうちに私は疲れて、壁に身を支えたりしたけれど、二人の将校は毅然と立ったままの姿勢で、汽車が揺れてもあまり身体を動かさなかった。

 

「此処まで来たんだから、ついでに成田まで行って見ようじゃないか」

 我孫子で乗越し賃銀をはらい、待合室に入ったとき、天願氏がこう言った。

「そう、ぼくはどうでも良いですよ」

 私は、成田が何処にあるかは知らない。此の我孫子ですら、地図の上ではどの辺になるのか見当がつきかねた。東京を離れた以上は、どこにどう行こうと私は同じ思いであった。時間を調べると、三十分後に出る汽車があった。[やぶちゃん注:主人公同様に不案内の読者のために、東京と我孫子と成田の位置関係をグーグル・マップ・データで示しておく。]

 そこらを一寸歩くことにきめて、私達は駅を出た。変哲もない田舎町がつづいている。まずしげなお土産屋や飲食店が、ほこりだらけの道の両側にならんでいる。道側に遊んでいる子供たちの眼は、東京の子にくらべると変に鋭くて、敵意を含んでいるような気配があった。

 馬糞の多い道を一丁程[やぶちゃん注:約百九メートル。]行くと、突きあたり、道は両側に分れていた。一つは、沼に行く道らしかった。そこにある近郊案内の立て札を読み、また同じ道をあるいて戻って来た。何ということもない。また待合室に腰かけて、汽車を待った。「疲れたかね」[やぶちゃん注:「沼」現在の我孫子市の北辺縁に貼り付くように東西に長い手賀沼のこと。]

 天願氏がにやにやしながら私の顔を見た。「貴公は、自然というものに対して興味を持たんらしいな」

「いや」と私も少し笑った。「興味もたないという訳じゃないけれど、――人間の方が面白いですな、自然よりは」

 しかし、何事に対しても興味の持ち方がうすいということは、私にとって生来のものであった。私は、自分が異質のものであるとは思いたくなかったけれど、そうした傾向は否めなかったのだ。人間に対しても、ミザンスロピィの形でしか、感情なり興味なりを持ち得なかった。もつとも環境のせいもあつた。役所で毎日、話と言えは猥談か、気の利いたつもりで泥臭い冗談しか言えないような同僚や上司と一しょに働いていれば、馬鹿でない限りはそうなってしまう。[やぶちゃん注:「ミザンスロピィ」misanthropy。英語で「人間不信・人間嫌い」の意。]

「これでも昔は、野山に行くのは好きだったんですがね」

 指で肋(あばら)を一本一本おさえながら、私は天願氏に言った。

 そのうちに改札が始まった。田舎の内儀(おかみ)さんの群と一緒に、ぞろぞろと歩廊になだれ込んだ。

 

 沼が右手に遠く、鈍く光ってはまた隠れ、また樹々の間からあらわれた。日はようやく傾きかけたようであつた。汽車は、空いていた。汽車が進んでゆくにつれ、天願氏は少しそわそわし始めた。

「どうしたんです」

「いや、一寸」窓の外ばかり見ている。

 天願氏の、数年前別れた妻との間にある男の子が、今日は日曜日だから、母方の祖父のうちに遊びに行っているかも知れない。(その子供は、妻の方に引きとられていた)祖父のうちが、此の沿線の汽車の窓から見えるところにあると言うのだ。

「もすこし先なんだ。もすこし――」語尾が少しふるえた。

 窓の外を、松林や、丘陵や、小川が次々に通り抜けた。家がぽつぽつと現われて来たかと思うと、たちまちそれが小さな部落となり、樹々にかこまれた低い家々が限界をさえぎったとき、天願氏は身体ごと乗り出すようにして、目をきらきらと光らした。

「あそこ!」

 瞬間にして、汽車はその部落を奔(はし)り過ぎた。

 暫(しばら)くの間私達はむき合って、黙っていた。汽車の轟音だけが、ごうごうとひびいた。窓から入る光線が、天願氏の顔をゆっくりと移動して行った。顔の陰影が変化するのは、丁度(ちょうど)表情が変って行くように見えた。

「ああ、成田までじゃなく、どこか遠いところまで行きたいなあ」

 暫く経って天願氏は独り言のように低い声で言った。

 

 成田の駅前は、大広場になっていて、夕方の淡い光の中で、成田停車場はまるで玩具のように見えた。天願氏の髪を、風がばらばらに吹いた。私達は参詣近道と書いた裏通りをゆるゆるとあるき出した。狭い道は不規則に折れ曲り、怪しげなカフェや、居酒屋がつらなっていた。門口に厚化粧をした女たちが椅子を出して腰かけ、私たちをうさん臭そうな顔で眺めたりした。それは変に私の嫌悪をそそった。私は出来るだけ目を外らしながら、少し前屈みになって急いだ。道は僅かながらも、登り坂になっていたのだ。そのうちに、大通りに出た。

「裏参道などと書いて、あれはきっとカフェの連中が客寄せに書いたんだろう」と私達は笑い合った。大通りは、どこの神社の町にもあるような土産店や、表だけがけはけばしい旅館などがずらずらと列(なら)んでいて、人々が動いているにも拘らず、芝居の書割りのように生気がなかった。夕方のせいか参詣客らしい姿はあまり見えず、道を歩いているのは町の男たちや商人らしかった。夕方の空には、綺麗(きれい)な鰯雲(いわしぐも)が出ていて、白い昼の月がうすくかかっていた。旅情が、それを見たとき始めて私の胸にほのぼのと湧き上って来た。

 不動は、森にかこまれていた。亀のいる池の石橋をわたり、石段をのぼった。石柱が沢山立っていて、寄付金と名前、壱千円也某、五百円也某といった具合に、金額が多いほど石柱も大きかった。それらが石段の両側に、墓碑のように連なり、風はそれをおおう樹々の茂みにそうそうと鳴った。私たちは黙って一歩一歩、石階をふんだ。

 本堂を横に切れて、後ろに廻ると、もはや本堂の背は夜であったが、壁面に僅か黄昏(たそがれ)が残っていた。そこには木彫の板がいくつもはめこんであった。私たちは顔を寄せてひとつひとつ見てあるいた。何の図柄か判らなかったが、どの絵も人間がたくさん彫られ、どの人間も同じ表情をし、同じ着物を着ていた。俗っぽい彫り方にもかかわらず、妙な迫真力があつた。不意に何か不気味なものを感じて振り返ると、人一人いない境内が背後にしらじらとひらけていた。[やぶちゃん注:私は成田山新勝寺に行ったことがないので、調べたところ、公式サイト内の「釈迦堂」によって、ここは現在、「本堂」(江戸後期の建立に成る)から「釈迦堂」に変更されていること、彼らが見たのは、この旧本堂の回廊の堂壁部分に施された、嶋村俊表作「二十四孝」や、松本良山作「五百羅漢」(及びその外の外回りの彫刻を彫物師後藤縫之助が手掛けているとある)の彫刻群であることが判明した。リンク先には画像もある。]

「寒い」

 夕方になって、少し冷えて来たのだ。その感じも、東京を離れた思いに強かった。

 まだ数枚の木彫板を見残して、私達は境内を通り抜け、脇へ降りる道をあるいた。

「すこし、金があるかね」

 私は袂(たもと)を探った。乏しい銅貨の音がした。街路に出て、燈の下で天願氏は金入れを出して、内をかぞえた。七円なにがしの金があった。

 相談の末、汽車賃だけ残して、のこりで一杯のむことにし、私達は歩きだした。先に立った天願氏の肩は、骨太だけれども何処か影がうすく、わびしかった。暗いところをあるくとき、二人の影は淡く地面にうつり、天願氏の影は、歩きぐせのために地面で躍るように動いた。空には、二十三夜の月が少しずつ光を増し、私達はことさら明るい通りを避けて、適当な居酒屋を探して行った。[やぶちゃん注:「二十三夜の月」但設定と思われる晩春の狭義の「二十三夜の月」は、夜の十一時近くの「月の出」になるので、時刻が遅過ぎるから(実は後のシーンで「九時を廻っているらしかった」とある)、ここは二十三日以前の三日月に成りかけた下弦の月をかく洒落て言ったに過ぎないと採っておくべきであろう。]

 薄汚ない暖簾(のれん)をかかげ、指で盃の形をつくつて見せ、あるかね、と聞くと、台所から親爺が顔を出して、まあ入んな、と答えた。そこで私達は中に入った。土間には卓子(テーブル)が一脚あって、両側に紅殻(べんがら)の剝げた樽が腰掛け代りに五つ六つ置いてあった。

「白だけど、いいかね」

「ああ、結構だよ」

 あちらこちら探し歩いた後だったから、もはやどんなものでもいい気持になっていた。私は、樽に腰を下して、掌を何となくすり合わした。

 湯吞茶碗を前にして、暫くしたら親爺が奥から大切そうに持って来た瓶から、冷たい濁酒(どぶろく)がとくとくと注がれた。粒が多い、濃い濁酒であった。

 親爺が、注文もしないのに持って来た、ほうぼうの煮付や、白い魚肉の酢味噌、そんなものをつつきながら、茶碗をほした。

「此の白馬はどこから持って来たのかね」[やぶちゃん注:「白馬」「しろうま」で濁酒の異名。白馬は神の供をする、酒は神に供える、というところからの色彩連想による俗語。違法醸造によるものであるから、かく隠語として用いたもの。]

「なに、河向うからだよ」と答えて、えへへ、とわらった。もしかすると、汽車賃に食い込むかも知れないと思ったが、そのうちに酔って来て、そんなことはどうでもよくなった。

 私達に向い合って馬方らしい老人がやはり飲んでいて、親爺と、今日見た溺死人の話をしていた。

 土間のむこうは部屋になっていて、親爺の女房らしい大きな女が牛のように横になっていた。側で子供がひとり手習いしていた。

 その子供には顎(あご)がなかった。[やぶちゃん注:事故によるものでないとすれば、先天性下顎骨欠損症或いは下顎骨が痕跡しかない疾患となろうか。]

「わたしたち二人で」と親爺は寝ている女をゆびさした。

「月に七升要りますがな」

 風が、暖簾を動かしていた。

 私達は、琉球(りゅうきゅう)や台湾や、遠い国の話をした。パパイヤや檳榔(びんろう)や、停子榔や泣き女の話をした。酔いが廻って来るにつれて、天願氏の放浪癖は益々そそられるらしかった。ずっと若い頃の、数年間にわたる大放浪の話を天願氏は低い声でめんめんと語った。[やぶちゃん注:「停子榔」読みも意味も不詳。当初、私は以下の「泣き女」との対表現から、台湾で檳榔や煙草を売る若い女性を指す「檳榔西施」かと思ったが、それはごく直近の風俗らしいので当たらない(御存じない方はウィキの「檳榔西施」を参照されたい)。次に前の「檳榔」の「榔」の一致と「子」から、アジアの広い地域で嗜好品とされる単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu の実、檳榔子(びんろうじ:アレコリン(arecoline)というアルカロイドを含み、タバコのニコチンと同様の作用(興奮・刺激・食欲の抑制など)を引き起こすとされ、依存性があり、また、発癌性が認められている)のことかとも思って調べて見たところ、ビンロウの中文ウィキに「倒吊子檳榔」の項があり、そこや他の中文記事を見ると、どうも檳榔子の中に下から上方へ成る実があり、その成分は他の実に比して激烈で、これを使用すると、死に至ることさえあるというようなことが書かれているようであり(私は中国語は解せない)、この「倒」は「停」と似ていて「子」も「榔」もあるから、これか? とも思ったのだが、そうすると「泣き女」との対表現が如何にも悪い。だったら、梅崎春生なら、「パパイヤや檳榔(びんろう)、その停子榔こと、或いは泣き女などの話をした」辺りの表現をするであろうと考えた。お手上げ。識者の御教授を乞う。但し、「停子榔」の文字列は日本語でも中国語でも引っ掛からない。「泣き女」葬儀や葬列の際に雇われて号泣する女性。本邦にも旧習としてあったが、中国・朝鮮半島・台湾を始めとして、ヨーロッパや中東など汎世界に見られる伝統的習俗であり、かつては普通に職業としても存在した。]

 そのうちに、もう何杯飲んだか判らなくなって、肴もあらかた食い尽した。全身が酔いのかたまりになるような気になった。馬方もかえってしまった。奥で寝ていた女房が起きて来て、土間に降りて暖簾を外し始めた。

「さて帰るかな」

 勘定をきくと、八円いくらになっていた。私は金は無いのだから、黙って天願氏の顔を見ていた。天願氏は黙然(もくねん)と金入れを出して、さかさに振った。しやがれた声で言った。

「親爺さん。一円ばかり足りない。上衣置いて行くから、明日まで待っと呉れ」

 器物を洗っていた親爺の顔に、ちょっと険しい表情が現われて、消えた。そして笑い顔になった。

「いや、そうおっしやるなら、明日でも良ござんす。上衣はいらないよ」

 私達は礼を言って、露地に出た。露地をあるくとき、私はにやにやした笑いが出てとまらなかった。理由はなく、可笑(おか)しくて可笑しくてたまらなかった。月が、馬鹿みたいに明るく照っていた。とうとう二人とも、一文なしになってしまった。天願氏も笑い出した。

「さて、これからどうするかな。今何時頃だろう」

 もう九時を廻っているらしかった。

「もう帰れないな」

「汽車賃もなし」

「宿屋に泊ろうか」

「金無しで?」と私は聞き返した。

 しかし、そうする外に方法はなかった。それでも私は苦境に立ったという気は少しもなかった。酔いのせいであったかも知れない。

 不動の裏手の、旧街道らしい道のそばにある成田屋という傾いた古い旅館に入って行った。女中も誰もいない。内儀らしい老女が出て来て、何だかだだっ広い部屋に通された。

 一本だけつけて貰って、二人で盃をゆるゆるとあけた。

「何だか変な具合になったな」

「新緑を見に来る筈だったんだが」

 ああそうだ、新緑を見に来たんだと、始めて気が付いた。しかし、上野を発ったときから、どんな新緑を見たか思い出そうとしても、頭に浮んで来るのは、灰色の家々や影のような人間の姿ばかりであった。

 此処の宿代は、今考えても仕方がないから、明朝起きて考えることにして、飯を食べた。酔いは依然として続いていた。

 部屋の硝子戸の外は不動の大樹がそびえ、月の光がぼんやりさしていた。私達は手拭いを借りて、階下の風呂場に行った。

 薄暗いじめじめした風呂で裸になり、代る代るすみっこの五右衛門風呂に入った。熱い湯に、腹から胸へと浸って行くとき、心臓がどきどき鳴って、咽喉(のど)まで何かかたまりが出て来るような気がした。手拭いで顔を拭きながら、にわかに荒涼たる想念が胸にのぼった。勿論、今日のことも、私にとってはごくささやかな放蕩にすぎぬ。しかし、此のような無定見な放蕩をくりかえすことによって、私の青春はやがて終って行くのであろう。

 流し場にしやがんでいる天願氏に、私は声をかけた。

「天願さん。ぼくが歌うから、あなた踊りなさい」

「よし」と天願氏は立ち上った。

 流し場の真中にきっと不動の如く立って、両手をそろえて体の両側につけた。肉の落ちた肩や胸をそらして、私の顔を見て、ハイツと言った。私はゆるく手を叩きながら歌い出した。天願氏の、故郷のうたであった。

 

  旅や浜宿い 草の葉ど枕

  寝(に)てん忘(わし)りらぬ  我家(わうや)のう側(すは)

  千鳥(ちじ)や浜うて  ちゅいちゅいな

 

 天願氏の肉体が、あやつり人形のように薄晴い電燈の下で、縦横無尽に動いた。ときどき歌の合のてに、元気よく掛声をかけた。出鱈目(でたらめ)の、その踊りを見ているうちに、私は変に悲しくなって来た。ふと先刻の汽車の中のことを思い出した。あのとき天願氏は、あの家の中に、自分の子供の姿をありありと見たのではないか。あのときは何も天願氏は言わなかったが、きっと子供の姿を見たに相違ない。私はそう思うといよいよ悲しくなり、顎を縁にのせたまま手拭いで風呂の湯をぴちやぴちやたたきながら、次第に歌の調子を早めて行った。


[やぶちゃん注:最後に天願氏が歌うのは、八重山民謡「浜千鳥」の一番である。たるー氏のブログ「たるーの島唄まじめな研究」の「浜千鳥」によれば、「浜千鳥」は「はまちじゅやー」と発音し、たる一氏の表記歌詞と沖繩方言音写では(歌詞には多様なヴァージョンがある旨の記載がある)、

 

旅(たび)や浜宿(はまやどぅ)い 草(くさ)ぬ葉(ふぁー)ぬ枕(まくら)

寝(に)てぃん忘(わし)ららん  我親(わや)ぬ御側(うすは)

千鳥(ちじゅやー)や浜(はま)うぅてぃ  ちゅいちゅいなー

 

である。私は梅崎春生はかなり正確に音写していると思う。リンク先では全曲と流派の異なる別バージョン、本民謡のルーツまで解説されているので、必見。]

2019/06/08

大和本草卷之十三 魚之上 䱱魚/鯢魚 (オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)

 

䱱魚  名人魚此類二種アリ江湖ノ中ニ生シ形鮎

 ノ如ク腹下ニツハサノ如クニ乄足ニ似タルモノアリ是䱱魚

 ナリ人魚トモ云其聲如小兒又一種鯢魚アリ下ニ記

 ス右本草綱目ノ說ナリ又海中ニ人魚アリ海魚ノ類記ス

――――――――――――――――――――――

鯢魚 溪澗ノ中ニ生ス四足アリ水中ノミニアラス陸地ニ

 テヨク歩動ク形モ聲モ䱱魚ト同但能上樹山椒

 樹皮ヲ食フ国俗コレヲ山椒魚ト云四足アリ大サ二三

 尺アリ又小ナルハ五六寸アリ其色コチニ似タリ其性

 ヨク膈噎ヲ治スト云日本處〻山中ノ谷川ニアリ京

 都魚肆ノ小池ニモ時〻生魚アリ小ナルヲ生ニテ呑

 メハ膈噎ヲ治ス

○やぶちゃんの書き下し文

䱱魚(にんぎよ)  「人魚」〔と〕名〔づく〕。此の類、二種あり。江湖の中に生じ、形、鮎(なまづ)のごとく、腹下につばさのごとくにして、足に似たるもの、あり。是れ、「䱱魚」なり。「人魚」とも云ふ。其の聲、小兒のごとし。又、一種、「鯢魚」あり。下に記す。右、「本草綱目」の說なり。又、海中に人魚あり。海魚の類に記す。

――――――――――――――――――――――

鯢魚(さんせううを) 溪澗の中に生ず。四足あり。水中のみにあらず、陸地にて、よく歩〔き〕動く。形も聲も「䱱魚」と同じ。但し、能く樹に上〔ぼ〕る。山椒〔の〕樹皮を食ふ。国俗、これを「山椒魚」と云ふ。四足あり。大いさ、二、三尺あり。又、小なるは、五、六寸あり。其の色、「コチ」に似たり。其の性〔(しやう)〕、よく膈噎〔(かくいつ)〕を治すと云ふ。日本、處々〔の〕山中の谷川にあり。京都魚肆〔(うをみせ)〕の小池にも時々生魚〔(せいぎよ)〕あり。小なるを生〔(なま)〕にて呑めば、膈噎を治す。

[やぶちゃん注:分離すると、注が重なるだけなので、特異的に二項を連続して示した。そのため、原典にはない罫線を間に挟んである種々の問題点(「鳴く」とか「樹に上ぼる」とか)はあるが、所謂、両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea に属するサンショウウオ科 Hynobiidae の多くのサンショウウオ類(本邦に棲息する種群はウィキの「サンショウウオ」の「おもな日本産種」を参照されたいが、そこだけでも十九種が挙げられており、しかも、この内で日本固有種でないのはサンショウウオ科キタサンショウウオ属キタサンショウウオ Salamandrella keyserlingii 一種のみとされている)、及び、オオサンショウウオ科 Cryptobranchidae のオオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus(本種は日本固有種(但し、現在の分布は南西部(岐阜県以西の本州・四国・九州の一部))。なお、別に同属の中国固有種チュウゴクオオサンショウウオ Andrias davidianus がいるので「本草綱目」の内の一種は間違いなくそれを指す)孰れも、特に後者の「鯢魚(さんせううを)」はこれで完全にカバー出来る。

「䱱魚(にんぎよ)」和訓は単に四足を持つことから。実はこの小児のような声で鳴くという明の李時珍の「本草綱目」の記載は、実は先行する幻想地誌「山海経」に書かれた奇魚の属性をずらしてしまったものと思われる。同書の「北山経」に「又、東北二百里、曰龍侯之山、無草木、多金玉。決決之水出焉、而東流注于河。其中多人魚、其狀如䱱、四足、其音如嬰兒、食之無癡疾」とあるのだが、西晋から東晋の文学者で卜者であった郭璞(かくはく 二七六年~三二四年)が注して、「䱱魚。䱱、見中山經。或曰、人魚卽鯢也、似鮎而四足、聲如小兒嗁[やぶちゃん注:音「テイ」。]。今亦呼鮎䱱爲。音蹏[やぶちゃん注:音「テイ」。]」とあるのを無批判にずらしてしまったものなのである。

「鮎(なまづ)」御存じのことと思うが、この漢字をアユ(キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis)に当てるのは日本だけ。禅宗の公案的図画「瓢鮎図(ひょうねんず)」で知られる通り、中国ではナマズ(ナマズ目ナマズ科ナマズ属ナマズ Silurus asotus)を指す(中国ではアユは「香魚」)。

「腹下につばさのごとくにして、足に似たるもの、あり」一見、ものものしい言い方なのは、スタートの基本を「魚」と措定してしまった結果、カエルなどと同様の生物としての括りが分類の中で不可能になってしまったからであろうと思われる。その証拠に、中国の本草書では同様の四足と蹼(みずかき)を有する大型のヒキガエル等を、わざわざこのような翼のような足に似たものなどとは言っていない(「本草綱目」ではカエルの類いは広義の「虫類」の「湿生類」に分類している)。

「其の聲、小兒のごとし」サンショウウオ類やオオサンショウウオは一般的に鳴かないと私は思う。「日本サンショウウオセンター」の記事を見ても「鳴かない」とあり(但し、ごく稀に一瞬、おし殺したような声(体内腔を用いた音か)を発することがあり、『ちょっとハスキーな声』と半分おふざけ気味で記してはある)、通常のサンショウウオ類が鳴いたとする記事はざっとみたところではない。ところが一件、サンショウウオ科サンショウウオ属ベッコウサンショウウオ Hynobius ikioi(阿蘇山系以南・霧島山系以北の鹿児島県北部・熊本県・宮崎県)が鳴くという記事を見つけたのだ。個人ブログ「古石交流館みどりの里」の「サンショウウオ(ベッコウ)が鳴く」である。記事の山名と方言と高度から見て、熊本県葦北郡芦北町古石の「大関山」(頂上で標高九百二メートル)と推定される。

   《引用開始》

『静かに』

勇治さんの制止に4人は耳を澄ました。

『ガー、ゲー、ゴー』

大関山の山頂近くの水源。標高約850m。

『これが、ベッコウサンショウウオの鳴き声です』

落ち葉が濡れてコケがはえてどこかでポタッ、、、[やぶちゃん注:ママ。]ポタッと水滴の落ちる程度のかすかな水源となっている大きな岩の狭い隙間から鳴き声が聞こえる。

カエルでもない、カラスでもない、摩訶不思議な声である。

今回はベッコウサンショウウオの孵化を見にきた。

オタマジャクシが卵から孵化するのとほとんど同じように孵化し、すぐに岩の中に帰っていくらしく、ひょっとしたらその現場に行き会うかもしれなかった。

『どこにも無かバイ、オランバイ』

とあきらめてそろそろ帰ろうかと思い始めたときに勇治さんの制止が入った。

『デジカメのムービーモードで音をとることが出来たはずバイ』

慣れないムービーモードにしてスイッチを押し続けた。

写したつもりだがどうもおかしい。

再生してみるがやはりおかしい。

音の記憶として残すとするか。

あっちの岩とこっちの岩で鳴きあっている。

『ガー、ゲー、ゴー』

ひょっとすると恋の季節。今後産卵するのかも知れない。ラブコールしているのかもしれない。

『ゲー、ゴー、ゲー、ゲー、ゲー』

私も似てない鳴き声を出してみるとさらに応えてくる。

サンショウウオを見るよりもうんと珍しい鳴き声を聞くという体験をしたのかもしれない。

道無き林を抜けて山道を少し登ると大関山頂だ。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

……繁殖期に鳴くサンショウウオがいたとしても、これ、おかしくない気が、そこはかとなくしてきたのである。識者の御教授を乞うものであるが、ここに登場する方々は「確かに鳴く」と言っているのである。

「海魚の類」このずっと後に出る。

「鯢魚(さんせううを)」先に示した中国固有種のチュウゴクオオサンショウウオも現代中国語で「中國大鯢」、俗名で「中國娃娃魚」「娃娃魚」と呼ぶ。但し、ここで益軒は「大いさ、二、三尺あり。又、小なるは、五、六寸あり」と言っているようにオオサンショウウオを含む広義のサンショウウオ類を言っているのである。

「水中のみにあらず、陸地にて、よく歩〔き〕動く」ウィキの「サンショウウオ」によれば、『オオサンショウウオは繁殖期に川を遡上するとき以外はほとんど水中から出ることはないが、他の種類は陸上生活を送ることが多く、森林の落ち葉の下やモグラやネズミが掘った穴の中や、川近くの石の下などに生息する。繁殖期以外は』、『あまり人の目にはふれることはない』とある。

「能く樹に上〔ぼ〕る」これはあり得ないと思う。結局、体に山椒に似た香りがある種がいることから「山椒魚」と呼ばれることから、彼らが「山椒の樹皮を食ふ」と誤認されたに過ぎないと考える。

「コチ」「鯒」で、ここでは海産の条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目コチ亜目コチ科コチ属 Platycephalus の魚類、或いは、それと同じく体が著しく扁平で、頭が大きく、骨板に包まれ、多くの棘状突起や隆起線を持つ形態の似た魚類である。通常は、体を砂中に潜めて目だけを出し、周りの色彩に体色を似せるものであり、サンショウウオ類の形状と似てはいる。

「其の性〔(しやう)〕」ここでは、本邦に於ける漢方医学上の薬理効果を限定的に言っている。

「膈噎〔(かくいつ)〕」「噎」は食物がすぐ喉の附近でつかえて吐く病気を、「膈」は食物が少し下の胸の附近でつかえて吐く病気を指すが、現在では現行の胃癌又は食道癌の類を指していたとされる。しかし、ここは進行したそれではあり得ないから、広義の咽喉や気道附近での咽喉もとの「痞(つか)え」を広汎に指す謂いでよい。]

漁村の朝 すゞしろのや(伊良子清白)

 

漁村の朝

 

月きえかゝる山畠の

小道の茨露滿ちて

雉子なきたつ朝凪を

まだめざめずや春の海

 

海の香高く海松(みる)匍ひて

龍をまつれる岩窟の

上にかけたるみ注連繩

紫うすき雲迷ふ

 

浪間に立てし石鳥居

御輦(ぎよれん)のひゞきたえぬれど

古びし額にかしこくも

勅筆の跡拜まるゝ

 

大巖のあたり眞盛の

白き梅咲く寺の門

島より島の靑波に

細き橋こそかゝりたれ

 

朱塗の塔の欄干に

翅休むる海の鳥

十二神將ゑがきたる

扉ははげて殘りけり

 

僧をおとなふ蜑の兒は

佛の前にぬかづきて

盡きせぬ今日の海幸を

いのりうらなふ御鬮箱

 

背の山のいたゞきに

日和のさまを見に行きし

村の翁は皈り來て

雲の景色をかたるなり

 

磯にうけたる魚籠は

蘆の若葉になぶられて

春風ぬるき岩角を

潮干くあとや海の草

 

一葦の水を隔てたる

出島のあまや飯炊く

半ば隱れし苫舟の

煙立つなり竹の奧

 

長き蘿のはひのぼる

きり岸うねる松一木

昔は章魚のかゝりしと

津浪を語る旅路かな

 

法螺の貝吹く杉林

魚見の小屋の灯火は

今しばしにてきゆるらん

赤き旗こそ見えそむれ

 

菜たねにうづむ一村の

家疎らなる藁屋ぶき

霞の庭を漕ぎいづる

蜑の小舟の唄遠し

 

磯の松原島かけに

きたるうなゐに道とへば

渡を越えてかの岸の

柳の境行けよかし

 

小さき入江に落ちかゝる

瀧の白絲水涸れて

山聳えたる一廓

日出もこゝはおそからむ

 

渡まつ間の戲れに

汀に立ちて淺海の

水底近く沈みたる

白き小石を數へけり

 

乘合舟の可笑しさを

ひとつに包む朝霞

纜解きて棹さすは

今日も缺唇(いぐち)の渡守

 

日は染めかゝる離れ雲

茜さしたる海上(かいじやう)に

あれ見よ浮ぶ蛤の

吐き出したる王城の

えん浮檀金の花櫓

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年四月三十日発行の『よしあし草』掲載。署名は「すゞしろのや」。

「海松(みる)」緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile。私の「大和本草卷之八 草之四 水松(ミル)」を参照されたい。

「御輦(ぎよれん)」天皇などの乗る輿(こし)の一つ。行幸の際、方形の屋形を載せた轅(ながえ)を駕輿丁(かよちょう)が担(かつ)いだ。屋根に金銅の鳳凰を置くものを「鳳 輦」、宝珠形を置くものを「葱花(そうか)輦」と呼ぶ。

「大巖のあたり眞盛の」「大巖」は音数律から二字で「いはほ」と訓じているものと思う。

「翅休むる海の鳥」同前で「翅」は「つばさ」と読んでいよう。

「御鬮箱」「みくじばこ」。籤占(くじうら)である。

「背の山のいたゞきに」同じく「背」は「うしろ」と訓じておく。

「磯にうけたる魚籠は」本来なら「魚籠」は「びく」と読みたいが、ここは音数律から「うをかご」或いは「いをかご」であろう。「うをびく」は屋上屋でよくない。

「出島のあまや飯炊く」「飯炊く」はやはり音数律から「めしかしく」と読める。

「長き蘿のはひのぼる」「蘿」は「かづら」と訓じていよう。

「津浪を語る旅路かな」は文字通りの「津波」(颱風の大海嘯や地震のそれ)とすれば、先の「村の翁」と主人公は同道して海食崖の磯端をそぞろ歩きしているものか。老人は津波でひどくやられる前のことを追懐して、「ここは昔は章魚のよう掛かったところじゃった」と呟いたのであろう。

「赤き旗こそ見えそむれ」私はこの部分、やや腑に落ちない。魚群の回遊を見極めるための「魚見の小屋」であるが、そこ「の灯火は」「今しばしにてきゆるらん」とあるなら、曙であることを指すものか。であったら、この「赤旗」は魚群が見えたことの合図であるから、既に漁師たちは出たということか? しかし、真っ暗闇の暁の時間では、魚見は普通は出来ない。さても、では、これが曙であるのなら、魚見のためにこそ、小屋の内の火は消しておかねば、よく見えないはずである。そういう意味で私は不審なのである。この部分を実景として問題ないとされるのであれば、是非とも御教授を乞うものである。

「島かけ」清音はママ。

「渡を越えてかの岸の」この「渡」(わたし)は海浜の浅瀬或いは岩礁伝いのことか。

「山聳えたる一廓」音数律から「一廓」「ひとくるわ」であろうか。

「渡まつ間の戲れに」この「渡」(わたし)は後の景(「乘合舟」に乗っている)から、渡し舟のことであろう。但し、この詩篇のロケーションは私は島だとは思わない。伊良子清白が若き日より馴染んだ志摩半島などの漁村には、海からでないと容易には通行出来ないところが、有意に存在し、ここもそうした場所のような気がしてならないからである。そうさ、以前に私が注で述べた、昭和二九(一九五四)年の「ゴジラ」の大戸島のロケ地である石鏡(いじか)が、撮影当時でさえ、まさにそうした陸の孤島的場所だったからである。

「纜」「ともづな」。

「缺唇(いぐち)」口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)の昔の異称。ウィキの「口唇口蓋裂」から引く。『先天性異常の一つであり、軟口蓋あるいは硬口蓋またはその両方が閉鎖しない状態の口蓋裂と、口唇の一部に裂け目が現れる状態の口唇裂(唇裂)の総称。症状によって口唇裂、兎唇(上唇裂)、口蓋裂などと呼ぶ』。『口唇口蓋裂の有病率は』一千『人中』一人から四人『程度あり、現在は治療法も確立し』、殆んどが『外科手術により治療可能で、治療痕も目立たなくなっている』。『古くは外科手術も発展して』おらず、『成人しても裂け目が残っているケースが多く、「ミツクチ」「兎口(とくち)」と呼ばれたが、外科手術の発展』によって、『現代では整形手術が容易となり、その』結果、『裂け目が残るケースが殆ど無くなり、「ミツクチ」「兎口」は差別用語として扱われる』よう『になっている』。

「えん浮檀金」「えんぶだごん」。仏教の経典中にしばしば見られる想像上の金の名称のサンスクリット語の音写。「だごん」の部分は「陀金」「他金」などとも書かれる。。その色は紫を帯びた赤黄色で、金の中でも最も優れたものとされる。経典にみられる「香酔山(こうすいせん)」の南で「雪山」の北にある、「無熱池」の畔(ほとり)の「閻浮樹林」を流れる川から採取されるとされることから、この名がある(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「花櫓」「はなやぐら」。美麗な高楼。高殿(たかどの)。文字通りの蜃気楼である。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(32) 「龍馬去來」(1)

 

《原文》

龍馬去來   馬蹄石ノ傳說ニハ更ニ今一ツノ根原アリ。カノ藤原廣嗣ガ愛馬ノ如キハ、單ニ乘手ガ一代ノ英傑ナリシノミニ非ズ、自分モ亦五百年ニ一タビ出現スル程ノ名馬ナリキ。天平十二年十月ノ頃ト買上ノ年月マデモ分明ナリ。【龍馬ノ嘶】廣嗣朝臣出デテ馬市ヲ見ルニ、墎(ウツロ)ノ中ニ在リテ一度ニ七聲ヅツ嘶ク馬アリ。高キ價ヲ拂ヒテ之ヲ買取リ飼育シテ見ルニ、紛レモ無キ龍ノ駒ナリキ。彼ハ此馬ニ乘リテ每日午後ヨリ一千五百里ノ路ヲ大和ニ往復シテ朝廷ノ公事ヲ勤メ、午前ハ太宰府ノ事務ヲ視タリト云フ〔古今著聞集二十〕。此話ハ惡クスルト彼ガ後任者大伴旅人ノ歌ニ

  龍(タツ)ノ馬モ今ハ得テシカ靑丹(アヲニ)ヨシ奈良ノ都ニ往キテ來ン爲

トアルヲ誤傳シタルモノナランモ〔萬葉集五〕、兎ニ角ニ九州ノ邊土ニハ斯ル神物ノ出デタリト云フ噂折々ハアリシナルべシ。即チ昔ノ人ノ英雄崇拜心ハ時トシテ馬ニモ及ビ、馬ノ中ニハ人間賢愚ノ差ヨリモ更ニ幾段カ烈シキ駿駑ノ相違アリト信ゼラレシナリ。【理想ノ名馬】平家琵琶流行ノ武家時代トナリテモ、此思想ハ常ニ存在シ、而シテ其名馬ノ名ハイツモ池月又ハ磨墨ニテアリキ。歷代ノ武士ガ名馬ニ憧憬セシ物語ハ無數ナリ。其極終ニハ怖ルべキ龍ノ駒ヲモ怖レザルニ至レリ。石州鹿足郡吉賀(ヨシガ[やぶちゃん注:ママ。])ノ谷ニハ古來馬ヲ產セズ、而モ一頭ノ駿馬相次ギテ此地ヨリ出デタリ。其二ツハ亦池月ト磨墨トニシテ次ニ徐ロニ之ヲ述べント欲ス。【名馬樋口】之ニ先ダチテ出デタルヲ樋口驪(ヒグチグロ)ト云フ。生レタル時長八寸ニ餘リ山野ヲ馳セ廻リテ口ヨリ常ニ火ヲ吐ケリ。困リテ火口トハ名ヅケシニテ、鹿足郡藏木村大字樋口ノ地名ハ寧ロ之ニ由ツテ起ルト云ヘリ。火口荒馬ナレバ人敢テ近ヅカズ。獨リ佐伯重行ナル者アリ、仙術ニヨリテ之ヲ御スルコトヲ得、之ニ乘リテ一日ニ石藝防ノ三州ヲ奔馳ス。朝廷聞シメシテ龍馬ノ獻上ヲ命ジタマヘドモ隨ハズ、一子小五郞ヲ人質トシテ終ニ之ヲ刑戮ス。重行遙カニ之ヲ察知シ、今ハ賴無シトテ此馬ニ乘リテ異國ニ立去ラントセシガ、馬鞭ノ影ニ驚キテ大字田野原河津ノ梅林ニ馳入リ、葛藟ニ蹶キテ倒レ死ス。【馬塚】今モ田ノ中ニ馬塚アリテ附近ニ龍馬ノ社ヲ祀ル。神體ハ馬ノ木像ナリ。此村永ク梅及ビ葛藟ヲ生ゼザルモ亦此因緣ノ爲ナリト云ヘリ〔吉賀記中〕。龍馬ヲ神ニ齋ヒシ近世ノ例ハ、阪本龍馬ノ鄕里ナル土佐ニモアリ。【池】又長岡郡十市村野村氏ノ系圖奧書ニ依レバ、同郡三里村大字池ノ百姓新兵衞、槇山生立ノ牝馬子ヲ孕ミタリシガ、腹ノ中ニテ既ニ嘶ク聲聞エタリ。永祿元年戊午ノ歲ノニ月初午ニ三足ノ駒生ル。【鬼鹿毛】鬼鹿毛ナルべシトノコトニテ豫テ打殺スべキ用意ヲシテアリシガ、生レ出ヅルヤ否ヤ馳セテ幸助ト云フ者ノ屋敷ニ飛ビ込ミタルヲ、大勢取卷キテ漸クノコトニテ之ヲ殺シ屍ヲ濱ニ棄ツ。【馬蘇生】然ルニ不思議ナル事ニハ此駒忽チ蘇生シテ厩ニ立返リ、平氣ニテ母馬ノ乳ヲ飮ミ、厩ヲ七遍廻リテ後終ニ南海ノ浪ニ走リ入リヌ。【祝神】野村氏ニテハ其龍馬ナルコトヲ知リテ家ノ祝神トシテ之ヲ祭リタリト云フ。近キ頃香美郡室丘ニアリタル龍馬ノ祠モ、多分ハ之ニ似タル異常ノ幼馬ナラント云フコトナリ〔土佐國群書類從九所錄龍馬祠記附錄〕。藤原廣嗣ノ愛馬ガ一度ニ七聲嘶キ、右ノ池村ノ龍馬ガ厩ヲ七度廻リタリト云フコトハ、偶合ニハ非ザルべシト思ハルヽ仔細アリ。前ニモ說キタル外南部ノ七鞍ノ怪馬ト同ジク、【妙見ト馬】北辰化生ノ古キ信仰ニ基クモノナルヤ略疑ナキナリ。美濃惠那山(エナサン)ノ頂上ニ馬ノ神アリ。九月九日ノ祭ニハ近鄕ヨリ多クノ凡馬ヲ牽キ登ル。社ハ池ノ側ニ七社列立ス。其池ノ岸ナル笹ノ葉ヲ取來リテ馬ニ飼ヘバ能ク病ヲ治スルコトヲ得ト信ゼラレタリ〔一宵話〕。此モ同ジ信仰ニ起因スルモノナルべシ。

 

《訓読》

龍馬(りゆうめ)去來   馬蹄石の傳說には、更に今一つの根原あり。かの藤原廣嗣が愛馬のごときは、單に乘手が一代の英傑なりしのみに非ず、自分も亦、五百年に一たび出現する程の名馬なりき。天平十二年[やぶちゃん注:七四〇年。]十月の頃と買ひ上げの年月までも分明なり。【龍馬の嘶(いななき)】廣嗣朝臣、出でて、馬市を見るに、墎(うつろ)の中に在りて、一度に七聲づつ嘶く馬あり。高き價を拂ひて、之れを買ひ取り、飼育して見るに、紛れも無き龍の駒なりき。彼は此の馬に乘りて、每日、午後より一千五百里の路を、大和に往復して朝廷の公事を勤め、午前は太宰府の事務を視たりと云ふ〔「古今著聞集」二十〕。此の話は、惡くすると、彼が後任者大伴旅人の歌に[やぶちゃん注:とんでもないひどい誤り。後注参照

  龍(たつ)の馬も

     今は得てしか

        靑丹(あをに)よし

      奈良の都に

       往きて來(こ)ん爲(ため)

とあるを誤傳したるものならんも〔「萬葉集」五〕、兎に角に、九州の邊土には斯かる神物の出でたりと云ふ噂、折り折りは、ありしなるべし。即ち、昔の人の英雄崇拜心は、時として、馬にも及び、馬の中には、人間賢愚の差よりも更に幾段か烈しき駿駑の相違あり、と信ぜられしなり。【理想の名馬】平家琵琶流行の武家時代となりても、此の思想は常に存在し、而して、其の名馬の名は、いつも「池月」又は「磨墨」にてありき。歷代の武士が名馬に憧憬せし物語は無數なり。其の極(きよく)、終(つひ)には怖るべき龍の駒をも怖れざるに至れり。石州鹿足(かのあし)郡吉賀(よしが)の谷には、古來、馬を產せず、而も、一頭の駿馬、相ひ次ぎて此の地より出でたり。其の二つは、亦、「池月」と「磨墨」とにして、次に徐(おもむ)ろに之れを述べんと欲す。【名馬樋口】之れに先だちて出でたるを、「樋口驪(ひぐちぐろ)」と云ふ。生まれたる時、長(たけ)八寸(やき)に餘り[やぶちゃん注:蹄底から前脚肩位置までが一メートル四十五センチメートル超え。新生馬でこれはあり得ない。]、山野を馳せ廻りて、口より常に火を吐けり。困りて「火口(ひぐち)」とは名づけしにて、鹿足郡藏木村大字樋口の地名は、寧ろ、之れに由つて起こると云へり。火口、荒馬なれば、人、敢へて近づかず。獨り、佐伯重行なる者あり、仙術によりて、之れを御(ぎよ)することを得、之れに乘りて、一日に石・藝・防[やぶちゃん注:石見・安芸・周防。]の三州を奔馳(ほんち)す。朝廷、聞しめして、龍馬の獻上を命じたまへども、隨はず、一子小五郞を人質として終に之れを刑戮(けいりく)[やぶちゃん注:死刑に処すること。]す。重行、遙かに之れを察知し、「今は賴み無し」とて、此の馬に乘りて異國に立ち去らんとせしが、馬、鞭の影に驚きて、大字田野原河津の梅林に馳せ入り、葛藟(かつるい)[やぶちゃん注:「葛」は「くず」、「藟」は「藤葛(ふじかずら)」の意で、蔓草の類の総称。]に蹶(つまづ)きて、倒れ、死す。【馬塚】今も田の中に馬塚ありて、附近に龍馬の社を祀る。神體は馬の木像なり。此の村、永く梅及び葛藟を生ぜざるも亦、此の因緣の爲めなりと云へり〔「吉賀記」中〕。龍馬を神に齋(いは)ひし近世の例は、阪本龍馬の鄕里なる土佐にもあり。【池】又、長岡郡十市村野村氏の系圖奧書に依れば、同郡三里村大字池の百姓新兵衞、槇山(まきやま)生立(おひたち)の牝馬、子を孕みたりしが、腹の中にて既に、嘶く聲、聞えたり。永祿元年戊午(つちのえうま)[やぶちゃん注:おかしい。元禄元年(一六八八年)は「戊辰(つちのえたつ)」である。干支を誤る資料は致命的に評価されない。「辰」で「龍」なんだから、わざわざ「午」にして墓穴を掘る必要なんかさらさらないのに「馬」鹿やなぁ。]の歲の二月初午に、三足(みつあし)の駒、生まる。【鬼鹿毛(おにかげ)】「『鬼鹿毛』なるべし」とのことにて、豫(かね)て打ち殺すべき用意をしてありしが、生れ出づるや否や、馳せて幸助と云ふ者の屋敷に飛び込みたるを、大勢、取り卷きて、漸くのことにて、之れを殺し、屍(しかばね)を濱に棄つ。【馬蘇生】然るに、不思議なる事には、此の駒、忽ち、蘇生して厩に立ち返り、平氣にて母馬の乳を飮み、厩を七遍廻りて後、終に南海の浪に走り入りぬ。【祝神】野村氏にては、其の龍馬なることを知りて、家の祝神(いはひがみ)として之れを祭りたりと云ふ。近き頃、香美郡室丘にありたる龍馬の祠も、多分は之れに似たる異常の幼馬ならんと云ふことなり〔「土佐國群書類從」九所錄「龍馬祠記」附錄〕。藤原廣嗣の愛馬が一度に七聲嘶き、右の池村の龍馬が厩を七度廻りたりと云ふことは、偶合には非ざるべしと思はるゝ仔細あり。前にも說きたる外南部(そとなんぶ)の七鞍の怪馬と同じく、【妙見と馬】北辰化生の古き信仰に基づくものなるや、略(ほぼ)疑ひなきなり。美濃惠那山(えなさん)の頂上に馬の神あり。九月九日の祭りには近鄕より多くの凡馬を牽き登る。社は池の側に七社、列立(れつりつ)す。其の池の岸なる笹の葉を取り來たりて馬に飼へば、能く病ひを治することを得と信ぜられたり〔「一宵話(ひとよばなし)」〕。此れも同じ信仰に起因するものなるべし。

[やぶちゃん注:「龍馬(りゆうめ)」この熟語は今まで本文に多数出現しているのであるが、初回は「駒ケ嶽」の最初で、その後、ここまでで十三回ほど出現している。今まで電子化しながら、私自身、『この読みはどうか?』と内心、ひどく気になっていたのだが、ここでそれに決着をつけることとした。根拠は小学館「日本国語大辞典」の「りゅうめ(龍馬)」の項で、「メ」は「馬」の呉音、「バ」は漢音、「マ」は慣用音とし、『きわめてすぐれた駿足の馬。たつのうま。りゅうば。りょうめ。りょうば』とする。無論、一貫して柳田國男はルビを振っていないから(「ちくま文庫」も全くルビなし)、柳田國男がこれを現代仮名遣で「りゅうば」「りょうめ」「りょうば」或いは坂本竜馬よろしく「りょうま」(同辞書はこれも掲げて「見よ見出し」で「りょうめ」を指示している)と読んいなかったどうかは判らない。しかし、とならば、ここは天下の「日本国語大辞典」に従い、「りゆうめ(りゅうめ)」と読みを統一しておくのが無難と判断した。以後、特別な場合を除いて、一切振らないつもりである。「駒ケ嶽」の最初にもその注を追加したので、読者の方々は私は「りゆうめ(りゅうめ)」と統一して読んでいるものと認識されたい。これは私自身のここまでの神経症的な内心の気持ちの悪さを払底するためのものであって、絶対的な柳田國男の著作の書誌学上の根拠があってのものではないから、それ以外で読みたい方は、どうぞ。但し、それで私に論議を吹っかけてこられても私は一切応じないので、悪しからず。

「墎(うつろ)」当初は柳田國男の「うつろ」のルビからも、馬市の「栅で囲った囲み」の意と読んだが、「墎」は牧場の柵ようなものではなく、城などの障壁を指すので不審に思っていたところ、後に示す「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」(鎌倉中期の九条道家の近習伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集。全二十巻七百二十六話。建長六(一二五四)年十月頃の原型の完成後、後年に増補がなされている)の所持する原文を見ると(後掲する)、「郭中に一聲に續けていばゆる馬のこゑ聞えけるを尋ねて」となっており、新潮日本古典集成版では、これに添え訳で『大宰府の中で』とあって、こちらの方が遙かに腑に落ちた。則ち、柳田國男の文章に從うなら、馬市に向かったが、向かっている時点で、何と、大宰府内全体に響き渡るほどの嘶きをその馬がした、のである。物語はこちらであってこそ異類奇談たるものとなる。

「一千五百里」「大宝律令」で定められた当時の「一里」は当時の「一町」=「三百歩」と規定されている。当時の距離単位は後代のそれより有意に短い設定であるため、当時の「一里」は現行のそれとは大きく異なり、僅か約五百三十三・五メートルであったと推定されている。されば「一千五百里」は約八百キロメートルとなる。馬鹿馬鹿しいとは思ったが試みに単純実測してみたところ、大宰府から平城京までは最短でも約六百キロメートル弱は有にあるから、ドンブリ勘定では問題のない事実距離と言える。

『「古今著聞集」二十』「卷第二十 魚蟲禽獸」の事実上の巻頭(前に「禽獸魚蟲も皆思ふ所有るに似たる事」として「禽獸魚蟲、其彙(ゐ)、且千(しやせん)、皆、言ふ能はずと雖も、各々思ふ所有るに似たる者なり」(鳥・獣・魚・蟲などのありとある生き物は、その種類(「彙」は「類い」の意)、これ、甚だ多い(「且」「千」ともに「多いこと」を示す)が、彼らは言葉を発することが出来ないとはいえどもそれぞれに人と同じく思い感じるところがあるように見える存在である)とあるが、これは「序」である)で六七三番目の「右近少將廣繼、宰府に下り、時の間に千五百里の道を通ふ龍馬を得たる事」である。新潮日本古典集成版(底本は九条家本系古写本(広島大学附属図書館蔵))を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。

   *

 右近少將廣繼[やぶちゃん注:「廣嗣」が正しい。前回既注。]朝臣、太宰少貳(だざいのせうに)になりて[やぶちゃん注:前回、注した通り、左遷。]、天平十二年[やぶちゃん注:七四〇年。]、宰府にくだりけるに、十月の比(ころ)、郭中に一聲につづけて七聲いばゆる馬のこゑきこえけるを尋ねて、高直(かうぢき)に買ひとりて、いたはりかひければ、龍馬(りゆうめ)にてぞありける。それに乘りて、午の刻よりかみには都府の政(まつりごと)にしたがひ、午の時より後には朝家(てうけ)の公事(くじ)をぞ、つとめける。一千五百里の道を時の間(ま)に通ひける、直人(ただびと)にはあらず。つひかの少將は神となりて、鏡の尊廟(そんべう)[やぶちゃん注:現在の佐賀県唐津市鏡にある鏡神社(グーグル・マップ・データ・以下同じ)。]とぞ申すなる。むかしの館の跡も、かの社のほどにてなん侍るとぞ[やぶちゃん注:「今昔物語集」では広嗣の家は肥前国松浦郡にあったと記す。]。

   *

「後任者」トンデモ級の誤り。藤原広嗣は「太宰少弐」(大宰府の次官で大宰大弐(最高次官。親王が帥に任ぜられて不在であるのに権帥もいない場合は代理で府務を統率した)の下に位した)で、旅人は「太宰帥」であるから、これは狭義の「後任者」ではない。しかも誤りが致命的なのは、広嗣左遷されて大宰府に行ったのは天平九(七三七)年の末であるのに対し、旅人が大宰帥として現地に赴いたのは神亀四 (七二七) 年頃であるから、旅人の方が先に大宰府で勤務しているという二重の間違いを柳田國男は犯しているからである。

「大伴旅人」(天智四(六六五)年~天平三(七三一)年)は奈良時代の政治家・歌人で、大納言安麻呂の長男。かの「万葉集」編纂者と目される家持の父。養老二(七一八)年に中納言、同四年に征隼人持節大将軍(せいはやとじせつたいしょうぐん)に任ぜられ、隼人(古代の南九州を拠点としていた一部族。主として大隅・薩摩地方を居住していた。五世紀中頃以降、概ね大和朝廷に服属の意を示した。勇猛敏捷であったため、徴用されて宮門の警護・行幸の先駆けなどを勤めた。大宝令では「隼人司」が置かれ、六年交代で朝廷に勤番し、勤番後は畿内・近江・播磨などへの土着が許された。しかし、八世紀の初め頃、彼らは反乱を起こし、たびたび鎮圧軍が派遣された。後、大隅・薩摩の国司に大宰府官人が任命されるようになってから、次第に完全に律令支配体制に組み込まれてしまった)の反乱鎮圧に功があった。神亀四(七二七)年頃、大宰帥となって九州に下ったが、天平二(七三〇)年には大納言に昇進して帰京した。但し、翌年に没した。「万葉集」に長歌一首・短歌五十三首(これに巻第五の無署名歌を加える説もある)・漢文の序・書簡が、「懐風藻」に詩一篇が残る。歌は大宰帥になってからのものが殆んどで、漢文学の素養に基づいた構想を持ち(ここで掲げたものはその代表歌)、情感にあふれた人事詠に特色がある。

「万葉集」巻第五の「雜歌」の悲痛な「太宰帥大伴卿の相聞の歌」二首(八〇六・八〇七)の一番目である。二首とも示す。この前書様の部分はプライベートな女性(不詳)との書簡の一部の引用であって前書ではない(書簡は旅人のそれとするもの、その女性のものとの二説があるが、漢籍の故事に基づく謂いから、私は旅人自身のそれとしか思えない)。

   *

 伏して來書を辱(かたじけな)くし、具(つぶ)

 さに芳旨(はうし)を承はりぬ。忽ち漢(あま

 のがは)を隔つる戀を成し、復た、梁(はし)

 を抱(いだ)く意(こころ)を傷ましむ。唯だ、

 羨(ねがは)くは、去留(きよりゆう)に恙無

 (つつみな)く、遂に雲を披(ひら)くを待つ

 のみ。

   歌詞兩首 大宰帥大伴卿

龍(たつ)の馬(ま)まも今も得てしかあをによし奈良の都に行きて來(こ)む爲(ため)

現(うつつ)には逢ふよしも無しぬば玉の夜の夢(いめ)にを繼ぎて見えこそ

   *

書簡中の「漢(あまのがは)を隔つる戀」は、奈良と筑紫と遠く隔たっていることを牽牛織女の天の川伝承に譬えたもの。「梁(はし)を抱く意」とは「荘子」(「盗跖篇」)や「文選」などに見える知られた故事を踏まえたもの。春秋時代、魯の尾生という青年が橋の下で女を待っていたが、川かさが増してもそこを去らずに待ち続け、橋脚を抱いたまま水に飲まれて死んだという。芥川龍之介の「尾生の信」で人口に膾炙する(リンク先は私の古い電子テクスト)。「去留」は行住坐臥で日常の生活の意。「遂に雲を披(ひら)く」は、講談社文庫版「万葉集」の中西進氏の注に『文王が姜公に逢う』や、その不思議に『輝くこと』、『雲を披いて太陽を見るごとくだった、という故事』を踏まえたもので、『貴人に会う形容』とある。

「石州鹿足郡吉賀(よしが)の谷」現行では島根県鹿足郡吉賀町(よしかちょう)と濁らない。個人サイト「柿木あれこれ」で、なんと! ここの出典である「吉賀記」が全文電子化されてあった! その解説によれば、「吉賀記」はこの吉賀の地方誌で、『田丸の村吏尾崎太左衛門の書で、吉賀開発よりの事実を記したものです。氏は若年の頃より』、『ひたすら老父へ古き言傳を聞き、又』、『神社仏閣に詣でては来由を尋ね、旧家を尋ねては代々の文を捜し求め、また名勝の旧跡を』、『險阻の地でも、足を運び』、『その眺望の景を書き残しました。その後』、『渡辺源宝により追加・補筆されたものです』とあり、同町の『広報よしか』二〇一五年十二月号PDF)によれば、尾崎太左衛門(元文五(一七四〇)年~文化九(一八一二)年)は四十三年間の長きに亙って、この吉賀地区内の庄屋を勤め、地域住民の信望が厚かったとあり、また、この「吉賀記」は太左衛門が書いてから十年あまり後の(尾崎の死後)文政四(一八二一)年に、津和野藩士で代官にもなった渡辺源宝が補筆したものとある。

「樋口驪(ひぐちぐろ)」以上のサイトの「吉賀記」中巻に(手筆本を起こしたとあるので、漢字表記はママとしたが、改行部を繋げた。また、私が句読点や記号を附し、一部の注を私の注に代え、私の推定の読み(引用元にはカタカナ以外の読みはない)にと注も挟んだ)、

   《引用開始》

樋口驪(くろ) 仁安年中[やぶちゃん注:一一六六年~一一六八年。]、藝の佐伯上郷(さえきかみさと)後葉[やぶちゃん注:子孫。]重行籠(こめ)たる[やぶちゃん注:飼っていた。]媽馬[やぶちゃん注:母馬。]産(うみ)たる駒なり。其尺、八尺に餘(あまり)、形勢逞しく、常に山野に駆(く)す。則(すなはち)、口より火焔を吐(はき)、又、光明を放つ。故、「火口くろ」とも云(いひ)、人、恐れて近寄らず。或時、重行面前へ出(いで)て頭を垂れ、再拝の貌をなす。重行不臆(おくせず)、馭之(これをぎよし)、直(ただち)に飛行(ひぎやう)す。重行、心の儘也。因て重行、仙術、弥増し[やぶちゃん注:「いやまし」。]、石・藝・防の三國、一日に駆す。依之(これによつて)、禁庭、聴え、「件(くだん)の龍馬を献上せよ」[やぶちゃん注:「との」の欠脱字か。]宣旨有(あり)と雖、重行、勅命に不應(おうぜず)、依て、一子小五郎を長(ちやう)南四郎に仰(おほせ)て誅戮し給ふ。舊跡、河津に記す。此馬の口付(くちつき)馬角は[やぶちゃん注:「口付」は馬丁であるから「馬角」はその人物の名か。]山岳幽谷を迷ひ、杉ヶ峠馬角谷に迷亡すといふ。時の人、重行を「千軒太夫」といふ。右にいふ龍馬に乗り、一日に三國を馳す故に名有り。「吉賀七不思議」の内なり。

   《引用終了》

また、ここに出る「舊跡、河津に記す」は同中巻の以下を指す。

   《引用開始》

馬 舩(むまぶね)[やぶちゃん注:蹄の後を記した石の名か。] 佐伯上郷後胤重行、寵愛したる龍馬、帝都へ不献(けんぜず)。故に勅命に背(そむく)[やぶちゃん注:「に依つて」辺りの脱字か。]一子小五郎、帝都へ召質(めしじち)し、長南四郎國氏に仰(おほせ)て、罰し給ふ。此(これ)は仁安元年九月十八日、重行、仙術天眼を以て、悟(さとり)、此(これ)、小五郎ヶ嶽へ上り、一子あ血烟(ちけむり)[やぶちゃん注:意味不明。サイト主の判読の誤りが疑われる。]靉靆たるを見て、「今は頼りなし。異国へも立去(たちさら)ん」と馬に鞭打(うち)しかは、河津川の畦瀧[やぶちゃん注:「あぜだき」で滝の固有名詞か。]中へ落(おち)、腹・足を冷す。又、一策(ひとむち)馳(はせ)て、河津へ走り、梅林に蹶是(ケッシ[やぶちゃん注:ママ。これに躓き。])して死すとなん。馬舩、凡(およそ)、水、廿石餘(あまり)入(いる)打込(うちこみ)たる足跡、又、重行木履(ぼくり)の跡、瀧中に有(あり)。今、雨乞に験(しる)し新た也。此瀧、底を洗ひ清め、龍神を勧請し、雨乞す。「吉賀十ヶ旧跡」[やぶちゃん注:の一つ、の意。]なり。防州の内、小五郎ヶ嶽は帝都にて小五郎誅戮にあふを歎きたる故名と成(なる)となん。

   《引用終了》

また、同中巻の「樋口」村の条には、

   《引用開始》

樋口村 吉桝 いかぢ 中河内 下河内 岡

 往古、向井谷郷・高津銀弥、高津川の源を尋(たづね)て、此奥谷へ入り、大なる莧蕗[やぶちゃん注:「ひゆぶき」と読むか。双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科キク亜科フキ属フキ Petasites japonicus の巨大なものととっておく。]を見て驚き、村と号し[やぶちゃん注:村の名と成し。しかし「ひゆぶき」から「ひぐち」は無理がある。]、八ヶ村の総名と成(なる)。又、大蛇か[やぶちゃん注:ママ。「が」か。]池・山峡を穿ち、沼水を抜(ぬく)。因て「樋口」[やぶちゃん注:「の」の脱字か。]名、発(おこ)ると云(いふ)。 産物、牛の子。

   《引用終了》

とあって、柳田國男の解釈とは異なる(但し、柳田もこの転訛が怪しいことをやはり感じたものかとも思われる)。別に同書の上巻の方には(以下の馬の名の読みは総て引用元のもの)、

   《引用開始》

駒 三疋  「生食(いけつき)」田野原より出る。

「火口黒(ひくちくろ)」樋口より出る。

「馬角駒(ばかくこま)」福川にて生る。

追加

或説に、摺墨の名馬吉賀より出るといへり何れか、辨(べんじ)難し。追(おつ)て可正也(ただすべきなり)。又、「いけづき」は長州須佐甲山より出ると云(いひ)傳ふ。左もあらは、吉賀よりは「する墨」出し事、實正(じつしやう)ならんか。

   《引用終了》

「鹿足郡藏木村大字樋口」現在の島根県鹿足郡吉賀町樋口。吉賀町内の東方に当たる。

大字田野原河津」島根県鹿足郡吉賀町田野原。樋口の東隣りで、吉賀町内の東方端。ほとんどが山岳である。

「葛藟(かつるい)」「葛」は「くず」、「藟」は「藤葛(ふじかずら)」の意で、蔓草の類の総称。

「長岡郡十市村」高知県南国市十市(とおち)

「同郡三里村大字池」現在の高知県高知市池市が異なるが、先の十市地区の西方直近である。

「槇山(まきやま)生立(おひたち)」槇山産の。「槇山」は高知県高知市槇山町(ちょう)高知市池からは北西十キロメートル弱の内陸部

「三足(みつあし)の駒」奇形馬。チェルノブイリ以降、四足の畜類の奇形が盛んに画像で出て人々を恐懼させているが、実際には生物の奇形児はそれらに限らず、人でも、普通に(放射能汚染と無関係でも)実際には有意に多い。ただ、死産として父母にも見せずに処理してきた歴史があるのである。無論、放射能汚染をその大きな原因の一つとすることを私は積極的に肯定することは言い添えておく。

「鬼鹿毛(おにかげ)」名馬(武田信虎の愛馬)や霊馬(「新座市産業観光協会」公式サイト内の「鬼鹿毛の伝説」を参照。これは神に祀られているので是非読まれたい)の固有名詞でもあるが、この場合は、不吉な妖魅の馬(「鹿毛」は馬の毛色の代表色であるから、ここは全く単に忌まわしい「鬼馬」の謂いである)の謂いである。

「香美郡室丘」不詳。「土佐國群書類從」に当たることが出来ないのだが、或いは、現在の高知県香南市赤岡町のことかも知れない。

「美濃惠那山(えなさん)」長野県阿智村と岐阜県中津川市に跨る、木曽山脈の最南端の山。標高二千百九十一メートル。ウィキの「恵那山」によれば、『恵那山周辺地域ではこの山に天照大神が産まれた時の胞衣(えな)を納めたという伝説が残っており、この山の名前の由来ともなっている。また、』「古事記」で『日本武尊が科野』(しなの)『峠(神坂峠』(みさかどうげ:木曽山脈南部の岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある標高千五百六十九メートルの峠。恵那山から直線で東北約四キロ半の位置。ここ)『)で拝したのも恵那山の神である』。『江戸時代中期には毎年修験道者が礼拝に訪れ、前夜に恵那神社で禊ぎをして登山を行っていた』とはあるものの、その他、ネットで調べて見ても、この「頂上に馬の神」が祀られているとか、「九月九日の祭りには近鄕より多くの凡馬を牽き登る」に相当するような祭祀は現在は行われていない模様である(但し、次注参照)。

「社は池の側に七社、列立(れつりつ)す」「池」とあるが、山頂付近には現在、池はない。南東に尾根筋を三キロほど行った位置に「野熊の池」があるが、ネット上の幾つかの写真を見ても、「池の側」には祠は見られない。但し、サイト「YAMA HACK」の「恵那山|天照大神が生まれた歴史深い山!レベル別登山ルート4つ」には、『恵那山山頂には葛城社』・『富士社』・『熊野社』・『神明社』・『劍社』・『 一宮社の』七『つの社が祀られてい』るとはある。

「一宵話(ひとよばなし)」尾張藩藩校明倫堂の教授を務めた漢学者秦鼎(はたかなえ 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年:号は滄浪)の考証随筆で、私も所持するのであるが、どうもここに柳田國男が解説するような部分を見出せない。巻之二の「龍の雲」に恵那山の話は追記で載るが、内容は以下と極めて簡略である。取り敢えず、吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化してその部分だけを示す(主文と追記の前半分は面白いが、恵那山とも馬とも全く関係がない呪(まじな)いに関わる奇談実話である)。

   *

比邊にては、美濃國惠那郡惠那山は、國中第一の高山なり。此山の祭りに、郡中の村々より、馬を引て登る事なり。其日には必大風雨する。是を土人の說(セツ)に、大勢(ゼイ)が登り二便(ベン)[やぶちゃん注:大便と小便であろう。]して、御山を穢(ケガ)から、神きたなくおぼして、洗ひ淨め給ふ雨なりといふ。是は神の御心とも覺へず。穢はしとおぼさば、祭うけ玉はぬがよし。客を請(シヤウ)じて、客の座敷よごせるを腹立るは、好(ヨキ)主人にはあらず。まして終日山中に居て、二便せぬものやほある。おもふに深山窮谷(シンザンキウコク)中に、欝蒸積充(ウツジヨウセキヂウ)する雲霧濕氣(ウソムシツキ)、數萬人の聲にひゞき動かされて、俄にさわぎ起るものならんかと、或人いへり。此亦理あり。

   *

万一、見落としていて見出せたなら、追記する。]

2019/06/07

前天橋立歌 すゞしろのや

 

前天橋立歌

 こは和鄕ぬしの哥につぎて早く出すべかりしを拙き詞の
 やさしくて久しく匣に祕めおきつるなり 流石に蠹魚の
 みは獨あるじの惠をよろこびたらんかし

[やぶちゃん注:「和鄕ぬし」既出既注。木船和郷。詳細不詳。

「哥」不詳。本篇は『文庫』投稿であるから、これ以前のかなり以前の号に和郷が投稿した天橋立を詠じた「哥」(短歌か詩篇)を指すものであろうとは思う。その「哥」を見たいものである。

「やさしくて」気恥ずかしくて。きまりが悪かったので。

「匣」「はこ」。手文庫箱。

「蠹魚」「しみ」。節足動物門昆虫綱シミ目 Thysanura のシミ類。私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 衣魚(シミ)」を参照されたい。]

 

つきあかし

つきのうさぎもくだりこむ

橋立小女郞まつにきてまへ

  (老狐異名)

   ○

更け行くなべに

    影沈む

一里の松の

    葉を黑み

あまつをとめが

    わすれたる

白き翼と

    まがふまで

月のひかりは

    みちにけり

さやけき月の

    やどるなる

涼しき露は

    葉にみちて

散らば桂や

    生ひもせん

枝を交ふる

    老松の

眞砂が原の

    月くらし

 

月やうやうに

    かたぶきて

いその洲崎に

    やどれるを

ゆめよりさむる

    水鳥の

おどろき立てば

    靜なる

蘆間の影も

    さわぎけり

   ○

なみのおと

まつのひゞきもなりあひの

かぜふきわたるあまのはしたて

  (順禮歌)

   ○

鈴のねくらき

    あかつきの

みてらのやまを

    のぼりきて

菅の小笠に

    松かさの

をりをりおつる

    つゞらをり

いたゞき近く

    みおろせば

 

雲の錦の

    色深み

かぎろひもゆる

    ひんがしの

花の浮城

    とだえして

紅匂ふ

    日の影は

西にいざよふ

    夕暮の

豐旗雲の

    なびくまで

長き日ねもす

    松ばらの

天の橋立

    わたるらん

 

鏡とすめる

    與謝の海の

玉藻刈るこが

    一葉ぶね

さをにみだるゝ

    浪の上に

黃金をくだく

    朝日子は

千本の松を

    吹きこゆる

みどりの風に

    うちのりて

今下つ枝を

    昇るなり

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年四月一日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。

「(老狐異名)」これは前のソリッドな三行の挿入詩篇の標題的後書き(後の「(巡禮歌)」もそうとしか採れないから)であるが、特に「橋立小女郞(はしだてこぢよらう)」がその「老狐」の「異名」とはとれる。

「與謝の海の」「よさのみの」。老婆心乍ら、「與謝の海」は天橋立の砂州で区切られた西の潟湖阿蘇海(あそのうみ)の古名で歌枕でもある。]

鏡のひぢ塵 すゞしろのや(伊良子清白)

 

鏡のひぢ塵

 (白浪子へのかへし)

 

梢離れて散る花も

みな天地を旅ねにて

ませの白菊霧ながら

手折れば千代の雪ぞ降る

 

長生殿の内に秋更けず

不老門の前に日傾かず

履を嚴にぬぎすてゝ

鶴の背に乘らんには

 

病の床に伏柴の

なげき樵るてふ有馬山

麓の里にうらぶれて

人こそ可惜やせにけれ

 

小衾つらき枕邊の

月にめざめてなやみなば

母のねぶりも安からで

なみだやまみにあぶるらむ

 

葡萄葉茂り橄欖(れもん)咲く

城の花園草長けて

いくさの雲をあふぎみし

速き馬前の夢の兒も

 

玉の冠の碎けては

浪に漂ふ洋の

島の木陰に沈み行く

紅の日を追ひにけり

 

庭に匂へる花の色

鏡の影の幻を

めにたてゝ見る塵ひぢに

おどろかんこそをかしけれ

 

しら鷺や

舟のへさきに巢をかけて

浪にゆられてしやんとたつ

 

對の花笠たをやかに

咲きこそまじれ桃櫻

春の錦の芦刈祭

舟に桂の棹さして

たけの袂をぬらし候へ

 

湊河原を行く水の

流れて早き短夜に

七ます星の影を見て

たゞなつかしと一言を

松吹く風に殘しけむ

みやべる思盡きざらば

 

柳の枝にかけしてふ

小琴に風の來る時

白き小指を絲に觸れ

薄暮橋の袂にて

かれにし人にゆくりなく

めぐりあひたるをりのごと

龍神潛む靑淵の

深きこゝろを君しらべなむ

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年三月二十日発行の『よしあし草』掲載。署名は「すゞしろのや」。

「白浪子」不詳。「有馬山」(兵庫県神戸市北区有馬町にある日本三古湯の一つである有馬温泉付近の山々を指す)の「城」址(後注で考察する)のある「麓の里に」住んでいた詩人らしい。検索すると、昭和一一(一九三六)年に渋谷白浪子著の句集「花薊」なる書を見出せる。但し、この人物も不詳なれば、同定は不能。

「可惜」「あたら」。副詞。立派なものが相応に扱われていないのを惜しむ意の「残念なことに。惜しいことに。価値のある存在が世に出でぬことが惜しまれるさま」。

「なみだやまみにあぶるらむ」「淚や/目見(まみ)に/溢(あぶ)るらむ」であろう。「あふる」は濁音もある。

「橄欖(れもん)」不審。「橄欖」はシソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea、「れもん」はムクロジ目ミカン科ミカン属レモン Citrus limon で全くの別種である。なお、ムクロジ目カンラン科カンラン Canarium album(インドシナ原産であるが、江戸時代に日本に渡来し、種子島などで栽培され、果実を生食に、また、種も食用にしたり、油を搾ったりする。それらの利用法がオリーブに似ているため、オリーブのことを漢字で「橄欖」と当てることがあるが、全く別科の植物である。これは、幕末に同じものだと間違って認識され、誤訳が定着してしまったものである、とウィキの「カンランにあり、レモンと同じムクロジ目 Sapindales で、旧分類ではミカン目 Rutales に属していたともある)があるが、これも同定比定候補とするには無理があるように私には思われる。オリーブはウィキの「オリーブ」によれば、『日本での栽培は香川県小豆島で』明治四三(一九一〇)年頃に『はじめて成功した(それ以前に平賀源内がオリーブ栽培に取り組んだが、ホルトノキ』(カタバミ目ホルトノキ科ホルトノキ属ホルトノキ変種ホルトノキ Elaeocarpus sylvestris var. ellipticus:本州西側・淡路島・四国・九州・沖縄・台湾・インドシナなどに分布する常緑高木。和名にある「ホルト」は二説あり、「ポルトガル」のことを意味するという説(実際はポルトガル原産ではない)で、平賀源内による命名とされる説、一方で、江戸時代に薬用に使われていた「ホルト油」(「オリーブ油」のこと。「ポルトガル油」とも呼んだ)の採れる木と誤解されたためという説がある。以上はウィキの「ホルトノキ」に拠る)『をオリーブと誤認し』、『失敗している)。現在は香川県を含む四国全域、岡山県、広島県、兵庫県、九州、関東地方、中部地方、東北地方など全国各地で栽培されている』とあり、本邦への移植は本詩篇以後となるから、これはオリーブではない。対して、レモンはウィキの「レモン」によると、明治六(一八七三)年に『静岡県で栽培が開始され』、明治三一(一八九八)年には現在の『日本のレモンの主産地である』、『広島県の芸予諸島に』、『和歌山県からレモンの苗木がもたらされた』とあるから、有馬近辺にレモンが植生していても何らおかしくない。従ってこれはルビ通り、レモンを指すと考える。

「城」先の「有馬山」から考えると、有馬温泉を見下ろす落葉山山頂に築かれていた落葉山城城址(現在は落葉山城の主郭が山頂の南東に位置する兵庫県神戸市北区有野町唐櫃の妙見寺境内となっている。グーグル・マップ・データ)が候補となろうか。参照した中西徹氏のサイト「お城の旅日記」の「摂津 落葉山城」によれば、『落葉山城は、別名有馬城とも呼ばれ、築城者は定かではないが』、『南北朝時代に築かれたと考えられ、南朝方の湯山左衛門三郎が居城したと文献にある』。『戦国時代には、細川氏の重臣であった三好之長の子政長が』、この『落葉山城を拠点に播磨・丹波へと進出しようとした』が、天文八(一五三九)年、『三木城主別所家直が落葉山城を攻め、政長は河内国へと敗走した』。『その後落葉山城は、三田城主有馬村秀の支配下となり、天正』七(一五七九)『年に有馬加賀守が守る落葉山城を織田信忠が攻め』、『落城した』とあり、「いくさの雲をあふぎみし」「遠き馬前の夢の兒も」という詩句に遜色ない事蹟であるし、この部分、まさに「有馬」の「馬」も掛けてあって、すこぶる腑には落ちる

「湊河原」湊川の河原か。但し、有馬からは、有意に南西位置となり、水系も繋がっていない。南北朝で、「湊川の戦い」に意識をずらした時代詠へと転じたとすれば、判らなくはない。

「みやべる思」「雅べる思ひ」で、優美・風雅な感じの思いであろう。

「薄暮橋の袂にて」音数律から「薄暮/橋の袂にて」で「薄暮」を「ゆふぐれ」と当て訓して読んでおく。「薄暮橋」という固有名の橋は現認出来なかった。

「かれにし人」「離(か)れにし人」幽冥の境に遠く離れてしまったあのお方、の意でとっておく。

「ゆくりなく」副詞。思いがけなく・突然に。]

葡萄の葉蔭 すゞしろのや(伊良子清白)

 

葡萄の葉蔭

 (夜雨に代りて)

 

風しつかなる葡萄葉に、

ふかくひそめる紫の、

房をつむとて秋されば、

白き小指や染むるらむ。

 

たけの髮だにみだれねば、

花の插頭はさすべきを、

少女さびすとよそほはぬ、

ふりの袖こそさとびたれ。

 

露まだ深き下かげに、

よめらぬきみとさまよへば、

なれしものからまのあたり、

筑波のやまぞつゝましき。

 

色よき房をみ手つから、

袂のなかにさしいれて、

くちにふくめとのらするを、

まほにきくこそ胸痛め。

 

ますらをのこにましまさば、

やさしかりなむみことばを、

いろせのきみとなぞらへて、

つきぬおもひをかたらむに。

 

沈むおもてに見かへりて、

朝雲まよふ葡萄葉に、

まみをそむくるわが影を、

病とつらく見ますらむ。

 

慕へる人はおはさずも、

とつぎたまはゞうるはしく、

秋のこのみのうるゝとも、

ともには房はつまれえじ。

 

漣白きとばの江の、

岸べの里に月し見て、

慰めもなき人のよに、

なきぞをはらんわれなれば。

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年二月二十日発行の『よしあし草』掲載(前の「枝垂櫻」と併載)。署名は「すゞしろのや」。「夜雨に代はりて」は「橫瀬夜雨(の感じている詩的気分)になり代わって」の意で、夜雨との合作「常陸帶」で既に述べた通り、伊良子清白はこの年の一月十日頃に上京した直後、筑波山麓横根(よこね)村(旧真壁郡横根村、現在の茨城県下妻(しもつま)市横根か。ここ(グーグル・マップ・データ))。筑波山の裾野の西方、小貝川の右岸)に夜雨を訪れ、初対面であったが、一ヶ月も滞在した。公開日時から見ても、そこでの親しい交友体験を回想して詠まれたものと推測される。登場する少女は如何なる人物かは判らぬが、実際に交わった土地の娘で、幻像ではあるまい。

「少女さびす」「をとめさびす」で、「乙女らしい優しい振る舞いをする」の意。

「さとびたれ」「里(俚)びたり」で、本来なら「田舎染みていて洗練されていないさま」「雅びでない様子」であろうが、ここは寧ろ肯定的に如何にも素朴で初々しい、妙に気取ったところがなく自然体である、の謂いであろう。

「病」「常陸帶」で既に述べた通り、夜雨は佝僂(くる)病であった。]

枝垂櫻 すゞしろのや(伊良子清白)

 

枝 垂 櫻

 

さても見事なおつゞら馬や、

海道百里の花盛。

 

七つ布團に曲碌すゑて、

ふとん張りして小性衆を乘せて。

 

小性衆の刀の朱塗のさやに、

しだれ櫻がしなだれかゝる。

 

靑貝摺の鐙の前に、

湖は漣八重霞。

 

霞漂ふ一夜の夢を、

蝶になりたや妓(よね)とねて。

 

葦にゆらるゝ月ならよかろ、

立つは白浪映るは柳。

 

小舟作りてお夏をのせて、

花の淸十郞に櫓を押さしよ。

 

裾は岩間の紫菫、

杉の林に富士さが見ゆる。

 

お城のご門で拜んだ山を、

くつわとりとり背にしよとは。

 

十里廿里に名の鳴る男、

伊達でくらそと思うてゐたに。

 

馬の口とり手綱を曳けば、

紙衣着るより肩身が狹い。

 

ざんざ松風ねざめのまゝを、

鷄も鳴かぬに別れて來たが。

 

千髮房々衣裳のこなし、

袖は振袖京染模樣。

 

染て悔しきあゐねずみ、

行燈暗かろ獨ねて。

 

覆ひかけたる長刀袋、

うす紫の笠袋。

 

光漂ふ蒔繪の長柄、

白い牡丹が二片三片。

 

影が映れば卯の花月毛、

湖は五色の唐錦。

 

箱根八里は狐が化かす、

殿さ急きやれけんざ笠。

 

關所こゆれば秋津の宮の、

森が見えますほのぼのと。

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年二月二十日発行の『よしあし草』掲載。署名は「すゞしろのや」。「急き」はママ。

「つゞら馬」「葛籠馬」。江戸時代、背の両側に葛籠を附けた馬。

「曲碌」「曲彔」「曲祿」とも書く。椅子の一種。背凭れの笠木がカーブしているか、または背もたれとひじ掛けとがカーブした一本の棒で繋がっていることを特徴とする。「曲彔」という言葉は「曲彔木」の略で、「彔」は「木を斫(はつ)る」という意味で、「木材をはつってカーブをつくった椅子ということになる。現行でよく見かけるのは法会(ほうえ)の際などに僧が用いる脚の附いた椅子(背の倚り懸かる部分を半円形に曲げて脚をX字形に交差させたもの)であるが、背に鞍の上に附属させた花嫁御寮や荷を安定させるための座椅子様のものを指しているのであろう。

「妓(よね)」「娼(よね)」。ここは美人・美女の意。

「ざんざ」副詞。松風の音などを表わす一種のオノマトペイア。

「卯の花月毛」「卯の花」は実花ではなく「月毛」を修飾している。月毛は原毛色が栗毛又は栃栗毛の、見た目ではクリーム色から淡い黄白色の被毛の馬を指すが、ここはその中でも極めて「卯の花」のように白色に近い毛色の馬であることを指している。

「けんざ笠」不詳。「験者笠(げんざがさ)」と思って調べたが、そんな名の被り笠はない。識者の御教授を乞う。

「秋津の宮」私はここまでの道程から、「秋津」は日本列島を反転させたような(と私は勝手に幼少期より思っている)「芦ノ湖」で、その「宮」は「箱根神社」だと読んでいた。「關所こゆれば」との位置関係も合致するからであるが、困ったことに「芦ノ湖」を「秋津」と呼ぶ古名なく、「箱根神社」を「秋津の宮」と呼んだ古例もないのであった。さてさてここも識者の御教授を乞うものである。]

2019/06/06

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(31) 「御靈ト石」(2)

 

《原文》

 サテ此等ノ多クノ傳說ニ就キテ其馬主ノ生涯ヲ比較スルニ、一二ノ例外ヲ除キテハ極メテ著シキ第二ノ共通點アルカト思ハル。即チ彼等ハ單ニ一代一方ノ英俊ナリシト云フ外ニ、多クハイマダ齡ノ盛リニ於テ何レモ不自然ナル死ヲ遂ゲタル人ナリ。有餘ル生活力ヲ銷盡セズ、而モ執著ノ末成ラズシテ終ヲ取リタル人タチナリ。【念力】身ハ去リテ念力ヲ此世ニ留ムルニ必要ナル條件ヲ具ヘタル人々ナリ。思フニ我等ガ祖先ノ特ニ重要視セシハ此未了ノ念力ナリキ。昔ノ京都ノ八所ノ御靈ナドノ列名ヲ見レバ、共ニ其些シ以前ニ於テ、枉屈ヲ以テ死歿シタル貴族ナリシナリ。當時朝廷ノ公文ニハ、寃厲災ヲ爲スガ故ニ祭ルト書キテハアレド、恐クハ未ダ民間信仰ノ消息ニ精通セザリシ人ノ言ナルべキカ。復讐セラルヽ覺無キ下級ノ人民ガ、單ニ御氣ノ毒ナルヲ以テ神ニ祭ラント言フべキ道理無シ。然ラバ何故ニ斯ク迄弘キ信仰ガ行ハレタルカト問ハヾ、是レ全ク前代人ノ靈魂不朽ニ關スル槪念ガ此ノ如クナリシ結果ト言フノ外無キナリ。近キ頃ノ佐倉宗吾又ハ佐野常言[やぶちゃん注:ママ。]ノ世直(ヨナホシ)大明神、サテハ伊豫ノ宇和島ノ和靈樣ノ如キ、若シ之ヲ以テ其人格ニ對スル景慕トスルナラバ、所謂上流ノ社會道德トハ或ハ合スべキモ、是レ要スルニ感謝ト祈禱トヲ混同シタル說ト謂フべシ。【御靈ノ祭】御靈系統ノ雜神ニ對シテハ、少ナクモ昔ハ謝恩ノ意味ノ祭アリシコトヲ聞カザルナリ。或ハ又神ノ憤怒ヲ和グル爲ニ祭ルト云フ者アラン。成程前ニ各地方ノ馬鬼ニ就キテ述べシガ如ク、神ノ「イキドホリ」ハ慥カニ存ス。併シ之ヲ我々ガ所謂怒リナリト言フコトハ難シ。例ヘバ甲ノ爲ニ害セラレテ乙丙丁ニ對シテ災ヲ爲ス神アリ。佛法ニ敎ヘラレタル我々ノ間ノ因果律ヲ適用スルトキハ、全然其外ニ立ツべキ現象ナリ。而シテ此災ヲ避ケンガ爲ノ祭ヲ、若シ贖罪ノ趣旨ニ出ヅル者ノ如ク說ク人アラバ、此モ亦罰ト祟トヲ同一視スルノ誤謬ヲ免レズ。蓋シ「タヽリ」ハ中世ノ用語トシテハ、神ノ怒又ハ之ニ基ク人ノ禍ヲ意味セリ。源重之ノ歌ニモ

  千早フルイヅシノ宮ノ神ノ駒ユメナノリソネタヽリモゾスル

トアルナド其例ナリ。此歌ノ「ナノリソ」ハ、語ル勿レト云フ語ト神馬乘ル勿レト云フ語ト兩樣ニ用ヰタル掛ケ詞ナリ。【タヽリ】併シナガラ「タヽリ」ノ語原、及ビ最初ノ用法ハ之トハ異ニシテ、譬諭[やぶちゃん注:ママ。]ヲ「タトヘ」ト謂ヒ賞讚ヲ「タヽヘ」ト謂フト共ニ、「タヽリ」ハ單ニ神靈ノ語ヲ意味セシモノニ似タリ。彼ノ金屬ヲ熔ス爐ヲ「タヽラ」ト呼ブハ古キ日本語ニシテ、音ヨリ出デタル造語ナリトモ考ヘ得べキモ、此地名ガ深山淸淨ノ地ナドニ多ク、且ツ古クハ鑄物師ガ一種ノ巫覡ナリシ事ヲ思ヘバ、必ズシモ由無キ想像ニハ非ズ。畏多キコトナレドモ、大昔ノ皇后ノ御名ニ姬蹈鞴(ヒメタヽラ)ト申上グル方アリシモ、亦神ニ仕ヘタマヒシヨリノ御名カト思ハル。今日モ沖繩ニテハ「タヽリ」又ハ「神ターリ」ト云フハ、神ノ人ヘ託宣スルコトヲ意味スルナリ〔沖繩語典〕。而シテ此ノ古キ意味ニ於ケル「タヽリ」ノ神德ヲ、最モ著明ニ發揮スルニ適シタルハ、一念ノ力ノ强烈ナル人々ガ此世ニ生キ殘シタル御靈ナリ。【魂魄永住】幸ニシテ大ナル執著ヲ當代ニ留メタル名士タチナラバ、後世ノ佛敎徒ノ如ク、死スルヤ否ヤフイト極樂ニ向ヒ去ルガ如キ無責任ナル所業ハ敢テセズ、魂魄ト成リテ迄モ人間問題ヲ考慮シツヽアルナルべク、捨テヽ置ケバ或ハ災ヲ下スノ擧ニ出ヅルコトアランモ、賴ミヤウニ由リテハ勿論親切ナル世話奔走ヲ辭セザルナルべシ。【湊川】例ヘバ楠家ノ兄弟ハ、湊川ノ最後ニ際シテ何ト宣言シタリシカ。之ヲ根據ナキ妄想ト見ルコトハ、今人ト雖敢テセズ。我々現代人ノ理想モ亦復此ノ如キノミ。死シテ幽界ノ名士ト成ルコトヲ得バ男兒ノ能事ハ終レルナリ。尤モ此思想タルヤ、本來及ブ所甚ダ弘キモノナリキ。【戶神】例ヘバ眞言ノ佛法ニ於テ、獰猛無比ノ稱アル障礙神ノ義俠心ニ訴ヘテ境堺ノ守護ヲ委託スルコト、【人柱】或ハ其信仰ノ根原ナラントノ說アル門ノ側又ハ川ノ堤等ニテ人ヲ屠リ其靈魂ヲ利用シテ工作物ヲ防護セシムル慣習、即チ日本ナドニモ往々聞ク所ノ人柱ノ話、サテハ妖婆ノ輩ノ祕密ニ屬セシ物ヲ指シタル幼兒ノ指、食物ヲ見詰ムル所ヲ打斫リタル餓ヱタル犬猫ノ頸ナドガ、人ニ未然ノ善惡禍福ヲ教フルト云フガ如キモ、皆同ジ思想ニ屬スべカリシ者ナリ。【天滿宮】更ニ遠慮無キ斷定ヲ自ラ許スナラバ、彼ノ天滿大自在天神ノ信仰ノ如キモ、右ノ御靈ノ思想ヲ以テスルニ非ザレバ之ヲ解說スルコト能ハザルモノナリ。而シテ人間ニシテ能ク巖石ノ上ニ跡ヲ留メタリト云フハ、即チ此等ノ人々ノ乘馬ノ蹄ニ他ナラザルハ、誠ニ偶然ニハ非ザルナリ。【藤原廣嗣】古クハ菅公ト同ジク太宰府ノ官吏ニシテ靈死シタル藤原廣嗣、【新田義興】東京ノ附近ニテハ矢口ノ渡ニ千古ノ川浪ヲ咽バシメタル新田義興ノ如キ、何レモ馬ニ騎シテ白雲ト共ニ空中ヲ飛ビマハリ、終ニ恨ト言フ恨ハ悉ク報イ去リ、猶靈ノ力ノ大ニ餘裕アルコトヲ示シタリ。而シテ其馬ノ足跡ニシテ若シ或岩石ノ上ニ在リトスレバ、神ト同ジク之ヲ祭ルハ極メテ自然ノ結果ニ非ズヤ。

 

《訓読》

 さて、此等の多くの傳說に就きて其の馬主の生涯を比較するに、一二の例外を除きては、極めて著しき第二の共通點あるかと思はる。即ち、彼等は單に一代一方(ひとかた)の英俊なりしと云ふ外に、多くは、いまだ齡(よはひ)盛りに於いて、何れも、不自然なる死を遂げたる人なり。有り餘る生活力を銷盡(しやうじん)[やぶちゃん注:消し(使い)尽くすこと。]せず、而も、執著の末(すゑ)成らずして終りを取りたる人たちなり。【念力】身は去りて、念力を此の世に留むるに必要なる條件を具へたる人々なり。思ふに、我等が祖先の特に重要視せしは、此の未了の念力なりき。昔の京都の「八所(はつしよ)の御靈(ごりやう)」などの列名(れつみやう)を見れば、共に其の些(すこ)し以前に於いて、枉屈(わうくつ)[やぶちゃん注:「力で押さえつけること・抑圧すること」であるが、ここ受身形。]を以つて死歿したる貴族なりしなり。當時、朝廷の公文(くもん)[やぶちゃん注:律令時代の公文書(こうぶんしょ)の総称。]には、『寃(ゑん)、厲災(れいさい)を爲すが故に祭る』[やぶちゃん注:深い恨み(以上の「八所の御霊」の場合は今一つの無実の罪によるそれという意も同時に強く含んでいる)が災害と疫病を引き起こすが故に祭祀するものである。]と書きてはあれど、恐らくは、未だ民間信仰の消息に精通せざりし人の言なるべきか。復讐せらるゝ覺え無き下級の人民が、單に『御氣の毒』なるを以つて神に祭らんと言ふべき道理、無し。然らば、何故に斯くまで弘き信仰が行はれたるかと問はゞ、是れ、全く、前代人の靈魂不朽に關する槪念が此くのごとくなりし結果と言ふの外、無きなり。近き頃の佐倉宗吾、又は、佐野常言[やぶちゃん注:ママ。]の「世直(よなほし)大明神」、さては伊豫の宇和島の「和靈樣(われいさま)」のごとき、若(も)し、之れを以つて、其の人格に對する景慕とするならば、所謂、上流の社會道德とは或いは合(がつ)すべきも、是れ、要するに、感謝と祈禱とを混同したる說と謂ふべし。【御靈の祭】御靈系統の雜神に對しては、少なくも、昔は、謝恩の意味の祭りありしことを聞かざるなり。或いは又、「神の憤怒を和(やはら)ぐる爲めに祭る」と云ふ者、あらん。成程、前に各地方の馬鬼に就きて述べしがごとく、神の「いきどほり」は慥かに存す。併し、之れを、我々が、所謂、「怒りなり」と言ふことは、難(かた)し。例へば、甲の爲めに害せられて、乙・丙・丁に對して災ひを爲す神あり。佛法に敎へられたる我々の間の因果律を適用するときは、全然、其の、外(そと)に立つべき現象なり。而して、此の災ひを避けんが爲めの祭りを、若(も)し、贖罪の趣旨に出づる者のごとく說く人あらば、此れも亦、罰と祟りとを同一視するの誤謬を免れず。蓋し「たゝり」は中世の用語としては、神の怒り、又は、之れに基づく、人の禍(わざは)ひを意味せり。源重之の歌にも

  千早ふるいづしの宮の神の駒ゆめなのりそねたゝりもぞする

とあるなど、其の例なり。此の歌の「なのりそ」は、「語る勿れ」と云ふ語と、「神馬乘る勿れ」と云ふ語と、兩樣に用ゐたる掛(か)け詞(ことば)なり。【たゝり】併しながら、

「たゝり」の語原、及び、最初の用法は、之れとは異にして、譬諭[やぶちゃん注:ママ。譬喩。]を「たとへ」と謂ひ、賞讚を「たゝへ」と謂ふと共に、「たゝり」は單に神靈の語を意味せしものに似たり。彼の金屬を熔(とか)す爐(ろ)を「たゝら」と呼ぶは、古き日本語にして、音(おと)[やぶちゃん注:鞴(ふいご)を踏む音のオノマトペイアの意と私は採った。]より出でたる造語なりとも考へ得べきも、此の地名が深山淸淨の地などに多く、且つ古くは鑄物師(いもじ)が一種の巫覡(ふげき)なりし事を思へば、必ずしも由(よし)無き想像には非ず。畏れ多きことなれども、大昔の皇后の御名に姬蹈鞴(ひめたゝら)と申し上ぐる方(かた)ありしも、亦、神に仕へたまひしよりの御名かと思はる。今日も沖繩にては、「たゝり」又は「神たーり」と云ふは、神の人へ託宣することを意味するなり〔「沖繩語典」〕。而して、此の古き意味に於ける「たゝり」の神德を、最も著明に發揮するに適したるは、一念の力の强烈なる人々が此の世に生き殘したる御靈なり。【魂魄永住】幸ひにして、大なる執著を當代に留めたる名士たちならば、後世の佛敎徒のごとく、死するや否や、「ふい」と極樂に向ひ去るがごとき無責任なる所業は敢へてせず、魂魄と成りてまでも人間問題を考慮しつゝあるなるべく、捨てゝ置けば、或いは災ひを下すの擧(きよ)に出づることあらんも、賴みやうに由りては、勿論、親切なる世話・奔走を辭せざるなるべし。【湊川】例へば、楠家(くすのきけ)の兄弟は、湊川の最後に際して何と宣言したりしか。之れを根據なき妄想と見ることは、今人(きんじん)と雖も敢へて、せず。我々現代人ノ理想モ亦復(また)[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版に従い、「亦復の二字でかく読むこととする。]此くのごときのみ。死して幽界の名士と成ることを得ば、男兒の能事(のうじ)[やぶちゃん注:成すべきこと。]は終れるなり。尤も、此の思想たるや、本來、及ぶ所、甚だ弘きものなりき。【戶神】例へば、眞言の佛法に於いて、獰猛無比の稱ある障礙神(しやうげしん)の義俠心に訴へて境堺(きやうかい)の守護を委託すること、【人柱】或いは、其の信仰の根原ならんとの說ある門(もん)の側、又は、川の堤等にて、人を屠(ほふ)り、其の靈魂を利用して、工作物を防護せしむる慣習、即ち、日本などにも、往々聞く所の「人柱(ひとばしら)」の話、さては、妖婆の輩(やから)の祕密に屬せし物を指したる幼兒の指、食物を見詰むる所を打ち斫(き)りたる餓ゑたる犬・猫の頸などが、人に未然の善惡禍福を教ふると云ふがごときも、皆、同じ思想に屬すべかりし者なり。【天滿宮】更に遠慮無き斷定を自ら許すならば、彼(か)の天滿大自在天神の信仰のごときも、右の御靈の思想を以つてするに非ざれば、之れを解說すること、能はざるものなり。而して、人間にして能く巖石の上に跡を留めたりと云ふは、即ち、此等の人々の乘馬の蹄に他ならざるは、誠に偶然には非ざるなり。【藤原廣嗣】古くは菅公と同じく、太宰府の官吏にして靈死(りやうし)[やぶちゃん注:死して御霊(ごりょう)となった怨念を持った死の意で、かく読んだ。]したる藤原廣嗣、【新田義興】東京の附近にては矢口の渡しに千古の川浪を咽(むせ)ばしめたる新田義興のごとき、何(いづ)れも馬に騎して白雲と共に空中を飛びまはり、終に恨みと言ふ恨みは悉く報い去り、猶ほ、靈(れい)[やぶちゃん注:ここは「終に恨みと言ふ恨みは悉く報い去」っているので、通常の読みとした。]の力の大に餘裕あることを示したり。而して、其の馬の足跡にして、若(も)し、或る岩石の上に在りとすれば、神と同じく之れを祭るは、極めて自然の結果に非ずや。

[やぶちゃん注:「八所(はつしよ)の御靈(ごりやう)」平安以来、疫病や天災を齎(もたら)すものとして恐れられた八座の御霊神。貞観五(八六三)年五月に御霊会が修せられた六座、則ち(以下、引用を示していない記載は複数の辞書記載を参考にしたものである)、

①崇道天皇(早良(さわら)親王(天平勝宝二(七五〇)年~延暦四(七八五)年)。光仁天皇第二皇子で桓武天皇の同母弟。神護景雲二(七六八)年に出家したが,宝亀元(七七〇)年、父光仁天皇の即位により親王となり、天応元(七八一)年の桓武天皇の即位と同時に皇太子となった。しかし、延暦四(七八五)年、長岡京造営の推進者藤原種継の暗殺事件に連座し、同年九月二十八日に皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉され、次いで淡路に流されたが、その途次、絶食して自死した。これは藤原氏が権力を握るに到る過程で起った一連の謀略的事件で、政争の渦に巻込まれた犠牲者であった。事件後、桓武天皇の皇子安殿(あて)親王(後の平城天皇)が皇太子となったが、桓武天皇・早良親王の生母高野新笠(たかののにいがさ)や藤原乙牟漏(おとむろ 桓武天皇の皇后で後の平城天皇・嵯峨天皇の生母)の死、悪疫の流行、皇太子の罹病など、不吉なことが相次いだ。皇室や藤原氏はこれを親王の祟りとして恐れ、同十九年に「崇道天皇」と追号して淡路から大和に移葬した)

②伊予親王(?~大同二(八〇七)年:桓武天皇の第三皇子。政治的能力に優れ、天皇の信頼も厚く、三品(さんぼん:親王位階の第三位)に叙され、式部卿・中務卿を歴任したが、藤原宗成(式家)が謀反を企て、謀り事が現れて捕えられるや、親王を首謀者と讒言した。そこで母藤原吉子(後述)とともに捕えられて大和川原寺に幽閉され、そこで母子ともに毒をあおって自死した。これも藤原諸家の勢力争いの犠牲となったもので、弘仁一〇(八一九)年に先に削られていた「親王」の号を復した)

③藤原吉子(よしこ/きつし ?~大同二(八〇七)年:前注の通り、桓武天皇の夫人で伊予親王の母。父は右大臣藤原南家是公(これきみ)。延暦二(七八三)年に無位から一気に従三位に叙せられ、夫人(ぶにん)となったが、先の通りの藤原氏の政争に巻き込まれて伊予親王とともに自死した。当時の人々の同情を集めたという。同じく後の弘仁十年にその祟りを恐れて「夫人」の号に復し、承和六(八三九)年九月に従三位が、同年十月にはさらに従二位が贈られている)

④藤原広嗣(?~天平一二(七四〇)年:奈良時代の廷臣。藤原式家の祖宇合(うまかい)の子。天平九(七三七)年に従五位下、翌年、大養徳(やまと)守・式部少輔となったが、同年末に大宰少弐に左遷された。天平一二(七四〇)年、上表して政治の得失を論じ、僧正玄昉(げんぼう)や吉備真備らの専権を非難し、政府に排除するよう、直言したが、入れられず、同年九月に乱を起したが、敗れ、肥前松浦郡値嘉島(ちかのしま)で捕えられ、処刑された。後の天平勝宝二(七五〇)年になって、斬刑された松浦郡の、唐津にある鏡神社に、これまた、肥前国司に左遷された吉備真備(後述)によって、広嗣を祀る二ノ宮が創建された。これは広嗣処刑の後に玄昉が筑紫に左遷され、そこで歿したことから、これを広嗣の怨霊のせいとし、彼の怨霊を鎮めるための建立であった。奈良市高畑町にある新薬師寺の西隣りに鎮座する鏡神社は、その勧請を受けたもの)

⑤橘逸勢(たちばなのはやなり:?~承和九(八四二)年)平安初期の官人で書家。入居(いるいえ)の子で、「橘奈良麻呂の乱」(彼が藤原仲麻呂を滅ぼし、皇太子大炊王を廃して黄文王を立てようと企てたが、密告によって露見、未遂に終わった事件)で知られる奈良麻呂の孫。延暦二三(八〇四)年、遣唐使に従って空海・最澄らと入唐。唐人から「橘秀才」と称賛された。帰国後、従五位下に叙せられ、承和七(八四〇)年に但馬権守となったが、「承和の変」(承和九(八四二)年に伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢らが謀反を企てたとして、二人が流罪となり、仁明天皇の皇太子恒貞親王が廃された事件。事件後に藤原良房の甥である道康親王が皇太子となったことから、藤原良房の謀略とされている)で捕えられ,本姓を除かれて「非人逸勢」と卑称され、伊豆に流罪となったが、護送の途中、遠江で病死した。当時、六十余歳であったという。後の嘉祥三(八五〇)年になって罪を許され、正五位下の位階が追贈れ、仁寿三(八五三)年にはさらに従四位下が贈位された。当時、冤罪を負って死んだことから、逸勢は怨霊となったと考えられて、貞観五(八六三)年五月に行われた神泉苑御霊会で五柱の御霊の一柱として祀られた。彼は空海・嵯峨天皇とともに「三筆」と称される書道の名人で、隷書を最もよくし、平安京の大内裏の諸門の額の多くは彼の筆に成ると言われているが、真跡として確認出来るものは今日殆んど伝わっていない)

⑥文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ 生没年未詳:平安前期の官人。承和六(八三九)年に従五位上、翌年に筑前守(同九年には「前筑前守」となっており、この間任を離れてはいたが、そのまま現地に留まって、来日中の新羅の廻易使李忠らと折衝している)となったが、承和十年、彼自身の従者であった陽侯氏雄(やこのうじお)が主人宮田麻呂が謀反を企てていると密告し(これは或いは新羅使との接触が関係しているとする説もある)、京及び難波宅の宮田麻呂の私邸が捜索を受け、兵具を押収、伊豆に配流された(彼の子らもそれぞれ流罪となっている)。真相は不明だが、前注に出た通り、貞観五年に行われた神泉苑御霊会で祀られており、当時の人々が宮田麻呂に同情的であったことが窺われる)

の六柱に、後、

⑦吉備真備(きびのまきび 持統七(六九三)年或いは九(六九五)年~宝亀六(七七五)年:奈良時代の学者で政治家。霊亀二(七一六)年に入唐留学生となり、天平七(七三五)年に帰朝し、「唐礼」「大衍暦経」などの多くの書籍・器物を将来した。同九年、藤原氏の公卿が相次いで疫病死したため、次第に宮廷内に重きをなした。先に出た天平一二(七四〇)年九月に起こった「藤原広嗣の乱」は真備らの失脚を目論んだもので、後の天平勝宝二(七五〇)年、真備は筑前守に左遷されている。しかし、翌三年、再び、入唐使として渡唐、同六年に帰朝、天平宝字八(七六四)年の「恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱」に功あり、従三位・参議・中衛大将となり、天平神護二(七六六)年に右大臣に上り詰めた。神護景雲三(七六九)年には「刪定律令」を編纂し、正二位となった。宝亀二(七七一)年、致仕した。地方豪族出身者としては破格の出世で、学者から立身して大臣にまでなったのは近世以前では彼と菅原道真のみである。波乱万丈ではあるが、他の七柱とは異なり、生前の後半生では復権しており、八十一歳の天寿を全うしている。しかも「御霊」とされたのは何故かと考えるに、彼が政治的手腕と才知にずば抜けていたこと以外に、強力な陰陽道のプロであったからではなかろうか。ウィキの「吉備真備」の「伝説」の項に以下のようにある。「江談抄」や「吉備大臣入唐絵巻」などに『よれば、真備は、殺害を企てた唐人によって、鬼が棲むという楼に幽閉されたが、その鬼というのが真備と共に遣唐使として入唐した阿倍仲麻呂の霊(生霊)であったため、難なく救われた。また、難解な「野馬台の詩」の解読や、囲碁の勝負などを課せられたが、これも阿倍仲麻呂の霊の援助により解決した。唐人は挙句の果て』、『食事を断って真備を殺そうとするが、真備が双六の道具によって日月を封じたため、驚いた唐人は真備を釈放した』とある(なお、『真備が長期間にわたって唐に留まることになったのは、玄宗がその才を惜しんで帰国させなかったためともいわれる』)。『また、帰路では当時の日本で神獣とされていた九尾の狐も同船していたといわれる』。『中世の兵法書などでは、張良が持っていたと』される伝説の道家色の濃い兵法書「六韜(りくとう)三略」の『兵法を持ち来たらしたとして、真備を日本の兵法の祖とし』ている。『また、真備は陰陽道の聖典』「金烏玉兎集(きんうぎょくとしゅう)」を『唐から持ち帰り、常陸国筑波山麓で阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたと』もされる。『金烏は日(太陽)、玉兎は月のことで「陰陽」を表』わす。なお、かの『安倍晴明は、阿部仲麻呂の一族の子孫とされるが』、「金烏玉兎集」は『晴明が用いた陰陽道の秘伝書として、鎌倉時代末期か室町時代初期に作られた書とみられている』ものの、『伝説によると、中国の伯道上人という仙人が、文殊菩薩に弟子入りをして悟りを開いた』が、その『ときに文殊菩薩から授けられたという秘伝書』「文殊結集仏暦経」を『中国に持ち帰ったが、その書が』真備がもたらした原「金烏玉兎集」であるということらしい。また「今昔物語集」には『玄昉を殺害した藤原広嗣の霊を真備が陰陽道の術で鎮めたとし』、「刃辛抄」では、陰陽道の書「刃辛内伝」を『持ち来たらしたとして、真備を日本の陰陽道の祖としている』とあるからである。因みに、かなり知られた話であるが、「宇治拾遺物語」には、『他人の夢を盗んで自分のものとし、そのために右大臣まで登ったという説話もある』のである)

と、「火雷神(ほのいかずちのかみ)」と習合された、

⑧菅原道真(承和一二(八四五)年~延喜三(九〇三)年:言わずもがなであるが、記述のバランスから注しておく。平安前期の官人。政治家・文人・学者として名が高い。是善(これよし)の子で、母は伴(とも)氏。本名は「三」(「みつ」か)、幼名を「阿呼(あこ)」と称し、後世、「菅公」と尊称された。従二位右大臣に至った。承和一二(八四五)年、父祖三代の輝かしい伝統を持つ学者の家に生まれた道真は、幼少より文才に優れ、向学心も旺盛で、貞観四(八六二)年、十八歳で文章生(もんじょうしょう)となり、十五年後の元慶元(八七七)年には文章博士となった。その間、少内記に任ぜられて、多くの詔勅を起草し、また、民部少輔(みんぶのしょう)として朝廷の吏務に精勤する一方、文章の代作や願文(がんもん)の起草など、盛んな文章活動を続け、父是善の没(元慶四(八八〇)年)後は、父祖以来の私塾である「菅家廊下(かんけろうか)」を主宰し、宮廷文人社会の中心となった。仁和二(八八六)年に讃岐守に転出したが、翌年、宇多天皇の即位に際して起こった「阿衡(あこう)事件」(「関白」(この称号が事件の発端)藤原基経と宇多天皇の間で起こった政治紛争)には深い関心を寄せ、入京し、基経に良識ある意見書を提出、左代弁(この事件で後に罷免)橘広相(ひろみ)のために弁護した。この事件が権臣の専横を示すとともに、政治に巻き込まれた文人社会の党争に根ざしていただけに心を痛めたのであった。寛平二(八九〇)年、国司の任期を終えた道真は、藤原氏の専権を抑えて天皇中心の理想政治を実現しようとする宇多天皇の信任を受け、帰京の翌年には蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢され、その後、参議・左大弁に登用され、朝政の中枢に携わることになった(その現実的政策としてよく知られるのは「遣唐使の廃止」である)。その間も官位は昇進を続け、中納言・民部卿・権大納言・春宮大夫(とうぐうだいぶ)・侍読などの任に就いている。寛平九(八九七)年、宇多天皇は譲位したが、その遺誡により醍醐天皇は藤原時平とともに道真を重用し、昌泰二(八九九)年、時平の左大臣に対して、道真を右大臣に任じている。しかし、当時の廷臣には、儒家としての家格を超えた道真の栄進を嫉む者も多く、昌泰三(九〇〇)年には文章博士三善清行から辞職勧告の諭しを受けているが、道真はこれを容れなかった。また、他氏を着実に排斥してきた藤原氏にとって、道真は強力な対立者と見做されており、延喜元(九〇一)年、従二位に叙してまもなく、遂に政権と学派の争いの中、時平の中傷によって大宰権帥(ごんのそち)に左遷されてしまう。その後。大宰府浄妙院(俗称「榎寺(えのきでら)」)で謹慎すること二年、天皇の厚恩を慕い、望郷の念に駆られつつ、配所で没した。その晩年が悲惨であっただけに、死後の怨霊に対する怖れは当時から非常に強かった。それに関わる説話は「大鏡」巻二の「時平伝」や「北野天神縁起」などに見られる。時平は延喜九(九〇九)年に享年三十九歳の若さで死去するが、道真の霊は死後、天満自在天となり、青竜と化して、時平を殺したと噂された(ここまでの主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)ウィキの「菅原道真」によれば、『菅原道真の死後、京には異変が相次ぐ。まず』、『道真の政敵藤原時平が』『病死すると、続いて』、延喜一三(九一三)年には『道真失脚の首謀者の一人とされる右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死し、更に醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜』二三(九二三)年死去)、『次いで』、『その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長』三(九二五)年)死去)が『次々に病死』した。さらには「北野天神縁起絵巻」で知られる大災厄(カタストロフ)が起こる。延長八(九三〇)年六月二十六日(ユリウス暦九三〇年七月二十四日)に『朝議中の清涼殿が落雷を受け』、「昌泰の変」に『関与したとされる大納言藤原清貫』(きよたか)『をはじめ』、『朝廷要人に多くの死傷者が出た』『上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し』、三『ヶ月後に崩御した。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された』とある。ウィキの「清涼殿落雷事件」は、より詳細なので引用すると、『この年、平安京周辺は干害に見舞われており』、この日、『雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において』、『太政官の会議が開かれることとなった。ところが、午後』一『時頃より』、『愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ』一『時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃した』。『この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世』(たいらのまれよ)『も顔を焼かれて瀕死状態となった。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されたが、希世も程なく』、『死亡した。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包』((みぬのただかね)『が髪を焼かれて死亡。紀蔭連』(きのかげつら)『は腹を焼かれてもだえ苦しみ、安曇宗仁』(あずみそうにん)『は膝を焼かれて立てなくなった。更に警備の近衛も』二『名死亡した』。『清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは、負傷者の救護もさることながら、本来』、『宮中から厳重に排除されなければならない死穢に直面し、遺体の搬出のため』、『大混乱となった。穢れから最も隔離されねばならない醍醐天皇は』、『清涼殿から常寧殿に避難したが、惨状を目の当たりにして体調を崩し』、三『ヶ月後』(延長八年九月二十九日)『に崩御することとなる』。『天皇の居所に落雷し、そこで多くの死穢を発生させたということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫が』、『かつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。また、道真の怨霊が雷神となり』、『雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い』、『落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなった』とある。なお(以下の主文は再び小学館「日本大百科全書」に戻した)、道真はそれに先立つ、延喜二三(九二三)年に従二位大宰員外師から右大臣に復し、正二位を贈ったのを初めとして、その七十年後の正暦四(九九三)年)には正一位左大臣が、後の同年中には太政大臣が追贈されている。こうした名誉回復の背景には道真を讒言した時平が早逝した上、その子孫が振るわず、宇多天皇の側近で道真にも好意的だった時平の弟である忠平の子孫が藤原氏の嫡流となったことも関係しているとされる。清涼殿落雷事件から、道真の怨霊は雷神と強く結びつけられ、朝廷は火雷神が祀られていた京都北野の地に北野天満宮を建立、道真が没した太宰府には先に醍醐天皇の勅命によって藤原仲平が建立した安楽寺の廟を、安楽寺天満宮に改修して道真の祟りを鎮めようとした。以降、百年ほどは、大災害が起きる度に「道真の祟り」として恐れられた。こうして「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることとなったが、やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い、道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に「天神」は「学問の神」として信仰されるように至ったのである)

の二座を加えたものである。また、以上の御霊(怨霊)を祀った各神社をも指すが、特にこれらを「八所御霊(はっしょごりょう)」として纏め、現在の京都市上京区上御霊前通烏丸東入の上御霊神社及び中京区寺町通丸太町下ルの下御霊神社の両社に祭神として祀られたものがその代表である。この両社は全国各地に散在する御霊神社の中でも特に名高く、一方で京都御所の産土神(うぶすながみ)としても重要視された。

「佐倉宗吾」佐倉惣五郎(生没年未詳)の通称。江戸前期の義民。姓は木内。下総国印旛郡公津(こうづ)村(現在の千葉県成田市台方(だいかた))の名主。彼が指導した闘争の経過や彼の役割については、「地蔵堂通夜(つや)物語」や「堀田(ほった)騒動記」などの実録文芸に伝えられるだけであるが、それらによれば、佐倉領主堀田正信(寛永八(一六三一)年~延宝八(一六八〇)年)の始めた新規の重課の廃止を、全領の名主たちが一致して郡奉行(こおりぶぎょう)に、次いで国家老(くにがろう)に要求したが、拒否され、江戸に出て、藩邸に訴えても、取り上げられず、惣代六人で、老中に駕籠訴(かごそ)したが、これも却下され、ついに惣五郎一人が将軍に直訴した(「通夜物語」は承応二(一六五三)年とする一方、「騒動記」では正保元(一六四四)と大きく異なっている)。この要請は実現されたものの、惣五郎夫妻とその男子四人は死刑に処せられた。しかし後、その祟りによって堀田家は断絶したというのである(実際には断絶しそうになったが、断絶などしていない。事実を記すと、堀田正信は後の万治三(一六六〇)年十月八日、突然、「幕府の失政により人民や旗本・御家人が窮乏しており、それを救うために自らの領地を返上したい」といった内容の幕政批判の上書を幕閣の保科正之・阿部忠秋宛で提出し、無断で佐倉へ帰城してしまい、幕法違反の無断帰城について、幕閣で協議がなされ、正信の上書や行動に同情的意見もあったものの、老中松平信綱の唱えた「狂気の作法」という見解(本来なら「三族の罪」(父・兄弟・妻子等の親族へ及ぶ処罰)に当たるが、狂人ならば免除出来るという理屈)で合意がなされ、同年十一月三日に処分が下り、所領没収の上、弟の信濃飯田藩主脇坂安政に預けられた。これは実は唐の松平信綱と対立したためとも、佐倉惣五郎事件の責任を問われたからともされるが、詳細は不明である)。しかし後年(正信の没後。正信は、安政の播磨龍野藩への転封に伴い、母方の叔父である若狭小浜藩主酒井忠直に預け替えられたが、延宝五(一六七七)年に密かに配所を抜け出して上洛し、清水寺や石清水八幡宮を参拝し、それが発覚、これによって嫡男正休(まさやす)と酒井忠直は閉門、正信は阿波徳島藩主蜂須賀綱通に預け替えられた。延宝八(一六八〇)年五月、第四代将軍徳川家綱死去の報を聞き、この再々配流先の徳島にて鋏で喉を突いて自死している)、正信の亡き父正盛の功績によって長男正休に、お家再興が許されており、正休は天和元(一六八一)年に大番頭、翌年三月には徳川綱吉の子徳松の側役に任じられ、一万石の所領を与えられ、吉井藩主となった。その後は奏者番となり、近江宮川藩に移封された。彼の子孫は明治までしっかり続いている)。これらの物語には、矛盾したり、事実に反する点もみられるので、惣五郎非実在説や千葉氏復興運動とみる説なども唱えられているが、堀田氏時代の公津村名寄(なよせ)帳に、惣五郎分二十六石余の記載があり、正徳五(一七一五)年成立の「総葉(そうよう)概録」が、堀田氏時代に「公津村の民、總五(そうご)、罪ありて肆(さら)せらる時、自ら冤(えん)と称し、城主を罵りて死し、時々祟りを現はし、遂に堀田氏を滅す。因りて其の靈を祭りて一祠(いつし)を建て惣五宮と稱す」という説を伝えていることから、惣五郎の実在と処刑は否定し得ない。惣五郎の直訴状と称するものは後世の作とみられるが、高一石につき一斗二升の増米と小物成(こものなり)の代米支給停止に反対するという主要な要求は初期的であり、安永五(一七七六)年の「惣五摘趣(てきしゅ)物語」が、惣五郎が藩と対立した真因と主張する「仮早稲米」も、これまた初期に特徴的な為替米(藩米の領民への販売)とみられるから、惣五郎を中心とした反領主闘争があったことも否定し得ない。その物語が、江戸中期以降の百姓一揆の成長のなかで、全藩一揆型の物語に成長したと見るべきであろう(ここは主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

『佐野常言の「世直(よなほし)大明神」』江戸中期の旗本佐野政言(さのまさこと 宝暦七(一七五七)年~天明四(一七八四)年)の誤りであろう。ウィキの「佐野政言」によれば、通称は善左衛門。『目付や江戸町奉行を務めた村上義礼は義兄(政言の妻の兄)。妹に春日広瑞室、小宮山長則室』がおり、十『姉弟の末子で一人息子であった』。『佐野善左衛門家は三河以来の譜代である五兵衛政之を初代とし』、『代々』、『番士を務めた家であり、政言は』六『代目にあたる。父伝右衛門政豊も大番や西丸や本丸の新番を務め』、安永二(一七七三)年『に致仕し、代わって』八『月に政言が』十七『歳で家督を相続(』五百『石)した』。安永六(一七七七)年に大番士、翌年には新番士となった。ところが、天明四(一七八四)年三月二十四日、『江戸城中で、若年寄・田沼意知に向かって走り出しながら「覚えがあろう」と』三『度叫んでから』、大脇差を抜いて『殿中刃傷に及んだ。その』八『日後に意知が絶命すると、佐野政言には切腹が命じられ、自害して果てた。葬儀は45日に行われたが、両親など遺族には謹慎が申し付けられたため出席できなかった。佐野家も改易となったが、遺産は父に譲られることが認められた。唯一の男子である政言には子がなかったこともあり、その後長く佐野家の再興はなかったが、幕末になって再興されている』。『犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために』、『藤姓足利氏流佐野家の系図を借り返さなかった事』、『上野国の佐野家の領地にある佐野大明神を』、『意知の家来が横領し』、『田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが』、『一向に昇進出来なかった事、等々』、『諸説あったが、幕府は乱心として処理した』。『田沼を嫌う風潮があった市中では』、『田沼を斬ったことを評価され、世人からは「世直し大明神」と呼ばれて崇められた』とある。

『伊豫の宇和島の「和靈樣(われいさま)」』安土桃山時代から江戸前期に生きた武将で伊達家家臣(家老)山家公頼(やんべきんより 天正七(一五七九)年~元和六(一六二〇)年)の御霊(みたま)に対する愛媛県宇和島を中心に四国・中国地方にある信仰及びその御霊を祀る和霊神社(愛媛県宇和島市和霊町(ちょう)のここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「山家公頼」によれば、公頼は通称は清兵衛。『最初は最上氏に仕えていた』が、『後、伊達政宗に仕えて頭角を現し、政宗の庶長子・秀宗が宇和島藩に封じられた際に藩惣奉行(筆頭重臣・』一千『石)として付けられた』。『初期藩政の構築のみならず、仙台藩(伊達宗家)や江戸幕府との関係調節に苦慮し、仙台の政宗に宇和島藩』十『万石のうち』、三『万石を隠居料として割くことで宗家からの借財返済を繰り延べたり』、『幕府の大坂城石垣修復事業に参加したりした』。『こうした行為が秀宗や』、『桜田元親ら他の重臣らとの対立を招いた』。『また』、『公頼自身、政宗が秀宗を監視するために送った目付を兼ねており、浪費の改まらない秀宗の行状を政宗に報告し、政宗が秀宗を諌める書状を出しているほどであった』。元和六(一六二〇)年、同年の一月の『大坂城石垣普請工事で共に奉行を務めた桜田元親が』公頼が『不正をしたと秀宗に讒訴したため、公頼は帰国して秀宗に弁明し、謹慎した』。『これは工事の進捗状況の報告』に於いて、『公頼と桜田の報告に齟齬があり、公頼が正当だったので面目を失った桜田が讒訴に及んだ』もの『とされ』ている。同年六月二十九日、『秀宗の命を受けた桜田一派の家臣達が』、『山家邸を襲撃、翌未明に公頼らは討ち取られた』。『享年』四十二であった。『この襲撃事件で』は、『公頼のみならず、次男と三男も斬殺され』、九『歳の四男に至っては井戸に投げ込まれて殺された』『(なお、あまりに幼子であったため』『井戸には祠が祭られた)。さらに娘婿の塩谷内匠父子』三『人も殺され、生き残ったのは商人に匿われた公頼の母と妻だけだった』。『長男は仙台にいたため無事』であった。ところが、『公頼の死後、宇和島藩内では怨霊騒動などが続いた。政敵の桜田元親は変死し』(後の別引用参照)、『宇和島を襲った大地震や台風・飢饉などの凶事をはじめ、秀宗の長男・宗実と次男・宗時、六男・徳松の早世、秀宗の発病などは』、これ、『全て』、『公頼の祟りとして恐れられた』。『このため』、承応二(一六五三)年に『秀宗の命により和霊神社が創建されることとなった』。但し、『怨霊伝説がある一方で、公頼には殺害の首謀者であった秀宗の夢枕に立って火事を事前に伝えたなどとされる忠臣伝説もあり』、『宇和島では公頼は「和霊様」と呼ばれている』。『公頼は財政難の宇和島藩において』、『質素倹約を旨とし、領民に重い年貢を課そうとせず』、『できるだけ負担を軽くしようとしたため、領民からは慕われていた』。『ただ、そのために軍費を厳しく削減したため、桜田元親ら武功派には恨まれた』のであった。『遺骸は公頼を慕う領民により、金剛山大隆寺の西方約』六十メートル『の場所に密かに葬られた。また、公頼は蚊帳の四隅を切断され、抗ううちに殺されたことから、命日などは蚊帳を吊らない風習が近代まで残るなど、領民に慕われたことが伺える』とあり、ウィキの「和霊神社」には、『当社の分霊を祀る神社が、四国・中国地方を中心に日本各地にある』とある。他にウィキの「和霊騒動」もあり、かなり詳しい。それによれば、『事件後』、寛永九(一六三二)年、『秀宗正室・桂林院の三回忌法要の際、大風によって金剛山正眼院本堂の梁が落下し、桜田玄蕃』元親『が圧死』し、『その後も山家清兵衛の政敵たちが海難事故や落雷によって相次いで死亡し』たため、『宇和島藩家老の神尾勘解由が、宇和島城の北にある八面大荒神の社隅に小さな祠を建てて、児玉(みこたま)明神としたが、その甲斐なく、秀宗は病床に伏し、秀宗の』六『男、長男宗實が早世、次男宗時が病没、飢饉や台風、大地震が相次いだ。このことを「清兵衛が怨霊となり』、『怨みを晴らしているのだ」と噂となったため、秀宗は承応二年に『檜皮の森に神社を建立、京都吉田家の奉幣使を招いて同年』六月、『神祗勘請を行い、「山頼和霊神社」とした』。現在のそれは享保一六(一七三一)年、第五代『藩主伊達村候によって、清兵衛邸跡に今日の和霊神社を創建し、清兵衛の霊を慰めた』ものであるとある。

「源重之」「千早ふるいづしの宮の神の駒ゆめなのりそねたゝりもぞする」源重之(生没年未詳)は水垣久氏の「やまとうた」の「千人万首」の彼のページによれば、『清和天皇の皇子貞元親王の孫。従五位下三河守兼信の子。父兼信は陸奥国安達郡に土着したため、伯父の参議兼忠の養子となった。子には有数・為清・為業、および勅撰集に多くの歌を載せる女子(重之女)がいる。名は知れないが、男子のうちの一人は家集』「重之の子の集」を残している。『康保四年』(九六七)『十月、右近将監(のち左近将監)となり、同年十一月、従五位下に叙せられる。これ以前、皇太子憲平親王(のちの冷泉天皇)の帯刀先生(たちはきせんじょう)を勤め、皇太子に百首歌を献上している。これは後世盛んに行なわれる百首和歌の祖とされる。その後』、『相模権介を経て、天延三年』(九七五)『正月、左馬助となり、貞元元年』(九七六)に『相模権守に任ぜられる。以後、肥後や筑前の国司を歴任し、正暦二年』(九九一)『以後、大宰大弐として九州に赴任していた藤原佐理のもとに身を寄せた。長徳元年』(九九五)『以後、陸奥守藤原実方に随行して陸奥に下り、同地で没した。没年は長保二年』(一〇〇〇)『頃、六十余歳かという』とある。この一首は「続詞花和歌集」の「巻十九 物名」に、

   たちまのくになるいつしの宮といふ
   やしろにてなのりそといふものを題
   にて人の歌よめといひければ

 千早ふるいつしの宮の神のこま夢なのりそねたゝりもぞする

とあるもの。以上は「群書類従」のグーグルブックスの画像から起こした。出石神社(いずしじんじゃ)は、「いづしの宮」は現在の兵庫県豊岡市出石町(ちょう)宮内にある出石(いずし)神社。旧但馬国一宮。柳田國男は何も言っていないが、「なのりそ」にはもう一つの意味が掛けられてある。則ち、海藻の「なのりそ」=「神馬草(藻)」である。則ち、不等毛植物門褐藻綱ヒバマタ目ホンダワラ科 Sargassaceae(或いはホンダワラ属 Sargassum)である。「ほんだはら」は「ほだはら」で「穂俵」の漢字を当てて、その気泡体部が米俵に似ていることから、豊作に通じる縁起物とされ、正月飾りに利用されているのはご承知の通りである。ここではそうした神饌として供されることも多い「神馬藻(ほんだわら)」もハイブリッド(「神馬」だぞ!)に掛詞となっていると考えてこそ、柳田國男の図に当たったと言うべきと私は思う。私の「大和本草卷之八 草之四 海藻(ナノリソ/ホタハラ)(ホンダワラ)」の本文及び私の注も参照されたい。

「鑄物師(いもじ)が一種の巫覡(ふげき)なりし事」鋳物師は錬金的に「火」を自在に操り、「火」は「日」に通じ、彼らは古代より祭祀に用いたと考えられる銅鐸や鏡などの神具、仏教伝来以降も梵鐘などの仏具の製造に直接に関わっていたから、この謂いはすこぶる腑に落ちる。

「姬蹈鞴(ひめたゝら)」媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)のことであろう。「日本書紀」に登場する女神(人物)で、初代天皇神武天皇の初代皇后で、「古事記」の「比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)に相当する。ウィキの「ヒメタタライスズヒメ」によれば、『伝承ごとに細部の差異はあるものの、母親はヤマト地方の有力者の娘で、父親は神であったと描かれている。神武天皇に嫁いて皇后となり』、第二『代天皇の綏靖』((すいぜん)『天皇』(実在性は乏しい)『を産んだとされている』。名の由来は諸説あるが、その一つに、『名に含まれる「タタラ」は製鉄との繋がりを示唆するという解釈があり、神武天皇がヒメタタライスズヒメを嫁としたことは、政権が当時の重要技術である製鉄技術を押さえたことの象徴であるとする説がある』とし、『「イスズ(五十鈴)」は鈴を意味し、たくさんの鈴で手足を飾っているものを指すという説』の他に、『金属加工との関連を示唆するものとみるむきもある』。『小路田泰直(奈良女子大学)によれば、タタラはたたら炉のことであり、「ホト」』(彼女の当初の名は「富登多多良伊須須岐比売(ほとたたらいすすきひめ/ほとたたらいすすぎひめ)」である)『は陰部を指すとともに火床のことでもある』、『すなわち、神武天皇がヒメタタライスズヒメ(=ヒメタタライスケヨリヒメ=ホトタタライススキヒメ)を妻に迎えたというのは、王家が製鉄産業を牛耳ったことを示すものと解釈される』。『吉野裕(日本文学協会)は、「ホトタタライスケヨリヒメ」という名は溶鉱の神・溶鉱炉に仕える巫女を指すとしている』。但し、『本居宣長をはじめとする近世の国学者らは、ヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)の「タタラ」をふいごの意味とは解釈しなかった』。『彼らの考えによれば、「タタラ」という語は鍛冶師が使う俗語であり、高貴な皇妃の名に用いるような語としてふさわしくないものとして製鉄との結びつきを退けられるという』。『「タタラ」は「立つ」の派生形とみて、「(陰部に矢を当てられ驚いて)立ち上がった」や「(陰部に)矢を立てられた」の意とする解釈もある』とある。

個人ブログ「UFOアガルタのシャンバラ」の「沖縄の精神科の病院にはときどき神がかかった女性も診療にくる」に、蛭川立著「彼岸の時間 “意識”の人類学」(二〇〇二年春秋社刊)からの引用として、『沖縄の精神科の病院には、ときどき、神がかかった女性も診療にくる。そういうときには、この病院ではカルテに「カミダーリ」(巫病』(ふびょう:呪術者(シャーマン)が真にシャーマンになる過程(成巫過程)に於いて罹患する心身の異常状態を指す語)『)と書いて、近隣のユタを紹介したりもしていた。「ソゾ(』統合失調症『)には薬が効くけど、ターリ(巫病)には効かないからね、薬を出してもおさまらないさ」と、ドクターは語っていた』。『人がユタになるとき、沖縄ではだいたいある決まったコースをたどる。まず、「タカウマリ(高生まれ)」という先天的な資質(運命?)があると考えられている。そして、大人になってから「カミダーリ(神垂れ?神祟り?)」とか、「カミブリ(神触れ)」という、心身の異常を経験する。これはだいたい』二十歳から四十『歳ぐらいの女性に起こることが多い。病気や家庭の不和など、不幸な出来事がきっかけになる場合が多いが、特別なきっかけがなく』、『突然』、『起こることもある』。それは『医者に行っても治らない。自分でも意味が分からない場合は、ベテランのユタのところに相談に行く、先輩ユタは、お告げの主が誰なのか、何代前の祖先なのか、どういう神様なのかをみきわめ、それを拝むように指令する。守護霊的存在を特定してそれを拝むようになると』、『カミダーリはおさまり、かわりに必要に応じて先祖や神のメッセージを受け取ったり』、『病気を治したりすることができるようになる。こうしてユタが再生産される。はじめは日本人は戸惑うらしいのだが、必要なことは神の声が聞こえてきて助けてくれるというものらしい』。『カミダーリの症状は、妄想型の』『統合失調症』『の幻覚、妄想状態と似ているが、個々の点をみると』、『違っているところも多い。カミダーリは圧倒的に女性に多いし、同じ幻覚でも』統合失調症『では幻聴が多いが、カミダーリでは幻視が多い』。『アメリカでは近年、こうした巫病状態を霊的危機と呼んで、いわゆる精神病とは区別しようという考えも出てきている』とあった。

「楠家(くすのきけ)の兄弟は、湊川の最後に際して何と宣言したりしか」楠木正成(永仁二(一二九四)年?~延元元/建武三(一三三六)年五月二十五日)と弟の正季(?~兄に同じ)の兄弟。「太平記」巻第十六の「正成兄弟討死の事」のシークエンスを言っている。所謂、後世、「七生報国の誓い」と言われるようになるそれである。以下に引く(底本は新潮日本古典集成を参考に恣意的に漢字を正字化して示した)。

   *

正成、座上に居つつ、舍弟の正季に向かって、

「そもそも最期の一念に依つて、善惡の生を引くといへり。九界(くかい)[やぶちゃん注:仏教で言う如来の世界を除いた「迷い」の世界を指す。]の間(あひだ)に何が御邊の願ひなる。」

と問ひければ、正季、

「からから。」

と打ち笑うて、

「七生(しちしやう)まで、ただ同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ。」

と申しければ、正成、よに嬉しげなる気色にて、

「罪業深き惡念なれども、われもかやうに思ふなり。いざ、さらば、同じく生(しやう)を替へて、此の本懷を達せん。」

と契つて、兄弟ともに差し違へて、同じ枕に臥しにけり。

   *

「障礙神(しやうげしん)」呉音で読んだ(「ちくま文庫」版もそれ)。漢音なら、「しやうがいしん」である。謂わば、対極の二面性を持った荒神(こうじん)で、心を籠めて祀れば、その「義俠心」からそれを成就せんとする一方、少しでも不敬を働いたり、ないがしろにすることがあれば、逆に大きな障害(=障碍=障礙)を齎して、命さえ危うくなるタイプの古典的な荒ぶる神のことである。柳田國男は「眞言の佛法」と言っているが、代表的なそれは、天台宗の摩多羅神(またらじん:摩怛利神(またりしん))である。

「境堺(きやうかい)」特定の場所。後に出る建物の「門」や城壁とか、「川の堤」や橋である。道祖神や「塞の神」との属性との強い親和性が認められる。

『「人柱(ひとばしら)」の話』私の南方熊楠「人柱の話」(上)・(下)」(平凡社版全集未収録作品)を是非お薦めする。そこにもリンクさせてあるが、私の古いブログ記事「明治6年横浜弁天橋の人柱」も、知らない人は慄然とするであろう

「妖婆の輩(やから)の祕密に屬せし物を指したる幼兒の指」この日本語自体がよく判らないが、これは西洋の魔女の秘法か何かのように思われる。処刑された罪人の手を切り取ってミイラにしたものは西洋の黒魔術では、強盗がそれを持って家に侵入すれば、家人には盗人の姿が全く見えなくなるというのを読んだ記憶があるからである。

「食物を見詰むる所を打ち斫(き)りたる餓ゑたる犬・猫の頸」蠱毒(こどく:古代中国に於いて用いられた動物を用いた呪術)の一つとして、よく知られたものである。本邦でも昔から知られていた。ウィキの「犬神」にも出る。『犬神の憑依現象は、平安時代にはすでにその呪術に対する禁止令が発行された蠱術』(蠱毒の異名)『が民間に流布したものと考えられ、飢餓状態の犬の首を打ちおとし、さらにそれを辻道に埋め、人々が頭上を往来することで怨念の増した霊を呪物として使う方法が知られる』。『また、犬を頭部のみを出して生き埋めにし、または支柱につなぎ、その前に食物を見せて置き、餓死しようとするときにその頸を切ると、頭部は飛んで食物に食いつ』くが、『これを焼いて』、『骨とし、器に入れて祀る。すると』、『永久にその人に憑き、願望を成就させる。獰猛な数匹の犬を戦い合わせ、勝ち残った』一『匹に魚を与え、その犬の頭を切り落とし、残った魚を食べるという方法もある』。『大分県速見郡山香町(現・杵築市)では、実際に巫女がこのようにして犬の首を切り、腐った首に群がった蛆を乾燥させ、これを犬神と称して売ったという霊感商法まがいの事例があり、しかもこれをありがたがって買う者もいたという』とある。

「天滿大自在天神」没後の菅原道真を神格化した呼称。ウィキの「天満大自在天神」が異様に詳しい。

「新田義興」彼の以下の話は既出既注。]

2019/06/05

『散文詩』を讀む人々のために(註釋の第二として) 生田春月 /「ツルゲエネフ(生田春月訳)」全電子化~了

 

    『散文詩』を讀む人々の

    ために(註釋の第二として)

               譯   者 

 此の老年の憂欝と未だ消滅せざる靑春の若々しさとのあやしく織り交ぜられてゐる美しい哲學、深遠な詩のエッセンスたる小さな力ある書物は、ツルゲエネフがその晚年の五年間(一八七八年――八二年)に、自身の並びに社會の日常生活を觀察し思考するの餘、折りにふれてそのノオトに書き留めて置いた寫生や空想や考察の中から、五十篇だけを選んで、一八八二年、露西亞の大雜誌「歐羅巴の使ひ」(ウエストニク・エフ口ピイ)の十二月號に於て發表したものである。その主筆のもとに送られた原稿には、もと何等の題も指定されてゐなかつた代り、その表紙に覺え書きめかしく“Senilia”と云ふ一語が書き流してあつた。これは羅甸語で老衰の義である[やぶちゃん注:底本は「考衰」であるが、誤植と断じて特異的に訂した。]、されば鷗外陣士もこれを「耄語」と譯してゐられたやうに覺えてゐる。獨譯者ランゲは云ふ、ツルゲエネフは人も知る如く、極めて謙遜な人である、それ欽この過謙の語を書き記したものであらうが然しこの作品には最も適當しないものである、何故と云ふのに。これには精神的老衰の痕跡すらも認められないからであると。そして彼は前記雜誌の主筆スタシユレヰツチが、作者の手紙の中に記されてゐる「散文詩」と云ふ言葉を、此の無韻ではあるが眞に詩的な考へ深い作品の表題に定めたのを頗る當を得た處置だと云つて、自らその名によつて獨譯を發表した。此譯にも散文詩の名を棄て得たかつたのは、それが既にこの名によつて一般に知られてゐるのと、今一つは散文詩なる文字に對する一種の愛着からであつた。けれども、ツルゲエネフがもとかの非常な謙遜な題を眼中に置いてゐた事だけは述べて置く必要があると考へる。

 ツルゲエネフはその原稿に添へて、スタシユレヰッチに與へた手紙の終りに左のやうに記してゐる、『……讀者が此の「散文詩」を一息に讀過しないようにと望みたい。でないと、その結果は恐らく退屈を來して、――そして「歐羅巴の使ひ」はその手から取落されてしまふであらう。むしろ一篇づゝ讀んで頂き度い、今日はこれ、明日はあれと云ふ風に――さうしたならば、多分その中から何物かがその胸に刻み込まれるであらうと思ふ……』と。全く、このやうな作品は一度や二度卒讀したのみでは十分でないのである。靜かな瞑想の中から生れたものは、また靜かに落着いて味はれなければならない。

 

 この集に對する大思想家及び大批評家の批評。

 クロポートキンは云ふ、『これは一千八百七十八年以降、彼の私生活もしくは公生活の、種々の事實から受けた印象に基いて書き留めた「飛ぴ行く思ひつき、思想、影像」である。これらは散文で書いてはあるが、優れた詩の眞の斷片であり、或るものは眞の寶玉である。或るものは深刻な剌戟を與へ、優れた詩人達の最もよい詩の樣に印象的である(「老婆」「乞食」「マーシヤ」「何と美しい、何と鮮かな薔薇だらう」)。而も一方には(「自然」「犬」)ツルゲエネフの哲學的思想を何よりも明かに語つたものがある』(田中純氏の譯による)

 ブランデスはこれを『立派な散文集』と嘆賞し、その「自然」を引き來つて、ツルゲエネフが沈欝の特性を認め、ゴオゴリ、ドストエフスキイ、トルストイと比較し、『獨りツルゲエネフは哲學者である』と斷じ、また云ふ、『抒情的な、空想的な一要素がそれらの中に最も詩的に閃いてゐると云ふ事を除いては、同樣に靑年時代の諸作より□[やぶちゃん注:脱字。「遙」或いは「更」か。]に深い憂愁を含んでゐる。此處に、最後に、彼は生の祕密に面して、それを小止みもない悲しみの中に象徵や幻影を以て設明してゐる。自然は頑固で冷淡である、それならば人をして受することを怠らしめるな。此處にはツルゲエネフが、ハムブルグからロンドンヘの寂しい旅行中、哀れな、いぢけた、鎖に繋がれた小さい猿の手をとつて一時間も坐つてゐる場面がある――此處には如何なる信仰書に於けるよりも更に眞實の信仰がある」(瀕戶義直氏の譯による)

 この小册子を讀んで先づ目に附くものは、作者の厭世思想である、それは最も深酷なニヒリズムである。人間の微小を二巨山によつて語らしめた「會話」、その宿命觀を披瀝した「老婆」、一瞬に於て人生の無常を觀じた「髑髏」、特にブランデスをして『ツルゲエネフにとつてはそれは、人類の理想は――正義も、理性も、優越も、善も、幸福も――悉く自然に對しては無關係の事である、そして決してそれ自身の精紳力で確立するものではないと云ふ事を理解した思想家の沈欝である』(瀨戶氏譯)云はしめた「自然」、それに老年の悲愁を託した「老人」、「明日は明日は」、「何を私は考へるだらう」。そして彼は常に常に死と云ふ大問題にはへつて來る。そして「世界の旅り」をさへ夢みてゐる。けれどもそれが何故激烈に心を打擊しないであらう? 何故にかくも溫かく柔かく心に沁み込むであらう? 何となれば、それは驚くべく沈靜な悲哀であるからである。[やぶちゃん注:この末尾は読点であるが、特異的に句点に訂した。]

 それはやはらかな少女の手のやうに撫でさすり、薄暗に於て靜かな落着いた聲音で囁くからである。また眞理に美くしい衣裳を纒はしめてゐるからである。(赤裸の眞理は決して人の心を動亂させないでおくものでない)とりわけ彼の厭世思想を特徴づけてゐる愛の教の爲めである。溫かい慈悲と慈愛の心のためである。たとへば、「乞食」、「雀」、「海上にて」、「鳩」。

 プウルヂエは云ふ、『彼の厭世思想はしばしば誠に强かりしも甞て人嫌に至れることはなかつた。思ふに、彼は方に斯くの如く人嫌と當然なるべきであつたらう、凡て厭世思想は、理想と現實との對比なる自然に對する呪咀なれば。然して一面に思想は人心の所產物なる故に、論理的に云はば、此の世を呪咀する權利を得んためには、此の心を激昂せしむるを要すべし。されど彼は決して斯くの如きことはなかつた。……彼は厭世思想家にして然も慈愛に富める人である。凡ての存在物が宿命的に老衰する樣は、彼をして致命の罪に處せられし可憐なる生物を、無辜の犠牲者なりと訴へしむるに至つた。……かくてツルゲエネフは其の作を靉靆たる慈愛の衣を以て包むに至つた。此れまさにその愛を捧ぐる女がその生涯の癒し難き不幸を語るその告白に面せる戀人の心の如くなるべし」(山田手捲氏の譯による)

 ブリュクネルは云ふ、『彼の厭世思想は後に至つてはじめて内面外面の經驗からして形成されたものではなく、彼に生得のものなのである。その上、その非常なる教養が更にそれを助成した。しかもその知識たるや。たとへばベリンスキイの如きかき集められたものではないのである。……其處に人道的精神が加はつて來る――曾て靑年時代にバルザックが彼を親しましめなかつたのに反して、ジヨオジ・サンドが彼の崇拜を受けたのもその精神のためである。』

 ツルゲエネフは人間の醜惡と痴愚と利己主義とを深く感じて悲痛の思ひに打たれた。その感情が反語となり機智となりユウモアとなつて現れたものが「滿足せるもの」、「處世法」、「愚物」、「エゴイスト」、「友と敵と」、「神の饗宴」などであるが、然し彼は、溫厚なる彼は、それをも堪へようとする、『私を打て、然し健康に幸福に生きよ!』と言ふことが出來るのである(愚者の審判)。ウレフスカヤと共に何人(なんぴと)に感謝されなくとも怨むことをしないのである。

 この外、この集には蜂蜜も鋏けてはゐない。それは最も詩的で、薔薇の香りのやうに喜ばしい。「薔薇」、「おとづれ」、「空色の國」(幸福の領と譯した方がいゝかも知れない)。然しそれらもまた憂欝な黑い帷に織り出されたる薔薇の花である。

 

 ツルゲエネフの晚年は、あゝ何等の苦痛、何等の孤獨! 彼は丁度かの獨逸の薄倖なロマンチシスト、彼が靑年時代に心醉してゐたかのハインリヒ・ハイネと相似たる運命に遭遇した。丁度同じ巴里で、丁度同じ death-in-life を彼は送らねばならなかつた。痛風だと思はれてゐたか實は頑强な病氣、脊髓の癌腫のために癈人のやうになつて、最後の數年間――丁度彼がこの散文詩を書いた時分である――を、ハイネの所謂蒲團の墓の中に橫はらねばならなかつた。そして彼は絕間なしに考へた、瞑想した、夢想した、囘想した、常に人生の謎に面して、人生の最後の大きな謎、――死に相面して。それ放に此悲痛な詩篇! 然り、この詩篇を讀む人は、この作者がかゝる境遇にあつたことを考へなくてはならない。彼が多年敬愛してゐて、その遺產の相續人に定めたヴィアルドオ夫人、彼のために無くてはならぬ人であり、彼に對して骨肉も及ばぬ世話を見てくれたそのヴィアルドオ夫人すら、後にはさまでの注意を彿はなくなつたのである。そして彼は孤獨に、愈々孤獨にその二二階に寢てゐたのだ。この事を想うてこの作品に對する時、一層力强く動かされずにゐられない!

 ツルゲエネフは、この五十篇を發表した翌年、卽ち一八八三年にその第二の故鄕なる巴里で逝いた――年は六十五歲であつた。

 

 ツルゲエネフの言葉の中でも、とりわけどうしても忘れ去ることの出來ない二箇を終りに添へて置きたい。

『人生は冗談ではない、慰みではない、勿諭快樂ではない……人生は重い苦痛である。放棄(あきらめの義)、永久の放棄――それが人生の祕義である。鍵である』フアウスト『人生はただ人生のことを思慮せず、そして人生より何物をも要求せずして、安んじて人生が附與する僅少の賜物を受け、安んじてその賜物を利用する人を欺かない。汝は出來るだけ前に進め、しかし足が疲れたなら路傍に坐して、悲むことなく、また猜む[やぶちゃん注:「そねむ」。]ことなく、通行者を眺めるがよからう、彼らも遠くは行くまい……』通信 (昇曙夢氏譯による)

               ――了――

[やぶちゃん注:「然りは原典では「○」(特異的に大きな丸印)の傍点。今までの注の「ヽ」の傍点を太字としていたので、かく差別化しておいた。注は附さない。なお、本文中で一部の個所のポイントを落としてあるが、無視した。

 以下、奥附。罫線や一部記号を省略、字配・ポイントは一致させていない。]

 

大正六年六月十三日印刷

           (定價金五十五錢)

大正六年六月十八日発行

[やぶちゃん注:印刷日は「十三」の「三」を手書きで「二」に訂正してある)]

散  文  詩

[やぶちゃん注:以上の書名は横書(右から左)で左右を▲の一辺で挟んである。]

著 作 者    生  田  春  月

發 行 者 東京市牛込區矢肅町三番堆申の九

         佐  藤  義  亮

發 行 所 東京市牛込區矢來町三番地

        新  潮  社

           八〇九番

       電話■町

           八九九番

[やぶちゃん注:「■」は字が擦れて判読不能。「番」か。以下振替は横書(同前)。]

   振替(東京)一七四二番

印 刷 所  東京市神田區宮本町五

       電話下谷、四〇六七番

         新潮社印刷部

     印 刷 者  高 橋 治 一

 

露西亞語 ツルゲエネフ(生田春月訳) / 「散文詩」本文~了

 

    露 西 亞 語

 

 疑ひ惑ふ日にあつても、國運を思うて心傷む日にあつても、汝のみは我が杖であり柱である。おゝ、偉大なる。信實なる、自由なる露西亞語よ! 汝がなかつたならば、いまの祖國のさまを見て、どうして絕望せずにゐられよう? 然しながら、かやうな言葉が、偉大なる國民に與へられたものでないとは誰か考へ得られようぞ!

    一八八二年六月

 

[やぶちゃん注:本篇を以って底本の訳詩本文は終わっている。

 なお、この後に「註釋」が続くが、そこで掲げられてあるものは、既にそれぞれの各詩篇末に各個転配済みである。さらにその後には生田春月による「『散文詩』を讀む人々のために(註釋の第二として)」という解説が続く。次回はそれをここに電子化する。]

祈禱 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    祈  禱

 

 その祗るところが何であらうとも。人間はすべて奇蹟を祈るのである。どんな祈禱でも皆これに歸する。曰く『大いなる神よ、二二が四たることなからしめ給へ』

 たゞかゝる祈禱のみが人格ある者より人格ある者に捧ぐる眞の祈禱である。宇宙の靈に祈り、上天に祈り、カントの、ヘエゲルの、實體無形の神に祈るといふ事は、あり得べき事でもなく、また考ふべからざる事である。

 然し人格あり、生命あり、形體ある神なりとも、二二が四たることなからしめ得べきか?

 すべての信者は『然り』と答へなければならぬ、また自らそれを信じなければならぬ。

 然し理性が彼をしてかゝる不合理に反抗せしめる時はどうする?

 此の時シエイクスピアがその助けに來る。曰く『ホレエシオよ、天地の間には汝の哲學で夢みられるよりはより多くの事物(もの)がある。』

 しかも人々眞理の名によつて、なほも駁し來つたならぱ、かの有名な問ひを繰返しさへすれぱよい、曰く『眞理とは何ぞや?』

 さらば、我等盃を舉げて樂しまう、そして祈禱をしようではないか。

    一八八一年七月

 

カント、獨逸の大哲學者、「純正理性批判」によつて哲學に一時代を畫した、近世哲學の鼻祖である。】

ヘエゲル、カントに續いて起つた大哲學者、ツルゲエネフが獨逸に留學して學んだのはこのヘエゲル哲學である。】

二二が四とは理窟に合つた事、當然の事、それが二二が五にでもなれぱ、これ卽ち奇蹟である。あり得べからざる事が卽ち奇蹟。】

シエイクスビアは有名な沙翁、英國の大戲曲家で、このホレエシオよ云々の文句はその「ハムレツト」中にあるハムレツトの言葉である。ホレエシオはハムレツトの友人の哲學者。】

眞理とは何ぞや、これは猶太の代官ピラトが基督に反問した文句である。】

[やぶちゃん注:「然り」は原典では「◦」の傍点。今までの注の「ヽ」の傍点を太字としていたので、かく差別化しておいた。]

我等なほ戰はん ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    我等なほ戰はん

 

 實に何でもない事が、時とすると人間をまるつきり變へてしまふものだ!

 憂愁の思ひに暮れて、或日私は街道(かいだう)を步いてゐた。

 私の心は重苦しい氣遣はしい感情に壓し附けられ、意氣沮喪の極に達してゐた。ふと頭(かしら)を擡(もた)げると……私の前には二列の高い白楊の間を街道(みち)は矢のやうに遠く走つてゐる。

 そしてそれを越えて、その道越えて、十步ばかり彼方(むかう)に、夏の眩しい太陽の黃金の光の中を、一群れの雀が列をつくつて飛んでゐた、遠慮氣もなしに、をかしげに、自ら恃(たの)むところがあるやうに!

 とりわけてその中の一羽は、必死の力を籠めて、わき道をはね、小さな胸をふくらまし、倣然として囀つてゐた。まるで何一つとして恐ろしいものがないと言ふやうに! 實に健氣(けなげ)ま小戰士ではある!

 しかも其時、空高く一羽の鷹が輪や描いてゐて、その小戰士を餌食(ゑじき)にしようとする風であつた。

 私はそれを見て、笑みをうかべ、身ぶるひして、憂愁の念は忽ち消え失せた。勇氣、剛膽、生存慾、ふたたび私の胸に還(かへ)つて來た。

 我が上にも、飛べよ我が鷹……

 我等もまた更に戰はう、何の恐ろしいことがあるものか!

    一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:「我が」は原典では「◦」の傍点。今までの注の「ヽ」の傍点を太字としていたので、かく差別化しておいた。]

僧 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    

 

 私は隱者で聖者である一人の僧を知つてゐた。彼はたゞ祈禱の淨樂にのみ生きてゐた。そして祈禱に專念して、寺院の冷たい石疊の上に立ち盡してゐた、その足が膝の下から痺(しび)れて、柱のやうに無感覺になつてしまふまでも。しか彼はそれを感じなかつた、彼は立ち盡して祈禱しつゞけた。

 私は彼の心を知つてゐた、或は彼を羨んでゐたであらう。然し彼もまた私の心を知つてゐた、そして私を責めるやうなことはなかつた、私は彼の法悅に達し得なかつたけれども。

 彼はその憎むべき『自我(エゴオ)』を滅却する事に成功したのである。私もまたさうであるが、然し私が祈禱を顧みないのはあながち利己心から來たものではない。

 私の『自我(エゴオ)』は、多分彼のよりは一層私にとつて重苦しく、厭はしいものなのであらう。

 彼はすでに自分自身を忘れる方法を見出した……然し私もまたその方法を見出してゐる、いつもいつもと云ふわけではないけれども。

 彼は虛僞(いつはり)を言ふ人ではない……然し私もまた虛僞(いつはり)を言ふものではない。

    一八七九年十一月

 

、ツルゲエネフの見出したものは恐らく藝術であらう。】

 

止まれ! ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    止 ま れ !

 

 止(とゞ)まれ! 今私がお前を見るまゝに、永久に私の記憶に留(とゞ)まれ!

 お前の脣から最後の感激の聲は逃(のが)れ出て了(しま)つた。お前の眼には光も輝(かゞやき)もない。其眼は幸幅に壓せられたやうに曇つてゐる、それを現すのがお前の喜(よころび)であつたかの美――其方へお前が勝誇つた樣でもある弱つた手を差伸すやうに思はれたかの美――を有してゐると云ふ幸福な意識に壓せられたやうに曇つてゐる!

 何と云ふ光が――太陽の光よりも更に淸らかに更に氣高くも――お前の手足のまはりに、お前の着物のもつとも小さな襞(ひだ)の上までも注がれたであらう?

 いかなる神の愛撫の息吹(いぶき)がお前の波うつ捲髮(まきがみ)を弄んだであらう?

 その神の接吻はお前の大理石のやうに蒼白い額になほ燃えてゐる!

 これぞ祕密のあらはれである、詩歌の、人生の、戀愛の祕密のあらはれである! これぞ、これぞ不朽そのものである! これを外にして不朽はあり得ない、またあるを要しない。此の瞬間に、お前は不朽である。

 それは消えてしまふ、この瞬間は――そしてお前は再び一塊の灰、一人の女性(をんな)、一人の子供となつてしまふ……けれどもそれが何であらう! この瞬間に、お前は超越したのである、あらゆる無常(むじやう)のもの、流轉(るてん)するものを超越したのである。此のお前の瞬間は永遠に不滅であらう。

 止(とゞ)まれ! 而して私をもお前の不朽にあづからしめよ、私の靈魂(たましゐ[やぶちゃん注:ママ。])の中にお前の永遠の美を反映せしめよ!

    一八七九年十一月

 

[やぶちゃん注:「お前」は原典では「◦」の傍点。今までの注の「ヽ」の傍点を太字としていたので、かく差別化しておいた。]

常陸帶 すゞしろのや(伊良子清白) / 橫瀬夜雨との合作

 

常 陸 帶

 

  馬追の鈴

 

紫深き朝より、

くれなゐあする夕まで、

七度かはる筑波やま、

峯の色みて馴染みたれ。

 

產湯すてたる芒原、

馬追ひくれば大寶の、

沼におち行く山の影、

よする浪にぞ碎かるゝ。

 

勝鬨あげし八州は、

稻葉の波やうづむらん、

武藏鐙の花やかに、

妻どひしけむ夢の跡。

 

手綱牽くには少女子の、

艶ある髮の似合はずば、

一葉の舟の棹さして、

渡守る兒にやとはれうか。

 

樣は箱根の秋風に、

八里の霧や鈴の音、

轡執るのがつらいとて、

茨の中を行き暮らし。

 

富士は白絹杉林、

紅蓮くづるゝ秋の日を、

背にうけて雲遠き、

常陸をこひておはすらん。 (すゞしろのや)

 

 

  利根の川瀨

 

霞の底に月落ちて

遠山白む朝ぼらけ

 

からりころりの音低く

葦間を出る漁舟

 

櫛目みだれし前髮に

かざすは桃かさる島の

 

誰にきけとやあまの子が

小唄をのせし一葉の

 

利根の川瀨をこがんには

あまりに細き櫂なれや

 

流石に浪に逆らへば

舟は中洲になづみなん (夜)

 

小枝は靡く岸のへに

灯殘る柳蔭

 

鎌をさしたる草刈の

小手さしあげて舟やよぶ

 

かへすにをしき大川の

あゐに寫れる春の雲

 

菫の床をはなれては

雲雀の聲も迷ふらん

 

一つ二つと數ふれば

星は消えゆくかねの音

 

花の香暗き山蔭に

いかあるをちか撞くならん

 

川の景色をなつかしみ

かいとる業のつらからば

 

筵帆張れよ朝風に

筑波は明くる濃紫 (すゞしろ)

 

 

  かへらぬ浪

 佝僂病にて死したる小女あり、そが母はもと卑しき

 あそびなりき。

 

常世の國に流れては、

かへらぬ浪に誘はれて、

シロアム川に匂へりし、

小百合の花の散りにけり。

春長しへに霞立つ、

天の園生の歌聞きて、

君がみ魂はふるさとの、

菫の野にや遊ぶらん。

 

淚あやなき濁江に、

漂はされし母なれば、

甲斐無き子をも暗き世の、

光りとこそはたのみけめ。

 

鏡放たぬ處女子の、

玉なす肌をさながらに、

鹿(カ)鳴く山べにをさむれば、

あかとも罪は滅びんに。

 

さやけき眉のいつとても、

しをれ勝にて見(みゝ)えしが、

長き睫を閉しては、

瞳に寫る影ぞ無き。

 

 水は流れて  海に落ち、

  炎は空に  立ちのぼる。

 

 君は樂しや  浪高き、

  ヨルダム河を  越えしなり。

 

 綠にかへる  筑波根の、

  峰にも尾にも  雪消えて。

 

 み墓に植ゑし 八重櫻、

  八重の花こそ  咲きかゝれ。 (夜)

 

 

  江 戶 紫

 

薄暮寒き大橋の、

燈火淡き欄干に、

袖飜へし行く君は、

江戶紫のゆかり子か。

 

金釵斜にたいまいの、

かうがいにほふ黑髮や、

おくれ髮なぶる川風に、

ほそむる眉の似通ふを。

 

熊野の浦に聲あげて、

いをつる業は習ひしも、

わたり行く子をはしのへに、

よびとゞめんもつゝましく。

 

西に沈める夕月の、

光を胸に鑄りつけて、

橋のつめなる柳かげ、

見造る影は消えにけり。 (二人)

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年二月十五日発行の『文庫』掲載。橫瀬夜雨(パブリック・ドメイン)との合作。署名は「すゞしろのや」。前に述べた通り、この年一月十日頃に上京した直後、筑波山麓横根村(旧真壁郡横根村、現在の茨城県下妻(しもつま)市横根か。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。筑波山の裾野の西方、小貝川右岸)に橫瀬夜雨を訪れ、初対面であったが、一ヶ月も滞在しており、公開日時から見ても、そこで親しく膝を合わせて二人して詠んだものとも推測される。合作詩篇に於いて、詠者の担当部が示されている(各詩篇末の丸括弧)のは彼の合作詩篇では珍しい。「つらい」はママ。

「常陸帶」昔、正月十四日(古くは十一日)に常陸国鹿島神宮の祭礼で行われた結婚を占う神事。意中の人の名を帯に書いて神前に供え、神主がそれを結び合わせて占った。神功皇后による腹帯の献納が起源とされる。「帯占」「鹿島の帯」とも呼ぶ。現在は行われていないが、「常陸帯」という墨書した安産の御守りを出している。

「大寶の」「沼」「大寶」は現地名(後述)からは「だいほう」(現代仮名遣)と濁る。現在の横根地区の西北に接して茨城県下妻市大宝地区が地名として残るが、現在、この沼は干拓されて存在しない。「下妻市立騰波ノ江小学校」(「とばのえ」と読む)公式サイト内の「騰波ノ江小学校-騰波ノ江の盛衰と大宝沼干拓-」によれば(コンマを読点に代えた。リンク先には復元された昔の地図もある)、現在、『筑波山西方』の、この『下妻市北東部の騰波ノ江地区から関城町』・『明野にかけて』は、『見事な水田地帯が広がっている』が、『ここは、その昔、万葉歌人が「つくばねのもみぢちりしく風吹けばとばの淡海』(あふみ)『に立てる白波(鳥羽の淡海)」と、歌にも詠んだ騰波ノ江(鳥羽の淡海)跡である。この歌からも、万葉の時代、多くの人々がこの湖の美しさに心を奪われたことがうかがえる』。『鬼怒川は約二千年前、現在の流路になり、下妻市南部を東流し、比毛の所で小貝川と合流していた。鬼怒川の東流と付近の隆起によって小貝川が堰き止められ、その北側にできたのが鳥羽の淡海であ』った。『「常陸国風土記」筑波郡の条によると、「郡の西十里に騰波江あり、長さ二千九百歩、広さ一千五百歩なり。東は筑波の郡、南は毛野河、西と北とは並に新治の郡,艮(うしとら)のかたは白壁の郡なりし」とあり、その当時の湖の様子がしのばれる』。『しかし、この美しい湖沼も鬼怒川の流路が突然、石下方向への南流に変わると、その面影を失い始めた。その後、千年余り』、『不毛の土地であった鳥羽の淡海は、明治の近代的な水利事業をきっかけに』、『現在では多くの恵』み『を地域の人々に与えてくれている』。『そこで、この鳥羽の淡海が、現在の見事な水田地帯へと姿を変える様子を、大宝干拓に求めてみたい。大宝沼は、鳥羽の淡海の一部であり、それと起源を同じくする』。『干拓の歴史は、江戸時代までさかのぼる。そのころ』、『新田開発が全国的に盛んとなり、下妻市域にもいくつかの新田村が生まれた。これと並行していくつかの用排水路が設けられ、大宝沼は南に広がる平沼と』合わせて『大宝平沼とも呼ばれ、大宝』・『騰波ノ江地区十五カ村の用水源として利用されるようになった』。『十八世紀に入り』、『幕藩体制の立て直しのため、八代将軍吉宗は享保の改革に着手し、年貢増徴策のひとつとして、全国的に新田の開発を奨励した。この政策は下妻市域にも及び』、『大宝平沼の干拓が進められた』。『一方、湖の干拓により溜池水源の機能が低下したため、その代替用水として開削されたのが江連』(えづれ)『用水である。しかしこの用水も十八世紀後半には,鬼怒川の』水位『が低下したうえ、浅間山の噴火も手伝って』、『水路が役に立たなくなった。そのため、やむなく、大宝平沼の干拓地は再び』、『水面下に姿を消した』。『その後、大宝沼は百三十年以上も溜池として利用されてきたが、黒子堰から用水をひくようになると、その機能を失い、明治から大正にかけて』ここが重要)、『再び干拓が始まった。その結果』百四十一・一『ヘクタールの耕地が造成され,今日では、美田に生まれ変わっている』(引用元に『鬼怒川・小貝川サミット会議発行「鬼怒川 小貝川 自然 文化 歴史」より』とする)とある。さすれば、この清白が夜雨を訊ねた頃は、未だその「騰波ノ江(鳥羽の淡海)」の名残としての「大宝沼」(或いは一部)が未だ残っていたと読めるのである(恐らくは現在の大宝地区の西北の、糸繰川の上流部附近)。しかも、万葉好きの清白には時代幻想の一篇を詠まずんばおかれぬ古い歌枕であったのである

「勝鬨あげし八州は」個人的には江戸開幕以前の武蔵七党の時代まで溯りたい。

「武藏鐙」武蔵国で作られた鐙(あぶみ)。鋂(くさり:兵具に用いる鎖。長円形の鐶(かん)を交互に通して折り返して繋いだ鎖。)を用いず、透かしを入れた鉄板にして、先端に刺鉄(さすが:鐙(あぶみ)の鉸具(かこ:鐙の頭頂部の金具で、これを力革(ちからがわ:鐙を下げるために鞍橋(くらぼね)の居木(いぎ)と鐙の鉸具頭(かこがしら)とを繋ぐ革)に留め、鞍と鐙とを繋げる)に取り付ける金具。釘形で、回転し、力革の穴にさして止める)をつけ、直接に鉸具としたもの。小学館「デジタル大辞泉」の「さすが(刺鉄)」に添えられたカラー図版をクリックして以上の参考にされたい。なお、鐙の端に刺鉄を作りつけにするところから、和歌では「さすが」に、また、鐙は踏むところから「踏む」「文(ふみ)」の掛詞として古くから用いられた。

「さる島」同地区の南西にある猿島(さしま)郡の地名を掛けたものか。

「いかあるをちか」如何ある遠(をち)か」。どれほど離れたところでか。

「かいとる」「櫂執る」。

「佝僂病にて死したる小女あり、そが母はもと卑しきあそびなりき」佝僂(くる)病はビタミンD欠乏や代謝異常により生ずる骨の石灰化障害。典型的な病態は乳幼児の骨格異常で、現行では小児期の病態を特に「佝僂病」と呼び、骨端線閉鎖が完了した後のそれ以降の病態を「骨軟化症」と呼んで区別する。同疾患と母が「あそび」女(め)(売春婦)であったことの疾患上の連関性は基本、ないと考えてよかろう。因果応報的な差別的な添書きで、この設定(事実としてこの母子はいたのであろうが)はかなり不快な感じはするのであるが、しかし、実は夜雨も佝僂病であったのである。ウィキの「橫瀬夜雨」によれば、彼はここ『茨城県真壁郡横根村』の『生まれ』で、『本名』は『虎寿(とらじゅ)』。『幼時、くる病に冒されて歩行の自由を失い、生涯苦しんだ。『文庫』に民謡調の詩を発表し』、明治三五(一九〇二)年、詩集「花守」を『刊行して、浪漫的な色彩で人気を博し』、明治四〇(一九〇七)年からは『河井酔茗主宰の詩草社に参加した。地方の文学少女たちが』、『その境遇への同情から』、『夜雨の妻になると言って数名やってきた』という話が、水上勉の「筑波根物語」に詳しく書かれれてあるという。『その後』、『結婚し、昭和期には幕末・明治初期の歴史について研究した』昭和九(一九三四)年、『急性肺炎により』『下妻の自宅で五十六歳で没した、とある。この夜雨の詩篇、私には一読、何か切実なものを感じさせる。なお、夜雨がクリスチャンであったという記載は見出せないから、以下のそれらは、或いはこの母子がクリスチャンであったのかも知れない。

「シロアム川」「Siloam」で、パレスチナ地方の古都エルサレムにある池のことか。古代イスラエル統一王国のダビデ王が建設した首都エルサレム(ダビデの町)の南端に位置する。「旧約聖書」によれば、ユダヤ王ヒゼキアがギホンの泉からシロアムの池まで地下水道を掘って水源を確保したとされる。「新約聖書」の「ヨハネ福音書」では、イエス・キリストがここで盲人を癒したとする。但し、二十一世紀になって百メートルほど離れた場所に別の遺構が発見され、そちらが本来の池であると考えられているという。

「鏡放たぬ」亡くなっても鏡を握って離さないの意で採る。短い生涯に於いても純真無垢な美麗な少女であったことの比喩としても、無論、よい。

「あかとも」「赤とも」で「赤」は赤子・子供であろう。乳幼児や処女の若い女子の死は、それだけで地獄に落ちるとする差別的仏教観が古代仏教より存在した(そもそも仏教は変生男子説で如何なる功徳を積んでも女性は男性に転生しないと極楽往生は出来ないことを基本としたことはあまり知られているとは思われない)ことに基づくものへの、非難を含むものか。キリスト教でも洗礼を受けずに亡くなれば、「リンボ」(辺獄。ラテン語:Limbus/英語:Limbo)に堕ちるとされる(「Limbus」は「周辺・端」で、原義は「地獄の辺縁」の意である)。

「ヨルダム河」ヨルダン川。ウィキの「ヨルダン川」によれば、『ヘルモン山(標高』二千八百十四『メートル)などの連なるアンチレバノン山脈やゴラン高原(シリア高原)などに端を発し、途中ガリラヤ湖となって北から南へと流れ、ヤルムーク川・ヤボク川・アルノン川などの支流をあわせて死海へと注ぐ』、総延長四百二十五キロメートルに及ぶ『河川である。主としてヨルダン(ヨルダン・ハシミテ王国)とイスラエル・パレスチナ自治区との国境になっている。また、乾燥地帯における貴重な水資源となっている』。「新約聖書」に『よれば、洗礼者ヨハネがイエス・キリストに洗礼を授けたのがヨルダン川であった。ヨハネは、この川のほとりの「荒野」で「悔い改め」を人びとに迫って洗礼活動を行っていた。イエスはみずからの受洗ののちヨハネの創始した洗礼活動に参加するが、やがてヨハネの教団から独立してガリラヤへの宣教におもむいた』とある。]

染分手綱 すゞしろのや(伊良子清白)

 

染分手綱

 

染分手綱ゆらゆらと

靑柳けふる春の野を

淚なくてぞ嫁らまし

花傘にほふ白月毛

 

とてもかよはき吾胸は

戀のなやみに絕えざれば

塵をゆるさぬ小枕に

夜半の寐覺はやすかりし

 

常少女にてへましかは

姿見くもる朝なぎに

亂れし髮を洗ふとも

花の袂はぬらさじを

 

淺き緣につながるゝ

胡蝶の夢にたはぶれて

あだなる人の盃を

口にふくむがつらき哉

 

筑波は近しむらさきの

麓の野邊の枯生より

とけて流るゝ淡雪に

產湯浴びたる我なれば

 

鏡とすめる高濱の

波にすだれを捲きぬとも

かりがね落る欄干に

魚釣(なつり)する子はなじまじな

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年一月十五日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。「けふる」「へましかは」の清音はママ。この年、伊良子清白満二十三歳。前回述べた通り、この年一月十日頃に上京、二月より日本赤十字社病院内科の医員試補として勤務を始めた。一方で、鳳晶子(一歳歳下)に会い(上京直前の一月三日の関西文学同好者新年大会席上。この時、清白は「幻覚について」という講演をしている)、上京直後に筑波山麓に橫瀬夜雨を訪れ(初対面乍ら、一ヶ月も滞在している)、二月二十日は麹町の与謝野鉄幹(四歳年上)を初めて訪問、とも親しく交流、三月には一時、鉄幹宅に寄寓して『明星』(翌月に創刊号刊行)の編集に関わっている。五月より、河合酔茗が堺から上京したのを受けて『文庫』の詩欄の編集も担うようになっているから、この上京は医師としての独立した活動目的と等価に本格的詩人活動の決意に動かされたものでもあったことが判る。六月には横浜海港検疫所検疫医員となり、七月には横浜戸部町へ転居した。但し、八月、与謝野鉄幹と晶子の恋愛がスキャンダルとして問題になるに連れて、鉄幹とは疎遠になっている(以上は底本全集年譜に拠る)。

「嫁らまし」「よめらまし」か。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(30) 「御靈ト石」(1)

 

《原文》

御靈ト石   甲州ノ馬蹄石ノ類ヲ聖德法王ノ故事ニ附會スルハ、特ニ此君ガ佛法ノ保護者ニシテ兼テ日本ノ伯樂ナリシ爲ニ、便宜多カリシト云フノミノコトニテ、必ズシモ他ニ類型無キ話ニハ非ザルコト勿論ナリ。【地方英雄】古風土記ニ國々ノ神アリシ如ク、個々ノ地方ニハ今モソレゾレノ史上人物アリテ、殆ド其傳說ヲ以テ一切ノ故迹ヲ統括支配スルガ如キ觀アリ。行基弘法ノ二祖師ノ足跡天下ニ遍キヲ以テスルモ、地方人ハ猶之ヲ爭奪シテ我ガ鄕ノ英雄ト爲サザレバ已マザラントス。泰澄大師ノ北陸ニ於ケル、役行者(エンノギヤウジヤ)ノ大和ニ於ケル、性空上人ノ九州南部ニ於ケルガ如キ、或ハ藤原千方ノ伊勢ニ於ケル、田邑將軍八幡太郞ノ奧羽ニ於ケル等ハ、勿論然ルべキ仔細モアリテ、或點ニ於テハ神以上ノ崇敬ヲ繫ギ得タリシナリ。此ガ爲ニ以前物ヲ知ラザル里人ガ、何デモ强力ナ和尙ガ來テトカ、又ハ昔一人ノ勇士ガアツテトカ云フヲ、聞ク方ノ人ヨリソレハ辨慶ノ事ナルべシトカ、此邊ノ事ナラバ山中鹿之介ニ相違無シトカ、無造作ニキメテシマヒ、其次ヨリハ其固有名詞ヲ以テ話シ傳へシム。恰モ何レノ御時カノ古墳調査掛ガ、革鞄ノ中ニ國造本紀ノ類ヲ携帶シ、到ル處ノ白骨ニ姓名ヲ附與シテアルキシト同一ノ御苦勞ナリ。其爲ノミニモ非ザルべキガ、多クノ馬蹄石ニモ亦英雄ノ昔語リヲ伴ヒ居リ、而モ一々ニ尤モラシキ因緣アリ。【日本武尊】先ヅ時代ヲ追ヒテ言ハヾ、尾張東春日井郡坂下村大字内津(ウツツ)ノ内津神社ノ一ノ鳥居ノ跡ニハ、日本武尊ノ御馬ノ足跡アル馬蹄石存ス〔尾張誌〕。即チ「ウツヽナルカモ」ト仰セラレシ故迹ナリ。【龍ノ爪】美作間鍋山(カンナベヤマ)ノ長法寺ノ上ニハ岩ニ龍ノ爪ノ如キ跡アルヲ、或ハ鹽冶(エンヤ)判官ノ獻上セシ龍馬ノ蹄ト云ヒ、【和氣淸麿】或ハ又和氣淸麿ガ大隅ノ配所ヨリ龍馬ニ乘リテ諸國ヲ巡歷セシ折ノ馬蹄ノ跡トモ傳ヘタリ〔山陽美作記上〕。此地ハ淸麿ノ故鄕ト云フ備前ノ和氣郡ニ近キナリ。伊賀名賀郡比奈知(ヒナチ)村大字瀧原ノ高座山ニハ、方五尺バカリノ石ニ馬蹄ノ跡アルヲ千方(チカタ)ノ飛石ト云フ。【千方】此附近ニハ又千方ガ馬ヲ留メシト云フ馬留山アリ〔三國地誌〕。數多キ千方ノ故迹ノ一ツナリ。【多田滿仲】攝津川邊郡多田村大字矢問(ヤトフ)ノ龍馬石ハ多田滿仲ノ乘馬ノ跡アルガ故ニ此名ヲ得タリト云ヒ〔攝陽群談〕、或ハ又同郡小田村大字久々知ニモ同ジ名ノ石アリト傳ヘタリ〔本朝國語〕。阿波阿波郡土成村大字土成ノ御所谷ハ、畏多クモ土御門院ノ御身ヲ隱シタマヒシ地ナリト稱シ數々ノ遺跡アリ。御馬ノ足跡ノ岩ノ上ニ殘レルモノアリト云フ〔阿波國徴古雜抄三所錄、澁谷氏舊記〕。【義經】和州芳野ノ吉水院ノ境内ニハ九郞判官義經ノ駒ノ跡アリ〔本朝國語〕。此大將ハ全國少年ノ愛好スル人物ダケアリテ、北ハ津輕ノ突端ノ三厩(ミウマヤ[やぶちゃん注:ママ。])ヨリ、更ニ能登珠洲郡ノ三崎ニマデ馬蹄ノ跡ヲ印シタリ〔能登國名跡志〕。此等ハ綿密ナル義經記ニモ末ダ想像セザリシ史蹟ナリ。【三ツ石】陸中盛岡ノ東見寺ノ境内ニハ、同ジク此人ガ馬跡ヲ留メシ名石三ツ石アリ〔譚海十二〕。以前ハ人ノ拜祀セシ石ナルべシ。中古ノ石神ハ多クハ山ノ字ノ形ヲシタル大小三箇ノ石ニシテ、之ヲ拜ミシ梶原ハ是亦竃ノ神ノ信仰ニ基クカト見ユレバ、義經ニハ兎ニ角ニ馬ノ因緣ハ存スルナリ。【畠山重忠】畠山重忠ハ其舊領地タル秩父ノ一郡ニ於テハ今モ多クノ傳說ノ主ナリ。高麗川ノ上流吾野村大字阪元ニハ、重忠ノ厩ノ跡ト云フ深サ三間ホドノ洞窟アリテ、中程ノ岩ノ面ニ馬蹄ノ跡二ツアリ〔新編武藏風土記稿〕。此邊ハ石灰岩ノ層アルガ爲ニ殊ニ此種ノ奇巖ニ富メルナリ。【梶原景時】其畠山ヲバ讒言シタル梶原平三景時モ、亦駿州田上ノ岡ノ麓ノ岩ノ上ニ、最後ノ念力ヲ愛馬ノ跡ニ印シタリ。或ハ其馬ノ喰ミ殘シタル笹葉トテ、今ニ葉尖ヲ摘ミ虧キタル如キ笹ヲ生ズトモ言ヒ傳フ〔諸國旅雀〕。【磨墨】此馬ノ磨墨ナリシコトハ更ニ之ヲ說カント欲ス。【曾我五郞】相州箱根ノ三枚橋ヨリ五六町ノ東、僅カナル溝ニ架ケタル石橋ニ曾我五郞ノ馬ノ蹄ノ跡アリ。脚氣ノ祈願ニ驗アリテ來タリテ線香ヲ燒ク者多カリキ。東海道ノ繁華ナル往來ナルニ、迷惑ナル話ニハ若シ此石ヲ蹈ム者アレバ必ズ祟アリ。之ヲ他處ニ移シ去ラント企テテ又崇ラレシ者アリ〔著作堂一夕話〕。併シ今日ハ最早此石無シト見エテ電車ガ無事ニ通行シツヽアルナリ。【センゾク】武藏西多摩郡檜原(ヒノハラ)村千足(センゾク)ノ路傍及ビ谷間ニ各一箇ノ馬蹄石アルハ、曾テ此山村ニ落チ來リテ討死シタリト云フ平山伊賀守氏重ガ故跡ナリ〔新編武藏風土記稿〕。但シ何レノ時代ノ人ナルカ知ラズ。奧州外南部ノ宇曾利山(カソリサン)ニハ九戶(クノヘ)地獄ト云フ處アリ。【九戶左近】昔九戶左近ナル者國主ニ楯突カントシテ却リテ爰ニ陷リテ死ス。其折ノ薙刀ノ跡ト共ニ岩ニ馬蹄ノ跡ヲ留メタリ〔眞澄遊覽記五〕。【豐臣秀吉】豐臣秀吉ノ乘馬ノ跡ト稱スルモノ相州足柄下郡江浦村ノ五郞兵衞ガ屋敷内ニ在リキ。天正十八年小田原攻ノ折、此家ノ庭ヨリ城山ニ登ラントシテ馬ノ足スベリ、其跡永ク後世ニ遺リタリ。八九尺ニ四尺ホドノ大石ニシテ之ヲ馬蹄石ト名ヅク云々〔相州留恩記略三〕。【朝倉義景】越前吉田郡岡保(ヲカホ)村大字大畑ノ蹄ノ瀧ニ於テハ、瀧口ノ大岩ノ上ニ朝倉義景ガ乘馬ノマヽニテ驅ケ登リシト云フ蹄ノ跡アリ。此瀧ハモト附近ノ地名ニ由リテ竹箕ノ瀧ト呼ビタリシヲ、近ク明治ノ三十七年ニ、時ノ縣知事阪本彰之助氏ニ賴ミテ、今ノ名ヲ附ケテ貰ヒタリト云フ新名所ナリ〔吉田郡誌〕。

 

《訓読》

御靈(ごりやう)と石   甲州の馬蹄石の類を聖德法王の故事に附會するは、特に此の君が佛法の保護者にして、兼ねて、日本の「伯樂」なりし[やぶちゃん注:国政を馭したことへの馬に合わせた比喩。]爲めに、便宜多かりしと云ふのみのことにて、必ずしも他に類型無き話には非ざること、勿論なり。【地方英雄】「古風土記」に國々の神ありしごとく、個々の地方には、今もそれぞれの史上人物ありて、殆んど其の傳說を以つて一切の故迹を統括支配するがごとき觀あり。行基・弘法(こうぼふ)の二祖師の足跡、天下に遍きを以つてするも、地方人は猶ほ、之れを爭奪して、我が鄕の英雄と爲さざれば、已(や)まざらんとす。泰澄(たいちよう)大師の北陸に於ける、役行者(えんのぎやうじや)の大和に於ける、性空(しやうくう)上人の九州南部に於けるがごとき、或いは、藤原千方(ちかた)の伊勢に於ける、田邑(たむら)將軍・八幡太郞の奧羽に於ける等は、勿論、然るべき仔細もありて、或る點に於いては、神以上の崇敬を繫ぐ得たりしなり。此れが爲めに、以前、物を知らざる里人が「何でも强力な和尙が來て」とか、又は、「昔、一人の勇士があつて」とか云ふを、聞く方(はう)の人より、「それは辨慶の事なるべし」とか、「此の邊りの事ならば山中鹿之介に相違無し」とか、無造作にきめてしまひ、其の次よりは、其の固有名詞を以つて話し傳へしむ。恰も、何(いづ)れの御時(おんとき)かの古墳調査掛(がかり)が、革鞄の中の「國造本紀(こくざうほんぎ)」類を携帶し、到る處の白骨(はつこつ)に姓名を附與してあるきしと同一の御苦勞なり。其の爲めのみにも非ざるべきが、多くの馬蹄石にも亦、英雄の昔語りを伴ひ居り、而も、一々に、尤もらしき因緣あり。【日本武尊】先づ、時代を追ひて言はゞ、尾張東春日井郡坂下村大字内津(うつつ)の内津神社の一の鳥居の跡には、日本武尊(やまとたけるのみこと)の御馬の足跡ある馬蹄石、存す〔「尾張誌」〕。即ち、「うつゝなるかも」と仰せられし故迹なり。【龍の爪】美作間鍋山(かんなべやま)の長法寺の上には、岩に龍の爪のごとき跡あるを、或いは鹽冶(えんや)判官の獻上せし龍馬の蹄と云ひ、【和氣淸麿(わけのきよまろ)】或いは又、和氣淸麿が大隅の配所より龍馬に乘りて諸國を巡歷せし折りの馬蹄の跡とも傳へたり〔「山陽美作記」上〕。此の地は、淸麿の故鄕と云ふ備前の和氣郡に近きなり。伊賀名賀郡比奈知(ひなち)村大字瀧原の高座山には、方五尺ばかりの石に馬蹄の跡あるを「千方(ちかた)の飛石(とびいし)」と云ふ。【千方】此の附近には又、千方が馬を留めしと云ふ馬留山あり〔「三國地誌」〕。數多き千方の故迹の一つなり。【多田滿仲】攝津川邊郡多田村大字矢問(やとふ)の龍馬石は、多田滿仲の乘馬の跡あるが故に此の名を得たりと云ひ〔「攝陽群談」〕、或いは又、同郡小田村大字久々知(くくち)にも同じ名の石ありと傳へたり〔「本朝國語」〕。阿波阿波郡土成(どなり)村大字土成の御所谷は、畏れ多くも土御門院の御身を隱したまひし地なりと稱し、數々の遺跡あり。御馬の足跡の岩の上に殘れるものありと云ふ〔「阿波國徴古雜抄」三所錄、澁谷氏舊記〕。【義經】和州芳野の吉水院(きつすいゐん)境内には、九郞判官義經の駒の跡あり〔「本朝國語」〕。此の大將は、全國少年の愛好する人物だけありて、北は津輕の突端の三厩(みうまや[やぶちゃん注:ママ。「ちくま文庫」版は『ミンマヤ』と振る。])より、更に、能登珠洲(すず)郡の三崎にまで、馬蹄の跡を印(しる)したり〔「能登國名跡志」〕。此等は綿密なる「義經記(ぎけいき)」にも末だ想像せざりし史蹟なり。【三ツ石】陸中盛岡の東見寺の境内には、同じく此の人が馬跡を留めし名石「三ツ石」あり〔「譚海」十二〕。以前は人の拜祀せし石なるべし。中古の石神は多くは「山」の字の形をしたる大小三箇の石にして、之れを拜みし梶原は、是れ亦、竃(かまど)の神の信仰に基くかと見ゆれば、義經には兎に角に馬の因緣は存するなり。【畠山重忠】畠山重忠は其の舊領地たる秩父の一郡に於ては、今も多くの傳說の主なり。高麗(こま)川の上流吾野(あがの)村大字阪元には、「重忠の厩の跡」と云ふ、深さ三間[やぶちゃん注:五メートル四十五センチ。]ほどの洞窟ありて、中程の岩の面(おもて)に馬蹄に跡二つあり〔「新編武藏風土記稿」〕。此の邊りは、石灰岩の層あるが爲めに、殊に此の種の奇巖に富めるなり。【梶原景時】其の畠山をば、讒言したる梶原平三景時も、亦、駿州田上の岡の麓の岩の上に、最後の念力を愛馬の跡に印したり。或いは、其の馬の喰(は)み殘したる笹葉とて、今に葉尖(はさき)を摘み虧(か)きたるごとき笹を生ず、とも言ひ傳ふ〔「諸國旅雀」〕。【磨墨】此の馬の磨墨なりしことは、更に之れを說かんと欲す。【曾我五郞】相州箱根の三枚橋より、五、六町[やぶちゃん注:五百四十六~六百五十四メートル強。]の東、僅かなる溝(みぞ)に架けたる石橋に、曾我五郞の馬の蹄の跡あり。脚氣(かつけ)の祈願に驗(しるし)ありて、來たりて線香を燒く者、多かりき。東海道の繁華なる往來なるに、迷惑なる話には、若(も)し此の石を蹈む者あれば、必ず祟りあり。之れを他處(よそ)に移し去らんと企てて又、崇られし者あり〔「著作堂一夕話」〕。併し、今日は最早、此の石無しと見えて、電車が無事に通行しつゝあるなり。【せんぞく】武藏西多摩郡檜原(ひのはら)村千足(せんぞく)の路傍及び谷間に各(おのおの)一箇の馬蹄石あるは、曾つて此の山村に落ち來たりて討死したりと云ふ、平山伊賀守氏重が故跡なり〔「新編武藏風土記稿」〕。但し、何れの時代の人なるか知らず。奧州外南部(そとなんぶ)の宇曾利山(かそりさん)には「九戶(くのへ)地獄」と云ふ處あり。【九戶左近】昔、九戶左近なる者、國主に楯突(たてつ)かんとして、却りて爰(ここ)に陷りて死す。其の折りの薙刀(なぎなた)の跡と共に、岩に馬蹄の跡を留めたり〔「眞澄遊覽記」五〕。【豐臣秀吉】豐臣秀吉の乘馬の跡と稱するもの、相州足柄下郡江浦(えのうら)村の五郞兵衞が屋敷内に在りき。天正十八年[やぶちゃん注:一五九〇年。]、小田原攻めの折り、此の家の庭より、城山に登らんとして、馬の足、すべり、其の跡、永く後世に遺りたり。八、九尺[やぶちゃん注:約二・六メートル前後。]に四尺[やぶちゃん注:一・二一メートル。]ほどの大石にして、之れを馬蹄石と名づく云々〔「相州留恩記略」三〕。【朝倉義景】越前吉田郡岡保(をかほ)村大字大畑の「蹄の瀧」に於いては、瀧口の大岩の上に、朝倉義景が乘馬のまゝにて驅け登りしと云ふ蹄の跡あり。此の瀧は、もと、附近の地名に由りて「竹箕(たけす)の瀧」と呼びたりしを、近く明治の三十七年[やぶちゃん注:一九〇四年。本書の刊行は大正三(一九一四)年七月であるから十年前のホットな事実である。]に、時の縣知事阪本彰之助氏に賴みて、今の名を附けて貰ひたりと云ふ新名所なり〔「吉田郡誌」〕。

[やぶちゃん注:以下、人物は生没年や活躍期を再確認するために、選んで注した。弁慶や義経は誰でも知っているので注していない。特に引用を示さないものは、複数の信頼出来る記載を用いたものである。

「行基」(天智天皇七(六六八)年~天平勝宝元(七四九)年)は奈良時代の僧。和泉国生れ。俗姓は高志(こし)氏(百済系渡来人の書(文)(ふみ)氏の分派)。法相(ほっつそう)教学を学び、後、諸国を巡り、架橋・築堤などの社会事業を行い、民衆を教化し「行基菩薩」と敬われた。一時はその活動が「僧尼令」に反するとして弾圧されたが、やがて聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺の造営に尽力、大僧正に任ぜられ、また、大菩薩の号をも賜った。

「弘法(こうぼふ)」弘法大師空海(宝亀五(七七四)年~承和二(八三五)年)は平安前期の僧で真言宗の開祖。讃岐生まれ。俗姓は佐伯。延暦二三(八〇四)年三十歳で渡唐し、長安青竜寺の恵果(けいか)から真言密教の秘法を受けた。帰国後、高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を、京都に教王護国寺(東寺)を創建した。後世、その生涯に纏わる多くの説話伝説が生み出され、庶民信仰の対象となった。

「泰澄(たいちよう)大師」天武天皇一一(六八二)年~天平神護三(七六七)年)は奈良時代の修験者。越前生まれ。俗姓は三神。通称は「越(こし)の大徳(だいとこ)」。加賀白山の開創者とされる。飛鉢の術を使う能登島出身の臥(ふせり)行者と出羽の船頭であった浄定(きよさだ)行者を弟子とし、霊夢の導きによって養老元(七一七)年に彼らとともに白山に登頂、妙理大菩薩を感得したとする。五年後の養老六年には元正天皇の病を祈祷で療治し、天平九(七三七)年には疱瘡の流行を鎮(しず)めた。

「役行者(えんのぎやうじや)」(生没年不詳)役小角(えんのおづぬ)。七~八世紀の修験道の開祖とされる人物。賀茂一族(のちの高賀茂朝臣)の出で、大和国葛木上郡茅原村(現在の奈良県御所市)の生まれと伝えられる。大和の葛城山や生駒山で修行し、前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)を弟子にし、呪術に優れた神仙となったとされ、後、多くの伝説が生み出された。「続日本紀」に登場する。

「性空(しやうくう)上人」(延喜一〇(九一〇)年~寛弘四(一〇〇七)年)は平安中期の天台僧。「書写上人」の別名でよく知られる。三十六歳で出家し、比叡山の慈慧僧正に師事し、後に日向の霧島山で修行したが、康保四(九六七)年、播磨の書写山に天台三大道場の一つとなる円教寺(えんぎょうじ)を創建した。

「藤原千方(ちかた)」平安時代に鬼を使役したとされる豪族。同名の人物は藤原秀郷の子であった千常の子(「尊卑分脈」)に見え、或いは千常の弟ともされるが、「太平記」に出るその人物は遠く天智天皇の御世の設定で、話が合わない。「藤原千方の四鬼」伝説は三重県津市などに伝えられる。孰れにせよ、ここに並ぶ聖賢・超人・英傑の中では、有意に格落ちする架空性の頗る高い怪人である。但し、彼やこの四鬼が伊賀忍者のルーツとする伝承はある。私の「諸國里人談卷之三 千方火」の私の注を参照されたい。

「田邑(たむら)將軍」平安初期の武将坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)のこと。公卿で武人であった坂上苅田麻呂(かりたまろ)の子(次男或いは三男)。延暦一〇(七九一)年に征東副使に任命され、同十三年、征夷大将軍大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)に従って蝦夷を討った。同十五年、陸奥出羽按察使兼陸奥守、さらに鎮守府将軍となり、同一六(七六七)年には征夷大将軍に任命され、同 二十年二月、蝦夷討伐のため東北に向い、同年十月に平安京に凱旋した。翌年、「造(ぞう)陸奥国胆沢城(いざわのき)使」として陸奥に行き、さらに翌年、志波城(しはのき)を築いた。同 二十三年、再び征夷大将軍に任ぜられ。大同元(八〇六)年に中納言、同四年に正三位に叙せられた。弘仁元(八一〇)年には平城上皇の平城遷都に擬し、造宮使となった。同年、「薬子の変」が起こると、大納言に昇進した田村麻呂は美濃路を固め、上皇軍の鎮圧に努めた。没後に従二位が贈られている。ここに居並ぶ人物の中では実社会に於いて最高レベルの位を上り詰めた人物である。

「八幡太郞」平安後期の名将源義家(長暦三(一〇三九)年~嘉承元(一一〇六)年)。伊予守源頼義の長男。河内生れ。「八幡太郎」の通称でよく知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。ウィキの「源義家」によれば、比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して』「後三年の役」を『起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約』十『年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された』。『その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため』、『歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ』、「後三年の役」の『朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下』とある。

「山中鹿之介」戦国時代の武将山中幸盛(天文九(一五四〇)年?~天正六(一五七八)年)出雲生まれ。「亀井」姓ともする。通称は初め、「甚次郎」、後に「鹿之助」「鹿之介」「鹿介」とも記されるが、自署は孰れも「鹿介」と記されてある。尼子経久の家臣山中三河守満幸の子。永禄三(一五六〇)年に家督を継ぎ、尼子義久に仕え、伯耆尾高城を攻め落して勇名をはせた。同九年、尼子氏が毛利に敗れて降伏したが、幸盛は尼子再興に力を尽し、豊臣秀吉に支援を求めて、その中国征伐に従軍、播磨上月城に拠って毛利氏に対抗した。しかし天正六(一五七八)年に落城して捕えられ、毛利方へ送られる途中、備中阿井の渡し(現在の岡山県高梁(たかはし)市落合)で殺害された。

「國造本紀(こくざうほんぎ)」「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」の巻第十に当たる一巻の書。「旧事本紀」は聖徳太子撰とする序文を有するが、平安初期に作られた偽書とされる。しかし、そのなかの巻第三「天神本紀」の一部、巻第五の「天孫本紀」と、この「国造本紀」は、他の如何なる文献にも見えない独自の所伝を載せている点で注目される。「国造本紀」は、大倭国造(やまとくにのみやつこ)以下、全国で百三十余りの国造を列挙し、それぞれに国造任命の時期や初代国造の名を簡単に記したもので、それらの中には和泉・摂津・丹後・美作(みまさか)など、後世の国司を記載したところもあり、また「无邪志(むさし)」と「胸刺(むさし)」、「加我(かが)」と「加※(かが)」(「※」=「宜」の一画目の点を除去したもの)など、紛らわしいものもあるが、概してかなり信用できる古伝によっていると思われ、古代史研究の貴重な史料となっている(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「尾張東春日井郡坂下村大字内津(うつつ)の内津神社」現在の春日井市坂下内津の内々(うつつ)神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「内々神社」によれば、『創建年代については不詳であるが、延喜式に記載された式内社で』、『東国の平定を終えた日本武尊が内津峠に差し掛かった時、早馬で駆けてきた従者の久米八腹(くめのやはら)から副将軍である建稲種命が駿河の海で水死したとの報告を受けた。それを聞いた日本武尊は「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆き、その霊を祀ったのが内々神社の始まりという』とある。

「美作間鍋山(かんなべやま)の長法寺」岡山県津山市井口にある天台宗金光山長法寺。背後の山は現在、「神南備山」(標高三百五十六メートル)と表記を変えている。「龍の爪」ような跡は残存しているかどうか不明。但し、サイト「津山瓦版」の同寺の紹介の中に、寺宝として「大蛇尾骨」とあって、『美作国山北の里に鵜田勘治光行と言う文武に秀でた若者がおり』、永久二(一一一四)年三月、『高野神社に参詣の途次、冨川の里(現戸川町附近)で郷士砂田庄司氏勝の娘亀千代を見初めた。やがて二人は深いつき合いをするようになったが、このことが氏勝の耳にはいり「不義密通はお家の御法度」、怒った氏勝は光行の家を攻め、皆殺しにしてしまった。光行の死を悲しんで亀千代は気が狂い、小田中在の渕に身を沈め、大蛇に化けて大洪水を起こし、家や田畑を流してしまった、と言う。この「大蛇尾骨」が秘宝として伝わっている。長さ』三十三『センチ、干ばつの時、雨ごいをすれば、たちまち雨が降るといい伝えられている』とあるのだ。悲恋の話であるが、どう見ても背後の山にある(あった)「龍の爪」との連関性が密な感じがしてならない。

「鹽冶(えんや)判官」鎌倉後期から南北朝にかけての武将で出雲守護であった塩冶高貞(?~興国二/暦応四年(一三四一)年)。後醍醐天皇の挙兵に呼応して鎌倉幕府との戦いに貢献、「建武の新政」の後は、足利尊氏に組みし、南朝方制圧に力を奮ったが、暦応四年三月に京都を出奔するや、謀反として北朝に追討され、同年翌月、出雲国で自害した。名浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」(全十一段・。二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。寛延元(一七四八)年八月大坂竹本座初演)に役転用されたことで一躍、名が有名になった(彼の通称が「大夫判官」であったことから、芝居では塩谷判官として使われた)。

「和氣淸麿(わけのきよまろ)」(天平五(七三三)年~延暦一八(七九九)年)は奈良末期から平安初期の廷臣。備前生まれ。本姓は磐梨別公(いわなしのわけのきみ)。孝謙天皇の頃、京に上り、武官として右兵衛少尉・従六位上の官位を得、天平神護元(七六五)年には勲六等を受けて「吉備藤野和気真人(きびのふじののわけのまひと)」の姓を賜わった。これらは恵美押勝(藤原仲麻呂)追討の功によるものと思われる。神護景雲三(七六九)年、悪僧道鏡が宇佐八幡の神託と称して帝位に就こうとした時、神託を聞くことを命じられた清麻呂は、道鏡が皇位を望むことは神霊もこれを震怒す、として道鏡の野心を退けた。そのため、道鏡の怒りを買って大隅に流されたが、翌年八月に後ろ楯であった称徳天皇が崩御して道鏡が失脚、光仁天皇が即位すると、京に召し返され、和気朝臣の姓を賜わって、天応元(七八一)年、従四位下となった。その後、民部大輔・摂津大夫などを経て。延暦 一五(七九六)年には従三位となった。彼は吏務にも精通し、「民部省例」(全二十巻)を撰し、「和氏譜」を奏上、また、長岡京の造営が停滞していることを憂え、天皇に葛野(かどの:平安京)への遷都を進言したり、摂津大夫の際には治水工事を行なったり、延暦の初め頃(元年は七八二年)には神護寺の前身であった神願寺を河内に建立したりした。死後、彼の遺志によって、備前国の彼の私墾田百町は「百姓賑給田(しんごうでん)」として農民の厚生の料に当てられている(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「備前の和氣郡」和気清麻呂は備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)生まれであるが、旧和気郡は、もと、広域の藤原郡が延暦七(七八八)年に吉井川を境に、西側を磐梨(いわなし)郡、東側を和気郡として分割して設置されたもので、ウィキの「和気郡」にも、『当地は奈良・平安時代に活躍した和気清麻呂を輩出した地域であり、隣接する磐梨郡とともに豪族和気氏の勢力下にあった』。源順の「和名類聚鈔」には『坂長郷、藤野郷、益原郷、新田郷、香登郷の』五『郷が記載されている。なお和気郷は、和名抄では磐梨郡に所属している。郡衙の位置は藤野郷と推定されており、和気町藤野にある推定地には和気氏政庁跡の碑が建てられ、整備されている』とある。

「伊賀名賀郡比奈知(ひなち)村大字瀧原の高座山」三重県名張市滝之原地区内の何れかのピーク。国土地理院図もリンクさせておく。

「攝津川邊郡多田村大字矢問(やとふ)」兵庫県川西市矢問はここ。「龍馬石」がここにあるかどうかは知らぬ。それより、この「矢問(やとう)」という地名が引っ掛かった。非常によくデータとして参考させて貰っている国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の「源満仲が住吉大社に祈念して、矢を放ったところ多田(兵庫県川西市市内)に居城を建てた伝説がある。これが「三ツ矢サイダー」の名前の由来にもなっている。福井市和田の和田八幡宮にも同様の伝説がある。もう一本、矢が放たれたはずだが、その場所はどこか?」(「多田」は「矢問」地区を囲むように現在地名として現存する)という質問と、その回答例が実に面白い!(馬や馬蹄とは関係ないけど。この矢問の西北直近(川向う)には、多田満仲と息子でかの名将源頼光の墓が一緒にあるぜよ!)

「多田滿仲」平安中期の武将源満仲(延喜一二(九一二)年(或いは翌年)~長徳三(九九七)年)。清和天皇の曾孫。正四位下・鎮守府将軍。摂津国多田に住んで「多田」を称した。摂津・越前・武蔵・伊予・美濃・下野・陸奥などの国守を歴任した。安和二(九六九)年、為平親王擁立の陰謀を企てたと密告して、源高明失脚の因をつくり、藤原氏政権の確立に奉仕し、並びなき武人との声望を得、藤原氏に随従して後代の清和源氏発展への遠因をつくった。子頼光の子孫に後の守護大名土岐氏がおり、子頼信の子孫に後の将軍頼朝及び新田・足利・佐竹・武田氏その他の有力豪族がいる。

「同郡小田村大字久々知」兵庫県尼崎市久々知(くくち)。同地区内の久々知須佐男(くくちすさのお)神社に天徳元年、多田満仲権進による旧妙見社の「矢文石」が現存する。由来不明であるが、一説に源満仲が摂津の国守として赴任した際、住吉の神の神託によりこの石に足を掛けて弓を射たところ、その矢の落ちた場所が、先の川西の多田であったとし、そこを多田源氏の発祥とする伝承があるという(のりちゃんずのサイト内の本神社の解説には、満仲の射た矢は、最後に九頭の大蛇の頭を射ぬいたとし、この蛇神は「九頭の明神」として崇め祭られたものだったが、この大蛇の血が引いた跡が「多くの田」のようになっていたことから、その地を「多田」と名づけたとある)。グーグル・マップ・データのサイド・パネルのこれが、その矢を射た石と思われる。但し、柳田國男の言うような、「乘馬の跡」なる石ではない。またまた瓢簞から駒で、この話、馬蹄石ではなく、神矢を放った際に踏みつけた石、その矢が落ちたところの石が原型なのではなかったか?

「阿波阿波郡土成(どなり)村大字土成の御所谷」徳島県阿波市土成町吉田椎ヶ丸にある土御門上皇御終焉地ともされる御所神社周辺から北の谷辺りか。ウィキの「御所神社(阿波市)」によれば、『創建年は不詳。椎ヶ丸古墳と呼ばれる前方後円墳の頂近くに鎮座。元は吹越神社と呼ばれ』、大正二(一九一三)年に『村内』二十八『社を合祀』し、昭和三二(一九五七)年に『御所屋敷に鎮座していた御所神社を合祀し、社名を現在の御所神社と改めた』。『当地は土御門上皇の終焉の地と伝えられており、その御神霊を奉っている』。「承久の乱」の『後、土御門上皇は後に阿波国に遷り、嘉禄三(一二二七)年に『土成町吉田の御所屋敷に行宮を営まれたと伝わる』。寛喜三(一二三一)年に三十七歳にして『この地で崩御された。崩御されたと伝わる場所には御所神社が鎮座し、上皇が腹を切った「御腹石」なる岩も残されている』とある。

「和州芳野の吉水院(きつすいゐん)」現在の奈良県吉野郡吉野町吉野山にある?水(よしみず)神社(「?」は当神社の正式表記漢字で示した)。本来はは金峯山寺の僧坊吉水院(きっすいいん)であったが、明治の廃仏毀釈により神社となった。後醍醐天皇を主祭神とし、併せて南朝方の忠臣楠木正成、吉水院宗信法印を配祀する(ウィキの「吉水神社」に拠る)。しかし、ここの有名な石は「弁慶力釘」の石で、義経の追手に気づいた弁慶が傍にあった釘を二本抜き、表へ出ると、追手の真中にあった硬い岩に、力をこめて自身の親指で釘を打ち込んだというとんでもない代物で、話としては馬蹄石より遙かに迫力がある。「奈良の宿大正楼」公式サイトのブログの「吉水神社の弁慶力釘」で写真が見られる。

「津輕の突端の三厩(みうまや)」津軽半島東岸の青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩(みんまや)地区

「能登珠洲(すず)郡の三崎」石川県珠洲市三崎町。私は珍しくも三度も訊ねた場所である。

「義經記(ぎけいき)」室町前期成立と推定される軍記物。作者未詳全八巻。前半で源義経の幼少年時代の兵法修行や弁慶談・奥州下りを記し。後半では平家討滅後に頼朝の圧迫を受け、諸所を転々としつつ、辿り着いた奥州平泉の高館で自害するまでを描く。義経の生涯を述べながら、平家追討の武勇は数行記されているだけで、民間の義経伝説を集成したものとみられる。室町から江戸時代にかけて著しく成長をとげた「義経物(判官物)」の濫觴というべきもので、後代の文学や芸能への影響が大きい(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

『陸中盛岡の東見寺の境内には、同じく此の人が馬跡を留めし名石「三ツ石」あり』岩手県盛岡市名須川にある曹洞宗松峰山東顕寺。地図は同寺公式サイトのこちらで。但し、『「譚海」十二』とするが、私の所持するそれの同巻を縦覧してみたが、何故か見当たらない。発見し次第、電子化する。

「畠山重忠は其の舊領地たる秩父の一郡に於ては、今も多くの傳說の主なり」平安末期から鎌倉初期の名将で鎌倉幕府の有力御家人であった畠山重忠(長寛二(一一六四)年~元久二(一二〇五)年)。ウィキの「畠山重忠」によれば、『畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現在の埼玉県深谷市畠山)を領し、同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがある』。『源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられ』、子重保とともに謀殺された。『存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された』。謀略の顚末は私の「北條九代記 武藏前司朝雅畠山重保と喧嘩 竝 畠山父子滅亡」を参照されたい。

「高麗(こま)川の上流吾野(あがの)村大字阪元」旧入間郡(当初は秩父郡所属であったらしい)吾野村は、現在の埼玉県飯能市吾野

「重忠の厩の跡」不詳であるが、航空写真を見ると、四方を山林で囲まれており、痕跡が残っていないとは限らぬ気はする。

「駿州田上の岡」不詳。

「相州箱根の三枚橋より、五、六町[やぶちゃん注:五百四十六~六百五十四メートル強。]の東、僅かなる溝(みぞ)に架けたる石橋に、曾我五郞の馬の蹄の跡あり。脚氣(かつけ)の祈願に驗(しるし)ありて、來たりて線香を燒く者、多かりき。東海道の繁華なる往來なるに、迷惑なる話には、若(も)し此の石を蹈む者あれば、必ず祟りあり。之れを他處(よそ)に移し去らんと企てて又、崇られし者あり〔「著作堂一夕話」〕」「三枚橋」から東へこの距離となると、この中央辺りとある。「著作堂一夕話」は曲亭馬琴の随筆(享和二(一八〇二)年夏に京阪に遊歴した際の雑記で、吉川弘文館随筆大成版で所持するので、それを参考に、漢字を恣意的に正字化して以下に示す。巻上の二番目に出る。読みは一部のみを採用し、一部の歴史的仮名遣の誤りを訂し、読点を追加した。挿絵も添えた(左右に分離しているのを合成して接合した)。挿絵の後の小さなそれは本文の途中の「★」部分に入る馬蹄の後の小さな図である。【 】は割注。後半は関係がないが、次いでに電子化した。

   *

Isibasibatei

Batei

  ○駿馬の蹄迹(あしあと)東福寺の釜

箱根三枚橋の東五六町許(ばかり)に溝ありて、かたはらに湯本村掃除丁場(そうぢてうば)の定杭(じやうくひ)あり。この溝に三尺ばかりの石を五六枚わたして橋とす。北より二枚めの石に名馬の蹄跡(あと)とて、のこれり。そのかたち、★のごとし。相傳(あひつた)ふ、むかし、曾我五郞時致(ときむね)、駿馬に跨(またがり)て山をはせ下るに、鎌倉より使札(しさつ)[やぶちゃん注:使者に持たせて遣る書状。]有て、途(みち)にこゝに行あひぬ。時致、馬を石橋の半(なかば)にとゞむ。その馬蹄、石に入ること、四、五分、今なほ、存す。もし誤(あやまり)てこれを蹈(ふむ)ものは、かならず、祟ありけり。一人あり、件(くだん)の石をとりて、端の石とさしかへたりしに、その人に、はかに死す。里人、怕れて、復(また)、元のごとくせり。脚氣(かつけ)を患(うれふ)るもの、これに祈れば、たちまち、愈ゆ。よりて、常に橋のまへに線香の焚(たき)さしあり。これは祈願ある人、朝ごとに來りて拜す[やぶちゃん注:「と」の脱字か。]いふ。又、箱根權現一の鳥居の邊に釜ニあり。【高三尺許。】文永五年[やぶちゃん注:一二六八年。]【龜山院年號。】造る所にして。東福寺浴室の釜なり。別當法橋位(ほふきやうゐ)隆實とあり。【釜の緣に鑄つけたり。】よく人のしれるところなれば、圖せず。亦、湯本、畑(はた)の民家、正月、門に櫁(しきみ)をたつるなり。木の高サ六尺ばかりなるを二本伐(きり)とりて、十二月廿八、九日より、戸ごとに、これを建(たつ)ること、他州の門松におなじ。櫁は、元、橘の種類にして、めでたきものながら、今は佛家の香花(かうげ)ならで用ることなければ、しらざるものは、あやしみおもへり。

   *

「併し、今日は最早、此の石無しと見えて、電車が無事に通行しつゝあるなり」小田原電気鉄道の延長線となる箱根登山電車は、電力を供給するための設備として明治三一(一八九八)年に湯本茶屋発電所の建設が開始され、続いて翌一八九九年二月から軌道電化工事が開始された。橋梁改修・架替及び軌道敷設工事なども進められて明治三三(一九〇〇)年三月、全ての工事を完了、同三月二十一日から湯本駅までの全線で電車運転が開始されている(本書の刊行は大正三(一九一四)年七月である)。恐らくは街道に併置された路面電車方式であったと思われるから、上記の「曾我五郞の馬の蹄の跡」の石橋を撤去して軌道をその上に新設せねばならなかったのであろう。これもまた、蒸気機関車に化けて本物のそれに突進して轢死した化け狸同様、文明が民俗空間を蹂躪してゆく一場面であったのだ。

「武藏西多摩郡檜原(ひのはら)村字千足(せんぞく)」東京都西多摩郡檜原村のこの附近か。「千足」というバス停がある。

「平山伊賀守氏重」平安末期から鎌倉初期の武蔵七党の一つ「西党」(日奉(ひまつり)氏)の武将で多西郡舟木田荘平山郷(現在の東京都日野市平山)を領した平山季重(保延六(一一四〇)年?~建暦二(一二一二)年?)の子孫。ウィキの「平山季重」によれば、彼の子孫は鎌倉幕府の『執権北条氏の粛清をくぐり抜け、戦国時代に後北条氏に従』ったが、天正一八(一五九〇)年の豊臣秀吉の「小田原征伐」で、この平山氏重は檜原城に籠城するも、落城し、『平山氏一族は滅亡し、残った一族も没落』したとある。ウモ氏のサイト「埋もれた古城」の「檜原城」のページがすこぶる詳しい。柳田國男のそっけない謂いは、あたかも架空人物であるかのように誤解を生みそうで、どうも氏重が可哀想に思える。

「宇曾利山(かそりさん)」青森県北東部の下北半島北部に位置する円錐形の火山と外輪山の総称。所謂「恐山」で「おそれやま」とも呼び、知られた「恐山」の名は、この地の菩提寺円通寺の山号に由来する。青森県むつ市大畑町のここ。最高峰は標高八百七十八メートルの釜臥山(かまふせやま)。私は念願だった仏ヶ浦への旅の途中、訪れたことがある。

「九戶(くのへ)地獄」「九戶左近」戦国から安土桃山時代の武将九戸左近将監政実(くのへまさざね 天文五(一五三六)年~天正一九(一五九一)年)。彼は現在の岩手県二戸市福岡城ノ内にあった九戸城を本拠として、数々の武勇を発揮し、北東北で有数の勢力を誇ったが、後継者問題を機に南部宗家と対立し、天正一九(一五九一)年、政実は五千の兵を以って蜂起した。苦戦した南部家当主信直から助けを求められた豊臣秀吉は討伐軍を編成し、六万五千もの兵で九戸城を包囲し、数日間の攻防の末、政実は「降伏と引き換えに城兵の命を救う」との討伐軍の和議を受け入れて投降、斬首され、一族郎党も皆殺しにされた。それがここで言う「地獄」である。詳しくはサイト「草の実堂」の「九戸一族とおかんの悲劇について調べてみた」がよい。その最期の凄惨さと、後の悲話のエピソードも伝えて、如何にも哀れである。

「相州足柄下郡江浦(えのうら)村」神奈川県小田原市江之浦。まあ、馬で行くんだから、どうでもいいですけど、恐らく山路を実測十キロメートル近くは遠征せにゃあかんでっせ、ここじゃ。その初めにスベってんじゃ、とっても無理でんがな、秀吉はん!

『越前吉田郡岡保(をかほ)村大字大畑の「蹄の瀧」』福井県福井市花野谷町大畑町に「ひづめの滝」として命脈を保っている。我流天晴氏のブログ「我流天晴のじっとしてれないブログ」の「福井県の滝 ひづめの滝(蹄の滝)福井市大畑町」をどうぞ。滝フリークのブログ主も惹かれる雰囲気ではなかったそうです、はい。私も写真を見てそう思います、はい。

「朝倉義景」(天文二(一五三三)年~天正元(一五七三)年)は越前の戦国大名。初め、孫次郎延景と称したが、天文二一(一五五二)年に将軍足利義輝の偏諱を得て義景とした。同十七年、父の死により跡を継ぎ、一乗谷城主となった。加賀・能登・越前の一向一揆と戦ったが、義輝の命により、これと和解して越前を平定した。永禄九(一五六六)年、彼を頼った足利義昭を迎えることが出来なかったことから、以後、織田信長を頼った義昭と対立、義昭は同十一年に上洛して将軍職についたが、義景は信長とも対立し、元亀元(一五七〇)年には浅井氏と連合して、姉川で織田・徳川連合軍と戦ったが、大敗を喫し、さらに天正元(一五七三)年、信長の攻撃を受けて居城一乗谷に火を放ち、越前大野で自刃した。義景は歌を二条浄光院に学び、また、京風文化を一乗谷に移し、ここを小京都たらしめた風流人でもあった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

2019/06/04

N・N・ ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    N・  N・

 

 落着きはらつてしとやかに、泣きもしなければ笑ひもしないで、お前は人生の行路(みち)を辿り、何ごとをも無頓着に知らぬ顏に見すごして、心の平和を擾(みだ)されるやうなことはない。

 お前は善良で聰明だ……然しあらゆるものはお前には馴染(なじみ)のないもので、お前には誰一人として必要な人もない。

 お前は美しい。けれどお前が自分の美貌を誇りにしてゐるかゐないか、誰一人言ふことの出來るものはない。お前は同情を人に與へもしなければ、人から求めることもしない。

 お前の目差(まなざし)には深味がある。けれどもその中には何の思ひもありはしない。そのはつきりした深味は空虛(くうきよ)である。

 かうしてグルックの旋律(メロデイ)のおごそかな調べにつれて、極楽境(イリジアン・フイールド)を此のしとやかな影は動いて行くのである、喜びもせず悲みもせずに。

    一八七九年十一月

 

NNこれは「エゴイスト」と同じやうな作である。】[やぶちゃん注:先行するそれをリンクした。]

イリジアン・フィールド、とは希臘神話にあつて、何等の罪も犯した事のない幸福な人間の魂のゐるところ。それで影と云つたのである。ツルゲエネフはかうした人間の醜惡を深く感じたのである。】

グルツク、獨逸の音樂家。】

[やぶちゃん注:この部分の註は傍点が全くないが、今までに倣って、引用の注語句を太字で示した。なお、詩篇本文の「グルック」(小文字の「ッ」である)及び註での「グルツク」の表記は孰れもママである。本篇の原題はキリル文字で「H. H.」(ラテン文字転写:N.N.)。既に「愚物」で注した通り、これは、もとロシア語ではなく、ラテン語「Nomen nescio」の略で、「ノーメン・ネスキオー」と発音し、「Nomen」はラテン語で「名」、「nescio」は「知らない・認識しない」の意。匿名にした「何某(なにがし)」的謂いである。さて、以下は私の勝手な想像であるが、この匿名とした女性は、ツルゲーネフのパトロンであった評論家にしてイタリア座の劇場総支配人ルイ・ヴィアルドー Louis Viardot(一八〇〇年~一八八三年)の妻で、著名なオペラ歌手であり、そうして、実はツルゲーネフの「思い人」でもあったルイーズ・ポーリーヌ・マリー・ヘンリッテ=ヴィアルドー Louise Pauline Marie Héritte-Viardot(一八二一年~一九一〇年:ツルゲーネフより三歳歳下)で、彼女への秘やかな愛憎こもごもの思いを表現したものではあるまいか?

「グルック」クリストフ・ヴィリバルト・フォン・グルック(Christoph Willibald von Gluck 一七一四年~一七八七年)。オーストリア及びフランスを活動拠点として、主にオペラを手がけた音楽家である。代表作は歌劇「Orfeo ed Euridice」(オルフェオとエウリディーチェ)で、特にその間奏曲「精霊たちの踊り」が著名である。一九五八年岩波文庫刊の「散文詩」神西清・池田健太郎氏の注(池田氏の追加分と思われる)によれば、この「グルックの旋律(メロデイ)のおごそかな調べにつれて、極楽境(イリジアン・フイールド)を此のしとやかな影は動いて行く」というのは、その「Orfeo ed Euridice」の『第二幕を指』し、『シャンゼリゼ大通り(よみ国)の場、死者の亡霊が合唱する』それを意味しているとする。「イリジアン・フイールド」は「Elysian field」で、「Elysium(エリュシオン(英語読みでは「エリジゥァム」に近い)・極楽・ユートピア・無上の幸福)の地」の意。生田が註している通り、ギリシャ神話で、善人が死後に住む場所のことを指す。しかし、ここまで注して貰わなければ、読者の殆んどは意味が解らないのは昔も今も同じである。

海上にて ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    海 上 に て

 

 私は小蒸汽船で漢堡(ハンブルヒ)から倫敦(ロンドン)に行かうとしてゐた。乘客は私達二人きりだつた。私と、一匹の小さな牝猿とで。これは漢堡(ハンブルヒ)の商人が英吉利の同業者(なかま)に贈物(おくりもの)として送つて遣るものであつた。

 彼は甲板の椅子の一つに細い鎖で縛られて、始終ぐるぐる動きまはつては、低い悲しげな聲で啼いてゐた、まるで鳥のやうに。

 私が傍(そば)を通る度に、彼はその黑い冷たい手を伸(のば)して、その小さな悲しさうな何だか人間のやうな眼で私を見上げた。私がその手を取つてやると、彼は啼きやんで、しつきりなしに動きまはるのも止めてしまふのであつた。

 ひつそりと死んだやうな凪ぎであつた。海は鉛色の勤きもしない敷布(シイツ)のやうに八方に擴がつてゐた。眼界は狹く小さかつた。濃霧が海上を覆ひ、帆檣(ほばしら)の頂點(さき)さへ雲に隱されて、そのやはらかな濃霧に眼は眩(くら)み疲れるばかり。太陽は此の濃霧の中にどんよりとした赤い斑點(しみ)のやうにかゝつてゐた。けれどもタ方前には、奇妙な不思議な赤味がかつた光を放ち出した。

 何か重たい絹物の褶(ひだ)のやうな長い眞直な褶(ひだ)は、一重また一重と船首(みよし)から起つて、進むに連れてうち擴がり、皺みつ伸びつ、一搖れしてはまた滑かになつて。そして消えてしまふ。單調な音を立てゝ廻る車に搔き亂されて、泡は飛び上り、牛乳(ミルク)のやうに白くなり、かすかな音をぶつぶつ立てゝ、碎けてうねうねした渦をつくり、それからまた溶け合つて、同じやうに消えて霧に呑まれてしまふ。

 猿の啼聲のやうに絕間なく悲し氣に、艫(とも)の方で小さな鐘(かね)が鳴つてゐる。

 時々海豚(いるか)が浮上る、そして急に身を轉じては、ありとも見える波間にもぐり込んでしまふ。

 船長と云ふのは陰氣な日に燒けた顏の寡默な男で、パイプを燻(くゆ)らしては腹立たしげにどんよりと澱(よど)んだ海に唾(つば)を吐く。

 何を訊(たづ)ねても、彼はきれぎれにぶつぶつ答へるばかりなので、私は仕方なしに、唯一の道づれなる猿を相手にせずにはゐられなかつた。

 私は猿の傍にすわつた。彼は啼きやんで、また私の方にその手を差出した。

 濃霧は睡氣(めむけ)を催しさうな濕氣でもつて二人を壓し附けるやうだつた。そして同じやうにぼんやりした氣持になつて、私達は兄と妹とのやうに相並んですわつた。

 私は今では微笑(ほゝゑ)むのだが……その時はまつたく違つた感じを持つてゐた。

 我々は皆おなじ母の子である、そしてその哀れな小さな動物が兄にむかつてするやうに、親しげに私を慰めて、私に馴れ馴れしくしてくれるのが嬉しかつたのである。

    一八七九年十月

 

ハンブルヒは獨逸の港。】

[やぶちゃん注:「漢堡(ハンブルヒ)」現在のドイツ連邦共和国の特別市であるハンブルク(ドイツ語:Hamburg:正式名称は「自由ハンザ都市ハンブルク」(Freie und Hansestadt Hamburg フライエ・ウント・ハンゼシュタット・ハンブルク。位置は後のトラフェミンデの地図リンクで確認されたい。なお、現代中国での漢字表記もこれである)。ドイツの北部に位置し、エルベ川河口から約百十キロメートル遡った港湾都市。十三世紀後半以後、ハンザ同盟の主要都市として活躍、諸国との貿易によって繁栄、今日でも自由港区(自国の関税法を適用せずに外国貨物の自由な出入を認める港区)を持ち、ドイツにおける世界への門としてヨーロッパ大陸最大の海運業の中心であり続けている。本詩篇が作られた当時は、ウィーン体制下(一八一四年から一八一五年に行われたウィーン会議以後)であったが、一八七一年のプロイセン王ヴィルヘルムⅠ世のドイツ帝国成立の際にも、ハンブルクは孰れの州にも属さず、独立を維持している。但し、この詩篇内の時制はツルゲーネフが大学を卒業し、ベルリン大学で勉強するために船で出発した一八三八年の体験に基づくものかも知れない。その当時のドイツはまだ、オーストリアを盟主とするドイツ連邦下にあった。なお、もし、この詩篇が、この時の体験に基づくものとすると、実は彼の内心(当時も、そしては創作時も)のっぴきならない強いトラウマの影響下にあったか、現にあることが推定されるのである。それは、サイト「ロシア文学」「ツルゲーネフの伝記」に明らかで、このハンブルクに至る直前(と思われる)、『彼が乗った汽船がトラフェミンデ』(ここ(グーグル・マップ・データ))『で炎上した事件はさまざまに語り継がれているが、彼の振る舞いが卑劣だったという点では共通している。彼はフランス語で』「『助けてください。私はやもめの母の一人息子なのです!』」『と叫んだともいわれ、この出来事以来、生涯に渡って彼の心に深い疼きを残した』とあるからである。私は本詩篇の激しい孤独感と、猿との共感、末尾の「私たちはみんな、一つ母親の子供だ」という感懐に、その事件後の彼の心象風景を強く感ずるのである。

「私と、一匹の小さな牝猿とで。これは漢堡(ハンブルヒ)の商人が英吉利の同業者(なかま)に贈物(おくりもの)として送つて遣るものであつた。」重訳だから仕方がないが、ここは原詩をかなり端折っている。或いは生田が端折ったのかも知れない。ここは原詩に基づくなら、「私と、それに小さな猿――これはウィスチチ種の牝で、ハンブルクの商人がイギリスの商賣仲間に送る贈物だつた――とで。」と言った意味となるはずである。「ウィスチチ種」の原文は「уистити」で、これは霊長(サル)目直鼻猿亜目真猿下目広鼻小目マーモセット(キヌザル)科マーモセット(キヌザル)亜科マーモセット(キヌザル)属 Callithrix の仲間、特に英名 Common Marmoset、コモンマーモセット  Callithrix(Callithrix) jacchus と思われる。体長約十六から二十一センチメートルで尾長は三十センチメートル強の長さを持つ、ブラジル北東部原産の新世界ザルで、耳の周辺に白い飾りのような毛を持つことと、首を傾げる仕草が特徴とされる。ヨーロッパでは古くからペットとして飼われており、現在も猿の仲間のペットとしては一番人気だそうである。また、本種は現在、マウスよりも人間に近い実験動物として利用されており、新世界ザルとしては初めて全ゲノム配列が決定されてもいる。ツルゲーネフがここで強い共感をこの子に抱いたのも、或いは、そうした生物学的「人間性」を感じたから、かも知れぬ、などと私は夢想するのである

「車」この船は外輪式蒸気船なのである。諸本に付属する本篇の挿絵を見られたい。因みに、本生田版の致命的であるのは、これらの挿絵を一枚も採用していない点である。或いは重訳に使用した二種ともに挿絵はなかったのかも知れぬ。

「時々海豚(いるか)が浮上る、そして急に身を轉じては、ありとも見える波間にもぐり込んでしまふ」これは、まず、誤訳(参考にした英訳やドイツ語訳がともに誤っていた可能性は低いので生田の誤訳の可能性が高いか)で、生田が「海豚(いるか)」(鯨偶蹄目クジラ目ハクジラ亜目 Odontoceti のイルカ類)とした部分は、原文では「тюлень」(チュレーニ)で、これはアザラシ(食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アザラシ科 Phocidae のアザラシ類)を指すロシア語である(因みにロシア語でイルカは「дельфин」(ジリフィーン))。また、「ありとも見える波間にもぐり込んでしまふ」というのは判らぬではないが、どうも日本語として不自然である。中山省二郎氏は、

『時として海豹が浮びあがつた、――だしぬけにもんどり打つて、かき乱されたとも見えぬ平らかな水の面にかくれて行つた。』

と訳され、神西清氏は

『時々海豹が浮び上るかと思ふと、いきなり飜筋斗(もんどり)打つて姿を沒したが、滑らかな水面はそのため別に亂れもしなかつた』

である。この三つの訳を並べてみると、この生田訳の「ありとも見える」という部分が如何にも日本語として不全な表現であるかが、お判り戴けるものと思う。

きりの海 すゞしろのや(伊良子清白)

 

きりの海

 

林の鍛冶がうつ槌に、

火花は軒を照らせども、

栗の木立の葉を山茂み、

星はさやかに見えわかず。

 

鳴子にあまる秋風に、

袂吹かせてたゝすめば、

山田のくろの豆がらに、

夕の聲のさわぐかな。

 

西にかたぶく天の川、

紅葉の橋はたえぬれど、

立ちわたりたる霧の海、

こひする人やながむらん。

 

谷の祠に供へたる、

山の木の實をぬすまんと、

古きとびらに身をよせて、

霧にまよへる野狐よ。

 

狸は鼓うつ夜の、

さやけき月にかくれすみ、

をぐらき森の下陰に、

追行く人を欺きし、

百千にあまるともしもて、

今宵の闇をてらし見よ。

 

月の笠こそかくれたれ、

蓑着て皈るわが門に、

霧は早くも迎ふれど、

杉の木末の見えざれば、

佇みて嗅ぐ百里香。

 

[やぶちゃん注:明治三二(一八九九)年十二月二十七日発行の『よしあし草』に、既に電子化した「霰」とともに掲載された。署名は「すゞしろのや」。この年、伊良子清白二十二歳。この三月、京都府立医学校の卒業試験に失敗したものの、追試験で合格し、八月に卒業している。同月、医術開業免状を取得し、父政治が転任して医院を構えていた三重県紀伊木本町(現在の熊野市)へと向かった。しかし、九月に父に懇請し、故郷鳥取県八上(やかみ)郡曳田(ひきた)村(現在の鳥取市河原町(かわはらちょう)曳田。グーグル・マップ・データ)に念願の帰郷を果たし、秋から冬にかけて滞在、その間に上京を決意、翌明治三十三年一月に上京、二月より日本赤十字社病院内科の医員試補として勤務を始めた。こうした実生活上の経緯からであろう、この年は一年の間、慣れ親しんだ『文庫』への投稿が全くなく、この『よしあし草』への短歌や俳句及び短歌の評を七回投じたきりで発表作品が極めて少なく(以上は底本全集の年譜及び著作年表のデータに拠る)、底本の詩篇の本年のパートはこの一篇のみである。

「百里香」(ひゃくりこう」現代仮名遣)は双子葉植物綱キク亜綱シソ目シソ科イブキジャコウソウ(伊吹麝香草)属イブキジャコウソウThymus quinquecostatus 或いはその亜種を含んだ異称。ウィキの「イブキジャコウソウ」によれば、『茎は細く、地表を這い、よく分枝する。枝には短い毛があり、直立して高さは』三~十五センチメートル『になる。葉は茎に対生する。葉身は卵形から狭卵形で、先端は鈍頭、長さ』五~十ミリメートル、幅は三~六ミリメートル。全草に『芳香がある』『花期は』六~八『月。枝の先端に短い花穂をつける。花冠は紅紫色の唇形で、上唇はわずかに』二『裂して直立し、下唇は』三『裂して開出する。萼は筒状鐘形の唇形となる。雄蕊は』四『本ある。果実は分果となり、やや扁平となる』。『和名は、伊吹山に多く産し、芳香があることから付けられた』。本邦『では、北海道、本州、九州に分布し、海岸から高山帯までの日当たりの良い岩地に生育する。アジアでは、朝鮮、中国、ヒマラヤに分布する』とある。同ウィキの画像をリンクさせておく。]

松風 すゞしろのや(伊良子清白)

 

松 風

 

 

 茅浦微吟

 

新潮ひゞく眞砂地に、

西風高くわたりつゝ、

酒賣るはたや茅渟の浦、

秋の光は靜かなり。

 

樓のうへに登り來て、

欄干近く眺むれば、

淡路島山帆に消えて、

鷗飛びかふ浪の色。

 

旅寢の夢に語らひし、

こひしき人はのせねども、

舟さす唄や故鄕に、

にたるしらべもなつかしく。

 

葦のすだれに日は透きて、

ねぶりはあさき簟、

玉の盃あらはせて、

酒の名をとふ思かな。

 

うす紫の摩耶の峯は、

晴れたる空に畫かれて、

月になれよとねしものを、

なほ暮遠し秋の海。

 

[やぶちゃん注:「茅浦」は、詩篇本文の「茅渟」(ちぬ)「の浦」に同じ。既出既注であるが、再掲しておくと、。「茅渟の海」として「古事記」に既に登場する古語で、和泉・淡路の両国の間の海の古名。則ち、現在の大阪湾一帯を指す。

「簟」これ一字で「たかむしろ」と読み、「竹席」とも書く。細く割った竹を筵(むしろ)のように編んだ夏用の敷物のこと。]

 

 

  あ る 夜

 

たのしき戀の睦言を、

いそうつ浪はさゝやきて、

かたらぬ星や小夜の空、

天の河原も幽かなり。

 

夜露やきみにかゝらんと、

松の木陰をさまよへば、

葉越をうらむ月影の、

思ひもかけずひま洩れて。

 

 

  花 木 槿

 

うす紅によそひして、

みそべにさける花木槿、

なにのうれひを含むらん、

たゞうつむきて咲きにけり。

 

そこに一人の少女子の、

花さく陰をたづねきて、

髮の插頭に手折りしが、

やがてはかなくしをれたり。

 

かの美しくかゞやける、

こひの光にてらされて、

こゝろにのこるくまもなく、

今はとまみをとぢしごと。

 

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年十一月三日発行の『よしあし草』掲載。署名は「すゞしろのや」。本篇を以って底本の明治三十一年パートは終わっている。

 老婆心ながら言っておくと、「花木槿」は「はなむくげ」で木槿(むくげ:アオイ(葵)目アオイ科アオイ亜科フヨウ(芙蓉)連フヨウ属Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus の開花したものを指す。ウィキの「ムクゲ」によれば、『夏から秋にかけて白、紫、赤などの美しい花をつける。花期は』七~十『月。花の大きさは』直径五~十センチメートルで、『花芽はその年の春から秋にかけて伸長した枝に次々と形成される。白居易の詩の誤訳から一日花との誤解があるが』、二『日以上咲いていることがある。朝花が開き、夕方にはしぼんでしまうものもあるが、そのまま翌日も開花し続ける場合もある』とある。なお、誤訳云々とは「白氏文集」の巻十五に載る「放言」(八一五年、上疏を越権とされて左遷され、江州の司馬となって現地へ赴く途次の舟中で詠じたもの)の一節、

松樹千年終是朽

槿花一日自爲榮

 松樹は千年なるも 終(つひ)に是れ朽ち

 槿花(きんか)は一日(いちじつ)なるも 自(みづか)ら榮(えい)と爲す

(松の樹は千年の寿(よわい)を保つとは言え、いつかは必ず朽ちてしまうし、朝顔の花はただ一日(ひとひ)の寿命(いのち)でも、それはそれでまたその生の栄華とする)

で、六朝東晋の文人郭璞(二七六年~三二四年)の「遊仙詩」に「蕣は朝を終へず」とあり、本邦では「槿花」は朝顔の異名でもある。されば本詩篇も現在のムクゲではなく、アサガオ(ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科 Ipomoeeae 連サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil)と採る。一九五八年岩波書店刊の高木正一注「中国詩人選集」第十三巻でもそう訳注されてある。さすれば、ウィキの言う誤訳の意も有意に強化されるからである。]

うき草 すゞしろのや(伊良子清白)/木船和郷との合作

 

う き 草

 

 あ る 夜

 

おもわもわかぬ黃昏に、

まぐさ脊負ひて少女子が、

家路にいそぐ道のぺの、

小芋の葉にも露みちて。

 

母の羽がひにいだかるゝ、

森の木末の雛鳥を、

きよき夢路におくるなる、

聲なき歌はきこえねど。

 

たのしき戀の睦言を、

さめての耳にかたり行く、

水のひびきも里遠き、

野邊のけぶりにつゝまれて。

 

宮のともしの光のみ、

ねむげに殘る小夜の空、

天の川原はしづかにて、

流るゝ星の影もなし。

 

 

 巨椋の池のほとりにて

 

西に流るゝ大川の、

並木に畫く帆の影は、

堤のうへにみゆれども、

山はおぼろに夏がすみ。

 

蜻蛉飛びかふ蘆の葉に、

細鱗めぐる菱の根に、

空行く雲も影見えて、

光靜けき水のおも。

 

父と子がさす藻刈舟、

うたも蘆間にきえゆけば、

蓮の花に里の子か、

友よぶこゑぞ殘るなる。

 

花さへ萎む日ざかりを、

ひとり戰げる池の邊の、

岸の靑草香をたかみ、

胡蝶の袖も迷ふらむ。

 

西も東もさだめざる、

二人の旅をたとふれば、

彼所の水にたゞよへる、

うき藻の草ににたるかな。

 

綠の蔭のすゞしさに、

友よねむるな巨椋の、

池の面遠く咲き滿てる、

蓮に風の渡るなり。

 

[やぶちゃん注:本篇は本篇は木船和郷(「さいたづま」参照。生没年の確認は出来なかった。可能性は低いと思われるが、パブリック・ドメインになっていなかった場合はこの詩篇を削除する)との合作。明治三一(一八九八)年九月二十日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。

 後篇「巨椋の池のほとりにて」の「巨椋」は現行では「おぐら」と読んでいるが、詩篇本文の最終連二行目で「友よねむるな巨椋の」と出、これは音数律から「おほくら」と読んでいるから、副標題もそう読むべきと考える。なお、この「おほくら」の読みは実は正統で、「万葉集」の巻第九「柿本朝臣人麿哥集哥二種」の雑歌(一六九九番)に、「宇治川にして作れる哥二首」の第一で、

 巨椋(おほくら)の入江響(とよ)むなり射目人(いめひと)の伏見が田井(たゐ)に雁(かり)渡るらし

とあり、これが「巨椋」の名の初見とされ、上代にはここが「巨椋(おおくら)の入江」と呼ばれていたことが判り、伊良子清白もそれに従ったのである。「射目」は狩猟の際に人が身を隠すために拵えた遮蔽設備で、その猟師がそこに潜み「伏す」と下に続いている。なお、これがまた、現在の「伏見」の地名の語源ともされるのである。

 ウィキの「巨椋池」によれば、『京都府の南部、現在の京都市伏見区・宇治市・久御山町にまたがる場所にかつて存在した池。規模からいえば』、『池よりも「湖」と呼ぶ方がふさわしく、現在「池」と呼んでいる最大の湖沼である』、鳥取県鳥取市北部にある汽水湖『湖山池よりも広かった』。巨椋池は実に周囲約十六キロメートル、水域面積約八平方キロメートルに及ぶ、かつての京都府に於いて、最大の面積を持つ淡水湖であったのである。江戸時代、堤が造成されて『大池(おおいけ)、二の丸池(にのまるいけ)、大内池(おおうちいけ)、中内池(なかうちいけ)に分割された。そのため』、江戸時代までは一般に「大池」と呼称されていた。『巨椋池という名が広く使われるようになったのは近代に入ってからである』とある。明治元(一八六八)年、『木津川の堤防が決壊したことで、京都府は淀藩との共同事業によって木津川の宇治川との合流点を下流側に付け替えた。これは木津川から巨椋池に向けての洪水時の逆流を少なくすることに』は『なった』ものの、『それからも洪水の被害がたびたび起こったことから、淀川改良工事の一環として宇治川の付け替えが行われ』、明治四三(一九一〇)年に『完成した』。ところが、『この工事によって巨椋池(大池)は、淀・一口(いもあらい)間の水路で宇治川とつながるのみとな』って、『周辺から流入する生活排水や農業排水の排出が滞ることになり、水質悪化により』、『漁獲量が減少したり、マラリア蚊が発生したりする問題が生じた。そして春から夏にかけて蚊が大量発生し、付近住民は蚊燻をたかなければ』、『夕食の箸を取ることさえできな』いありさまであった。『このような状況の中での地元の働きかけもあり、国の食糧増産事業として国営第』一『号の干拓事業が実施されることにな』り、『最終的には』昭和八(一九三三)年から昭和一六(一九四一)年に『かけて行われた干拓事業によって』ほぼ完全に『農地に姿を変えた』のであった。本篇には巨椋池の蓮の花が描写されているが、後の作家和辻哲郎の随筆に「巨椋池の蓮」という作品があり、これは本詩篇の発表から二十八年後の大正一五(一九二六)年の夏、巨椋池で蓮見船に乗った思い出を綴ったもの『で、当時の観蓮の情景を描いており』、発表は戦後の昭和二五(一九五〇)年であったが、『この観蓮記が発端となり、往時の種子などをもとに自宅で蓮を育ててきた篤志者により、現在も巨椋池花蓮品種の保存や観蓮会が行われている』ともある。]

2019/06/03

大和本草卷之十三 魚之上 水くり (オヤニラミ)

 

【和品】

水クリ 山川ニアリ或池ニモアリ其大二三寸其形鮒ニ

 似テ扁シ又メハルニ似タリ故河メハルトモ云黃黑色水

 面ニ浮ンテ倒ニヲヨク其勢刀ヲ以木ヲクルカコトシ故ニ

 ミヅクリト云沙中ニ入ル或曰此魚一日ノ内時ニヨリ

 テ色黑クナリ黃ニナルト云又一種黑キ竪筋数條アル

 モノアリ

○やぶちゃんの書き下し文

【和品】

水くり 山川にあり、或いは、池にもあり。其の大いさ、二、三寸。其の形、鮒〔(ふな)〕に似て、扁〔(ひらた)〕し。又、「めばる」に似たり。故、「河めばる」とも云ふ。黃黑色。水面に浮んで、倒(さかさま)にをよぐ[やぶちゃん注:ママ。]。其の勢〔ひ〕、刀を以〔つて〕木をくるがごとし。故に「みづくり」と云ふ。沙〔の〕中に入る。或〔いは〕曰〔はく〕、「此の魚、一日の内、時によりて、色、黑くなり、黃になる」と云ふ。又、一種、黑き竪筋〔(たてすじ)〕数條あるもの、あり。

[やぶちゃん注:幾つかの種を頭に浮かべ、それぞれに大きな齟齬があることから。排除したら、私の乏しい魚データでは頭が空になった。「ミズクリ」「カワメバル」で検索した結果、水面を転倒して泳ぐという奇体な一点を除けば、

条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ上科ペルキクティス科Percichthyidae オヤニラミ属オヤニラミ Coreoperca kawamebari

に以下の点で有意にマッチする。

・純淡水産。

・標準体長が小さい(それほど大きくは成長しない)。

・フナ類に似ていて有意に平たい。

・海産のメバル(棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科 Scorpaenidae(又はメバル科 Sebastidae)メバル属 Sebastes のメバル類)に似てもいて、「カワメバル」の異名を持つ(いやいや! 上記の学名の種小名をご覧な!)

・体色は黄黒色であるが、見え方によって黄色が強くも、黒が強くも見え得る。

・砂地の川底を好む。

オヤニラミ(親睨み)は本邦のスズキ上科 Percoidea に属するスズキの仲間(本邦の海産魚類の殆んどはスズキ目 Perciformes(或いはスズキ亜目 Percoidei)に属する)で純粋に淡水魚であるのはこの一種のみである。ウィキの「オヤニラミ」によれば、『日本(京都府桂川・由良川以西の本州、四国北東部、九州北部)、朝鮮半島南部』で(九州北部は益軒が現認出来たことを示す)、『長崎県での分布は文献上でしか確認されていない』。『愛知県、岐阜県、京都府、滋賀県、奈良県などに移入・定着』している。最大でも全長は十三センチメートルほどにしかならず、体型は側扁しており、体高が高い。『鰓孔から尾鰭基部までの鱗の数(縦列鱗数)は』三十三~三十八枚、『側線は明瞭で、側線上にある穴の空いた鱗の数(側線有孔鱗数)は』三十三 ~三十八枚。『脊椎骨数は』二十八か二十九個。体色は緑がかった黄褐色であるが、背面はやや暗色を呈する。『眼の前方へ』一『本、後方へ』五~七『本の赤い筋模様が放射状に入る』。『鰓蓋の後端には』、『黄色く縁取られた青い眼状紋が入る』。『体側面には』六~七『本の横縞がある』とあるが、最後のこれを益軒は「黑き竪筋〔(たてすじ)〕数條あるもの、あり」と言っているのである(但し、現行はこれは横筋と呼ぶのである)。『虹彩は赤』く、『口は大型で、やや上方へ向かう』。『鰓蓋後端に』二『つの棘状突起がある』(この棘条や背鰭の棘条の鋭い感じ(後述)はまさにメバル類によく似ている)。『尾鰭後端は丸みを帯び』、『垂直鰭は暗赤色で、軟条部の外縁には数列の青い斑点が入る』。画像を見て貰っても判る通り、ガタイはいかにも小さいものの、見た感じは立派な海水魚のように見えるのだ。『卵は直径』二・二~二・四『ミリメートルで、透明』、『孵化直後の仔魚は全長』五・一~五・八『センチメートル』。『河川の中流・下流域やその支流、水路などに生息する』。『水質は比較的清涼で流れが緩やか、底質は砂礫や砂泥で』、『水生植物が生えた環境を好む』。『闘争性が強く、仔魚を除いて』、『群れを形成せず』、『単独で生活する』。『昆虫、甲殻類などを食べる』。『捕食者の可能性がある生物としてカムルチー・ナマズ・カワセミなどが考えられ、稚魚はドンコ』(スズキ目ハゼ亜目ドンコ科ドンコ属ドンコ Odontobutis obscura:これも本邦産ハゼ類では珍しい純淡水産のハゼである)『に食べられる可能性もあると考えられている』。『オスは産卵場所となる植物の茎を口でつついたり、腹面で掃除する』。『メスが来るとオスは口や鰓、鰭を広げてメスを迎える』。『メスが産卵場所に沿って泳ぎだすと、オスはそれを追いかけ』、『吻端でメスの尾鰭に触れる』。『メスは尾を振わせながら卵を』二『列に並べて産み、オスが放精する』。二百五十~五百個の』『卵を』二、三『回に分けて産む』。『福岡県の個体群は』五~六月『に繁殖を行う』。『胸鰭で卵に水を送る・近づいた小動物を攻撃し追い払うなどして、オスは卵を保護する』。『飼育下では生後』一『年で全長』六~七『センチメートルになり性成熟し、生後』二『年で全長』八~九『センチメートル、生後』三『年で全長』十『センチメートルに達した例がある』(「其の大いさ、二、三寸」がすこぶる合致するデータである)。『方言名として、おじにらみ・みこどん・もうお(京都府)、よつめ(岡山県)、みずくりせえべえ・せえべえ(福岡県)、よるめひるめ・よんめひるめ(佐賀県)、かわめばる(長崎県)、みずくりせんぺい・せーべえ(熊本県)などがある』。『本種のみを対象とした漁業はなく、基本的に食用にはされない』。『一方で』、『釣りや投げ網・刺し網などにより混獲されることもあり、特に鰭棘が発達しているため』、『刺し網で頻度が高い』。『分布で挙げたように無計画な放流により、在来の分布域ではない地域にも移入・定着している』が、近年、『日本では河川改修や堤堰の設置、圃場整備による生息地の破壊、都市化、排水や工事による水質汚濁、人為的に移入されたブラックバスやブルーギルなどにより』、『生息数は減少している』。『和名の由来には諸説あり、オスが卵を保護する様から「親が睨みを効かす」、縄張り意識が強いことから「たとえ親でも睨む」、眼状紋を子・本物の目を親に見立て「子が親を睨んでいる」などがある』。『他にも様々な地方名があり、ミコウオ(兵庫県)、ミコノマイ、ネコノマイ(中国地方)、ヨツメ(広島県・九州北部)、ネラミ(山口県)、などがある。ミコウオやネコノマイは求愛行動、ミズクリセイベイは卵に水を送るオス、カワメバル(川眼張)はメバル(眼張)に似た外見にそれぞれ由来する』。『属名Coreopercaが「朝鮮(Coreo)のパーチ(Perca)』(「perch」は狭義には条鰭綱スズキ目ペルカ科 Percidae の魚類を指すが、体型の似ている別種群もよく「パーチ」と呼ばれる)『」を意味し、種名kawamebariは長崎の地方名「カワメバル」に由来する』とある。また、和名や異名については、関根崇暁氏のブログ「東洋式疑似餌釣研究所 Ⅱ」の「オヤニラミの地方名を意外な場所で知るが非常に興味深い。『僕の住む九州は福岡県、筑後地方では、現在幾つかの呼び名を確認している。セエベエ・ミズクリセイベイ・ギシネラミ・オヤニラミ』とされた上で、『ミズクリセイベイ「水作り清兵衛」の名付け親は、福岡県柳川市の詩人、歌人である、北原白秋だという。オヤニラミは、初夏になるとアシなどの抽水植物の茎に縦に、二列の卵を産み、雄が鰭で水を送りながら世話をすることから、水を送る、ミズクリ「水作り」という語源になったのかもしれない』(これはその生態を押さえた凄い語源説ではないか!)『ミズクリセイベイのルーツが北原白秋だとするのならば、柳川市へ遠征してそのルーツを探るのも面白いのかもしれない』。『そして』、『最近聞いたのは「ギシネラミ」という呼び名』であるとされ、以下略すが、そのエピソードが記される。『ギシネラミ、その語源は、睨み(ニラミ)⇒ネラミ』で、『ギシ』は『義眼班で睨む、義視(ギシ)から』『来ているのかもしれない』とあった。「親」より「義視」はずっとリアルではないか!

『げに美しく、鮮やかなりき、その薔薇は………』 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    『げに美しく、鮮やかなりき、その薔薇は………』

 

 何處であつたか、何時(いつ)であつたか、餘程(よほど)以前(まへ)に、私はある詩を讀んだ。それは直ぐ忘れてしまつた……けれどもその最初の一行はかたく私の記憶に殘つてゐる――

 

  『げに美(うるは)しく、鮮やかなりき、その薔薇は……』

 

 今は冬である。霜は窓ガラスに凍(こほ)りついて、暗い室(へや)の中にはたつた一つ蠟燭がともつてゐる。私は室(へや)の片隅に身を縮(ちゞ)かめてすわつてゐる。そしてその句が絕えず頭の中に響いてやまない――

 

  『げに美(うるは)しく、鮮やかなりき、その薔薇は……』

 

 私は或る露西亞の田舍家の低い窓の前に自分の彳んでゐるのを見る。夏の黃昏(たそがれ)はいつとなく夜に移つて行く、暖かい空氣は木犀草や菩提樹の花の芳香(かをり)を漂はせてゐる。そしてその窓には、頭を一方の肩にもたせかけ、肘を突いて、一人の少女がすわつてゐる。そして言葉も無くまたゝきもせずに、空を見入つてゐる、はじめての星の現れ出るのを待つてゞもゐるかのやうに。その夢みるやうな眼差(まなざし)は何と云ふ率直な感激に充たされてゐるであらう、その開いた何か問ひたさうな脣は何と云ふ人を動かす無邪氣さであらう、そのまだ十分に熱してゐない、まだ何ものにも搔き亂された事の無い胸は、何と云ふ穩かな息づかひであらう、その初々しい顏の輪廓は何と云ふ純潔さ可憐さを示してゐるであらう! 私は敢て彼女に言葉を懸けようとはしない。けれどもどんなに私は彼女を愛してゐるであらう、どんなに私の胸は皷動してゐるであらう!

 

  『げに美(うるは)しく、鮮やかなりき、その薔薇は……』

 

 けれども室(へや)の中はだんく暗くなつて行く……蠟燭は燃えさがつて、ぱちぱちと音を立て、低い天井にちらちらと影が搖れる、室(へや)の外には霜柱のぽきぽき折れる音がする、そして中には老年のもの悲しい呟(つぶや)きがするかと思はれる……

 

  『げに美(うるは)しく、鮮やかなりき、その薔薇は……』

 

 また違つた幻影(まぼろし)が私の前に現れる。田舍の家庭生活の樂しさうなどよめきが聞える。二つの亞麻色(ブロンド)の頭が互にもたれ合つて、はればれしい眼差(まなざし)をして遠慮もなげに私を見てゐる、薔薇色の頰は笑ひを抑へるので顫(ふる)へ、手と手は睦まじげに握り交はされ、初々(うひうひ)しい力の入つた聲は入り亂れて聞える。また少し彼方(むかう)の小ぢんまりとした室(へや)の隅では、おなじやうなまた別の若々しい手が、ともすれば亂れ勝ちな指で、古いピアノの鍵盤(タステン)の上を飛んでゐる、けれどもそのランネルのワルツの曲は家長めいたサモワアルの煮え沸(たぎ)る音を消し得ない……

 

  『げに美(うるは)しく、鮮やかなりき、その薔薇は……』

 

 蠟燭はばつとちらついて、そして消えてしまつた……誰だらう、皺嗄(しわが)れた空咳嗽(からぜき)をしてゐるのは? 私の足もとには、私の唯一の伴侶(なかま)の老犬がまるくなつて寢てゐる、そしてぶるぶる身顫(みぶる)ひしてゐる……おゝ寒い……凍えてしまひさうだ……あゝ皆死んでしまつたのだ……死んでしまつたのだ……

 

  『げに美(うるは)しく、鮮やかなりき、その薔薇は……』

 

    一八七九年九月

 

ランネル、音樂家の名。】

ワルツの曲、ワルツといふ一種の舞踏に合せて彈ずる曲。】

サモワアル、自働湯沸器、露西亞では重寶がられてゐる、だからいかにも一家のかしららしく構へてゐるやうに思はれるから族長的(家長めいた)とも云はれるのだ。族長とは舊約にあつて、大一族のかしらである。】

[やぶちゃん注:詩中でリフレインされる詩句は底本では実際には最後のクレジットよりもポイントが小さい。しかし、それではあまりに寂しいので、本文から一ポイントだけ下げて示した。

『げに美(うるは)しく、鮮やかなりき、その薔薇は……』これはプーシキンと同時代の諷刺詩人イヴァン・セルゲーヴィチ・ミャトリョフ(Иван Петрович Мятлев 一七九六年~一八四四年)の一八三五年作の「Розы」(ローズィ:薔薇)の詩の冒頭の連(以下、ロシア語版ウィキペディア「РозыМятлев)」より引用)の始めの部分である。

   *

 

   Розы

 

Как хороши, как свежи были розы

В моём саду! Как взор прельщали мой!

Как я молил весенние морозы

Не трогать их холодною рукой!

 

Как я берёг, как я лелеял младость

Моих цветов заветных, дорогих;

Казалось мне, в них расцветала радость,

Казалось мне, любовь дышала в них.

 

Но в мире мне явилась дева рая,

Прелестная, как ангел красоты,

Венка из роз искала молодая,

И я сорвал заветные цветы.

 

И мне в венке цветы ещё казались

На радостном челе красивее, свежей,

Как хорошо, как мило соплетались

С душистою волной каштановых кудрей!

 

И заодно они цвели с девицей!

Среди подруг, средь плясок и пиров,

В венке из роз она была царицей,

Вокруг её вились и радость и любовь.

 

В её очах — веселье, жизни пламень;

Ей счастье долгое сулил, казалось, рок.

И где ж она?.. В погосте белый камень,

На камне — роз моих завянувший венок.

 

   *

その昔、ロシア語の出来る知己の協力を得て、最初の一連だけを文語和訳してみたものを示す。

   *

ああ、かくは美しき、鮮やかなりし、

わが庭の薔薇の花よ! わが眼差し惹きつけてやまざりし!……

ああ、かくも花冷えに祈りし、

そが冷たき手をな觸れそ! と……

   *

「木犀草」「もくせいさう」。双子葉植物綱フウチョウソウ目モクセイソウ科 Resedaceae に属する草本類。ヨーロッパ・西アジア・アフリカ北部及び南部・北アメリカ西部の、温帯・亜熱帯域に分布する。日本には本来は自生しない。但し、モクセイソウ Reseda odorata やホザキモクセイソウ Reseda luteola などが園芸種として栽培され、それが野生化はしている。和名は、その花の香りが双子葉植物綱モクセイ目モクセイ科モクセイ属 Osmanthus の香に似るためであるが、お馴染みのこちらは、常緑小高木であり、形状(似ても似つかぬものである)も種も全く異なるものである。例としてグーグル画像検索「Reseda odorataをリンクさせておく。

「鍵盤(タステン)」「tasten」でドイツ語。「taste」(ピアノの鍵盤・タイプライターのキー)の複数一格。これによって本篇はドイツ語訳(ヴィルヘルム・ランゲ(Wilhelm Lange 一八四九年~一九〇七年)か)を用いていることが判る。

「ランネル」ヨーゼフ・ランナー(Josef Lanner 一八〇一年~一八四三年)はオーストリアのヴァイオリン奏者にして作曲家。ダンス音楽団の団長としてシュトラウス一族に先行してウィンナー・ワルツを確立し、「ワルツの始祖」と呼ばれる。

「サモワアル」サモワール(самовар/カタカナ音写:サマヴァール)はロシアやスラブ諸国・イラン・トルコなどで茶を煎れる湯を沸かすために伝統的に用いられている金属製湯沸し器。知らない方はウィキの「サモワール」を見られたい。]

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(29) 「神々降臨ノ跡」(5)

 

《原文》

 サテ立返リテ箱根山上ノ駒形權現ヲ說カンニ、此社ニハ馬蹄傳說ノ明瞭ニ存スルモノ無キ代リニ、境内ニハ馬乘石ト馬降石トノ二大石アリ。【白馬】前者ハ長サ一丈橫二間餘、往古此石上ニ白馬出現シタリト云フ言傳ヘアリ。馬降石ハ方九尺、石ノ面ニ小サキ穴アリテ一舛[やぶちゃん注:「一升」に同じ。]バカリノ水ヲ湛フ。之ヲバ金剛水ト名ヅケ如何ナル旱魃ニモ涸ルヽコトナシ〔新編相模風土記〕。【硯ノ水】此種ノ石穴ノ水ハ即チ我々ガ名ヅケテ硯ノ水ト云フ傳說ニシテ、後ニ尙永々シキ一條ノ物語ヲ控ヘタリ。【竈神ト馬】筑前ノ竃門(カマト)神社ハ古今共ニ有名ナル國幣ノ社ナリ。俗說ニハ此神ヲ八幡大菩薩ノ伯母君ナドト云フガ、未ダ女神タル明證ヲ知ル能ハズ。當社舊記ノ傳フル所ニ依レバ、神功皇后三韓御征伐ノ時先ヅ此社ニ參拜アリタルニ、大神ハ甲胃ヲ帶シ戈ヲ提ゲ威光赫々トシテ巖ノ上ニ現ジタマフ云々。乃チ其巖石ニ神馬ノ足跡ヲ留メタマフモノ之ヲ馬蹄石ト稱スト云ヘリ〔太宰管内志所引筑陽記〕。竃門山ノ神ハ禁中ノ室ノ八島ナドヽ同ジク、專ラ御食物ノ側ヨリ聖體ノ康安ヲ守護スル神ナルべキモ、右ノ馬蹄石ノ一條ヲ考ヘ合ストキハ、竈門ト云フ山ノ名ハ殊ニ意味深ク聞ユルナリ。此御時ノ遠征ハ誠ニ絕代ノ偉業ナリ。殊ニハ女性ノ大御心ニハ如何ニモ御氣遣ハシキ御企ナリシカバ、愈ノ御決斷マデニハ色々ノ神占ヲ問ハセラレシコト正史ニ見エタリ。從ヒテ臨時ニ此山ノ大神ヲ招キ降シ祭ヲ營ミ神旨ヲ聽カレキト云フモ尤モ有リ得べキコトナリ。【住吉神】又此折ニハ海ノ神住吉ノ大神ノ如キモ亦隨一ノ主戰論者ナリキ。住吉ヲ攝津ノ海濱ニ祀リタル由來トシテハ、皇后凱旋ノ後ニ勅ヲ以テ此地へ遷シ奉ルト云フコト通說ナレドモ、カノ安法法師ノ有名ナル和歌ニ【相生】

  天降ルアラ人神ノ相生(アヒオヒ)ヲオモヘバ久シ住吉ノ松

トモアレバ、ヤハリ神影向(エイガウ)ノ傳說ガ此地ニモアリシナリ。【天神】住吉ハ即チ所謂天神(アマツカミ)ノ部類ナリ〔神武令義解〕。天神ト云フ語ハ、地祇即チ此國ノ先住民ガ祭リテアリシ神ニ對シテ、新土著者タル大和民族ノ本來ノ神ヲ意味スル者ノ如ク考フル者多シト雖、後世新舊ノ人種ガ完全ニ混淆シテヨリ後ハ、或ハ又天ヨリ降ル神、【アモリ神】即チ地方ニ由リテハ今モ「アモリ神」ナドヽ呼ブ神ヲ意味スルモノト解セラレシニハ非ザルカ。然ラザレバ菅丞相ノ御靈ナドヲ天神ト稱スべキ理由無キナリ。諸國ノ天神社ノ中ニハ菅公ニ非ザル者多キコトハ先輩既ニ多ク之ヲ論ジタリ。然ラバ果シテ悉ク國津神ニ對スル天津神ナリヤト云フニ、未ダ容易ニ然リトハ答フル能ハザルモノヽ如シ。讚岐三豐郡財田大野村大字財田西上村ニ、駒石山宗運寺千手院ト稱スル眞言宗ノ寺アリ。慶長年間ノ草創ナレドモ本尊ハ菅公ノ念持佛ト稱スル古キ聖觀世音ナリ。【菅公影向】境内ノ岩神ノ兩ノ附近ニ、菅公影向ノ石ト稱スル大岩アリテ、其上ニ蹄ノ跡殘レリ〔西讚府志〕。山號ハ勿論此ニ基ケルモノナリ。菅公ハ一方ニ於テハ日本最後ノ天神ナリシト共ニ、他ノ方面ニ於テハ我邦最初ノ御靈ノ一ツナリ。人ニシテ神ト同ジク、其靈魂ヲ不朽ノ巖石ノ上ニ留メタリシ古來ノ多クノ英傑ト其類ヲ同ジクスル者ニテ、馬蹄石傳說ノ上ニ於テモ、聖德太子ト共ニ最モ顯著ナル地位ヲ占ムル人ニテアルナリ。

 

《訓読》

 さて、立ち返りて、箱根山上の駒形權現を說かんに、此の社には馬蹄傳說の明瞭に存するもの無き代りに、境内には「馬乘石(ばじやうせき)」と「馬降石(ばこうせき)」との二大石あり。【白馬】前者は長さ一丈橫二間餘[やぶちゃん注:三・〇三×三・六四メートル弱。]、往古、此の石上に白馬出現したりと云ふ言ひ傳へあり。「馬降石」は方九尺[やぶちゃん注:二・七三メートル弱四方。]、石の面に小さき穴ありて一舛(しやう)ばかりの水を湛ふ。之れをば「金剛水」と名づけ、如何なる旱魃にも涸るゝことなし〔「新編相模風土記」〕。【硯の水】此の種の石穴の水は、即ち、我々が名づけて「硯の水」と云ふ傳說にして、後(あと)に尙ほ、永々(ながなが)しき一條の物語を控へたり。【竈神と馬】筑前の竃門(かまと)神社は、古今共に有名なる國幣の社なり。俗說には、此の神を「八幡大菩薩の伯母君」などと云ふが、未だ女神たる明證を知る能はず。當社舊記の傳ふる所に依れば、神功皇后、三韓御征伐の時、先づ、此の社に參拜ありたるに、大神は甲胃を帶し、戈(ほこ)を提げ、威光赫々(かくかく)として巖(いわほ)の上に現じたまふ云く。乃(すなは)ち、其の巖石に神馬の足跡を留めたまふもの、之れを「馬蹄石」と稱すと云へり〔「太宰管内志」所引「筑陽記」〕。竃門山の神は、禁中の「室の八島」などゝ同じく、專ら、御食物(みめしもの)の側より聖體(しやうたい)の康安を守護する神なるべきも、右の馬蹄石の一條を考へ合はすときは、竈門と云ふ山の名は、殊に意味深く聞ゆるなり。此御時の遠征は誠に絕代の偉業なり。殊には、女性の大御心(おほみここころ)には如何にも御氣遣(おきづか)はしき御企(おんくはだて)なりしかば、愈々の御決斷までには、色々の神占(かみうら)を問はせられしこと、正史に見えたり。從ひて、臨時に此の山の大神を招き降(おろ)し、祭を營み、神旨(しんし)を聽かれきと云ふも、尤も有り得べきことなり。【住吉神】又、此の折りには、海の神住吉の大神のごときも亦、隨一の主戰論者なりき。住吉を攝津の海濱に祀りたる由來としては、皇后凱旋の後に勅を以つて此の地へ遷(うつ)し奉ると云ふこと通說なれども、かの安法(あんぱふ)法師の有名なる和歌に【相生】

  天降(あまくだ)る

    あら人神の

   相生(あひおひ)を

      おもへば久し

          住吉の松

ともあれば、やはり「神影向(えいがう[やぶちゃん注:ママ。])」の傳說が此の地にもありしなり。【天神】住吉は、即ち、所謂、天神(あまつかみ)の部類なり〔「神武令義解」〕。「天神(てんじん)」と云ふ語は、「地祇(ちぎ)」、即ち、此の國の先住民が祭りてありし神に對して、新土著者たる大和民族の本來の神を意味する者のごとく考ふる者多しと雖(いへど)、後世、新舊の人種が完全に混淆してより後は、或いは又、天より降(くだ)る神、【あもり神】即ち、地方に由りては今も「あもり神」などゝ呼ぶ神を意味するものと解せられしには非ざるか。然らざれば、菅丞相の御靈(ごりやう)などを「天神」と稱すべき理由、無きなり。諸國の天神社の中には、菅公に非ざる者多きことは、先輩、既に多く之れを論じたり。然らば、果して悉く國津神に對する天津神なりやと云ふに、未だ容易に然りとは答ふる能はざるものゝごとし。讚岐三豐郡財田大野村大字財田西上村に、駒石山宗運寺(そううんじ)千手院と稱する眞言宗の寺あり。慶長年間[やぶちゃん注:一五九六年~一六一五年。]の草創なれども、本尊は菅公の念持佛と稱する古き聖(しやう)觀世音なり。【菅公影向(えうがう)】境内の岩神の兩の附近に、「菅公影向の石」と稱する大岩ありて、其の上に蹄の跡、殘れり〔「西讚府志」〕。山號は勿論、此れに基けるものなり。菅公は一方に於ては、日本最後の天神なりしと共に、他の方面に於ては、我が邦最初の御靈の一つなり。人にして神と同じく、其の靈魂を不朽の巖石の上に留めたりし古來の多くの英傑と其の類を同じくする者にて、馬蹄石傳說の上に於いても、聖德太子と共に最も顯著なる地位を占むる人にてあるなり。

[やぶちゃん注:「箱根山上の駒形權現」既出で以下の内容も私が既注。「新編相模風土記」の当該部は一寸探し難いので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を示しておく。「巻之二十八 村里部 足柄下郡巻之七」のここ(左ページ下方の「△駒形權現」の条の末)。

『「硯の水」と云ふ傳說』「永々(ながなが)しき一條の物語を控へたり」柳田國男が言っている長ったらしい物語がこれかどうかは知らぬが、例えば、個人ブログ「玉野の伝説」の「天神の硯井」に載る、道真由来の一つをリンクさせておく。ロケーションは現在の岡山県玉野市八浜町大崎で「硯井の井戸」として現在に遺跡が残っている。

「筑前の竃門(かまと)神社」福岡県太宰府市竈門(かまど)神社。主祭神は玉依姫命。柳田國男は清音で示しているが、同神社公式サイトでも特に清音であった旨の記載はない。天武天皇二(六七三)年創建とする。ウィキの「竈門神社」の「社名」の項によれば、『当社は大宰府東北方の宝満山(ほうまんざん、標高』八百二十九・六『メートル)に鎮座するが、この宝満山は古くは「御笠山(みかさやま)」「竈門山(かまどやま)」と称されていた』。その内の『「御笠山」の山名は、笠のような山容に由来する古いものといわれ』、『古くは神体山として信仰されたともいわれる』。『もう』一『つの山名「竈門山」は、筑前国の歌枕としても多く詠み込まれて』おり、『当社社伝である鎌倉時代後期の』「竈門宝満大菩薩記」では、『元は「仏頭山」「御笠山」と称されていたが、神功皇后の出産の時にこの山に竈門を立てたことに由来すると伝える』一方、「筑前国続風土記」では、『山の形がかまど(竈)に似ており、煮炊きの様子を示すかのように雲霧が絶えないことに由来するとする』。『そのほか、大宰府鎮護のためカマド神を祀ったとする説』、『九合目付近の「竈門岩」に由来するという説がある』とある。『現在の「宝満山」の山名は、神仏習合に伴って祭神を「宝満大菩薩」と称したことによるとされ』、『その初見は』十三『世紀末頃の古文書まで下る』とある。

『俗說には、此の神を「八幡大菩薩の伯母君」などと云ふ』ウィキの「竈門神社」の「祭神」の項によれば、「筥崎宮縁起」等では、『当宮を八幡神の伯母(応神天皇の伯母、神功皇后の姉)と見なしており、遅くとも』十二『世紀初頭には八幡神(神功皇后・応神天皇)と結び付けられたと見られている』。『竈門神が八幡神の系譜に組み込まれた背景には、古くから大宰府と関わっている当社の政治的色彩が指摘される』とある。これは宗教的には当社が大宰府の鬼門の位置に当たることから、大宰府鎮護の神として崇敬されたこととも関係するものであろう。

『神功皇后、三韓御征伐の時、先づ、此の社に參拜ありたるに、大神は甲胃を帶し、戈(ほこ)を提げ、威光赫々(かくかく)として巖(いわほ)の上に現じたまふ云く。乃(すなは)ち、其の巖石に神馬の足跡を留めたまふもの、之れを「馬蹄石」と稱すと云へり』「竈門神社」公式サイトのこちらの「竈門神社上宮へのお詣り」の項には、『宝満山頂には竈門神社の上宮があり、麓に鎮座するのが下宮です。頂上付近には玉依姫命の伝承にまつわる馬蹄石や竈門岩などがあ』るとして、現行の神社の方では、神功皇后ではなく、主祭神玉依姫命に纏わる伝承として押さえている

『禁中の「室の八島」』宮中の大炊寮(おおいづかさ:宮中で行われる仏事・神事の供物や宴会での宴席の準備・管理を担い、また、御料地の管理も行った分掌)の竃のこと(「八島」が「釜」の意)。なお、ここでは古くは、除夜に竈を祓い清め、その灰の状態を見て、翌年の吉凶を占ったりもし、その儀式をも「室の八島」と呼んだから、ここはその意味合いを強く受けた謂いともとるべきであろう。

「此の折りには、海の神住吉の大神のごときも亦、隨一の主戰論者なりき」ウィキの「住吉三神」(すみよしさんじん)によれば、住吉三神は「古事記」では『主に底筒之男神(そこつつのおのかみ)・中筒之男神(なかつつのおのかみ)・上筒之男神(うわつつのおのかみ)と表記される』神を、「日本書紀」では『主に底筒男命(そこつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・表筒男命(うわつつのおのみこと)』とする『三神の総称で』、『住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある』。『住吉は、元は「すみのえ」と読んだ』。『かつての神仏習合の思想では、それぞれ薬師如来(底筒之男神)、阿弥陀如来(中筒之男神)、大日如来(上筒之男神)を本地とすると考えられた』。彼らの出自については、『伊邪那岐命と伊邪那美命は国生みの神として大八島を生み、またさまざまな神を生んだが、伊邪那美命が火之迦具土神を生んだときに大火傷を負い、黄泉国(死の世界)に旅立った。その後、伊邪那岐命は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとするが果たせず、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った。このとき、瀬の深いところで底筒之男神が、瀬の流れの中間で中筒之男神が、水表で上筒之男神が、それぞれ生まれ出たとされる』とある。そうして「日本書紀」には、『仲哀天皇の御代、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「貧しい熊襲の地よりも、金銀財宝に満ちた新羅を征討せよ。我ら三神を祀れば新羅も熊襲も平伏する」との神託を得た。しかし仲哀天皇はこの神託に対して疑問を口にしたため、祟り殺されてしまう。その後、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて新羅へ出航した。皇后は神々の力に導かれ、戦わずして新羅、高麗、百済の三韓を従わせたという』とある最後の部分を柳田國男は言っているのである。

「安法(あんぱふ)法師」(生没年不詳)平安中期の歌人。俗名は源趁(みなもとのしたごう)。嵯峨天皇の皇子で光源氏のモデルともされる源融(とおる)の曾孫であるが、父の代から家運が衰微し、安法自身の詳細な経歴も不明だが、出家後は曾祖父融が造営した壮大な邸宅河原院の一画を寺とし、そこに住した。同姓同名の源順や能因など、同院を訪れる人は多く、その荒廃などを主題に漢詩文や和歌を作り、独特の交友圏を形成したが、安法自身は彼らと風雅の交わりを結びつつも、貴顕や晴れの場とは無縁なところで歌作を続けた。その姿勢には後世の隠者歌人に繋がる一面があって注目される。「拾遺和歌集」以下の勅撰集に十二首入集し、自選家集「安法法師集」が残る(以上は概ね「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「天降るあら人神の相生(あひおひ)をおもへば久し住吉の松」「拾遺和歌集」の「巻第十 神楽歌」に載る(五八九番)。

   住吉に詣でて

 天くだるあら人神のあひおひを

    おもへば久し住吉の松

「相生(あひおひ)」はこの場合は文字通りで「ともに育って・年月を重ねて」で、住吉神が現人神(あらひとがみ)となってこの地上に降臨してここに鎮座ましまされてよりずっと一緒に生い茂ってきた松の両対象への久遠長久の言祝ぎ歌である。万葉以来、「現人神」は「住吉の神」を言う場合が多いと、「岩波新古典文学大系」の同歌集の小町屋照彦氏の注にあった。

「あもり神」「天降り神」で天から降臨した神の意。

「讚岐三豐郡財田大野村大字財田西上村に、駒石山宗運寺千手院と稱する眞言宗の寺あり」三豊市山本町財田西にある真言宗駒石山観音院宗運寺。讃岐三十三観音霊場の第十三番札所。本尊は聖観世音菩薩。柳田國男は草創を慶長年間と言っているが、サイト「讃岐三十三観音霊場」の同寺の記載によれば、延暦一五(七九五)年、『桓武天皇の勅願により、右大臣藤原内麿が創建。山王山観音院総本寺中之坊と号していた。後、天正七』(一五七九)年、『長曽我部の武将だった山下市郎右衛門藤原盛久が、この裏山に居を構え、当寺を菩提寺として復興したので、その隠居名宗運をとって寺号とした』とある。地図を見て戴くと判る通り、東直近に天満宮があり、江戸時代まで習合していたから、道真所縁というのは腑に落ちる。]

何を私は考ヘるだらう?……… ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    何を私は考ヘるだらう?………

 

 私が死ななければならぬ時に、若しその時何事かを考へることが出來たとすれば、何を私は考へるだらう?

 一生を無駄に費してしまつたこと、ずつと眠りつゞけて夢のやうにすごしてしまつたこと、人生の賜物(たまもの)を享受する道を知らなかつたことなどを考へるであらうか?

『なに? もう死ななきやならんのか? こんなに早く? そんな事があるものか! 私はまだ何一つする暇(ひま)もありやしなかつたんだ……これからやつと何かしようとしたばかりなんだ!』

 私は過去を追想するであらうか、經驗して來た僅かばかりの光彩ある瞬間を――わが身に貴い面影(おもかげ)や容姿(かほかたち)に思ひ浮べるであらうか?

 おのが惡行(あくぎやう)を思ひ出すであらうか、そしてあまりに遲く來た後悔の燃えるやうな苦みに胸を刺されるやうに覺えるであらうか?

 墓の彼方で私を待つてゐるものについて考へるであらうか……實際、其處で何ものかゞ私は待つてゐると考へるであらうか?

 否。……私は考へまいとするであらう、そして私の前を眞黑に閉(とざ)してゐる脅かすやうな暗黑から。自分の心を轉じさせよう爲めにのみ、强(し)ひて何かつまらない事に興味を向けさせることであらう。

 私は曾て、胡桃(くるみ)を嚙ませないと言つて、怒りつゞけてゐた瀕死の人を見た!……しかもそのどんよりした眼の底には、致命傷を受けた鳥の破れた翼のやうに何ものかゞ顫(ふる)へてゐたのである……

    一八七九年八月

 

光の瀧 すゞしろのや(伊良子清白)

 

光 の 瀧

 八月八日澗月鐡南兩子と共に河内國光の瀧にあそぶ。南河内
 郡瀧畑村の山中にあり。深山窮谷の境遊客甚だ稀なりといふ。

[やぶちゃん注:本篇は明治三一(一八九八)年九月十五日少年園営業部発行の『靑年文 第壱集』に掲載されたもの。署名は「すゞしろのや」。

「澗月」掲載誌は『文庫』であるから、以下の「鐡南」と同じく『文庫』派の仲間であるが、不詳。

「鐡南」既注であるが、再掲しておくと、木村喜代子氏の論文「伊良子清白」(昭和四〇(一九六五)年(?)。「Osaka Shoin Women's University Repository」所収のもの(但し、部分)がPDFでダウン・ロード可能)に、「鉄南」について注に、『堺の覚応寺の嗣子で、本名河野通該、当時錦西小学校の教師をしていた。『よしあし章』の同人』とある。木村氏の当該論文では彼宛の書簡を引用しており、それを読むと、詩人仲間としてはかなり親密であったことが窺われる。

「南河内郡瀧畑村の山中にあ」る「河内國光の瀧」とは「河内國」の「光」(こう)「の瀧」で(詩篇本文に出るそれは音数律から確かに「ひかり」ではなく「こう」と音読みしていることが判る)、現在の大阪河内長野市滝畑にある「光滝(こうたき)」のことである。滝畑ダム上流の「滝畑四十八滝」の一つとして特に有名らしい。ここ(グーグル・マップ・データ(以下同じ)。サイド・パネルの画像も見られたい)。You Tube のスペっぷ氏の「滝畑ダム・光滝(こうたき)<大阪 河内長野市>」の6:00以降で現況動画が見られる。標題も「こうのたき」と読んでおく。

「むかひの山の名におひて」とあるが、山名は不詳。ずっと東に岩湧山はあるが、続く詩句と「岩湧」との連関が私にはよく判らぬ。しかし直後に出る「寺」はこの滝の下流直近にある光滝寺(こうたきじ)か、そうすると、やはり岩湧山か。しかし、「光の御寺の跡とかよ」とあるから廃寺の跡か(光滝寺は現存する)。やはり、よく判らぬ。現地に行かずんばならずか。

『道の聖の「時まちて、』「法の燈ともせかし、」「光の瀧つ瀨石はしる、」『音」とうたひし』

今のうつゝにうかぶなり。「道の聖」も一首も不詳。識者の御教授を乞う。

「泅ぎ」「およぎ」(泳ぎ)。

「豐けき」「ゆたけき」。豊かな。豊饒に満ちた。

「水嵩」「みかさ」。「みずかさ」で水量のこと。

「長野の里」この川(「石川」と言う)の下流の河内長野の町。]

 

錦織るてふ錦部の、

山は南に連りて、

和泉に界するところ、

光の御瀧は落つといふ。

嶺に棚引く朝雲の、

立ち分れ行く涼しさに、

山路に咲ける秋草の、

花も夢よりさめいでゝ、

われら三人の賓客を、

迎へがほなる野邊のさま、

稻葉の波に見えかくれ、

社の杜もそよぐなり。

さ百合の花ををらんとて、

友の一人があやふくも、

まろびしこともおもしろく、

うなゐの兒等に伴ひて、

草刈歌をおぼえしも、

鄙の放路の興なりき。

百合野の川の岩かねは、

垂る蘿にうづもれて、

暗き峽間を流れ去る、

水に音なき淵の底。

むかひの山の名におひて、

扇に畫く秋の色、

露に洗へるてふてふの、

羽がひもかろく舞ふやらむ、

棗(なつめ)實れる賤が家に、

筧の水の音澄みて、

炭を荷へる黑駒を、

門の榎樹に繫ぎたり。

松杉立てる瀧山の、

麓の里は疎らなる、

烟の中の竹林、

人をとがむる犬ぞなく。

丸木の橋をうち渡り、

靑葉の中を分けくれば、

山の半ばに荒れたるは、

光の御寺の跡とかよ。

七堂伽藍榮えたる、

昔の夢の影もなく、

たゞ戀祈る人のため、

佛は殘りたまふらむ。

か黑き髮を結びたる、

御堂の柱かたぶきて、

僞ゆゑにうせしてふ、

女の恨のこるなり。

御寺の友は小枝さす、

木々のしげみに包まれて、

しぐるゝ蟬の聲のみぞ、

靜けき晝をまもりたる。

流をせきてさかのぼる、

瀨々の白波冷やかに、

水窮りて谷窄み、

石橫たへて道もなし。

四十八瀧山深く、

百合の岩窟(いはや)をきて見れば、

五つ重る花瓣の、

北に向ひて開くかな。

瀧の花蘂(しべ)ま白なる、

萼(うてな)の底に咲きみだれ、

山の嵐の吹き立ちて、

千本の糸は搖ぐなり、

綠の空は低くして、

沈める影を行く雲の、

天つ光はいつの日か、

瀧のしぶきにはるゝらむ。

光の御寺の御佛の、

この瀧壺を出でませし、

遠き例も見ゆるまで、

道の聖の「時まちて、

法の燈ともせかし、

光の瀧つ瀨石はしる、

音」とうたひし面影の、

今のうつゝにうかぶなり。

友の二人は衣ぬぎて、

淸きながれに泅ぎつゝ、

われは岩ほを攀ぢのぼり、

香れる草の上をふむ。

うたゝねさそふ鳥の音は、

佛法僧の聲にゝて、

祕密の森にあらねども、

さびしき秋にたへかねて、

水もすみうく思ふらん、

流れて洞を去ぬるめり。

かへさの道に夕立ちて、

雨やどりせし瀧畑の、

賤が女の物語り、

みは山家の米搗きて、

都の花は知らねども、

豐けき秋の祝賀とて、

去年の祭も賑ひき、

紅葉のころはまた來ませ、

滝の水嵩やまさるらん、

村の男が網張りて、

魚捕る業も見ませやと、

をしへくれしはわすられず。

峪をいでし山川の、

秋の光に照らされて、

虹こそかゝれ西東、

彼方此方にたちきれて、

あまり景色のをかしさに、

よろしき歌もよみつれど、

長野の里に酒酌みて、

醉の心地にまぎれつゝ、

殘らず忘れはてにけり。

 

那智瀑布賦 すゞしろのや(伊良子清白)

 

那智瀑布賦

 

飛べるににたる、

   紀のくにの、

右の翼の、

   みどり羽に、

たゞひといろを、

   まじへたる、

瀧の白羽を、

   ぬきてこむ。

 

うすくれなゐの、

   夕ばえに、

うつれる杉を、

   ながむれは、

兒らがせおへる、

   草のごと、

みどりの色は、

   山にみつ。

 

かぜはしづかに、

   そら澄みて、

西にうごける、

   新星の、

ひかりのうへぞ、

   眞白なる、

瀧の岩ぶち、

   そびえたる。

 

み谷のおくの、

   眞榊の、

五百枝さやかに、

   あらはれて、

白雲しつむ、

   ひむがしの、

嶺にたゞよふ、

   ひかりはも。

 

月さしのぼる、

   むかつをに、

やまほとゝぎす、

   なきとよみ

うらおもしろき、

   夏の夜を、

ひとりさまよふ、

   山祇よ。

 

熊野にかへれ、

   久方の、

天のうたげの、

   花むしろ、

こよひは那智に、

   ひらけむと、

森陰深く、

   つたへ行く、

瀧の谺の、

   幽かなり。

 

[やぶちゃん注:本篇は明治三一(一八九八)年八月二十日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。「ながむれは」の清音はママ。

「むかつを」上代語。「向かつ峰」「向かつ丘」で「向かいの丘・山・山嶺」。「つ」は「の」の意の上代の格助詞。]

うたかた すゞしろのや(伊良子清白) (河井酔茗・横瀬夜雨との合作)

 

うたかた

[やぶちゃん注:本篇は明治三一(一八九八)年七月二十日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。但し、河井酔茗・横瀬夜雨(既に示した通り孰れもパブリック・ドメイン)との合作。「さへつる」「さくり」の清音はママ。なお、「未通女」「おぼこ」の当字で、ここは未だ世間慣れ(擦れ)していない若い女性の意。また「閻浮」は「えんぶ」で「閻浮提(えんぶだい)」のこと。仏教の世界観での「四洲(ししゅう)」の一つ。須弥山(しゅみせん)の南方の海上にあるとする巨大な島で、その中央には閻浮樹(えんぶじゅ)の大森林があり、諸仏が出現する島とされた。具体にはインドを指したが、その後は辺縁に拡大し、遂には人間世界及び三世(さんぜ)の内の現世(げんせ)の代名詞となった。他に「閻浮洲」「瞻部(せんぶ)洲」等とも呼ぶ。]

 

もゝ舟はつる夕つけの、

鳥羽の港は見えながら、

白帆まきては碎けゝん、

三河のあまの小舟はも。

 

黑髮長きくはし女の、

蛋にあらねば汐なれぬ、

花の衣のかゝりては、

岸のいはほも靡きけん。

 

柩を土にをさむれば、

雲雀さへつる春の野の、

つぼすみれ咲く靑草も、

慰み難き墓なるを。

 

夫に嫁ぐとて行きしこの、

沈める舟のあと見ては、

答志の浦に玉藻刈る、

未通女の歌もつらきかな。

 

逆汐いかゞ荒くとも、

海になれたるかこならば、

み命ばかりたゝでもと、

思ふもあはれ數ならで。

 

いらこ岬のあらいはに、

くつをもめさで泣倒れ、

こかれたまへる妹君は、

今も渚にまたすらん。

 

さすが別れを惜みてか、

琴のつれびき遊ばして、

よめりをいはふ盃に、

むせびませしも今朝なれば。

 

せめて空しきからをだに、

さくり求めて歸らんと、

浪のまにまにかいやれど、

其れかと思ふちりもなく。

 

閻浮を戀ふるなき魂の、

若しも我身にうつりなば、

鳥羽の港にさす棹の、

せめて力もあるべきを。

 

今宵よりして吾妹と、

呼ばゝん人は世を代へて、

みなわの痕もなきぞとは、

雲の色にもさとるまじ。

 

數の小島は廻れども、

君待つ磯はあらなくに、

哀しき今日も立ちこむる、

汐のけふりにくれてゆく。

 

かへらぬ浪のあと追ひて、

何處にはてむわが舟ぞ、

七十五里の灘の上、

隈なく渡る月はあれど。

 

2019/06/02

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(28) 「神々降臨ノ跡」(4)

 

《原文》

 茲ニ自分ハ端無ク三十年前ノ稺キ記憶ヲ懷シムべキ機會ヲ得タリ。自分ガ生地ハ播磨神崎郡田原村大字西田原辻川ニシテ、產土神ハ後ノ山ナル鈴ノ森明神ナリ。年每ノ神無月ニハ神々出雲國ニ赴キタマフトテ、社頭ニ馬ノ轡ノ響キヲ聞クト云フコトハ、他所ノ村々ニモ例アルコトナランガ、之ニ加ヘテ更ニ一條ノ古譚アリ。【駒ケ岩】村ノ西ヲ流ルヽ市川ノ岸ニ一箇ノ大ナル駒ケ岩アリテ、其上ニハ正シク神馬ノ蹄ノ痕ヲ存ス。我々ガ兄弟ハ夏ハ此岩ノ上ニ衣ヲ脫ギテ其西側ノ淵ニテ水ヲ泳ギタリシナリ。三四年前還リテ見ルニ、川ノ流ハ岩ヨリ東ニ移リ昔ノ淵ハ河原トナリタレドモ、駒ケ岩ノ姿ハ依然トシテ之ヲ望ムコトヲ得タリ。此ヨリ東北へ四五町即チ鈴ノ森ノ社ヨリ一町足ラズノ西ニ、古宮ト稱スル十坪バカリノ岩石ノ地アリ。明神ハ神馬ニ召シテ駒ケ岩ヨリ古宮へ飛バレタリト言ヒ傳フ。併シ古宮ノ岩ハ燧石ニシテ村人屢來リテ之ヲ虧キ取ルガ爲ニ、此ニハ馬蹄ノ跡ノ殘レル者無キナリ。今日ニ於テ考フレバ古宮ハ昔ノ社跡トシテハアマリ狹シ。【御旅所】此邊ハ水ノ手ニ遠キ岡ノ端ノ新開畠ナレバ、恐クハ以前ハ一圓ノ社地ノ中ニシテ、古宮ハ即チ森ノ片端ニ設ケラレタル昔ノ祭ノ御旅所ナリシカト思ハル。御旅ト云フ思想ハ厚薄ノ差コソアレ殆ド全國各社ノ祭禮ニ伴ヒテ存在ス。祭ノ夜宮ノ日トナレバ、或ハ長キ馬場ヲ通リテヨホド遠ク迄出遊シタマフ神アリ。或ハ又不思議ニ近キ處ニ御旅所ヲ構ヘタル社アリ。神幸ノ路次ノ長キハ後代行列ノ面白サヲ加ヘンガ爲ニ、古例ヲ破リテ御假屋ヲ遠クニ遷セシモノモアランガ、其證無キ限リハ必ズシモ然リトハ言フ能ハズ。自分實母ノ在所、播磨加西郡北條町ノ住吉明神ナドモ、町ノ名ニ御旅町及ビ御幸町アリ。御輿ハ此二ツノ町ヲ通リテ邑ノ西ノ端ヨリ東ノ端ニ近キ御旅所マデ出デタマフ習例ナリキ。【暗夜神幸】甲斐東山梨郡奧野田村牛奧組ノ通(カヨヒ)神社ナドモ、祭ノ夜ハ更ケテ後一ノ宮淺間社マデ神幸アリ。過グル所八ケ村ニシテ而モ道路ニ由ラズ槪ネ田ノ畔ヲ行キ、暗中ノ神事終リテ未明ニ遷幸アル例ナリ〔山梨縣市町村誌〕。之ニ反シテ駿州富士郡大宮町ノ淺間社ノ如キハ、社殿ノ東ニ接シタル淸淨ノ封土、即チ祭ノ日ノ御假屋ノ地ナリシガ如シ。今モ之ヲ用ヰテアリヤ否ヤヲ知ラズ、恰モ伊勢兩宮ノ宮所ガ二ツアルトヨク似タレバ、何カ特別ノ說ヲ傳ヘ居ルヤモ測リ難シ。右ノ如ク神社境内ニ假屋ノ地アル場合ニハ、之ヲ廢シテ使用セザル例ハ少ナカラズ。【影向塚】社ニヨリテ其跡ヲ名ヅケテ降臨石又ハ影向塚(エウガウヅカ[やぶちゃん注:ママ。])ナドト名ヅケ、年々ノ例祭トハ關係無キ傳說ヲ發生セルモノアリ。此等モ亦アマリニ距離近キガ爲ニ、所謂御旅ヲ以テ神ガ社殿ノ中ヨリ遊ビニ出デタマフモノト解スルニ至リシ結果、詮無キコトニ思ヒテ久シク其使用ヲ中止セシモノナルべシ。奈良ノ東大寺ノ轉害門(テガイモン)ヲ入リテ右側ニ偉大ナル一箇ノ切石アリ。アレモ亦タシカ昔ハ八幡ノ神輿ヲ置キ奉ルべキ石ナリキト聞ケリ。話ノ枝葉ニ渡ルヲ恐レテ爰ニハ詳シクハ述べザルモ、祭ノ日ニ限リ神ガ御旅所又ハ假屋ニ出デテ供物ヲ受ケ神樂ヲ聽キタマフ理由ハ他ニ非ズ。昔ハ邑人此日ニ非ザレバ、親シク神ノ音容ニ接スルコト能ハザリシナリ。即チ御旅所又ハ假屋ト云フ名目ハ寧ロ神ノ常ノ社ヨリ出デテ宿リタマフ爲ニ非ズシテ、御空又ハ遙カナル國ヨリ祭ヲ享ケニ降リタマフヲ迎ヘマツル場處ノ事ナリ。【神馬ノ用】サレバコソ此折ノ用トシテ神馬ハ最モ肝要ノモノナリ。神幸ニハ必ズ神馬ヲ牽クモ全ク此ガ爲ナリト察セラル。【ヨリマシ】土佐ノ古キ宮々ノ祭又ハ陸中平泉ノ白山社等ニハ、依坐(ヨリマシ)ノ童兒ヲ其馬ニ乘セテ神輿ノ前ニ牽行ク風アリ。此童兒ハ即チ支那ニ所謂尸童又ハ靈子ニ當ルモノニシテ、神ハ之ニ託シテ神意ヲ宣傳シ或ハ又秋ノ稔ノ喜悅ヲ民ト共ニ分チタマフナリ。【馬場】神社ノ鳥居ノ通ノ長キ畷ヲ馬場ト稱スルハ、此モ亦神ノ馬ノ式日ニ通行スル路ト云フコトニテ、必ズシモ流鏑馬(ヤブサメ)ヤ競馬ヲ行ハヌ社ニテモ此名アリ。後世ノ氏子等ノ如キハ單ニ人間ノ手足ヲ以テ昔ノ神ノ去來ヲ模擬シ、形バカリノ「ミステリイ」ノ中ヨリ、幽カナガラモ神道ノ古意ヲ汲取ルニ過ギザリシガ、今一段ト熱烈ナル上代ノ崇敬者ニ至リテハ、能ク端的ニ神ノ靈アル御姿ヲ仰ギ、綠色ノ空ヨリ白馬ノ漸ク鮮明ニナル有樣ヲ望ミ且ツ信ズルコトヲ得タリシヤモ知リ難シ。果シテ其如クナリキトスレバ、岩モ豆腐モ何ノ差別カアラン。蹄ノ痕ノ殘ル位ハ毛筋ホドノ疑モ起ラヌ常ノ事實ナリシニ相違ナキナリ。

 

《訓読》

 茲(ここ)に自分は、端無(はしな)く[やぶちゃん注:思いがけず。事前に予想はしていなかったが。]、三十年前の稺(をさな)き記憶を懷しむべき機會を得たり。自分が生地は播磨神崎郡田原村大字西田原辻川にして、產土神(うぶすながみ)は後(うしろ)の山なる「鈴の森明神」なり。年每の神無月には、神々、出雲國に赴きたまふとて、社頭に馬の轡(くつわ)の響きを聞くと云ふことは、他所(よそ)の村々にも例(ためし)あることならんが、之れに加へて、更に一條の古譚あり。【駒ケ岩】村の西を流るゝ市川の岸に一箇の大なる「駒ケ岩」ありて、其の上には正(まさ)しく神馬の蹄の痕を存す。我々が兄弟は、夏は此の岩の上に衣を脫ぎて、其の西側の淵にて、水を泳ぎたりしなり。三、四年前、還りて、見るに、川の流れは、岩より東に移り、昔の淵は河原となりたれども、駒ケ岩の姿は、依然として、之れを望むことを得たり。此れより東北へ、四、五町[やぶちゃん注:約四百三十六~五百四十五メートル。]、即ち、「鈴の森」の社より一町[やぶちゃん注:百九メートル。]足らずの西に、古宮(ふるみや)と稱する十坪ばかりの岩石の地あり。明神は神馬に召して、駒ケ岩より古宮へ飛ばれたり、と言ひ傳ふ。併し、古宮の岩は燧石(ひうちいし)にして、村人、屢々來りて之れを虧(か)き取るが爲めに、此れには馬蹄の跡の殘れる者、無きなり。今日に於いて考ふれば、古宮は昔の社跡としては、あまり、狹し。【御旅所】此邊(このへん)は水の手に遠き岡の端(はた)の新開畠(しんかいばた)なれば、恐らくは、以前は一圓の社地の中にして、古宮は、即ち、森の片端に設けられたる昔の祭りの「御旅所(おたびしよ)」なりしかと思はる。「御旅」と云ふ思想は、厚薄(こうはく)の差こそあれ、殆んど、全國各社の祭禮に伴ひて存在す。祭りの夜宮(よみや)の日となれば、或いは長き馬場を通りて、よほど遠くまで出遊(しゆついう)したまふ神あり。或いは又、不思議に近き處に御旅所を構へたる社あり。神幸(しんこう)の路次(ろし)の長きは、後代、行列の面白さを加へんが爲めに、古例を破りて、御假屋(おかりや)を遠くに遷(うつ)せしものもあらんが、其の證、無き限りは、必ずしも然りとは言ふ能はず。自分實母の在所、播磨加西郡北條町の住吉明神なども、町の名に御旅町及び御幸町あり。御輿(みこし)は此の二つの町を通りて、邑(むら)の西の端より、東の端に近き御旅所まで、出でたまふ習例(しふれい)なりき。【暗夜神幸】甲斐東山梨郡奧野田村牛奧組の通(かよひ)神社なども、祭りの夜は、更けて後、一の宮淺間社まで神幸あり。過ぐる所、八か村にして、而も道路に由らず、槪(おほむ)ね、田の畔(あぜ)を行き、暗中の神事終りて、未明に遷幸ある例なり〔「山梨縣市町村誌」〕。之れに反して、駿州富士郡大宮町の淺間社のごときは、社殿の東に接したる淸淨の封土(ふうど)、即ち、祭りの日の御假屋の地なりしがごとし。今も之れを用ゐてありや否やを知らず、恰かも伊勢兩宮の宮所が二つあると、よく似たれば、何か特別の說を傳へ居(を)るやも測り難し。右のごとく、神社境内に假屋の地ある場合には、之れを廢して使用せざる例は少なからず。【影向塚(ようがうづか)】社によりて、其の跡を名づけて「降臨石」又は「影向塚(えうがうづか[やぶちゃん注:ママ。])」などと名づけ、年々の例祭とは關係無き傳說を發生せるもの、あり。此等も亦、あまりに距離近きが爲めに、所謂、御旅を以つて神が社殿の中より、遊びに出でたまふものと解するに至りし結果、詮無きことに思ひて、久しく其の使用を中止せしものなるべし。奈良の東大寺の轉害門(てがいもん)を入りて、右側に、偉大なる一箇の切石(きりいし)あり。あれも亦、たしか、昔は八幡の神輿(しんよ)を置き奉るべき石なりきと聞けり。話の枝葉に渡るを恐れて、爰には詳しくは述べざるも、祭りの日に限り、神が御旅所又は假屋に出でて、供物を受け神樂を聽きたまふ理由は他に非ず。昔は、邑人(むらびと)、此の日に非ざれば、親しく神の音容に接すること、能はざりしなり。即ち、御旅所又は假屋と云ふ名目は、寧ろ、神の常の社より出でて宿りたまふ爲めに非ずして、御空(みそら)又は遙かなる國より、祭りを享(う)けに降りたまふを、迎へまつる場處の事なり。【神馬の用】さればこそ此の折りの用として、神馬は最も肝要のものなり。神幸には、必ず神馬を牽くも、全く此れが爲めなりと察せらる。【よりまし】土佐の古き宮々の祭り、又は、陸中平泉の白山社等には、依坐(よりまし)の童兒を其の馬に乘せて神輿の前に牽き行く風あり。此の童兒は、即ち、支那に所謂、「尸童(しどう)」又は「靈子(れいし)」に當るものにして、神は之れに託して神意を宣傳し、或いは又、秋の稔りの喜悅を民と共に分ちたまふなり。【馬場】神社の鳥居の通りの長き畷(なはて)を「馬場」と稱するは、此れも亦、神の馬の、式日(しきにち)に通行する路と云ふことにて、必ずしも流鏑馬(やぶさめ)や競馬を行はぬ社にても此の名あり。後世の氏子等のごときは、單に人間の手足を以つて、昔の神の去來を模擬し、形ばかりの「ミステリイ」[やぶちゃん注:mystery。神秘。]の中より、幽かながらも神道の古意を汲み取るに過ぎざりしが、今一段と熱烈なる上代の崇敬者に至りては、能く端的に神の靈ある御姿を仰ぎ、綠色の空より、白馬の、漸(やうや)く鮮明になる有樣を望み、且つ、信ずることを得たりしやも知り難し。果して其のごとくなりきとすれば、岩も豆腐も何の差別かあらん。蹄の痕の殘る位は、毛筋ほどの疑ひも起らぬ、常の事實なりしに相違なきなり。

[やぶちゃん注:この段落は最後の「尸童」「靈子」の不審(最終注参照)を除いて、普段の柳田國男に対する私の偏見を殆んど感じない。それは、彼の恣意的な一方的方向づけによる《柳田民俗学》の中世ギルド的拘束の胡散臭さを殆んど感じないからである。ここで彼は自身の幼少期の思い出を再現することで、そこに本邦の民俗社会の原風景を強引さを感じさせずに述懐しているからに他ならない。読んでいて、珍しくとても素直に受け入れられたし、特異的に是が非でも夜になっても今日中に仕上げたいとさえ思ったのである。

「三十年前の稺(をさな)き記憶を懷しむべき機會を得たり」本「山島民譚集」は大正三(一九一四)年七月刊で、当時、柳田國男(明治八(一八七五)年七月三十一日生まれ)は満三十九歳であった。彼が故郷(後注)去ったのは明治二〇(一八八七)年八月(次兄通泰に伴われて上京、利根川べりの茨城と千葉の境である茨城県北相馬郡布川町(現在の、茨城県利根町布川(グーグル・マップ・データ。以下同じ))で開業医となっていた長兄鼎宅に身を寄せた。因みに両親も明治二十二年に同居するようになる)で十二歳であった。

「播磨神崎郡田原村大字西田原辻川」柳田國男は飾磨(しかま)県神東(じんとう)郡田原(たわら)村辻川、現在の兵庫県神崎郡福崎町西田原(現在そこにある生家は同地区内で移築されたもの)で生まれた。ウィキの「柳田國男」によれば、『父は儒者で医者の松岡操、母たけの六男(男ばかりの』八『人兄弟)として出生。辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が山間部から播州平野へ抜けて間もなく因幡街道と交わるあたりに位置し、古くから農村として開けていた。字の辻川は京から鳥取に至る街道と姫路から北上し』、『生野へ至る街道とが十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家があった。生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかった。生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっている。家が小さかったことに起因する悲劇が幼き日の國男に強い影響を与え、将来的にも大きな影響を与えた』。『父・操は旧幕時代、姫路藩の儒者・角田心蔵の娘婿、田島家の弟として一時籍に入り、田島賢次という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)や、好古堂という学校で修学し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として』文久三(一八六三)年に『赴任した。明治初年まで』は『相応な暮らしをし』てい『たが、維新の大変革の時には予期せざる家の変動もあり、操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥ったという』。國男は『幼少期より非凡な記憶力を持ち』、明治一八(一八八五)年の高等小学校を卒業した十一『歳の』時には、『地元辻川の旧家三木家』(上記リンク地図内の「辻川山公園」を挟んだ南にポイントされてある)『に預けられ、その膨大な蔵書を読破し』たという。その翌年、前注した通り、上京している(なお、身体虚弱のため、ここから数年の間は就学せず、十七の時(明治二四(一八九二)年六月)、尋常中学共立学校(私立開成高等学校の前身)に編入学、翌年、郁文館中学校に転校、十九歳で第一高等中学校に進学し、次いで東京帝国大学法科大学政治科を卒業、明治三三(一九〇〇)年、農商務省農務局農政課に務め、『主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようにな』った。因みに本書刊行時は貴族院書記官長であった)。

「產土神(うぶすながみ)」生れた地の守護神。土地神。

「鈴の森明神」現在の鈴の森神社。上記リンク地図内の生家の北西直近にあるウィキの「鈴の森神社」によれば、主祭神は彦瓊々杵命(ひこほのににぎのみこと)で配祀神として天児屋根命(あめのこやねのみこと)と太玉命(附と玉ノミコト)の二柱が配される。『創建年代は不詳。社名に含まれる「すず」とは聖地の意味であるとされており』、江戸中期の医師で暦算家の平野庸脩(ひらのようしゅう)の自筆稿本「播磨鑑」には『大己貴命が峯相山』(みねあいやま)『より宍粟』(しそう)『郡へ遷座した』際、『播磨の神々がここに集まったという記述がある』。『また、元々は現在の社地より北西にある古宮跡に神社があったという伝承がある』。柳田國男が生まれた前年、明治七(一八七四)年に『村社に列し』ていた。現在、『拝殿向かいの右側に』(グーグル・マップ・データのサイドパネルの画像のこちらにある)町指定天然記念物のヤマモモ(ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra)の巨木があり、樹高約十三メートル、根元の周囲は約三・三メートルと『町内最大の大樹として同時に保存樹の指定も受けている』が、『この大樹も柳田國男と深い関わりがあり』、「孤猿随筆」(複数の妖獣奇譚説話を自在な口調で考察した作品集。単行本は昭和一四(一九三九)年創元選書刊であるが、この話はその一篇「旅二題」の「一 有井堂」に出る。昭和一四(一九三九)年十月発行『俳句研究』初出)には、『子どもたちが年中』、『木登りをしていた描写や』、『親に不器用だと木登りを止められていた柳田が』、『木登りの様子を狛犬に乗って眺めていたことが記されている』とある。因みに、その「孤猿随筆」の「旅二題」の「一 有井堂」(柳田國男の当該作品の書き方は少し意識を少年期にスライドさせているちょっと変わった面白もので、「有井堂」というのは「鈴の森神社」の少し南にある(ここ)薬師如来を祀った堂であって、その区別は読んでいて後で判るようになっている)の当該部分を引いておく。なお、「ちくま文庫」版全集を用いたので、新字新仮名である。

   *

[やぶちゃん注:前略。]また忘れられない山ものの樹がある。この御宮の御神木(ごしんぼく)にちがいないのだが、子供は年百年中木登りをしていた。それを小言をいって祟(たた)りがあつたという話もある。何でも珍しく見ごとな実がなるということを聴いていて、一ぺんもわたしはそれを見たことがなかつた。青くて小さいうちに片端から取って食べてしまうのだ。私は不器用で、木登りは止められてもいたが、あの狛狗(こまいぬ)さんには何度も乗つて見た記憶がある。

  うぶすなの森のやまもゝこま狗は(いぬ)なつかしきかな物いはねども

[やぶちゃん注:後略。]

   *

『市川の岸に一箇の大なる「駒ケ岩」あり』現存する。地質学者橋元正彦氏のサイト「兵庫の山々 山頂の岩石」の「駒ヶ岩 市川左岸に横たわる、柳田國男も遊んだ巨岩」(写真有り)によれば、この中央の部分であろうと思われる(グーグル・マップ・データの航空写真)。橋本氏は『柳田國男は、「故郷七十年」のなかで、「市川の川ぷちに駒ヶ岩というのがある。今は小さくなって頭だけしか見えていないが昔はずいぶん大きかった。高さ一丈もあったであろう。それから石の根方が水面から下へまた一丈ぐらいあって、蒼々とした淵になっていた。」と遠い昔をなつかしんで書いている。夏になると國男少年兄弟は、この岩の上で衣を脱いで、そばの淵で水泳ぎをしたり、うなぎの枝釣りをして遊んだ。……(後略)。』と、福崎町観光協会によって記された案内板が、この岩のそばに建っている』とある(この「故郷七十年」は前に注した通り、昭和三二(一九五七)年に神戸新聞社が翌年の創立六十周年を迎えるに当たって、兵庫県出身で当時八十二歳であった柳田國男に回顧談を求め、柳田はこれを快諾し、全二十五回に亙って聞き書きが行われ、二百回に亙る連載記事となったものであるが、これは聞き書きであるからか、「ちくま文庫」版全集には載らない(その後の一九九七年刊の新しい「柳田國男全集」第二十一巻に載っているようだ)が、「青空文庫」で柳田國男「故郷七十年」として電子化されてある)。以下、橋本氏の解説。『岩石は、丹波層群』『の砂岩頁岩の互層である。砂岩優勢であるが、層厚』五~二十センチメートル『で細かく互層している部分もある。岩体全体、特に砂岩は珪質であり、緻密で硬い。このため、長年にわたる市川本流の河食に耐えて、大きな岩体として横たわっている』。『水面から』七~八メートル『の高さがある。岩の上に立って、下をのぞき込んでみると、水面下』二メートル『まで岩体が続いていることが分かるが、それより下は水の中に消えている』。『「この岩の上に、神馬のひずめのあとが残っていて、鈴の森明神が神馬に乗って、駒ヶ岩から古宮へ飛ばされたという言い伝えがある。」と、案内板にある。岩体の上には、割れ目に沿った三角形の穴がいくつか開いている。これが、神馬のひずめの跡であろうか』とあって、柳田はないと寂しそうに言っているが、どうして、どうして! 蹄の跡らしき甌穴は今も残っていますよ! 柳田先生!! さらに、写真キャプションに『砂岩頁岩の互層』として、『黒っぽい層が頁岩、灰白色の層が砂岩である。砂岩は、レンズ状に頁岩にとり込まれている場合がある』とあり、さらに『頁岩に取り込まれたチャート』として、『頁岩中には、レンズ状にチャートが含まれている。大きさは』三十センチメートル『程度である』とあった。

「三、四年前」本書刊行は大正三(一九一四)年七月だから、明治四十三、四年。

『此れより東北へ、四、五町、即ち、「鈴の森」の社より一町足らずの西に、古宮(ふるみや)と稱する十坪ばかりの岩石の地あり』やった! 先の橋元先生のサイト「兵庫の山々 山頂の岩石」の『福崎町「古宮」のチャート岩体』がそれだ!! 『国道』三百十二『号線を福崎町役場から』五百メートル『ほど北に進むと、右手(東)の田んぼの中に大きな岩体が突き出ている。長さ』十五メートル、高さ五メートル『程度の赤茶色い岩体である。ここは、「古宮」と呼ばれ、このすぐ南東にある「鈴の森神社」の旧の宮があった所とされている。この岩石を調べてみると、縞状に成層したチャートであった。この地域は、ジュラ紀に付加した丹波帯に属している。このチャートは、頁岩中にブロック状に取り込まれたものであろうか。風化に耐えて突出するこの岩に、いにしえの人々は何か神々しいものを感じ、ここに神を祀ったのかも知れない。また、この岩は、南西のある「駒ケ岩」より神馬に召されて飛んできたという伝説も残っている』。『鈴が森神社があるのが「辻川山(標高』百二十八・九メートル)。『この辻川山の東には、神積寺のある「妙徳山」、岩尾神社や大歳神社のある「大門宮山」がある。この三つの山を「ふくさき三獅子山」と呼び、これらの山にある神社や寺、それに柳田國男生家や大塚古墳をつないで、遊歩道が整備されている。いつか、植物図鑑を片手に、このコースをのんびりと訪ね歩きたいと思う』とされ、『「古宮」の岩体は、白、茶、赤(オレンジ)、緑などと多様な色を呈するチャートである。塊状の部分もあるが、数』センチメートル『の厚さで縞状に成層している部分が多い』。こ『このチャートは頁岩中にブロック状に取り込まれたものと考えられる』。『岩体には、所々に狭い割れ目が走っていて、その割れ目に水晶が見られた。結晶は大きくはないが、無色透明できれいな結晶形をしていた。『チャートの構造』は『赤い(オレンジ)部分と白い部分が縞状に成層している。この部分は、南に』六十『度と』、『大きく傾斜している』。『チャートは、放散虫の遺骸が積み重なってできた岩石(下欄参照)。放散虫は死ぬと、その珪質の殻はゆっくりと海の底に沈んでいく。その様子が、舞い落ちる雪のように見えるためにマリンスノーと呼ばれている。現在の赤道付近の深海には放散虫軟泥と呼ばれる堆積物があり』、一千『年に数ミリずつ、ゆっくりと積もっていることが知られている。これが、長い時間をへて硬くなり、チャートがつくられる。写真の厚さのチャートができるだけでも、莫大な年月がかかっているのである』。『チャートは、ほとんどがシリカ(Si0)からなる(鉱物としては石英)、硬い岩石である。偏光顕微鏡による観察では、どのようにしてできたのか、長い間分からなかった。しかし、フッ酸処理し』、『走査電子顕微鏡で見ることによって、放散虫という珪質プランクトンの遺骸が集まってできた岩石であることが分かった』。『チャートが、放散虫の遺骸のからできた岩石であり、砂とか泥を含んでいないということは、陸から遠く離れた海底でできたということを物語っている。チャートが、陸源の砕屑岩(頁岩・砂岩など)にブロックとして入っていることは、海洋プレートの沈み込みによる付加作用によってできたことを表している』。『「古宮」の南東、辻川山の裾に「鈴の森神社」は建っている。「すず」とは聖地の意味で、「播磨鑑」によると、大己貴命(おおなむちのみこと)が峯相山より宍粟郡へ遷座したとき、播磨の神々がここに集まったとされている』。『神社は、スギ・ヒノキ・カエデ・モミ・ヤマモモなどの木に囲まれ、それらの木々の間から差し込む陽光をたっぷりと受けていた。神社の右手にある樹齢約千年のヤマモモの古木は特に印象的である。柳田國男は、「故郷七十年」に、子供の頃この木に登ってヤマモモの実を食べようと思ったが』、『ガキ大将連に採られてしまって口に入らなかったと書いている』と記しておられる。場所はこの附近か(グーグル・マップ・データ航空写真「ストリートビュー」で探そうとしたが、すぐにフリーズするので諦めた)。これで完璧に腑に落ちた。このチャートchert:角岩(かくがん):橋元先生も述べられている通り、堆積岩の一種で、主成分は二酸化ケイ素(SiO2:石英)。この成分を持つ放散虫・海綿動物などの動物の殻や骨片が海底に堆積して生じた非常に硬い岩石で、層状を成すことが多い)は正しく「燧石」となるからである。

「虧(か)き取る」「虧」(音「キ」)は「欠ける」或いは「欠(か)く(かき割って取る)」の意。

「御旅所(おたびしよ)」神霊の渡御(神幸)の際に神霊の休憩地として、プラグマティクには神体や神輿を一時的に仮り置きする場所。複数ある場合、祭りに限らず、常設してある場合がある。後の「御假屋」も事実上は同義で、異名ととってよい。但し、柳田國男は以下でそのルーツは逆に神霊を迎えるための特別な施設とする。

「播磨加西郡北條町の住吉明神」現在の兵庫県加西市北条町(まち)北条にある住吉神社 (住吉酒見神社)

「御旅町」「御幸町」検索すると、同北条町内には旧称・通称で「北条御旅町(おたびちょう」「北条御幸町(ごこうまち」が残っている。

「甲斐東山梨郡奧野田村牛奧組の通(かよひ)神社」これは山梨県甲州市塩山牛奥の通太神社と思われる。「山梨県神社庁」公式サイト内のこちらによれば、『創立年代不詳。祭神瓊々杵尊は其の妃に当る東八代郡一宮町浅間神社祭神(木花咲耶姫命)のかよひの宮と称し、社殿南面し』、『浅間神社に相向ふ様に造営し、社名も通太神社と名付けたといふ』とある。

「駿州富士郡大宮町の淺間社」恐らくは、現在の静岡県富士宮市宮町の富士山本宮浅間大社(或いはその周辺にある附属的(?)浅間社(地図上でも三社を数える)と思われる。

「淸淨の封土(ふうど)」「ほうど」でもいいが、これはしかし、一般的用法ではない。「封土」は、「古墳や墓を蔽う盛り土」又は「そのように自然地形をそれに転用した墳丘」或いは「奉仕義務の代償として主君から臣下に与えられた土地」を指すが、ここでは特異的に清浄に封ぜられた結界地を指しているからである。

「影向(えうがう)」正しくは頭注に振った通り、歴史的仮名遣では「えうがう」が正しい。意味は「神仏が仮の姿をとって現れること・神仏の来臨」を指す。

「東大寺の轉害門(てがいもん)を入りて、右側に、偉大なる一箇の切石(きりいし)あり」「門前」の誤り。しかも「一箇」は紛らわしい。それを置く複数の基部全体を「一箇」と言っているというのは苦しい。以下の画像を見るに、離れて四方に円形の石が四基ある。奈良観光公式サイト「なら旅ネット」のこちらによれば(写真多数)、奈良東大寺の『大仏完成の神助に報いるべく、聖武天皇は八幡神を東大寺の守護神として勧請した。その際、転害門から東大寺へ入った八幡神は諸神を手招きしたという。招く仕草が“手で物を掻く”ようだったことから「手掻門」の字が当てられたとされるの』である。『この神迎えの様子を再現した行事が「転害会(てがいえ)」』で、『現在は八幡神が鎮座する手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)の祭礼として、毎年』十月五日に『行われている』が、『「転害会の際、神輿は門前の』四『つの石の上に安置される。転害門には他にも門として必要のない施設が後に付加されているという。御旅所としての祭礼にかかわる機能に従ったと考えられる』とある。

『支那に所謂、「尸童(しどう)」又は「靈子(れいし)」に當るもの』不審。私は人よりは中国の伝奇・志怪小説はかなり読んでいるが、この二つの熟語は見慣れない。前者は如何にもありそうな感じには思ったが、調べてもこの熟語では中文文献には出ないようだ。あるにはあったが、それは、本邦の依坐(よりまし)の異名とする公的記載ばかりである。後者に至っては、中国のそれらでは寡聞にして聴いたことがないし、本邦でも私は知らぬ。孰れも中国由来とする根拠を御存じの方は是非とも御教授願いたい。]

『絞罪にせい!』 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    『絞罪にせい!』

 

『千八百三年の事だつた、』と私の年老いたる知人が話し出した、『アウステルリツ役の少し前、私が士官の勤務をしてゐた聯隊はモラヸアに舍營してゐた。

『我々は土地の人民を困らせたり苦しめたりしないやうにと嚴命された。さなくとも、その味方と云ふ事にはなつてゐながら、彼等は我々を猜疑の眼をもつて見てゐたからである。

 『私はもと母の農奴であつたイエゴルと呼ぶ從卒を連れてゐた。彼はおとなしい正直な男だつた。私は彼を子供の時から知つてゐて、友達扱ひにしてゐた。

『ところで或日、私の泊つてゐた家(うち)で罵る聲や叫ぶ聲泣く聲が聞えた。主婦(おかみさん)が二羽の牝鷄を盜まれたので、その罪を私の從卒に歸したのである。彼は自分でも辯解をし、私をも證人に呼んだ。……「なにこの男が、イエゴル・アフタモノフが盜みをしたんだつて!」私は主婦(おかみさん)にイエゴルの正直なことを說いて聞かせた、けれども彼女は私の言ふ事なんか耳にも入れなかつた。

『折りから街路(とほり)を行く馬の蹄の音が聞えた。司令長官が幕僚を率(ひき)ゐて來たのであつた。彼は並足で驅(か)つてゐた。がつしり肥つた人で、頭(かしら)を垂れて、胸には肩章(エポレツト)が垂れかかつてゐた。

『主婦(おかみさん)は彼を見ると、ばたばた驅け寄つて、その馬の前に跪(ひざまづ)き、そして髮を振り亂した取亂した姿で、私の從卒を指しながら、聲高(こわだか)に彼のことを訴へ出した。

『「大將樣」と彼女は叫んだ、「お殿樣! どうぞお調べ下さい! お助け下さい! どうぞお救ひ下さいませ! 此の兵隊が私のものを泥棒いたしました!』

『イエゴルは手に帽子を持つて、胸に突出すやうにさへして、番兵ででもあるやうに踵(くびす)をくつつけて、その家の戶口にすつくり立つた儘、一言(ひとこと)も口を利かなかつた! 大將の一行が街(まち)の眞中に立止つたのですつかり恐れ入つてしまつたものか、それとも身にふりかかつた災難に氣を失つてしまつたものか、何とも言へないが、かあいさうに、イエゴルは白墨(チヨオク)のやうに色を失つて、目をぱちくりさせて立つてゐた。

『司令長官は彼に落着きの無い氣味の惡い一瞥をくれて、怒つたやうに「さうなのか?」と呶鳴(どな)つた……けれどもイエゴルは石像のやうに突立つた儘、まるで笑つてゐるやうに齒をむき出してゐた! 傍(はた)から見たら笑つてゐるとしか思へなかつたらう!

『すると司令長官は「絞罪にせい!」と言放つて、馬に拍車を當てて步き出した、はじめは並足で、それから駈足で。一行はその後(あと)を追つた。ただ一人の副官が鞍の上から振り向いてイエゴルをちらと見た。

『命令に背(そむ)くことは出來ない……イエゴルは直ぐにつかまへられて執刑(おしおき)に引立てられた。

『そこで彼はもう人心地も無くなつて、二度程喘ぐやうに言つた、「ああ神樣! ああ神樣!」それから小聲で、「神樣こそ御存知だ、私ぢやない!」

『悲しさうに、悲しさうに彼は泣いた。私に別れを告げながら。私は絕望して叫んだ。「イエゴル! イエゴル! お前はどうして大將に何とも返事をしなかつたんだ?」

『「神樣が御存知です、私ちやありません!」と可哀さうな男は繰返して、しくしく泣いた。主婦(おかみさん)は恐しくなつて來た。彼女はこんな恐しい事にならうとは思ひも懸けなかつたのだ、そして自分も大聲で泣き出した。彼女は人々に赦免(ゆるし)を乞廻(こひまは)つて、牝鷄が見附かつた事を誓つて、事件の顚末(いきさつ)を說明しようとした……

『勿論それは何にもならなかつた。何しろ君、戰時の事だ! それに命令だ! 主婦(おかみさん)はますます大聲に泣いた。

『イエゴルは僧侶に最後の祈をしてもらふと、私の方に振向いた。

『「旦那樣、主婦(おかみさん)に言つて下さい。何も心を痛めることはないつて……私は主婦(おかみさん)を惡く思つちやをりませんから」』

 私の知人はこの彼の從卒の最後の言葉を繰返してかう呟いた、「あゝイエゴルシカ、かあいさうな奴、本當に聖者のやうな奴だつた!」そして淚は彼の皺の寄つた頰を傳はつた。

    一八七九年八月

 

アウステルリツツ役、一八○五年十月十二日に露墺の軍[やぶちゃん注:ロシア・オーストリア連合軍。]がナポレオンポに對して戰つた戰爭。】

モラヸア、墺太利領になつてゐる土地の名。】

[やぶちゃん注:「アウステルリツツ役」「アウステルリッツの戦い」(ロシア語:Битва под Аустерлицем/ドイツ語:Schlacht von Austerlitz/フランス語:Bataille d'Austerlitz)は一八〇五年にオーストリアがロシア・イギリス等と「第三次対仏大同盟」を結成、バイエルンへ侵攻したことに端を発する戦争で、十二月二日にオーストリア領(現在はチェコ領)モラヴィア(チェコ語:Morava(モラヴァ)/英語:Moravia:現在のチェコ共和国東部の地方名。この地方のチェコ語方言を話す人々は「モラヴィア人」と呼ばれ、チェコ人の中でも下位民族とされて差別されてきた歴史がある。この「主婦」もそうした一人として見るべきであろう。「アウステルリッツの戦い」のあった一八〇五年の戦役では、「ウルムの戦い」でフランス軍がオーストリア部隊を降伏させて、十一月十三日にウィーン入城を果たしたため、敗走したオーストリア皇帝フランツⅡ世が、ここモラヴィアへ後退し、ロシア皇帝アレクサンドルⅠ世率いるロシア軍と合流している。オーストリア領内であるが、この記述から、早々と友好国であるロシアがモラヴィアに駐屯していたことが知られる)のブルノ近郊の町アウステルリッツ(現在のスラフコフ・ウ・ブルナ(チェコ語:Slavkov u Brna))郊外で、ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte 一七六九年~一八二一年)率いるフランス軍が、ロシア・オーストリア連合軍を破った。

「肩章(エポレツト)」(フランス語:épaulette/英語:epaulette・epaulet)肩幅を誇張するための肩装飾。ヨーロッパで十六世紀に男女の衣服の袖付け際(ぎわ)に附けることが流行したが、後には軍服の肩章として、現行では一般のレイン・コートなどの肩飾りに多くみられる。]

自然 ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    自  然

 

 私は夢に高い丸天井(まるてんじやう)のついた地下の大廣間にゐた。あたりはあまねく地下の光に照らされてゐた。

 その廣間の眞中に、綠色のふうわりした衣(きぬ)を着(つ)けた威巖のある一人の婦人がすわつてゐた。頭を手で支(さゝ)へて、深い沈思に耽つてゐるやうであつた。

 私は直(す)ぐにこの婦人が『自然』そのものであると知つた。すると畏敬の念が心の奧底まで沁み渡つて、ぶるぶると身ぶるひがした。

 私は此のすわつてゐる人に近寄つて、恭しく身を屈(かゞ)めて、『おお私達の共通の母よ!』と叫んだ、『あなたは何をお考へになつてをります? 人類の未來の運命についてですか? それとも人類がどうしたら最高の完全や最大の幸福に達し得られるかと云ふことですか?』

 婦人はその黑い脅(おびやか)すやうな眼をおもむろに私に向けた。その脣は動いて、そして私は鐡の響のやうなよく徹(とほ)る聲を聞いた。

『私は蚤がその敵から一層容易に逃げられるやうに、その足の筋肉にもつと强い力を與へる方法を考へてゐる。攻擊と防禦との平衡(バランス)が破れてしまつた……元のやうに直さなくてはならない』

『何ですつて』と私はどもつて言つた、『あなたはそんな事を考へていらつしやるのですか? 然し私達人間はあなたの寵兒(ちようじ)ぢやありませんか?』

 婦人はかすかに眉を顰(ひそ)めた。『あらゆる生物は皆私の子供です』と彼女は言つた、『だから私は同じやうに皆の爲めに圖(はか)つてやりもし、また同じやうに皆を破滅させるもする』

『けれども善……理性……正義は……』と私はまた吃(ども)つた。

『それは人間の言ふ言葉だ』と鐡のやうな聲は答へた。『私は善も惡も知らない……理性なんぞ私の法則にはならない――そして正義とは何のことだ?――私はお前に生命(いのち)をやつた、私はそれをまたお前から取つて、他(ほか)の者にやる、人間にでも森にでも……何だつてかまやしない……だからお前もそれ迄は自分の事によく氣を附けて、私の邪魔などしなさるな!』

 私はまだ何か言ひ抗(あらが)はうとした……けれども地面は鈍い唸きを發して震動し出したので、私は目を覺ました。

    一八七九年八月

明日は! 明日は!  ツルゲエネフ(生田春月訳)

 

    明日は! 明日は!

 

 過ぎ去つた日のすべてはいかに空しく味氣なく徒(いたづ)らなものであらう! それはいかに僅かな痕跡を殘すのであらう! 今日から明日ヘと消えてしまふ月日と云ふものは、いかに無意味にいかに馬鹿らしものであらう!

 しかも人間は生きようとする。生命に執着して、その生に、その身に、來るべき日に、その一切の希望をかける……おお、いかに多くの幸福を人はその未來に期待するであらう!

 しかしその未來の日もまた過ぎ去つた日に異らぬとは、何故(なぜ)また人は考へないのだらう?

 彼はそれを考へもしない。考へる事を欲しないのだ。まことにそれはいい事である。

『明日は! 明日は!』と彼は自ら慰める、しかもこの『明日』が彼を墓場へ搬(はこ)んでしまふのだ。

 さて、一度墓へ入つてしまへぱ、人はおのづから、もはや考へなくなつてしまふ。

    一八七九年五月

 

[やぶちゃん注:標題を含め、エクスクラメーション・マークの後に一字空けがない箇所は、一字空けを施した。]

通草の花 すゞしろのや(伊良子清白)

 

 

通草の花

 

 

  夏のはじめ下鴨神社に詣でゝ

 

夏まだあさき下鴨の、

御手洗川の水澄みて、

糺の杜の下草に、

神代ながらの風ぞ吹く。

 

馬場の櫻も若葉して、

祭の車すぎにけむ、

跡こそ見えね氏人の、

葵かざすもなつかしく。

 

すめらみことの御使の、

駒を下りさせ給ひけむ、

朱の御門の見えがくれ、

藤浪松にかゝるなり。

 

舞殿(ぶでん)の柳糸のびて、

乙女の袖や招くらん。

紫うすき閉帳(へいてう)の、

錦垂れたり神の前。

 

かしは手うてばしんしんと、

茂れる森に谺して、

はるかのをちゆきこえくる、

振鈴(しんれい)の音幽かなり。

[やぶちゃん注:本詩篇の発表は四月三十日であるから、恐らく前年の明治三〇(一八九七)年の祇園祭の追想吟である。描かれてはいないが、或いは、第三篇目の秋山光子との思い出なのかも知れぬ。

「閉帳(へいてう)」のルビ「てう」はママ。

「をちゆ」「遠(を)ちゆ」(「ゆ」は上代の格助詞)で「遠くより(から)」の意。]

 

 

  熊野の浦

 

荒布刈るとて汐かづく、

少女もつねのをとめにて、

すがた優しく匂へるを、

海松かと髮のみだれては、

かざるねがひもなかるらむ。

世のなりはひはさまさまに、

おのがこゝろのまゝながら、

かゝる業しもならひては、

藻鹽のけぶりのぼるまも、

やすきおもひはなきものを。

 

熊野の浦の八鬼山の、

麓の海は浪荒く、

棚なし小舟漕ぎいでゝ、

月見るほかに春秋の、

花も紅葉もあらざらん。

 

都こひしきほとゝぎす、

東雲かけてなくものを、

遠くはなれてさすらへば、

み墓にしげる夏草も、

露のやどりとなりつらむ。

 

ゆるせわが背子ながきみに、

おくれまつりし夕べより、

女の操まもれども、

勇魚吼えよるこの浦の、

海士の手業の馴れざれば。

 

[やぶちゃん注:物語風の恐らくは架空の少女の哀切な物語詩であるが、そのロケーションを東にずらせば、次の伊勢湾であり、そこに次篇の実在の少女で伊良子清白が妹のように可愛がった秋山光子が登場するというのは、明らかな確信犯である。ちょっと憎くなった。

「荒布」「あらめ」。不等毛植物門褐藻綱コンブ目レッソニア科 Lessoniaceaeアラメ属アラメ Eisenia bicyclis。私の「大和本草卷之八 草之四 海藻類 海帶(アラメ)」を見られたい。

「海松」「みる」。緑藻植物門アオサ藻綱イワズタ目ミル科ミル属ミル Codium fragile。万葉以来と同様、ここは単に藻苅りに「見る」を掛けた。

「八鬼山」既出既注であるが、再掲しておくと、「やきやま」と読み、現在の三重県尾鷲市九鬼町(くきちょう)(グーグル・マップ・データ)にある六百四十七メートルの山である。熊野古道伊勢路の途中にある。]

 

 

  都 の 錦

 

 秋山光子ぬしのこたび高等女學校を卒業して鄕里
 安濃津にかへり給ふをおくるとてよめるうた。

[やぶちゃん注:「秋山光子」不詳。

「安濃津」「あのつ」と読み、三重県津市の古代以来の古称。

「高等女學校を卒業」京都府高等女学校か。当時の学制では数え十歳以上で入学で基本は六年制であったから、満十五歳以上で卒業となる。伊良子清白は、この時、京都医学校在学中で満二十一。]

 

磯菜摘むてふ伊勢島や、

逸志の浦の朝凪に、

眞珠を拾ひたまふとも、

このうれしさをいかでさは、

やすくは忘れたまふべき。

 

柳のしなひ花のこび、

松のみさをの色深く、

都のにしきおりはへて、

けふこそきみが故鄕に、

着飾りたまふ生日なれ。

 

三年のまえよゆくりなく、

交際(あそび)のにはに君とあい、

故鄕人ときゝしとき、

ひき給ひたる琴の音の、

わきてそゞろにひゞきしが。

 

たらちの君はわが父と、

親しみませし中なれば、

をさなあそびのたはぶれに、

わが家の椎の木陰にて、

二人木の實をひろひしを。

 

おなじ旅なる都にて、

逢ふもえにしか緣なる、

はらからとしもおもふまで、

こゝろつたなきわれをさへ、

君はたよりとたのみつゝ。

 

かたみに物をうちあけて、

いかにせばやと尋ねあひ、

はかりしこともありつるを、

今日しも君を送りては、

たとへがたなのおもひ哉。

 

さはいへ速く足乳根の、

門邊にたちてまちまさん。

とく行きませや故鄕に、

都のにしきかざりなば、

きみならずとも榮(はえ)あらん。

 

靑柳なびく鴨川の、

岸まできみを送りきて、

大日枝の山をながむれば、

霞こめたる春の日に、

雁もみやこを去ぬるなり。

[やぶちゃん注:「逸志の浦」「いちしのうら」。「一志(いちし)の浦」。一志郡は現在の津市の一部と松阪市の一部を含む当時の旧郡(古くは「いし」と読んだ)。東部分で伊勢湾に接する。

「生日」「いくひ」。吉日。よき日。

「故鄕人」「をさなあそびのたはぶれに」「わが家の椎の木陰にて」「二人木の實をひろひしを」。伊良子清白(暉造(てるぞう))は生まれは現在の鳥取県鳥取市河原町曳田(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であるが、この場合の「故鄕」は「故山」と同じく、生地以外に「嘗つて(特に若い頃に)長く住みなれた土地」の意で、清白は明治二十一年十一歳の時、父政治(まさはる)が三重県津市の旧下部田、現在の栄町(県庁前公園附近)辺りに家族で転居して医院を開業し、清白は津市立立誠(しっせい)尋常小学校(現在の津市立南立誠小学校)に転校、翌年、津市立養正小学校高等科に入学して一年を終了後、私立四州学館に入学、その翌明治二三(一八九〇)年四月、三重県尋常中学校(現在の三重県立津高等学校)に進学した(この年で満十三歳)。その後、明治二七(一八九四)年満十七で単身、京都に出、私立医学予備校に通い、翌年四月、京都医学校入学の運びとなったのである。

「はらからとしもおもふまで」「今日まで兄妹とのような感じで年来思うてきた」といった感じか。二人の年齢差は六つ以下であるから、腑に落ちる謂いである。

「大日枝の山」比叡山を指す古称。]

 

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年四月二十日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。標題の「通草」は「あけび」でキンポウゲ目アケビ科 Lardizabaloideae 亜科 Lardizabaleae 連アケビ属 アケビ Akebia quinata のことであるが、詩篇本文には全く読み込まれていない点で特異である。アケビは雌雄同株の雌雄異花で、春(四~五月)に総状花序の淡紫色の花をつけ、花序の先の方に雄花が、基部に雌花が開く。花被(かひ)は三枚(ひら)で、雄花には六本の肉質の雄蕊と、退化した心皮があり、雌花には六~九枚の心皮があり、雄蕊は退化して小さくなっている。

2019/06/01

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(27) 「神々降臨ノ跡」(3)

 

《原文》

 諏訪白山熊野八幡等ノ神々ハ、假ニ最初ヨリ此國ノ神ニテオハセリトスルモ、或ハ都ニ上リ或ハ邊土ニ勸請セラレタマヒ、移動ノ特ニ烈シカリシ神々ナリ。【繪馬】併シナガラ神馬ノ入用ノ必ズシモ此旅行ノ爲ニ非ザリシコトハ、昔ヨリ如何ナル社ニモ神馬ヲ進獻シ、後世ニ及ビテハ其代リトシテ繪馬ヲ奉納セシ一事ヲ見ルモ明白ナリ〔夏山雜談一〕。【道祖神】道祖神(サヘノカミ)ノ要害ヲ占據シ往來ノ人ト鬼トニ對シテ無形ノ關ヲ守ルノ職ヲ以テスルモ、猶板ニ描キタル繪馬ヲ大切ノ物ニシタマヒシコトハ、古キ民話ニモ見エタリ〔今昔物語十三等〕。又所謂國津神ノ部類ニ屬シタマヒ、終始一定ノ土地トノ緣故アル神々ニモ、尙且ツ馬蹄石ノ傳說ハアルナリ。【鹽塚】例ヘバ阿蘇ノ宮地町ノ鹽塚ト云フ處ニハ、田ノ畔ニ馬蹄石アリテ之ヲ阿蘇大明神ノ神馬ノ跡ト傳ヘ〔肥後國志〕、阿波美馬郡端山(ハヾヤマ)村大字西端山ノ馬ケ岡ニハ、龍馬石ト馬蹄石トノ二箇アリテ、之ヲ天日鷲命ノ遺址ト稱シ〔燈下錄〕、出雲八束郡加賀村ノ海ニ臨メル巖窟ノ口ニハ、石上ニ馬ノ足跡ト馬槽(ウマフネ)ノ跡トアリテ、【龍神】之ヲ出雲大神ガ龍神ニ乘リタマヒシ處ト傳ヘタリ〔出雲國懷橘談〕。茲ニ出雲大神ト謂フハ即チ古風土記ノ佐太大神、後ニ窟戶大神ト申上ゲシ神ナランガ、龍神ニ乘ルトアリテ馬ノ足跡ノ殘レルハ注意スべキ事實ナリ。東國ニテハ上野榛名ノ山中ニ馬蹄石アリテ榛名大明神ノ神馬ニ屬スト云ヘリ〔上野國誌〕。此神ハ又徒(カチ)ニテモ往來シタマヘリト見エテ、社ノ寶物ノ中ニ神跡石ト云フ石アリ。【御崎神】陸前本吉郡唐桑村大字唐桑ノ濱ニ在ル馬蹄石ハ、此村ノ御崎神ノ留メ置キタマフ所ナリ。遠州御前崎ノ駒形大明神ト同ジク海難救護ノ神ニシテ、船方等海上風波ノ中ニ於テ祈請スルトキハ、往々ニシテ白馬背上ノ御姿ヲ仰ギ見ルコトヲ得タリキト云フ〔奧羽觀迹聞老志〕。陸奧十和田湖邊ノ路傍ノ石ニモ馬蹄ノ跡アルモノアリ。羽後八郞湖ノ神ナル八郞主ノ乘馬ノ跡ナリト傳フ〔三千里〕。此神ハホボ人天ノ境界ニ立ツ者ニシテ、或ハ自分ノ後ニ言ハントスル御靈ノ階級ニ屬シ、【荒人神】近世ニ所謂荒人神ノ一種ナランカトモ思ハルヽ由アルナリ。

 

《訓読》

 諏訪・白山・熊野・八幡(はちまん)等の神々は、假に最初より此の國の神にておはせりとするも、或いは都に上り、或いは邊土に勸請(かんじやう)せられたまひ、移動の特に烈しかりし神々なり。【繪馬】併しながら、神馬の入用の、必ずしも、此の旅行の爲めに非ざりしことは、昔より如何なる社にも神馬を進獻し、後世に及びては、其の代りとして、繪馬を奉納せし一事(いちじ)を見るも明白なり〔「夏山雜談」一〕。【道祖神(さへのかみ)】道祖神(さへのかみ)の、要害を占據(せんきよ)し、往來の人と鬼とに對して、無形の關(せき)を守るの職を以つてするも、猶ほ、板に描きたる繪馬を大切の物にしたまひしことは、古き民話にも見えたり〔「今昔物語」十三等〕。又、所謂、國津神の部類に屬したまひ、終始、一定の土地との緣故ある神々にも、尙ほ且つ、馬蹄石の傳說は、あるなり。【鹽塚】例へば、阿蘇の宮地町の鹽塚(しほづか)と云ふ處には、田の畔(あぜ)に馬蹄石ありて、之れを「阿蘇大明神の神馬の跡」と傳へ〔「肥後國志」〕、阿波美馬(みま)郡端山村(はゞやまそん)大字西端山の馬ケ岡には、龍馬石と馬蹄石との、二箇ありて、之れを「天日鷲命(あめのひわしのみこと)の遺址(いし)」と稱し〔「燈下錄」〕、出雲八束(やつか)郡加賀(かか)村の海に臨める巖窟の口(くち)には、石上に馬の足跡と馬槽(うまふね)の跡とありて、【龍神】之れを「出雲大神(いづもおほかみ)が龍神に乘りたまひし處」と傳へたり〔「出雲國懷橘談(いづもくわいきつだん)」〕。茲(ここ)に出雲大神と謂ふは、即ち、「古風土記」の佐太大神(さだおほかみ)、後に窟戶大神(いはとおほかみ)と申し上げし神ならんが、龍神に乘る、とありて、馬の足跡の殘れるは、注意すべき事實なり。東國にては、上野(かうづけ)榛名(はるな)の山中に馬蹄石ありて「榛名大明神の神馬に屬す」と云へり〔「上野國誌」〕。此の神は又、徒(かち)にても往來したまへりと見えて、社の寶物の中に「神跡石」と云ふ石あり。【御崎神(おさきがみ)】陸前本吉郡唐桑村大字唐桑の濱に在る馬蹄石は、此の村の御崎神の留め置きたまふ所なり。遠州御前崎の駒形大明神と同じく、海難救護の神にして、船方(ふなかた)等(ら)、海上、風波の中に於いて、祈請(きしゃう)するときは、往々にして、白馬背上の御姿を仰ぎ見ることを得たりき、と云ふ〔「奧羽觀迹聞老志」〕。陸奧十和田湖邊の路傍の石にも馬蹄の跡あるもの、あり。「羽後八郞湖の神なる八郞主の乘馬の跡なり」と傳ふ〔「三千里」〕。此の神は、ほぼ人天(じんてん)の境界に立つ者にして、或いは、自分の後に言はんとする御靈(ごりやう)の階級に屬し、【荒人神(あらひとがみ)】近世に所謂、「荒人神」の一種ならんか、とも思はるゝ由(よし)あるなり。

[やぶちゃん注:「占據(せんきよ)」特定の場所を占有して他人を寄せつけないこと。

「無形の關(せき)を守る」目に見えない関所、所謂、結界を作ることを言っている。

『「今昔物語」十三』これは「今昔物語集」巻第十三の「天王寺僧道公誦法花救道祖語第三十四」(天王寺(てんわうじ)の僧道公(だうこう)、法花(ほふくゑ)を誦(じゆ)して道祖を救ふ語(こと)第三十四」)を指す(但し、これは先行する種本があり、「大日本國法華經驗記」(略した「法華驗記(ほつけげんき)」の通称の方が知られる。序文によれば、長久年間(一〇四〇年~一〇四四年)に首楞厳院(しゅりょうごんいん:比叡山の横川中堂)の鎮源が書いたもの)の「下」の「第百廿八」の「紀伊國美奈倍郡道祖神」(紀伊國美奈倍(みなべ)の郡(こほり)の道祖神(さへのかみ)」がそれである)。「今昔物語集」は白河法皇や鳥羽法皇による院政期(前者ならば嘉保三(一〇九六)年以降、後者ならば久寿二(一一五五)年以降となる)に成立したものと推定されている。以下に小学館「日本古典文学全集」第二十一巻を参考にしつつ、漢字を恣意的に正字化し、読み易さを第一に読みの一部を送り仮名に出して示した。

   *

 今は昔、天王寺に住む僧、有りけり。名をば、道公と云ふ。年來(としごろ)、「法花經」を讀誦して、佛道を修行す。常に熊野に詣でて、安居(あんご)[やぶちゃん注:夏安居(げあんご)。元はインドの僧伽(そうが:僧集団)に於いて、天候の悪い雨季の間、行脚托鉢をやめて阿蘭若(あらんにゃ:寺院)の中で座禅修学するのを「安居」又は「雨安居(うあんご)」「夏安居(げあんご)」と言った。これは仏教が伝播した国々に於いても雨季の有無にかかわらず、夏の暑い時機に同名で以って行われ、多くは陰暦四月十五日から七月十五日までの九十日を当た。]を勤む。

 而るに、熊野より出でて本(もと)の寺に返る間、紀伊の國の美奈部郡[やぶちゃん注:ママ。「法華驗記」の本文の『美奈倍鄕(みなべのさと)』や標題表記を以って郡名に誤ったもの。「和名類聚鈔」に『紀伊國日高郡南部鄕』とするから、現在の和歌山県日高郡みなべ町(ちょう)である。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の海邊を行く程に、日、暮れぬ。

 然(しか)れば、其の所に、大きなる樹の本(もと)に宿りぬ。

 夜半許りの程に、馬(むま)に乘れる人、二、三十騎許り、來たりて、此の樹の邊(ほとり)に有り。

『何(いか)なる人ならむ。』

と思ふ程に、一(ひとり)の人の云はく、

「樹(うゑき)の本(もと)の翁(おきな)は候(さむら)ふか。」

と。

 此の樹(うゑき)の本(もと)[やぶちゃん注:木の下。根本附近。]に、答へて云はく、

「翁、候ふ。」

と。

 道公、此れを聞きて、驚き怪(あやし)むで、

『此の樹(うゑき)の本には人の有りけるか。』

と思ふに、亦、馬に乘れる人の云はく、

「速かに罷り出でて、御共(おほむとも)に候へ。」

と。

 亦、樹の本に云はく、

「今夜(こよひ)は參るべからず。其の故は、駒(におひむま)の足、折れ損じて、乘るに能はざれば、明日(あす)、駒の足を䟽(つくろ)ひ[やぶちゃん注:治して。]、亦[やぶちゃん注:或いは。]、他の馬をまれ[やぶちゃん注:他の馬にもせよ。別の馬でも。]、求めて參るべきなり。年(とし)罷(まか)り老いて、行步(ぎやうぶ)に叶(かな)はず。」

と。

 馬に乘れる人々、此れを聞きて、皆、打ち過ぬ、と聞く。

 夜、暛(あ)けぬれば、道公、此の事を極めて怪しび恐れて、樹の本を廻(めぐ)り見るに、惣(すべ)て、人、無し。

 只、道祖(さへ)の神の形を造りたる、有り。其の形、舊(ふる)く朽ちて、多くの年を經たりと見ゆ。男(をとこ)の形のみ有りて、女の形は無し[やぶちゃん注:豊饒の信仰対象でもある道祖神は、多くが双体で、人型の男女、或いは、より直接的に男根と女陰を象ることが多い。ここはその後者が欠損してなかったのであろう。]。

 前に、板に書きたる繪馬、有り。足の所、破れたり。

 道公、此れを見て、

『夜(よ)るは、此の道祖の云ひけるなりけり。』[やぶちゃん注:「昨夜は、さても、この道祖神が言葉を発したのであったのだったなぁ。」。]

と思ふに、彌(いよい)よ奇異に思ひて、其の繪馬の足の所の破れたるを、糸を以つて綴りて、本(もと)のごとく、置きつ。

 道公、

『此の事を、今夜(こよひ)、吉(よ)く見む。』

と思ひて、其の日、留まりて、尙ほ、樹(うゑき)の本に有り。

 夜半許りに、夜前(やぜん)のごとく、多くの馬(むま)に乘れる人、來りぬ。

 道祖(さへのかみ)、亦、馬に乘りて出でて、共に行きぬ。

 曉に成る程に、道祖、返り來たりぬと聞く程に[やぶちゃん注:帰ってきた気配がしたと思うと。]、年老たる翁、來たれり。誰人(たれひと)と知らず、道公に向ひて、拜して云はく、

「聖人(しやうにん)の昨日(きのふ)、駒(にほひむま)の足を療治し給へるに依りて、翁、此の公事(くじ)を勤めつ。此の恩、報じ難し。我れは、此れ、此の樹(うゑき)の下(もと)の道祖(さへのかみ)、此れ、なり。此の多くの馬(むま)に乘れる人は、行疫神(えやみのかみ)に在(まし)ます。國の内を廻(めぐ)る時に、必ず、翁を以つて前使(ぜんし)とす。若(も)し、其れに共奉(ぐぶ)せねば、笞(しもと)を以つて打ち、言(こと)を以つて罵る。此の苦しび、實(まこと)に堪へ難し。然(さ)れば、今、此の下劣の神形(しんぎやう)を棄てて[やぶちゃん注:この自己卑下によって、やはり直接的なファルスの造形であったことが判る。]、速かに、上品(じやうぼむ)の功德(くどく)の身(み)[やぶちゃん注:ここでは狭義の往生三段階の最上のそれを指すのではなく、単に、極楽往生出来る功徳を積んだに相応しい姿の意。]を得むと思ふ。其れ、聖人(しやうにん)の御力(おほむちから)に依るべし。」

と。

 道公、答へて云はく、

「宣(のたま)ふ所、妙なりと云へども、此れ、我が力に、及ばず。」

と。

 道祖、亦、云はく、

「聖人(しやうにん)、此の樹(うゑき)の下(もと)に、今(いま)三日、留まりて、『法花經(ほふくゑきやう)』を誦(じゆ)し給はむを聞かば、我れ、法花(ほふくゑ)の力(ちから)に依りて、忽ちに苦しびの身を棄てて、樂しびの所に生れむ。」

と云ひて、搔き消つ樣(やう)に失せぬ。

 道公、道祖の言に隨ひて、三日三夜(みつかみよ)、其の所に居りて、心を至して、「法花經」を誦す。

 第四日(だいしにち)に至りて、前(さき)の翁(おき)な、來たれり。道公を禮して云はく、

「我れ、聖人の慈悲に依りて、今、既に此の身を棄てて、貴(たふと)き身を得むとす。所謂(いはゆ)る補陀落山に生(むま)れて、觀音の眷屬と成りて、菩薩の位に昇らむ。此れ、偏へに『法花』を聞き奉つる故なり。聖人、若し、其の虛實(こじち)[やぶちゃん注:真偽。]を知らむと思ひ給はば、草木(さうもく)の枝を以つて、小き柴の船を造りて、我が木像を乘せて、海の上に浮べて、其の作法を見給ふべし[やぶちゃん注:その小舟がどうなるかを御覧ぜられたい。]。」

と云ひて、搔き消つ樣に失せぬ。

 其の後(の)ち、道公、道祖(さへのかみ)の言(こと)に隨ひて、忽ちに柴の船を造りて、此の道祖神の像を乘せて、海邊に行きて、此れを海の上に放ち浮かぶ。

 其の時に、風、立たず、波、動かずして、柴の船、南を指して、走り去りぬ。

 道公、此れを見て、柴船の見えず成るまで、泣々(なくな)く禮拜して返りぬ。

 亦、其の鄕(さと)に年老たる人、有り。

 其の人の夢に、此の樹(うゑき)の下(もと)の道祖(さへのかみ)、菩薩の形と成りて、光を放ちて、照らし耀(かかや)きて、音樂(おむがく)を發(おこ)して、南を指して、遙かに飛び昇りぬ、と見けり。

 道公、此の事を深く信じて、本寺に返りて、彌(いよい)よ「法花經」を誦する事、愚かならず。

 道公が語るを聞きて、人、貴(たふと)びけり、となむ、語り傳へたるとや。

   *

最後の「亦、其の鄕(さと)に年老たる人、有り」から「南を指して、遙かに飛び昇りぬ、と見けり」までは、筆者が駄目押しで読者に真実性を付与するために挿入した話で、道公がそれを聞いて、「此の事を深く信じ」たのではない。道公は翁の言った極楽往生を柴船の仕儀から確信したのであって、そんな夢は関係がない。私はこの取って附けた夢の駄目押しは全く以って不要と存ずる。

「阿蘇の宮地町の鹽塚(しほづか)」現在の熊本県阿蘇市一の宮町(まち)宮地はここ(グーグル・マップ・データ)。北部中央にかの阿蘇神社が鎮座する。サイト「NAVITIME」によって宮地地区内のここに「塩塚」という地名が現存することは判った(熊本県立阿蘇中央高等学校阿蘇清峰校舎の南方直近)。但し、ネットのフレーズ検索で「石」を加えて見たが、全くヒットしないので、ここに「馬蹄石」があるかどうか、それが「阿蘇大明神の神馬の跡」と今に伝承されているかどうかは、甚だ危い感じがした。グーグル・マップ・データの航空写真で見ると、南半分は宅地化されている。北半分は雑木林及び畑地と見えるから、もしかすると、この部分に何かが残っている可能性はあるかとも思ったが、「塚」が気になるので調べたところ、やはりそうだ! ここは柳田國男の嫌いな古墳だったのだ! しかし、勇んでサイト「阿蘇ペディア」で調べたところが、「塩塚古墳」のページに『阿蘇市一の宮町塩塚の水田にあった古墳』(太字下線やぶちゃん)であったが、昭和五五(一九八〇)年に消滅したとあった。『直後に現地と出土品について調査され、馬具(轡(くつわ)』一『組、雲珠(うず)』一、『杏葉(ぎょうよう)』一)、『鉄矛』一、『鉄鏃』十四『本以上、玉類(管玉』四、『勾玉』一、『水晶球』一『)須恵器などが出土し』たとあり、『墳形は、直径』二十五メートル『の円墳で、主体部は扁平な安山岩の割石で作られた横穴式石室であったと推定されて』おり、『築造年代は』五『世紀後半から』六『世紀前半、中通古墳群の最南に位置してい』たとある(リンク先は「阿蘇ペディア」のそれ)。もう、間違いない! この古墳こそ「阿蘇大明神の神馬の跡」とされる「馬蹄石」があった「塚」なのだ! この出土品の頭に出るのは、馬具である「轡(くつわ)」の他、やはり馬具の「雲珠(うず)」(本邦で上古時代の飾り馬、平安時代以後の唐鞍 (からくら) の尻繋 (しりがい) の辻金具(革紐が交差する部分につける金具)で、上古時代のものには玉 () 形あるいは鈴形など金銅製のもののほか、鉄地金銅張りのものもある。名称は「うず高い金物」の意味でつけられた)や「杏葉(ぎょうきょう)」(唐鞍の面繋(おもがい)・胸繋(むながい)・尻繋に附ける金属製又は革製の装飾で、名称は形が杏(あんず)の葉に似ていることに由来する)だからだ!

「阿波美馬(みま)郡端山(はゞやま)村大字西端山の馬ケ岡」徳島県美馬郡の旧端山村(はばやまそん)。現在の美馬郡つるぎ町貞光の南で、この辺り。「馬ケ岡」や「龍馬石」「馬蹄石」で検索するうち、個人ブログ「awa-otoko’s blog」の「吉良の御所 天日鷲命御馬を逗めさせ給ふ御古跡なり」によって、つるぎ町貞光吉良にある忌部神社(御所神社)にある(あった)ことが判明した。リンク先には冒頭に以下の引用がある(出典明記なし)。――『美馬郡西端山に吉良の御所と云ふ所あり、上世に天日鷲命御馬を逗めさせ給ふ御古跡なりと云伝ふ、此の所に鈴生の梅(子重紅也)実なしの藤あり、馬が岡とて大なる龍馬石馬蹄石あり、又麻釜と云所二所あり、さて御魂所とて山上に二ヶ所一丈四方計の平石を敷て其のめぐりを大石を立連ねて囲みあり、又衣織の窟とて谷を隔て向かふなる厳牆の中ほどに広みたる窟あり、其の内にて忌部の神の織機を織らせ給ひしと云へり』。『因云、大古忌部御祭事に馬を美しう粧ひて奉りしゆへに美馬郡と名づけ呼ぶとぞ』――以下、『美馬郡貞光町西端山吉良の「御所神社」こと「忌部大神宮」です』。『現在の勢見山忌部神社の摂社となっております。御祭神は天日鷲命』とあるので、ここに間違いない。『当地に蟠踞した忌部氏の後裔氏族、三木(みつき)氏が奉斎したもので、同氏が式内名神大社の忌部神社を分祀したものではないかと考えられているそうです』。『昔は美馬郡の名の由来』地『であるとも書かれています』とある。』以下で『境内の石碑の文』が電子化されてある。――『天日鷲命は、穀、麻を植え、製麻、製織の諸事を創始され、特に天照大御神が天岩戸にお隠れになった時、白和幣(しらにぎて)を作り』、『神々と共に祈られ』、『天岩戸開きに大きな功績をあげられた』。『その子孫は忌部氏と称し、中臣氏と共に国家祭祀の礼典を司さどり、忌部氏は全国各地にあって、社会教化と神道の宣揚、文化の向上、産業の発展に貢献していったのである』。『阿波忌部氏は』、「古語拾遺」に『よると、神武天皇の代に天富命が、その子孫を率いて、阿波に下り』、『穀・麻の種を植え、此の郷土を開拓し』、『代々大嘗祭(天皇即位の大礼)に穀・麻を織った荒妙御衣(あらたえみそ)を貢上した』。『このように、天日鷲命を奉祭する忌部族即ち徳島県民の祖神を祭り、古来阿波の国の総鎮守の神社として、朝野の尊崇篤く、平安時代の延喜式内社には官幣大社に列せられ、名神祭の班幣に預る名神大社となり 、西国随一の格式の大社として四国一ノ宮と称せられた』。『また、忌部神社の法楽として、法福寺が建立され、大社の東西にも東福寺、西福寺が建てられた。そして、安和二(九六九)年には、摂社末社に十八坊を定め、後、寺の一字に福をつけて忌部別当一八坊とした』『円福寺、浄福寺、悠福寺、金福寺、惣福寺、神福寺、冥福寺、地福寺、善福 寺、安福寺、万福寺、福王寺、長福寺、福田寺、福満寺に法福寺、東福寺、西福寺である』。『当神社は、中世以降の兵火、あるいは弾圧による社領の没収、御供料の廃絶により』、『神社の呼称の改名することとなり、久しく社地の所在が不明となったため、社地の論争の原因となった』。『明治政府が発足し、祭政一致の制を復し』、『神社を国家の宗祀としたため、明治四(一八七一)年、忌部神社は国幣中社に列せられた。各地から社地の名のり出があり、明治七年十二月、麻植郡山崎村が社地とされたが、明治十四年一月には当美馬郡西端山村吉良の御所平が忌部神社の所在地と定められ 、祭典が行われた』。『しかし、論争が続くなか、明治十八年十一月名東郡富田浦町(現徳島市二軒屋町)に社地が変更され、吉良の旧跡は摂社として、そのまま保持すべしとされた』。『今度、徳島市へ遷宮百年を迎え、旧跡より東に、二〇〇メートルの現地に遷宮して、幣殿、拝殿を新築したものである』――とあるので、有意な位置移動ではないから、問題はない。問題なのは、ブログ主がここを訪れて写真を撮っておられるものの、「馬ケ岡」「龍馬石」「馬蹄石」と名指したものはない点である。但し、一番下から二枚目のそれはそれらしくは見えるものの、サイズが小さいため、確認不能である。現存するかしないか、それだけの情報でも結構であるので、どなたか、お教え願いたい。

「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」ウィキの「天日鷲命」によれば、「日本書紀」や「古語拾遺」に登場し、『阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神』とある。『麻植神(おえのかみ)、忌部神(いんべのかみ)とも』、『また』、『高魂命または神魂命の裔神の天日鷲翔矢命(あめのひわしかけるやのみこと)や天加奈止美命』(あめのかなとびのみこと)『とも』。『神話で知られているのは』、『天照大神が天岩戸に入られたとき、岩戸の前で神々の踊りが始まり、天日鷲神が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まった。多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥』『を表す鳥といって喜ばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた。という内容である』。『後に平田篤胤は、神武天皇の戦の勝利に貢献した鳥と同一だと言及している』。「日本書紀」では、『天の岩戸の一書に「粟(あわ)の国の忌部の遠祖天日鷲命の作る木綿 (ゆう)を用い」とあり、「古語拾遺」によれば、『天日鷲神は太玉命』(ふとだまのみこと)『に従う四柱の神のうちの』一『柱である。やはり、天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされる。そのため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神となる。また、天富命』(命(あめのとみのみこと)『は天日鷲神の孫を率いて阿波の国へと行き、穀・麻を植えた』とあるという。『また』、『天日鷲神は一般にお酉様として知られ、豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神として信仰されている』。『忌部神社や鷲神社などに祀られている。忌部神社は天皇即位の大嘗祭に際して、阿波忌部の末裔とされる三木家が育てた麻を元に、麁服(あらたえ)』(阿波忌部直系氏人の御殿人(みあらかんど)が、天皇が即位後に初めて行う践祚大嘗祭の時にのみ調製して調進(供納)する大麻の織物のこと)『を調進する神社である』とある。

「出雲八束(やつか)郡加賀(かか)村の海に臨める巖窟」これは島根県松江市島根町加賀にある「加賀(かか)の潜戸(くけど)」である(「加賀」の清音は現在の行政上の地名でも同じ)。松江市北部の旧島根町に属した日本海に面する潜戸鼻(くけどのはな)の先端部にある。ここ(国土地理院図)。ウィキの「加賀の潜戸」によれば、『佐太大神(佐太神社の祭神)の出生地といわれる』とある。『潜戸とは洞窟のことであり、安山岩、凝灰岩の岩盤が地殻変動に伴って断層や亀裂を発生させ、その割れ目に沿って日本海の荒波や強風が岩盤を長い歳月をかけて浸食していったことによって形成されたものである。海寄りの新潜戸と陸寄りの旧潜戸があり、自然的な特徴だけでなく、文化的価値観も全く異なるのが特徴である』とし、新潜戸(しんくけど)は三つの入り口があり、『中がトンネルのように連結された』全長二百メートルにも及ぶ『海中洞窟となっている。洞内は広』い。この新潜戸は「出雲国風土記」によれば、『佐太大神の生誕地と記されている。そのため、古くは加賀神社が鎮座し、神域となっていた。現在でもこの洞窟の中に旧社地を示す祠が設けられている。洞門は大神誕生の際、母神が金の矢を射通して作ったと語り継がれている』。一方、旧潜戸(きゅうくけど)の方は幅五・五メートルというかなり狭い入口の洞穴であるものの、『内部が広大なのが特徴で』、ハーンが述べる如く、『中には仏になった子供らが親を慕い小石を積み上げたと伝えられる賽の河原があり、独特の無常観を呈する。堤防から内部へ潜入するための遊歩道、トンネルが設けられている』とある。島根半島四十二浦巡り再発見研究会公式サイト「島根半島四十二浦巡り」内の「加賀浦」も詳しく必見である。ここの地図を見て頂ければ、陸路での訪問が極めて困難であることが判る。現在でも潜戸観光遊覧船による訪問が唯一の手段であるらしい。私が何時か行って見たい場所である。それは小泉八雲が訪れた場所であるからである。私の電子化注『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第九章 子供の精靈の――潜戸』(一)(二)(三)(四)(五)(六)(七)(八)をどうぞ! 「知られぬ日本の面影」(Glimpses of Unfamiliar Japan)は小泉八雲(一八五〇年六月二十七日~明治三七(一九〇四)年九月二十六日:ギリシャ生まれ)が、まだパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)であった時、そして来日(明治二三(一八九〇)年)して初めて著した作品集で、明治二七(一八九四)年の出版である。

「馬槽(うまふね)」飼い葉桶。但し、私は「加賀の潜戸」について、「馬の足跡」「馬槽」「佐太大神(さだおほかみ)」「窟戶大神(いはとおほかみ)」島根県松江市鹿島町佐陀宮内の佐太神社の主祭神。所謂、猿田彦命(さるたひこのみこと)の異名とする。同神社では「佐太御子大神(さだみこのおおかみ)」とし、母は神魂命(かみむすびのみこと)の子である枳佐加比売命(きさかひ(い)ひめのみこと)であり、加賀の潜戸で生まれた、と「出雲国風土記」(本「古風土記」はそれを指す)に載る。

「龍神に乘る、とありて、馬の足跡の殘れるは、注意すべき事實なり」というより、私は馬の足跡が後付けされただけのことだと思うのだが?

『榛名(はるな)の山中に馬蹄石ありて「榛名大明神の神馬に屬す」』と云へり〔「上野國誌」〕。此の神は又、徒(かち)にても往來したまへりと見えて、社の寶物の中に「神跡石」と云ふ石あり』。国立国会図書館デジタルコレクションの「上野国」の榛名神社の記載のここに、『寶物 神跡石【太神の足痕ある石なり】』とある。前の「馬蹄石」はその前だが、ただ「境地」のところに「馬蹄石」と出るだけである(境地は榛名山の結界地の意か)。現在も宝物としてあるのかないのかは判らぬ。まあ、あるんだろう。

「御崎神(おさきがみ)」当初は「ちくま文庫」版全集のルビを採って「みさきがみ」とやった。それは「おさきがみ」と読むと、それこそ後で柳田國男が言っている通り、「御靈(ごりやう)」に属するかなりヤバい神を限定する場合が多いので、ここでは明らかに岬の尖端に宿る海から来た神霊で「海難救護の神」であるから、避けたいと思ったからでもある。しかし、次注の通り、これはやはり「おさきがみ」と読まないと、後の地名と齟齬することが判明したので、それに従った。

「陸前本吉郡唐桑村大字唐桑の濱に在る馬蹄石」宮城県気仙沼市のこの半島全体が唐桑地区であるが、「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「御崎明神」に、『御崎は唐桑半島の突端で、御崎明神が、白鯨を神使として白馬に乗って海上から下った場所。影向石と馬蹄石がある。明神はワラビをヨリシロとし、菅の莚に坐したので、村ではこの二つが禁忌である』とあり、半島の尖端部を「御崎(おさき)岬」と呼び、そこに御崎(おさき)神社もあった。現在の住所は宮城県気仙沼市唐桑町(ちょう)崎浜である。

「遠州御前崎の駒形大明神」既出既注

「陸奧十和田湖邊の路傍の石にも馬蹄の跡あるもの、あり」十和田は実際に馬の産地でもあった。

「羽後八郞湖」八郎潟のこと。

「八郞主」ウィキの「八郎潟」によれば、『八郎潟の名称の由来としては、人から龍へと姿を変えられた八郎太郎という名の龍が、放浪の末に棲家として選んだという伝説が語り伝えられている。ただし伝説においても、八郎太郎は後に田沢湖へ移り住み、今や八郎潟には滅多に戻らないとされている』とある。詳しい解説はウィキの「三湖伝説」を見られたいが、そこには馬は出てこないが、因みに、検索を掛けているうちに、まさに「瓢簞から駒」で、文化庁の「氣比神社の絵馬市の習俗」という驚くべき膨大な資料(PDFで百七十ページ! カラー画像も豊富で「蒼前神信仰の詳述部もある!)を発見! 必ダウンロード!!!

春の野 S.S.(伊良子清白)

 

春 の 野

 

咲きては木々の花を彫り、

萠えては草に彩紋(あや)をおく、

春野よなれが細指に、

鋭利(するど)き鑿の香あり。

 

天津乙女か雲の上に、

さへづり飽かぬ鳥の歌。

春野よなれが紅唇(くちびる)に、

妙なる樂のひゞきあり。

 

冰れる虛空(そら)を溫めて、

息柔かき薄がすみ、

春野よなれが眼ざしに、

溢るゝ愛の光あり。

 

うかるゝ胡蝶(てふ)は風に舞ひ、

群がる蜂は花蜜(みつ)に醉ふ。

春野よなれが乳房(ちぶさ)に、

味美き酒の泉あり。

 

何をはぢらふ久方の、

月讀男おぼろにて、

春野よなれが柔肌(やははだ)に、

たのしき夢の宿あり。

 

[やぶちゃん注:明治三一(一八九八)年三月二十三日発行の『千紫萬紅 春の卷』(第四巻第四編)掲載。署名は「S.S.」(「すず」と「しろ」の頭音からか)。当該の同誌は古書店サイトで現物が確認出来たのであるが、博文館発行の『文藝倶樂部』の臨時増刊号であった。因みに、「千紫萬紅」は「さまざまな花の色のこと」を言う語。

 第四連の三行目「春野よなれが乳房(ちぶさ)に」の後半の音数律不全はママ。確信犯らしいが、朗読すると如何にもブレイク、躓いてしまい、甚だよくないと私は思うのだが。「ちちぶ(ふ)さ」でどうしていけないのだろう? フロイト的に考えてしまったよ。]

春の月 すゞしろのや(伊良子清白)・河井酔茗・木船和郷・横瀬夜雨・塚原伏龍による合作

 

春 の 月

 

[やぶちゃん注:本篇は河井酔茗(既注通り、パブリック・ドメイン)・木船和郷(「さいたづま」参照。生没年の確認は出来なかった(「さいたづま」の冒頭添書きから伊良子清白とはほぼ同年代と推定される。可能性は低いと思われるが、彼が万一、パブリック・ドメインになっていなかった場合はこの詩篇を削除する。没年を御存じの方はお教え願えると幸いである)・横瀬夜雨・塚原伏龍(後の島木赤彦(明治九(一八七六)年~大正一五(一九二六)年:パブリック・ドメイン。伊良子清白より一つ年上。発表されたこの時、長野尋常師範学校を卒業し、翌四月より北安曇郡池田会染尋常高等小学校の訓導となった)五名との合作。合作の内容は不詳だが、五篇から成るので、それぞれどれかを主担当し、内容を全員で協議して手を入れたものか。よく判らぬ。「一」の「しつかなる」「たとりくる」「やすくそ」「かゝけては」「急く」(音数律から見て「せく」ではなく「いそく」(いそぐ)であろう)「誰か」(音数律から見て「たか」(誰(た)が)である)、「二」の「君か」「わか」「かつく」、「三」の「わか上」、「四」の「花かけ」「わか心」「むかしなからの」の「なかむれば」、「五」の「君か」「死なはや」「おほろ舟」(「朧舟」であろう)「こきてや」の清音は総てママ。明治三一(一八九八)年三月二十日発行の『文庫』掲載。署名は「すゞしろのや」。

 

   

 

松しつかなるいそ山へ、

汐のけふりの沖こめて、

いさりする火や村肝の、

心消え消えたとりくる。

 

聲こそなけれ世の岸に、

よせぬ隙なき浪の上を、

やすくそ渡る眞帆片帆、

誰か夢のせて島かげに。

 

長き裳裾のもつるゝを、

片手に高くかゝけては、

急くとばかり思へども、

胸押へてはたゆたひて。

眞砂の上によこたはる、

主なき舟のふなべりに、

現なき身をよせかけて、

何處をかける思ひそも。

 

あれあれ遠くなほ遠く、

朧のそらをかすめきて、

あを呼ぶ聲と聞ゆるは、

月にや松のさゝやける。

 

   

 

眺めよろしきこの浦に、

慰むかたやありなむと、

たらちのをやのま心を、

いなみ難くて宿れども。

 

君か在するあづま路の、

都のかたのこひしくて、

よひよひ每にてる月の、

くもり勝なるわか思ひ。

 

せめて海苔採る蜑の子の、

かつく少女に代りなば、

刈藻と髮はみだれても、

亂れさりしをこゝろ迄。

 

夫なる君にいとはれて、

去られしことも忘れねど、

こひの絆をたちかねて、

迷ひのみちに迷ひつゝ。

 

   

 

重ぬる夢のやすからで、

若きいのちの幸もなく、

かはく隙なきわが袖を、

しつかにはらふ春の風。

 

なさけも薄き世の人の、

語るもにくしわか上を、

君にはなれて吾こゝろ、

何れの岸につなぐべき。

 

かすみも匂ひ花も咲へ、

かの高どのゝ夕まぐれ、

仰きし影に行くくもも、

樂かりしかふたりして。

[やぶちゃん注:「咲へ」の読みは不詳。「わらへ」では音数律が如何にも悪いから違うので「ゑへ」だろうか。しかし、語としての発音はよくないし、無理がある気がする。識者の御教授を乞う。]

 

月よむかしの月ならば、

亂れてほそき玉の緖の、

今は絕えなむと斗りを、

せめて人に語れかし。

 

   

 

望みに生くる人の世に、

幸うすかりし少女子の、

ゆくて短き世のきしに、

過こし空をみかへれば。

 

月もすみだの夕じほに、

ひと夜うかべし二葉舟、

ふれし斗りの棹ならば、

さしても事はなかりしを。

 

おなじ流れのおなじ岸、

ともに廻りし花かけに、

人の情けのなどてかく、

身にしみそめしわか心。

 

花こそ咲かねいそ山の、

かすみにこもる月の色、

むかしなからの大空を、

くもる眼になかむれば。

 

   

 

君かあたりになびき寢て、

みだれしかみを姿見に、

うつしゝ頃の忘られで、

いまも淚のこふるゝに。

 

寢覺がちなる此夜らに、

たまたまさめて有明の、

淋しき影を泣かむより、

死なはやとこそ思はるれ。

 

葦間につなぐおほろ舟、

こきてや出む春の夜を、

はてなき海に流れても、

月は浪路に靜かなれば。

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