題詩 / (毛布小林)に寄す / (毛布小林)を送る 伊良子清白
[やぶちゃん注:以下の三篇は昭和一九(一九四四)年六月五日刊の小林政治著「毛布五十年」という私家版の書籍に載る伊良子清白名義の詩篇である。「題詩」の「躍てゐた」はママ。しかし……かの珠玉の詩集「孔雀船」の詩人の最後の詩篇がこの戦意高揚詩染みたものであったというのは……如何にも淋しい…………
小林政治(明治一〇(一八七七)年~昭和三一(一九五六)年)ペン・ネームを天眠と称した元小説家で、伊良子清白と同じ『青年文』『文庫』『明星』『よしあし草』といった文芸誌の常連であったが、早くに創作活動から離れ、毛布商人として成功した。与謝野鉄幹とは終生の盟友であったという。日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」によれば、十五歳で大阪へ奉公に出、二十二歳で毛布問屋を開業後、「大阪変圧器」を設立するなど、実業家として活動、その傍ら「小林天眠」のペンネームで小説を書き、明治二九(一八九六)年に『少年文集』に小説「難破船」を発表、翌年には「浪華青年文学会」を結成して『よしあし草』創刊に協力。『よしあし草』『関西文学』『新小説』『万朝報』などに小説を書いた。また与謝野寛・晶子夫妻の後援者(パトロン)として、晶子に「源氏物語」の全釈をさせるなどし、文人らの物質的援助をしたとあった。
この年、伊良子清白は満六十七。なお、本篇を以って底本の創作詩篇のパートは終わっている。則ち、生前に公表された詩篇としては、これが現在知られる最後のものとなる。
伊良子清白は依然として鳥羽小浜で開業医を続けていたが、この翌昭和二十年七月、三重県度会郡七保(ななほ)村大字打見(うちみ)(現在の三重県度会郡大紀町(たいきちょう)打見(グーグル・マップ・データ))へ疎開し、村医として七保村診療所を営んだ。敗戦後の昭和二一(一九四六)年一月十日、七保櫃井原(ひついばら)に於いて、急患の往診途上、脳溢血を起こして倒れ、逝去した。村民はこぞってその死を悼み、十二日、村葬により、「諦翁観山居士」として打見の墓所に葬られた(以上は底本全集年譜に拠った)。満六十八歳と三ヶ月の生涯であった。]
題 詩
三代功業の千生瓢簞が
輝くあなたの老後を飾る
あの沸きかへるやうな心齋橋筋の人波に
小林商店の看板は躍てゐた
船場の町の發祥地の毛埃は
走り步きの前垂の紐にたまり
たゝかふ上方商人の意欲が
大阪經濟界の側面史を描いた
大東亞の島陸山谷都市港灣
「毛布五十年」の展望は賑はふ
「小林產業株式合社」の發足を
次の縹緲の世界が謳ふであらう
(毛布小林)に寄す
一
飛行機獻(さゝげ)る
百機、千機、萬機
一億(おく)國民の赤誠(せきせい)が
今日(けふ)の今日(けふ)から
米英擊滅(げきめつ)の焰(ほのほ)となり
大東亞建設(けんせつ)の底力(そこぢから)となる
新(あたら)しい血
新(あたら)しい肉
美(うつく)しい獻(さゝ)げもの
淸(きよ)い飛行機
光る愛國飛行機を
限りなくたてまつる
二
飛行機獻(さゝげ)る
百機、千機、萬機
陛下の赤子(せきし)が
陛下(へいか)にたてまつる獻げもの
こんなうれしいことが
世界の何處(どこ)にあるか
こんな有難(ありがた)いことが世界(せかい)の
どこの國にあるか
百姓、商人、工員、
勤め人、家妻(いへづま)
老(お)いも若きも男も女も
手に手に
まごころの獻(さゝ)げ物いたす
日本は强い
三
飛行機獻る
わが友小林政治君は
かしこみて「毛布小林」を
たてまつる
光る愛國飛行機を獻る
今日(けふ)の今日(けふ)から
皇軍(みいくさ)のため、國のため
「毛布小林」は强い
輝(かゞや)く翼(つばさ)
轟(とゞろ)く爆音(ばくおん)
新(あたら)しい雲
新しい風(かぜ)
陛下(へいか)の飛行機「毛布小林」は征(ゆ)く
貴い姿
たのもしい形容(かたち)
全身感激(かんげき)に滿(み)ちて
意氣に燃(も)えて
「毛布小林」は征(ゆ)く
(毛布小林)を送る
一
ほざく月產一萬機
何んの蚊蜻蛉輪破れ笠
手まひまいらぬ荒料理
今に日本の底力
思ひしらせる時が來る
二
勇士は睨む空の雲
前にうしろに蹴散らかす
凄い一機が體當り
送れ飛行機前線に
一億決死の意氣込(いきごみ)で
三
不二の朝雲今朝(けさ)晴れて
光る愛國新鋭機
「毛布小林」魁けて
爆音高し轟々と
征(ゆ)くよ戰線まつしぐら
四
遠いヒマラヤ印度洋
ガダルカナルやアッツ島
恨を晴らす太平洋
東亞の曙來(く)るまでは
「毛布小林」たのんだぞ
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