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2019/06/05

常陸帶 すゞしろのや(伊良子清白) / 橫瀬夜雨との合作

 

常 陸 帶

 

  馬追の鈴

 

紫深き朝より、

くれなゐあする夕まで、

七度かはる筑波やま、

峯の色みて馴染みたれ。

 

產湯すてたる芒原、

馬追ひくれば大寶の、

沼におち行く山の影、

よする浪にぞ碎かるゝ。

 

勝鬨あげし八州は、

稻葉の波やうづむらん、

武藏鐙の花やかに、

妻どひしけむ夢の跡。

 

手綱牽くには少女子の、

艶ある髮の似合はずば、

一葉の舟の棹さして、

渡守る兒にやとはれうか。

 

樣は箱根の秋風に、

八里の霧や鈴の音、

轡執るのがつらいとて、

茨の中を行き暮らし。

 

富士は白絹杉林、

紅蓮くづるゝ秋の日を、

背にうけて雲遠き、

常陸をこひておはすらん。 (すゞしろのや)

 

 

  利根の川瀨

 

霞の底に月落ちて

遠山白む朝ぼらけ

 

からりころりの音低く

葦間を出る漁舟

 

櫛目みだれし前髮に

かざすは桃かさる島の

 

誰にきけとやあまの子が

小唄をのせし一葉の

 

利根の川瀨をこがんには

あまりに細き櫂なれや

 

流石に浪に逆らへば

舟は中洲になづみなん (夜)

 

小枝は靡く岸のへに

灯殘る柳蔭

 

鎌をさしたる草刈の

小手さしあげて舟やよぶ

 

かへすにをしき大川の

あゐに寫れる春の雲

 

菫の床をはなれては

雲雀の聲も迷ふらん

 

一つ二つと數ふれば

星は消えゆくかねの音

 

花の香暗き山蔭に

いかあるをちか撞くならん

 

川の景色をなつかしみ

かいとる業のつらからば

 

筵帆張れよ朝風に

筑波は明くる濃紫 (すゞしろ)

 

 

  かへらぬ浪

 佝僂病にて死したる小女あり、そが母はもと卑しき

 あそびなりき。

 

常世の國に流れては、

かへらぬ浪に誘はれて、

シロアム川に匂へりし、

小百合の花の散りにけり。

春長しへに霞立つ、

天の園生の歌聞きて、

君がみ魂はふるさとの、

菫の野にや遊ぶらん。

 

淚あやなき濁江に、

漂はされし母なれば、

甲斐無き子をも暗き世の、

光りとこそはたのみけめ。

 

鏡放たぬ處女子の、

玉なす肌をさながらに、

鹿(カ)鳴く山べにをさむれば、

あかとも罪は滅びんに。

 

さやけき眉のいつとても、

しをれ勝にて見(みゝ)えしが、

長き睫を閉しては、

瞳に寫る影ぞ無き。

 

 水は流れて  海に落ち、

  炎は空に  立ちのぼる。

 

 君は樂しや  浪高き、

  ヨルダム河を  越えしなり。

 

 綠にかへる  筑波根の、

  峰にも尾にも  雪消えて。

 

 み墓に植ゑし 八重櫻、

  八重の花こそ  咲きかゝれ。 (夜)

 

 

  江 戶 紫

 

薄暮寒き大橋の、

燈火淡き欄干に、

袖飜へし行く君は、

江戶紫のゆかり子か。

 

金釵斜にたいまいの、

かうがいにほふ黑髮や、

おくれ髮なぶる川風に、

ほそむる眉の似通ふを。

 

熊野の浦に聲あげて、

いをつる業は習ひしも、

わたり行く子をはしのへに、

よびとゞめんもつゝましく。

 

西に沈める夕月の、

光を胸に鑄りつけて、

橋のつめなる柳かげ、

見造る影は消えにけり。 (二人)

 

[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年二月十五日発行の『文庫』掲載。橫瀬夜雨(パブリック・ドメイン)との合作。署名は「すゞしろのや」。前に述べた通り、この年一月十日頃に上京した直後、筑波山麓横根村(旧真壁郡横根村、現在の茨城県下妻(しもつま)市横根か。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。筑波山の裾野の西方、小貝川右岸)に橫瀬夜雨を訪れ、初対面であったが、一ヶ月も滞在しており、公開日時から見ても、そこで親しく膝を合わせて二人して詠んだものとも推測される。合作詩篇に於いて、詠者の担当部が示されている(各詩篇末の丸括弧)のは彼の合作詩篇では珍しい。「つらい」はママ。

「常陸帶」昔、正月十四日(古くは十一日)に常陸国鹿島神宮の祭礼で行われた結婚を占う神事。意中の人の名を帯に書いて神前に供え、神主がそれを結び合わせて占った。神功皇后による腹帯の献納が起源とされる。「帯占」「鹿島の帯」とも呼ぶ。現在は行われていないが、「常陸帯」という墨書した安産の御守りを出している。

「大寶の」「沼」「大寶」は現地名(後述)からは「だいほう」(現代仮名遣)と濁る。現在の横根地区の西北に接して茨城県下妻市大宝地区が地名として残るが、現在、この沼は干拓されて存在しない。「下妻市立騰波ノ江小学校」(「とばのえ」と読む)公式サイト内の「騰波ノ江小学校-騰波ノ江の盛衰と大宝沼干拓-」によれば(コンマを読点に代えた。リンク先には復元された昔の地図もある)、現在、『筑波山西方』の、この『下妻市北東部の騰波ノ江地区から関城町』・『明野にかけて』は、『見事な水田地帯が広がっている』が、『ここは、その昔、万葉歌人が「つくばねのもみぢちりしく風吹けばとばの淡海』(あふみ)『に立てる白波(鳥羽の淡海)」と、歌にも詠んだ騰波ノ江(鳥羽の淡海)跡である。この歌からも、万葉の時代、多くの人々がこの湖の美しさに心を奪われたことがうかがえる』。『鬼怒川は約二千年前、現在の流路になり、下妻市南部を東流し、比毛の所で小貝川と合流していた。鬼怒川の東流と付近の隆起によって小貝川が堰き止められ、その北側にできたのが鳥羽の淡海であ』った。『「常陸国風土記」筑波郡の条によると、「郡の西十里に騰波江あり、長さ二千九百歩、広さ一千五百歩なり。東は筑波の郡、南は毛野河、西と北とは並に新治の郡,艮(うしとら)のかたは白壁の郡なりし」とあり、その当時の湖の様子がしのばれる』。『しかし、この美しい湖沼も鬼怒川の流路が突然、石下方向への南流に変わると、その面影を失い始めた。その後、千年余り』、『不毛の土地であった鳥羽の淡海は、明治の近代的な水利事業をきっかけに』、『現在では多くの恵』み『を地域の人々に与えてくれている』。『そこで、この鳥羽の淡海が、現在の見事な水田地帯へと姿を変える様子を、大宝干拓に求めてみたい。大宝沼は、鳥羽の淡海の一部であり、それと起源を同じくする』。『干拓の歴史は、江戸時代までさかのぼる。そのころ』、『新田開発が全国的に盛んとなり、下妻市域にもいくつかの新田村が生まれた。これと並行していくつかの用排水路が設けられ、大宝沼は南に広がる平沼と』合わせて『大宝平沼とも呼ばれ、大宝』・『騰波ノ江地区十五カ村の用水源として利用されるようになった』。『十八世紀に入り』、『幕藩体制の立て直しのため、八代将軍吉宗は享保の改革に着手し、年貢増徴策のひとつとして、全国的に新田の開発を奨励した。この政策は下妻市域にも及び』、『大宝平沼の干拓が進められた』。『一方、湖の干拓により溜池水源の機能が低下したため、その代替用水として開削されたのが江連』(えづれ)『用水である。しかしこの用水も十八世紀後半には,鬼怒川の』水位『が低下したうえ、浅間山の噴火も手伝って』、『水路が役に立たなくなった。そのため、やむなく、大宝平沼の干拓地は再び』、『水面下に姿を消した』。『その後、大宝沼は百三十年以上も溜池として利用されてきたが、黒子堰から用水をひくようになると、その機能を失い、明治から大正にかけて』ここが重要)、『再び干拓が始まった。その結果』百四十一・一『ヘクタールの耕地が造成され,今日では、美田に生まれ変わっている』(引用元に『鬼怒川・小貝川サミット会議発行「鬼怒川 小貝川 自然 文化 歴史」より』とする)とある。さすれば、この清白が夜雨を訊ねた頃は、未だその「騰波ノ江(鳥羽の淡海)」の名残としての「大宝沼」(或いは一部)が未だ残っていたと読めるのである(恐らくは現在の大宝地区の西北の、糸繰川の上流部附近)。しかも、万葉好きの清白には時代幻想の一篇を詠まずんばおかれぬ古い歌枕であったのである

「勝鬨あげし八州は」個人的には江戸開幕以前の武蔵七党の時代まで溯りたい。

「武藏鐙」武蔵国で作られた鐙(あぶみ)。鋂(くさり:兵具に用いる鎖。長円形の鐶(かん)を交互に通して折り返して繋いだ鎖。)を用いず、透かしを入れた鉄板にして、先端に刺鉄(さすが:鐙(あぶみ)の鉸具(かこ:鐙の頭頂部の金具で、これを力革(ちからがわ:鐙を下げるために鞍橋(くらぼね)の居木(いぎ)と鐙の鉸具頭(かこがしら)とを繋ぐ革)に留め、鞍と鐙とを繋げる)に取り付ける金具。釘形で、回転し、力革の穴にさして止める)をつけ、直接に鉸具としたもの。小学館「デジタル大辞泉」の「さすが(刺鉄)」に添えられたカラー図版をクリックして以上の参考にされたい。なお、鐙の端に刺鉄を作りつけにするところから、和歌では「さすが」に、また、鐙は踏むところから「踏む」「文(ふみ)」の掛詞として古くから用いられた。

「さる島」同地区の南西にある猿島(さしま)郡の地名を掛けたものか。

「いかあるをちか」如何ある遠(をち)か」。どれほど離れたところでか。

「かいとる」「櫂執る」。

「佝僂病にて死したる小女あり、そが母はもと卑しきあそびなりき」佝僂(くる)病はビタミンD欠乏や代謝異常により生ずる骨の石灰化障害。典型的な病態は乳幼児の骨格異常で、現行では小児期の病態を特に「佝僂病」と呼び、骨端線閉鎖が完了した後のそれ以降の病態を「骨軟化症」と呼んで区別する。同疾患と母が「あそび」女(め)(売春婦)であったことの疾患上の連関性は基本、ないと考えてよかろう。因果応報的な差別的な添書きで、この設定(事実としてこの母子はいたのであろうが)はかなり不快な感じはするのであるが、しかし、実は夜雨も佝僂病であったのである。ウィキの「橫瀬夜雨」によれば、彼はここ『茨城県真壁郡横根村』の『生まれ』で、『本名』は『虎寿(とらじゅ)』。『幼時、くる病に冒されて歩行の自由を失い、生涯苦しんだ。『文庫』に民謡調の詩を発表し』、明治三五(一九〇二)年、詩集「花守」を『刊行して、浪漫的な色彩で人気を博し』、明治四〇(一九〇七)年からは『河井酔茗主宰の詩草社に参加した。地方の文学少女たちが』、『その境遇への同情から』、『夜雨の妻になると言って数名やってきた』という話が、水上勉の「筑波根物語」に詳しく書かれれてあるという。『その後』、『結婚し、昭和期には幕末・明治初期の歴史について研究した』昭和九(一九三四)年、『急性肺炎により』『下妻の自宅で五十六歳で没した、とある。この夜雨の詩篇、私には一読、何か切実なものを感じさせる。なお、夜雨がクリスチャンであったという記載は見出せないから、以下のそれらは、或いはこの母子がクリスチャンであったのかも知れない。

「シロアム川」「Siloam」で、パレスチナ地方の古都エルサレムにある池のことか。古代イスラエル統一王国のダビデ王が建設した首都エルサレム(ダビデの町)の南端に位置する。「旧約聖書」によれば、ユダヤ王ヒゼキアがギホンの泉からシロアムの池まで地下水道を掘って水源を確保したとされる。「新約聖書」の「ヨハネ福音書」では、イエス・キリストがここで盲人を癒したとする。但し、二十一世紀になって百メートルほど離れた場所に別の遺構が発見され、そちらが本来の池であると考えられているという。

「鏡放たぬ」亡くなっても鏡を握って離さないの意で採る。短い生涯に於いても純真無垢な美麗な少女であったことの比喩としても、無論、よい。

「あかとも」「赤とも」で「赤」は赤子・子供であろう。乳幼児や処女の若い女子の死は、それだけで地獄に落ちるとする差別的仏教観が古代仏教より存在した(そもそも仏教は変生男子説で如何なる功徳を積んでも女性は男性に転生しないと極楽往生は出来ないことを基本としたことはあまり知られているとは思われない)ことに基づくものへの、非難を含むものか。キリスト教でも洗礼を受けずに亡くなれば、「リンボ」(辺獄。ラテン語:Limbus/英語:Limbo)に堕ちるとされる(「Limbus」は「周辺・端」で、原義は「地獄の辺縁」の意である)。

「ヨルダム河」ヨルダン川。ウィキの「ヨルダン川」によれば、『ヘルモン山(標高』二千八百十四『メートル)などの連なるアンチレバノン山脈やゴラン高原(シリア高原)などに端を発し、途中ガリラヤ湖となって北から南へと流れ、ヤルムーク川・ヤボク川・アルノン川などの支流をあわせて死海へと注ぐ』、総延長四百二十五キロメートルに及ぶ『河川である。主としてヨルダン(ヨルダン・ハシミテ王国)とイスラエル・パレスチナ自治区との国境になっている。また、乾燥地帯における貴重な水資源となっている』。「新約聖書」に『よれば、洗礼者ヨハネがイエス・キリストに洗礼を授けたのがヨルダン川であった。ヨハネは、この川のほとりの「荒野」で「悔い改め」を人びとに迫って洗礼活動を行っていた。イエスはみずからの受洗ののちヨハネの創始した洗礼活動に参加するが、やがてヨハネの教団から独立してガリラヤへの宣教におもむいた』とある。]

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