ブログ1230000アクセス突破記念 梅崎春生 不動
[やぶちゃん注:本篇は作家デビュー以前の梅崎春生のごく初期の作品の一つである。昭和一八(一九四三)年六月発行の『東京市職員文芸部雑誌』第一号初出(当時、梅崎春生二十八歳)。戦後の昭和二三(一九四八)年八月講談社刊の第三作品集「飢ゑの季節」に収録された。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。戦前の作であるから、少なくとも本篇初出は正字・旧仮名であるはずだが、原本を所持しないので、底本通り、新字新仮名とする。傍点「ヽ」は太字とした。本文中に私のオリジナルな注を挿入した。
梅崎春生は昭和一四(一九三九)年三月に東京帝国大学文学部国文科を卒業(満二十五歳。卒業論文は「森鷗外」八十枚)後、この当時は東京市教育局養育研究所に勤務していた(同研究所は上野公園にあった。現在は国立西洋美術館が建っている)。実は本篇発表時は最後の「東京市」なのであって、この翌月七月一日に内務省主導による「東京都制」が施行され、地方自治体としての「東京市」と「東京府」は廃止されて現在の「東京都」が設置され、それまでの「東京市役所」の機能はこれ以降、「東京都庁」に移管されたのであった。但し、本作発表の前年の昭和十七年一月に召集を受けて対馬重砲隊に入隊したものの、肺疾患のために即日帰郷となり、同年一杯、福岡県津屋崎療養所、後に同福岡市街の自宅で療養生活を送っているので、ほぼ一年近くの休職期間がある。因みに、翌昭和十九年三月には、徴用を恐れて東京芝浦電気通信工業支社に転職したが、六月に二十九歳で再び海軍に召集され、佐世保相ノ浦海兵団に入団、そこで暗号特技兵となって、終戦まで九州各地を転々としたのであった(以上は底本全集別巻年譜に拠った)。
また、本作の主人公の友人として登場する「天願氏」は初期作品の傑作「風宴」(昭和一四(一九三九)年八月号『早稲田文学』(副題『新人創作特輯号』)に掲載された。リンク先は「青空文庫」のもの)でも一種、主人公のトリック・スターのように重要な役回りをするが、彼のモデルは梅崎春生の終生の友人であった同い歳の作家霜多正次(しもたせいじ 大正二(一九一三)年~平成一五(二〇〇三)年:沖縄県国頭郡今帰仁村生まれ。沖縄県立第一中学校から旧制五高に進学し、そこで梅崎春生と同級となって親交を結んだ)であるとされる。
なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、十三年で、本ブログが昨夜、1230000アクセスを突破した記念として公開する。因みに、本作は掌品ながら、後の漫画家つげ義春のある種の作品のような、奇妙なるリアリズムを感じさせる佳品と思う。【2019年6月9日 藪野直史】]
不 動
午後の二時頃、天願氏と私は上野駅のホールに立って、壁にかかっている時間表を眺めたり、ぼんやりと構内の雑踏を見渡したりしていた。日曜日のことであつたから、駅内はいつもより混んでいて、リュックサックを背負ったような男女や、バスケットを提げた田舎風の人々や、野菜行商の女達が、改札のあたりから出入口にかけて忙がしく往来した。窓や出入口から射す昼の光はあかるくて、拡声器の声は、次から次に、はっきりしない語尾をひびかせながら、建物の天井を這って消えて行った。
此処まで来ても、まだ何処に行こうというあてはなかった。曖昧な気持で時間表を見上げたり、また行くのは止そうかと思ったりした。駅の構内に入っただけで、もう疲れたような気がした。
「とにかく、松戸まで買おうか」
うん、と生返事しながら、まだ私はためらっていた。新宿の、鬼堂という友人のところへあそびに行こうか、などと思ったりして、気持がはっきり定まらなかった。しかし、駅内の群集の動きや、時折聞える汽笛の音が、何となくしきりに天願氏の旅情をかき立てるらしかった。
「とにかく、先ず松戸まで買つて、気がむけば途中で江戸川あたりに降りてもいいじゃないか」
「それもそうですね。しかし、もう二時だから」
「充分だよ。日が長いからね。とにかく切符を買う」
天願氏は、渋団扇(しぶうちわ)のように張った肩を左右に振るような歩き方で、切符売場の方に急いで行った。私は、ふところ手をしたまま、そのまま佇(た)っていた。郊外に、新緑を見に行くという試みを、さまたげる事情は私には何もなかった。しかし、野や山に生い立った青葉や若葉を頭に浮べようとしても、なにか感興がうすかった。
やがて切符を買って来た天願氏と共に、改札を通って歩廊に出た。歩廊は、季節にしては強い日光のために、鮮やかに日の当る部分と影の部分にわかれていた。そして歩廊の果ての、混凝土(コンクリート)の坂になったあたりを、風が白く吹いていた。私達は、歩廊の真中ほどにあるベンチにもの憂(う)く腰をおろした。長い間経った。線路の遠くから、カーヴのところでは少し傾きながら、電車が近づいて来る。その振動が、微かではあつたが歩廊ににぶく伝わって来た。それはだんだん大きくなる。私達は莨(たばこ)を捨てて立ち上った。
松戸で電車からはき出された。歩廊から見る松戸の町は、昼間だのに夕暮のような感じがした。奥行きのなさそうな、此の佗しい町のむこうは、砂塵がうつすりと立っている。
「なにも、無さそうだな」
ふところに突込んだ手で、肋(あばら)のあたりを撫でながら、私は向うの歩廊に目を転じた。汽車が着いていて、機関車が白い蒸気を出していた。
「あの汽車は何処行きだろう」
「我孫子(あびこ)に行こう」
突然天願氏がさけんだ。「あの汽車にのれば間に合う」
私達はそのまま、考える間もなく歩廊を走った。階段をかけ降りて、またかけ昇った。昇降口にかけ込んだとき、汽車がごとりと動き出した。私達は息を切りながら、顔を見合わした。
「よかったですね。間に合って」
「まったく」
何がよかったのか、自分でもはっきり判らなかったが、私はそう言い、大へん得をしたような気持になっていた。列車は、大へん混んでいた。
私達は車掌室の横に止ち、それから中には入れなかった。人いきれのこもった室の中で、私はじっと立っていた。私のそばには、陸軍の将校が二人やはり立っていて、時折低く話し合っていた。故郷に行くところらしかった。二人とも純粋な東北訛(なま)りで話していたが、将校というものは何時も立派な標準語で会話するものだというような、漠然たる感じを持っていた私は、そのことが珍しく、また親しみ深い良い感じがした。久し振りにうちに帰ると、小さい子供が自分を見忘れていて、もとのようになるまで十日位かかるという話をしていた。一駅も過ぎないうちに私は疲れて、壁に身を支えたりしたけれど、二人の将校は毅然と立ったままの姿勢で、汽車が揺れてもあまり身体を動かさなかった。
「此処まで来たんだから、ついでに成田まで行って見ようじゃないか」
我孫子で乗越し賃銀をはらい、待合室に入ったとき、天願氏がこう言った。
「そう、ぼくはどうでも良いですよ」
私は、成田が何処にあるかは知らない。此の我孫子ですら、地図の上ではどの辺になるのか見当がつきかねた。東京を離れた以上は、どこにどう行こうと私は同じ思いであった。時間を調べると、三十分後に出る汽車があった。[やぶちゃん注:主人公同様に不案内の読者のために、東京と我孫子と成田の位置関係をグーグル・マップ・データで示しておく。]
そこらを一寸歩くことにきめて、私達は駅を出た。変哲もない田舎町がつづいている。まずしげなお土産屋や飲食店が、ほこりだらけの道の両側にならんでいる。道側に遊んでいる子供たちの眼は、東京の子にくらべると変に鋭くて、敵意を含んでいるような気配があった。
馬糞の多い道を一丁程[やぶちゃん注:約百九メートル。]行くと、突きあたり、道は両側に分れていた。一つは、沼に行く道らしかった。そこにある近郊案内の立て札を読み、また同じ道をあるいて戻って来た。何ということもない。また待合室に腰かけて、汽車を待った。「疲れたかね」[やぶちゃん注:「沼」現在の我孫子市の北辺縁に貼り付くように東西に長い手賀沼のこと。]
天願氏がにやにやしながら私の顔を見た。「貴公は、自然というものに対して興味を持たんらしいな」
「いや」と私も少し笑った。「興味もたないという訳じゃないけれど、――人間の方が面白いですな、自然よりは」
しかし、何事に対しても興味の持ち方がうすいということは、私にとって生来のものであった。私は、自分が異質のものであるとは思いたくなかったけれど、そうした傾向は否めなかったのだ。人間に対しても、ミザンスロピィの形でしか、感情なり興味なりを持ち得なかった。もつとも環境のせいもあつた。役所で毎日、話と言えは猥談か、気の利いたつもりで泥臭い冗談しか言えないような同僚や上司と一しょに働いていれば、馬鹿でない限りはそうなってしまう。[やぶちゃん注:「ミザンスロピィ」misanthropy。英語で「人間不信・人間嫌い」の意。]
「これでも昔は、野山に行くのは好きだったんですがね」
指で肋(あばら)を一本一本おさえながら、私は天願氏に言った。
そのうちに改札が始まった。田舎の内儀(おかみ)さんの群と一緒に、ぞろぞろと歩廊になだれ込んだ。
沼が右手に遠く、鈍く光ってはまた隠れ、また樹々の間からあらわれた。日はようやく傾きかけたようであつた。汽車は、空いていた。汽車が進んでゆくにつれ、天願氏は少しそわそわし始めた。
「どうしたんです」
「いや、一寸」窓の外ばかり見ている。
天願氏の、数年前別れた妻との間にある男の子が、今日は日曜日だから、母方の祖父のうちに遊びに行っているかも知れない。(その子供は、妻の方に引きとられていた)祖父のうちが、此の沿線の汽車の窓から見えるところにあると言うのだ。
「もすこし先なんだ。もすこし――」語尾が少しふるえた。
窓の外を、松林や、丘陵や、小川が次々に通り抜けた。家がぽつぽつと現われて来たかと思うと、たちまちそれが小さな部落となり、樹々にかこまれた低い家々が限界をさえぎったとき、天願氏は身体ごと乗り出すようにして、目をきらきらと光らした。
「あそこ!」
瞬間にして、汽車はその部落を奔(はし)り過ぎた。
暫(しばら)くの間私達はむき合って、黙っていた。汽車の轟音だけが、ごうごうとひびいた。窓から入る光線が、天願氏の顔をゆっくりと移動して行った。顔の陰影が変化するのは、丁度(ちょうど)表情が変って行くように見えた。
「ああ、成田までじゃなく、どこか遠いところまで行きたいなあ」
暫く経って天願氏は独り言のように低い声で言った。
成田の駅前は、大広場になっていて、夕方の淡い光の中で、成田停車場はまるで玩具のように見えた。天願氏の髪を、風がばらばらに吹いた。私達は参詣近道と書いた裏通りをゆるゆるとあるき出した。狭い道は不規則に折れ曲り、怪しげなカフェや、居酒屋がつらなっていた。門口に厚化粧をした女たちが椅子を出して腰かけ、私たちをうさん臭そうな顔で眺めたりした。それは変に私の嫌悪をそそった。私は出来るだけ目を外らしながら、少し前屈みになって急いだ。道は僅かながらも、登り坂になっていたのだ。そのうちに、大通りに出た。
「裏参道などと書いて、あれはきっとカフェの連中が客寄せに書いたんだろう」と私達は笑い合った。大通りは、どこの神社の町にもあるような土産店や、表だけがけはけばしい旅館などがずらずらと列(なら)んでいて、人々が動いているにも拘らず、芝居の書割りのように生気がなかった。夕方のせいか参詣客らしい姿はあまり見えず、道を歩いているのは町の男たちや商人らしかった。夕方の空には、綺麗(きれい)な鰯雲(いわしぐも)が出ていて、白い昼の月がうすくかかっていた。旅情が、それを見たとき始めて私の胸にほのぼのと湧き上って来た。
不動は、森にかこまれていた。亀のいる池の石橋をわたり、石段をのぼった。石柱が沢山立っていて、寄付金と名前、壱千円也某、五百円也某といった具合に、金額が多いほど石柱も大きかった。それらが石段の両側に、墓碑のように連なり、風はそれをおおう樹々の茂みにそうそうと鳴った。私たちは黙って一歩一歩、石階をふんだ。
本堂を横に切れて、後ろに廻ると、もはや本堂の背は夜であったが、壁面に僅か黄昏(たそがれ)が残っていた。そこには木彫の板がいくつもはめこんであった。私たちは顔を寄せてひとつひとつ見てあるいた。何の図柄か判らなかったが、どの絵も人間がたくさん彫られ、どの人間も同じ表情をし、同じ着物を着ていた。俗っぽい彫り方にもかかわらず、妙な迫真力があつた。不意に何か不気味なものを感じて振り返ると、人一人いない境内が背後にしらじらとひらけていた。[やぶちゃん注:私は成田山新勝寺に行ったことがないので、調べたところ、公式サイト内の「釈迦堂」によって、ここは現在、「本堂」(江戸後期の建立に成る)から「釈迦堂」に変更されていること、彼らが見たのは、この旧本堂の回廊の堂壁部分に施された、嶋村俊表作「二十四孝」や、松本良山作「五百羅漢」(及びその外の外回りの彫刻を彫物師後藤縫之助が手掛けているとある)の彫刻群であることが判明した。リンク先には画像もある。]
「寒い」
夕方になって、少し冷えて来たのだ。その感じも、東京を離れた思いに強かった。
まだ数枚の木彫板を見残して、私達は境内を通り抜け、脇へ降りる道をあるいた。
「すこし、金があるかね」
私は袂(たもと)を探った。乏しい銅貨の音がした。街路に出て、燈の下で天願氏は金入れを出して、内をかぞえた。七円なにがしの金があった。
相談の末、汽車賃だけ残して、のこりで一杯のむことにし、私達は歩きだした。先に立った天願氏の肩は、骨太だけれども何処か影がうすく、わびしかった。暗いところをあるくとき、二人の影は淡く地面にうつり、天願氏の影は、歩きぐせのために地面で躍るように動いた。空には、二十三夜の月が少しずつ光を増し、私達はことさら明るい通りを避けて、適当な居酒屋を探して行った。[やぶちゃん注:「二十三夜の月」但設定と思われる晩春の狭義の「二十三夜の月」は、夜の十一時近くの「月の出」になるので、時刻が遅過ぎるから(実は後のシーンで「九時を廻っているらしかった」とある)、ここは二十三日以前の三日月に成りかけた下弦の月をかく洒落て言ったに過ぎないと採っておくべきであろう。]
薄汚ない暖簾(のれん)をかかげ、指で盃の形をつくつて見せ、あるかね、と聞くと、台所から親爺が顔を出して、まあ入んな、と答えた。そこで私達は中に入った。土間には卓子(テーブル)が一脚あって、両側に紅殻(べんがら)の剝げた樽が腰掛け代りに五つ六つ置いてあった。
「白だけど、いいかね」
「ああ、結構だよ」
あちらこちら探し歩いた後だったから、もはやどんなものでもいい気持になっていた。私は、樽に腰を下して、掌を何となくすり合わした。
湯吞茶碗を前にして、暫くしたら親爺が奥から大切そうに持って来た瓶から、冷たい濁酒(どぶろく)がとくとくと注がれた。粒が多い、濃い濁酒であった。
親爺が、注文もしないのに持って来た、ほうぼうの煮付や、白い魚肉の酢味噌、そんなものをつつきながら、茶碗をほした。
「此の白馬はどこから持って来たのかね」[やぶちゃん注:「白馬」「しろうま」で濁酒の異名。白馬は神の供をする、酒は神に供える、というところからの色彩連想による俗語。違法醸造によるものであるから、かく隠語として用いたもの。]
「なに、河向うからだよ」と答えて、えへへ、とわらった。もしかすると、汽車賃に食い込むかも知れないと思ったが、そのうちに酔って来て、そんなことはどうでもよくなった。
私達に向い合って馬方らしい老人がやはり飲んでいて、親爺と、今日見た溺死人の話をしていた。
土間のむこうは部屋になっていて、親爺の女房らしい大きな女が牛のように横になっていた。側で子供がひとり手習いしていた。
その子供には顎(あご)がなかった。[やぶちゃん注:事故によるものでないとすれば、先天性下顎骨欠損症或いは下顎骨が痕跡しかない疾患となろうか。]
「わたしたち二人で」と親爺は寝ている女をゆびさした。
「月に七升要りますがな」
風が、暖簾を動かしていた。
私達は、琉球(りゅうきゅう)や台湾や、遠い国の話をした。パパイヤや檳榔(びんろう)や、停子榔や泣き女の話をした。酔いが廻って来るにつれて、天願氏の放浪癖は益々そそられるらしかった。ずっと若い頃の、数年間にわたる大放浪の話を天願氏は低い声でめんめんと語った。[やぶちゃん注:「停子榔」読みも意味も不詳。当初、私は以下の「泣き女」との対表現から、台湾で檳榔や煙草を売る若い女性を指す「檳榔西施」かと思ったが、それはごく直近の風俗らしいので当たらない(御存じない方はウィキの「檳榔西施」を参照されたい)。次に前の「檳榔」の「榔」の一致と「子」から、アジアの広い地域で嗜好品とされる単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu の実、檳榔子(びんろうじ:アレコリン(arecoline)というアルカロイドを含み、タバコのニコチンと同様の作用(興奮・刺激・食欲の抑制など)を引き起こすとされ、依存性があり、また、発癌性が認められている)のことかとも思って調べて見たところ、ビンロウの中文ウィキに「倒吊子檳榔」の項があり、そこや他の中文記事を見ると、どうも檳榔子の中に下から上方へ成る実があり、その成分は他の実に比して激烈で、これを使用すると、死に至ることさえあるというようなことが書かれているようであり(私は中国語は解せない)、この「倒」は「停」と似ていて「子」も「榔」もあるから、これか? とも思ったのだが、そうすると「泣き女」との対表現が如何にも悪い。だったら、梅崎春生なら、「パパイヤや檳榔(びんろう)、その停子榔こと、或いは泣き女などの話をした」辺りの表現をするであろうと考えた。お手上げ。識者の御教授を乞う。但し、「停子榔」の文字列は日本語でも中国語でも引っ掛からない。「泣き女」葬儀や葬列の際に雇われて号泣する女性。本邦にも旧習としてあったが、中国・朝鮮半島・台湾を始めとして、ヨーロッパや中東など汎世界に見られる伝統的習俗であり、かつては普通に職業としても存在した。]
そのうちに、もう何杯飲んだか判らなくなって、肴もあらかた食い尽した。全身が酔いのかたまりになるような気になった。馬方もかえってしまった。奥で寝ていた女房が起きて来て、土間に降りて暖簾を外し始めた。
「さて帰るかな」
勘定をきくと、八円いくらになっていた。私は金は無いのだから、黙って天願氏の顔を見ていた。天願氏は黙然(もくねん)と金入れを出して、さかさに振った。しやがれた声で言った。
「親爺さん。一円ばかり足りない。上衣置いて行くから、明日まで待っと呉れ」
器物を洗っていた親爺の顔に、ちょっと険しい表情が現われて、消えた。そして笑い顔になった。
「いや、そうおっしやるなら、明日でも良ござんす。上衣はいらないよ」
私達は礼を言って、露地に出た。露地をあるくとき、私はにやにやした笑いが出てとまらなかった。理由はなく、可笑(おか)しくて可笑しくてたまらなかった。月が、馬鹿みたいに明るく照っていた。とうとう二人とも、一文なしになってしまった。天願氏も笑い出した。
「さて、これからどうするかな。今何時頃だろう」
もう九時を廻っているらしかった。
「もう帰れないな」
「汽車賃もなし」
「宿屋に泊ろうか」
「金無しで?」と私は聞き返した。
しかし、そうする外に方法はなかった。それでも私は苦境に立ったという気は少しもなかった。酔いのせいであったかも知れない。
不動の裏手の、旧街道らしい道のそばにある成田屋という傾いた古い旅館に入って行った。女中も誰もいない。内儀らしい老女が出て来て、何だかだだっ広い部屋に通された。
一本だけつけて貰って、二人で盃をゆるゆるとあけた。
「何だか変な具合になったな」
「新緑を見に来る筈だったんだが」
ああそうだ、新緑を見に来たんだと、始めて気が付いた。しかし、上野を発ったときから、どんな新緑を見たか思い出そうとしても、頭に浮んで来るのは、灰色の家々や影のような人間の姿ばかりであった。
此処の宿代は、今考えても仕方がないから、明朝起きて考えることにして、飯を食べた。酔いは依然として続いていた。
部屋の硝子戸の外は不動の大樹がそびえ、月の光がぼんやりさしていた。私達は手拭いを借りて、階下の風呂場に行った。
薄暗いじめじめした風呂で裸になり、代る代るすみっこの五右衛門風呂に入った。熱い湯に、腹から胸へと浸って行くとき、心臓がどきどき鳴って、咽喉(のど)まで何かかたまりが出て来るような気がした。手拭いで顔を拭きながら、にわかに荒涼たる想念が胸にのぼった。勿論、今日のことも、私にとってはごくささやかな放蕩にすぎぬ。しかし、此のような無定見な放蕩をくりかえすことによって、私の青春はやがて終って行くのであろう。
流し場にしやがんでいる天願氏に、私は声をかけた。
「天願さん。ぼくが歌うから、あなた踊りなさい」
「よし」と天願氏は立ち上った。
流し場の真中にきっと不動の如く立って、両手をそろえて体の両側につけた。肉の落ちた肩や胸をそらして、私の顔を見て、ハイツと言った。私はゆるく手を叩きながら歌い出した。天願氏の、故郷のうたであった。
旅や浜宿い 草の葉ど枕
寝(に)てん忘(わし)りらぬ 我家(わうや)のう側(すは)
千鳥(ちじ)や浜うて ちゅいちゅいな
天願氏の肉体が、あやつり人形のように薄晴い電燈の下で、縦横無尽に動いた。ときどき歌の合のてに、元気よく掛声をかけた。出鱈目(でたらめ)の、その踊りを見ているうちに、私は変に悲しくなって来た。ふと先刻の汽車の中のことを思い出した。あのとき天願氏は、あの家の中に、自分の子供の姿をありありと見たのではないか。あのときは何も天願氏は言わなかったが、きっと子供の姿を見たに相違ない。私はそう思うといよいよ悲しくなり、顎を縁にのせたまま手拭いで風呂の湯をぴちやぴちやたたきながら、次第に歌の調子を早めて行った。
[やぶちゃん注:最後に天願氏が歌うのは、八重山民謡「浜千鳥」の一番である。たるー氏のブログ「たるーの島唄まじめな研究」の「浜千鳥」によれば、「浜千鳥」は「はまちじゅやー」と発音し、たる一氏の表記歌詞と沖繩方言音写では(歌詞には多様なヴァージョンがある旨の記載がある)、
旅(たび)や浜宿(はまやどぅ)い 草(くさ)ぬ葉(ふぁー)ぬ枕(まくら)
寝(に)てぃん忘(わし)ららん 我親(わや)ぬ御側(うすは)
千鳥(ちじゅやー)や浜(はま)うぅてぃ ちゅいちゅいなー
である。私は梅崎春生はかなり正確に音写していると思う。リンク先では全曲と流派の異なる別バージョン、本民謡のルーツまで解説されているので、必見。]
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