春の歌 清白(伊良子清白)
春 の 歌
みどりいろこき野のすゑを
きよき小川ぞ流れける
きよき小川をきて見れば
れんげの花ぞ流れける
流しつ摘みつはるの日を
かれはひねもすあそぶなる
摘みつ流しつはるの日を
かれはひねもすうたふなる
○
ゆめにうぐびすおとづれて
こがねの鈴をならしゝが
うつゝに蛙なきいでゝ
泥の海となしにけり
ゆめにこてふの舞ひいでゝ
花の粉雪をふらしゝが
うつゝに蟇のあらはれて
軒の蚊柱すひにけり
○
をとめマリアのあらはれて
千々の寶をたびにけり
ことにすぐれてめでたきは
ちごのおもわのうつくしさ
二人のあねは雲にのり
一人のあねは草にたち
みそらの雨にうるほひて
ちごを守ると見えにけり
[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年六月十五日発行の『文庫』(第二十三巻第四号)掲載。署名は「清白」。この年、伊良子清白満二十六歳。一月から三月までに、「鬼の語」・「花賣」・「旅行く人」(孰れも後の詩集「孔雀船」に改作して所収)などの詩を次々に発表し、四月からはシラー・ハイネ・ウーラントなどのドイツ語の詩の翻訳作業に没頭、十一月の発表までを合わせると、二十六篇に及んだ。実生活では、横浜市戸部町から神田三崎町に転居し、『恵まれた文学環境』に至ったと思った最中、『父窮す、の報が』それを『破った』。父『政治の』『負債は総計』五千三百八十『円にのぼっ』ており、伊良子清白は貯えていた『預金の半ば近くを引き下ろし』、父に『送金』するとともに、『歩合制の嘱託医として三重県一帯をまわ』るという事態となった。なお、『この時の旅から、長篇詩』「海の聲山の聲」(この内の一部(「上の卷」内の「一」を独立させたもの)が後の詩集「孔雀船」に「海の聲」と改題改作されて所収された)『が生まれた』。この年の『十二月二十五日、父とともに』和歌山県東牟婁郡の『古座から和歌山市に移り』、父のこれまでの負債『清算と新規開業のために奔走』するという(引用は底本全集年譜に拠る)、波乱があった年でもある。]

