伊良子淸白自傳 / 昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に附されたもの
伊良子淸白自傳
名は暉造、明治拾年拾月四日鳥取縣八上(やかみ)郡曳田(ひけた)村に生る。幼時父母に伴はれて三重縣に轉住。其の地の小學校を經て津中學校を卒業した。中學在學中同志數名と共に和美會雜誌經文學等發行。詩は十六七歲から習作を試みた。次で京都府立醫學校(今の府立醫科大學)に入學三十二年卒業、後東京に出で傳染病硏究所東京外國語學校獨逸語學科に學んだ。醫學校在學中から「文庫」「靑年文」に寄稿し、出京後は「明星」初期の編輯に參與、またその頃大阪で發行せし「よしあし草」(後に「關西文學」)にも執筆した。常に「文庫」の同人として河井醉茗橫瀨夜雨其他の多くの同志と共に詩作に努力した。三十九年五月詩集『孔雀船』を出版、所載詩篇僅かに拾八篇であつた。出版と同時に東京を去り島根大分を經て台灣に在ること十年、大正七年京都まで歸住、其の間皆官衙病院の醫師として多忙に生活した。十一年現住志摩鳥羽に移りはじめて開業漸く時間を惠まれた。かくて前後二十三年全く詩に遠ざかつたが、昭和三年出京と共に舊友との再會を機とし再び詩に復活するに至つた。
[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年十一月十五日新潮社刊の「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」版に出版社の編集コンセプトとして依頼されて書いたもの。底本は詩篇と同じ全集の二〇〇三年岩波書店刊平出隆編集「伊良子清白全集」第二巻を用いたが、詩篇は正字を用いているのに、何故か、こちらの巻は新字採用であるため、恣意的に漢字を概ね正字化した。なお、この年の彼をめぐる状況は詩篇「鳥羽の入江」の注で記した。
「暉造」「てるぞう」。
「明治拾年」一八七七年。
「鳥取縣八上(やかみ)郡曳田(ひけた)村」(現在の鳥取市河原町(かわはらちょう)曳田(ひきた)。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「幼時父母に伴はれて三重縣に轉住」この母は伊良子清白の生母ではなく、継母である。彼を産んだツネは彼が生後十一ヶ月の、明治一一(一八七八)年九月四日に僅か二十歳で他界している。三重県津市下部田(現在の津市栄町(県庁前公園辺り)附近)への一家転住は明治二〇(一八八七)年、清白満十歳の時のことである。
「小學校」立誠尋常小学校(現在の津市立南立誠小学校)へ転入学。翌年三月、同小学校を卒業後(この年で満十一歳)、四月から養正学校高等科(現在の津市立養正小学校)に進学し、翌明治二二(一八八九)年三月の同高等科一年修了を以って、四月より私立四州学館に入学、翌明治二十三年四月に「津中學校」(三重県津中学校(現在の三重県立津高等学校)に入学、卒業は明治二七(一八九二)年。
「經文學」同人誌『輕文學』の誤り。底本「凡例」では、明らかな誤りは編者が注記なしで訂することになっているから、或いは底本全集自体の誤植の可能性がある。
「京都府立醫學校(今の府立醫科大學)」現在の京都府立医科大学。入学は明治二十七年四月。
「三十二年卒業」正規の卒業試験に失敗して追試験で合格したため、卒業は明治三二(一八九九)年六月にずれ込んだ。
「傳染病硏究所」この叙述はちょっと悩ましい。年表では明治三四(一九〇一)年の条に、『十月から十二月まで、北里伝染病研究所で細菌学の講義を受けた』とあるのであるが、この当時、現在の国立東京大学医科学研究所の前身である「私立伝染病研究所」の初代所長が北里柴三郎であったが、「北里伝染病研究所」ではないからである。「北里伝染病研究所」は、そのずっと後の大正三(一九一四)年に、「私立伝染病研究所」が内務省から文部省に移管され、東京大学に合併されるに際して、初代所長北里が移管に反対し、所長を辞任(この時、志賀潔を始めとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出し、「伝研騒動」と称される)、北里は同年十一月五日に私費を投じて「北里研究所」を設立しているからである。この年譜の方は「北里」柴三郎が所長をしていた「私立伝染病研究所」と読み換えないといけない。
「東京外國語學校」現在の東京外国語大学のメインの前身。
「三十九年五月詩集『孔雀船』を出版」明治三九(一九〇六)年五月五日佐久良書房刊の詩集「孔雀船」初版。
「出版と同時に東京を去り島根大分を經て台灣に在ること十年、大正七年京都まで歸住、其の間皆官衙病院の醫師として多忙に生活した」この辺りの状況や経歴は「梅村二首」の私の注で略述しているので、それを参照されたい。
「十一年現住志摩鳥羽に移りはじめて開業漸く時間を惠まれた」大正一一(一九二二)年九月十二日、三重県志摩郡鳥羽町大字小浜(現在の)へ転居、村医として診療所に住んだ。この中央附近に伊良子清白の家はあったが、現在は移築されて鳥羽マリンパーク内(ここ)に「伊良子清白の家」として復元されている。公式ガイド・データ(PDF)。
「昭和三年出京と共に舊友との再會を機とし再び詩に復活するに至つた」昭和三(一九二八)年五月十九日に東京会館で催された橫瀬夜雨・伊良子清白誕辰五十年祝賀会出席を指す。この時、夜雨とともに河合酔茗の家に泊まって語り合った(しかし、これが三人が集った最後となった)。その後、鳥羽で清白は密かに新作の詩(主に民謡俗謡)の創作を再開し始めたのであった。]
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