止まれ! ツルゲエネフ(生田春月訳)
止 ま れ !
止(とゞ)まれ! 今私がお前を見るまゝに、永久に私の記憶に留(とゞ)まれ!
お前の脣から最後の感激の聲は逃(のが)れ出て了(しま)つた。お前の眼には光も輝(かゞやき)もない。其眼は幸幅に壓せられたやうに曇つてゐる、それを現すのがお前の喜(よころび)であつたかの美――其方へお前が勝誇つた樣でもある弱つた手を差伸すやうに思はれたかの美――を有してゐると云ふ幸福な意識に壓せられたやうに曇つてゐる!
何と云ふ光が――太陽の光よりも更に淸らかに更に氣高くも――お前の手足のまはりに、お前の着物のもつとも小さな襞(ひだ)の上までも注がれたであらう?
いかなる神の愛撫の息吹(いぶき)がお前の波うつ捲髮(まきがみ)を弄んだであらう?
その神の接吻はお前の大理石のやうに蒼白い額になほ燃えてゐる!
これぞ祕密のあらはれである、詩歌の、人生の、戀愛の祕密のあらはれである! これぞ、これぞ不朽そのものである! これを外にして不朽はあり得ない、またあるを要しない。此の瞬間に、お前は不朽である。
それは消えてしまふ、この瞬間は――そしてお前は再び一塊の灰、一人の女性(をんな)、一人の子供となつてしまふ……けれどもそれが何であらう! この瞬間に、お前は超越したのである、あらゆる無常(むじやう)のもの、流轉(るてん)するものを超越したのである。此のお前の瞬間は永遠に不滅であらう。
止(とゞ)まれ! 而して私をもお前の不朽にあづからしめよ、私の靈魂(たましゐ[やぶちゃん注:ママ。])の中にお前の永遠の美を反映せしめよ!
一八七九年十一月
[やぶちゃん注:「お前」は原典では「◦」の傍点。今までの注の「ヽ」の傍点を太字としていたので、かく差別化しておいた。]