海村二首 伊良子清白
海村二首
一
船は小さくて見えぬが
突立つた巨人は
凱旋將軍のやうに
勇ましく姿を現はす
幾たりもいくたりも次々に歸てくる
港の灯は輝き波止場の浪は笑ふ
太い指と廣い掌(てのひら)
がつしりと櫓先を握んで
輕く船を操り乍ら
近づく海の勝利者
太い聲で最愛の者共をよびかけ
漁具を濱に卸すと
嬉しさうに寄り添ふ優しい聲と幼い響
今日の獲物は水子(かんこ)に一杯だ
人間の歡喜は陸に滿ち海に溢れる
彼はもう一日の疲れも忘れて仕舞ふ
烈しい勞働の苦痛も甘い思出となる
全世界の幸福はここに集る
一本の酒と妻子の笑顏の外
今は全く何物も彼の頭にないのだ
[やぶちゃん注:「歸て」はママ。「水子(かんこ)」は既注であるが、再掲すると、この「活間(いけま)」で、船の中に設えた「生簀(いけす)」のこと。]
二
海は妖魔である
私の窓からそつと忍びこんで
幾條の白髮を植ゑ去つたことであらう
老いは靜かに步み寄りて
塵の如く積り皺のごとくくひ入る
わたしの聽診器と手術刀は
黑と白とを象徵して
幾歲月の夜に董に
わたしの命運を暗くし明くし
そしてある夜颶風の眼が過ぎ去る時
わたしの病(やま)ひは重り
わたしの氣息(いき)は絕えんとし
子等は皆枕邊に集り
最後の祈禱(いのり)を捧げるであらう
その時曙は美しく輝き
海面一帶に大なる陽(ひ)は流れて
帆は集ひ私の船出を待つであらう
私は此村の巖陰で死ぬるのだ
故鄕の山の家を思はない
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年十一月五日アルス刊の北原白秋・三木露風・川路柳虹編「現代日本詩人選」収録。署名は「伊良子清白」。伊良子清白、既に四十八歳。同アンソロジーには伊良子清白の詩集「孔雀船」の「漂泊」「淡路にて」「安乘の稚兒」も再録されている。本刊行に際して出版社から新作の依頼があったものであろうが、伊良子清白にして、この口語自由詩はその内容(特に「二」)とともにここまで読んでくると一見、唐突で、驚愕に値する。但し、実は明治四一(一九〇八)年七月十五日発行の『文庫』(第三十四巻第五号)の翻案詩「七騎落」を最後として、伊良子清白は明治四二(一九〇九)年から大正一三(一九二四)年までの、実に凡そ十五年半の間、底本全集の「著作年表」では、伊良子清白は詩篇は一篇も発表しておらず(旧作再録は除く)、詩壇というよりも文壇自体から完全に訣別してしまっていたのであった(明治四三(一九一〇)年三月の短い世論批評文三篇があるのみ)。しかも思えばまた、一方で詩壇にはこの間、大正六(一九一七)年には、かの萩原朔太郎が満三十一歳で第一詩集「月に吠える」を引っ提げて、そのかぶいた姿で登場しているのであってみれば、この口語自由詩は時代の流れとしてすこぶる附きで腑に落ちるとも言えるのである。因みに、この間の波乱万丈と言ってよい事蹟を底本全集年譜に拠りながら、端折って述べると、明治四十一年三月七日、次女不二子が誕生、同年夏より胃腸カタルの症状が深刻となり、紫静養を決意、十月を以って島根での勤務を辞して、大分県臼杵を静養地とし、妻と長女とともに移った。明治四十二年四月に大分県警察部検疫官となって大分町に住むも、翌年五月には日本領であった妻子とともに台湾へ渡り、台湾総督府直轄の台中病院内科部に勤務、明治四四(一九一一)年九月、三女千里誕生。翌年四月、台湾総督府台中監獄医務所長に就任、ゴシック建築の洋館の官舎に住んだ。同年八月長男力(つとむ)誕生。大正四(一九一五)年七月、同前医務所長を辞任し、台湾総督府防疫医となる。台北へ移り、台北病院及び台北監獄医務所の双方に勤務した。翌大正五年、三月、前記防疫医を辞し(以下は既注であるが、再掲する)、大嵙崁(だいこかん:現在の中華民国(台湾)桃園市市轄区である大渓(たいけい)区(グーグル・マップ・データ)の日本占領当時の旧称)に移住して開業(昭和四(一九二九)年新潮社刊「現代詩人全集 第四巻 伊良子清白集」に突如、出現した詩篇「聖廟春歌(媽姐詣での歌)」・「大嵙崁悲曲」の注も参照)したが、十一月には台北に戻り、医務室を経営(同府鉄道部医務嘱託兼務)、翌大正六年十二月には北ボルネオのタワオへの移住を考え(診療所医師として単身赴任が条件であった)、翌年には渡航するはずであったが、南洋開発組合の中の有力者の一人の、個人的な横槍によって移住が承認されず、万事休すとなる。大正七年三月末、思い立って、台中・台南・橋頭・阿猴を旅し、同年四月上旬、内地帰還を決意、四月十九日に妻と神戸に入港した。同年六月下旬、京都市左京区浄土寺馬場町の川越精神病院に勤務が決まった。台北から子供たちを迎えて浄土時真如町の借家に住んだが、翌大正八(一九一九)年六月二十一日、妻幾美(きみ)が死産の上、逝去してしまう。次女不二子を父のところに預け、秋より後妻を探し、長女清の学校の担任であった鵜飼寿(とし)との縁談が年末に決まり、翌年一月五日に挙式、四月に鳥取に帰郷して亡き幾美を供養している。この頃より、開業の方途を探り始めている。大正一〇(一九二一)年三月七日、寿が次男正を産むが、六月、後妻寿は腹膜炎後に感染したとされるリンパ腺結核で休職、後に退職となった。同七月、三重県南牟婁郡市木村に転居し、区医及び下市木小学校校医として、村営市木医館に居住した。翌年九月十二日、三重県志摩郡鳥羽町大字小浜に転居し、村医として診療所に住んだ。年末の十二月十八日には、四女和が生れている。大正十二年、小浜小学校校医となる。大正一三(一九二四)年五月、長女清が大坂の医師と結婚している。なお、この間、大正一一(一九二二)年十月、翌年の一月と四月、日夏耿之介が『中央公論』に、後に「明治大正詩史」に大成されるものの原型評論を連載、そこで伊良子清白を『稀に見る天稟の技能者』『彗星の如き「孔雀船」』と激賞し、同じく大正十一年末頃には西条八十も講演で清白を再評価しており、これらが昭和四(一九二九)年の伊良子清白再評価の遠因ともなった。]