N・N・ ツルゲエネフ(生田春月訳)
N・ N・
落着きはらつてしとやかに、泣きもしなければ笑ひもしないで、お前は人生の行路(みち)を辿り、何ごとをも無頓着に知らぬ顏に見すごして、心の平和を擾(みだ)されるやうなことはない。
お前は善良で聰明だ……然しあらゆるものはお前には馴染(なじみ)のないもので、お前には誰一人として必要な人もない。
お前は美しい。けれどお前が自分の美貌を誇りにしてゐるかゐないか、誰一人言ふことの出來るものはない。お前は同情を人に與へもしなければ、人から求めることもしない。
お前の目差(まなざし)には深味がある。けれどもその中には何の思ひもありはしない。そのはつきりした深味は空虛(くうきよ)である。
かうしてグルックの旋律(メロデイ)のおごそかな調べにつれて、極楽境(イリジアン・フイールド)を此のしとやかな影は動いて行くのである、喜びもせず悲みもせずに。
一八七九年十一月
【N、N、これは「エゴイスト」と同じやうな作である。】[やぶちゃん注:先行するそれをリンクした。]
【イリジアン・フィールド、とは希臘神話にあつて、何等の罪も犯した事のない幸福な人間の魂のゐるところ。それで影と云つたのである。ツルゲエネフはかうした人間の醜惡を深く感じたのである。】
【グルツク、獨逸の音樂家。】
[やぶちゃん注:この部分の註は傍点が全くないが、今までに倣って、引用の注語句を太字で示した。なお、詩篇本文の「グルック」(小文字の「ッ」である)及び註での「グルツク」の表記は孰れもママである。本篇の原題はキリル文字で「H. H.」(ラテン文字転写:N.N.)。既に「愚物」で注した通り、これは、もとロシア語ではなく、ラテン語「Nomen nescio」の略で、「ノーメン・ネスキオー」と発音し、「Nomen」はラテン語で「名」、「nescio」は「知らない・認識しない」の意。匿名にした「何某(なにがし)」的謂いである。さて、以下は私の勝手な想像であるが、この匿名とした女性は、ツルゲーネフのパトロンであった評論家にしてイタリア座の劇場総支配人ルイ・ヴィアルドー Louis Viardot(一八〇〇年~一八八三年)の妻で、著名なオペラ歌手であり、そうして、実はツルゲーネフの「思い人」でもあったルイーズ・ポーリーヌ・マリー・ヘンリッテ=ヴィアルドー Louise Pauline Marie Héritte-Viardot(一八二一年~一九一〇年:ツルゲーネフより三歳歳下)で、彼女への秘やかな愛憎こもごもの思いを表現したものではあるまいか?
「グルック」クリストフ・ヴィリバルト・フォン・グルック(Christoph Willibald von Gluck 一七一四年~一七八七年)。オーストリア及びフランスを活動拠点として、主にオペラを手がけた音楽家である。代表作は歌劇「Orfeo ed Euridice」(オルフェオとエウリディーチェ)で、特にその間奏曲「精霊たちの踊り」が著名である。一九五八年岩波文庫刊の「散文詩」神西清・池田健太郎氏の注(池田氏の追加分と思われる)によれば、この「グルックの旋律(メロデイ)のおごそかな調べにつれて、極楽境(イリジアン・フイールド)を此のしとやかな影は動いて行く」というのは、その「Orfeo ed Euridice」の『第二幕を指』し、『シャンゼリゼ大通り(よみ国)の場、死者の亡霊が合唱する』それを意味しているとする。「イリジアン・フイールド」は「Elysian field」で、「Elysium(エリュシオン(英語読みでは「エリジゥァム」に近い)・極楽・ユートピア・無上の幸福)の地」の意。生田が註している通り、ギリシャ神話で、善人が死後に住む場所のことを指す。しかし、ここまで注して貰わなければ、読者の殆んどは意味が解らないのは昔も今も同じである。]
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