噴火の後日 すゞしろのや(伊良子清白)
噴火の後日
(數篇中一篇を揭ぐ)
石垣壞(くづ)れて立木を損じ
兒等喜悅(よろこび)の柿皆折れて
灰降り濁れる庭の池に
小手を拍(たゝ)けど鯉は寄らず
村人誰彼門(もん)に迫りて
米庫(こめぐら)開くを切(せつ)に乞へば
明日は戸の前蓆(むしろ)を布きて
施米(せまい)の料(りやう)の俵(たわら)を積まむ
岩屑落ちたる道を踏みて
木戶より山の燒を望めば
また地震(なゐ)震り來て鎭守の楠(くす)の
上に焰は强く上りぬ
竹の林の小家(こいへ)の中(なか)は
諸人(もろびと)互(たがひ)に肘を摩(す)りて
狹莚(さむしろ)一枚(ひとひら)席(せき)を學び
暗きを責むるか汚く罵(そし)る
白髮(しらが)の媼珠數を繰りて
佛名(みな)を唱ふる殊勝なれど
落ち行く夕日を朝日と誤り
物の笑の種を蒔きぬ
恐怖(おそれ)に人の性(さか)を損ひ
鍬硏ぎ鎌揮る勤を厭へば
教へ導く術(すべ)も盡きて
われ村長(むらをさ)の德は至らず
山燒焰しばし歇みて
野の色黃ばめば左右(さう)雲分れ
夕の空は步(ふ)の星屑の
領ずる境に限を見せぬ
大(だい)なる天地(てんち)の力を信じ
常の理及ばぬ微妙と知らば
自然の變轉旋るを俟ちて
我(われ)他(ひと)榮(さかえ)の時は到らん
[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年十一月二十三日発行の『新潮』(第四号)掲載。署名は「すゞしろのや」。現行の『新潮』(明治三七(一九〇四)年五月創刊)とは無関係。「料(りやう)」「俵(たわら)」「性(さか)」のルビはママ。意識的にルビを振っているのに、この歴史的仮名遣の誤りは異常。しかもこの一篇、今までの伊良子清白の詩篇に比して、有意に確信犯で韻律を崩そうとしているかのようにも思われる。最終二連の奇妙な事前哲学的叙述は、どうも私には言葉がいい加減に滑っているようで気に入らない。
「步(ふ)の星屑の」「領ずる境に限を見せぬ」よく判らない謂いだが、「步」には「天体の運行を推し量る」の意があるから、「雲の裂け目に見えている夜空の星くずの動きを司ってるところのその天界の力」に対して火山の自然力は自ずとその限界を見せていた、とでも言うのであろうか。]