鄕軍勇士におくる歌 伊良子清白
鄕軍勇士におくる歌
一
聖戰すでに酣に
皇軍の意氣天を衝く
君等を送りて早(はや)幾(いく)日
凱歌は故國に轟けり
二
醜賊未だ平がず
山河(が)草木掃蕩の
神軍さながら火(ひ)の如し
潰滅期(き)して待たんのみ
三
外力(ぐわいりよく)依存(いぞん)あるはまた
長期抗戰敵は吼ゆ
堂々威武の進擊に
四百餞州の空(そら)朗(ほがら)
四
斷乎の決意邁進の
一路は前に橫たはる
堅忍持久膺懲(ようてう)の
皇師(し)はいよいよ猛からん
五
祖國日本の興廢は
君等の肩にかゝるなり
戰線銃後團々と
一つに燃ゆる焰かな
[やぶちゃん注:昭和一三(一九三八)年二月三日附『伊勢新聞』に掲載。底本は総ルビに近いが、五月蠅いので、パラルビとした。「膺懲(ようてう)」はママ(歴史的仮名遣では「ようちよう」でよい)。「皇師(し)」は「皇」にルビなくして「し」は「師」一字のみへのルビである。署名は「伊良子清白」。この年、伊良子清白、満六十一。四月五日に岩波文庫版の詩集「孔雀船」が刊行されている。その序「岩波文庫本のはしに」はこの後で電子化して示す。
「膺懲(ようてう)」敵や悪者を打ちこらしめること。この場合の「膺」は「胸」ではなく、「負わせる」の意。但し、この時、この熟語は特殊な限定的意味を持っていた。則ち、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」(「暴戻(ぼうれい)支那(しな)ヲ膺懲(ようちょう)ス」(「暴虐な中国を懲らしめよ」)を短縮した四字熟語)で、これはこの前年に勃発した「日中戦争」(一九三七(昭和一二)年七月七日に発生した「盧溝橋事件」に端を発する「支那事変」)に於ける大日本帝国陸軍のスローガンであったからである。ウィキの「暴支膺懲」によれば、『大本営が国民の戦闘精神を鼓舞するために利用したスローガンでもあ』り、『盧溝橋事件および通州事件』(昭和一二(一九三七)年七月二十九日に中国の通州(現在の北京市通州区)に於いて、中国人部隊の冀東(きとう)防共自治政府保安隊が、日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃殺害した事件)『以降は特に用いられるようになり、「暴支膺懲国民大会」が数多く開催された。同年』七月二十一日にはファッショ政党『日本革新党が日比谷公会堂で開催した』『ほか』、九月二日に『東京府東京市(当時)の芝公園で開催された対支同志会主催・貴族院及び在郷軍人会、政財界後援による暴支膺懲国民大会では「抗日絶滅」や「共匪追討」がスローガンとなっており、政財界・言論界の人物が登壇したという』。『対米英開戦後(太平洋戦争中)は「鬼畜米英」が前置されるようになり、合わせて「鬼畜米英、暴支膺懲」となった』とある。さすれば、この表題もそれに合わせた如何にもなものであることが判る。「鄕軍勇士」は一語ではない。「鄕軍」は「在郷軍人」であり、「勇士」は中国の戦線にいる兵隊を指しているのである。]
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