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2019/06/22

南嶋小曲――博歌(ホアコア)に擬す―― 伊良子清白

 

南嶋小曲

  ――博歌(ホアコア)に擬す――

[やぶちゃん注:「博歌(ホアコア)」不詳。現代の標準中国音では「bó gē」(ポォー・グゥー(ァ)」。閩南語の台湾方言の音写なのかも知れない。「博」の意からは「流行歌」とか「広く知られた民謡」等を想起するが、判らぬ。識者の御教授を乞う。第三連終行の「惚(と)れる」はママ。]

 

   

わしが寢てゐる寢藁の上に

朱塗の棺桶吊てある

わしが死んだら納れてくれ

あの娘の髮も一撮(つま)み

   

水を汲まうに桶は漏る

に出ようも破れ沓

あの娘はおいらの齒がたたぬ

ことしや全く旱魃だ

   

沖に白帆の耳が生え

山に林の耳が生え

お庭に草の耳が生え

お前の胡琴にきき惚(と)れる

   

刺竹(しちく)の刺(はり)ほど刺がある

刺竹の節ほど節が多い

節は多い程刺はあるほど

竹の性は上等だ

[やぶちゃん注:単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ホウライチク属シチク Bambusa blumeana。中国南部原産の竹の一種。本邦では沖縄・九州などで防風用に人家に栽植され、高さは三メートルから二十メートルにもなる。幹の表面は当初は緑色で、二年目から黒紫色に変わり、やがて黒色となる。葉は長さ七~一二センチメートルの披針形を成し、縁に細かな鋸歯を有する。よく分枝し、特に下方の小枝は退化して頑丈な刺(とげ)になる。「トゲダケ」の異名もある。]

   

白頭雀(べたこ)が啼いて

苦楝(ぐれん)が咲いて

春に成つたで

滿地(まんち)の草が

わしの思で

萠え出した

[やぶちゃん注:「白頭雀(べたこ)」台湾の回想を含んだ仮想ロケーションと考えられることから、台湾原産のスズメ目ヒヨドリ科シロガシラ属シロガシラ亜種タイワンシロガシラ Pycnonotus sinensis formosae としておく。同シロガシラ種は中国南部を中心に多く棲息しており、本邦では南西諸島に限定的見られるが、とすると、純粋な日本語の異名である可能性は低いと思い、調べてみたこところ、中文ウィキの同種のページ「白頭鵯」を見ると、「白頭鵠仔」の異名を掲げ、『臺灣話:pe̍h-thâu-khok-á』とあり、これはこの発音はこの「べたこ」に非常によく似ているように思われた。

「苦楝(ぐれん)」ムクロジ目センダン(栴檀)科センダン属センダン Melia azedarach。本邦でも異名を「オウチ」(楝)と呼ぶが、中文ウィキの同種のページ標準漢名を「苦楝」とする。本邦でも、生薬として樹皮を「苦楝皮(くれんぴ)」と呼んで駆虫内服剤(虫下し)に、果実を「苦楝子(くれんし)」としてひび・あかぎれ・霜焼けの外用、或いは、整腸・鎮痛薬として内服薬として用いる。]

   

晚(ばん)から朝まで月來香(げつらいこう)

ぶんぶん匂つて眠られぬ

あの娘の夢をおれは見る

さめてゐながらおれは見る

[やぶちゃん注:「月來香(げつらいこう)」ナデシコ目サボテン科クジャクサボテン属ゲッカビジン Epiphyllum oxypetalum の異名。]

   

牡丹は花の王といふ

男の癖に氣が弱く

女のやうにはにかみで

さいた牡丹がなぜこはい

   

白い月餅(げつぺい)露がおく

橋の袂や藪の前

十五夜お月さんまんまるい

あの娘も妙齡(としごろ)月の餅

[やぶちゃん注:「月餅(げつぺい)」言わずと知れた中国菓子であるが、起原伝承は知らなかった。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、十三世紀初頭、蒙古からの侵入軍を撃退するため、「八月十五日の名月の夜を期し、総攻撃をかける」という秘密文書を饅頭の中に入れて伝令した故事に因むと言われ、また、その形が満月の形をしているところから「一家の大団円をはかる」という意で、八月十五日の「中秋節」には中国の家庭では欠かすことの出来ない菓子となっている。種々の木の実・野菜の種を入れる。日本に伝わったのは十七世紀初め頃で、長崎名物となったとある。]

   

山の淸水に水汲みに

川のせせらぎ洗衫(そえさん)に

行くは所の娘ども

わたしや箱入一人ぼち

[やぶちゃん注:「洗衫(そえさん)」「そえ」はママ。中国語で「洗濯」或いは「洗濯女」の意。現代中国音では「xǐ shān」(シィー・シァン)であるから「そえさん」は現地音の音写と思われる。]

   

一年三百六十五日

三百七十日雨が降る

基隆(きいるん)港は雨の町

雨がふらねば槍がふる

[やぶちゃん注:「基隆(きいるん)」台湾(温帯湿潤気候圏)北端にある現在の省轄市基隆(キイルン)市。基隆港は台湾南端の高雄(カオシュン)港に次ぐ、台湾第二の貨物取扱量を誇り、台湾の貿易・物流の重要拠点として知られる。雨が多いことでも知られ、「雨の港」「雨の都」の異名も持つ。特に三月下旬から 九月下旬までの 凡そ半年もの間が降雨確率の高い時期ととなっており、この期間中の特定の日が降水日になる確率は四十一%以上、で降水日確率が最大となる特異日は六月六日で実に六十%を示す(サイト「Weather Spark」の「基隆市における平均的な気候」のデータを参照した)。ウィキの「基隆市」の「歴史」よれば、『基隆はもともと同地一帯に住んでいた台湾原住民平埔族ケタガラン族の族名がなまってケランとなり、それに台湾語音によって漢字が宛てられ、鶏籠(雞籠』・『ケーラン)と呼ばれていた。今日でも台湾語での呼称はこれで呼ばれる。』。一六二六『年にスペイン人が社寮島(現在の和平島)を占領し』、『サン・サルバドル城を築き、その頃には先住民や漢人の町が形成された』。一六四二『年にオランダ人がスペイン人に代わって社寮島を占領し、石炭や金の採掘に着手したが』、一六六八『年に鄭成功がオランダ人を駆逐し』て『拠点とした港町である。その後』、一六八三『年に清朝が鄭成功一派を撃破した後に清国の支配下に入る。これにより』、『入植する漢人が増えたが、イギリスの軍船による侵犯事件が起こ』っている。『清朝統治時代の』一八六三『年、対外的に正式に開港し』、八年後の一八七五年には『清朝政府がここに台北分防通判を置いたことから、ケーランと近い音でさらに「基地昇隆」の意味を込めて、鶏籠から基隆(キールン)に改変した』。一八八四『年に』は『フランス軍が基隆に上陸』、『劉銘伝率いる部隊と』八『ヶ月に渡』って『対峙する清仏戦争が起こった』一八八六『年に劉銘伝は台湾巡撫に就任し、基隆の重要性を認識していたので、鉄道の施設、港湾や砲台の修復を積極的に進め、台湾初となる鉄道トンネルとなる獅球嶺隧道を完成させた』。一八九五『年に日本が馬関条約により台湾を接収、澳底』(アオディ(おうてい):基隆の南東外の新北市の海岸の町)『に上陸ののち』、『基隆に入った。基隆は日本統治時代以前から対外貿易の拠点となっていたが』、『港湾の水深が浅く岩礁も多かったため』、『大型船の停泊には適さず、近代的な港としての発展には限界があった。日本政府は台湾統治を開始した』四『年後の』一八九九(明治三十二)『年より港湾周囲の浚渫』『工事と防波堤の建設などを進め』、一『万トン級の船舶が停泊可能な近代港湾として整備した。同時に基隆は台湾縦貫鉄道の北側の起点とされ、その経済的な重要性はさらに高まった。また軍事面でも基隆は日本海軍が駐留する軍港とされ』、『要塞地帯(基隆要塞)にも指定されていた』。『基隆は台湾北部に位置し』、『日本に最も近い立地より日本内地との貿易港としても繁栄した。また内地から移住する多くの日本人により』、『急速に都市化が進展』一九二五(大正十四)『年には市制が施行され』、『人口は約』七万(内、内地人は二十五%に達していた)『の都市へと発展した。太平洋戦争(大東亜戦争)中は、その重要性から米軍の攻撃も受けている』とあり、このひっきりなし紛争と戦争の明け暮れを考えれば、終行の「雨がふらねば槍がふる」も頗る腑に落ちる。]

 

[やぶちゃん注:昭和一二(一九三七)年六月十五日発行の雑誌『媽祖』(第十四冊)に、「題詞(尺より)」(「鼻」の注で電子化した)の添えと、旧作の「五月野」・「コロンブス」(前の「海上雲遠」の改題作。本雑誌『媽祖』についてはその私の注を参照されたい)・「鼻」「梅」と本篇「南嶋小曲」の一題詞と五篇で掲載された(これは伊良子清白特集号であった模様である)。署名は「伊良子清白」。]

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