『絞罪にせい!』 ツルゲエネフ(生田春月訳)
『絞罪にせい!』
『千八百三年の事だつた、』と私の年老いたる知人が話し出した、『アウステルリツ役の少し前、私が士官の勤務をしてゐた聯隊はモラヸアに舍營してゐた。
『我々は土地の人民を困らせたり苦しめたりしないやうにと嚴命された。さなくとも、その味方と云ふ事にはなつてゐながら、彼等は我々を猜疑の眼をもつて見てゐたからである。
『私はもと母の農奴であつたイエゴルと呼ぶ從卒を連れてゐた。彼はおとなしい正直な男だつた。私は彼を子供の時から知つてゐて、友達扱ひにしてゐた。
『ところで或日、私の泊つてゐた家(うち)で罵る聲や叫ぶ聲泣く聲が聞えた。主婦(おかみさん)が二羽の牝鷄を盜まれたので、その罪を私の從卒に歸したのである。彼は自分でも辯解をし、私をも證人に呼んだ。……「なにこの男が、イエゴル・アフタモノフが盜みをしたんだつて!」私は主婦(おかみさん)にイエゴルの正直なことを說いて聞かせた、けれども彼女は私の言ふ事なんか耳にも入れなかつた。
『折りから街路(とほり)を行く馬の蹄の音が聞えた。司令長官が幕僚を率(ひき)ゐて來たのであつた。彼は並足で驅(か)つてゐた。がつしり肥つた人で、頭(かしら)を垂れて、胸には肩章(エポレツト)が垂れかかつてゐた。
『主婦(おかみさん)は彼を見ると、ばたばた驅け寄つて、その馬の前に跪(ひざまづ)き、そして髮を振り亂した取亂した姿で、私の從卒を指しながら、聲高(こわだか)に彼のことを訴へ出した。
『「大將樣」と彼女は叫んだ、「お殿樣! どうぞお調べ下さい! お助け下さい! どうぞお救ひ下さいませ! 此の兵隊が私のものを泥棒いたしました!』
『イエゴルは手に帽子を持つて、胸に突出すやうにさへして、番兵ででもあるやうに踵(くびす)をくつつけて、その家の戶口にすつくり立つた儘、一言(ひとこと)も口を利かなかつた! 大將の一行が街(まち)の眞中に立止つたのですつかり恐れ入つてしまつたものか、それとも身にふりかかつた災難に氣を失つてしまつたものか、何とも言へないが、かあいさうに、イエゴルは白墨(チヨオク)のやうに色を失つて、目をぱちくりさせて立つてゐた。
『司令長官は彼に落着きの無い氣味の惡い一瞥をくれて、怒つたやうに「さうなのか?」と呶鳴(どな)つた……けれどもイエゴルは石像のやうに突立つた儘、まるで笑つてゐるやうに齒をむき出してゐた! 傍(はた)から見たら笑つてゐるとしか思へなかつたらう!
『すると司令長官は「絞罪にせい!」と言放つて、馬に拍車を當てて步き出した、はじめは並足で、それから駈足で。一行はその後(あと)を追つた。ただ一人の副官が鞍の上から振り向いてイエゴルをちらと見た。
『命令に背(そむ)くことは出來ない……イエゴルは直ぐにつかまへられて執刑(おしおき)に引立てられた。
『そこで彼はもう人心地も無くなつて、二度程喘ぐやうに言つた、「ああ神樣! ああ神樣!」それから小聲で、「神樣こそ御存知だ、私ぢやない!」
『悲しさうに、悲しさうに彼は泣いた。私に別れを告げながら。私は絕望して叫んだ。「イエゴル! イエゴル! お前はどうして大將に何とも返事をしなかつたんだ?」
『「神樣が御存知です、私ちやありません!」と可哀さうな男は繰返して、しくしく泣いた。主婦(おかみさん)は恐しくなつて來た。彼女はこんな恐しい事にならうとは思ひも懸けなかつたのだ、そして自分も大聲で泣き出した。彼女は人々に赦免(ゆるし)を乞廻(こひまは)つて、牝鷄が見附かつた事を誓つて、事件の顚末(いきさつ)を說明しようとした……
『勿論それは何にもならなかつた。何しろ君、戰時の事だ! それに命令だ! 主婦(おかみさん)はますます大聲に泣いた。
『イエゴルは僧侶に最後の祈をしてもらふと、私の方に振向いた。
『「旦那樣、主婦(おかみさん)に言つて下さい。何も心を痛めることはないつて……私は主婦(おかみさん)を惡く思つちやをりませんから」』
私の知人はこの彼の從卒の最後の言葉を繰返してかう呟いた、「あゝイエゴルシカ、かあいさうな奴、本當に聖者のやうな奴だつた!」そして淚は彼の皺の寄つた頰を傳はつた。
一八七九年八月
【アウステルリツツ役、一八○五年十月十二日に露墺の軍[やぶちゃん注:ロシア・オーストリア連合軍。]がナポレオンポに對して戰つた戰爭。】
【モラヸア、墺太利領になつてゐる土地の名。】
[やぶちゃん注:「アウステルリツツ役」「アウステルリッツの戦い」(ロシア語:Битва под Аустерлицем/ドイツ語:Schlacht von Austerlitz/フランス語:Bataille d'Austerlitz)は一八〇五年にオーストリアがロシア・イギリス等と「第三次対仏大同盟」を結成、バイエルンへ侵攻したことに端を発する戦争で、十二月二日にオーストリア領(現在はチェコ領)モラヴィア(チェコ語:Morava(モラヴァ)/英語:Moravia:現在のチェコ共和国東部の地方名。この地方のチェコ語方言を話す人々は「モラヴィア人」と呼ばれ、チェコ人の中でも下位民族とされて差別されてきた歴史がある。この「主婦」もそうした一人として見るべきであろう。「アウステルリッツの戦い」のあった一八〇五年の戦役では、「ウルムの戦い」でフランス軍がオーストリア部隊を降伏させて、十一月十三日にウィーン入城を果たしたため、敗走したオーストリア皇帝フランツⅡ世が、ここモラヴィアへ後退し、ロシア皇帝アレクサンドルⅠ世率いるロシア軍と合流している。オーストリア領内であるが、この記述から、早々と友好国であるロシアがモラヴィアに駐屯していたことが知られる)のブルノ近郊の町アウステルリッツ(現在のスラフコフ・ウ・ブルナ(チェコ語:Slavkov u Brna))郊外で、ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte 一七六九年~一八二一年)率いるフランス軍が、ロシア・オーストリア連合軍を破った。
「肩章(エポレツト)」(フランス語:épaulette/英語:epaulette・epaulet)肩幅を誇張するための肩装飾。ヨーロッパで十六世紀に男女の衣服の袖付け際(ぎわ)に附けることが流行したが、後には軍服の肩章として、現行では一般のレイン・コートなどの肩飾りに多くみられる。]
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