僧 ツルゲエネフ(生田春月訳)
僧
私は隱者で聖者である一人の僧を知つてゐた。彼はたゞ祈禱の淨樂にのみ生きてゐた。そして祈禱に專念して、寺院の冷たい石疊の上に立ち盡してゐた、その足が膝の下から痺(しび)れて、柱のやうに無感覺になつてしまふまでも。しか彼はそれを感じなかつた、彼は立ち盡して祈禱しつゞけた。
私は彼の心を知つてゐた、或は彼を羨んでゐたであらう。然し彼もまた私の心を知つてゐた、そして私を責めるやうなことはなかつた、私は彼の法悅に達し得なかつたけれども。
彼はその憎むべき『自我(エゴオ)』を滅却する事に成功したのである。私もまたさうであるが、然し私が祈禱を顧みないのはあながち利己心から來たものではない。
私の『自我(エゴオ)』は、多分彼のよりは一層私にとつて重苦しく、厭はしいものなのであらう。
彼はすでに自分自身を忘れる方法を見出した……然し私もまたその方法を見出してゐる、いつもいつもと云ふわけではないけれども。
彼は虛僞(いつはり)を言ふ人ではない……然し私もまた虛僞(いつはり)を言ふものではない。
一八七九年十一月
【僧、ツルゲエネフの見出したものは恐らく藝術であらう。】