學歌 伊良子清白 / 現在の京都府立医科歯科大学(伊良子清白の出身校の後身)の公式学歌
學 歌
一
比叡(ひえ)は明(あ)けたり鴨(かも)の水(みづ)
學城(がくじやう)立(た)てり儼(げん)として
眞理(まこと)の證(あかし)神祕(くしび)の扉(と)
生命(いのち)の燭火(ともし)常(とこ)照(て)りて
星(ほし)の群花(むればな)地(つち)を灼(や)く
二
鐘鳴(かねな)る白晝(まひる)かうかうと
橘井(きつせい)の健兒(けんじ)眉(まゆ)昂(あが)る
制霸(せいは)の業(げふ)を受(う)け繼(つ)がん
豪邁(がうまい)の歌(うた)鑠石(しやくせき)の
巷(ちまた)の風(かぜ)に轟(とゞろ)きぬ
三
見(み)よ夕暮(ゆふぐれ)の空(そら)の月(つき)
靑蓮(せいれん)の花(はな)今(いま)咲(さ)きて
圓(まど)に匂(にほ)ふ史(ふみ)の色(いろ)
永久(とは)の學府(がくふ)の榮光(かゞやき)は
綠(みどり)の旗(はた)の虹(にじ)の橋(はし)
四
神(かみ)と澄(す)むもの雪(ゆき)祭(まつ)り
醫道(いだう)古賢(こけん)の敎(をしえ)あり
生贄(いけにへ)の日(ひ)の曙(あけぼの)に
燃(も)ゆる血潮(ちしほ)を捧(さゝ)げ來(き)ぬ
仁慈(めぐみ)の愛(あい)の赫灼(あかあか)と
[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年作の母校京都医学校の後身である京都府立医科歯科大学の学歌作詞の依頼を受けて、八月に完成したもの。署名は「伊良子清白」。作曲は服部正。「をしえ」はママ。本年、清白、満六十三。同大学「学生便覧」(PDF)の六十八ページに楽譜附きで載る。なお、校歌は別にあり、金子伊昔紅(いせきこう)作詞で(俳人金子兜太の父で医師で俳人)、次のページに載る(但し、金子伊昔紅の名を「金子伊音紅」と誤っている)。こちらで全曲を混声合唱とオーケストラで聴くことが出来る(それによればこの曲は通称「比叡は明けたり」と呼ばれているらしい)。京都府立医科大学校史パンフの一部と思われるものの、第五章「激動の医科大学――戦争と民主化の渦にもまれて」(PDF)の最後にも載るが(作詞・作曲の次行に皇紀で『紀元二千六百年九月』と附すから、公式に学校・学生へ披露されたのは翌九月であったことが判る)、ここでは「教」のルビが正しく「をしへ」となっているものの、一番の「燭火(ともし)」が「独火」と致命的に誤っている。
同大学公式サイトの沿革によれば、同校は、京都市民らの請願を受けた僧侶が発起人となり、寺院・町衆・花街などから寄附を募って設立、運営を京都府に乞い、明治五(一八七二)年十一月、京都東山の名刹粟田口にある青蓮院内に仮療病院を設け、患者の治療を行う傍ら、医学生を教育したものが発祥であった。明治一三(一八八〇)年七月に現在地である上京区河原町通広小路上る梶井町に療病院を移転し、明治十五年、「文部省達第四号医学校通則」に準拠し「甲種医学校」と認定された(伊良子清白は明治三二(一八九九)年にここを卒業した)。後、明治三六(一九〇三)年六月に「専門医学令」により「京都府立医学専門学校」となり、大正一〇(一九二一)年十月には「大学令」により「京都府立医科大学」を設置(同時に予科を開設)している。
「學歌」とは校歌とは異なり、学生たちの歌のニュアンスなのであろうか。
「橘井(きつせい)」医者のこと。西晋・東晋期の葛洪(かっこう)著と伝えられる神仙書「神仙伝」に、漢の蘇仙公が死に臨んで母に遺言して、「来年は疫病が流行するが,庭の井戸水と軒端の橘の葉とを用いれば、病を治すことができる」と告げ,果たしてその通りとなった。この故事から転じて「橘井」を医師の敬称となった。因みに、京都府立医科大学の校章には「橘の葉」がデザインされており、現在の「京都府立医科大学リポジトリ」の名は「橘井(きっせい)」である。
「鑠石(しやくせき)」石をも溶かす暑さを言う。この四番歌は恐らくは四季をイメージしているもので、とすれば「二」は夏で、苛烈な京の夏の暑さを意識しつつ、医学生の医道研鑚への熱意を掛けたものと私はとる。]