甲子夜話卷之五 32 長卷の事
5-32 長卷の事
眞田豐後守【幸善】語りしは、「大業廣記」の中に、小田原攻のとき、神君の御馬先に、長卷(ナガマキ)二百人とか三百人とかあり。其物は柄は三尺ばかり、刃は二尺ばかりのものと云ふ。今尾侯の家中、塚松彥之進と稱する人、この技の師範す。尾州居住と云。此兵器の用法は廣く傳へたきものなり。
■やぶちゃんの呟き
「長卷」「長巻の太刀」の略とされる。太刀の柄を一メートル余りの長さとしたもので、長大な野太刀の発生と同じく、斬撃戦用の武器として案出されたもの。江戸期に至って混同されたように、柄長で、石突(いしづき)をつけて、長刀(なぎなた)に類似したもので、また、長刀の形状発展にも影響したが、本来は太刀がその原形であるので、鞘はないものの、鐔を附け、長い柄には、一部分に組糸や革で巻き締めた柄巻(つかまき)も施される。「結城合戦絵詞」や、永正四(一五〇七)年成立の「細川澄元出陣影」に既に描かれることから、室町中期には盛行していたものと推定される(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。グーグル画像検索「長巻」をリンクさせておく。
「眞田豐後守【幸善】」江戸後期の大名で、老中・信濃松代藩第八代藩主の真田幸貫(ゆきつら 寛政三(一七九一)年~嘉永五(一八五二)年)の初名。ウィキの「真田幸貫」によれば、『徳川吉宗の曾孫に当たる。老中として天保の改革の一翼を担ったほか、藩政改革にも多くの成果を上げた。江戸時代後期における名君の一人として評価されている』とある。静山より三十一歳下。
「大業廣記」樋口栄芳(人物不詳)著「国朝大業広記」(こくちようたいぎようこうき)。徳川氏の来由、および天文一一(一五四二)年の家康の誕生から、元和二(一六一六)年の死没(没後の諸供養等の記事含む)までの、家康の事跡を中心とした編年体史書。明和元(一七六四)年自跋。
「小田原攻」「攻」は「ぜめ」。天正一八(一五九〇)年二月から七月の豊臣秀吉が家康軍を主力部隊として後北条を攻めた小田原征伐。
「尾侯」徳川御三家中筆頭格の尾張侯。尾張徳川家。
「塚松彥之進」不詳。