鏡のひぢ塵 すゞしろのや(伊良子清白)
鏡のひぢ塵
(白浪子へのかへし)
梢離れて散る花も
みな天地を旅ねにて
ませの白菊霧ながら
手折れば千代の雪ぞ降る
長生殿の内に秋更けず
不老門の前に日傾かず
履を嚴にぬぎすてゝ
鶴の背に乘らんには
病の床に伏柴の
なげき樵るてふ有馬山
麓の里にうらぶれて
人こそ可惜やせにけれ
小衾つらき枕邊の
月にめざめてなやみなば
母のねぶりも安からで
なみだやまみにあぶるらむ
葡萄葉茂り橄欖(れもん)咲く
城の花園草長けて
いくさの雲をあふぎみし
速き馬前の夢の兒も
玉の冠の碎けては
浪に漂ふ洋の
島の木陰に沈み行く
紅の日を追ひにけり
庭に匂へる花の色
鏡の影の幻を
めにたてゝ見る塵ひぢに
おどろかんこそをかしけれ
しら鷺や
舟のへさきに巢をかけて
浪にゆられてしやんとたつ
對の花笠たをやかに
咲きこそまじれ桃櫻
春の錦の芦刈祭
舟に桂の棹さして
たけの袂をぬらし候へ
湊河原を行く水の
流れて早き短夜に
七ます星の影を見て
たゞなつかしと一言を
松吹く風に殘しけむ
みやべる思盡きざらば
柳の枝にかけしてふ
小琴に風の來る時
白き小指を絲に觸れ
薄暮橋の袂にて
かれにし人にゆくりなく
めぐりあひたるをりのごと
龍神潛む靑淵の
深きこゝろを君しらべなむ
[やぶちゃん注:明治三三(一九〇〇)年三月二十日発行の『よしあし草』掲載。署名は「すゞしろのや」。
「白浪子」不詳。「有馬山」(兵庫県神戸市北区有馬町にある日本三古湯の一つである有馬温泉付近の山々を指す)の「城」址(後注で考察する)のある「麓の里に」住んでいた詩人らしい。検索すると、昭和一一(一九三六)年に渋谷白浪子著の句集「花薊」なる書を見出せる。但し、この人物も不詳なれば、同定は不能。
「可惜」「あたら」。副詞。立派なものが相応に扱われていないのを惜しむ意の「残念なことに。惜しいことに。価値のある存在が世に出でぬことが惜しまれるさま」。
「なみだやまみにあぶるらむ」「淚や/目見(まみ)に/溢(あぶ)るらむ」であろう。「あふる」は濁音もある。
「橄欖(れもん)」不審。「橄欖」はシソ目モクセイ科オリーブ属オリーブ Olea europaea、「れもん」はムクロジ目ミカン科ミカン属レモン Citrus limon で全くの別種である。なお、ムクロジ目カンラン科カンラン Canarium album(インドシナ原産であるが、江戸時代に日本に渡来し、種子島などで栽培され、果実を生食に、また、種も食用にしたり、油を搾ったりする。それらの利用法がオリーブに似ているため、オリーブのことを漢字で「橄欖」と当てることがあるが、全く別科の植物である。これは、幕末に同じものだと間違って認識され、誤訳が定着してしまったものである、とウィキの「カンラン科」にあり、レモンと同じムクロジ目 Sapindales で、旧分類ではミカン目 Rutales に属していたともある)があるが、これも同定比定候補とするには無理があるように私には思われる。オリーブはウィキの「オリーブ」によれば、『日本での栽培は香川県小豆島で』明治四三(一九一〇)年頃に『はじめて成功した(それ以前に平賀源内がオリーブ栽培に取り組んだが、ホルトノキ』(カタバミ目ホルトノキ科ホルトノキ属ホルトノキ変種ホルトノキ Elaeocarpus sylvestris var. ellipticus:本州西側・淡路島・四国・九州・沖縄・台湾・インドシナなどに分布する常緑高木。和名にある「ホルト」は二説あり、「ポルトガル」のことを意味するという説(実際はポルトガル原産ではない)で、平賀源内による命名とされる説、一方で、江戸時代に薬用に使われていた「ホルト油」(「オリーブ油」のこと。「ポルトガル油」とも呼んだ)の採れる木と誤解されたためという説がある。以上はウィキの「ホルトノキ」に拠る)『をオリーブと誤認し』、『失敗している)。現在は香川県を含む四国全域、岡山県、広島県、兵庫県、九州、関東地方、中部地方、東北地方など全国各地で栽培されている』とあり、本邦への移植は本詩篇以後となるから、これはオリーブではない。対して、レモンはウィキの「レモン」によると、明治六(一八七三)年に『静岡県で栽培が開始され』、明治三一(一八九八)年には現在の『日本のレモンの主産地である』、『広島県の芸予諸島に』、『和歌山県からレモンの苗木がもたらされた』とあるから、有馬近辺にレモンが植生していても何らおかしくない。従ってこれはルビ通り、レモンを指すと考える。
「城」先の「有馬山」から考えると、有馬温泉を見下ろす落葉山山頂に築かれていた落葉山城城址(現在は落葉山城の主郭が山頂の南東に位置する兵庫県神戸市北区有野町唐櫃の妙見寺境内となっている。グーグル・マップ・データ)が候補となろうか。参照した中西徹氏のサイト「お城の旅日記」の「摂津 落葉山城」によれば、『落葉山城は、別名有馬城とも呼ばれ、築城者は定かではないが』、『南北朝時代に築かれたと考えられ、南朝方の湯山左衛門三郎が居城したと文献にある』。『戦国時代には、細川氏の重臣であった三好之長の子政長が』、この『落葉山城を拠点に播磨・丹波へと進出しようとした』が、天文八(一五三九)年、『三木城主別所家直が落葉山城を攻め、政長は河内国へと敗走した』。『その後落葉山城は、三田城主有馬村秀の支配下となり、天正』七(一五七九)『年に有馬加賀守が守る落葉山城を織田信忠が攻め』、『落城した』とあり、「いくさの雲をあふぎみし」「遠き馬前の夢の兒も」という詩句に遜色ない事蹟であるし、この部分、まさに「有馬」の「馬」も掛けてあって、すこぶる腑には落ちる。
「湊河原」湊川の河原か。但し、有馬からは、有意に南西位置となり、水系も繋がっていない。南北朝で、「湊川の戦い」に意識をずらした時代詠へと転じたとすれば、判らなくはない。
「みやべる思」「雅べる思ひ」で、優美・風雅な感じの思いであろう。
「薄暮橋の袂にて」音数律から「薄暮/橋の袂にて」で「薄暮」を「ゆふぐれ」と当て訓して読んでおく。「薄暮橋」という固有名の橋は現認出来なかった。
「かれにし人」「離(か)れにし人」幽冥の境に遠く離れてしまったあのお方、の意でとっておく。
「ゆくりなく」副詞。思いがけなく・突然に。]