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2019/06/28

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(47) 「光月の輪」(2) / 山島民譚集~完遂

 

《訓読》

 【竈】更ニ今一タビ馬蹄ト竃トノ因緣ヲ說クべシ。馬ノ前蹄ノ上ニ兩空處アリ名ヅケテ竃門(ソウモン)ト謂フ。凡ソ善ク走ルノ馬、前蹄ノ痕地ニ印スルトキニ、後蹄ノ痕反リテ其先ニ在リ。故ニ軍中ニ良馬ヲ稱シテ跨竈トハ云フナリ〔一話一言所引獅山掌錄〕。兩空ト云フコト自分ニハ解セザレドモ、馬ノ足跡ノ三邊著クシテ中空洞ナルハ誠ニ竃ノ形トヨク似タリ。之ニ由リテ猶想像スレバ、馬醫等ガ馬ノ蹄ヲ磨ギシ岩ヲ靈地トシテ尊崇スルヤ、其形狀ノ如何ニモ家々ノ竃ト似タルヨリ、竃ノ神ト馬ノ神トハ同一又ハ深キ關係アリト信ズルニ至リシニハ非ザルカ。若シ然リトスレバ、後年新ニ馬ノ爲ノ手術場ヲ選定スルニ、亦力メテ地形ノ竃ニ似タル處ヲ求メ、或ハ廣敞ノ地ナラバ圓ク之ヲ劃シテ其三方ヲ圍ヒ、恐クハ南ノ一方ヨリ馬ヲ曳キ入ルヽコトヽナセシナラン。【ソウゼン場】越後南蒲原地方ニテハ馬ノ蹄ヲ切ル爲ニハ特定ノ用地アリ、之ヲ名ヅケテ「ソウゼン場」ト云フ〔外山且正君談〕。【勝善神】「ソウゼン」ハ即チ前章ニ述べタル蒼前神又ハ勝善神ニテ、今モ猿屋ノ徒ガ祀ル神ナリ。關東地方ノ村々ニモ、山野ノ片端ニ此種ノ一地區ヲ構フルモノ多ケレドモ、普通ニ之ヲ何ト呼ブカヲ知ラズ。信州小田井ノ光月ノ輪ハ、中仙道ノ通衢ニ近クシテ夙ニ其奇ヲ說ク者多シ。所傳既ニ失ハルト雖亦一箇ノ蒼前場ナルニ似タリ。今ノ北佐久郡御代田村ト岩村田町ノ境ハ以前ハ原野ナリ。往來ヨリ些シ脇ニ、一町バカリ眞丸ニ幅二尺ホドノ道輪ノ如クニ附キタリ。大勢ノ足ヲ以テ蹈ミ附ケタルガ如シ。輪ノ内外ハ夏草ナドノビヤカニ生ヒ茂リタルニ、道トオボシキ處ノミ草悉ク偃シタリ。之ヲ光月輪ト稱ス。俗談ニ所ノ氏神夜每ニ馬ヲ責メタマフ處ナリ、折トシテ轡ノ音ナド聞ユト云ヘリ〔本朝俗諺志一〕。此說ハ諸書若干ノ異同アリ。或ハ輪ノ中ノ草夏ニ入レバ枯ルト云ヒ〔和訓栞〕、或ハ草全ク生ゼズ雪モ亦此中ニハ積ラズ、【權現】木幡山ノ權現夜ハ出デテ此地ニ遊ビタマフト云ヒ〔和漢三才圖會〕、或ハ雪ノトキ輪ノ處ノミ低ク見ユト云ヒ、其附近別ニ一輪アリテ馬ヲ其中ニ乘リ入ルレバ必ズ死ストテ人之ヲ怖シガルト稱ス〔百卷本鹽尻二十五〕。輪ノ大サ及ビ數ニ就キテモ區區ノ說アリ、而モ今ハ既ニ跡ヲ留メザルガ如キナリ。【カウゲ】光月ノ輪ノ「クワウゲツ」ハ芝原ヲ「カヾ」又ハ「カウゲ」ト呼ブ古語ヨリ出デ、之ニ月ノ輪ヲ思ヒ寄セシモノナルべキモ、何ガ故ニカヽル地貌ヲ呈スルニ至リシカハ之ヲ解說スル能ハズ。近年東京ノ近郊ニ數多起リタル競馬場、賭事ノ禁令ヲ勵行スルニ及ビテバタバタト廢業シ、其址多クハ大正ノ新月ノ輪トナリタル例アレド、山上ノ農鳥又ハ農牛ヲ見テモ明ラカナル如ク、前代傳フル所ノ者ハ皆天然ノ一現象ナルべシ。甲州南都留郡盛里村ト北都留郡大原村トノ境ノ山ニ、賴朝公ノ大根畝(ウネ)ト呼ブ處アリ。頂ヨリ麓マデ數峯起伏シテ畝ノ如シ。其間ニ草ノ圓ク枯ルヽ所數所アリ。徑四五尺遠望スレバ環ノ如シ。【螺】其下ニ螺ノ潛メル爲此ノ如シト云フ。巖ノ上ニ天狗松アリ、之ヲ伐レバ災アリ〔甲斐國志三十六〕。同國北巨摩郡多麻村小倉ノ上ニ赭山アリ。黑キ岩斑ヲ爲スニヨリ名ヅケテ斑山(マダラヤマ)ト云フ。地中ニ螺ヲ棲マシムルガ故ニ草木ヲ生ゼズト傳ヘタリ〔同上二十九〕。同郡淸哲村靑木組ノ太日向山ニハ、山ノ草ノ圓形ニシテ黑ク見ユル處二所アリ。【山癬】之ヲ山癬(ヤマタムシ)ト云フ。圓形ノ大キサハ四十步バカリ、近ヅケバ見エズ、遠ク望メバ瞭然タリト云フ〔同上三十〕。今モアリヤ否ヤヲ知ラズ。「ホラ」ト云フ動物ガ地中ニ住ムト云フハ甚ダ當ニナラヌ話ナリ。法螺ト云フハモト樂器ナレド、之ヲ製スべキ貝ヲモ亦「ホラ」ト呼ビ、山崩レヲ洞拔ケナドヽ云フヨリ、ソレヲ此貝ノ仕業ト思フニ至リシナリ。此ノ如キ思想ハ疑モ無ク蟄蟲ヨリ起リシナランガ、大鯰白田螺ノ類ノ元來水底ニ在ルべキ物、地中ニ入リテ住ムト云ヒシ例少ナカラズ。備前赤磐郡周匝(スサイ)村ノ山ニハ、山腹ニ之ニ似タル圓形ノ地アリテ、一町或ハ二町ノ間夏ニ入レバ草枯ル。【蛇食】土人之ヲ蛇食(ジヤバミ)ト名ヅケ其地蛇毒アリテ此ノ如シト云ヘリ〔結毦錄[やぶちゃん注:底本では「結耗錄」であるが、これは誤字或いは誤植で、「結毦錄」(「けつじろく」と読む)が正しいので、特異的に訂した。]〕。土佐ニ於テ土佐郡秦村大字秦泉寺ノ中ニ、一所圓クシテ草ノ生ゼザル所アリ。【地下ノ寶】土人之ヲ解說シテ凡ソ土中ニ金銀アレバ草生ゼザルナリト云ヘリ〔土佐海續編〕。此等ノ土地ハ古今共ニ必ズシモ馬ノ祭場トシテハ用ヰラレズ。唯其外觀ノ如何ニモ顯著ナルガ故ニ、苟クモ駒形信仰ノ行ハルヽ地方ニ於テハ、終ニ之ヲ輕々ニ看過スル能ハザリシナルべシ。加賀ノ白山ノ上ニハ花畠平ト云フ地アリ。【サヘノカハラ】其一部ヲ「サヘノカハラ」ト云ヒ、其北ヲ角力場ト云フ。八九尺ノ間圓形ニシテ自然ニ角力場ヲ爲セリ〔白山遊覽圖記二〕。出羽ノ莊内ノ金峯山ノ峯續キニ鎧峯アリテ、山中ニ天狗ノ相撲取場ト云フ禿アリ。常ニ綺麗ニシテ草木ヲ生ゼズ〔三郡雜記下〕。陸中ノ大迫(オハザマ)ノ山ニ於テ龍ガ馬場ト云ヒシハ恐クハ之ト似タル處ナルべシ。【鏡】薩摩薩摩郡東水引村大字五代ノ鏡野ト云フハ、神代ニ天孫八咫鏡[やぶちゃん注:ここも底本は「八呎鏡」であるが、流石に誤植と断じて特異的に訂した。]ヲ齋キ祀リタマフ處ト稱ス。此原野ノ内ニ周圍一町バカリ、正圓ニシテ草ノ色他處ニ異ナル一區アリ。四季共ニ茂リテ霜雪ニモ枯レズ。又年々ノ例トシテ此野ヲ燒クニ、圓キ處ノミハ燒ケズト云ヒ、邑人常ニ之ヲ尊ビテ牛馬ヲ放チ繫グコト無シ〔三國名勝圖會〕。【池ケ原】美作勝田郡高取村大字池ケ原ノ月ノ輪ト云フ地モ、平地ニシテ狀況ヨク小田井ノ光月輪ト似タリ。往古ヨリ不淨アレバ牛馬損ズト言傳ヘテ、牛馬ニ草モ飼ハズ、永荒(エイアレ)減免ノ取扱ヒヲ受クル荒地ナリ〔東作誌〕。往來筋ニ接近シテ人ヨク之ヲ知ル。【月】時トシテ月影澤一面ニ見ユルコトアリト云ヘバ低濕ノ地ナルガ如ク、村ノ名ヲ池ケ原ト呼ブニ由ツテ案ズレバ、以前ノ池ノ漸ク水アセタルモノカ。東京ノ西郊ナドニハ、所謂井ノ頭ノ泉涸レテ、羅馬ノ劇場ノ如キ形ヲシテ殘レルモノ處々ニ在リ。信濃美作ノ月ノ輪モ亦此類ナリトスレバ、草ノ生長、霜雪ノ消エ積ル有樣、自然ニ他ト異ナルモノアリト云フモ怪シムニ足ラザルノミナラズ、之ヨリ推及ボシテ更ニ第二ノ奇跡、【ダイダラボウシ】「ダイダラボウシ」ノ足跡ヲモ解釋シ得ルノ見込ミアルナリ。

 

《訓読》

 【竈(かまど)】更に、今一たび、馬蹄と竃との因緣を說くべし。馬の前蹄の上に兩空處あり、名づけて竃門(そうもん)と謂ふ。凡そ善く走るの馬、前蹄の痕、地に印するときに、後蹄の痕、反(そ)りて其の先に在り。故に軍中に良馬を稱して「跨竈(こそう)」とは云ふなり〔「一話一言」所引「獅山掌錄」〕。兩空と云ふこと、自分には解せざれども、馬の足跡の三邊、著(しる)くして[やぶちゃん注:非常にくっきりとしていて、しかも。]、中、空洞なるは、誠に竃の形と、よく似たり。之れに由りて、猶ほ想像すれば、馬醫等が馬の蹄を磨(と)ぎし岩を靈地として尊崇するや、其の形狀の、如何にも家々の竃と似たるより、「竃の神」と「馬の神」とは同一、又は、深き關係ありと信ずるに至りしには非ざるか。若し然りとすれば、後年、新たに馬ノ爲めの手術場を選定するに、亦、力(つと)めて、地形の竃に似たる處を求め、或いは廣敞(くわうしやう)[やぶちゃん注:現代仮名遣「こうしょう」で「高くて広々としているさま」の意。]の地ならば、圓(まろ)く之れを劃(かく)して、其の三方を圍(かこ)ひ、恐らくは南の一方より馬を曳き入るゝことゝなせしならん。【そうぜん場】越後南蒲原地方にては、馬の蹄を切る爲には特定の用地、あり。之れを名づけて「そうぜん場」と云ふ〔外山且正君談〕。【勝善神】「そうぜん」は、即ち、前章に述べたる「蒼前神(さうぜんしん)」又は「勝善神(しやうぜんしん)」にて、今も猿屋の徒が祀る神なり。關東地方の村々にも、山野の片端に此の種の一地區を構ふるもの、多けれども、普通に之れを何と呼ぶかを、知らず。信州小田井の「光月(くわうげつ)の輪」は、中仙道の通衢(つうく)[やぶちゃん注:四方に通じた交通の便の良い道路。往来の多い街道。]に近くして、夙(つと)に其の奇を說く者、多し。所傳、既に失はると雖も、亦、一箇の「蒼前場」なるに似たり。今の北佐久郡御代田村と岩村田町の境は以前は原野なり。往來より些(すこ)し脇に一町ばかり[やぶちゃん注:約百九メートル]、眞丸(まんまる)に、幅二尺ほどの道、輪のごとくに附きたり。大勢の足を以つて蹈み附けたるがごとし。輪の内外は夏草などのびやかに生ひ茂りたるに、道とおぼしき處のみ、草、悉く偃(ふ)したり[やぶちゃん注:「伏されてある・倒されている」の意。うっひゃあぁつっ! ミステリー・サークルそのものじゃんか!! 面白れええぞ!。之れを「光月輪(くわうげつのわ)」と稱す。俗談に、『所の氏神、夜每に、馬を責めたまふ處なり。折りとして、轡(くつわ)の音など聞ゆ』と云へり〔「本朝俗諺志」一〕。此の說は諸書、若干の異同あり。或いは、『輪の中の草、夏に入れば、枯るる』と云ひ〔「和訓栞」(わくんのしほり)〕、或いは、『草、全く生ぜず、雪も亦、此の中には積らず。【權現】木幡山(こばたやま)の權現、夜は出でて、此の地に遊びたまふ』と云ひ〔「和漢三才圖會」〕、或いは、『雪のとき、輪の處のみ、低く見ゆ』と云ひ、『其の附近、別に一輪ありて、馬を其の中に乘り入るれば、必ず死すとて、人、之れを怖ろしがる』と稱す〔百卷本「鹽尻」二十五〕。輪の大きさ及び數に就きても、區區の說あり、而も今は既に跡を留めざるがごときなり。【かうげ】「光月の輪」の「くわうげつ」は、芝原を「かゞ」又は「かうげ」と呼ぶ、古語より出で、之れに「月の輪」を思ひ寄せしものなるべきも、何が故にかゝる地貌(ちぼう)を呈するに至りしかは、之れを解說する能はず。近年、東京の近郊に數多(あまた)起こりたる競馬場、賭け事の禁令を勵行するに及びて、ばたばたと廢業し、其の址、多くは、大正の新「月の輪」となりたる例あれど、山上の「農鳥(のうとり)」又は「農牛(のううし)」[やぶちゃん注:『甲州南都留郡盛里村と北都留郡大原村との境の山に、「賴朝公の大根畝(うね)」と呼ぶ處あり。頂きより麓まで、數峯、起伏して畝のごとし。其の間に草の圓く枯るゝ所、數所あり。徑(わた)り四、五尺、遠望すれば、環のごとし。【螺】其の下に「螺(ほら)」の潛(ひそ)める爲め、此くのごとし、と云ふ。巖(いわほ)の上に天狗松あり、之れを伐れば、災ひあり〔「甲斐國志」三十六〕。同國北巨摩郡多麻村小倉(こごい/こごえ[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版全集は「こごい」と振るが、歴史的仮名遣でこれで正しいかどうかは不明。なお、現在の住所表示では「こごえ」。ただ、旧呼称は確かに「こごい」であったことは研究者の著作によって明らかではある。])の上に赭山(あかやま)あり。黑き岩、斑(まだら)を爲すにより、名づけて「斑山(まだらやま)」と云ふ。地中に「螺(ほら)」を棲ましむるが故に、草木を生ぜず」と傳へたり〔同上二十九〕。同郡淸哲村靑木組の太日向山には、山の草の圓形にして黑く見ゆる處、二所あり。【山癬】之れを「山癬(やまたむし)」と云ふ。圓形の大きさは四十步(ぶ)[やぶちゃん注:約百三十二平方メートル。畳換算で八十畳敷き相当。]ばかり、近づけば見えず、遠く望めば、瞭然たりと云ふ〔同上三十〕。今もありや否やを知らず。「ほら」と云ふ動物が地中に住むと云ふは、甚だ當てにならぬ話なり。法螺(ほら)と云ふはもと樂器なれど、之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼び、山崩れを洞拔けなどゝ云ふより、それを此の貝の仕業と思ふに至りしなり。此くのごとき思想は疑ひも無く、蟄蟲(ちつちゆう)[やぶちゃん注:ここは広義の本草学で謂う脊椎動物の両生類・爬虫類を加えて無脊椎動物以下の広義の「虫」類の内でも、特に地中に潜り潜む(冬眠や夏眠とは限らなくてよい。土中で孵化して地面から出現する種も含まれる)種類を指している。観察上は蛙・蛇・陸生貝類やミミズ・蟻・蟬或いはモグラなども皆、「蟄蟲」となろう。]より起りしならんが、大鯰(おほなまづ)・白田螺(しろつぶ)の類ひの、元來、水底に在るべき物、地中に入りて住む、と云ひし例、少なからず。【蛇食(じやばみ)】備前赤磐郡周匝村(すさいそん)の山には、山腹に之れに似たる圓形の地ありて、一町或いは二町[やぶちゃん注:約二メートル十八センチメートル。]の間、夏に入れば、草、枯(か)る土人、之れを「蛇食(じやばみ)」と名づけ、其の地、蛇毒ありて此くのごとしと云へり〔「結毦錄(けつじろく)」〕。土佐に於いて、土佐郡秦(はだ)村大字秦泉寺(じんぜんじ)の中に、一所、圓くして草の生ぜざる所あり。【地下の寶】土人、之れを解說して、『凡そ、土中に金銀あれば、草、生ぜざるなり』と云へり〔「土佐海」續編〕。此等の土地は、古今共に、必ずしも馬の祭場としては用ゐられず。唯だ、其の外觀の如何にも顯著なるが故に、苟(いやし)くも駒形信仰の行はるゝ地方に於いては、終に之れを輕々に看過する能はざりしなるべし。加賀の白山の上には花畠平と云ふ地あり。【さへのかはら】其の一部を「さへのかはら」と云ひ、其の北を「角力場(すまふば)」と云ふ。八、九尺の間、圓形にして自然に角力場を爲せり〔「白山遊覽圖記」二〕。出羽の莊内の金峯山の峯續きに鎧峯(よろひみね)ありて、山中に「天狗の相撲取場」と云ふ禿(はげ)あり。常に綺麗にして草木を生ぜず〔「三郡雜記」下〕。陸中の大迫(おはざま)の山に於いて「龍が馬場」と云ひしは、恐らくは之れと似たる處なるべし。【鏡】薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野と云ふは、神代に、天孫、八咫鏡(やたのかがみ)を齋(いつ)き祀りたまふ處と稱す。此の原野の内に周圍一町ばかり、正圓にして、草の色、他處に異なる一區あり。四季共に茂りて、霜雪にも枯れず。又、年々の例として此の野を燒くに、圓き處のみは燒けずと云ひ、邑人(むらびと)、常に之れを尊(たつと)びて、牛馬を放ち繫ぐこと無し〔「三國名勝圖會」〕。【池ケ原】美作勝田郡高取村大字池ケ原の「月の輪」と云ふ地も、平地にして狀況よく小田井の「光月の輪」と似たり。往古より、不淨あれば牛馬損ず、と言ひ傳へて、牛馬に草も飼はず、永荒(えいあれ)・減免の取り扱ひを受くる荒地なり〔「東作誌」〕。往來筋に接近して、人、よく之れを知る。【月】時として、月影、澤一面に見ゆることありと云へば、低濕の地なるがごとく、村の名を「池ケ原」と呼ぶに由つて案ずれば、以前の池の、漸(やうや)く、水、あせたるものか。東京の西郊などには、所謂、「井の頭」の泉、涸れて、羅馬(ローマ)の劇場のごとき形をして殘れるもの、處々に在り。信濃・美作の「月の輪」も亦、此の類ひなりとすれば、草の生長、霜雪の消え積る有樣、自然に他と異なるものありと云ふも、怪しむに足らざるのみならず、之れより推し及ぼして、更に第二の奇跡、【だいだらぼうし】「だいだらぼうし」の足跡をも、解釋し得るの見込みあるなり。

[やぶちゃん注:「馬の前蹄の上に兩空處あり、名づけて竃門(そうもん)と謂ふ」これは中国由来だね。中文サイトの「跨竈」を見られよ。馬蹄の後は確かにその通り! しかし、「自分には解せざれども」に諸手を挙げて、賛成! 蹄は竈の形に確かに似ている。しかし、その二つの空隙は確かに判らんね。

「越後南蒲原地方」旧南蒲原郡。ウィキの「南蒲原郡」の地図で旧域を確認されたいが、現存する南蒲原郡(グーグル・マップ・データ。以下同じ。なお、この表示域が概ね旧郡域)の他、三条市全域・長岡市の一部・加茂市の一部・見附市の一部・燕市の一部が含まれた。

「勝善神(そうぜんしん)」「蒼前神(さうぜんしん)」「勝善神(しやうぜんしん)」既出既注或いは「蒼前神」「勝善神」孰れも歴史的仮名遣を無視して「そうぜんしん」と読むのかも知れない。少なくともリンク先で引用した「ブリタニカ国際大百科事典」の「蒼前様(そうぜんさま)」の解説はそのように読めるからである。但し、「ちくま文庫」版は「勝善神」に『しょうぜんしん)』のルビを振っている。

「信州小田井」面倒なことに、長野県佐久市小田井と、長野県北佐久郡御代田町小田井が現存するが、以下の叙述から見て前者である。

「北佐久郡御代田村と岩村田町の境」長野県北佐久郡御代田町御代田の東西で、長野県佐久市岩村田の東北で、長野県佐久市小田井は接する。小田井は御代田を中に挟んで飛び地であるが、この謂い方と現在の地割から見ると、小田井の東の飛び地にそれはあったか。

「『草、全く生ぜず、雪も亦、此の中には積らず。【權現】木幡山(こばたやま)の權現、夜は出でて、此の地に遊びたまふ』と云ひ〔「和漢三才圖會」〕「和漢三才図会」の「巻第六十八」の「信濃」の以下。所持する原本画像から電子化する。

   *

小田井 廣野也此野草芝中自成輪形而草不生雪亦

 不降積其輪大尺許經一町許呼曰髙月輪未知其所

 以也相傳曰向山名木幡山其峯在權現社此神乘馬

 夜出遊于此

○やぶちゃんの書き下し文

小田井 廣き野なり。此の野、草芝の中、自(おのづ)から、輪の形を成す。草、生えず。雪も亦、降り積もらず。其の輪、大いさ尺許り。經(さしわたし)一町許り。呼んで「髙月輪(かうげつのわ)」と曰ふ。未だ其の所以を知らざるなり[やぶちゃん注:どうしてそうなるのかという理由は判らない。]。相ひ傳へて曰ふ、『向ふの山を「木幡山」と名づく。其の峯に、權現の社、在り。此の神、馬に乘り、夜、出でて此に遊ぶ』と。

   *

「木幡山」は確認出来ないが、良安は「向ふの山」と言っており、私の比定地が正しいとすれば、まさに湯川の対岸の長野県佐久市横根のここがそれらしく見える(国土地理院図)。南山麓に神社も確認出来、また、この「峯」を南東に登ると、千百五十五メートルの「平尾富士」があり、山頂には神社もある。如何にもこれっぽい感じはする。

「雪のとき、輪の處のみ、低く見ゆ」そんなの、全然、不思議じゃないぜ、柳田先生。

『近年、東京の近郊に數多(あまた)起こりたる競馬場、賭け事の禁令を勵行するに及びて、ばたばたと廢業し、其の址、多くは、大正の新「月の輪」となりたる例あれど』出ました! 柳田先生の落語!

『甲州南都留郡盛里村と北都留郡大原村との境の山に、「賴朝公の大根畝(うね)」と呼ぶ處あり』「甲州南都留郡盛里村」は山梨県都留市盛里で、「北都留郡大原村」は山梨県大月市猿橋町であるから、現在の九鬼山であろう。標高九百七十メートルで、大月市の百蔵山で生まれた桃太郎が鬼退治にやってきた山と言う伝承を持ち、東北東六百メートル弱の位置に「天狗岩」もある。登山サイトを見ると、この天狗岩から北西に下る尾根辺りを「賴朝公の大根畝」と称したらしい。この辺りが頼朝の狩場であったという伝承があることに由るらしい。

『同國北巨摩郡多麻村小倉(こごい/こごえ[やぶちゃん注:「ちくま文庫」版全集は「こごい」と振るが、歴史的仮名遣でこれで正しいかどうかは不明。なお、現在の住所表示では「こごえ」。ただ、旧呼称は確かに「こごい」であったことは研究者の著作によって明らかではある。])の上に赭山(あかやま)あり』山梨県北杜市須玉町(すたまちょう)小倉(こごえ)。これは「甲斐国志」の巻之二十九の「山川部第十」にある。リンク先の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して以下に電子化する。カタカナを平仮名に代え、句読点や濁点を加えて読み易くした。傍点「ヽ」は太字にした。

   *

一〔斑  山〕東は塩川[やぶちゃん注:原典は「鹽」とごちゃついた字体。現行も「塩川」。]、西は玉川[やぶちゃん注:現行では「須玉川」。]に界し、南は東向、大蔵、小倉諸村に跨り、北は津金山に續き、頗る高大にして兀山[やぶちゃん注:「こつざん」。禿げ山。]なり。赭土の間に、往々、黑岩ありて斑文[やぶちゃん注:「はんもん」。斑紋。]をなす。故に名づく。今、訛して曼荼羅山、萬鳥山、眞鳥山なども云へり。土俗、云、地中に螺(ほら)を棲ましむるに因りて、草木を生ぜずと。○東向村御林 長百五拾間、橫五拾四間[やぶちゃん注:縦二百七十二・七メートル、横約九十八メートル。]。

   *

「同郡淸哲村靑木組の太日向山」山名の読み不詳。この名では現認出来ないが、「同郡」(旧北巨摩郡)となれば、山梨県北杜市白州町白須の日向山(ひなたやま)か。

『之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼び、山崩れを洞拔けなどゝ云ふより、それを此の貝の仕業と思ふに至りしなり』「之れを製すべき貝をも亦、「ほら」と呼」ぶ、とは本末転倒。腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis は古くからオセアニア・東南アジア・日本で楽器(本邦では平安時代に既に見られる)として使用され、本邦では特に修験道の法具に用いた。ホラガイについては私の『毛利梅園「梅園介譜」 梭尾螺(ホラガイ)』を参照されたい。ここに書かれた崩落や地震が法螺貝が起こすという話は、一般の方は非常に奇異に感じられるであろうが(地震と地下の「大鯰」伝承はご存じでも)、民俗伝承上ではかなり知られたものである。例えば、私の「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」や同書の「法螺貝の出しを見る事」を参照されたい。これはホラガイが熱帯性で生体のホラガイを見た日本人が殆んどいなかったこと、修験者・山伏がこれを持って深山を駆けたこと等から、法螺貝は山に住むと誤認し、その音の異様な轟きが、山崩れや地震と共感呪術的に共鳴したものとして古人に認識されたためと私は考えている。

「白田螺(しろつぶ)」「ちくま文庫」版は『しろたにし』とルビするが採らない。私はこれは「白い」「田」=陸地に居る「螺」(つび・つぶ:巻貝の総称)で、実はホラガイのやや小型化した妖怪(同じく崩落や地震を起こす)を指すと考えるからである。この読みに異論のある向きは、例えば「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「シロツブ」を見られたい。そこでは「越後野志」巻十四を引用元として、かく訓じている(但し、その場合のそれはアルビノのタニシ(腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae)ではある)。無論、陸生貝類(有肺類)の誤認としてもよいが、純陸生のそれは日本本土では大型の個体は極めて少なく、しかもそのアルビノとなると、まず、ここで比定候補に挙げるべきものはない。

「備前赤磐郡周匝村(すさいそん)」「そん」はウィキの「周匝村」に拠った。それによれば、現在の岡山県赤磐(あかいわ)市河原屋(かわらや)・草生(しそう)・周匝(すさい)・福田(リンク先で河原屋地区から時計回りで川沿いに展開するのが判る)に当たるとある。草生地区(航空写真)は名前がそれらしくは見える。

「蛇食(じやばみ)」小学館「日本国語大辞典」に、山野で直径五~十メートルほどの円形に草木が生えない場所とあり、「俚言集覧」(十九世紀前期に成立したと考えられる国語辞書。福山藩の漢学者太田全斎が自著の「諺苑(げんえん)」を改編増補したものと見られる。全二十六巻。これは先行する国学者石川雅望(まさもち)の古語用例集「雅言集覧」に対するものとして企画したもので、口語・方言を主として扱い、諺も挙げてある。現行では後の幕末に井上頼圀・近藤瓶城(へいじょう)が五十音順に改めて増補刊行した「増補俚言集覧」(全三冊)が一般に使用される。江戸期の口語資料として重要。以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)に載ることが記されてある。

「結毦錄(けつじろく)」儒者で博物学的本草学者でもあった松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:名は玄達)が宝暦九(一七九六)年刊の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの当該頁の画像を視認して以下に電子化する。同前の仕儀に記号も加えて読み易くした。但し、読みは一部に留めた。

    *

  「蛇ばみ」の事

備前周斉周匝(すさい)村と云村あり。その邉(あだり[やぶちゃん注:ママ。])の山に、夏に至れば、俄に山の半腹(はんふく)の処、一處[やぶちゃん注:両漢字表記の違いはママ。]、月暈(かさ[やぶちゃん注:「暈」ののみへのルビ。])の如く、一町餘も、草、枯れて、圓(まどか)にして、草、生(しやう)ぜず。春時は、草、生ずれども、夏に至れば枯(か)る。毎年(まいねん)此(かく)のごとし。土人、「蛇(じや)ばみ」と云。村田生[やぶちゃん注:不詳。松岡の門弟の学生か。]、物語に、『信州、「武藏野(むさしの)」と云[やぶちゃん注:「いふ」。]処あり。野中、夏に至れば、右の説の如く、圓(まろ)く圍(かこ)みの中(うち)、草を生ぜず。六、七十間(けん)[やぶちゃん注:百八~百二十七メートル。]、或いは半町[やぶちゃん注:五十九センチメートル。]餘(よ)も、かくのごとし。土人、「月の輪(わ)」と云』と。

    *

「土佐郡秦(はだ)村大字秦泉寺」高知県高知市東秦泉寺(ひがしじんぜんじ)・北秦泉寺・中秦泉寺附近(西に向かって展開している)であろう。

『加賀の白山の上には花畠平と云ふ地あり。其の一部を「さへのかはら」と云ひ、其の北を「角力場(すまふば)」と云ふ』私は白山に登ったことがないのでよく判らぬが、「ヤマケイ・オンライン」のこちらの「白山」の地図の東北部に「お花松原」があり、その西北には「地獄谷」が、白山方向に戻れば、「血の池」もあるので「さへのかはら」(賽の河原)も当然あろう。「角力場」は現認出来ない。

「出羽の莊内の金峯山の峯續きに鎧峯(よろひみね)」山形県鶴岡市砂谷のここ金峯山はその東北(直線で一・三キロメートルで、登山実測例では一時間かかる)のここ

「天狗の相撲取場」確認出来ない。なお、この手の有意な空隙地をかく呼称するケースは日本各地に見られる。

『陸中の大迫(おはざま)の山』岩手県花巻市大迫町(おおはさままち)大迫はここ(国土地理院図)。大迫を冠する地区は広いが、ここが本家っぽいから、この北後背地の何れかのピークか。

「薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野と云ふは、神代に、天孫、八咫鏡(やたのかがみ)を齋(いつ)き祀りたまふ處と稱す」この地名は確かに現在の薩摩川内(さつませんだい)市五代町(ちょう)なのであるが、かなりややこしい感じがする。何故なら、この八咫鏡を祭神としていた鏡山(かがみやま)神社は、五代町に西で接する鹿児島県薩摩川内市小倉町にあったのであるが(ここは伝承では邇邇杵尊が当地の国津神の抵抗にあった際に、八咫鏡を隠した場所と伝わる)後に小倉町の八尾神社に合祀されて廃絶している。ところがこの八尾神社というのは、現在は鹿児島県薩摩川内市宮内町(五代町東で隣接)の新田神社の境外末社になっているのである。従って、この三つの町が候補地になろか。しかし、最後の新田神社は合祀の結果であるから、もう除外してよい。そうすると、現在の小倉町か五代町が比定候補地となる。私は心情的には、失われた小倉町にあった鏡山神社の跡地(位置不明)附近を比定したくはなる(以上はウィキの「新田神社(薩摩川内市)」を参考にはした)。「鏡野」なんて素敵な名なのになぁ。【二〇一九年六月三十日追記】最後の最後までお世話になってしまった。T氏より昨日メール来信。

   《引用開始》

六か月に渡る「山島民譚集」有難うございます。

余計な御世話として、「薩摩薩摩郡東水引村大字五代の鏡野」の貴下註が面白く、『三國名勝圖會』の当該巻十三・十四の「薩摩國高城郡」の「水引」を読んでみました。

   *

鏡野【地頭館より酉方、四十町許、】 宮内村五代にあり、傳へ稱す、高古瓊々杵尊天降玉はんとするや、天照大神の御形見として親から皇孫に授け玉へる八咫(タ)鏡を齋き奉り玉ふ所なり、故に其名を鏡野といふ、今此原野の内周廻一町許、正圓(マンマル)の内艸の色他所に異りて四季共に生え茂り、霜雪にて枯るゝことなし、是其靈蹟なる故なりといへり、又年々火を以て、此野を燒ける例なるに、此一圓の所のみは、曾て燒る事なし、世人此傳を知らざる者見ても、艸色の異なるに驚くべし、邑人も常に尊ひ崇めて、牛馬を放ち繋がず、

[やぶちゃん注:以下、漢詩は一行二句表示であるが、ここのみ私が原典の訓点を加えて、その分、格好が悪くなったので、一段組みに直した。]

  鏡野叢       釋不石

 平野周遭似鏡圓

 春風春雨草綿々、

 人放火無煙起

 拍手同歌大有年、

   *

文章では、これだけですが、同じ巻十三にある図を見ると、「一之磧觀音堂」に「鏡野」と「小倉」(コクラ)の家並み及び川内川が描かれています。

推測するに、小倉川が川内川に流れ込む当たりの家並みが描かれ、其の奥に「鏡野」をもつ山があります。五代町と小倉町とは高城川右岸の山の稜線で区切られています。この位置関係をもとに国土地理院地図で見ると、七迫(ななさこ)の北にある「標高106.1」の山が「鏡野」を持つ山の候補となります(この山の北北東奥の「標高114」では川内川から見ると、手前のこの「標高106.1」が邪魔になるように思われます)。この山(奧の山でも)であれば、「五代」の人は五代、「小倉」の人は小倉と言ってもおかしくないと思います。

一番の収穫は「巻十三の図」に尽きます。

   《引用終了》

いや! この図はほんまに! ええなあ! 完結のT氏からのプレゼントや! みんな! 見なはれや!

『美作勝田郡高取村大字池ケ原の「月の輪」と云ふ地』岡山県津山市池ケ原。北を肘川が貫通し、池沼が有意に多い湿潤な一帯であることが、地図からもよく判る。「月の輪」も残したかった地名だなぁ。

「不淨あれば牛馬損ず」「永荒(えいあれ)・減免の取り扱ひを受くる荒地」……窪地……馬が死ぬ……永く荒れ果てた地で、年貢の対象からも外されてきた、異常な不可触禁忌の一帯……これを読んだ時、私は妖怪「だり」を直ちに想起した。……窪地で、そこにいると突然、身体が不自由になり、動けなくなる。それを妖怪「だり」の仕業とする記載を遠い昔に読んだ。ウィキの「ヒダル神」に、『人間に空腹感をもたらす憑き物で、行逢神または餓鬼憑きの一種。主に西日本に伝わっている』。『北九州一帯ではダラシと呼ばれ、三重県宇治山田や和歌山県日高や高知県ではダリ、徳島県那賀郡や奈良県十津川地方ではダルなどと呼ばれる』とあるものである。八甲田山では一九九七年、野外演習中の陸上自衛隊員三人が窪地で昏倒して死亡する事故があった。 その原因については二酸化炭素或いは硫化水素の滞留による中毒による窒息死が推定されたように記憶している。ウィキの「ヒダル神」にも『植物の腐敗で発生する二酸化炭素』中毒起因説が仮定の一つとして挙げられてある(酸素(純粋酸素は極めて強毒である)ほどではないが、二酸化炭素も有毒気体である)。この〈ミステリー・サークル〉は、実はそうした自然が自ずと形成した危険地帯だったのではなかったか? と私が思ったことを、ここに最後に言い添えておきたい気がした。

 以上を以って、本「山島民譚集」の本文は終わる。以下、この後、底本ではここから「目次」が載るが、略す。次に奥附を字配・ポイントを無視して電子化しておく。]

 

 

山島民譚集

  ―日本文化名著集―

 

昭和十七年十一月廿五日 印 刷

昭和十七年十一月三十日 發 行

      五千部發行

  • 定價 貮 圓

 

出文協承認

 50.441

 (検印)

[やぶちゃん注:以上の三行は上部横書(上記通りの左から右書き)。検印は「柳」の一字で、下地添付紙は「丸に違い矢」の紋が印刷されたもの。]

 

著 者  柳 田 國 男(やなぎたくにを)

發行者  矢 部 良 策

     大阪市北區樋上町四五番地

印刷者  井 村 雅 宥

     大阪市浪速區稻荷町二丁目九三五

        (會員番號西大一一九二)

配給元  日本出版配給株式會社

發行所  株式会社 創 元 社

     (會員番號第一一五、五〇一號)

     大阪市北区樋上町四五番地

     振替大阪五七〇九九番

     電話北三六八六・三七〇八番

 

[やぶちゃん注:以上を以って柳田國男「山島民譚集」(初版は大正三(一九一四)年七月甲寅(こういん)叢書刊行会刊(「甲寅叢書」第三冊))の再版版である昭和一七(一九三二)年創元社刊(「日本文化名著選」第二輯第十五)の全電子化注を終わる。

 結局、年初から五ヶ月半もかかってしまった(当初は、せいぜい三ヶ月ぐらいの短期で仕上げるつもりだった。やはり注に拘り過ぎたのが元凶であった)。

 なお、本作には「ちくま文庫」版全集第五巻で「山島民譚集㈡(初稿草案)」と「山島民譚集㈢(副本原稿)」という二篇の〈続篇〉稿が載る。実際、内容的には本書の続篇として確かに読めるものではあるのだが(特に「山島民譚集㈡(初稿草案)」は初っ端から『第三 大太法師』のタイトルで突然『二一 いろいろの物の足跡』という柱から始まるのは、完全に「山島民譚集」の続編として始まる(柱数字の「二一」は不明。或いは本「山島民譚集」の小項目見出しを整理して数を減らし、さらに書式(後述)も全部書き変えるつもりであったものと思われる)、何より書法が全く異なり(平仮名漢字交じりの完全口語表現)、個人的に読んで受ける印象は続篇の額縁を附けた全くの別物という感じである。しかも草稿或いは推敲原稿であり、注記号があって注がない箇所が殆んどであったりと、作品として読むには不備不満が多い(電子化し出したら、その不完全で不満な箇所に、これまた、過剰な注を附けたくなるに違いない)。されば、今は全く食指が動かぬ。少なくとも、本年中にこれらに手を着けるつもりは全くないこと、将来的にやるとしても、全く注を附けないものとなろうことを言い添えておく。

 さても。ここまでお付き合い戴けた数少ない読者の方々、取り分け、たびたび多くの注での誤認や不明箇所を御指摘戴いたT氏には心から感謝申し上げるものである。藪野直史]

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