やれ買はう、それ買はう 伊良子清白
やれ買はう、それ買はう
(小濱懷古)
やれ買はうそれ買はう、諸國は來るし
世間が明(あか)るていつも春
きけよ昔の小濱(をはま)の浦は
黃金(きん)の瓦が光つてた
浦は兩浦ふところ湊
冬は南受(したう)け溫室(むろ)の中
千石船があたたまりによ
小濱民部(をはまみんぶ)(一)の森したによ
東京通ひの船頭の泊(とま)る
宿は伽羅の橋渡り
成田屋擬(もど)きで緞子(どんす)に胡坐(あぐら)よ
何虞でも夜(よ)つぴて風呂がたつたよ
所娘がやの字の帶で
お母(か)ん往(い)て來る提燈點けな
金魚のやうな花魁(おいらん)が
古市(ふるいち)(二)からもきてゐたよ
船に殘るは船靈御精靈(ふなだまごしやうりやう)
灘(なだ)の新菰(しんこも)鏡を拔いて
だだらあそびの風待(かざま)ちよ
戀の中宿東京は遠いしよ
山が枯れると帆檣(はしら)の林
雪の下にも歌舞の里よ
海からあがる日天(につてん)樣でも
揚屋(あげや)の大戶はあけられまいよ
昔々の赤鉢卷で
も一つ踊ろかそもそもの起りは
伊達の若衆の鞘當(さやあて)で
大船頭(おほせんどう)の頭(あたま)も剃つたよ
註(一) 室町時代の地頭の名、今も旧址に
お臺所松あり。
(二) 冬は山田古市の遊廓より妓女多く
來りて加勢せりといふ。
[やぶちゃん注:底本で昭和六(一九三〇)年十二月一日に推定された『新日本民謠』(第二年第二号。茨城県水戸出身で東京主計学校卒の口語自由詩詩人大関五郎(明治二八(一八九五)年~昭和二三(一九四八)年:大正一〇(一九二一)年頃、「詩話会」の機関誌『日本詩人』に作品を発表、後に童謡や新民謡に転じ、北原白秋や野口雨情らの協賛で昭和六(一九三一)年に雑誌『新日本民謡」を刊行。詩集に「愛の風景」、民謡集に「煙草のけむり」など)の主宰した雑誌)に掲載。署名は「伊良子清白」。江戸以前の、当時、伊良子清白が診療所を構えていた鳥羽小浜(おはま)(現在の鳥羽市小浜町(おはまちょう))の時代懐古詠。「帆檣(はしら)」の「はしら」は二字へのルビ。
「冬は南受(したう)け溫室(むろ)の中」「南受(したう)け」は既出既注の南風のことで、「溫室(むろ)の中」はそのお蔭で冬でもとても暖かなことの比喩。
「小濱民部(をはまみんぶ)」答志郡小浜村に本拠を置き、伊勢湾に勢力を持っていた海賊の頭目で、戦国時代から安土桃山時代にかけては伊勢国司の北畠家に属した海賊的集団「小浜衆」の内、知られた小浜景隆(天文九(一五四〇)年~慶長二(一五九七)年:志摩国出身で、後に武田信玄・徳川家康に仕えた水軍の将。通称は民部左衛門。伊勢守)は大型の軍船安宅船(あたけぶね)を所有し、北畠家の海賊衆を束ねていたが、織田信長の援助を受けて志摩国統一を狙った九鬼嘉隆に敗れ、伊勢湾を追われた(以上はウィキの「小浜景隆」に拠った)。
「伽羅の橋」「伽羅」は「きやら(きゃら)」。梵語の漢訳で、狭義には香木として有名な沈香(例えばアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha 等)の別名であるが、ここは高級材を用いた贅沢な橋の謂い。
「成田屋」もとは歴代の歌舞伎俳優市川団十郎及びその一門の屋号。代々、成田不動を信仰したのに由来するという。ここは、後に彼らが荒事を得意としたところから転じて、「江戸前の景気のよいこと・威勢のよいこと」の意となった、それの意。
「緞子(どんす)」経糸(たていと)と緯糸(よこいと)の色を変えて、繻子織(しゅすおり:経糸・緯糸それぞれ五本以上から構成され、経・緯どちらかの糸の浮きが非常に少なく、経糸又は緯糸のみが表に表れているように見える織り方。密度が高く、地は厚いが、柔軟性に長け、光沢が強い。但し、摩擦や引っ掻きには弱い)の手法で文様を出す絹織物のこと。精錬した絹糸を使う。
「古市(ふるいち)」三重県伊勢市古市地区(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「古市(伊勢市)」によれば、『参宮街道の、外宮・内宮の中間にある古市丘陵』部に当たる一帯で、『江戸時代以前は、丘陵にあるため』、『水利が悪く民家もほとんどなく楠部郷に含まれていたが、伊勢参りの参拝客の増加とともに、参拝後に精進落としをする人々が増加したことにより』、『遊廓が増え』、『歓楽街として発達し、宇治古市として楠部』(くすべ)『郷から分かれた』。『江戸時代前期に茶立女・茶汲女と呼ばれる遊女をおいた茶屋が現れ、元禄』(一六八八年~一七〇三年)『頃には高級遊女も抱える大店もできはじめた』。寛政六(一七九四)年の大火では『古市も被害を受けたものの、かえって妓楼の数は増え、最盛期の天明』(一七八一年~一七八九年)『頃には妓楼』七十『軒、遊女』千『人、浄瑠璃小屋も数軒、というにぎやかさで、「伊勢参り 大神宮にもちょっと寄り」という川柳があるほどに活気に溢れていたという』。『十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場した』。『江戸時代末には、北は倭町から南は中之町まで娼家や酒楼が並び』、『江戸幕府非公認ながら、江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊廓、あるいはさらに大阪の新町、長崎の丸山をたして五大遊廓の一つに数えられた。代表的な妓楼としては、備前屋(牛車楼・桜花楼とも呼ばれた)、杉本屋(華表楼とも)、油屋(油屋騒動で有名』『)、千束屋(一九の膝栗毛に登場』『)などがあった』。『明治期に古市丘陵を迂回する道路が整備され』るに伴い、『衰退し』た、とある。
「鏡を拔いて」「鏡」は形が古鏡に似ていることから酒樽の蓋を指し、これで祝宴で酒樽の蓋を槌で割り開くことを言う。
「揚屋(あげや)」江戸時代、客が置屋(おきや)から太夫・天神・花魁などの高級遊女を呼んで遊んだ店のこと。
「鞘當(さやあて)」意地立てから起こる喧嘩を言う。ここは遊女絡みのそれ。「恋の鞘当て」がまさにそれを意味する語で、もとは遊里で一人の遊女を巡って二人の武士が鞘当てをする歌舞伎の題材から生まれた語である。
「お臺所松」現存しないようである。]
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