天馳使 清白(伊良子清白)
天 馳 使
霜の光の白々(しらじら)と
おほはぬ空にうつろひて
秋は末なる星月夜
まほにうち見る人もなし
其夜の夢に我妹子(わぎもこ)は
最(いと)美(よ)き稚兒を見たりてふ
陽炎(かげらふ)燃ゆる春の國
いつか和子(わくご)は來るらん
天馳使(あまはせづかひ)翼伸(の)して
腕に花環をもたらさば
母の二人が亡魂(なきたま)も
或(ある)は仄かに復活(かへ)るべき
庭の木立のはらはらと
落葉は八重に積れども
稚兒が隱れし天(あま)の原
朝(あした)の色は綠なり
[やぶちゃん注:明治三八(一九〇五)年十二月一日発行の『白鳩』(第一巻第二号)。署名は「清白」。底本の「未収録詩篇」の同年パートはこの一篇のみ。本篇は特異的に総ルビである。しかし、これ、如何にも五月蠅い(電子化で読み難くなる)ので、今回は読みが振れると私が判断したもののみに限った。
なお、前年、明治三十七年の「未収録詩篇」所収(一篇のみ)の長詩「海の聲山の聲」は既に以前に電子化している。同年、伊良子清白、二十七歳。一月、内国生命嘱託を辞し、二月に帝国生命保険会社の正式社員となっている。父政治は二月中旬に和歌山に転居し、三月初旬に医院を開業した。十二月半ば過ぎに「冬の夜」と総標題した「月光日光」・「漂泊」(孰れも後の詩集「孔雀船」にごく僅かな手入れをして所収)「無題」の三篇を『文庫』投稿、翌年の一月一日発行の同誌(第二十七巻第六号)に掲載されている。
全集年譜によれば、この翌明治三十八年は年初より父政治の医員開業が再び頓挫していた。同じ頃、父と別居し、縁談を求め始めたものの、胃腸カタルを発症している(これは生涯の彼の病いとなった)。二月から四月まで、帝国生命の出張で四国へ長期に巡回出張している。この間、青木繁の絵「海の幸」を『明星』誌上で見て後の詩篇「淡路にて」(詩集「孔雀船」に改作して所収)の詩想を受けている(初出は同年九月発行『文庫』)。また、「万葉集」「枕草子」「紫式部日記」「更科日記」「方丈記」など多数の古典の読書も重ねている。『五月下旬、鳥取市東町の漢学者森本歓一・なかの長女で、鳥取女子師範学校を出て同附属小学校の訓導として勤務していた幾美(きみ)との縁談がまとまり、五月末、鳥取市で結婚、六月から大阪で新婚生活に入っ』ている。この頃、「戲れに」(手入れして詩集「孔雀船」に所収)が執筆されている。同月、帝国生命保険会社大阪支社から東京への転任の辞令を受けて、同月末の二十七日、妻とともに上京し、赤坂区新町の酒屋の持家を新居とした。保険診査医として関東周辺各地へ出張するが、最後の八月下旬の横須賀でのそれに於いて、「花柑子」・「かくれ沼」・「安乘の稚兒」(孰れも詩集「孔雀船」に所収。異同はリンク先を見られたい。なお、「かくれ沼」は「五月野」に改題している)を詩作している。十月には河合酔茗の家の近くに、十一月初旬には赤坂区台町に転居している。]
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