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2019/06/02

柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(28) 「神々降臨ノ跡」(4)

 

《原文》

 茲ニ自分ハ端無ク三十年前ノ稺キ記憶ヲ懷シムべキ機會ヲ得タリ。自分ガ生地ハ播磨神崎郡田原村大字西田原辻川ニシテ、產土神ハ後ノ山ナル鈴ノ森明神ナリ。年每ノ神無月ニハ神々出雲國ニ赴キタマフトテ、社頭ニ馬ノ轡ノ響キヲ聞クト云フコトハ、他所ノ村々ニモ例アルコトナランガ、之ニ加ヘテ更ニ一條ノ古譚アリ。【駒ケ岩】村ノ西ヲ流ルヽ市川ノ岸ニ一箇ノ大ナル駒ケ岩アリテ、其上ニハ正シク神馬ノ蹄ノ痕ヲ存ス。我々ガ兄弟ハ夏ハ此岩ノ上ニ衣ヲ脫ギテ其西側ノ淵ニテ水ヲ泳ギタリシナリ。三四年前還リテ見ルニ、川ノ流ハ岩ヨリ東ニ移リ昔ノ淵ハ河原トナリタレドモ、駒ケ岩ノ姿ハ依然トシテ之ヲ望ムコトヲ得タリ。此ヨリ東北へ四五町即チ鈴ノ森ノ社ヨリ一町足ラズノ西ニ、古宮ト稱スル十坪バカリノ岩石ノ地アリ。明神ハ神馬ニ召シテ駒ケ岩ヨリ古宮へ飛バレタリト言ヒ傳フ。併シ古宮ノ岩ハ燧石ニシテ村人屢來リテ之ヲ虧キ取ルガ爲ニ、此ニハ馬蹄ノ跡ノ殘レル者無キナリ。今日ニ於テ考フレバ古宮ハ昔ノ社跡トシテハアマリ狹シ。【御旅所】此邊ハ水ノ手ニ遠キ岡ノ端ノ新開畠ナレバ、恐クハ以前ハ一圓ノ社地ノ中ニシテ、古宮ハ即チ森ノ片端ニ設ケラレタル昔ノ祭ノ御旅所ナリシカト思ハル。御旅ト云フ思想ハ厚薄ノ差コソアレ殆ド全國各社ノ祭禮ニ伴ヒテ存在ス。祭ノ夜宮ノ日トナレバ、或ハ長キ馬場ヲ通リテヨホド遠ク迄出遊シタマフ神アリ。或ハ又不思議ニ近キ處ニ御旅所ヲ構ヘタル社アリ。神幸ノ路次ノ長キハ後代行列ノ面白サヲ加ヘンガ爲ニ、古例ヲ破リテ御假屋ヲ遠クニ遷セシモノモアランガ、其證無キ限リハ必ズシモ然リトハ言フ能ハズ。自分實母ノ在所、播磨加西郡北條町ノ住吉明神ナドモ、町ノ名ニ御旅町及ビ御幸町アリ。御輿ハ此二ツノ町ヲ通リテ邑ノ西ノ端ヨリ東ノ端ニ近キ御旅所マデ出デタマフ習例ナリキ。【暗夜神幸】甲斐東山梨郡奧野田村牛奧組ノ通(カヨヒ)神社ナドモ、祭ノ夜ハ更ケテ後一ノ宮淺間社マデ神幸アリ。過グル所八ケ村ニシテ而モ道路ニ由ラズ槪ネ田ノ畔ヲ行キ、暗中ノ神事終リテ未明ニ遷幸アル例ナリ〔山梨縣市町村誌〕。之ニ反シテ駿州富士郡大宮町ノ淺間社ノ如キハ、社殿ノ東ニ接シタル淸淨ノ封土、即チ祭ノ日ノ御假屋ノ地ナリシガ如シ。今モ之ヲ用ヰテアリヤ否ヤヲ知ラズ、恰モ伊勢兩宮ノ宮所ガ二ツアルトヨク似タレバ、何カ特別ノ說ヲ傳ヘ居ルヤモ測リ難シ。右ノ如ク神社境内ニ假屋ノ地アル場合ニハ、之ヲ廢シテ使用セザル例ハ少ナカラズ。【影向塚】社ニヨリテ其跡ヲ名ヅケテ降臨石又ハ影向塚(エウガウヅカ[やぶちゃん注:ママ。])ナドト名ヅケ、年々ノ例祭トハ關係無キ傳說ヲ發生セルモノアリ。此等モ亦アマリニ距離近キガ爲ニ、所謂御旅ヲ以テ神ガ社殿ノ中ヨリ遊ビニ出デタマフモノト解スルニ至リシ結果、詮無キコトニ思ヒテ久シク其使用ヲ中止セシモノナルべシ。奈良ノ東大寺ノ轉害門(テガイモン)ヲ入リテ右側ニ偉大ナル一箇ノ切石アリ。アレモ亦タシカ昔ハ八幡ノ神輿ヲ置キ奉ルべキ石ナリキト聞ケリ。話ノ枝葉ニ渡ルヲ恐レテ爰ニハ詳シクハ述べザルモ、祭ノ日ニ限リ神ガ御旅所又ハ假屋ニ出デテ供物ヲ受ケ神樂ヲ聽キタマフ理由ハ他ニ非ズ。昔ハ邑人此日ニ非ザレバ、親シク神ノ音容ニ接スルコト能ハザリシナリ。即チ御旅所又ハ假屋ト云フ名目ハ寧ロ神ノ常ノ社ヨリ出デテ宿リタマフ爲ニ非ズシテ、御空又ハ遙カナル國ヨリ祭ヲ享ケニ降リタマフヲ迎ヘマツル場處ノ事ナリ。【神馬ノ用】サレバコソ此折ノ用トシテ神馬ハ最モ肝要ノモノナリ。神幸ニハ必ズ神馬ヲ牽クモ全ク此ガ爲ナリト察セラル。【ヨリマシ】土佐ノ古キ宮々ノ祭又ハ陸中平泉ノ白山社等ニハ、依坐(ヨリマシ)ノ童兒ヲ其馬ニ乘セテ神輿ノ前ニ牽行ク風アリ。此童兒ハ即チ支那ニ所謂尸童又ハ靈子ニ當ルモノニシテ、神ハ之ニ託シテ神意ヲ宣傳シ或ハ又秋ノ稔ノ喜悅ヲ民ト共ニ分チタマフナリ。【馬場】神社ノ鳥居ノ通ノ長キ畷ヲ馬場ト稱スルハ、此モ亦神ノ馬ノ式日ニ通行スル路ト云フコトニテ、必ズシモ流鏑馬(ヤブサメ)ヤ競馬ヲ行ハヌ社ニテモ此名アリ。後世ノ氏子等ノ如キハ單ニ人間ノ手足ヲ以テ昔ノ神ノ去來ヲ模擬シ、形バカリノ「ミステリイ」ノ中ヨリ、幽カナガラモ神道ノ古意ヲ汲取ルニ過ギザリシガ、今一段ト熱烈ナル上代ノ崇敬者ニ至リテハ、能ク端的ニ神ノ靈アル御姿ヲ仰ギ、綠色ノ空ヨリ白馬ノ漸ク鮮明ニナル有樣ヲ望ミ且ツ信ズルコトヲ得タリシヤモ知リ難シ。果シテ其如クナリキトスレバ、岩モ豆腐モ何ノ差別カアラン。蹄ノ痕ノ殘ル位ハ毛筋ホドノ疑モ起ラヌ常ノ事實ナリシニ相違ナキナリ。

 

《訓読》

 茲(ここ)に自分は、端無(はしな)く[やぶちゃん注:思いがけず。事前に予想はしていなかったが。]、三十年前の稺(をさな)き記憶を懷しむべき機會を得たり。自分が生地は播磨神崎郡田原村大字西田原辻川にして、產土神(うぶすながみ)は後(うしろ)の山なる「鈴の森明神」なり。年每の神無月には、神々、出雲國に赴きたまふとて、社頭に馬の轡(くつわ)の響きを聞くと云ふことは、他所(よそ)の村々にも例(ためし)あることならんが、之れに加へて、更に一條の古譚あり。【駒ケ岩】村の西を流るゝ市川の岸に一箇の大なる「駒ケ岩」ありて、其の上には正(まさ)しく神馬の蹄の痕を存す。我々が兄弟は、夏は此の岩の上に衣を脫ぎて、其の西側の淵にて、水を泳ぎたりしなり。三、四年前、還りて、見るに、川の流れは、岩より東に移り、昔の淵は河原となりたれども、駒ケ岩の姿は、依然として、之れを望むことを得たり。此れより東北へ、四、五町[やぶちゃん注:約四百三十六~五百四十五メートル。]、即ち、「鈴の森」の社より一町[やぶちゃん注:百九メートル。]足らずの西に、古宮(ふるみや)と稱する十坪ばかりの岩石の地あり。明神は神馬に召して、駒ケ岩より古宮へ飛ばれたり、と言ひ傳ふ。併し、古宮の岩は燧石(ひうちいし)にして、村人、屢々來りて之れを虧(か)き取るが爲めに、此れには馬蹄の跡の殘れる者、無きなり。今日に於いて考ふれば、古宮は昔の社跡としては、あまり、狹し。【御旅所】此邊(このへん)は水の手に遠き岡の端(はた)の新開畠(しんかいばた)なれば、恐らくは、以前は一圓の社地の中にして、古宮は、即ち、森の片端に設けられたる昔の祭りの「御旅所(おたびしよ)」なりしかと思はる。「御旅」と云ふ思想は、厚薄(こうはく)の差こそあれ、殆んど、全國各社の祭禮に伴ひて存在す。祭りの夜宮(よみや)の日となれば、或いは長き馬場を通りて、よほど遠くまで出遊(しゆついう)したまふ神あり。或いは又、不思議に近き處に御旅所を構へたる社あり。神幸(しんこう)の路次(ろし)の長きは、後代、行列の面白さを加へんが爲めに、古例を破りて、御假屋(おかりや)を遠くに遷(うつ)せしものもあらんが、其の證、無き限りは、必ずしも然りとは言ふ能はず。自分實母の在所、播磨加西郡北條町の住吉明神なども、町の名に御旅町及び御幸町あり。御輿(みこし)は此の二つの町を通りて、邑(むら)の西の端より、東の端に近き御旅所まで、出でたまふ習例(しふれい)なりき。【暗夜神幸】甲斐東山梨郡奧野田村牛奧組の通(かよひ)神社なども、祭りの夜は、更けて後、一の宮淺間社まで神幸あり。過ぐる所、八か村にして、而も道路に由らず、槪(おほむ)ね、田の畔(あぜ)を行き、暗中の神事終りて、未明に遷幸ある例なり〔「山梨縣市町村誌」〕。之れに反して、駿州富士郡大宮町の淺間社のごときは、社殿の東に接したる淸淨の封土(ふうど)、即ち、祭りの日の御假屋の地なりしがごとし。今も之れを用ゐてありや否やを知らず、恰かも伊勢兩宮の宮所が二つあると、よく似たれば、何か特別の說を傳へ居(を)るやも測り難し。右のごとく、神社境内に假屋の地ある場合には、之れを廢して使用せざる例は少なからず。【影向塚(ようがうづか)】社によりて、其の跡を名づけて「降臨石」又は「影向塚(えうがうづか[やぶちゃん注:ママ。])」などと名づけ、年々の例祭とは關係無き傳說を發生せるもの、あり。此等も亦、あまりに距離近きが爲めに、所謂、御旅を以つて神が社殿の中より、遊びに出でたまふものと解するに至りし結果、詮無きことに思ひて、久しく其の使用を中止せしものなるべし。奈良の東大寺の轉害門(てがいもん)を入りて、右側に、偉大なる一箇の切石(きりいし)あり。あれも亦、たしか、昔は八幡の神輿(しんよ)を置き奉るべき石なりきと聞けり。話の枝葉に渡るを恐れて、爰には詳しくは述べざるも、祭りの日に限り、神が御旅所又は假屋に出でて、供物を受け神樂を聽きたまふ理由は他に非ず。昔は、邑人(むらびと)、此の日に非ざれば、親しく神の音容に接すること、能はざりしなり。即ち、御旅所又は假屋と云ふ名目は、寧ろ、神の常の社より出でて宿りたまふ爲めに非ずして、御空(みそら)又は遙かなる國より、祭りを享(う)けに降りたまふを、迎へまつる場處の事なり。【神馬の用】さればこそ此の折りの用として、神馬は最も肝要のものなり。神幸には、必ず神馬を牽くも、全く此れが爲めなりと察せらる。【よりまし】土佐の古き宮々の祭り、又は、陸中平泉の白山社等には、依坐(よりまし)の童兒を其の馬に乘せて神輿の前に牽き行く風あり。此の童兒は、即ち、支那に所謂、「尸童(しどう)」又は「靈子(れいし)」に當るものにして、神は之れに託して神意を宣傳し、或いは又、秋の稔りの喜悅を民と共に分ちたまふなり。【馬場】神社の鳥居の通りの長き畷(なはて)を「馬場」と稱するは、此れも亦、神の馬の、式日(しきにち)に通行する路と云ふことにて、必ずしも流鏑馬(やぶさめ)や競馬を行はぬ社にても此の名あり。後世の氏子等のごときは、單に人間の手足を以つて、昔の神の去來を模擬し、形ばかりの「ミステリイ」[やぶちゃん注:mystery。神秘。]の中より、幽かながらも神道の古意を汲み取るに過ぎざりしが、今一段と熱烈なる上代の崇敬者に至りては、能く端的に神の靈ある御姿を仰ぎ、綠色の空より、白馬の、漸(やうや)く鮮明になる有樣を望み、且つ、信ずることを得たりしやも知り難し。果して其のごとくなりきとすれば、岩も豆腐も何の差別かあらん。蹄の痕の殘る位は、毛筋ほどの疑ひも起らぬ、常の事實なりしに相違なきなり。

[やぶちゃん注:この段落は最後の「尸童」「靈子」の不審(最終注参照)を除いて、普段の柳田國男に対する私の偏見を殆んど感じない。それは、彼の恣意的な一方的方向づけによる《柳田民俗学》の中世ギルド的拘束の胡散臭さを殆んど感じないからである。ここで彼は自身の幼少期の思い出を再現することで、そこに本邦の民俗社会の原風景を強引さを感じさせずに述懐しているからに他ならない。読んでいて、珍しくとても素直に受け入れられたし、特異的に是が非でも夜になっても今日中に仕上げたいとさえ思ったのである。

「三十年前の稺(をさな)き記憶を懷しむべき機會を得たり」本「山島民譚集」は大正三(一九一四)年七月刊で、当時、柳田國男(明治八(一八七五)年七月三十一日生まれ)は満三十九歳であった。彼が故郷(後注)去ったのは明治二〇(一八八七)年八月(次兄通泰に伴われて上京、利根川べりの茨城と千葉の境である茨城県北相馬郡布川町(現在の、茨城県利根町布川(グーグル・マップ・データ。以下同じ))で開業医となっていた長兄鼎宅に身を寄せた。因みに両親も明治二十二年に同居するようになる)で十二歳であった。

「播磨神崎郡田原村大字西田原辻川」柳田國男は飾磨(しかま)県神東(じんとう)郡田原(たわら)村辻川、現在の兵庫県神崎郡福崎町西田原(現在そこにある生家は同地区内で移築されたもの)で生まれた。ウィキの「柳田國男」によれば、『父は儒者で医者の松岡操、母たけの六男(男ばかりの』八『人兄弟)として出生。辻川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れる市川が山間部から播州平野へ抜けて間もなく因幡街道と交わるあたりに位置し、古くから農村として開けていた。字の辻川は京から鳥取に至る街道と姫路から北上し』、『生野へ至る街道とが十字形に交差している地点にあたるためといわれ、そこに生家があった。生家は街道に面し、さまざまな花を植えており、白桃、八重桜などが植えられ、道行く人々の口上に上るほど美しかった。生家は狭く、國男は「私の家は日本一小さい家」だったといっている。家が小さかったことに起因する悲劇が幼き日の國男に強い影響を与え、将来的にも大きな影響を与えた』。『父・操は旧幕時代、姫路藩の儒者・角田心蔵の娘婿、田島家の弟として一時籍に入り、田島賢次という名で仁寿山黌(じんじゅさんこう)や、好古堂という学校で修学し、医者となり、姫路の熊川舎(ゆうせんしゃ)という町学校の舎主として』文久三(一八六三)年に『赴任した。明治初年まで』は『相応な暮らしをし』てい『たが、維新の大変革の時には予期せざる家の変動もあり、操の悩みも激しかったらしく、一時はひどい神経衰弱に陥ったという』。國男は『幼少期より非凡な記憶力を持ち』、明治一八(一八八五)年の高等小学校を卒業した十一『歳の』時には、『地元辻川の旧家三木家』(上記リンク地図内の「辻川山公園」を挟んだ南にポイントされてある)『に預けられ、その膨大な蔵書を読破し』たという。その翌年、前注した通り、上京している(なお、身体虚弱のため、ここから数年の間は就学せず、十七の時(明治二四(一八九二)年六月)、尋常中学共立学校(私立開成高等学校の前身)に編入学、翌年、郁文館中学校に転校、十九歳で第一高等中学校に進学し、次いで東京帝国大学法科大学政治科を卒業、明治三三(一九〇〇)年、農商務省農務局農政課に務め、『主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようにな』った。因みに本書刊行時は貴族院書記官長であった)。

「產土神(うぶすながみ)」生れた地の守護神。土地神。

「鈴の森明神」現在の鈴の森神社。上記リンク地図内の生家の北西直近にあるウィキの「鈴の森神社」によれば、主祭神は彦瓊々杵命(ひこほのににぎのみこと)で配祀神として天児屋根命(あめのこやねのみこと)と太玉命(附と玉ノミコト)の二柱が配される。『創建年代は不詳。社名に含まれる「すず」とは聖地の意味であるとされており』、江戸中期の医師で暦算家の平野庸脩(ひらのようしゅう)の自筆稿本「播磨鑑」には『大己貴命が峯相山』(みねあいやま)『より宍粟』(しそう)『郡へ遷座した』際、『播磨の神々がここに集まったという記述がある』。『また、元々は現在の社地より北西にある古宮跡に神社があったという伝承がある』。柳田國男が生まれた前年、明治七(一八七四)年に『村社に列し』ていた。現在、『拝殿向かいの右側に』(グーグル・マップ・データのサイドパネルの画像のこちらにある)町指定天然記念物のヤマモモ(ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属ヤマモモ Morella rubra)の巨木があり、樹高約十三メートル、根元の周囲は約三・三メートルと『町内最大の大樹として同時に保存樹の指定も受けている』が、『この大樹も柳田國男と深い関わりがあり』、「孤猿随筆」(複数の妖獣奇譚説話を自在な口調で考察した作品集。単行本は昭和一四(一九三九)年創元選書刊であるが、この話はその一篇「旅二題」の「一 有井堂」に出る。昭和一四(一九三九)年十月発行『俳句研究』初出)には、『子どもたちが年中』、『木登りをしていた描写や』、『親に不器用だと木登りを止められていた柳田が』、『木登りの様子を狛犬に乗って眺めていたことが記されている』とある。因みに、その「孤猿随筆」の「旅二題」の「一 有井堂」(柳田國男の当該作品の書き方は少し意識を少年期にスライドさせているちょっと変わった面白もので、「有井堂」というのは「鈴の森神社」の少し南にある(ここ)薬師如来を祀った堂であって、その区別は読んでいて後で判るようになっている)の当該部分を引いておく。なお、「ちくま文庫」版全集を用いたので、新字新仮名である。

   *

[やぶちゃん注:前略。]また忘れられない山ものの樹がある。この御宮の御神木(ごしんぼく)にちがいないのだが、子供は年百年中木登りをしていた。それを小言をいって祟(たた)りがあつたという話もある。何でも珍しく見ごとな実がなるということを聴いていて、一ぺんもわたしはそれを見たことがなかつた。青くて小さいうちに片端から取って食べてしまうのだ。私は不器用で、木登りは止められてもいたが、あの狛狗(こまいぬ)さんには何度も乗つて見た記憶がある。

  うぶすなの森のやまもゝこま狗は(いぬ)なつかしきかな物いはねども

[やぶちゃん注:後略。]

   *

『市川の岸に一箇の大なる「駒ケ岩」あり』現存する。地質学者橋元正彦氏のサイト「兵庫の山々 山頂の岩石」の「駒ヶ岩 市川左岸に横たわる、柳田國男も遊んだ巨岩」(写真有り)によれば、この中央の部分であろうと思われる(グーグル・マップ・データの航空写真)。橋本氏は『柳田國男は、「故郷七十年」のなかで、「市川の川ぷちに駒ヶ岩というのがある。今は小さくなって頭だけしか見えていないが昔はずいぶん大きかった。高さ一丈もあったであろう。それから石の根方が水面から下へまた一丈ぐらいあって、蒼々とした淵になっていた。」と遠い昔をなつかしんで書いている。夏になると國男少年兄弟は、この岩の上で衣を脱いで、そばの淵で水泳ぎをしたり、うなぎの枝釣りをして遊んだ。……(後略)。』と、福崎町観光協会によって記された案内板が、この岩のそばに建っている』とある(この「故郷七十年」は前に注した通り、昭和三二(一九五七)年に神戸新聞社が翌年の創立六十周年を迎えるに当たって、兵庫県出身で当時八十二歳であった柳田國男に回顧談を求め、柳田はこれを快諾し、全二十五回に亙って聞き書きが行われ、二百回に亙る連載記事となったものであるが、これは聞き書きであるからか、「ちくま文庫」版全集には載らない(その後の一九九七年刊の新しい「柳田國男全集」第二十一巻に載っているようだ)が、「青空文庫」で柳田國男「故郷七十年」として電子化されてある)。以下、橋本氏の解説。『岩石は、丹波層群』『の砂岩頁岩の互層である。砂岩優勢であるが、層厚』五~二十センチメートル『で細かく互層している部分もある。岩体全体、特に砂岩は珪質であり、緻密で硬い。このため、長年にわたる市川本流の河食に耐えて、大きな岩体として横たわっている』。『水面から』七~八メートル『の高さがある。岩の上に立って、下をのぞき込んでみると、水面下』二メートル『まで岩体が続いていることが分かるが、それより下は水の中に消えている』。『「この岩の上に、神馬のひずめのあとが残っていて、鈴の森明神が神馬に乗って、駒ヶ岩から古宮へ飛ばされたという言い伝えがある。」と、案内板にある。岩体の上には、割れ目に沿った三角形の穴がいくつか開いている。これが、神馬のひずめの跡であろうか』とあって、柳田はないと寂しそうに言っているが、どうして、どうして! 蹄の跡らしき甌穴は今も残っていますよ! 柳田先生!! さらに、写真キャプションに『砂岩頁岩の互層』として、『黒っぽい層が頁岩、灰白色の層が砂岩である。砂岩は、レンズ状に頁岩にとり込まれている場合がある』とあり、さらに『頁岩に取り込まれたチャート』として、『頁岩中には、レンズ状にチャートが含まれている。大きさは』三十センチメートル『程度である』とあった。

「三、四年前」本書刊行は大正三(一九一四)年七月だから、明治四十三、四年。

『此れより東北へ、四、五町、即ち、「鈴の森」の社より一町足らずの西に、古宮(ふるみや)と稱する十坪ばかりの岩石の地あり』やった! 先の橋元先生のサイト「兵庫の山々 山頂の岩石」の『福崎町「古宮」のチャート岩体』がそれだ!! 『国道』三百十二『号線を福崎町役場から』五百メートル『ほど北に進むと、右手(東)の田んぼの中に大きな岩体が突き出ている。長さ』十五メートル、高さ五メートル『程度の赤茶色い岩体である。ここは、「古宮」と呼ばれ、このすぐ南東にある「鈴の森神社」の旧の宮があった所とされている。この岩石を調べてみると、縞状に成層したチャートであった。この地域は、ジュラ紀に付加した丹波帯に属している。このチャートは、頁岩中にブロック状に取り込まれたものであろうか。風化に耐えて突出するこの岩に、いにしえの人々は何か神々しいものを感じ、ここに神を祀ったのかも知れない。また、この岩は、南西のある「駒ケ岩」より神馬に召されて飛んできたという伝説も残っている』。『鈴が森神社があるのが「辻川山(標高』百二十八・九メートル)。『この辻川山の東には、神積寺のある「妙徳山」、岩尾神社や大歳神社のある「大門宮山」がある。この三つの山を「ふくさき三獅子山」と呼び、これらの山にある神社や寺、それに柳田國男生家や大塚古墳をつないで、遊歩道が整備されている。いつか、植物図鑑を片手に、このコースをのんびりと訪ね歩きたいと思う』とされ、『「古宮」の岩体は、白、茶、赤(オレンジ)、緑などと多様な色を呈するチャートである。塊状の部分もあるが、数』センチメートル『の厚さで縞状に成層している部分が多い』。こ『このチャートは頁岩中にブロック状に取り込まれたものと考えられる』。『岩体には、所々に狭い割れ目が走っていて、その割れ目に水晶が見られた。結晶は大きくはないが、無色透明できれいな結晶形をしていた。『チャートの構造』は『赤い(オレンジ)部分と白い部分が縞状に成層している。この部分は、南に』六十『度と』、『大きく傾斜している』。『チャートは、放散虫の遺骸が積み重なってできた岩石(下欄参照)。放散虫は死ぬと、その珪質の殻はゆっくりと海の底に沈んでいく。その様子が、舞い落ちる雪のように見えるためにマリンスノーと呼ばれている。現在の赤道付近の深海には放散虫軟泥と呼ばれる堆積物があり』、一千『年に数ミリずつ、ゆっくりと積もっていることが知られている。これが、長い時間をへて硬くなり、チャートがつくられる。写真の厚さのチャートができるだけでも、莫大な年月がかかっているのである』。『チャートは、ほとんどがシリカ(Si0)からなる(鉱物としては石英)、硬い岩石である。偏光顕微鏡による観察では、どのようにしてできたのか、長い間分からなかった。しかし、フッ酸処理し』、『走査電子顕微鏡で見ることによって、放散虫という珪質プランクトンの遺骸が集まってできた岩石であることが分かった』。『チャートが、放散虫の遺骸のからできた岩石であり、砂とか泥を含んでいないということは、陸から遠く離れた海底でできたということを物語っている。チャートが、陸源の砕屑岩(頁岩・砂岩など)にブロックとして入っていることは、海洋プレートの沈み込みによる付加作用によってできたことを表している』。『「古宮」の南東、辻川山の裾に「鈴の森神社」は建っている。「すず」とは聖地の意味で、「播磨鑑」によると、大己貴命(おおなむちのみこと)が峯相山より宍粟郡へ遷座したとき、播磨の神々がここに集まったとされている』。『神社は、スギ・ヒノキ・カエデ・モミ・ヤマモモなどの木に囲まれ、それらの木々の間から差し込む陽光をたっぷりと受けていた。神社の右手にある樹齢約千年のヤマモモの古木は特に印象的である。柳田國男は、「故郷七十年」に、子供の頃この木に登ってヤマモモの実を食べようと思ったが』、『ガキ大将連に採られてしまって口に入らなかったと書いている』と記しておられる。場所はこの附近か(グーグル・マップ・データ航空写真「ストリートビュー」で探そうとしたが、すぐにフリーズするので諦めた)。これで完璧に腑に落ちた。このチャートchert:角岩(かくがん):橋元先生も述べられている通り、堆積岩の一種で、主成分は二酸化ケイ素(SiO2:石英)。この成分を持つ放散虫・海綿動物などの動物の殻や骨片が海底に堆積して生じた非常に硬い岩石で、層状を成すことが多い)は正しく「燧石」となるからである。

「虧(か)き取る」「虧」(音「キ」)は「欠ける」或いは「欠(か)く(かき割って取る)」の意。

「御旅所(おたびしよ)」神霊の渡御(神幸)の際に神霊の休憩地として、プラグマティクには神体や神輿を一時的に仮り置きする場所。複数ある場合、祭りに限らず、常設してある場合がある。後の「御假屋」も事実上は同義で、異名ととってよい。但し、柳田國男は以下でそのルーツは逆に神霊を迎えるための特別な施設とする。

「播磨加西郡北條町の住吉明神」現在の兵庫県加西市北条町(まち)北条にある住吉神社 (住吉酒見神社)

「御旅町」「御幸町」検索すると、同北条町内には旧称・通称で「北条御旅町(おたびちょう」「北条御幸町(ごこうまち」が残っている。

「甲斐東山梨郡奧野田村牛奧組の通(かよひ)神社」これは山梨県甲州市塩山牛奥の通太神社と思われる。「山梨県神社庁」公式サイト内のこちらによれば、『創立年代不詳。祭神瓊々杵尊は其の妃に当る東八代郡一宮町浅間神社祭神(木花咲耶姫命)のかよひの宮と称し、社殿南面し』、『浅間神社に相向ふ様に造営し、社名も通太神社と名付けたといふ』とある。

「駿州富士郡大宮町の淺間社」恐らくは、現在の静岡県富士宮市宮町の富士山本宮浅間大社(或いはその周辺にある附属的(?)浅間社(地図上でも三社を数える)と思われる。

「淸淨の封土(ふうど)」「ほうど」でもいいが、これはしかし、一般的用法ではない。「封土」は、「古墳や墓を蔽う盛り土」又は「そのように自然地形をそれに転用した墳丘」或いは「奉仕義務の代償として主君から臣下に与えられた土地」を指すが、ここでは特異的に清浄に封ぜられた結界地を指しているからである。

「影向(えうがう)」正しくは頭注に振った通り、歴史的仮名遣では「えうがう」が正しい。意味は「神仏が仮の姿をとって現れること・神仏の来臨」を指す。

「東大寺の轉害門(てがいもん)を入りて、右側に、偉大なる一箇の切石(きりいし)あり」「門前」の誤り。しかも「一箇」は紛らわしい。それを置く複数の基部全体を「一箇」と言っているというのは苦しい。以下の画像を見るに、離れて四方に円形の石が四基ある。奈良観光公式サイト「なら旅ネット」のこちらによれば(写真多数)、奈良東大寺の『大仏完成の神助に報いるべく、聖武天皇は八幡神を東大寺の守護神として勧請した。その際、転害門から東大寺へ入った八幡神は諸神を手招きしたという。招く仕草が“手で物を掻く”ようだったことから「手掻門」の字が当てられたとされるの』である。『この神迎えの様子を再現した行事が「転害会(てがいえ)」』で、『現在は八幡神が鎮座する手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)の祭礼として、毎年』十月五日に『行われている』が、『「転害会の際、神輿は門前の』四『つの石の上に安置される。転害門には他にも門として必要のない施設が後に付加されているという。御旅所としての祭礼にかかわる機能に従ったと考えられる』とある。

『支那に所謂、「尸童(しどう)」又は「靈子(れいし)」に當るもの』不審。私は人よりは中国の伝奇・志怪小説はかなり読んでいるが、この二つの熟語は見慣れない。前者は如何にもありそうな感じには思ったが、調べてもこの熟語では中文文献には出ないようだ。あるにはあったが、それは、本邦の依坐(よりまし)の異名とする公的記載ばかりである。後者に至っては、中国のそれらでは寡聞にして聴いたことがないし、本邦でも私は知らぬ。孰れも中国由来とする根拠を御存じの方は是非とも御教授願いたい。]

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