柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」(30) 「御靈ト石」(1)
《原文》
御靈ト石 甲州ノ馬蹄石ノ類ヲ聖德法王ノ故事ニ附會スルハ、特ニ此君ガ佛法ノ保護者ニシテ兼テ日本ノ伯樂ナリシ爲ニ、便宜多カリシト云フノミノコトニテ、必ズシモ他ニ類型無キ話ニハ非ザルコト勿論ナリ。【地方英雄】古風土記ニ國々ノ神アリシ如ク、個々ノ地方ニハ今モソレゾレノ史上人物アリテ、殆ド其傳說ヲ以テ一切ノ故迹ヲ統括支配スルガ如キ觀アリ。行基弘法ノ二祖師ノ足跡天下ニ遍キヲ以テスルモ、地方人ハ猶之ヲ爭奪シテ我ガ鄕ノ英雄ト爲サザレバ已マザラントス。泰澄大師ノ北陸ニ於ケル、役行者(エンノギヤウジヤ)ノ大和ニ於ケル、性空上人ノ九州南部ニ於ケルガ如キ、或ハ藤原千方ノ伊勢ニ於ケル、田邑將軍八幡太郞ノ奧羽ニ於ケル等ハ、勿論然ルべキ仔細モアリテ、或點ニ於テハ神以上ノ崇敬ヲ繫ギ得タリシナリ。此ガ爲ニ以前物ヲ知ラザル里人ガ、何デモ强力ナ和尙ガ來テトカ、又ハ昔一人ノ勇士ガアツテトカ云フヲ、聞ク方ノ人ヨリソレハ辨慶ノ事ナルべシトカ、此邊ノ事ナラバ山中鹿之介ニ相違無シトカ、無造作ニキメテシマヒ、其次ヨリハ其固有名詞ヲ以テ話シ傳へシム。恰モ何レノ御時カノ古墳調査掛ガ、革鞄ノ中ニ國造本紀ノ類ヲ携帶シ、到ル處ノ白骨ニ姓名ヲ附與シテアルキシト同一ノ御苦勞ナリ。其爲ノミニモ非ザルべキガ、多クノ馬蹄石ニモ亦英雄ノ昔語リヲ伴ヒ居リ、而モ一々ニ尤モラシキ因緣アリ。【日本武尊】先ヅ時代ヲ追ヒテ言ハヾ、尾張東春日井郡坂下村大字内津(ウツツ)ノ内津神社ノ一ノ鳥居ノ跡ニハ、日本武尊ノ御馬ノ足跡アル馬蹄石存ス〔尾張誌〕。即チ「ウツヽナルカモ」ト仰セラレシ故迹ナリ。【龍ノ爪】美作間鍋山(カンナベヤマ)ノ長法寺ノ上ニハ岩ニ龍ノ爪ノ如キ跡アルヲ、或ハ鹽冶(エンヤ)判官ノ獻上セシ龍馬ノ蹄ト云ヒ、【和氣淸麿】或ハ又和氣淸麿ガ大隅ノ配所ヨリ龍馬ニ乘リテ諸國ヲ巡歷セシ折ノ馬蹄ノ跡トモ傳ヘタリ〔山陽美作記上〕。此地ハ淸麿ノ故鄕ト云フ備前ノ和氣郡ニ近キナリ。伊賀名賀郡比奈知(ヒナチ)村大字瀧原ノ高座山ニハ、方五尺バカリノ石ニ馬蹄ノ跡アルヲ千方(チカタ)ノ飛石ト云フ。【千方】此附近ニハ又千方ガ馬ヲ留メシト云フ馬留山アリ〔三國地誌〕。數多キ千方ノ故迹ノ一ツナリ。【多田滿仲】攝津川邊郡多田村大字矢問(ヤトフ)ノ龍馬石ハ多田滿仲ノ乘馬ノ跡アルガ故ニ此名ヲ得タリト云ヒ〔攝陽群談〕、或ハ又同郡小田村大字久々知ニモ同ジ名ノ石アリト傳ヘタリ〔本朝國語〕。阿波阿波郡土成村大字土成ノ御所谷ハ、畏多クモ土御門院ノ御身ヲ隱シタマヒシ地ナリト稱シ數々ノ遺跡アリ。御馬ノ足跡ノ岩ノ上ニ殘レルモノアリト云フ〔阿波國徴古雜抄三所錄、澁谷氏舊記〕。【義經】和州芳野ノ吉水院ノ境内ニハ九郞判官義經ノ駒ノ跡アリ〔本朝國語〕。此大將ハ全國少年ノ愛好スル人物ダケアリテ、北ハ津輕ノ突端ノ三厩(ミウマヤ[やぶちゃん注:ママ。])ヨリ、更ニ能登珠洲郡ノ三崎ニマデ馬蹄ノ跡ヲ印シタリ〔能登國名跡志〕。此等ハ綿密ナル義經記ニモ末ダ想像セザリシ史蹟ナリ。【三ツ石】陸中盛岡ノ東見寺ノ境内ニハ、同ジク此人ガ馬跡ヲ留メシ名石三ツ石アリ〔譚海十二〕。以前ハ人ノ拜祀セシ石ナルべシ。中古ノ石神ハ多クハ山ノ字ノ形ヲシタル大小三箇ノ石ニシテ、之ヲ拜ミシ梶原ハ是亦竃ノ神ノ信仰ニ基クカト見ユレバ、義經ニハ兎ニ角ニ馬ノ因緣ハ存スルナリ。【畠山重忠】畠山重忠ハ其舊領地タル秩父ノ一郡ニ於テハ今モ多クノ傳說ノ主ナリ。高麗川ノ上流吾野村大字阪元ニハ、重忠ノ厩ノ跡ト云フ深サ三間ホドノ洞窟アリテ、中程ノ岩ノ面ニ馬蹄ノ跡二ツアリ〔新編武藏風土記稿〕。此邊ハ石灰岩ノ層アルガ爲ニ殊ニ此種ノ奇巖ニ富メルナリ。【梶原景時】其畠山ヲバ讒言シタル梶原平三景時モ、亦駿州田上ノ岡ノ麓ノ岩ノ上ニ、最後ノ念力ヲ愛馬ノ跡ニ印シタリ。或ハ其馬ノ喰ミ殘シタル笹葉トテ、今ニ葉尖ヲ摘ミ虧キタル如キ笹ヲ生ズトモ言ヒ傳フ〔諸國旅雀〕。【磨墨】此馬ノ磨墨ナリシコトハ更ニ之ヲ說カント欲ス。【曾我五郞】相州箱根ノ三枚橋ヨリ五六町ノ東、僅カナル溝ニ架ケタル石橋ニ曾我五郞ノ馬ノ蹄ノ跡アリ。脚氣ノ祈願ニ驗アリテ來タリテ線香ヲ燒ク者多カリキ。東海道ノ繁華ナル往來ナルニ、迷惑ナル話ニハ若シ此石ヲ蹈ム者アレバ必ズ祟アリ。之ヲ他處ニ移シ去ラント企テテ又崇ラレシ者アリ〔著作堂一夕話〕。併シ今日ハ最早此石無シト見エテ電車ガ無事ニ通行シツヽアルナリ。【センゾク】武藏西多摩郡檜原(ヒノハラ)村字千足(センゾク)ノ路傍及ビ谷間ニ各一箇ノ馬蹄石アルハ、曾テ此山村ニ落チ來リテ討死シタリト云フ平山伊賀守氏重ガ故跡ナリ〔新編武藏風土記稿〕。但シ何レノ時代ノ人ナルカ知ラズ。奧州外南部ノ宇曾利山(カソリサン)ニハ九戶(クノヘ)地獄ト云フ處アリ。【九戶左近】昔九戶左近ナル者國主ニ楯突カントシテ却リテ爰ニ陷リテ死ス。其折ノ薙刀ノ跡ト共ニ岩ニ馬蹄ノ跡ヲ留メタリ〔眞澄遊覽記五〕。【豐臣秀吉】豐臣秀吉ノ乘馬ノ跡ト稱スルモノ相州足柄下郡江浦村ノ五郞兵衞ガ屋敷内ニ在リキ。天正十八年小田原攻ノ折、此家ノ庭ヨリ城山ニ登ラントシテ馬ノ足スベリ、其跡永ク後世ニ遺リタリ。八九尺ニ四尺ホドノ大石ニシテ之ヲ馬蹄石ト名ヅク云々〔相州留恩記略三〕。【朝倉義景】越前吉田郡岡保(ヲカホ)村大字大畑ノ蹄ノ瀧ニ於テハ、瀧口ノ大岩ノ上ニ朝倉義景ガ乘馬ノマヽニテ驅ケ登リシト云フ蹄ノ跡アリ。此瀧ハモト附近ノ地名ニ由リテ竹箕ノ瀧ト呼ビタリシヲ、近ク明治ノ三十七年ニ、時ノ縣知事阪本彰之助氏ニ賴ミテ、今ノ名ヲ附ケテ貰ヒタリト云フ新名所ナリ〔吉田郡誌〕。
《訓読》
御靈(ごりやう)と石 甲州の馬蹄石の類を聖德法王の故事に附會するは、特に此の君が佛法の保護者にして、兼ねて、日本の「伯樂」なりし[やぶちゃん注:国政を馭したことへの馬に合わせた比喩。]爲めに、便宜多かりしと云ふのみのことにて、必ずしも他に類型無き話には非ざること、勿論なり。【地方英雄】「古風土記」に國々の神ありしごとく、個々の地方には、今もそれぞれの史上人物ありて、殆んど其の傳說を以つて一切の故迹を統括支配するがごとき觀あり。行基・弘法(こうぼふ)の二祖師の足跡、天下に遍きを以つてするも、地方人は猶ほ、之れを爭奪して、我が鄕の英雄と爲さざれば、已(や)まざらんとす。泰澄(たいちよう)大師の北陸に於ける、役行者(えんのぎやうじや)の大和に於ける、性空(しやうくう)上人の九州南部に於けるがごとき、或いは、藤原千方(ちかた)の伊勢に於ける、田邑(たむら)將軍・八幡太郞の奧羽に於ける等は、勿論、然るべき仔細もありて、或る點に於いては、神以上の崇敬を繫ぐ得たりしなり。此れが爲めに、以前、物を知らざる里人が「何でも强力な和尙が來て」とか、又は、「昔、一人の勇士があつて」とか云ふを、聞く方(はう)の人より、「それは辨慶の事なるべし」とか、「此の邊りの事ならば山中鹿之介に相違無し」とか、無造作にきめてしまひ、其の次よりは、其の固有名詞を以つて話し傳へしむ。恰も、何(いづ)れの御時(おんとき)かの古墳調査掛(がかり)が、革鞄の中の「國造本紀(こくざうほんぎ)」類を携帶し、到る處の白骨(はつこつ)に姓名を附與してあるきしと同一の御苦勞なり。其の爲めのみにも非ざるべきが、多くの馬蹄石にも亦、英雄の昔語りを伴ひ居り、而も、一々に、尤もらしき因緣あり。【日本武尊】先づ、時代を追ひて言はゞ、尾張東春日井郡坂下村大字内津(うつつ)の内津神社の一の鳥居の跡には、日本武尊(やまとたけるのみこと)の御馬の足跡ある馬蹄石、存す〔「尾張誌」〕。即ち、「うつゝなるかも」と仰せられし故迹なり。【龍の爪】美作間鍋山(かんなべやま)の長法寺の上には、岩に龍の爪のごとき跡あるを、或いは鹽冶(えんや)判官の獻上せし龍馬の蹄と云ひ、【和氣淸麿(わけのきよまろ)】或いは又、和氣淸麿が大隅の配所より龍馬に乘りて諸國を巡歷せし折りの馬蹄の跡とも傳へたり〔「山陽美作記」上〕。此の地は、淸麿の故鄕と云ふ備前の和氣郡に近きなり。伊賀名賀郡比奈知(ひなち)村大字瀧原の高座山には、方五尺ばかりの石に馬蹄の跡あるを「千方(ちかた)の飛石(とびいし)」と云ふ。【千方】此の附近には又、千方が馬を留めしと云ふ馬留山あり〔「三國地誌」〕。數多き千方の故迹の一つなり。【多田滿仲】攝津川邊郡多田村大字矢問(やとふ)の龍馬石は、多田滿仲の乘馬の跡あるが故に此の名を得たりと云ひ〔「攝陽群談」〕、或いは又、同郡小田村大字久々知(くくち)にも同じ名の石ありと傳へたり〔「本朝國語」〕。阿波阿波郡土成(どなり)村大字土成の御所谷は、畏れ多くも土御門院の御身を隱したまひし地なりと稱し、數々の遺跡あり。御馬の足跡の岩の上に殘れるものありと云ふ〔「阿波國徴古雜抄」三所錄、澁谷氏舊記〕。【義經】和州芳野の吉水院(きつすいゐん)境内には、九郞判官義經の駒の跡あり〔「本朝國語」〕。此の大將は、全國少年の愛好する人物だけありて、北は津輕の突端の三厩(みうまや[やぶちゃん注:ママ。「ちくま文庫」版は『ミンマヤ』と振る。])より、更に、能登珠洲(すず)郡の三崎にまで、馬蹄の跡を印(しる)したり〔「能登國名跡志」〕。此等は綿密なる「義經記(ぎけいき)」にも末だ想像せざりし史蹟なり。【三ツ石】陸中盛岡の東見寺の境内には、同じく此の人が馬跡を留めし名石「三ツ石」あり〔「譚海」十二〕。以前は人の拜祀せし石なるべし。中古の石神は多くは「山」の字の形をしたる大小三箇の石にして、之れを拜みし梶原は、是れ亦、竃(かまど)の神の信仰に基くかと見ゆれば、義經には兎に角に馬の因緣は存するなり。【畠山重忠】畠山重忠は其の舊領地たる秩父の一郡に於ては、今も多くの傳說の主なり。高麗(こま)川の上流吾野(あがの)村大字阪元には、「重忠の厩の跡」と云ふ、深さ三間[やぶちゃん注:五メートル四十五センチ。]ほどの洞窟ありて、中程の岩の面(おもて)に馬蹄に跡二つあり〔「新編武藏風土記稿」〕。此の邊りは、石灰岩の層あるが爲めに、殊に此の種の奇巖に富めるなり。【梶原景時】其の畠山をば、讒言したる梶原平三景時も、亦、駿州田上の岡の麓の岩の上に、最後の念力を愛馬の跡に印したり。或いは、其の馬の喰(は)み殘したる笹葉とて、今に葉尖(はさき)を摘み虧(か)きたるごとき笹を生ず、とも言ひ傳ふ〔「諸國旅雀」〕。【磨墨】此の馬の磨墨なりしことは、更に之れを說かんと欲す。【曾我五郞】相州箱根の三枚橋より、五、六町[やぶちゃん注:五百四十六~六百五十四メートル強。]の東、僅かなる溝(みぞ)に架けたる石橋に、曾我五郞の馬の蹄の跡あり。脚氣(かつけ)の祈願に驗(しるし)ありて、來たりて線香を燒く者、多かりき。東海道の繁華なる往來なるに、迷惑なる話には、若(も)し此の石を蹈む者あれば、必ず祟りあり。之れを他處(よそ)に移し去らんと企てて又、崇られし者あり〔「著作堂一夕話」〕。併し、今日は最早、此の石無しと見えて、電車が無事に通行しつゝあるなり。【せんぞく】武藏西多摩郡檜原(ひのはら)村字千足(せんぞく)の路傍及び谷間に各(おのおの)一箇の馬蹄石あるは、曾つて此の山村に落ち來たりて討死したりと云ふ、平山伊賀守氏重が故跡なり〔「新編武藏風土記稿」〕。但し、何れの時代の人なるか知らず。奧州外南部(そとなんぶ)の宇曾利山(かそりさん)には「九戶(くのへ)地獄」と云ふ處あり。【九戶左近】昔、九戶左近なる者、國主に楯突(たてつ)かんとして、却りて爰(ここ)に陷りて死す。其の折りの薙刀(なぎなた)の跡と共に、岩に馬蹄の跡を留めたり〔「眞澄遊覽記」五〕。【豐臣秀吉】豐臣秀吉の乘馬の跡と稱するもの、相州足柄下郡江浦(えのうら)村の五郞兵衞が屋敷内に在りき。天正十八年[やぶちゃん注:一五九〇年。]、小田原攻めの折り、此の家の庭より、城山に登らんとして、馬の足、すべり、其の跡、永く後世に遺りたり。八、九尺[やぶちゃん注:約二・六メートル前後。]に四尺[やぶちゃん注:一・二一メートル。]ほどの大石にして、之れを馬蹄石と名づく云々〔「相州留恩記略」三〕。【朝倉義景】越前吉田郡岡保(をかほ)村大字大畑の「蹄の瀧」に於いては、瀧口の大岩の上に、朝倉義景が乘馬のまゝにて驅け登りしと云ふ蹄の跡あり。此の瀧は、もと、附近の地名に由りて「竹箕(たけす)の瀧」と呼びたりしを、近く明治の三十七年[やぶちゃん注:一九〇四年。本書の刊行は大正三(一九一四)年七月であるから十年前のホットな事実である。]に、時の縣知事阪本彰之助氏に賴みて、今の名を附けて貰ひたりと云ふ新名所なり〔「吉田郡誌」〕。
[やぶちゃん注:以下、人物は生没年や活躍期を再確認するために、選んで注した。弁慶や義経は誰でも知っているので注していない。特に引用を示さないものは、複数の信頼出来る記載を用いたものである。
「行基」(天智天皇七(六六八)年~天平勝宝元(七四九)年)は奈良時代の僧。和泉国生れ。俗姓は高志(こし)氏(百済系渡来人の書(文)(ふみ)氏の分派)。法相(ほっつそう)教学を学び、後、諸国を巡り、架橋・築堤などの社会事業を行い、民衆を教化し「行基菩薩」と敬われた。一時はその活動が「僧尼令」に反するとして弾圧されたが、やがて聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺の造営に尽力、大僧正に任ぜられ、また、大菩薩の号をも賜った。
「弘法(こうぼふ)」弘法大師空海(宝亀五(七七四)年~承和二(八三五)年)は平安前期の僧で真言宗の開祖。讃岐生まれ。俗姓は佐伯。延暦二三(八〇四)年三十歳で渡唐し、長安青竜寺の恵果(けいか)から真言密教の秘法を受けた。帰国後、高野山に金剛峰寺(こんごうぶじ)を、京都に教王護国寺(東寺)を創建した。後世、その生涯に纏わる多くの説話伝説が生み出され、庶民信仰の対象となった。
「泰澄(たいちよう)大師」天武天皇一一(六八二)年~天平神護三(七六七)年)は奈良時代の修験者。越前生まれ。俗姓は三神。通称は「越(こし)の大徳(だいとこ)」。加賀白山の開創者とされる。飛鉢の術を使う能登島出身の臥(ふせり)行者と出羽の船頭であった浄定(きよさだ)行者を弟子とし、霊夢の導きによって養老元(七一七)年に彼らとともに白山に登頂、妙理大菩薩を感得したとする。五年後の養老六年には元正天皇の病を祈祷で療治し、天平九(七三七)年には疱瘡の流行を鎮(しず)めた。
「役行者(えんのぎやうじや)」(生没年不詳)役小角(えんのおづぬ)。七~八世紀の修験道の開祖とされる人物。賀茂一族(のちの高賀茂朝臣)の出で、大和国葛木上郡茅原村(現在の奈良県御所市)の生まれと伝えられる。大和の葛城山や生駒山で修行し、前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)を弟子にし、呪術に優れた神仙となったとされ、後、多くの伝説が生み出された。「続日本紀」に登場する。
「性空(しやうくう)上人」(延喜一〇(九一〇)年~寛弘四(一〇〇七)年)は平安中期の天台僧。「書写上人」の別名でよく知られる。三十六歳で出家し、比叡山の慈慧僧正に師事し、後に日向の霧島山で修行したが、康保四(九六七)年、播磨の書写山に天台三大道場の一つとなる円教寺(えんぎょうじ)を創建した。
「藤原千方(ちかた)」平安時代に鬼を使役したとされる豪族。同名の人物は藤原秀郷の子であった千常の子(「尊卑分脈」)に見え、或いは千常の弟ともされるが、「太平記」に出るその人物は遠く天智天皇の御世の設定で、話が合わない。「藤原千方の四鬼」伝説は三重県津市などに伝えられる。孰れにせよ、ここに並ぶ聖賢・超人・英傑の中では、有意に格落ちする架空性の頗る高い怪人である。但し、彼やこの四鬼が伊賀忍者のルーツとする伝承はある。私の「諸國里人談卷之三 千方火」の私の注を参照されたい。
「田邑(たむら)將軍」平安初期の武将坂上田村麻呂(天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)のこと。公卿で武人であった坂上苅田麻呂(かりたまろ)の子(次男或いは三男)。延暦一〇(七九一)年に征東副使に任命され、同十三年、征夷大将軍大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)に従って蝦夷を討った。同十五年、陸奥出羽按察使兼陸奥守、さらに鎮守府将軍となり、同一六(七六七)年には征夷大将軍に任命され、同 二十年二月、蝦夷討伐のため東北に向い、同年十月に平安京に凱旋した。翌年、「造(ぞう)陸奥国胆沢城(いざわのき)使」として陸奥に行き、さらに翌年、志波城(しはのき)を築いた。同 二十三年、再び征夷大将軍に任ぜられ。大同元(八〇六)年に中納言、同四年に正三位に叙せられた。弘仁元(八一〇)年には平城上皇の平城遷都に擬し、造宮使となった。同年、「薬子の変」が起こると、大納言に昇進した田村麻呂は美濃路を固め、上皇軍の鎮圧に努めた。没後に従二位が贈られている。ここに居並ぶ人物の中では実社会に於いて最高レベルの位を上り詰めた人物である。
「八幡太郞」平安後期の名将源義家(長暦三(一〇三九)年~嘉承元(一一〇六)年)。伊予守源頼義の長男。河内生れ。「八幡太郎」の通称でよく知られる。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や、室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たる。ウィキの「源義家」によれば、比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となった時、清原氏の内紛に介入して』「後三年の役」を『起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約』十『年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された』。『その活動時期は摂関政治から院政に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため』、『歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ』、「後三年の役」の『朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下』とある。
「山中鹿之介」戦国時代の武将山中幸盛(天文九(一五四〇)年?~天正六(一五七八)年)出雲生まれ。「亀井」姓ともする。通称は初め、「甚次郎」、後に「鹿之助」「鹿之介」「鹿介」とも記されるが、自署は孰れも「鹿介」と記されてある。尼子経久の家臣山中三河守満幸の子。永禄三(一五六〇)年に家督を継ぎ、尼子義久に仕え、伯耆尾高城を攻め落して勇名をはせた。同九年、尼子氏が毛利に敗れて降伏したが、幸盛は尼子再興に力を尽し、豊臣秀吉に支援を求めて、その中国征伐に従軍、播磨上月城に拠って毛利氏に対抗した。しかし天正六(一五七八)年に落城して捕えられ、毛利方へ送られる途中、備中阿井の渡し(現在の岡山県高梁(たかはし)市落合)で殺害された。
「國造本紀(こくざうほんぎ)」「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」の巻第十に当たる一巻の書。「旧事本紀」は聖徳太子撰とする序文を有するが、平安初期に作られた偽書とされる。しかし、そのなかの巻第三「天神本紀」の一部、巻第五の「天孫本紀」と、この「国造本紀」は、他の如何なる文献にも見えない独自の所伝を載せている点で注目される。「国造本紀」は、大倭国造(やまとくにのみやつこ)以下、全国で百三十余りの国造を列挙し、それぞれに国造任命の時期や初代国造の名を簡単に記したもので、それらの中には和泉・摂津・丹後・美作(みまさか)など、後世の国司を記載したところもあり、また「无邪志(むさし)」と「胸刺(むさし)」、「加我(かが)」と「加※(かが)」(「※」=「宜」の一画目の点を除去したもの)など、紛らわしいものもあるが、概してかなり信用できる古伝によっていると思われ、古代史研究の貴重な史料となっている(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「尾張東春日井郡坂下村大字内津(うつつ)の内津神社」現在の春日井市坂下内津の内々(うつつ)神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「内々神社」によれば、『創建年代については不詳であるが、延喜式に記載された式内社で』、『東国の平定を終えた日本武尊が内津峠に差し掛かった時、早馬で駆けてきた従者の久米八腹(くめのやはら)から副将軍である建稲種命が駿河の海で水死したとの報告を受けた。それを聞いた日本武尊は「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆き、その霊を祀ったのが内々神社の始まりという』とある。
「美作間鍋山(かんなべやま)の長法寺」岡山県津山市井口にある天台宗金光山長法寺。背後の山は現在、「神南備山」(標高三百五十六メートル)と表記を変えている。「龍の爪」ような跡は残存しているかどうか不明。但し、サイト「津山瓦版」の同寺の紹介の中に、寺宝として「大蛇尾骨」とあって、『美作国山北の里に鵜田勘治光行と言う文武に秀でた若者がおり』、永久二(一一一四)年三月、『高野神社に参詣の途次、冨川の里(現戸川町附近)で郷士砂田庄司氏勝の娘亀千代を見初めた。やがて二人は深いつき合いをするようになったが、このことが氏勝の耳にはいり「不義密通はお家の御法度」、怒った氏勝は光行の家を攻め、皆殺しにしてしまった。光行の死を悲しんで亀千代は気が狂い、小田中在の渕に身を沈め、大蛇に化けて大洪水を起こし、家や田畑を流してしまった、と言う。この「大蛇尾骨」が秘宝として伝わっている。長さ』三十三『センチ、干ばつの時、雨ごいをすれば、たちまち雨が降るといい伝えられている』とあるのだ。悲恋の話であるが、どう見ても背後の山にある(あった)「龍の爪」との連関性が密な感じがしてならない。
「鹽冶(えんや)判官」鎌倉後期から南北朝にかけての武将で出雲守護であった塩冶高貞(?~興国二/暦応四年(一三四一)年)。後醍醐天皇の挙兵に呼応して鎌倉幕府との戦いに貢献、「建武の新政」の後は、足利尊氏に組みし、南朝方制圧に力を奮ったが、暦応四年三月に京都を出奔するや、謀反として北朝に追討され、同年翌月、出雲国で自害した。名浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」(全十一段・。二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。寛延元(一七四八)年八月大坂竹本座初演)に役転用されたことで一躍、名が有名になった(彼の通称が「大夫判官」であったことから、芝居では塩谷判官として使われた)。
「和氣淸麿(わけのきよまろ)」(天平五(七三三)年~延暦一八(七九九)年)は奈良末期から平安初期の廷臣。備前生まれ。本姓は磐梨別公(いわなしのわけのきみ)。孝謙天皇の頃、京に上り、武官として右兵衛少尉・従六位上の官位を得、天平神護元(七六五)年には勲六等を受けて「吉備藤野和気真人(きびのふじののわけのまひと)」の姓を賜わった。これらは恵美押勝(藤原仲麻呂)追討の功によるものと思われる。神護景雲三(七六九)年、悪僧道鏡が宇佐八幡の神託と称して帝位に就こうとした時、神託を聞くことを命じられた清麻呂は、道鏡が皇位を望むことは神霊もこれを震怒す、として道鏡の野心を退けた。そのため、道鏡の怒りを買って大隅に流されたが、翌年八月に後ろ楯であった称徳天皇が崩御して道鏡が失脚、光仁天皇が即位すると、京に召し返され、和気朝臣の姓を賜わって、天応元(七八一)年、従四位下となった。その後、民部大輔・摂津大夫などを経て。延暦 一五(七九六)年には従三位となった。彼は吏務にも精通し、「民部省例」(全二十巻)を撰し、「和氏譜」を奏上、また、長岡京の造営が停滞していることを憂え、天皇に葛野(かどの:平安京)への遷都を進言したり、摂津大夫の際には治水工事を行なったり、延暦の初め頃(元年は七八二年)には神護寺の前身であった神願寺を河内に建立したりした。死後、彼の遺志によって、備前国の彼の私墾田百町は「百姓賑給田(しんごうでん)」として農民の厚生の料に当てられている(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「備前の和氣郡」和気清麻呂は備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)生まれであるが、旧和気郡は、もと、広域の藤原郡が延暦七(七八八)年に吉井川を境に、西側を磐梨(いわなし)郡、東側を和気郡として分割して設置されたもので、ウィキの「和気郡」にも、『当地は奈良・平安時代に活躍した和気清麻呂を輩出した地域であり、隣接する磐梨郡とともに豪族和気氏の勢力下にあった』。源順の「和名類聚鈔」には『坂長郷、藤野郷、益原郷、新田郷、香登郷の』五『郷が記載されている。なお和気郷は、和名抄では磐梨郡に所属している。郡衙の位置は藤野郷と推定されており、和気町藤野にある推定地には和気氏政庁跡の碑が建てられ、整備されている』とある。
「伊賀名賀郡比奈知(ひなち)村大字瀧原の高座山」三重県名張市滝之原地区内の何れかのピーク。国土地理院図もリンクさせておく。
「攝津川邊郡多田村大字矢問(やとふ)」兵庫県川西市矢問はここ。「龍馬石」がここにあるかどうかは知らぬ。それより、この「矢問(やとう)」という地名が引っ掛かった。非常によくデータとして参考させて貰っている国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の「源満仲が住吉大社に祈念して、矢を放ったところ多田(兵庫県川西市市内)に居城を建てた伝説がある。これが「三ツ矢サイダー」の名前の由来にもなっている。福井市和田の和田八幡宮にも同様の伝説がある。もう一本、矢が放たれたはずだが、その場所はどこか?」(「多田」は「矢問」地区を囲むように現在地名として現存する)という質問と、その回答例が実に面白い!(馬や馬蹄とは関係ないけど。この矢問の西北直近(川向う)には、多田満仲と息子でかの名将源頼光の墓が一緒にあるぜよ!)
「多田滿仲」平安中期の武将源満仲(延喜一二(九一二)年(或いは翌年)~長徳三(九九七)年)。清和天皇の曾孫。正四位下・鎮守府将軍。摂津国多田に住んで「多田」を称した。摂津・越前・武蔵・伊予・美濃・下野・陸奥などの国守を歴任した。安和二(九六九)年、為平親王擁立の陰謀を企てたと密告して、源高明失脚の因をつくり、藤原氏政権の確立に奉仕し、並びなき武人との声望を得、藤原氏に随従して後代の清和源氏発展への遠因をつくった。子頼光の子孫に後の守護大名土岐氏がおり、子頼信の子孫に後の将軍頼朝及び新田・足利・佐竹・武田氏その他の有力豪族がいる。
「同郡小田村大字久々知」兵庫県尼崎市久々知(くくち)。同地区内の久々知須佐男(くくちすさのお)神社に天徳元年、多田満仲権進による旧妙見社の「矢文石」が現存する。由来不明であるが、一説に源満仲が摂津の国守として赴任した際、住吉の神の神託によりこの石に足を掛けて弓を射たところ、その矢の落ちた場所が、先の川西の多田であったとし、そこを多田源氏の発祥とする伝承があるという(のりちゃんずのサイト内の本神社の解説には、満仲の射た矢は、最後に九頭の大蛇の頭を射ぬいたとし、この蛇神は「九頭の明神」として崇め祭られたものだったが、この大蛇の血が引いた跡が「多くの田」のようになっていたことから、その地を「多田」と名づけたとある)。グーグル・マップ・データのサイド・パネルのこれが、その矢を射た石と思われる。但し、柳田國男の言うような、「乘馬の跡」なる石ではない。またまた瓢簞から駒で、この話、馬蹄石ではなく、神矢を放った際に踏みつけた石、その矢が落ちたところの石が原型なのではなかったか?
「阿波阿波郡土成(どなり)村大字土成の御所谷」徳島県阿波市土成町吉田椎ヶ丸にある土御門上皇御終焉地ともされる御所神社周辺から北の谷辺りか。ウィキの「御所神社(阿波市)」によれば、『創建年は不詳。椎ヶ丸古墳と呼ばれる前方後円墳の頂近くに鎮座。元は吹越神社と呼ばれ』、大正二(一九一三)年に『村内』二十八『社を合祀』し、昭和三二(一九五七)年に『御所屋敷に鎮座していた御所神社を合祀し、社名を現在の御所神社と改めた』。『当地は土御門上皇の終焉の地と伝えられており、その御神霊を奉っている』。「承久の乱」の『後、土御門上皇は後に阿波国に遷り、嘉禄三(一二二七)年に『土成町吉田の御所屋敷に行宮を営まれたと伝わる』。寛喜三(一二三一)年に三十七歳にして『この地で崩御された。崩御されたと伝わる場所には御所神社が鎮座し、上皇が腹を切った「御腹石」なる岩も残されている』とある。
「和州芳野の吉水院(きつすいゐん)」現在の奈良県吉野郡吉野町吉野山にある?水(よしみず)神社(「?」は当神社の正式表記漢字で示した)。本来はは金峯山寺の僧坊吉水院(きっすいいん)であったが、明治の廃仏毀釈により神社となった。後醍醐天皇を主祭神とし、併せて南朝方の忠臣楠木正成、吉水院宗信法印を配祀する(ウィキの「吉水神社」に拠る)。しかし、ここの有名な石は「弁慶力釘」の石で、義経の追手に気づいた弁慶が傍にあった釘を二本抜き、表へ出ると、追手の真中にあった硬い岩に、力をこめて自身の親指で釘を打ち込んだというとんでもない代物で、話としては馬蹄石より遙かに迫力がある。「奈良の宿大正楼」公式サイトのブログの「吉水神社の弁慶力釘」で写真が見られる。
「津輕の突端の三厩(みうまや)」津軽半島東岸の青森県東津軽郡外ヶ浜町字三厩(みんまや)地区。
「能登珠洲(すず)郡の三崎」石川県珠洲市三崎町。私は珍しくも三度も訊ねた場所である。
「義經記(ぎけいき)」室町前期成立と推定される軍記物。作者未詳全八巻。前半で源義経の幼少年時代の兵法修行や弁慶談・奥州下りを記し。後半では平家討滅後に頼朝の圧迫を受け、諸所を転々としつつ、辿り着いた奥州平泉の高館で自害するまでを描く。義経の生涯を述べながら、平家追討の武勇は数行記されているだけで、民間の義経伝説を集成したものとみられる。室町から江戸時代にかけて著しく成長をとげた「義経物(判官物)」の濫觴というべきもので、後代の文学や芸能への影響が大きい(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
『陸中盛岡の東見寺の境内には、同じく此の人が馬跡を留めし名石「三ツ石」あり』岩手県盛岡市名須川にある曹洞宗松峰山東顕寺。地図は同寺公式サイトのこちらで。但し、『「譚海」十二』とするが、私の所持するそれの同巻を縦覧してみたが、何故か見当たらない。発見し次第、電子化する。
「畠山重忠は其の舊領地たる秩父の一郡に於ては、今も多くの傳說の主なり」平安末期から鎌倉初期の名将で鎌倉幕府の有力御家人であった畠山重忠(長寛二(一一六四)年~元久二(一二〇五)年)。ウィキの「畠山重忠」によれば、『畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現在の埼玉県深谷市畠山)を領し、同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがある』。『源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられ』、子重保とともに謀殺された。『存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された』。謀略の顚末は私の「北條九代記 武藏前司朝雅畠山重保と喧嘩 竝 畠山父子滅亡」を参照されたい。
「高麗(こま)川の上流吾野(あがの)村大字阪元」旧入間郡(当初は秩父郡所属であったらしい)吾野村は、現在の埼玉県飯能市吾野。
「重忠の厩の跡」不詳であるが、航空写真を見ると、四方を山林で囲まれており、痕跡が残っていないとは限らぬ気はする。
「駿州田上の岡」不詳。
「相州箱根の三枚橋より、五、六町[やぶちゃん注:五百四十六~六百五十四メートル強。]の東、僅かなる溝(みぞ)に架けたる石橋に、曾我五郞の馬の蹄の跡あり。脚氣(かつけ)の祈願に驗(しるし)ありて、來たりて線香を燒く者、多かりき。東海道の繁華なる往來なるに、迷惑なる話には、若(も)し此の石を蹈む者あれば、必ず祟りあり。之れを他處(よそ)に移し去らんと企てて又、崇られし者あり〔「著作堂一夕話」〕」「三枚橋」から東へこの距離となると、この中央辺りとある。「著作堂一夕話」は曲亭馬琴の随筆(享和二(一八〇二)年夏に京阪に遊歴した際の雑記で、吉川弘文館随筆大成版で所持するので、それを参考に、漢字を恣意的に正字化して以下に示す。巻上の二番目に出る。読みは一部のみを採用し、一部の歴史的仮名遣の誤りを訂し、読点を追加した。挿絵も添えた(左右に分離しているのを合成して接合した)。挿絵の後の小さなそれは本文の途中の「★」部分に入る馬蹄の後の小さな図である。【 】は割注。後半は関係がないが、次いでに電子化した。
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○駿馬の蹄迹(あしあと)幷東福寺の釜
箱根三枚橋の東五六町許(ばかり)に溝ありて、かたはらに湯本村掃除丁場(そうぢてうば)の定杭(じやうくひ)あり。この溝に三尺ばかりの石を五六枚わたして橋とす。北より二枚めの石に名馬の蹄跡(あと)とて、のこれり。そのかたち、★のごとし。相傳(あひつた)ふ、むかし、曾我五郞時致(ときむね)、駿馬に跨(またがり)て山をはせ下るに、鎌倉より使札(しさつ)[やぶちゃん注:使者に持たせて遣る書状。]有て、途(みち)にこゝに行あひぬ。時致、馬を石橋の半(なかば)にとゞむ。その馬蹄、石に入ること、四、五分、今なほ、存す。もし誤(あやまり)てこれを蹈(ふむ)ものは、かならず、祟ありけり。一人あり、件(くだん)の石をとりて、端の石とさしかへたりしに、その人に、はかに死す。里人、怕れて、復(また)、元のごとくせり。脚氣(かつけ)を患(うれふ)るもの、これに祈れば、たちまち、愈ゆ。よりて、常に橋のまへに線香の焚(たき)さしあり。これは祈願ある人、朝ごとに來りて拜す[やぶちゃん注:「と」の脱字か。]いふ。又、箱根權現一の鳥居の邊に釜ニツあり。【高三尺許。】文永五年[やぶちゃん注:一二六八年。]【龜山院年號。】造る所にして。東福寺浴室の釜なり。別當法橋位(ほふきやうゐ)隆實とあり。【釜の緣に鑄つけたり。】よく人のしれるところなれば、圖せず。亦、湯本、畑(はた)の民家、正月、門に櫁(しきみ)をたつるなり。木の高サ六尺ばかりなるを二本伐(きり)とりて、十二月廿八、九日より、戸ごとに、これを建(たつ)ること、他州の門松におなじ。櫁は、元、橘の種類にして、めでたきものながら、今は佛家の香花(かうげ)ならで用ることなければ、しらざるものは、あやしみおもへり。
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「併し、今日は最早、此の石無しと見えて、電車が無事に通行しつゝあるなり」小田原電気鉄道の延長線となる箱根登山電車は、電力を供給するための設備として明治三一(一八九八)年に湯本茶屋発電所の建設が開始され、続いて翌一八九九年二月から軌道電化工事が開始された。橋梁改修・架替及び軌道敷設工事なども進められて明治三三(一九〇〇)年三月、全ての工事を完了、同三月二十一日から湯本駅までの全線で電車運転が開始されている(本書の刊行は大正三(一九一四)年七月である)。恐らくは街道に併置された路面電車方式であったと思われるから、上記の「曾我五郞の馬の蹄の跡」の石橋を撤去して軌道をその上に新設せねばならなかったのであろう。これもまた、蒸気機関車に化けて本物のそれに突進して轢死した化け狸同様、文明が民俗空間を蹂躪してゆく一場面であったのだ。
「武藏西多摩郡檜原(ひのはら)村字千足(せんぞく)」東京都西多摩郡檜原村のこの附近か。「千足」というバス停がある。
「平山伊賀守氏重」平安末期から鎌倉初期の武蔵七党の一つ「西党」(日奉(ひまつり)氏)の武将で多西郡舟木田荘平山郷(現在の東京都日野市平山)を領した平山季重(保延六(一一四〇)年?~建暦二(一二一二)年?)の子孫。ウィキの「平山季重」によれば、彼の子孫は鎌倉幕府の『執権北条氏の粛清をくぐり抜け、戦国時代に後北条氏に従』ったが、天正一八(一五九〇)年の豊臣秀吉の「小田原征伐」で、この平山氏重は檜原城に籠城するも、落城し、『平山氏一族は滅亡し、残った一族も没落』したとある。ウモ氏のサイト「埋もれた古城」の「檜原城」のページがすこぶる詳しい。柳田國男のそっけない謂いは、あたかも架空人物であるかのように誤解を生みそうで、どうも氏重が可哀想に思える。
「宇曾利山(かそりさん)」青森県北東部の下北半島北部に位置する円錐形の火山と外輪山の総称。所謂「恐山」で「おそれやま」とも呼び、知られた「恐山」の名は、この地の菩提寺円通寺の山号に由来する。青森県むつ市大畑町のここ。最高峰は標高八百七十八メートルの釜臥山(かまふせやま)。私は念願だった仏ヶ浦への旅の途中、訪れたことがある。
「九戶(くのへ)地獄」「九戶左近」戦国から安土桃山時代の武将九戸左近将監政実(くのへまさざね 天文五(一五三六)年~天正一九(一五九一)年)。彼は現在の岩手県二戸市福岡城ノ内にあった九戸城を本拠として、数々の武勇を発揮し、北東北で有数の勢力を誇ったが、後継者問題を機に南部宗家と対立し、天正一九(一五九一)年、政実は五千の兵を以って蜂起した。苦戦した南部家当主信直から助けを求められた豊臣秀吉は討伐軍を編成し、六万五千もの兵で九戸城を包囲し、数日間の攻防の末、政実は「降伏と引き換えに城兵の命を救う」との討伐軍の和議を受け入れて投降、斬首され、一族郎党も皆殺しにされた。それがここで言う「地獄」である。詳しくはサイト「草の実堂」の「九戸一族とおかんの悲劇について調べてみた」がよい。その最期の凄惨さと、後の悲話のエピソードも伝えて、如何にも哀れである。
「相州足柄下郡江浦(えのうら)村」神奈川県小田原市江之浦。まあ、馬で行くんだから、どうでもいいですけど、恐らく山路を実測十キロメートル近くは遠征せにゃあかんでっせ、ここじゃ。その初めにスベってんじゃ、とっても無理でんがな、秀吉はん!
『越前吉田郡岡保(をかほ)村大字大畑の「蹄の瀧」』福井県福井市花野谷町大畑町に「ひづめの滝」として命脈を保っている。我流天晴氏のブログ「我流天晴のじっとしてれないブログ」の「福井県の滝 ひづめの滝(蹄の滝)福井市大畑町」をどうぞ。滝フリークのブログ主も惹かれる雰囲気ではなかったそうです、はい。私も写真を見てそう思います、はい。
「朝倉義景」(天文二(一五三三)年~天正元(一五七三)年)は越前の戦国大名。初め、孫次郎延景と称したが、天文二一(一五五二)年に将軍足利義輝の偏諱を得て義景とした。同十七年、父の死により跡を継ぎ、一乗谷城主となった。加賀・能登・越前の一向一揆と戦ったが、義輝の命により、これと和解して越前を平定した。永禄九(一五六六)年、彼を頼った足利義昭を迎えることが出来なかったことから、以後、織田信長を頼った義昭と対立、義昭は同十一年に上洛して将軍職についたが、義景は信長とも対立し、元亀元(一五七〇)年には浅井氏と連合して、姉川で織田・徳川連合軍と戦ったが、大敗を喫し、さらに天正元(一五七三)年、信長の攻撃を受けて居城一乗谷に火を放ち、越前大野で自刃した。義景は歌を二条浄光院に学び、また、京風文化を一乗谷に移し、ここを小京都たらしめた風流人でもあった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]