大和本草卷之十三 魚之上 河鱸 (スズキ)
河鱸 海鱸ト形狀同シ味甚美ナリ海鱸ニマサレリ夏
秋尤多シテ味ヨシ其大者三四尺計其小者六七寸
アルヲセイゴト云一尺内外ナルヲハクラト云甚美ナリ
小者性カロシ中夏松江ノ鱸モ河鱸也長數寸本草
ニイヘリセイゴトハ松江ナルヘシ
○やぶちゃんの書き下し文
河鱸〔(かはすずき)〕 海鱸〔(うみすずき)〕と形狀同じ。味、甚だ美なり。海鱸にまされり。夏・秋、尤も多くして、味、よし。其の大なる者、三、四尺計り[やぶちゃん注:九十一センチから一メートル二十一センチ。]。其の小なる者、六、七寸[やぶちゃん注:十八~二十一センチ。]あるを「せいご」と云ふ。一尺内外なるを「はくら」と云〔ひ〕、甚だ美なり。小者〔は〕性〔(しやう)〕、かろし。中夏〔(ちゆうか)〕、松江(だん〔ごう〕)の鱸も河鱸なり。長さ數寸と「本草」にいへり。「セイゴ」とは松江(せうごう)なるべし。
[やぶちゃん注:条鰭綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus。多くの海水魚が分類学上、スズキ目 Perciformes に属することから、スズキを海水魚と思っている方が多いが、海水域も純淡水域も全く自由に回遊するので、スズキは淡水魚であると言った方がよりよいと私は考えている(海水魚とする記載も多く見かけるが、では、同じくライフ・サイクルに於いて海に下って稚魚が海水・汽水域で生まれて川に戻る種群を海水魚とは言わないし、海水魚図鑑にも載らないウナギ・アユ・サケ(サケが成魚として甚だしく大きくなるのは総て海でであり、後に産卵のために母川回帰する)を考えれば、この謂いはやはりおかしいことが判る。但し、生物学的に産卵と発生が純淡水ではなく、海水・汽水で行われる魚類を淡水魚とする考え方も根強いため、誤りとは言えない。というより、淡水魚・海水魚という分類は既に古典的分類学に属するもので、将来的には何か別な分類呼称を用意すべきであるように私には思われる)。ウィキの「スズキ」によれば、『冬から春に湾奥(干潟、アマモ場、ガラモ場、砂浜海岸)や河口付近、河川内の各浅所で仔稚魚が見られ』、『一部は体長』二センチメートル『ほどの仔稚魚期から』、『純淡水域まで遡上する』。『この際、遡上前の成長がより悪い個体ほど』。『河川に遡上する傾向がある』。『仔稚魚は遊泳力が非常に弱いため、潮汐の大きな有明海では上げ潮を利用して』、『潮汐の非常に小さい日本海では塩水遡上を利用して河川を遡上する』。『若狭湾で、耳石の微量元素を指標にして調べた結果によれば』、『純淡水域を利用する個体の割合は』三『割強に上る』。『仔稚魚はカイアシ類や枝角類などの小型の生物から、アミ類、端脚類などの比較的大型の生物へとを主食を変化させながら成長』し、『夏になると』、『河川に遡上した個体の一部が』、五センチメートル『ほどになり』、『海に下る』。ところが、特に春から秋にかけての水温の高い時期には、本種の浸透圧調整機能も高いことから、成魚期以降でもかなりの個体が河川の純淡水域の思いがけない上流域まで遡上する(益軒が「夏・秋、尤も多くして」と叙述するのと合致する)。堰の無かった昔は、琵琶湖まで遡上する個体もいたとされるのである。但し、種としてのスズキは、冬には沿岸及び湾口部・河口などの外洋水の影響を受ける水域で産卵や越冬を行ない、また純淡水域のみでは繁殖は出来ない。則ち、少なくともライフ・サイクルの産卵・発生・出生期には絶対に海水・汽水域が必要なのである。私自身、例えば、横浜市の戸塚駅直近の柏尾川(途中で境川に合流し江ノ島の北手前で相模湾にそそぐ。河口からは実測で十四キロメートル以上はある)で四十センチメートルを優に超える大きな成魚の数十尾以上の群れが遡上するのを何度も目撃している。以下に以上の生態上の事実を真面目に判り易く述べても、スズキを純粋に海の魚に決まってると思っている人はなかなか信じて呉れず(こういう頑なな人は存外、多い)、私の作った都市伝説だと思われる始末で、ほとほと困るのだが。
「河鱸〔(かはすずき)〕」「海鱸〔(うみすずき)〕と形狀同じ」当然です。同種ですから。益軒は同じ類の別種として見ていたようだが、上記のように現代人の多くが、「海の魚」と信じて疑わない事実に照らせば、遙かに益軒先生の方が「まとも」と言える。但し、条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ上科 Percoidea に属する、広義の「スズキ」の仲間で、海産のメバルによく似ている(事実、姿は海水魚にしか見えない)、
スズキ上科ペルキクティス科Percichthyidae オヤニラミ属オヤニラミ Coreoperca kawamebari
がいるから、「河鱸」ってえのはそれじゃないの? と言われる御仁もあろうが、そういうツッコミをされる方に限って私の過去記事を読んでいない。残念ながら、益軒先生は「オヤニラミ」をとうに本巻の別項で既に記載し終えているのである。「大和本草卷之十三 魚之上 水くり(オヤニラミ)」を参照されたい。従って、益軒がスズキとオヤニラミを混同している可能性はゼロである。
「六、七寸あるを「せいご」と云ふ。一尺内外なるを「はくら」と云」御存じの通り。スズキは出生魚で、地方によってサイズと呼称が異なる。
セイゴ(コッパ)→フッコ→スズキ→オオタロウ(ニュウドウ)
セイゴ→ハネ→スズキ(関西)
セイゴ→マダカ →ナナイチ→スズキ(東海)
ハクラコ→ハクラ→ハネ→スズキ(佐賀)
異名の詳細は「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「スズキ」のページの最後の「地方名・市場名」が詳しい。
「小者〔は〕性〔(しやう)〕、かろし」「カロシ」の「ロ」は底本も国立国会図書館デジタルコレクションの画像も確認したが、版本の刷りが悪く、読めなかった。ところが、瓢簞から駒で、次注の「松江(だん〔ごう〕)」の特殊な読みを調べる内、藤井統之氏の論文「松江と鱸」(平成二四(二〇一四)年・PDF)で電子化されてあるのを見出し、かく読めた。さて、「かろし」は「輕し」であろうが、これは思うに、味ではなく、身体性能のことを指しているのではないかと私は思う。ここでは小さな個体はと限定しているが、大型個体でもスズキはよくジャンプするのである。よく知られた話としては「平家物語」巻第一の「鱸」の末尾の一節である(引用は流布本に拠る)。
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抑(そもそも)、平家かやうに繁昌せられけることは、偏へに熊野權現の御利生(ごりしゃう)とぞ聞こえし。その故は、淸盛未だ安藝守たりし時、伊勢阿濃津(あのつ)[やぶちゃん注:現在の三重県津市南部の地。]より、舟にて熊野へ參られけるに、大きなる鱸の船へ躍り入りたりければ、先達(せんだち)[やぶちゃん注:案内の水主(かこ)。]申しけるは、
「昔、周の武王の舟にこそ、白魚(はくぎよ)は、躍り入りたりけるなれ。如何樣(いかさま)にもこれは權現の御利生と覺え候ふ。參べし。」
と申しければ、さしも十戒(じつかい)を保ち、精進潔齋の道なれども、みづから調味てうび)して、わが身、食ひ、家子(いへのこ)・郎等(らうどう)どもにも食はせらる。その故にや、吉事(きちじ)のみ打ち續いて、わが身、太政大臣に至り、子孫の官途も、龍(りよう)の雲に上(のぼ)るよりは、猶ほ速(すみや)かなり。九代(くだい)の先蹤(せんじよう)を超え給ふこそ目出たけれ。
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水主の台詞にあるのは、「史記」の「周本紀」にある、
武王渡河、中流、白魚躍入王舟中、武王俯取以祭。
(武王、河を渡る。中流、白魚、躍りて王の舟中に入る。武王、俯(ふ)して取りて、以つて祭る。)[やぶちゃん注:「俯す」のは単なる動作ではなく、天に礼するさまを指すのであろう。]
とあるのに基づき、「十戒」は殺生・偸盗・邪淫・妄語・悪口(あっく)・両舌・綺語・貪欲・瞋恚(しんに)・愚癡)を戒めること。熊野詣でであるから、潔斎が肝要で、魚を食らうのは殺生戒を犯すことになる。
「中夏」夏の半ば。陰暦五月。グレゴリオ暦で五月下旬から七月上旬頃。
「松江(だん〔ごう〕)」島根県松江の宍道湖のこと。これを「だんごう」と読むのは、中国の地名に由来する。小学館「日本大百科全書」の「松江(市)」の解説に、地名「松江」の由来として、宝暦(一七五一年~一七六四年)年間に懸かれた地誌「雲陽大数録」によれば、『松江ト府名ヲ付ル事、圓成寺開山春龍和尚ノ作ナリ。唐土ノ松江鱸(ズンゴウすずき)魚ト蓴菜(じゆんさい)ト有ルガ故、名產トス。今、城府モ其(ソレ)松江ニ似タレバ、松江ト稱スト云々」とあり、スズキやジュンサイを産し、湖江に面し、風光明媚にして、中国の松江(しょうこう)に似たところから、近世初期に松江に本拠を定めた堀尾吉晴によって松江と命名されたといわれる、とある。「圓成寺」(えんじょうじ)は現在の松江市栄町にある臨済宗鏡湖山円成寺で(グーグル・マップ・データ)、「しまね観光ナビ」の同寺の記載によれば、慶長一六(一六一一)年、堀尾吉晴が『富田(とだ)城下(能義郡広瀬町)にあった城安寺を洗合(あらわい)(松江市国屋町)に移して瑞応寺』『とし、旧領遠州浜松から春龍を請じて開山とした。京極忠高が入国するに及び、瑞応寺』『をこの地に移し、堀尾忠晴の法号』「円成寺殿雲隠両州太守拾遺高賢世肖大居士」に『ちなんで、円成寺と改称した』とある寺である。さて、この『中国の松江(しょうこう)』或いは「松江(ずんごう)」というのは、「呉松江」(現代中国音音写:ウーソォンヂィァン)・「呉江」(同前:ウーヂィァン)のことと思われ、これは太湖の東岸の現在の江蘇省蘇州市呉江区附近のことかと思われる(グーグル・マップ・データ)。発音が違うじゃないか、と言われそうだが、多量の僧侶が亡命した南宋(一二七六年に元によって滅ぼされた)のあった広州で使用された広東語では「呉江」は「ンーゴォン」で「ズンゴウ」と発音が酷似するのである。
『長さ數寸と「本草」にいへり』李時珍の「本草綱目」の巻四十四の「鱗之三」の「鱸魚」には、
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[釋名]四鰓魚。時珍曰、黑色曰盧。此魚白質黑章、故名淞人名四鰓魚。
[集解]時珍曰、鱸出吳中、淞江尤盛、四五月方出。長僅數寸、狀微似鱖而色白、有黑點、巨口細鱗、有四鰓。楊誠齋詩頗盡其狀、云、鱸出鱸鄉蘆葉前、垂虹亭下不論錢、買來玉尺如何短、鑄出銀梭直是圓。白質黑章三四點、細鱗巨口一雙鮮。春風已有真風味、想得秋風更逈然。「南郡記」云、吳人獻淞江鱸鱠於隋煬帝。帝曰、金虀玉鱠、東南佳味也。
肉
[氣味]甘平有小毒。宗奭曰、雖有小毒不甚發病。禹錫曰、多食、發痃癖瘡腫、不可同乳酪食。李廷飛云、肝不可食、剝人面皮。詵曰、中鱸魚毒者、蘆根汁解之。
[主治]補五臟、益筋骨、和腸胃、治水氣。多食宜人、作鮓尤良。曝乾甚香美(嘉定)。益肝腎(宗奭)。安胎補中作鱠尤佳(孟詵)。
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これを見てみると、時珍の言っているのは本当にスズキなのかどうか疑わしくなってくる。「肝不可食、剝人面皮」というのは高級脂肪酸やビタミンAの過剰摂取による症状で、大型の中・深海性魚類では肝臓だけでなく、身にも前者が含まれ、顔どころか全身がズル剥けになるのを想起させ、スズキらしくない。そんな疑問を解消してくれたのが、先の藤井統之氏の論文「松江と鱸」であった。そこに(一部の活字と記号を修正或いは変更・追加した)、
《引用開始》
「本草」とは、明の著名な医家李時珍の『本草綱目』のことで1596年に南京で上梓されている。現代版本草の『中薬大辞典(1986)』には、≪李時珍は鱸が松江の四鰓魚 (杜父魚科松江鱸魚 Trachidermus fasciatus Heckel)だと見做しているが、その根拠とした“状は鱸魚にやや似て色白、黒点あり、巨口細鱗”等の特質は、まさに鮨科の鱸魚で、松江鱸魚ではない。≫とある。鮨はヒレか魚名のハタ。鮨科はSerranidae で、英和辞書ではスズキとあるが専門用語としてはハタ科となる。杜父魚科はカジカ科。中国語Wikipedia『維基百科』には≪松江鱸 Trachidermus fasciatus(ヤマノカミ、山の神(両者とも原文))≫とある。松江鱸=山の神であるが、中国が鱸形(スズキ)目 Perciformesであるのに対して、日本ではカサゴ目 Scorpaeniformes。松江鱸は明人が混同し、「綱目」は今もこれだから、益軒が戸惑うのも無理はない。益軒は筑前生まれの福岡藩士である。絶滅危惧種とされる山の神が今唯一棲む有明海に筑後川が流れ込む。筑後川上流の別称上座川に、川鱸これありと自著『筑前国続風土記』に載る。別項に杜父魚はハゼに似るという記述もある。山の神も見たに違いないが、目に山の神=松江鱸の図式なく、看過したようだ。「松江」命名者の見え方も益軒と同じであろう。ところでスズキ目の科レベルの多様化はジュラ紀と白亜紀との境界付近で起きたらしいから、鱸と松江鱸が分岐したのがその頃か、また山の神がカサゴ目なら恐竜時代か。
『大和本草』から一世紀ほど下った小野蘭山(1729~1810)の『本草綱目啓蒙(1803)』巻四十に、「鱸魚 スジュキ スヾキ〔一名〕松江魚」という見出しで松江の名称の由来が書かれている。≪江鱸(寧波府志)ト云。正字通ニ、天下之鱸皆両鰓、惟松江鱸四鰓ト云。(……)然レドモ惟雲州松江鱸名産ナリ。味モマサレリ。(……)、雲州ノ鱸魚ヲ産スルコト尚シ。雲州ノ城下ヲ松江卜云、マタ呉松城トイフ。鱸魚ニヨリテ呉ノ松江ノ名ヲトレルモノナリ。≫(東洋文庫)既に江戸初中期を代表する碩学、新井白石(1657~1725)の覚書及び談話を編集した『白石先生紳書』巻七には、「今の松江の城をば縄張して鱸の名所也とて松江と名付しは甫庵也」の一文がある。甫庵とは松江城築造の全工程の指揮をとった参謀、小瀬甫庵(オセホアン)のことである。甫庵は儒医で武略文才の人。「甫庵版」と呼ばれる原書の刊行にも力を入れ、明の虞搏撰『新編医学正伝』などを出版(1597)。これは明の嘉靖刊本を、甫庵が最新技術の木活字をもって翻印したもので、『本草綱目』が南京で出版された翌年である。そこまで出版事情に通じた甫庵なら『本草綱目』(渡来 1607?)を「松江」命名の 1607 年(島田前掲書)までに入手し読んでいてもおかしくない。後に、『太閤記』や『信長記』という刊本のベストセラーを著わすほどの甫庵なら、漢籍に載る松江鱸やその逸話はもとより、本朝は『平家物語』巻一熊野詣の舟に飛び込んだ鱸の瑞兆譚に至るまで精通していたに違いない。
《引用終了》
なお、勘違いしては困るのだが、ここに出た漢名「松江鱸」、則ち、標準和名「ヤマノカミ」は、中国大陸の黄海と東シナ海に流入する河川や朝鮮半島に分布するが、本邦では九州の有明海に注ぐ福岡・佐賀両県の河川だけに分布し、宍道湖にはいない。ここでハタ類が揚がってくると、先に私の言った中毒がばっちり当てはまるし、ハタ類には別に熱帯海洋性プランクトンが産生するシガテラ(ciguatera)毒もある。しかし、「ヤマノカミ」と「スズキ」は凡そ似ていないので、私はこれも益軒が混同している可能性はゼロであると私は考えている。
さて、ここで「本草綱目」を引きながら、スズキを語った寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鱸」をも見ておこう(リンク先は私の電子化注。そこから訓読文のみを示す。古い電子化なので、少し手を加えておいた)。
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すずき 四鰓魚
鱸
ロウ
【和名、須々木。小なる者、波禰〔(はね)〕と名づく。尚を〔→ほ〕小さき者を世伊古〔(せいご)〕と名づく。】
「本綱」に、『鱸、凡そ黑色を盧〔(ろ)〕と曰ふ。此の魚、白質黑章、故に之れを名づく。淞江(スンコウ)、尤も盛んにして、四、五月、方〔(まさ)〕に出づ。長さ僅かに數寸。狀〔(かたち)〕・類、鱖(あさぢ)に似て、色、白く、黑點有り。巨〔(おほ)〕きなる口、細鱗、四つ〔の〕鰓有り。其の肝、食ふべからず。人の面皮を剥ぐ。
肉【甘、平。】 小毒有り【然れども甚だしくは病を發せず。但し、多食すべからず。】。鱸魚の毒に中〔(あた)〕る者〔には〕、蘆-根〔(だいこん)[やぶちゃん注:大根のこと。]〕汁、之れを解く。』と。
「新六」 衣笠内大臣
夕なぎに藤江の浦の入海に
鱸釣りてふあまの乙女子
川鱸は脂多く、味、美なり。海鱸は脂少なく、味、淡し。其の三、四寸なる者、「世比古〔(せひご)〕」と稱し、六、七寸〔より〕尺に近き者、「波祢〔(はね)〕」と名づく。一尺以上二、三尺に至る者、「須受岐〔(すずき)〕」と名づく。諸國・四時共に、之れ、有り。雲州〔=出雲〕の松江に最も多くして、夏月、特に之れを賞す。
「古事記」に云ふ、『天孫降臨の時、事代主〔(ことしろぬし)〕、出雲國の小濵に於いて天御饗〔(あまつみあへ)〕を獻ずる時、櫛八玉〔(くしやだま)〕、鱸を釣りて、之れを獻じれりと云云。』と。
*
以上には私の注も附してあるので参照されたいが、そこで私も既に(初公開は二〇〇七年)「本草綱目」の「鱸」を「スズキ」ではなく、「ヤマノカミ」に同定している。
『「セイゴ」とは松江(せうごう)なるべし』先の藤井統之氏の論文「松江と鱸」では、『セイゴは出世魚スズキの幼少時の呼び名であるが、益軒は名前を松江』(セウゴウ)『から来たとする。小なる者であるが』、『鱸に変わりないと考えたのであろう』しかし、『松江鱸』(ここはヤマノカミを指す)『の大きさは』十五センチメートル『以下だから』、六、七『寸あるセイゴは大きすぎ』と述べておられる。]
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