小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(70) 神道の復活(Ⅰ)
神道の復活
德川幕府の徐々たる衰微の諸〻の原因をたづねると、德川以前の代々の幕府の衰微を招致したそれ等と相似た處を見るのである、日本民族は、德川幕府の統治が始めた長い泰平時代の間に墮落し、幕府の强力な建立者達は、繼繼[やぶちゃん注:「つぎつぎ」。底本では二字目は踊り字「〲」。]にだんだんと繊弱なる人々を以てせられた。併しながら家康が敏捷に工夫して、家光が更に完成した行政機閣は、頗るよく出來て居たので、幕府の敵も、外國人の侵入が不意に彼等を助けるまでは、一襲擊を以てよくこれを斃し得る機會を見出し得なかつた。幕府の最も危險な敵は、薩摩と長州の二大藩であつた。家康は或る點以上には彼等の勢を殺ぐ事を敢て爲し得なかつた。若し此の二藩を滅ぼさうとしても、其の危險は實に重大なものであつたらしい、また一方、これ等二藩の同盟はその當時一時は政治的に極めて重要な事柄であつたのである。彼はこれ等の手に負へない同盟の間に、彼が信賴し得る大名を置いて、勢力の安仝な均衡を保存する手段を取つた、――信賴といふのは、第一には利害に基づき、第二には親族關係を元としたものである。併し彼は、幕府の危險は薩長から來るかもし知れないといふ事をいつも感じて居た。そして彼は或は事實となるかも知れない、斯樣な敵を相手にする際に採るべき政策に就いて子孫に注意深い指圖を殘した。彼は自己の仕事が完全でない事――其の建造物中の或るかけ離れた處にある塊が、他の部分に適當に緊め合はされて居なかつた事を感じた。彼は、完全で永久な凝集をなすには、社會の材料が未だ充分に進化して居なかつたし、又、まだ充分に形を成して居なかつたばかりの故で、結合の方面により今以上の事を爲し得なかつた。それを成就する爲めには、諸藩を解散する事が必要であつた。併し家康は其の事情の下で、人間の先見が安全に企てる事を許し得たあらゆる手段を盡くした、而して彼の驚くべき組織の弱點に就いては、彼自身よりも以上に鋭く自覺して居たものは何人もなかつた。
二百年餘も薩長二藩は心ならずも德川の統治の掟に從つて居た。そして他に、も一朝機會があれば薩長と同盟しようと覗つて居た數藩があつた。彼等は幕府の下風に立つて壓迫を甘受するを快しとせず、その羈軛[やぶちゃん注:「きやく」と読む。「おもがい」と「くびき」で、ともに牛馬を繋ぎ止める道具。転じて、「束縛すること」をいう。]を破壞する機會をうかがつて居た。しかもそのうちこの機會は徐々として彼等の爲めに造られつつあつた、――それは何等政治上の變化に依つてではなくて、日本の文學者の辛抱强い勞力によつてであつた。これ等のうちの三人――日本が今迄に生んだ最大の學者――が、彼等の知的の勞働によつて、幕府の廢止に對して特に道德を準備したのである。彼等は神道學者であっで、外國の觀念と外國の信仰の長い壓制に對する、――則ち支那の文學と哲學と官僚主義とに對する、―-また、佛教といふ外國の宗教が教育に及ぼした優勢な影響に對する、――また、日本人固有の保守的精神の當然な反動を代表して居た。すべてこれ等のものに對するに、彼等は日本の古來の文學と、古代の詩歌と、古代の祭祀と、神道の初期の傳統と儀式とを以てした。これ等の顯著な三人は加茂眞淵(一六九七―一七六九[やぶちゃん注:元禄十年~明和六年。])、本居宜長(一七三〇―一八〇一[やぶちゃん注:享保十五年~享和元年。])、及び平田篤胤(一七七六―一八四三[やぶちゃん注:安永五年~天保十四年。])であつで、これ等の人の努力の結果、佛教の顚覆と、一八七一年の神道の大復活が生ずるに至ったのである。
[やぶちゃん注:以下、一行空け。]
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