芥川龍之介 義仲論 藪野直史全注釈 / 二 革 命 軍
二 革 命 軍
賴政によりて刺戟を與へられ、更に以仁王の令旨によりて擧兵の辭を與へられたる革命軍は、百川の旭の出づる方に向つて走るが如く、刻一刻により、平氏政府に迫り來れり、而して此焦眉の趨勢は遂に、平氏政府に於て福原の遷都を喚起せしめたり。請ふ吾人をして福原の遷都を語らしめよ。何となれば此一擧は、入道相國が政治家としての長所と短所とを、最も遺憾なく現したれば也。
[やぶちゃん注:「百川」「ひやくせん」。あらゆる河川。「旭の出づる方」東はこの折りの京より東の主に関東の源氏勢力を暗示させるのであろうが、同時に後に義仲が入洛後、後白河法皇が与えた「征東大将軍」の異名「朝日将軍(旭将軍)」の称号をも遠く利かせているように読める。なお、「征東大将軍」については、ウィキの「木曾義仲」の注釈の「1」に、従来は「吾妻鏡」などを『根拠に、義仲が任官したのは「征夷大将軍」とする説が有力で』、「玉葉」に『記されている「征東大将軍」説を唱えるのは少数派だったが』、「三槐荒涼抜書要」所収の「山槐記」建久三(一一九二)年七月九日の『条に、源頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が発見された。それによると、「大将軍」を要求した頼朝に対して、朝廷では検討の末、義仲の任官した「征東大将軍」などを凶例としてしりぞけ、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」を吉例として、これを与えることを決定したという。こうして義仲が任官したのは「征東大将軍」だったことが同時代の一級史料で確認できたため、今日ではこちらの説の方がきわめて有力となっている(櫻井陽子「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって」』(『明月記研究』第九号・二〇〇四年)とあるのに従った。]
彼は、一花開いて天下の春を知るの、直覺的烱眼を有したりき。而して又彼が政治家としての長所は、實に唯此大所を見るの明に存したりき。吾人は、彼が西海を以て其政治的地盤としたるに於て、彼の家人をして諸國の地頭たらしめしに於て、海外貿易の鼓吹に於て、音戶の瀨戶の開鑿に於て、經ケ島の築港に於て、彼が識見の宏遠なるを見る、未嘗て源兵衞佐の卓識を以てするも武門政治の創業者としては遂に彼の足跡を踏みたるに過ぎざるを思はずンばあらず。(固より彼は多くの點に於て、賴朝の百尺竿頭更に及ぶべからざるものありと雖も)見よ、彼は瀨戶内海の海權に留意し、其咽喉たる福原を以て政權の中心とするの得策なるを知れり。彼は南都北嶺の恐るべき勢力たるを看取し、若し、彼等にして一度相應呼して立たば、京都は其包圍に陷らざるべからざるを知れり。而して彼が此胸中の畫策は、源三位の亂によりて、反平氏の潮流の滔々として止る[やぶちゃん注:「とむる」。]べからざるを知ると共に、直に彼をして福原遷都の英斷に出でしめたり。彼が治承四年六月三日、宇治橋の戰ありて後僅に數日にして、此一擧を敢てしたる、是豈彼が烱眼の甚だ明、甚だ敏、甚だ弘なるを表すものにあらずや。福原の遷都はかくの如く彼が急進主義の經綸によつて行はれたり。然れども彼は此大計を行ふに於て、餘りに急激にして、且餘りに强靭なりき。約言すれば、福原の遷都は彼が長所によつて行はれ、彼が短所によつて、破れたりき。
[やぶちゃん注:「音戶の瀨戶の開鑿」広島県呉市にある本州と倉橋島の間の海峡(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「音戸の瀬戸」によれば、『音戸という地名の由来の一つに「隠渡」がある。これはこの海峡を干潮時に歩いて渡ることができたことから隠渡と呼ぶようになったという』。『伝承によれば音戸には、奈良時代には人が住んでいたと伝えられている』。『当時海岸はすべて砂浜で、警固屋』(けごや:地名。広島県呉市警固屋(グーグル・マップ・データ))と僅か幅三尺(約九十センチメートル)の『砂州でつながってい』たので、人々は『その付近の集落を』「隠れて渡る」ようにしたことから、『隠渡あるいは隠戸と呼んだ』とし、『ここを通行していた大阪商人が書きやすいようにと隠渡・隠戸から音戸を用いだしたのが』、『この名の始まりであるという』。『その他にも、平家の落人が渡ったことから、あるいは海賊が渡ったことから、呼ばれだしたという伝承もある』。『瀬戸内海を横切る主要航路は、朝廷によって難波津から大宰府を繋ぐものとして整備された』もので、『古来の倉橋島南側の倉橋町は「長門島」と呼ばれ』『その主要航路で』「潮待ちの港」が『存在し、更に遣唐使船がこの島で作られたと推察されているほど』、『古来から造船の島であった』。『音戸北側に渡子』(とのこ)『という地名があり』(現存。広島県呉市音戸町(ちょう)渡子(グーグル・マップ・データ)、これは七世紀から九世紀に『交通の要所の置かれた公設渡船の』「渡し守(場)」に『由来することから、古来からこの海峡には渡船があったと推定されている』。『つまり、遅くとも奈良時代には倉橋島の南を通るルート、そして北であるこの海峡を通るルートが成立していたと考えられている』。『この海峡で有名なのは永万元年』(一一六五年)旧暦七月十日に『完成した平清盛が開削したとする伝説である』。『この海峡はつながっていて、開削するに至った理由は、厳島神社参詣航路の整備として、荘園からの租税運搬のため、日宋貿易のための航路として、海賊取り締まりのため、など諸説言われている』。『この地に着いた時、短気な清盛は倉橋島を大回りするのをバカバカしく思い』、『ここを開削すると下知した。家臣は人力では無理ですと答えた。清盛は「なに人力に及ばすとや、天魔をも駆るべく、鬼神をも役すべし、天下何物か人力に依りて成らざるものあらんや、いでいで清盛が見事切り開いて見すべきぞ」と工事を決行した』。『工事には連日数千人規模で行われ莫大な費用を要した』が、『工事は思ったように進まなかった』。工事が『あと少しで完成』せんとした折り、日が沈み、『観音山の影に隠れた。そこで清盛は山の小岩の上に立ち』、『金扇を広げ「かえせ、もどせ」と叫ぶと』、『日は再び昇った。これで工事は完成した』とか、『沈む夕日を呼び戻し』て一『日で開削したとする伝説もある』。また、「清盛の『にらみ潮』伝説」というのもある。『清盛は厳島神社の巫女に恋慕していた。巫女は神社繁栄のため』、『清盛に、瀬戸を開削したら意に従う、と思わせぶりな返答をした。清盛は完成にこぎつけたが、巫女は体を大蛇に変えこの瀬戸を逃げた。清盛は舟で追ったが』、『逆潮で進まなかった。怒った清盛は船の舳先に立って海を睨みつけると』、『潮の流れが変わり』、『船を進めた』というものである。また、『工事安全祈願のために人柱の代わりに一字一石の経石を海底に沈めたと』も『言われ、その地に石塔を建立、これが清盛塚である』とある。『音戸とはこの清盛の』『塔が由来とも言われて』おり、『他にも、警固屋』『はこの工事の際に飯炊き小屋=食小屋が置かれたことから』、『音戸町引地は小淵を掘削土で埋めた場所』から『と』も『言われている』。また、清盛の死(治承五(一一八一)年)は、この日招きが祟ったもの『とも言われている』。但し、『この話は古くから真偽』が『疑われている』。その大きな理由の一つは、『当時の朝廷の記録および清盛の記録にこの工事のことが全く記されていないためである』。しかし、『清盛が安芸守であったこと、厳島神社を造営したこと、大輪田泊(現神戸港)や瀬戸内の航路を整備した事実があり、この海峡両岸一帯の荘園』「安摩荘」は『清盛の弟である平頼盛が領主であった』『ことから、この海峡に清盛の何らかの影響があった可能性は高』く、『記録がないのは、源氏による鎌倉幕府が成立して以降平氏の歴史が消去されていったためと推察されて』おり、『地元呉市ではこの伝説は事実として語られている』。『一方で、偽説であるとする根拠はいくつかある』。『地理学的に考察すると』、『そもそもつながっていなかったとする説があ』り、また仰天の「日招き伝説」は『日本全国に点在』しているが、その起源は前漢の皇族で学者の劉安撰になる「淮南子」に載る『説話で、そこから広まったことが定説となっている』。「にらみ潮」も、やはり「淮南子」の『中に同じような話がある』。また、『人柱の代わりに小石に一切経を書いたという伝承は』、「平家物語」では『経が島のことである』。『文献で見ると』、康応元(一三八九)年の今川貞世の「鹿苑院殿厳島詣記」に、『この海峡を通過した情景は書かれている』ものの、『清盛のことは一切書かれておらず、現在もこの地に残る清盛塚にある宝篋印塔が室町時代の作であることから、この伝説が単なる作り話であるならば』、『室町ごろに成立したものと考えられている』。『時代が下』って、天正八(一五八〇)年の厳島神社神官棚守房顕が記した「房顕覚書」に『「清盛福原ヨリ月詣テ在、音渡瀬戸其砌被掘」』と出、『安土桃山時代に書かれた平佐就言』(ひらさなりこと(と読むか?):毛利輝元家臣)の「輝元公上洛日記」には『「清盛ノ石塔」が書かれて』はある。結論から言うと、『この話が広く流布したのは江戸時代後期のことで、評判の悪かった清盛が儒学者によって再評価される流れとなったことと』、『寺社参詣の旅行ブームの中でのことである』。『中国山地壬生の花田植にこの伝説の田植え歌があることからかなり広い範囲で伝播していたことがわかっている』。『この地の地名起源と清盛(平家)伝説とが結びついた話は』、『こうした中で文化人や地元民が創作したものと推定されている』。『ただ近代では、清盛伝説は大衆文化での人気題材にはならなかったこと、代わって軍人など新たなヒーローが好まれたことなどから、この伝説は全国には伝播しなかった』とある。なお、これ以降の中世にあって、『瀬戸内海の島々は荘園化が進められ、畿内に租税が船で運ばれていった』。『航路の難所では、航行の安全を確保するとして水先人が登場しそして警固料(通行料)を取るようになった』。『これが警固衆(水軍)の起こりである』とある。
「經ケ島の築港」ウィキの「経が島」を引く。『日宋貿易の拠点である大輪田泊(摂津国)に』、『交易の拡大と風雨による波浪を避ける目的で築造された人工島』。承安三(一一七三)年竣工。その広さは「平家物語」に『「一里三十六町」とあることから』、三十七『ヘクタールと推定されている。経ヶ島・経の島とも書く』。『塩槌山』(しおづちやま:この中央附近にあったか(グーグル・マップ・データ))『を切り崩した土で海を埋め立てた。工事の際、それが難航したため』。『迷信を信じる貴族たちが海神の怒りを鎮めるために人身御供をすることにな』ったとも言う。『一説には、平清盛は』、『何とか人柱を捧げずに埋め立てようと考えて、石の一つ一つに一切経を書いて埋め立てに使』い(前注に出た「経石」)、『その後、事故などもなく』、『無事に工事が終わったためにお経を広げたような扇の形をしたこの島を「経が島」と呼ぶようになったとされる』。『ただし、実際の工事は清盛生存中には完成せず、清盛晩年の』治承四(一一八〇)年には、『近隣諸国や山陽道・南海道に対して人夫を徴用する太政官符が出され』ており、『最終的な完成は平家政権滅亡後に工事の再開を許された東大寺の重源によって』建久七(一一九六)年に『なされたとされている』。「平家物語」では、『清盛自身、死後に円實という僧によって経が島に埋葬されたと記述されている』。『現在では、度重なる地形変化等により』、この島の位置は『特定できずにいるが、おおよそ神戸市兵庫区の阪神高速』三『号神戸線以南・JR西日本和田岬線以東の地であるとみられており、松王丸の石塔が伝えられている兵庫区島上町の来迎寺(築島寺)周辺とする説もある』とある。前者は先の地図のやや南に動かした位置、後者は先の地図の西の「古代大輪田泊(おおわだのとまり)の石椋(いわくら)」のある近く。
「百尺竿頭」「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を進む」の略。「既に到達した極点よりもさらに向上の歩を進めること」を言う。これは唐代の禅僧長沙景岑(けいしん)のもので(石霜和尚と長沙景岑禅師の百尺の竿頭についての問答中のもの)、「景徳伝燈録」(宋代の仏教書。全三十巻。道原著。一〇〇四年成立。禅宗の伝灯(正法を伝える意味)の法系を明らかにしたもので、過去七仏から始めてインド・中国歴代の諸師千七百一人の伝記と系譜を述べ、中国禅宗史研究の根本資料とされる)の「第十」の中の「百尺竿頭須ㇾ進ㇾ歩、十方世界是全身」(百尺竿頭に須(すべか)らく歩を進むべし、十方(じつぱう)世界、是れ、全身)に拠るとする辞書が多い。その原文は「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のこちらで見られ(寛永一七(一六四〇)年版本。訓点附き)、その偈に、
百丈竿頭不動人 雖然得入未爲眞
百丈竿頭須進步 十方世界是全身
百丈の竿頭 人を動ぜず
然も得入(とくじゆ)すと雖も 未だ眞たらず
百丈の竿頭 須らく步を進むべし
十方(じつぱう)世界 是れ 全身
とある。また、これはそれを受けた少し後の「無門関」(宋代の僧無門慧開(一一八三年~一二六〇年)が編んだ公案集。私には遠い昔の仕儀で暴虎馮河の「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」がある)の「四十六 竿頭進歩」にも、
石霜和尚云、百尺竿頭、如何進步。又古德云、百尺竿頭坐底人、雖然得入未爲眞。百尺竿頭、須進步十方世界現全身。
(石霜和尚云く、「百尺の竿頭、如何が步を進めん。」と。又、古德云く、「百尺の竿頭、坐して底(てい)する人、入り得て然ると雖も、未だ眞と爲さず。百尺の竿頭、須らく步を進めて、十方世界に全身を現ずべし。」と。)
ともある。「厳しい修行の修行の末に悟りを開いたとしても、修行の道に終わりはない、さらに一歩を進めよ」の意。
「經綸」「けいりん」。国家の秩序を整え、治めること。或いは、その方策。]
彼は、より無學にして、しかも、より放恣なる王安石也。彼は常に一の極端より他の極端に走りたりき。彼は今日計を定めて、明日其效を見るべしと信じたりき。詳言すれば彼は理論と事實との間に、幾多の商量すべく、打算すべく、加減すべき摩擦あるを知らざりき。而して又彼は、彼が信ずる所を行はむが爲には、直線的の突進を敢てするの執拗を有したりき。彼の眼中には事情の難易なく、形勢の可否なく、輿論の輕重なく、唯彼の應に[やぶちゃん注:「まさに」。]行はざる可からざる目的と之を行ふべき一條の徑路とを存せしのみ。王安石は云へり、「人の臣子となりては、當に四海九州の怨を避くべからず」と。彼をして答へしめば、將に云ふべし、「一門の榮華を計りては、天下の怨を避くべからず」と。然れども彼の刈りたるは、僅に彼の蒔きたるものゝ半ばに過ぎざりき。彼は其目的を行はむには、餘りに其手段を選ばざりき。餘りに輿論を重んぜざりき、餘りに、單刀直入にすぎたりき。彼は、疲馬に鞭ちて、百尺の斷崖を越えむと試みたり。而して、越え得べしと信じたりき。是豈、却て疲馬を死せしむるものたらざるなきを得むや。
[やぶちゃん注:「王安石」(一〇二一年~一〇八六年)は北宋の政治家。下級地方官の家に生まれ、一〇四二年の進士科に高位で及第したが、中央のポストには就かず、自ら望んで地方官を歴任して行政の経験を積んだ。仁宗(在位:一〇二二年~一〇六三年)の末年に中央に帰ると、十数年の体験を纏めた長文の報告書「万言の書」を皇帝に提出し、政治改革の必要性を説いたが、当時は大臣たちに相手にされなかった。その後、江寧(現在の南京)に帰って母の喪に服し、喪が明けた後もここに留まっていたが、一〇六七年、青年皇帝神宗が即位すると、皇帝の政治顧問である翰林学士に任命されて朝廷に召され、国政改革を委ねられた。一〇六九年に参知政事(副宰相)に上り、年来の抱負を実行に移すことになった。先ず、皇帝直属の審議機関である制置三司条例司を設けて、ここに少壮官僚を集めて新政策の立案に当たらせ、出来上がったものから発布して行った。一〇七〇年に同中書門下平章事(宰相)に上ると、条例司は必要がなくなり、廃止された。彼の新政策は、まとめて「王安石の新法」とよばれ、均輸法に始まり、青苗(せいびょう)法・農田水利法・市易法・募役法・保甲法・保馬法など多数に上り、これらによって北宋中期以来の財政赤字を解消し、国力を増強することを当面の目的とした。これらの新法に対し、従来甘い汁を吸っていた大地主・官僚・豪商らは猛然と反対の声を挙げたが、神宗の強力な支持を得て遂行され、効果を上げた。ただ、新法は富国強兵のみを目的としたのではなく、究極においては、士大夫の気風を一新し、実務に堪能で政治に役だつ人材を養成することにあり、その方策として、官吏に法律を学ばせ、学校教育を重視し、三舎法を定めて、卒業者をそのまま官僚に任命する制度をも作った。一〇七六年に引退し、江寧の鍾山(しょうざん)に住み、余生を送った。彼は学者・文人としても当代一流で、経学では、政治改革の理想とする「周礼(しゅらい)」に自ら注釈を加えた「周官新義」を著はし、学校のテキストとして用いて、新法の指針とした。散文は欧陽脩を師とし、警抜な発想を以って明晰で迫力ある文体を創り、唐宋八大家の一人に数えられている。詩も高い評価を受けてきたが、鍾山に隠棲してからの、自然を詠じた作品が特に優れているとされる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。筑摩書房全集類聚版注には、「乃公(だいこう)出でずんば、天下の草生を如何」(この俺が出てやらなければ、他の者には何が出来るものか)の語は有名とある。
「人の臣子となりては、當に四海九州の怨を避くべからず」筑摩書房全集類聚版注は『出典未詳』とするが、中文サイトの「続資治通鑑」の「宋紀」の「七十一」に、安石の弟で官吏であった安国の言葉として、「安國曰、『非也。吾兄自以爲人臣不當避怨、四海九州之怨悉歸于己、而后可爲盡忠于國家。』とあるのがそれらしい。]
彼が遷都の壯擧を敢てするや、彼は、桓武以來、四百年の歷史を顧みざりき。彼は「おたぎの里のあれやはてなむ」の哀歌に耳を傾けざりき。一世の輿論に風馬牛なる、かくの如くにして猶遷都の大略を行はむと欲す、豈夫[やぶちゃん注:「あに」「それ」。]得べけむや。果然、新都の老若は聲を齊うして[やぶちゃん注:「ひとしうして」。]、舊都に還らむことを求めたり。而して彼の動かすべからざる自信も是に至つて、聊か欹傾せざる能はざりき。彼は始めて、舊都の規模に從つて福原の新都を經營するの、多大の財力を費さゞる可からざるを見たり。而して此財力を得むと欲せば、遷都の不平よりも更に大なる不平を蒙らざる可からざるを見たり。しかも頭を囘らして東國を望めば、蛭ケ小島の狡兒、兵衞佐賴朝は二十萬の源軍を率ゐて、既に足柄の嶮[やぶちゃん注:「けん」。]を越え、旌旗劍戟岳南の原野を掩ひて、長驅西上の日將に近きにあらむとす。彼の胸中にして、自ら安ずる能はざりしや、知るべきのみ。加ふるに嫡孫維盛の耻づべき敗軍(治承四年十月)は、東國の風雲益[やぶちゃん注:「ますます」。]急にして、革命の氣運既に熟せるを報じたるに於てをや。是に於て、彼は福原に退嬰するの平氏をして、天下の怨府たらしむる所以なるを見、一步を退くの東國の源氏をして、遠馭長駕の機を得しむるを見、遂に策を決して、舊都に還れり。嗚呼、彼が遷都の英斷も、かくの如くにして、空しく失敗に陷り了りぬ。
[やぶちゃん注:「おたぎの里のあれやはてなむ」「平家物語」巻第五の「都遷(うつ)し」(福原遷都。治承四年六月二日(ユリウス暦一一八〇年六月二十六日)に移ったが、僅か半年後の十一月二十三日(十二月十一日)には京都へ還都した。京都還幸は源氏の挙兵に対応するために清盛が決断したとされる)の章で、旧の京の都の内裏の柱に記されてあったとして出る、二首の落首の最初の一首の下句。二首目も後段で掲げられるので二首とも示す。
*
百年(ももとせ)を四(よ)返りまでに過ぎ來にし
愛宕(をたぎ)の里の荒れや果てなむ
咲き出づる花の都を振り捨てて
風ふく原の末(すゑ)ぞ危ふき
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「百年(ももとせ)を四(よ)返り」平安京は延暦十三年十月二十二日(七九四年十一月二十二日)に桓武天皇によって長岡京から遷都しているから、この福原遷都は数えで三百八十七年後となる。「愛宕」は平安京のあった山城国愛宕(おたぎ)郡。「平家物語」ではかくするが、歴史的仮名遣でも「おたぎ」でよい。
「岳南」富士山麓の現在の静岡県側。
「嫡孫維盛の耻づべき敗軍(治承四年十月)」故重盛の嫡男維盛(平治元(一一五九)年~寿永三(一一八四)年:享年二十六)は「富士川の戦い」(治承四年十月二十日(一一八〇年十一月九日)及び「倶利伽羅合戦」(寿永二年五月十一日(一一八三年六月二日))の二大決戦で、ろくな戦闘も無き無面目の潰走(次段にも出る前者)と後者の壊滅的な敗北を喫した。既に注した通り、鬱状態が昂じ、平氏一門の都落ちの途中に屋島の戦線から離脱(脱走)してしまい、那智の沖で入水して死んだと伝えられる(生き延びて相模で病死したとする別説もある)。
「退嬰」「たいえい」。進んで新しいことに取り組もうとする意欲を欠くこと。]
今や、平氏の危機は目睫の間に迫り來れり。維盛の征東軍、未一矢を交へざるに空しく富士川の水禽に驚いて走りしより、近江源氏、先響[やぶちゃん注:「まづ」、「ひびき」。]の如く應じて立ち、別當湛增亦紀伊に興り、短兵疾驅、莊園を燒掠する、數を知らず。園城寺の緇衣軍、南都の圓頂賊、次いで動く事、雲の如く、將に、旗鼓堂々として、平氏政府を劫さむとす[やぶちゃん注:「おびやかさむとす」。]。是豈、烈火の如き入道相國が、よく坐視するに堪ふる所ならむや。然り、彼は舊都に歸ると共に、直に天下を對手として、赤手をふるひて大挑戰を試みたり。彼が軌道以外の彗星的運動は、實に是に至つて其極點に達したりき。如何に彼が破壞的政策にして、果鋭峻酷なりしかは、左に揭ぐる冷なる日曆之を證して餘りあるにあらずや。
[やぶちゃん注:「近江源氏」
「別當湛增」前の「一 平氏政府」の最終段落の注を参照。
「短兵疾驅」「短兵」は短い刀剣類を指すので、軽装備で身軽にすばしっこく走り回る武人・兵士を指している。
「園城寺の緇衣軍」現在の滋賀県大津市園城寺町にある天台宗園城寺(おんじょうじ:通称・三井寺)は、延暦寺と対立を繰り返してきた(元は宗門内の対立で、平安中期の比叡山は円珍の門流と慈覚大師円仁の門流との二派に分かれており、円珍派が比叡山を下りて園城寺に移った)ことからも想像がつくように(比叡山宗徒による園城寺の焼き討ちは中世末期までに大規模なものだけで十回、小規模なものまで含めると五十回にも上る)、園城寺も強力な「緇衣軍」(しいぐん)=僧兵団を有していた。源氏は、かの源頼義が「前九年の役」で園城寺に戦勝祈願をしたことから、歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にもこれに協力し、平家滅亡後、源頼朝は当寺に保護を加えている。
「赤手」何の武器も持たないこと。素手。ここはしっかりした準備も計画性もなしに以下に列挙するような蛮行を敢えて行使したことを指していよう。
「果鋭」果断にして気性の鋭いこと。
「峻酷」非常に厳しく情け容赦がないこと。
以下の丸印附きの箇条部は全体が二字下げでポイント落ち。区別するために、前後を一行空けた。なお、芥川龍之介は何を元にしたのか(「平家物語」と「源平盛衰記」の幾つかを見てみたが、孰れとも合わない)、一部に重大な日付の誤り(或いは現在知られている史実日時)があるので、各条の後に注を挿し入れた。なお、筑摩書房全集類聚版注はそれを指摘していない。]
○治承四年十月二十三日 入道相國福原の新都を去り、同二十六日京都に入る。
[やぶちゃん注:既に示した通り、福原から京への還都は治承四(一一八〇)年十一月二十三日の誤りであり、以下の条より後のこととなる。但し、記載から見て芥川龍之介はこの誤った時系列に沿って本文を書いていることが判る。]
○十二月二日 平知盛等を東國追討使として關東に向はしむ。
[やぶちゃん注:「平知盛等を東國追討使として關東に向はしむ」「東國追討使」は大将軍(総大将)に故重盛の嫡男維盛、それに清盛の異母弟忠度と、清盛の四男知盛(仁平二(一一五二)年~文治元(一一八五)年)平治元(一一五九)年八歳で従五位下、治承元 (一一七七)年従三位。同四年挙兵した源頼政を「宇治川の戦い」で破った。寿永元(一一八二 年、従二位権中納言。翌年、源義仲に追われ、一門とともに西走、解官された。同三年、「一ノ谷の戦い」で奮戦したが、敗れて屋島に逃れ、翌文治元(一一八五)年の「屋島の戦い」で義経に敗れ、「壇ノ浦の合戦」で、安徳天皇始め一門の女性とともに入水した)を将とする三名が選出され、これに平家の侍大将藤原(伊藤)忠清らの平家家人が加わった大軍であった。但し、追討使本軍は九月二十二日に福原京を出発、翌二十三日に旧都平安京に到着したが、ここの出発日の吉凶を巡ってトラブルが発生し、九月二十九日になってやっと進発するという致命的な遅れを犯してしまっている(芥川龍之介の日付は全くの誤り)。この辺りから関東での源氏を中心とした勢力の膨脹と西進に就いては、およまる氏のブログ「ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて」の「東国追討使の派遣【治承・寿永の乱 vol.48】」が非常に詳しく、読ませる。]
○同十日 淡路守淸房をして、園城寺をうたしむ。山門の僧兵園城寺を扶けて、平軍と山科に戰ふ。
同日 淸房園城寺を火き、緇徒を屠る。
[やぶちゃん注:「淡路守淸房」平清房(?~寿永三(一一八四)年)は清盛の八男。治承三年のクーデタで淡路守に任官した。寿永三年の「一ノ谷の戦い」では、兄知盛の指揮下に入り、生田の森の陣を警備したが、源範頼軍に陣を突破され、覚悟を決め、従兄弟の経俊や義弟の清貞とともに三騎で敵陣に突入し、討ち取られた。なお、彼の指揮による園城寺焼き討ちは「玉葉」「山槐記」の十二月九日から十二日の条に記載があるので概ね正しい(十一日。次注参照)ものと思われる。]
○同二十五日 藏人頭重衡をして、南都に向はしむ。
○同廿八日 重衡、兵數千を率ゐて興福寺東大寺を火き、一宇の僧房を止めず、梟首三十餘級。
○同廿九日 重衡都へ歸る。
[やぶちゃん注:「重衡」平盛の五男重衡(保元二(一一五七)年~文治元(一一八五)年:
享年二十九)。ウィキの「平重衡」を見ると、彼は清房の園城寺焼き討ちにも参加してらしく、十二月十一日に『園城寺を攻撃し寺を焼き払うと』、十二月二十五日には、『大軍を率いて南都へ向かった。興福寺衆徒は奈良坂と般若寺に垣楯・逆茂木を巡らせて迎え』打ったが、『河内方面から侵攻した重衡の』四『万騎は興福寺衆徒の防御陣を突破し、南都へ迫』り、二十八日、『重衡の軍勢は南都へ攻め入って火を放ち、興福寺、東大寺の堂塔伽藍一宇残さず焼き尽し、多数の僧侶達が焼死した。この時に東大寺大仏も焼け落ちた』。「平家物語」では、『福井庄下司次郎太夫友方が明りを点ける』ため『に民家に火をかけたところ』、『風にあおられて延焼して大惨事になったとしているが』、延慶本「平家物語」では、『計画的放火であった事を示唆』する書き方になっている。『放火は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われるが、大仏殿や興福寺まで焼き払うような大規模な延焼は、重衡の予想を上回るものであったと考えられる』とあり、『この南都焼討は平氏の悪行の最たるものと非難され、実行した重衡は南都の衆徒からひどく憎まれた』その後、寿永二(一一八三)年)二月の「一ノ谷の戦い」(『平氏は源範頼・義経の鎌倉源氏軍に大敗を喫し』た)、の負け戦さの最中、『重衡は馬を射られて捕らえられた。重衡を捕らえたのは』、「平家物語」では『梶原景季と庄高家』、「吾妻鏡」では『梶原景時と庄家長とされる。重衡は京へ護送され』、『土肥実平が囚禁にあたった。後白河法皇は藤原定長を遣わして重衡の説得にあたるとともに、讃岐国・屋島に本営を置く平氏の総帥・平宗盛に三種の神器と重衡との交換を交渉するが、これは拒絶された。しかし』「玉葉」の二月十日の条に『よると』、『この交換は重衡の発案によるものであり』、『使者は重衡の郎党だった』という。同年三月、『重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、狩野宗茂(茂光の子)に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。頼朝は重衡を慰めるために宴を設け、工藤祐経(宗茂の従兄弟)が鼓を打って今様を謡い、千手の前は琵琶を弾き、重衡が横笛を吹いて楽しませている』。「平家物語」では、その『鎌倉での重衡の様子を描いており、千手の前は琵琶を弾き、朗詠を詠って虜囚の重衡を慰め、この貴人を思慕するようになった』とする。元暦二(一一八五)年三月、「壇ノ浦の戦い」で『平氏は滅亡し、この際に平氏の女達は入水したが、重衡の妻の輔子』(ほし/すけこ)『は助け上げられ』、『捕虜になっている』。『同年』六月九日、焼き討ちを『憎む南都衆徒の強い要求によって、重衡は南都へ引き渡されることになり、源頼兼の護送のもとで鎌倉を出立』、二十二日に『東大寺の使者に引き渡された』。「平家物語」には、『一行が輔子が住まう日野の近くを通った時に、重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、輔子が駆けつけ、涙ながらの別れの対面をし、重衡が形見にと額にかかる髪を噛み切って渡す哀話が残されている』。「愚管抄」にも『日野で重衡と輔子が再会したという記述がある』。二十三日、『重衡は木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された。享年』二十九であった。『なお、斬首前に法然と面会し、受戒している』。なお、彼は美少年として知られ牡丹の花に喩えられたという。
「山門」比叡延暦寺。ここで僧兵らは往年の敵とともになって全面的に平氏に向かったのである。]
彼が駕を舊都に還してより、僅に三十餘日、しかも其傍若無人の行動は、實に天下をして驚倒せしめたり。彼は、時代の信仰を憚らずして、伽藍を火くを恐れざりき。然れども彼は僧徒の橫暴を抑へむが爲に、然かせるにあらず。内、自ら解體せむとする政府を率ゐ、外、猛然として來り迫る革命の氣運に應ぜむには、先、近畿の禍害を掃蕩するの急務なるを信じたるが爲めのみ。而して彼は、此一擧が平氏政府の命運を繫ぎたる一縷の糸を切斷せしを知らざる也。彼が此破天荒の痛擊は、久しく平氏が頭上の瘤視[やぶちゃん注:「りゆうし(りゅうし)」。]したる南都北嶺をして、遂に全く屛息し去るの止むを得ざるに至らしめたりと雖も、平氏は之が爲に更に大なる僧徒の反抗を喚起したり。啻に僧徒の反抗を招きたるのみならず、又實に醇篤なる信仰を有したる天下の蒼生をして、佛敵を以て平氏を呼ばしむるに至りたりき。形勢、既にかくの如し。自ら蜂巢[やぶちゃん注:「はうそう(そうそう)」。]を破れる入道相國と雖も、焉ぞ奔命に疲れざるを得むや。時人謠ひて曰く「咲きつゞく花の都をふりすてて、風ふく原の末ぞあやふき」と、然り眞に「風ふく原の末ぞ」あやふかりき。平氏は、福原の遷都を、掉尾の飛躍として、治承より養和に、養和より壽永に、壽永より元曆に、元曆より文治に、圓石を萬仞の峯頭より轉ずるが如く、刻々亡滅の深淵に向つて走りたりき。
[やぶちゃん注:「屛息」「へいそく」。恐れて縮こまり、息を殺して凝っとしていること。
「醇篤」純粋でしっかりしていること。
「蒼生」「さうせい(そうせい)」。注で既出既注。「人民」の意。
「奔命」主君の命を受けて奔走すること。転じて、忙しく活動すること。ここは後者。
「時人」「じじん」、当時の民。
「咲きつゞく花の都をふりすてて、風ふく原の末ぞあやふき」既出既注。「平家物語」巻第五の「都遷(うつ)し」(福原遷都)の章の、旧の京の都の内裏の柱に記されてあったとして出る、二首の落首の二首目。「咲き出づる花の都を振り捨てて風ふく原の末ぞ危ふき」の相似歌。諸本の異同か。
と、然り眞に「風ふく原の末ぞ」
「治承」安元三年八月四日(ユリウス暦一一七七年八月二十九日)から治承五年七月十四日(一一八一年八月二十五日)。但し、頼朝の関東政権では、この先の養和・寿永の元号を使わず、治承を引き続き、使用した。
「養和」治承五年七月十四日から養和二年五月二十七日(一一八二年六月二十九日)まで。
「壽永」養和二年五月二十七日から寿永三年四月十六日(一一八四年五月二十七日まで。但し、ウィキの「寿永」によれば、『源氏方ではこの元号を使用せず』、『以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永二年十月宣旨が与えられた』寿永二(一一八三)年以降は、『京都と同じ元号が鎌倉でも用いられるようにな』った。反して、『平家方では都落ちした後も』、『次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永を』、『その滅亡まで引き続き』、『使用した』とある。
「元曆」寿永三年四月十六日から元暦二年八月十四日(一一八五年九月九日)まで。なお、加工データとした「青空文庫」の「木曾義仲論」はここを『天暦』(遥か前の九四七年から九五七年)としている。ママ注記も一切ないから、恐らく入力の誤りであろう。注意されたい。「青空文庫」はもう永く誤りを通知出来るシステムを休止している。これは老舗の権威的電子テクスト・サイトとしては頗る致命的であると言わざるを得ない。
「文治」元暦二年八月十四日から文治六年四月十一日(一一九〇年五月十六日)に建久に改元するまで。
以下、底本では本文で初めて一行空けが施されている。ここでは二行空けた。]
將門、將を出すと云へるが如く、我木曾義仲も亦、將門の出なりき。彼は六條判官源爲義の孫、帶刀先生義賢の次子、木曾の山間に人となれるを以て、時人稱して木曾冠者と云ひぬ。久壽二年二月、義賢の惡源太義平に戮せらるゝや、義平、彼の禍をなさむ事を恐れ、畠山庄司重能をして、彼を求めしむる、急也。重能彼の幼弱なるを憫み、竊に[やぶちゃん注:「ひそかに」。]之を齋藤別當實盛に託し、實盛亦彼を東國にあらしむるの危きを察して、之を附するに中三權頭兼遠を以てしぬ。而して中三權頭兼遠は、實に木曾の溪谷に雄視せる豪族の一なりき。時に彼は年僅に二歲、彼のローマンチツクなる生涯は、既に是に兆せし也。
[やぶちゃん注:遂に木曾義仲が語られ始める。丁度、論文全体の真ん中少し前に当たる。
「將門、將を出すと云へるが如く」ここは個人名でのそれではなく、「しやうもん(しょうもん)」で、「大将の家柄・将軍を出すところの一門」の意なので、注意。以下の二つの注も参照。
「六條判官源爲義」源為義(永長元(一〇九六)年~保元元(一一五六)年)は義家の孫で、父は義親。叔父の義忠暗殺後に河内源氏の棟梁を称した。これは広義の武家集団の中の頭(大将)と言える。なお、父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。頼朝・義経らの祖父。「保元の乱」で崇徳上皇方の主力として戦ったが敗北し、後白河天皇方についた長男義朝の手で処刑された。
「帶刀先生義賢」「たちはきのせんじやう(じょう)よしかた」(「たてはき」でもよい)と読む。生年不詳で久寿(きゅうじゆ)二(一一五五)年没。保延五(一一三九)年に後の近衛天皇となる東宮躰仁(なりひと)親王を警護する帯刀の長となったことから、「東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)」と呼ばれた。これは皇太子護衛官である武官集団の指揮官であるから、やはり広義の「大将」と言ってよいであろう。ウィキの「源義賢」によれば、『翌年、滝口源備』(みなもとのそなう)『殺害事件の犯人を捕らえるが、義賢がその犯人に関与していた』(犯人を匿ったとされる)『として帯刀先生を解官され』、『その後藤原頼長に仕える』。康治二(一一四三)年には『頼長の所有する能登国の預所職となるが』、久安三(一一四七)年年、『貢未納により罷免され、再び頼長の元に戻り、頼長の男色の相手になってい』たらしい(「台記」久安四年一月五日の条に拠る)。『京堀川の源氏館にいたが、父・為義と不仲になり』、『関東に下っていた兄・義朝が』、仁平三(一一五三)年に『下野守に就任し』て『南関東に勢力を伸ばすと、義賢は父の命により』、『義朝に対抗すべく北関東へ下った。上野国多胡を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んで』、『その娘をめとる。重隆の養君(やしないぎみ)として武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え、近隣国にまで勢力を』伸ばした。久寿二(一一五五)年八月(芥川龍之介の「二月」は誤りか)、『義賢は義朝に代わって鎌倉に下っていた甥・源義平』(永治元(一一四一)年~永暦元(一一六〇)年:義朝の長子で頼朝・義経らの異母兄。父とともに戦って敗れた「平治の乱」後に逃走し、清盛の暗殺を狙ったが、翌年、捕えられて六条河原で処刑された。享年二十歳)『に大蔵館を襲撃され』、『義父・重隆とともに討たれた。享年は』三十『前後とされる』(この戦いは、秩父一族内部の家督争いに端を発したものに、源氏内部の争いが結びついたものであった)。『大蔵館にいた義賢の次男で』二『歳の駒王丸は、畠山重能』(しげよし 生没年未詳:武蔵国大里郡畠山荘(現在の埼玉県深谷市)の豪族。桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族で畠山氏の祖。晩年まで平家方にあったが、嫡男畠山重忠は初期に頼朝を追討するも、開幕後は有力御家人となった(但し、北条時政の謀略により滅ぼされた))『・斎藤実盛』(?~寿永二(一一八三)年:芥川龍之介の「芋粥」で知られる藤原利仁の子孫。出身は越前であるが、武蔵国播羅(はら)郡長井(現在の埼玉県熊谷市)に移った。この時、幼い義賢の遺児義仲を助け、信濃の豪族中原兼遠(かねとお)に託した。初め、源為義・義朝に仕え、「保元・平治の乱」では義朝に従ったが、「平治の乱」で義朝が敗れ、東国に逃れる途中で別れ、その後は平氏に従い、頼朝が挙兵した際にも、「石橋山の合戦」でこれと戦い、次いで平維盛に属して「富士川の戦い」にも出陣している。寿永二年、やはり維盛に従って北陸に出陣、かつての養い子である義仲と戦ったが、「加賀の篠原の戦い」で手塚光盛に討たれた。その際、老年を隠すため、鬢髪を黒く染めて出陣した話はよく知られる)『らの計らいによって信濃木曾谷(木曽村)の中原兼遠に預けられ、のちの源義仲(木曾義仲)とな』り、『京にいたと思われる嫡子の仲家は、源頼政に引き取られ』て『養子となっている』とある。
「中三權頭兼遠」「ちゆうざうごんのかみかねとう」。前注に出た通り、信濃国木曾地方に本拠とした豪族中原兼遠(?~治承五(一一八一)年?)。右馬少允中原兼経の子。木曾義仲の乳母父。ウィキの「中原兼遠」によれば、『木曾中三(中原氏の三男)を号した』。『朝廷で代々大外記を務めた中原氏』から続く『系図がある。父の兼経は朝廷で正六位下・右馬少允に叙任された後、信濃国佐久郡に移住し牧長を務めたとされる』。『平安時代末期には兼経の長男である木曾中太が』「保元の乱」で『源義朝・源為義に従軍している』。先の事件の後、『駒王丸を斎藤実盛の手から預かり、ひそかに匿って養育』した。『この時、信濃権守であったという。駒王丸は兼遠一族の庇護のもとで成長し、木曾義仲と名乗って』、「治承・寿永の乱」に『おいて平家や源頼朝と戦う。兼遠の子である樋口兼光・今井兼平はともに義仲の重臣となっている』。「源平盛衰記」では、『巴御前は兼遠の娘で義仲の妾となっており、また一説によると』、『もう一人の娘は義仲の長男義高を生んでいると』も言う。]
吾人は、彼の事業を語るに先だち、先づ木曾を語らざるべからず。何となれば、彼の木曾に在る二十餘年、彼の一生が此間に多大の感化を蒙れるは、殆ど疑ふべからざれば也。請ふ吾人をして源平盛衰記を引かしめよ。曰、
[やぶちゃん注:以下「所にあらずと。」までは底本では全体が一字下げ。区別するために前後を一行空けた。]
木曾と云ふ所は究竟の城廓なり、長山遙に連りて禽獸稀にして嶮岨屈曲也、溪谷は大河漲り下つて人跡亦幽なり、谷深く棧危くしては足を峙てゝ步み、峯高く巖稠しては眼を載せて行く、尾を越え尾に向つて心を摧き、谷を出で谷に入つて思を費す、東は信濃、上野、武藏、相模に通つて奧廣く、南は美濃國に境道一にして口狹し、行程三日の深山也。縱、數千萬騎を以ても攻落すべき樣もなし、況や、棧梯引落して楯籠らば、馬も人も通ふべき所にあらずと。
[やぶちゃん注:「源平盛衰記」巻第二十六の「木曾謀叛の事」のここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。左の十行目から十四行目部分。別伝本を底本としたか、「嶮岨屈曲也、溪谷は」などはないが、他には有意な異同は認められない。読みがないと、かなり読み難いが、注で挟むと五月蠅くなるので、ここでは本文では附さずに、以下に必要と私が判断した箇所に読みを添えたものを再掲することとする。
*
木曾と云ふ所は究竟(くきやう)の城廓なり、長山(ちやうざん)遙に連りて禽獸稀にして嶮岨屈曲也、溪谷は大河漲り下つて人跡亦幽(かすか)なり、谷深く棧(かけはし)危(あやし)くしては足を峙(そばだ)てゝ步み、峯高く巖(いはほ)稠(きびしう)しては眼(まなこ)を載せて行く、尾を越え尾に向つて心を摧き、谷を出で谷に入つて思(おもひ)を費(つひや)す、東は信濃、上野(かうづけ)、武藏、相模に通(とほ)つて奧廣く、南は美濃國に境(さかひ)道(みち)一にして口(くち)狹(せば)し、行程(ゆくほど)三日の深山(みやま)也。縱(たとひ)、數(す)千萬騎を以ても攻落(せめおと)すべき樣もなし、況や、棧梯(せんてい)引落(ひきおと)して楯籠(たてこも)らば、馬も人も通ふべき所にあらずと。
*
「眼を載せて行く」というのは、桟道を行く際の目も眩む危うさを言っていよう。なお、底本は「相模」であるが、諸本はここを「相摸」とする(律令時代の公文書では「相摹」であるから正規表現は「相摸」ではある)。しかし私の校合した「源平盛衰記」は「相模」である。新全集は「相摸」だが、校訂表に変更したとする記載がない。そもそもが新全集は新字体を用いているのだから、ここだけ使用漢字にしたのだとしても実体全体のテクストとしては何ら意味を成さないと思うと言っておく。]
是、東海の蜀道にあらずや。惟ふに函谷の嶮によれる秦の山川が、私鬪に怯[やぶちゃん注:「けふ(きょう)」。]にして公戰に勇なる秦人を生めるが如く、革命の氣運既に熟して天下亂を思ふの一時に際し、昂然として大義を四海に唱へ、幾多慓悍なる革命の健兒を率ゐ、長驅、六波羅に迫れる旭日將軍の故鄕として、はた其事業の立脚地として、恥ぢざるの地勢を有したりと云ふべし。然り、彼が一世を空うする[やぶちゃん注:「むなしうする」。]の霸氣と、彼が旗下に投ぜる木曾の健兒とは、實に、木曾川の長流と木曾山脈の絕嶺とに擁せられたる、此二十里の大峽谷に養はれし也。然らば彼が家庭は如何。麻中の蓬をして直からしむものは、蓬邊の麻也。英雄の兒をして英雄の兒たらしむるものは其家庭也。是ハミルカルありて始めてハンニバルあり、項梁ありて始めて項羽あり、信秀ありて始めて信長あるの所以、鄭家の奴學ばずして、詩を歌ふの所以にあらずや。思うて是に至る、吾人は遂に、彼が乳人にして、しかも彼が先達たる中三權頭兼遠の人物を想見せざる能はず。彼の義仲に於ける、猶北條四郞時政の賴朝に於ける如し。彼は、より朴素なる張良にして、此は、より老猾なる范增なれども、共に源氏の胄子を擁し、大勢に乘じて中原の鹿を爭はしめたるに於ては、遂に其歸趣を同くせずンばあらず。
[やぶちゃん注:「麻中の蓬をして直からしむものは、蓬邊の麻也」「麻中(まちゆう(まちゅう))の蓬(はう(ほう))をして直(なほ)からしむものは、蓬邊(はうへん)の麻(あさ)也(なり)」と読んでおく。「軟弱で曲がり易い蓬(よもぎ)のような草でも、真っ直ぐに伸びる習性を持った麻(あさ)の中に入って育てば、曲がらずに伸びる」、則ち、「人は善良な人と交われば自然に感化を受け、だれでも善人になる」という喩え。「荀子」の「巻第一 勧学篇第一」にある「蓬生麻中、不扶而直、白沙在涅、與之俱黑」(蓬(はう)も麻中に生ずれば扶(たす)けずして直(なほ)く、白沙も涅(どろ)に在れば、之れと俱(とも)に黑し)の前半部に基づく。
「ハミルカル」カルタゴの将軍ハミルカル・バルカ(Hamilcar Barca(s) 紀元前二七五年頃~紀元前二二八年)。ウィキの「ハミルカル・バルカ」によれば、『家族名のバルカはフェニキア語の「バラク』『(電光)」に由来』するとある。『第一次ポエニ戦争(紀元前二六四年~紀元前二四一年)の際』、『ローマ軍と戦い、シチリア島での戦いでは陸と海でローマ軍を挟みうちにし』て『ローマを苦しめたが、本国カルタゴが敗れ、ローマとの講和を余儀なくさせられた』。『ハミルカルにより約束されていた』傭兵らの『報酬は、大ハンノを中心とするカルタゴ政府内の反ハミルカル勢力により反故にされ、傭兵たちは反乱を起こしてしまう。危機感を募らせたカルタゴ政府はハミルカルに反乱の鎮圧を要請、紀元前』二三七年、『ハミルカルは傭兵の反乱を鎮圧に成功する。これによりハミルカルのアフリカでの名声と影響力を世に知らしめる』。『反乱鎮圧の後、ハミルカルの影響は強まり、彼の政敵は日増しに力を増す彼に抗する事ができなかった。この名声を背景に彼は自分の軍隊を募る。軍には』『各地からの傭兵を集めて訓練を施し、ヒスパニアへ出征してカルタゴ政府からの干渉を受けない』、『自らの王国を築く事を決意する。新天地の開拓により、シチリア島を失ったカルタゴを支援できうると考えての行動であった。また遠征には息子ハンニバルも随行した。幼き日の息子ハンニバルを神殿に連れて行き、打倒ローマを誓わせた逸話は非常に有名』とある。
「ハンニバル」カルタゴの将軍ハンニバル・バルカ(Hannibal Barca 紀元前二四七年~紀元前一八三年又は紀元前一八二年)。ハミルカル・バルカの長子。ウィキの「ハンニバル」によれば、『第二次ポエニ戦争を開始した人物とされており、連戦連勝を重ねた戦歴から、カルタゴが滅びた後もローマ史上最強の敵として後世まで語り伝えられていた』。二千『年以上経た現在でも、その戦術は研究対象として各国の軍隊組織から参考にされるなど、戦術家としての評価は非常に高い』とある。
「鄭家の奴」「ぢやうけのど」。後漢の学者鄭玄(じょうげん 一二七年~二〇〇年)の家の使用人。鄭玄は各地を遊学後、四十を過ぎて郷里高密(山東省)に帰った。清貧をよしとし、農耕しつつ、諸生に教授したという。その学徳を慕って来たり学んだ者は一千人に達した。権勢に近づかず、朝廷や貴戚の徴召を断って、ひたすら研究に専念した「純儒」で、漢代経学の集大成者であり、すこぶる業績に富む(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。五経の一つである「詩経(毛詩)」は現在、完全に伝わっているものは、毛氏の解釈にこの鄭玄が補注を加えた「毛伝鄭箋」だけである。
「乳人」「ちひと」。乳母。ここは乳母親の意。
「胄子」「ちゆうし(ちゅうし)」家督を継ぐことになっている子。後継ぎ。「胄」は「世継・血筋」の意。
「歸趣」物事が最終的に落ち着くこと。行き着くところ。「帰趨」に同じい。]
義仲が革命の旗を飜して檄を天下に傳へむとするや、彼は踊躍して、「其料にこそ、君をば此二十年まで養育し奉りて候へ、かやうに仰せらるゝこそ八幡殿の御末とも思させましませ」と叫びたりき。「立馬吳山第一峯」の野心、此短句に躍々たるを見るべし。始め、實盛の義仲をして彼が許に在らしむるや、彼は竊に「今こそ孤にておはしますとも、武運開かば日本國の武家の主ともなりや候はむ。いかさまにも養立てて、北陸道の大將軍ともなし奉らむ」と獨語したりき。彼が、雄心勃々として禁ずる能はず、機に臨ンで其驥足を伸べむと試みたる老將たりしや知るべきのみ。年少氣鋭、不盡の火其胸中に燃えて止まざる我義仲にして斯老の膝下にある、焉ぞ其心躍らざるを得むや。彼が悍馬に鞭ちて[やぶちゃん注:「むちうちて」。]疾驅するや、彼が長弓を橫へて雉兎を逐ふや、彼は常に「これは平家を攻むべき手ならひ」と云へり。かゝる家門の歷史を有し、かゝる溪谷に人となり、而してかゝる家庭に成育せる彼は、かくの如くにして其烈々たる靑雲の念を鼓動せしめたり。彼は實に木曾の健兒也。其一代の風雲を捲き起せるの壯心、其眞率にして自ら忍ぶ能はざるの血性[やぶちゃん注:「けつしやう」。]、其火の如くなる功名心、皆、此「上有橫河斷海之浮雲、下有衝波逆折之囘川」の木曾の高山幽壑の中に磅礴したる、家庭の感化の中より得來れるや、知るべきのみ。吾人既に彼が時勢を見、既に彼が境遇を見る、彼が如何なる人物にして、彼が雄志の那邊に向へるかは、吾人の解說を待つて之を知らざる也。
[やぶちゃん注:「其料にこそ、君をば此二十年まで養育し奉りて候へ、かやうに仰せらるゝこそ八幡殿の御末とも思させましませ」「平家物語」巻第六の「義仲謀叛」の冒頭部の一節。
*
そのころ、信濃國に、木曾の冠者(くわんじや)義仲といふ源氏ありと聞こえけり。これは故六条判官(はんぐわん)爲義が次男、帶刀(たてはき)の先生(せんじやう)義賢が子なり。父義賢は久壽二年八月十六日、武藏國大倉にて、甥の惡源太義平(あくげんだよしひら)がために誅せられたり。そのとき、義仲二歳なりけるを、母、泣く泣くいだいて、信濃に越えて、木曾の中三(ちゆうざう)兼遠がもとへ行き、
「いかにもしてこれを育て、人になして見せ給へ。」
と言ひければ、兼遠、請けとつて、かひがひしう二十餘年、養育す。
やうやう人となるままに、力も世(よ)にすぐれて强く、心も並ぶ者なし。つねには、
「いかにもして平家を滅ぼして、世を取らばや。」
と申しける。兼遠よろこんで、
「その料(れう)にこそ[やぶちゃん注:そのためにこそ。]、君(きみ)をばこの二十四年、養育申し候へ。かく仰せられ候ふこそ、八幡殿[やぶちゃん注:義家。]の御末(おんすゑ)とも思(おぼ)えさせ給へ。」
と申しければ、木曾、心、いとどたてくなつて、根の井の大彌太(おほやた)滋野(しげの)の幸親(ゆきちか)[やぶちゃん注:生年未詳で元暦元(一一八四)年没か。義仲四天王の一人。佐久郡根々井の住人。根井(ねのい)国親の子。「滋野」は氏(うじ)正確にはその庶流である望月氏の出。「保元の乱」では源義朝に従って活躍したとされる。この治承四年に信濃国小県郡丸子の依田城で挙兵して以後、義仲に従い、各地に転戦したが、元暦元(一一八四)年一月二十日の「宇治川の戦い」で、子の楯親忠(たてのちかただ:義仲四天王の一人で行親の六男。義仲と父に従って「横田河原の戦い」や「倶利伽羅合戦」などに参戦し、活躍した)や源義広らとともに三百余騎で宇治の防衛に当たったが、二万五千騎の義経軍に突破された。この時、一族の武将らと前後して敗死したとされ、同年一月二十六日、義仲・今井兼平・高梨忠直らとともに東洞院の北にある獄門の木に梟首された。]をはじめとして、國中(こくちゆう)の兵(つはもの)をかたらふに、一人もそむくはなかりけり。上野國(かうづけのくに)には、故帯刀先生義賢のよしみによつて、那波(なは)の廣澄をはじめとして、多胡(たこ)の郡(こほり)の者ども、皆、從ひつく。
「平家、末(すゑ)になる折りを得て、源氏年來(ねんらい)の素懷をとげん。」
と欲す。
*
「立馬吳山第一峯」金(一一一五年~一二三四年:中国北半を支配した女真族の王朝)のの太祖阿骨打(アクダ)の庶長子である遼王斡本(オベン)の次男で第四代皇帝となった。女真名は迪古乃(テクナイ)、漢名は亮。殺害後に廃位され、海陵郡王に落とされたことから、「海陵王」と史称される。これは彼の詠じた七言絶句の結句。参照したウィキの「海陵王」によれば、『宗室の子である』ことから一一四〇年の奉国上将軍となったのを皮切りに宰相格の重職を歴任した。『堂々たる容貌であり、文官としても武将としても優れた才能を発揮し』たが、『一方で大いなる野心を抱い』ていた。一一四九年、『皇帝であった従兄の熙宗が奢侈や粛清などの暴政を繰り返して人望を失っているのを見て、自派の重臣ら』『と謀って熙宗を殺害し、自ら皇帝に即位した。即位後、腹心に「金の君主となる」「宋を討ってその皇帝を自分の膝下にひざまずかせる」「天下一の美女を娶る」という』三『つの夢を打ち明けている』。『金の建国後に生まれた海陵王は、若い頃から漢文化に親しんで優れた教養を持ち、即位後は漢文化の奨励を行った。その一方で、猜疑心が強く残忍な性格で』、『一一五二年には、皇帝の独裁権を強化するために、左丞相兼中書令の阿魯(宗本)と烏帯(宗言)ら大叔父・太宗の子孫』七十『余人と、族父(父の従兄)の秦王・粘没喝(宗翰)の子孫(乙卒ら)』五十『余人など』、『金の宗室系の諸王ら一族の実力者と、目障りな元勲の子孫たちを次々とまとめて粛清し』、『さらに、彼らの妻妾を奪取して後宮に入れ』ている。その後も残忍な粛清を続けた。一一六一年には周囲の反対を押し切って、『南宋に遠征した』が苦戦し、しかも『留守中の本国』では『海陵王の反対派が従弟に当たる葛王烏禄(世宗)を擁立し』、海陵王は『南征中の陣中で』『部下』『の軍隊によって殺害された』。詩は以下。南宋を征服せんとする意気込みを詠んだ一篇である。
*
萬里車書一混同
江南豈有別疆封
提兵百萬西湖上
立馬吳山第一峰
萬里の車書(しやしよ) 盡く混同
江南 豈に 疆封(きやうほう)の別(べつ) 有らんや
兵 百萬を提(す)ぶ 西湖の上(ほとり)
馬を立てん 呉山(ござん)の第一峰
*
訓読は漢詩サイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の同詩に拠った。御注も豊富なのでそちらを見られたい。
「今こそ孤にておはしますとも、武運開かば日本國の武家の主ともなりや候はむ。いかさまにも養立てて、北陸道の大將軍ともなし奉らむ」「孤」は「みなしご」。筑摩書房全集類聚版注は『出典未詳』とするが、これは「源平盛衰記」の「濃巻 第二十六」の一節であろう。但し、芥川龍之介はこれを斉藤別当実盛の心内語として以下も叙述しているが、そこでは、実盛の慫慂を受け、母が駒王丸を信濃に連れて来て、中原兼遠に保護を懇請した際の、兼遠の心内語である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ(心内語は九行目から始まる)。読み易く書き換えて示す。芥川の引用とは一部異なるが、以下に示す通り、後には「これは平家を攻むべき手ならひ」もあるので、間違いない。なお、後の部分をかなり引いたが、そこの後に先に示した芥川龍之介の引用の「木曾と云ふ所は究竟の城廓なり……」の部分が直に続くのである。
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兼遠、
『哀れ。』
と思ひける上、
『此の人は正(まさ)しく八幡殿には四代の御孫(まご)なり。世の中の淵は瀨となる喩へもあり。今こそ孤子(みなしご)にて御座(おはし)ますとも、知らず、世の末には、日本國の武家の主とも成りやし給はん。如何樣(いかさま)にも養ひ立てて、北陸道の大將軍になし奉つて、世にあらん。』
と思ふ心有りければ、憑(たの)もしく請け取りて、木曾の山下と云ふ所に隱し置きて、二十餘年が間、育(はごく)み養ひけり。
然(しか)るべき事にや、弓矢を取つて人に勝れ、心、甲(がふ)に、馬に乘りて能(よし)、保元・平治に、源氏、悉く亡びぬと聞こえしかば、木曾、七、八歲のをさな心に安からず思ひて、
『哀れ、家を討ち失うて世を取らばや。』と思ふ心あり。
『馬を馳せ、弓を射るも、是れは平家を責むべき手習ひ。』
とぞあてがひける。
長大の後、兼遠に云ひけるは、
「我は孤(みなしご)なりけるを、和殿(わどの)の育(はご)くみに依つて成人せり。懸かるらよりなき身に、思ひ立つべき事ならねども、八幡殿の後胤として、一門の宿敵を徐(よそ)に見るべきに非ず。平家を誅して世に立たばやと存ず、いかゞ有るべき。」
と問ふ。兼遠、ほくそ咲(ゑ)みて、
「殿を今まで育(やしな)ひ奉る本意(ほんい)、偏へに其の事にあり。憚り候ふ事なかれ、と云ひければ、其の後(のち)は、木曾、種々(しゆじゆ)の謀(はかりごと)を思ひ廻らして、京都へも度々忍び上(のぼ)つて伺ひけり。片山陰(かたやまかげ)に隱れ居て、人にもはかばかしく見知れられざりければ、常は六波羅邊(へん)にたゝずみ、伺ひけれども、平家の運、盡きざりける程は、本意を遂げざりけるに、高倉の宮の令旨を給はりけるより、今は憚るに及ばず、色に顯はれて謀叛を發(おこ)し、國中の兵を駈(か)り從へて、既に千萬騎に及べりと聞こゆ。[やぶちゃん注:以下略。というより、ここに芥川龍之介]
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「驥足」(きそく)「を伸べむ」「驥足を展ばす」「驥足」は「名馬の脚力」のこと。「一日に千里を走る駿馬が、さらに脚力を発揮して前進する」ことから、「優れた人物がその才能を十分に発揮する」ことの喩え。「三国志」の「蜀書」の「龐統(ほうとう)伝」に基づく。
「老將」「斯老」(しらう(しろう):かくも老練なる人物)孰れも前に注した通り、芥川龍之介は誤認した斉藤実盛を指して言っている。
「上有橫河斷海之浮雲、下有衝波逆折之囘川」李白の楽府題の「蜀道難」の一節に、
上有六龍囘日之高標
下有衝波逆折之囘川
上には六龍(りくりよう)囘日(くわいじつ)の高標(かうへう)有り
下には衝波(しようは)逆折の囘川(くわいせん)有り
訓読は漢詩サイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の同詩に拠った。その注に訳が示されてあり『上の方には、(太陽神というべき羲和が太陽を載せた)六匹の龍が挽(ひ)く車でも太陽を(載せて)迂回する高峰があり』とされた後、改訳されて、『上の方には、六頭立ての龍車に乗って運行する太陽でさえも道を譲らなければ高い山の峰があり』とあり、次の句は『下の方には、激しい真っ直ぐな流れの波に、逆方向に折れ曲がって流れる渦巻く川がある』とある。芥川龍之介のそれは、調べて見たところ、グーグルブックスの中文の「李白詩全集」の「蜀道難」に、この前の句が一本では、
上有橫河斷海之浮雲
とあるとあった。これだと、
上には橫河(わうが)斷海(だんかい)の浮雲有り
で、「上野方には、大いなる黄河に悠々と相並んで大海をも断ち切って在る浮雲が流れ」といった謂いか。個人的には意味に於いて、比喩の河川が出て次句の実景のイメージとのダブりがあるそれより、知られた「上有六龍囘日之高標」の方が遙かによいと思う。
「幽壑」「いうがく(ゆうがく)」。奥深い渓谷。
「磅礴」「はうはく(ほうはく)」。「ぼうはく」(現代仮名遣)とも読む。ここは「広がり満ちること」の意。]
今や、跼天蹐地の孤兒は漸くに靑雲の念燃ゆるが如くなる靑年となれり。而して彼は滿腔の霸氣、欝勃として抑ふべからざると共に、短褐孤劍、飄然として天下に放浪したり。彼が此數年の放浪は、實に彼が活ける學問なりき。吾人は彼が放浪について多く知る所あらざれども、彼は屢京師に至りて六波羅のほとりをも徘徊したるが如し。彼は、恐らく、此放浪によりて天下の大勢の眉端に迫れるを、最も切實に感じたるならむ。恐らくは又、其功名の念にして、更に幾斛[やぶちゃん注:「いくこく」。]の油を注がれたりしならむ。想ふ、彼が獨り京洛の路上に立ちて、平門の貴公子が琵琶を抱いて落花に對するを望める時、殿上の卿相が玉笛を吹いて春に和せるを仰げる時、はた入道相國が輦車を驅り、兵仗を從へ、儀衞堂々として、濶步せるを眺めし時、必ずや、彼は其胸中に幾度か我とつて代らむと叫びしなるべし。然り、彼が天下を狹しとするの雄心は、實に此放浪によつて、養はれたり。彼が靈火は刻一刻より燃え來れり。彼は屢、長劍を按じたり。然れども、彼は猶、機を窺うて動かざりき。將に是、池中の蛟龍が風雲の乘ずべきを待ちて、未立たざるもの、唯機會だにあらしめば、彼が鵬翼の扶搖を搏つて[やぶちゃん注:「うつて」。]上ること九萬里、靑天を負うて南を圖らむとする日の近きや知るべきのみ。思ふに、彼は、鹿ケ谷の密謀によりて、小松内府の薨去によりて、南都北嶺の反心によりて、平賊の命運、既に旦夕に迫れるを見、竊に莞爾として時の到らむとするを祝せしならむ。然り、機は來れり、バスチールを壞つ[やぶちゃん注:「こぼつ」。]べきの機は遂に來れり。天下は高倉宮の令旨と共に、海の如く動いて革命に應じたり。而して、彼が傳家の白旗は、始めて木曾の山風に飜されたり。時に彼、年二十七歲、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧を重ね、鍬形の兜に黃金づくりの太刀、鷗尻に佩き反らせたる、誠に皎として、玉樹の風前に臨むが如し。天下風[やぶちゃん注:「かぜ」。]を仰いで其旗下に集るもの、實に五萬餘人、根井大彌太行親は來れり、楯六郞親忠は來れり、野州の足利、甲州の武田、上州の那和、亦相次いで翕然として來り從ひ、革命軍の軍威隆々として大に振ふ。圖南の鵬翼既に成れり。是に於て、彼は戰鼓を打ち旌旗を連ね、威風堂々として、南信を出で、軍鋒の向ふ所枯朽を摧くが如く、治承四年九月五日、善光寺平の原野に、笠原平五賴直(平氏の黨)を擊つて大に破り、次いで鋒を轉じて上野に入り、同じき十月十三日、上野多胡の全郡を降し、上州の豪族をして、爭うて其大旗の下に參集せしめたり。是實に賴朝が富士川の大勝に先だつこと十日、かくの如くにして、彼は、殆ど全信州を其掌中に收め了れり。
[やぶちゃん注:「跼天蹐地「きよくてんせきち」。「詩経」の「小雅」の「正月」に基づくもので「天は高いにも拘わらず、背を縮めてしまい、地は厚いのに、抜き足差し足で歩くこと」を指し、転じて「肩身が狭く、世間に気兼ねしながら暮らすこと」の意。
「吾人は彼が放浪について多く知る所あらざれども、彼は屢京師に至りて六波羅のほとりをも徘徊したるが如し」芥川龍之介が前段の注で私が引用した「源平盛衰記」の終りの方を参考にして述べていることが判然とする。
「輦車」「れんしや」。平安以来、特に大内裏の中を貴人を乗せて人力で引く車を指す。宮城門から宮門までの間を乗用した。大内裏外の交通は一般には牛車・乗馬で、ここで輦車を乗用するにはそのための「輦車の宣旨」が必要で、東宮以下、大臣を始め、大僧正が乗ることを許され、また女御や一部の更衣にも許された。輦車は、方形の屋形(やかた)に付属する轅(ながえ)の中央に車輪が附いたもので、数人の者が車の前後から轅を持って手で引き、運行させた(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。
「兵仗」「ひやうぢやう(ひょうじょう)」武器を持った武官である随身(ずいじん)、及び内舎人(うどねり:文官であるが、武装して皇族らの雜役や警護に当たった。嘗つては五位以上の子弟から召したが、後には諸家の侍、特に源氏・平氏の中から選ばれた)などの称。
「儀衞」「ぎゑい」。天子や要人の警護をすること、及びその者。儀仗兵。
「鵬翼の扶搖を搏つて上ること九萬里、靑天を負うて南を圖らむ」知られた「荘子」の冒頭「逍遙游第一」の一節。
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窮髮之北有冥海者、天池也。有魚焉、其廣數千里、未有知其脩者、其名爲鯤、有鳥焉、其名爲鵬、背若太山、翼若垂天之雲、摶扶搖羊角而上者九萬里、絕雲氣、負靑天、然後圖南、且適南冥也、斥鷃笑之曰、「彼且奚適也。我騰躍而上、不過數仞而下、翱翔蓬蒿之間、此亦飛之至也、而彼且奚適也。」、此小大之辯也。
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窮髮の北[やぶちゃん注:極北の地。]に冥海有るは、天池なり。魚、有り、其の廣さ數千里、未だ其の脩(なが)さを知る者有らず、其の名を「鯤(こん)」と爲す。鳥、有り、其の名を「鵬」と爲す。背は太山のごとく、翼は垂天の雲のごとし。扶搖(ふえう)[やぶちゃん注:旋風(つむじかぜ)。]に摶(はねう)ち、羊角して[やぶちゃん注:羊の角のように激しい螺旋を描いて。]上(のぼ)る者(こと)九萬里、雲氣を絕(こ)え[やぶちゃん注:「超え」。]、靑天を負ひて、然る後に南を圖(はか)り、且(まさ)に南冥に適(ゆ)かんとするなり[やぶちゃん注:成層圏を突きぬけて大空を背負うと、そこで初めて南方を目指して、南の海の果てを目指して天翔(あまが)けんとするのである。]。斥鷃(せきあん:沢に住む雀に似た小鳥)之れを笑ひて曰はく、「彼、且に奚(いづ)くに適(ゆ)かんとするや。我れ、騰躍(とうやく)[やぶちゃん注:跳躍。]して上るも、數仞(すうじん)に過ぎずして下(お)ち、蓬蒿(はうこう)[やぶちゃん注:蓬の草叢。]の間に翱翔(こうしやう)す[やぶちゃん注:飛び回るんだ。]。此れも亦、飛ぶの至りなり[やぶちゃん注:これだって他の鳥に比べりゃ、大した飛び方なんだ。]。而るに、彼、且に奚くに適かんとするや。」と。此れ、小・大の辯(わかち)なり[やぶちゃん注:人の矮小なる知性では広大無辺な宇宙の真智は想像もつかない大きさであることを謂う。]。
「バスチールを壞つべきの機は遂に來れり」「フランス革命」の始まりとされる一七八九年七月十四日にフランス王国パリの民衆が、同市内の「バスティーユ牢獄」を襲撃した「バスティーユ監獄の襲撃」(prise de la Bastille)。王府がここに武器弾薬を多量に集積させていたのを奪取するためと、政治犯解放が目的であったが、実際には政治犯はおらず、騒擾の罪で収監されていた老人が七人いただけであったという。
「高倉宮の令旨」以仁王の令旨。彼の邸宅は三条高倉にあったことから、別に「高倉宮」と称された。
「紫裾濃の鎧」「むらさきすそご」鎧縅(よろいおどし)の一つ。全体に紫色であるが、上方は薄く、下方になるにつれて濃くなるように組んだ鎧。
「鷗尻」太刀の尻を有意に上へ反らせて佩くこと。水上の鷗の尾が上へ撥ね上がっている形に似るところからの呼び名。
「皎として」「かう(こう)として」。眩しく白く輝くようで。
「玉樹」美しい木だが、風姿の高潔な人の比喩に使うので、それを利かせたもの。
「根井大彌太行親」私の注で既出既注。
「楯」(たて)「六郞親忠」(ちかただ)は義仲四天王の一人で行親の六男。同前。
「上州の那和」筑摩書房全集類聚版注に、『那和太郎弘澄。藤原秀郷の子孫』とのみある。義仲マニ屋」の「木曽軍武将」に、『藤原姓足利氏』(これは確かに秀郷の後裔である)『淵名氏流。那波、名和とも。太郎。源義賢家人』とし、『上野国那波郡(淵名庄)に住した』。「保元の乱」に『源義朝方に那波太郎の名が見える(父の名だと思われる)』。但し、『父・秀弘、娘婿の大江政広も那波太郎を称しているので注意が必要』とする。『佐位氏(高山党)・桃井氏と交流があったと思われ、各氏と並び』、『横田河原合戦に参戦。木曽義仲が京を落ちる途中の六条河原合戦まで』、『近くに付き従っているが、その後』、『消息不明』とある。
「翕然」「きふぜん(きゅうぜん)」多くの対象が一つに集まり合うさま。
「南信」信州南部。
「善光寺平」長野盆地。
「笠原平五賴直(平氏の黨)」治承四(一一八〇)年九月七日に行われた「市原合戦」の義仲の相手。ウィキの「市原合戦」によれば、「善光寺裏合戦」とも呼ばれ、『史料上に初めて現れる源義仲が関与した戦いである。『平家に与する信濃の豪族・笠原平五頼直』(『中野市笠原が支配地域と考えられる』)『が源義仲討伐のため、木曾への侵攻を企てた』。『それを察した源氏方(信濃源氏の井上氏の一族)の村山七郎義直』『と栗田寺別当大法師範覚(長野市栗田)らとの間で』『濃国水内郡市原』『付近で』『戦いが行われた』。『勝敗は中々決着せず、ついに日没に至』り、『矢が尽きて劣勢となった村山方は、源義仲に援軍を要請した。それに応じて大軍を率いて現れた義仲軍を見て、笠原勢は即座に退却し』、『越後の豪族・城氏の元へと逃げ込んだ』(「吾妻鏡」同日の条)。『このため』、『城資職』(じょうのながもと)『が源義仲軍の討滅を期して大軍を率いて信濃国に侵攻した。そして川中島への千曲川渡河地域となる雨宮の渡しの対岸に当たる横田城に布陣した』。これがその後の「横田河原の戦い」(後段で注する)へと『続くこととなった』とある。
「上野多胡」(たご)郡は現在の群馬県高崎市と藤岡市に相当する旧郡域。
以下、底本では一行空け。ここでは二行空けた。]
革命軍の飛報、頻々として櫛の齒をひくが如し。東夷西戎、並び起り、三色旗は日一日より平安の都に近づかむとす。楚歌、蓬壺をめぐつて響かむの日遠きにあらず。紅燈綠酒の間に長夜の飮を恣にしたる平氏政府も、是に至つて遂に、震駭せざる能はざりき。如何に大狼狽したるよ。平治以來、螺鈿を鏤め金銀を裝ひ、時流の華奢を凝したる、馬鞍刀槍も、是唯泰平の裝飾のみ。一門の子弟は皆、殿上後宮の娘子軍のみ、之を以て波濤の如く迫り來る革命軍に當らむとす、豈朽索を以て六馬を馭するに類する事なきを得むや。今や平氏政府の周章は其極點に達したり。然れ共、入道相國の剛腸は猶猛然として將に仆れむとする平氏政府を挽囘せむと欲したり。彼は、東軍の南海を經て京師に向はむとするを聞き、軍を派して沿海を守らしめたり。彼は西海北陸兩道の糧馬を以て、東軍と戰はむと試みたり。彼が、困憊、衰殘の政府を提げて、驀然として來り迫る革命軍に應戰したるを見る、恰も、颶風の中に立てる參天の巨樹の如き槪あり。吾人思うて是に至る、遂に彼が苦衷を了せずンばあらず。關東に源兵衞佐あり、木曾に旭日將軍あり、而して京師に入道相國あり、三個の風雲兒にして各々手に唾して天下を賭す。眞に是れ、靑史に多く比を見ざるの偉觀也。しかも運命は飽く迄も平氏に無情なりき。平宗盛を主將とせる有力なる征東軍が羽檄を天下に傳へて、京師を發せむとするの前夜(養和元年閏二月一日)天乎命乎、入道相國は俄然として病めり。征東の軍是に期を失して發せず、越えて四日、病革りて[やぶちゃん注:「あらたまりて」。]祖龍遂に仆る。赤旗光無うして日色薄し、黃埃散漫として風徒に[やぶちゃん注:「いたづらに」。]肅索、帶甲百萬、路に滿つれども往反の客、面に憂色あり。嗚呼、絕代の英雄兒はかくの如くにして逝けり。平門の柱石はかくの如くにして碎けたり。棟梁の材既になし、かくして誰か成功を百里の外に期するものぞ。見よ見よ西海の沒落は刻々眉端に迫れる也。
[やぶちゃん注:「三色旗」「フランス革命」に始まる現在のフランス国旗。ここでは源氏勢力による歴史的革命的趨勢を象徴的に言ったもの。
「楚歌」項羽の「四面楚歌」の故事。周縁に湧き起こる平氏打倒の兵鼓の雄叫びを比喩した。
「蓬壺」蓬萊山と方壺山(方丈山とも)。これに瀛洲を加え、古代中国に於ける東方渤海の果てにあるとされた仙人が住むとされた三神山。ここは禁中・内裏の比喩。
「紅燈綠酒」不夜城の華やかな灯明と緑色に澄んだ高級な美酒。歓楽と飽食に明け暮れること。
「一門の子弟は皆、殿上後宮の娘子軍のみ」「娘子軍」「ぢやうしぐん(じょうしぐん)」。武家であることを忘れて軟弱になった平氏に対する芥川龍之介の蔑笑的換喩。
「朽索」(きうさく(きゅうさく))」を以て六馬」(ろくば)「を馭するに類する」腐った縄で六頭の馬を操るようなこと。非常に困難で危険なことの喩え。「書経」の「五子之歌」に基づく。
「驀然」「ばくぜん」。まっしぐらに進むさま。俄かに起こるさま。
「颶風」「ぐふう」。暴風。台風。
「靑史」歴史。歴史書。記録。紙の無かった時代、青竹の札を炙ったものに文字を記したことに由る。
「羽檄」「うげき」。急ぎの徴兵の触れ文(ぶみ)。昔、中国で国家有事の際、急いで徴兵する場合などに用いた檄文は、木簡に書いて鳥の羽根を附け、急を要する意を示したことに由る。
「平宗盛」(久安三(一一四七)年~文治元年六月二十一日(一一八五年七月十九日)は清盛の三男。同腹の妹徳子が高倉天皇の中宮となったことから、重盛に次ぐ昇進をして仁安二(一一六七)年には公卿となり、治承元(一一七七)年には重盛の左大将と並んで、右大将となり、平氏の栄華を天下に誇った。同三年に重盛が亡くなってからは平氏長者としてその総帥となったが、同四年に以仁王の反乱が、続いて、東国で源氏の反乱が起きると、父清盛を説得して都を福原から戻し、翌年一月には畿内近国の軍事組織である惣官職を設置して惣官となり、「墨俣川(すのまたがわ)の戦い」で東国軍を破った(墨俣川は現在は長良川の別称であるが、かつては木曾・長良・揖斐(いび)三川その他の中小河川が美濃国安八(あんぱち)郡墨俣(洲股)で合流して大河となり、濃尾の国境を成しており、軍事上の要衝として、度々、東西両勢力が接触する戦場となった。養和元(一一八一)年三月、頼朝の叔父源行家と頼朝の弟義円が率いる尾張・三河の軍勢と、平重衡以下の平氏軍が、この川を挟んで東西に対峙したが、平氏の先制夜襲により、源氏軍は惨敗を喫し、平氏方に久方ぶりの勝利を齎すとともに、これ以後、暫くの間は東海道方面の戦線は膠着状態に陥った)。清盛の死後は、後白河法皇の復活を認めつつ、反乱軍に対応したが、折からの飢饉に悩まされて畿内近国からの兵糧[やぶちゃん注:「ひやうらうまい(ひょうろうまい)」。]米の徴収もままならず、寿永元(一一八二)年に内大臣になるも、具体的な政治的な方針を示すことが出来ないまま、翌年四月に北陸に送った源義仲追討軍が惨敗し、遂に七月に「平家都落ち」となって、安徳天皇を擁し、西海に逃れた。その後、源氏の内紛もあって、勢力を盛り返したこともあったが、元暦元(一一八四)年の「一の谷の戦い」に続き、讃岐の屋島、長門の壇の浦と次々と敗れ、壇の浦で身を海に投じた。しかし、捕らえられて鎌倉に送還され、後、京都に送り返される途中で謀殺的に斬首された。「平家物語」は宗盛について厳しい評価を与え、無能で器量なし、としている。また、「源平盛衰記」は時子の実子ではないとの異説も載せている。ただ、兄重盛や弟知盛との対照性から、そうした役割を与えられた面が色濃く、実像は不明な部分が多いという。以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠ったが、しかし私は芥川龍之介の評言の通り(次段参照)、平氏の中で唯一、彼を全くの無能にして存命をのみ求めた最下劣な人間としか思っていない。
「養和元年閏二月一日」現在、清盛の没日は養和元年閏二月四日(ユリウス暦一一八一年三月二十日/グレゴリオ暦換算三月二十七日)とされている。症状から見て、重度の熱性マラリアと推定される。
「天乎命乎」「てんかめいか」。天がかく判じて断罪したものか? 単に命数が尽きただけか? まあ、そのようにインク臭く採らず、三英雄揃い踏みのこの時ににして彼が逝ったことへの、芥川龍之介の限りない慨嘆の表現とした方がよかろう。
「赤旗光無うして日色薄し、黃埃散漫として風徒に肅索」これは白居易の「長恨歌」で玄宗の蒙塵の途上、馬嵬坡で楊貴妃が縊り殺されたシークエンスの直後の部分、
黃埃散漫風蕭索
雲棧縈紆登劍閣
峨嵋山下少人行
旌旗無光日色薄
黃埃(かうあい) 散漫 風 蕭索
雲棧(うんさん)縈紆(えいう) 劍閣を登る
蛾媚山下 人 行くこと 少(まれ)に
旌旗(せいき) 光 無く 日色薄し
を真似たものである。私もこの詩なら、十七歳の時に暗誦したものだったし、このシークエンスは飛びっきりに好きなところだった。やっと自分の年齢と一致する場面に遭遇した感じがした。]
入道相國逝いて宗盛次いで立つ。然れども彼は不肖の子なりき。彼は經世的手腕と眼孔とに於ては殆ど乃父[やぶちゃん注:「だいふ」。]淨海の足下にも及ぶ能はざりき。彼は興福東大兩寺の莊園を還附し、宣旨を以て三十五ケ國に諜し興福寺の修造を命ぜしめしが如き、佛に佞し[やぶちゃん注:「ねいし」]僧に諛ひ[やぶちゃん注:「へつらひ」。]、平門の威武を墜さしむる、是より大なるは非ず。彼は直覺的烱眼に於ては乃父に劣る事遠く、天下の大機を平正穩當の間に補綴し、人をして其然るを覺えずして然らしむる、活滑なる器度に於ては、重盛に及ばず。懸軍萬里、計を帷幄の中にめぐらし、勝を千里の外に決する將略に於ては我義仲に比肩する能はず。しかも猶、其不學、無術を以て、天下の革命軍に對せむとす。是、赤手を以て江河を支ふるの難きよりも、難き也。泰山既に倒れ豎子台鼎の重位に上る、革命軍の意氣は愈昂れり[やぶちゃん注:「たかまれり」。]。しかも、此時に於て平氏に致命の打擊を與へたるは、實に其財政難なりき。平家物語の著者をして「おそらくは、帝闕も仙洞もこれにはすぎじとぞ見えし」と、驚歎せしめたる一門の榮華は、遂に平氏の命數をして、幾年の短きに迫らしめたり。夫[やぶちゃん注:「それ」。]水蹙れば[やぶちゃん注:せばまれば」。]魚益躍る。是に於て平氏は、恰も傷きたる猪の如く、無二無三に過重なる收斂を以て、此窮境を脫せむと欲したり。平氏が使者を伊勢の神三郡に遣りて、兵糧米を、充課したるが如き、はた、平貞能の九州に下りて、徭を重うし、賦を繁うし、四方の怨嗟を招きしが如き、是、平氏の財力の既に窮したるを表すものにあらずや。あゝ大絃急なれば小絃絕ゆ、さらぬだに、凶年と兵亂とに苦める天下の蒼生は、今や彼等が倒懸の苦楚に堪ふる能はず、齊しく立つて平氏を呪ひ、平氏を罵り、平氏に反き、空拳を以て彼等が軛[やぶちゃん注:「くびき」。]を脫せむと試みしなり。是に於て、靄の如く天下を蔽へる蒼生は、不平の忽にして、革命軍の成功を期待するの、盛なる聲援の叫となれり。しかも此危險に際して、猶諸國に命じて南都の兩寺を修せしめしが如き、傘張法橋の豚犬兒が、愚なる政策は、此聲援をして更に幾倍の大を加へしめたり。入道相國逝いて未三歲ならず、胡馬洛陽に嘶き、天日西海に沒せる、豈宜ならずとせむや。
[やぶちゃん注:「懸軍萬里」(けんぐんばんり)は軍隊の一部が本隊と遠く離れて進軍するさま、軍隊の一部が本隊と連絡が取れないままに敵地の奥に入り込んで行くさまを謂う。但し、ここはフラットな意味で、前線部隊と遠く離れていても、的確な戦術・戦略を立て、それを指揮出来る才能を指している。
「赤手を以て江河を支ふる」素手で長江と黄河の流れを支える。
「台鼎」(たいてい)「の重位に上る」「台鼎」は天皇を補佐する太政大臣・左大臣・右大臣の総称。前に注した通り、宗盛は三十六歳で寿永元(一一八二)年十月三日に内大臣にはなっている。しかし、但し、これは令外官の一つで左大臣・右大臣に次ぐ官職でしかなく、太政大臣・左右大臣の「三公」を「三台星」と呼ぶのに対し、「かげなびく星」とも呼ばれる、本来は左大臣及び右大臣の両人が欠員の場合や、何らかの事情のために出仕不能の場合に、代理として政務・儀式を司った役職であって、「重職」ではあるが、「台鼎」ではない。
「おそらくは、帝闕も仙洞もこれにはすぎじとぞ見えし」「平家物語」巻第一の「我が身の榮華」の掉尾の一文。
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日本秋津嶋(につぽんあきつしま)は纔(わづか)に六十六箇國、平家知行(ちぎやう)の國(くに)三十餘箇國、既に半國に超えたり。その外、莊園・田畠(でんばく)、いくらといふ數(かず)を知らず。綺羅(きら)[やぶちゃん注:華麗なる衣装。]、充滿して、堂上(たうしやう)花(はな)の如し。軒騎(けんき)[やぶちゃん注:車馬。]、郡集(くんじゆ)して、門前、市(いち)をなす。楊州(やうしう)の金(こがね)、荊州(けいしう)の珠(たま)、吳郡(ごきん)の綾(あや)、蜀江(しよくかう)の錦(にしき)、七珍萬寶(しつちんまんぼう)、一つとして闕(か)けたる事なし。歌堂舞閣(かたうぶかく)の基(もとゐ)、魚龍爵馬(ぎよりようしやくば)の翫(もてあそび)もの、恐らくは帝闕(ていけつ)も仙洞(せんとう)も[やぶちゃん注:宮城も、上皇の御所も。]、是れにはす過ぎじとぞ見えし。
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「伊勢の神三郡」(しんさんぐん)伊勢神宮では古くから伊勢国多気郡と度会郡を神領として寄せられていたが、後に飯野郡を加えて特にこれを神三郡と称した。伊勢神宮を中心に志摩半島の根の部分の南北広域に当たる。
「平貞能」(さだよし 生没年不詳)は平氏家人(けにん)の武将。清盛の「専一腹心者」とされ、政所家令を務め、筑前・肥後守などの受領を歴任。「保元の乱」「平治の乱」に参戦し、源平争乱では侍大将として近江・美濃の追討に従事した後、養和元(一一八一)年には肥後の菊池隆直らの反乱の鎮圧に当たり、平定に成功した。寿永二(一一八三)年、九州の兵を率いて上洛したが、義仲の入洛によって一門とともに都落ちした。その際、貞能は一旦、再入洛し、平重盛の墓に詣でたという。彼は平氏一門の太宰府から屋島への脱出には従わず、出家し、平資盛とともに豊後の武士に捕らえられたともされる。文治元(一一八五)年、宇都宮朝綱を頼って源頼朝に降伏し、助命されて朝綱に預けられたが、その後の消息は不明。貞能は重盛やその子息たちと密接な関係を持ち、西走後の独自の行動も一門内で孤立した重盛の子の資盛らの立場と関係していたという(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。
「徭」公民に賦課した税としての労役。これが出ているので、後の「賦」は狭義の物品による賦課税。
「大絃急なれば小絃絕ゆ」琴や琵琶などの弦を張る際、太い弦を強く懸ければ、小弦は切れてしまうことから、「民を治めるには寛容が大切であり、過酷な政治を行なえば、民を疲れさせ、国を滅ぼす元となるだけである」という喩え。
「倒懸の苦楚」「たいけんのくそ」。「倒懸」は、人の手足を縛って逆さまに吊るすことで、「苦楚」は苦痛(この「楚」は「打つ・痛む」の意)。そのような非常な苦しみの喩え。
「傘張法橋の豚犬兒」「源平盛衰記」の「衛巻 第四十三」の「知盛船掃除附(つけたり)海鹿(いるか)を占ふ竝(ならびに)宗盛取替子事」には「壇ノ浦の戦い」の終りに醜態を晒す息子を見た時子が「宗盛は清盛と自分の子ではない」と言い、「清盛との間にできた子が女子であったため、男子を望んでいた清盛のことを考え、京の傘売りの子と実子を取り替えた」と驚天動地の述懐をするシーンがある。ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの当該ページ画像。右ページの六行目から)に出る。
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二位殿は今を限りにこそと聞き給ひければ、
「宗盛は入道大相國の子にも非ず、又、我が子にもなし。されば小松内府(だいふ)が心にも似ず、思ひおくれたるぞとよ、海に入り、自害などもせで、虜(いけどら)れて憂き目などをや見(み)んずらん、心憂くこそ覺れ。」
とぞ宣ひける。宗盛、入道の子に成りける故は、二位殿、重盛を嫡子に儲けて後、又、懷姙したりけるに、入道、
「弓矢取る身は男子(なんし)こそ寶よ、嫡子に一人あれば心苦し、必ず弟儲けて給へ、とぎにせさせん。」[やぶちゃん注:最後は「一生、可愛がってやるから」の謂いか。]
と云ふ。二位殿、斜(なの)めならず、佛神(ぶつじん)に祈り申し、月、滿(まん)じて生れたれば、女子(によし)なり。
「音(こゑ)なせそ。如何がせん。
とて、方々(はうばう)、取り替へ子を尋ねける程に、淸水寺の北の坂に、唐笠(からかさ)を張りて商ふ僧あり。憖(なまじひ)に僧綱(そうがう)[やぶちゃん注:僧官と僧位の総称。僧正・僧都・律師と及び法印・法眼(ほうげん)・法橋(ほっきょう)。]に成りたりければ、異名(いみやう)に「唐笠法橋(からかさほつけう)」と云ひける者が許(もと)に、男子を產みたりけるに取り替つゝ、入道に男子儲けたる由、告げたれば、大に悅こんで、產所(さんしよ)もはてざりけれども、嬉しさには穢(きたな)き事も忘れて、女房の許に行き、
「あゝ、目出たし、目出たし。」
とぞ悅び給ひける。入道、世に有りし程は、露(つゆ)の言葉にも出だし給はず、檀の浦にてぞ、初めて角(かく)語り給ひける。
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無論、これは「源平盛衰記」にのみ出る話で、同書の作者の悪趣味な創作に過ぎぬであろう。ウィキの「大原御幸」の「畜生道について」にも、「源平盛衰記」は他にも、『徳子と宗盛の姦淫を都落ち以前にまで遡及させ、安徳天皇を宗盛の子としたり、徳子と義経の姦淫もあったと記す。これらは他本にはなく』、同書の『加筆と判断して間違いない』。「源平盛衰記」は『荒唐無稽な話を多く挿入し、全体的に暴露趣味・露悪趣味といった傾向がある。零落した元中宮・国母に対して卑俗な視線を注いだ編者がいたことを示すものといえる』とある。
「胡馬洛陽に嘶き」古く中国で北・西方の未開民族を「胡」と呼び、名馬を産した。ここは反平氏軍が京へと陸続と進撃してくるさまを指す。
以下一行空け。ここでは二行空けた。]
吾人をして、再、我木曾義仲に、かへらしめよ。天下を麾いで[やぶちゃん注:「さしまねいで」。]既にルビコンを渡れる彼は、養和元年六月、越後の住人、城四郞長茂が率ゐる六萬の平軍と、橫田川を隔てて相對しぬ。俊才、囊中の錐の如き彼は、直に部將井上九郞光盛をして赤旗を立てて前ましめ[やぶちゃん注:「すすましめ」。]、彼自らは河を濟り[やぶちゃん注:「わたり」。]、戰鼓をうつて戰を挑み、平軍の彼が陣を衝かむとするに乘じて光盛等をして、赤旗を倒して白旗を飜し、急に敵軍を夾擊せしめて大に勝ち、遂に長茂をして越後に走らしめたり。是實に、淮陰侯が、井陘に成安君を破れるの妙策、錐は遂に悉く穎脫し了れる也。越えて八月、宗盛、革命軍の軍鋒、竹を破るが如きを聞き、倉皇として北陸道追討の宣旨を請ひ、中宮亮平通盛、但馬守平經正等を主將とせる征北軍を組織し、彼が奔流の如き南下を妨げしめたり。然れども、九月通盛等の軍、彼と戰つて大に敗れ、退いて敦賀の城に拒ぎしも[やぶちゃん注:「ふせぎしも」。]遂に支ふる能はず、首尾斷絕して軍悉く潰走し、辛くも敗滅の耻を免るゝを得たり。是に於て、革命軍の武威、遠く上野、信濃、越後、越中、能登、加賀、越前を風靡し、七州の豪傑、嘯集して其旗下に投じ、劍槊霜の如くにして介馬數萬、意氣堂々として已に平氏政府を呑めり。薄倖の孤兒、木曾の野人、旭將軍義仲の得意や、知るべき也。北陸既に定まり、兵甲既に足る。彼は速に、遠馭長駕、江河の堤を決するが如き勢を以て京師に侵入せむと欲したり。而して大牙[やぶちゃん注:「たいが」。]未南に向はざるに先だち、恰も關八州を席の如く卷き將に東海道を西進せむとしたる源兵衞佐賴朝によつて送られたる一封の書簡は、彼の征南をして止めしめたり。書に曰、
[やぶちゃん注:「ルビコン」ルビコン川(ラテン語:Rubico:ルビコー)は、共和政ローマ末期にイタリア本土と属州ガリア・キサルピナの境界になっていた川。ローマ内戦開戦時、ユリウス・カエサル(シーザー)が元老院の命令を犯して紀元前四十九年、「賽(さい)は投げられた」と叫んで、この川を渡ってローマに進軍、ポンペイウスを追放して政権を握った。
「養和元年六月」一一八一年。鎌倉方では治承五年。
「城四郞長茂」城長茂(じょうのながもち 仁平二(一一五二)年~建仁元(一二〇一)年)初諱は助茂(すけもち)或いは助職(すけもと)で後に長茂に改称した。ウィキの「城長茂」によれば、『越後平氏の一族で城資国の子、資永(助長)の弟』。治承五年二月、『平氏政権より』、『信濃で挙兵した木曾義仲追討の命を受けていた兄の資永が急死したため、急遽、助茂が家督を継ぎ、この頃、「長茂」と改称した』。『同年』六『月、惣領家の平清盛の命を受けて信濃に出兵した。長茂は同族の平家から絶大な期待を寄せられていたが、長茂は短慮の欠点があり、軍略の才に乏しく』、一『万の大軍を率いていながら』、三千『ほどの義仲軍の前に大敗した(これが以下に示す「横田河原の戦い」である)。『その直後、長茂は奥州会津へ入るが』、『奥州藤原氏の攻撃を受けて会津をも追われ、越後の一角に住する小勢力へと転落を余儀なくされる』。同年八月十五日、『惣領家の平宗盛による義仲への牽制として越後守に任じられ』たが、『都の貴族である九条兼実や吉田経房は、地方豪族である長茂の国司任官・藤原秀衡の陸奥守任官を「天下の恥」「人以て嗟歎す」と非難している』。『しかし越後守となるも』、『長茂は国衙を握る事は出来』ず、寿永二(一一八三)年七月の『平家都落ちと同時に越後守も罷免された』。『その後の経歴はほとんどわかっていないが』、元暦二(一一八五)年に『平氏が滅亡して源頼朝が覇権を握ると、長茂は囚人として扱われ、梶原景時に身柄を預けられる』。後、文治五(一一八九)年の「奥州合戦」で、『景時の仲介により』、『従軍することを許され、武功を挙げる事によって御家人に列せられた』。『頼朝の死後』、「梶原景時の変」(正治元(一一九九)年十月二十五日~正治二年一月二十日)で『庇護者であった景時が滅ぼされると』、一『年後に長茂は軍勢を率いて上洛し、京において幕府打倒の兵を挙げ』、正治三(一二〇一)年、『軍を率いて景時糾弾の首謀者の』一『人であった小山朝政の三条東洞院にある屋敷を襲撃した上で、後鳥羽上皇に対して幕府討伐の宣旨を下すように要求したが、宣旨は得られなかった。そして小山朝政ら幕府軍の追討を受け、最期は大和吉野にて討たれた』(「建仁の乱」)。享年五十であった。『身長は七尺(約二メートル十二センチ)の大男であったという』とある。
「城四郞長茂が率ゐる六萬の平軍と、橫田川を隔てて相對しぬ」「横田河原の戦い」。なお、「平家物語」(巻第六「城の四郎官途」)では寿永元(一一八二)年九月十一日とし、「吾妻鏡」も同年十月九日として載せるが、孰れも誤り。「吾妻鏡」は後年に編集した際、一部で「平家物語」を始めとした語り物系の記載を参考資料としたことによる誤謬と思われる。治承五(一一八一)年六月のこととして「玉葉」に記されているのが正しい(「源平盛衰記」は「於 巻第二十七」の「信濃横田川原軍(いくさ)の事」で正しく治承五年六月(二十五日と日付まで入れる)とするが、痛いことにそこでは城助茂を「資職」「後には資永と改名す」という兄の名と混同する痛い誤りをしてしまっている(国立国会図書館デジタルコレクションのこちら)。以下、ウィキの「横田河原の戦い」を引く。『信濃で挙兵した源義仲らの諸源氏に対して平氏方の越後の城助職が攻め込んで発生した戦い』。治承四(一一八〇)年九月『頃には源(木曾)義仲、源(岡田)親義、井上光盛などの信濃の源氏が以仁王の令旨を報じて挙兵した。これを受けて市原(現長野市若里市村)の渡し付近で平氏方の笠原氏と源氏方の村山氏や栗田氏との間で前哨戦があったが』、『決着が付かなかった』(「市原合戦」)。『それに対して、平氏は信濃に隣接する越後の実力者城助職をもって対抗させようとし』、翌治承五(一一八一)年六月、『城助職は大軍を率いて信濃国に侵攻し、雨宮の渡しの対岸に位置していた川中島平南部の横田城に布陣する。それに対して義仲は上州に隣接する佐久郡の依田城を拠点に、木曽衆・佐久衆(平賀氏等)・上州衆(甲斐衆とあるが、甲斐衆は頼朝・北条時政方として黄瀬川に参陣しているため誤記と思われる)を集結して北上』、六月十三日、『横田河原において両者が激突する。その際、千曲川対岸から平家の赤旗を用いて城軍に渡河接近し、城本軍に近づくと赤旗を捨てて源氏の白旗を掲げるという井上光盛の奇策が功を奏した』(ここを芥川龍之介は詳述している)。『また』、『越後軍には長旅の疲れや油断もあって』九千『騎余が討たれたり逃げ去り、兵力では城軍に遥かに劣る信濃勢が勝利を収め』た(「平家物語」でも城・平家方の軍勢は四万余騎で、芥川龍之介の「六萬」というのは先に引いた「源平盛衰記」の記載に拠ったものと思われる。ここまで読んでくると、芥川龍之介は我々の馴染んでいる「平家物語」諸本ではなく、多くを「源平盛衰記」の叙述に基づいて記していることが判然としてくるのである)。『助職は負傷して』三百『騎ばかりで越後に逃げ帰るが』、『敗戦後は離反者が相次ぎ、奥州会津へと撤退することを余儀なくされる。その後、助職は会津にて奥州藤原氏の攻撃を受けそこも撤退させられ、一連の戦いの後、城氏は一時』、『没落を余儀なくされ』た。『一方』、『勝利を収めた義仲は越後国府に入り、越後の実権を握る。この信濃勢の勝利の後、若狭、越前などの北陸諸国で反平氏勢力の活動が活発になり』、『義仲は後に倶利伽羅峠の大勝を得て』、『北陸を制覇する基盤を獲得することになる』。『また、平氏は北陸の味方を失い』、この『治承・寿永の乱で不利な立場に立たされることとなった』とある。
「囊中の錐」「なうちゆう(のうちゅう)のきり」。袋の中の錐は、その先が袋の外に突き出るところから、「勝れた人は多くの人の中にいても、その才能が自然に外に現れて目立つこと」の喩え。錐の嚢中に処(お)るが若(ごと)し。「史記」の「平原君伝」の「夫賢士之處世也、譬若錐之處囊中、其末立見」(夫(そ)れ、賢士の世に處(を)るや、譬へば錐の嚢中に處るがごとく、其の末(すゑ)立(たちどこる)に見(あら)はる)に基づく。
「井上九郞光盛」(?~元暦元(一一八四)年)信濃国高井郡保科を発祥とする土豪保科党を率いた。頼季流清和源氏で信濃源氏の代表格とされる。「横田河原の戦い」の後は義仲の上洛には従軍せず、源頼朝に従ったらしいが、甲斐源氏の一条忠頼(?~暦元(一一八四)年:「一 平氏政府」で既注)されたとともに頼朝に危険視され、駿河国蒲原(かんばら)駅(現在の静岡県静岡市清水区蒲原)で誅殺された。「吾妻鏡」元暦元(一一八四)年七月十日の条に、
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十日。丙申。今日。井上太郎光盛於駿河國蒲原驛被誅。是依有同意于忠賴之聞也。光盛日來在京之間。吉香船越輩含兼日嚴命。相待下向之期。討取之云々。
○やぶちゃんの書き下し文
丙申。今日、井上太郎光盛、駿河國蒲原驛に於て誅せらる。是れ、忠賴に同意するの聞え有るに依つてなり。光盛、日來(ひごろ)、在京の間、吉香(きつか)・船越(ふなこし)の輩(やから)、兼日の嚴命を含み[やぶちゃん注:既に兼ねてより幕府からの誅殺の厳命を受けていたことから。]、下向の期を相ひ待ち、之れを討ち取ると云々。
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とある。「吉香・船越」は地名及び当地の豪族。前者は現在の静岡県静岡市清水区吉川(きっかわ)、後者は同清水区船越。
「赤旗を立てて前ましめ、彼自らは河を濟り、戰鼓をうつて戰を挑み、平軍の彼が陣を衝かむとするに乘じて光盛等をして、赤旗を倒して白旗を飜し、急に敵軍を夾擊せしめて大に勝ち、遂に長茂をして越後に走らしめたり」先の「源平盛衰記」のここ(国立国会図書館デジタルコレクション)。左ページの最終行から次のコマへと進まれたい。但し、そこでは名が『井上九郞光基(みつもと)』となっている。
「淮陰侯」前漢の高祖劉邦の勇将韓信(?~紀元前一九六年)。当初、項梁・項羽に従ったが重用されず、高祖の軍に寝返り、蕭何(しょうか)の推薦によって大将となった。戦略に勝れ、高祖の覇業は彼の献策や戦績に負うところが多い。初め斉王に封ぜられたが、漢の統一後は異姓諸侯王圧迫策のために楚王に移され、次いで淮陰侯に左遷され、後、反逆の疑いで呂后(りょこう)に処刑された。
「井陘に成安君を破れるの妙策」「井陘(せいけい)の戦い」のこと。ウィキの「井陘の戦い」を引く。『楚漢戦争の中で漢軍と趙軍とが井陘(現在の河北省石家荘市井陘県)にて激突した戦い。韓信と常山王張耳ら率いる漢軍が背水の陣という独創的な戦術を使って趙軍を打ち破った』。『劉邦軍の別働軍として進発した韓信軍は、まず魏を降し、代を降して趙へとやってきていた。趙を攻めるに先立ち、兵力不足の劉邦本軍は韓信に対して兵を送るように命令し、韓信はこれに答えて兵を送ったために韓信軍の兵力は少なく、三万程度しかなかった』。『一方、趙は趙王歇』『と宰相の成安君陳余が二十万と号した大軍を派遣して韓信軍を撃退しようとしていた。趙に李左車と言う将軍がおり、陳余に対し、太行山脈の合間を通る「井陘口」という馬車を並べて走ることも出来ないような狭い谷間を利用して、ここを韓信が通っている間に出口を本隊が塞ぎ、別働隊を使って韓信軍の後方の食料部隊を襲い、さらに挟撃する作戦を提案した。しかし陳余は「小数相手に大軍が策を弄しては、趙の兵は弱いと諸侯に侮られる」と正攻法にこだわり』、『これを却下した』。『陳余は項羽軍に在籍して章邯を説得して項羽に降伏させるなど弁舌での功績は挙げていたが、自ら軍を率いた経験は少なかった。ただ外交面で考えれば、漢と楚、当時の二大強国のどちらとも敵対的だった趙としては、攻めさせない必要が高かったので妥当な判断でもある』。『韓信は井陘口の手前で宿営して趙軍の内部を探らせていた。用心深く無理な戦いをしない韓信は、もしここで攻められれば』、『ひとたまりもないことを察していたのであるが、李左車の策が採用されなかったことを大喜びし、安心して井陘の隘路を通った』。『そして、傅寛』(ふかん)、『張蒼に命じて二千の兵を分け、これに漢の旗を持たせて、裏側から趙の本城を襲うように指示した。また』、『兵士に簡単な食事をさせた後に、諸将に対して「今日は趙軍を撃ち破ってからみなで食事にしよう」と言ったが、諸将は誰も本気にしなかった』。『井陘口を抜けた韓信軍は、河を背にして布陣し』、『城壁を築いた』。「尉繚子天官編」には『「背水陳爲絶地」(水を背にして陳(陣)すれば絶地(死に場所)となる)とある。水を前にして山を背に陣を張るのが布陣の基本であり、これを見た趙軍は「韓信は兵法の初歩も知らない」と笑い、兵力差をもって一気に攻め滅ぼそうと』、『ほぼ全軍を率いて出撃、韓信軍に攻めかかった』。『韓信は初め』、『迎撃に出て負けた振りをしてこれをおびき寄せ、河岸の陣にて趙軍を迎え撃った。趙の城に残っていた兵も、味方の優勢と殲滅の好機を見て、そのほとんどが攻勢に参加した。兵力では趙軍が圧倒的に上であったが、後に逃げ道のない漢の兵士たちは必死で戦ったので、趙軍は打ち破ることができなかった』。『趙軍は韓信軍、さらに河岸の陣ごとき容易に破れると思いきや、攻めあぐね』、『被害も増えてきたので嫌気し、いったん城へ引くことにした。ところが城の近くまで戻ってみると、そこには大量の漢の旗が立っていた。城にはごくわずかな兵しか残っておらず、趙軍が韓信軍と戦っている隙に支隊が攻め落としたのであ』った。『大量にはためく漢の旗を見て』、『趙兵たちは「漢の大軍に城が落とされている」と動揺して逃亡を始め、さらに韓信の本隊が後ろから攻めかかってきたので、挟撃の恐怖にかられた趙軍は総崩れとなり』、『敗れた』。『陳余は張蒼によって捕虜となり、泜水』(ちすい)『で処刑され、逃亡した趙王歇も襄国(現在の河北省邢台市邢台県)で処刑された。また李左車は韓信によって捕らわれるが、韓信は上座を用意して李左車を先生と賞し、燕を下す策を献じてもらった。そして李左車の策に従い』、『燕を労せず下すことに成功した。ちなみに、韓信に尋ねられた李左車は、初め自分の考えを述べることに躊躇したが、そのときに彼が放った「敗軍の将、兵を語らず」』(「史記」の「淮陰侯列伝」)『という言葉は有名である』。『後にこの布陣でなぜ勝てたのかと聞かれた韓信は、「私は兵法書に書いてある通りにしただけだ。即ち『兵は死地において初めて生きる(「之れを往く所無きに投ずれば、諸・劌の勇なり(兵士たちをどこにも行き場のない窮地に置けば、おのずと専諸や曹沬』(そうばつ:魯の荘公に仕えた将軍。身分の低い出であったが、戦術に長けた)『のように勇戦力闘する)」』(「孫子」の「九地篇」)『と答えている。これが背水の陣である』。『現在でも「背水の陣」は、退路を断ち(あるいは絶たれ)決死の覚悟を持って事にあたるという意味の故事成語となっているが、韓信はそれだけでなく』、『わざと自軍を侮らせて敵軍を城の外へ誘い出し(調虎離山)、背水の陣で負けない一方、空にさせた城を落として最終的に勝つための方策も行っているのである』。『城塞に籠った場合、兵力が少なくても突破されないし、瞬時の相対する兵力は互角以上である。これに城壁の優位性と兵の死力が加われば、兵力差が絶大でも相当戦うことができる。しかし相手が自軍を侮らず普通に攻め続ければ』、『さすがにいつか落ちるから、相手が嫌気して引き返すことも当初から意中にあったのであろう』。『これが単なる賭けではない点は、事前に間者を多く放ち』、『情報収集しているところにも見ることができる。韓信が希代の名将と言われるゆえんである』。「背水の陣」の故事は十四『世紀まで日本では無名であったが、文学作品として初めて、「太平記」が『物語に取り入れたという』。「太平記」巻第十九の、「青野原の戦い」(延元三/暦応元(一三三八)年一月)で、『後醍醐天皇方北畠顕家に足利方が負けると、婆娑羅大名として名高い佐々木道誉らが足利方へ援軍に来たが、その』時、『道誉の進言で黒地川(黒血川)を背にして背水の陣を敷いたのが、日本の戦史上における初見である』。『ただし、これは文学作品的な誇張表現であって、黒地川を背に陣取ったのは地形的な必然で、歴史的事実としては「背水の陣」という故事を意識して敷くほど足利方が劣勢にあったわけではないようである』。『その後、伊勢宗瑞(北条早雲)や吉川元春を始めとする戦国武将が』「太平記」の『研究に励み、同書が戦国時代の戦術に影響を与えたのは周知の通りである』とある。
「穎脫」「えいだつ」。才智が人より抜きん出ること。「穎」は稲の穂先に突き出る尖った芒(のぎ)のこと。
「倉皇」「さうくわう(そうこう)」。「蒼惶」とも書く。慌てふためくさま。慌ただしいさま。
「平通盛」(みちもり 久寿二(一一五五)年頃?~元暦元(一一八四)年)は清盛の異母弟教盛の嫡男。弟に猛将教経がいる。「一の谷の合戦」で討死した。「平家物語」では治承四(一一八〇)年の南都攻撃では副将軍、寿永二(一一八三)年の北国追討には大将軍として発向、都落ち直前には宇治橋を固め、都落ち以後も西国で戦うさまが描かれている。また、愛人小宰相があとを追って入水する悲話が描かれ、二人の馴れ初めも描かれる。ふたりの恋は「建礼門院右京大夫集」にも載る(ここは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「平經正」(?~寿永三(一一八四)年)清盛の異母弟経盛の長男。かの敦盛の兄。和歌・琵琶に秀でた。若年で仁和寺宮守覚法親王に師事し、親王秘蔵の琵琶「青山」を賜わった。寿永二(一一八三)年の平家一門の都落ちに際しては、名器「青山」が戦乱で喪失するのを虞れ、仁和寺宮を訪れて返却し、別れに数曲を弾いたところ、聴く者の涙を誘ったという。翌年、「一ノ谷の戦い」に敗れ、自刃した(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「九月通盛等の軍、彼と戰つて大に敗れ、退いて敦賀の城に拒ぎしも遂に支ふる能はず、首尾斷絕して軍悉く潰走し、辛くも敗滅の耻を免るゝを得たり」養和元(一一八一)年九月、追討軍の将通盛は越前国国府にいたが、同国には賊徒が乱入して各地に放火、彼が京へ「国中が従わない状態になっている」と報告した直後、越前国水津(すいづ:現在の福井県敦賀市杉津(すいづ))で義仲の軍(厳密には先陣していた根井太郎行親の軍)と戦い、敗退、国府を放棄して津留賀城(金ケ崎城。別名敦賀城であるが、戦国期の敦賀城とは異なる山城。ここが遺跡(グーグル・マップ・データ)。所謂後の「敦賀城」の東北一・六キロメートル位置にあった)へ退却した。彼はそこで京に援軍を求め、平教経・行盛らが送られることが決まったが、支えきれなくなった通盛は城を放棄して山林を敗走、十一月になってやっと帰京を果たした。これを以って北陸道は義仲に制圧されてしまったのである。寧ろ、この事実は「敗滅」ならざる敗走の「耻」と謂うべきであろう。
「嘯集」「せうしふ(しょうしゅう)」。人々を呼び集めること。
「劍槊」「けんさく」。剣と矛。
「介馬」「かいば」。馬鎧を装着した兵馬。
「書に曰」これは「源平盛衰記」の「俱巻 第二十八」のここ(国立国会図書館デジタルコレクション。右ページの三行目以降)。
以下「誅し奉るべし。」までは、底本では全体が一字下げ。前後を一行空けた。]
平家朝威を背き奉り、佛法を亡すによりて、源家同姓のともがらに仰せて、速に追討すべき由、院宣を下され了ンぬ。尤も夜を以て日についで、逆臣を討ちて、宸襟をやすめ奉るべきのところ、十郞藏人私[やぶちゃん注:「くらうど」、「わたくし」。]のむほんを起し、賴朝追討の企ありと聞ゆ。然るをかの人に同心して扶持し置かるゝの條、且は一門不合[やぶちゃん注:「ふがふ」。]、且は平家のあざけりなり。但、御所存をわきまへず、もし異なること仔細なくば、速に藏人を出さるゝか、それさもなくば、淸水殿(義仲の子淸水冠者義高)をこれへ渡し玉へ、父子の義をなし奉るべし。兩條の内一も、承認なくンば、兵をさしつかはして、誅し奉るべし。
[やぶちゃん注:先のリンク先の本文と比べても大きな異同はない。言わずもがなであるが『(義仲の子淸水冠者義高)』は芥川龍之介による附注である。
「十郞藏人」(永治元(一一四一)年から康治二(一一四三)年頃~文治二(一一八六)年:頼朝より六~七歳年上)源為義の十男。義朝の弟で頼朝の叔父。「保元の乱」に敗れて父が殺されると熊野に潜み続け、治承四(一一八〇)年、源頼政の召に応じて名を行家と改め、以仁王の令旨を東国の源氏に伝えた。養和元(一一八一)年、美濃に拠って、平重衡らと墨俣川で戦ったが、敗れ、既に鎌倉にあった頼朝を頼って所領を求めたが、拒まれたため、信濃の源義仲と結んだ。寿永二(一一八三)年七月、義仲とともに入京し、後白河法皇に拝謁して従五位下備前守となった。後、義仲とも対立し、紀伊に退いた。平氏滅亡後は、今度は頼朝と対立した義経に協力し、頼朝追討の院宣を得、さらに四国の地頭に補せられた。しかし、頼朝に追われ、隠れ住んだ和泉で捕まり殺された(ここは「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「淸水殿(義仲の子淸水冠者義高)」源義高(承安三(一一七三)年?~元暦元(一一八四)年四月二十六日(ユリウス暦六月六日/グレゴリオ暦換算六月十三日))は義仲の長男。母は今井兼平の娘。寿永二(一一八三)年、ここに示された通り、父と頼朝の和睦のため、頼朝の長女大姫(治承二(一一七八)年~建久八(一一九七)年)と婚約、鎌倉に入った。しかし翌年、父が討たれ、自分も殺害されることを知り、大姫とその侍女及び近習らの手引き(蔭で頼朝の妻政子も黙認していたものと私は信ずる)によって四月二十二日(元暦元(一一八四)年。寿永三年は四月十六日に改元されている)の未明、鎌倉を脱出したが、四日後、武蔵入間川の河原で、頼朝の命を受けた討手によって殺された。当時、僅か十二歳前後であった。この討手は流人時代からの頼朝の直参の家来である堀藤次(ほりのとうじ)親家の郎党藤内(とうない)光澄であったが、大姫はこれを知って半狂乱となり、水も飲まなくなって様態が悪化した。これに政子が頼朝に激怒し、驚くべきことに頼朝は仕方なく光澄を晒し首にしているのである(これが私の義高逃走不作為犯の政子共犯説の一証である)。大姫は当時僅か六歳であったが(誕生を溯らせて九歳とする新説もある)、これによって重度の PTSD(Post Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)と思われる症状を発症し、激しい抑鬱状態が生涯、続いた。後の縁談も拒み、後鳥羽天皇への入内も持ち上がったが、実現することなく、僅か二十歳で夭折した。私が鎌倉史の中で一番に挙げる悲恋である。私の「北條九代記 木曾義仲上洛 付(つけたり) 平家都落」及び「北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎」で詳しい注(特に後者では事件の子細を記す「吾妻鏡」の電子化もしてある)を附してあるので、是非、読まれたい。]
是、實に彼にとりては不慮の云ひがかりなりし也。蓋し、賴朝の彼に平ならざる所以は、啻に、賴朝と和せずして去りたる十郞藏人行家が、彼の陣中に投じたるが爲のみにあらざりき。始め、賴朝の關八州をうちて一丸と爲さむとするや、常陸の住人信太三郞先生義廣、獨り、膝を屈して彼の足下に九拜するを潔しとせず、走つて義仲の軍に投じぬ。「爲人不忍」の彼は、義廣の枯魚の如くなる落魄を見るに堪へず、喜ンで彼をして其旗下に止らしめたり[やぶちゃん注:「とどまらしめたり」。]。是實に賴朝の憤れる所なりき。しかも義仲、已に霸を北陸に稱す、汗馬刀槍、其掌中にあり、鐵騎甲兵、其令下にあり。彼にして一たび野心を挾まむ乎、帶甲百萬、鼙鼓を擊つて鎌倉に向はむの日遠きにあらず、是實に賴朝の畏れたる所なりき。加ふるに義仲と快からざる、武田信光が、好機逸すべからずとして、彼を賴朝に讒したるに於てをや。三分の恐怖と七分の憤怨とを抱ける賴朝は、是に於て、怫然として書を彼に飛ばしたり。而して自ら十萬の逞兵を率ゐて碓日を越え、馬首東を指して彼と雌雄を決せむと試みたり。今やかくの如くにして、革命軍の双星は、戟を橫へて茫漠たる信の山川に其勇を競はむとす、天下の大勢は彼が一言に關れり。彼は直に諸將を集めて問へり。「戰はむ乎否乎」と、諸將躍然として答へて曰「願くは戰はむ」と、彼、默然たり。諸將再切齒して曰「願くは、臣等の碧蹄、八州の草を蹂躙せむ」と、然れども、彼は猶答へざりき。彼は遂に情の人也。彼は、戈を逆にして一門の血を流さむには、餘りに人がよすぎたり。彼は此無法なる云ひがかりに對しても、猶、賴朝を骨肉として遇したり。而して彼は、遂に義高を送りて、賴朝の怒を和め[やぶちゃん注:「なごめ」。]たりき。然り、彼は遂に情の人也。彼は、行家義廣等の窮鳥を獵夫の手に委すに忍びざりき。彼は豆を煮るに、豆莢を燃やすを欲せざりき。彼は兒女の情を有したり。彼は行路の人に忍びざる情を有したり。あゝ「如此殺身猶洒落」なるもの、豈、獨り西楚の霸王に止らむや。請ふ吾人をして恣に推察せしめよ。若し彼にして決然として、賴朝の挑戰に應ぜしならば、木曾の眠獅と蛭ケ小島の臥龍との敢戰は、更に幾倍の偉觀をきはめしなるべく、天下は漢末の如く三分せられしなるべく、而して中原の鹿誰が手に落つべき乎は未俄に斷ずべからざりしなるべし。かくして、春風は再、兩雄の間に吹けり。賴朝は、旌旗をめぐらして鎌倉に歸れり。而して彼は遂に、久しく其豫期したるが如く、豼貅五萬、旗鼓堂々として南に向へり。
[やぶちゃん注:「信太三郞先生義廣」源為義の三男で行家の兄である源義広(?~元暦元(一一八四)年)。別名志田(信太)三郎先生(しださぶろうせんじょう)。「先生」は義仲の父義賢の注で既注であるが、再掲しておくと、「東宮帯刀先生」(とううぐうたれわきせんじょう:皇太子護衛官指揮官)で、義広のが若き日に受けた官位に基づく通称である。ウィキの「源義広(志田三郎先生)」によれば、『義広は初め』、『同母の次兄』で義仲の父であった『義賢と親しく、義賢とほぼ同時期に関東に下向した』。仁平三(一一五一)年十二月、『常陸国に志田庄を立荘する。この時の志田庄の本所は美福門院、領家は藤原宗子(後の池禅尼)であり、その立荘を斡旋したと思われる常陸介が宗子の息子の平頼盛であった』。『この時点において義広が平頼盛に接近していたことが窺え』、『一方』、『義賢は』久寿二(一一五五)年の「大蔵合戦」で『義朝の長男・源義平に討たれた』「保元の乱」(一一五六年)に『際しては、金刀比羅宮本』「保元物語」では、『為義・為朝らと崇徳上皇方に加わったとするが、義広の名を記さない本も何系統かあり』、公家平信範の日記「兵範記」にも『義広参戦の事は見えない。また続く』「平治の乱」に『おいても』、『一時上京していたという説もあるが、具体的にどのような行動を取ったのかは不明である。以後、平清盛の平氏政権が栄華を極めるのを横目にしながらも、特にこれに反抗する様子もなく』、二十『余年の間』、『信太荘を動くことはなかった』。「平家物語」では、治承四(一一八〇)年五月の『以仁王の挙兵の際、末弟の源行家が甥の源頼朝に以仁王の令旨を伝達したのち、義広の元に向かったとし』、「吾妻鏡」では同年八月に『頼朝が挙兵したのち』、十一月の「金砂城(かなさじょう)の戦い」(治承四(一一八〇)年十一月四日に常陸国金砂城(現在の茨城県常陸太田市金砂郷地区)で行われた頼朝率いる軍と常陸佐竹氏との戦い。頼朝軍が勝った)の『後に義広が行家と共に頼朝に面会したとするが、合流する事はなく、その後も常陸南部を中心に独自の勢力を維持した』ようである。寿永二(一一八三)年二月二十日、『義広は鹿島社所領の押領行為を頼朝に諫められたことに反発し、下野国の足利俊綱・忠綱父子と連合』、二『万の兵を集めて頼朝討滅を掲げ常陸国より下野国へと進軍した。しかし、鎌倉攻撃の動きは頼朝方に捕捉され、下野国で頼朝軍に迎え撃たれることとなる』。『下野国の有力豪族小山朝政は』、『始め』、『偽って義広に同意の姿勢を見せて下野国野木宮(現栃木県野木町)に籠もっていたが』、二十三『日、油断した義広の軍勢が野木宮に差し掛かった所を突如』、『攻めかかり、激しい戦いとなった。義広軍は源範頼・結城朝光・長沼宗政・佐野基綱らの援軍を得た朝政に敗れ、本拠地を失った』(「野木宮合戦」)。『その後、同母兄』である『義賢の子』『木曾義仲』の『軍に参加する。常陸国から下野国へ兵を進めたのも、義仲の勢力範囲を目指した行動であったと見られる。義広の鎌倉の頼朝攻撃の背景には、義仲の存在があった』ことがこれで判明する。『このことが義仲と頼朝との対立の導火線となるが、義仲は義広を叔父として相応に遇し、終生これを裏切ることはなかった。以降、義広は義仲と共に北陸道を進んで一方の将として上洛し、入京後に信濃守に任官され』ている。元暦元(一一八四)年一月の「宇治川の戦い」では、『頼朝が派遣した源義経軍との戦いで防戦に加わるが』、「粟津の戦い」で『義仲が討ち死にし、敗走した義広もまた逆賊として追討を受ける身となる。同年』五月四日、『伊勢国羽取山(三重県鈴鹿市の服部山)に拠って抵抗を試みるが、波多野盛通、大井実春、山内首藤経俊と大内惟義の家人らと合戦の末、斬首された』とある。
「爲人不忍」読めない? さんざんやった「史記」の「鴻門之会」でやったじゃないか。劉邦を殺そうとしない項羽に痺れを切らした范増が項羽の従弟である項荘を秘かに呼び出して、「剣舞にかこつけて殺(や)っちまえ!」と命ずる台詞の頭のところさ。「君王爲人不忍。」(君王、人(ひと)と爲(な)り、忍びず)だよ。「項羽様は残忍なことがお出来にならない御気性だ。」だよ。
「鼙鼓」「へいこ」。戦場で用いる鼓。攻め太鼓。「へいく」とも読む(「く」は「鼓」の呉音)。
「武田信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年?)は源新羅三郎義光を始祖とする甲斐武田氏の第五代当主。伊豆守・甲斐国・安芸国守護。ウィキの「武田信光」によれば、『甲斐国八代郡石和荘に石和館を構えて勢力基盤とし、石和五郎と称する』。『馬術・弓術に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬四天王と称された』。「吾妻鏡」に拠れば、治承四(一一八〇)年の『頼朝が挙兵したことに呼応して父と共に挙兵し、駿河国にて平氏方の駿河国目代橘遠茂と戦い、これを生け捕りにするという軍功を挙げたという』(「鉢田の戦い」)。『甲斐源氏の一族は逸見山や信光の石和館で頼朝の使者を迎え』、『挙兵への参加を合意し、治承・寿永の乱において活躍する。信光は頼朝の信任が篤く、源義仲とも仲が良かったことから、義仲の嫡男に娘を嫁がせようと考えていたが、後に信濃国の支配権を巡って義仲と不仲になって』、『この話は消滅した。後に頼朝が義仲の追討令を出したのは、この信光が義仲を恨んで讒訴したためであるとも言われている。元暦元年』(一一八四年)、『義仲追討軍に従軍して功を挙げ、直後の』「一ノ谷の戦い」でも『戦功を挙げた』。『父の信義は駿河や甲斐の守護に任じられていたとする説もあるが、この時期には甲斐源氏の勢力拡大を警戒した頼朝による弾圧が行われており、一族の安田義定、一条忠頼、板垣兼信らが滅亡している。信光は武田有義(左兵衛尉、逸見氏の出自か)や加賀美遠光らの兄弟や従兄弟にあたる小笠原長清らとともに追及を免れているが、信義も謀反の疑いを掛けられており』、文治二(一一八六)年には『父信義が隠居している』(但し、「吾妻鏡」では死没とする)。『信光は家督を継いで当主となり、鎌倉で起こった』「梶原景時の変」(正治元(一一九九)年十月二十五日~正治二年一月二十日)では、それに『乗じて有義を排斥』している。文治五(一一八九)年には『甲斐源氏の一党を率いて奥州合戦に参加し、このときに安芸国への軍勢催促を行っていることから』、『この時点で安芸国守護に任じられていたとも考えられている』(ずっと後の承久三(一二二一)年ともされる)。『その後も幕府に仕え』、建久四(一一九三)年には『小笠原長清と、頼朝の富士の巻狩に供している。阿野全成の謀反鎮圧にも携わり、甲斐の御家人も分裂して争った』、建保元(一二一三)年の『和田合戦でも鎌倉へ参陣して義盛追討軍に加わっている。乱では都留郡を治めた古郡』(ふるごおり)『氏が和田方に属して滅ぼされており、信光は恩賞として同郡波加利荘(大月市初狩)などを与えられており』、『甲斐源氏が都留郡へも勢力を及ぼしている』。承久三(一二二一)年の「承久の乱」においても、『長清とともに東山道大将軍として』五『万の兵を率いており、同年』七月十二日『には都留郡加古坂(籠坂峠、南都留郡山中湖村)において藤原光親を処刑している』。『安芸守護任命をこのときの恩賞とする説もあり、一時は安芸国へも在国している』。暦仁二・延応元(一二三九)年、『出家して鎌倉の名越に館を構え、家督を長子の信政に譲っている。このとき、伊豆入道光蓮と号した』。「吾妻鏡」によれば、仁治二(一二四一)年には『上野国三原荘をめぐ』って『海野幸氏と境争論を起こして敗訴し、執権北条泰時に敵意を抱いたとする風説が流れているが、同年』十二月二十七日『には次男の信忠を義絶する形で服従している』。『信光の死後に武田氏に関する史料は減少し、信光の孫の代には甲斐国に残留した石和系武田氏と安芸国守護職を継承した信時系武田氏に分裂している』とある。
「怫然」「ふつぜん」。怒りが顔に出るさま。「憤然」に同じい。
「逞兵」「ていへい」。逞(たくま)しく勇ましい兵士。
「碓日」「うすひ」。長野県と群馬県の境にある旧の碓氷峠。「平家物語」の「巻台七 平家北国下向」では、頼朝が寿永二年二月頃に、信濃へ発向し、今井兼平が会い、弁解するが、却って頼朝の憤りを買い、討手が差し向けられるも、義仲が嫡子義高を差し出したので鎌倉へ連れて帰り、事なきを得たとあるが、これは嘘だろう。「吾妻鏡」にそんなことは全く書いてないし、この時期に頼朝が鎌倉を離れることはちょっとありそうもない。但し、調べたところ、「長野県立歴史館」公式サイト内の「キッズ・ページ」(笑ってはいけない!)の「信州と源頼朝」のページに、『その昔、善光寺には源頼朝の像があって、この像を武田信玄が甲斐』『国(山梨県)に移した』。『この源頼朝像は現在も残っているし、頼朝は善光寺を復興した功労者としても知られている』。さらに、『頼朝の家来、相良』(さがら)『氏が記した古文書には』、後の建久八(一一九七)年『の法要に頼朝が善光寺を訪れたことが書かれて』おり、『これらのことから頼朝の善光寺参拝は、歴史的事実だと考えられる』とある。確かに。「吾妻鏡」は頼朝生存時の附近に意図的な欠損があるしね。その頃の開幕の安定期なら、彼が善光寺に行ったとしても少しも不思議じゃない。因みに、芥川龍之介、やはりこの辺りも「源平盛衰記」の記載(国立国会図書館デジタルコレクション。左ページの九行目から次のコマまで)を元に、かなりノリノリになって脚色している感じが濃厚だ。
「信」信州。信濃国。
「碧蹄」「へきてい」。(軍)馬の蹄(ひづめ)。
「彼は豆を煮るに、豆莢を燃やすを欲せざりき」「古文真宝」などに出る、「七歩詩」(「應聲而作詞」(「聲に應じて作詞す)に基づく。魏の文帝曹丕(そうひ 一八七年~二二六年)が何時も苛めていた弟の東阿王曹植(そうち 一九二年~二三二年)に向かって、
七步中作詩、不成行大法。
(七步の中に作詩せよ、成さずんば大法を行ふ。)
と言い放つと(後半は「国法に従って処刑する」の意)、即座に詩を作って、
煮豆燃豆萁
豆在釜中泣
本是同根生
相煎何太急
豆を煮るに 豆萁(まめがら)を燃やさば
豆は釜の中に在りて 泣く
本(もと)是れ 同根に生ぜしに
相ひ煎(に)ること 何ぞ太(はなは)だ急なる
芥川龍之介の「豆莢」は「とうきやう(とうきょう)」とも「まめざや」とも読める。
「如此殺身猶洒落」筑摩書房全集類聚版注は『出典未詳』とするが、これは、清の七律「烏江項王廟」の第八句の引用の誤り(或いは異表記か。しかし、調べる限りでは「灑」が正しい)ではないかと思われる。全詩はこちらの中文サイトで見つけた。
*
烏江項王廟 清 蔣士銓
暗鳴獨滅虎狼秦
絕世英雄自有真
俎上肯貽天下笑
座中維覺沛公親
等閒割地分強敵
慷慨將頭贈故人
如此殺身猶灑落
憐他功狗與功臣
*
蔣士銓(しょうしせん 一七二五年~一七八五年)は清代の詩文家で劇作家。字は心余、苕生。号は清容、蔵園。江西鉛山の人で一七五七年に進士となり、翰林院編修となった。後に紹興の蕺山(しゆうざん)書院や杭州の崇文書院、揚州の安定書院の山長を歴任し、国史館纂修官となっている。詩は古文辞、戯曲は湯顕祖の作風を学んだ。乾隆期の劇作家の第一に推され「一片石」「四絃秋」などの「蔵園九種曲」の作があるという(平凡社「世界大百科事典」のに拠る)。訓読は判らないが、
此くのごとく身を殺(さつ)し 猶ほ灑落(さいらく)するがごとし
か。しかも、「灑落」は「さっぱりしていて物に拘らないこと」の意で、本邦ではこれを慣用音で「しゃらく(しゃらく)」と読むから、芥川龍之介はこれに「洒落」を当てたとしても強ち誤りとは言えまい。私の愛する項羽の死にざまは、確かに「灑落」と言うに相応しい。
「西楚の霸王」項羽の異称。
「敢戰」決死の覚悟で戦うこと。必死の戦闘。
「漢末の如く三分せられしなるべく」「黄巾の乱」を契機として後漢の支配力は完全に失われ、各地に群雄が割拠し、華北を平定した曹操、江南に拠る孫権、蜀に入った劉備によって三国が鼎立した。
「豼貅」「ひきう(ひきゅう)」。元は「史記」の「五帝紀」に出、古代の伝説に見える猛獣の名で虎或いは熊に似ると言い、「豼」が牡、「貅」が牝とし、飼い馴らして戦争に用いたとする幻獣。後に、それを描いた旗の名で兵車に立てたことから、転じて、勇猛な兵士、強者(つわもの)の意となった。]
老いても獅子は百獸の王也。革命軍の鋭鋒、當るべからざるを聞ける宗盛は、是に於て、舞樂の名手、五月人形の大將軍右近衞中將平維盛を主將とせる、有力なる征北軍を組織し、白旄黃鉞、肅々として、怒濤の如く來り迫る革命軍を、討たしめたり。平軍十萬、赤旗天を掩ひ精甲日に輝く。流石に、滔天の勢を以て突進したる我北陸の革命軍も、平氏が此窮鼠の如き逆擊に對しては、陣頭の自ら亂るゝを禁ずる能はざりき。我義仲が、富樫入道佛誓をして守らしめたる燧山城の要害、先[やぶちゃん注:「まづ」。]平軍の手に歸し、次いで林六郞光明の堅陣、忽ちにして平軍の擊破する所となり、遂に革命軍が血を以て購へる加賀一州の江山をして、再び平門の豎子が掌中に收めしむるの恨事を生じたり。既に源軍を破つて意氣天を衝ける平軍は、是に至りて三萬の輕鋭を分ちて志雄山に向はしめ、大將軍、維盛自らは、七萬の大軍を驅つて礪波山に陣し、長蛇捲地の勢をなして、一擧、革命軍を越中より、掃蕩せむと欲したり。然りと雖も、平右近衞中將は、決して我義仲に肩隨すべき將略と勇氣とを有せざりき。越後にありて革命軍の敗報を耳にしたる義仲は、直ちに全軍を提げて越中に入れり。越中に入れると共に直ちに、藏人行家をして志雄山の平軍を討たしめたり。志雄山の平軍を討たしむると共に、直ちに鼓噪して黑坂に至り維盛と相對して白旗を埴生の寒村に飜せり。數を以てすれば彼は實に平軍の半にみたず、地を以てすれば、平軍は已に礪波の嶮要を擁せり。彼の之を以て平軍の鋭鋒を挫き、倒瀾を既墜にめぐらさむと欲す、豈難からずとせむや。然れ共、彼は、泉の如く湧く敏才を有したりき。彼は、其夜猛牛數百を集め炬を其角に縛し、鞭ちて之を敵陣に縱ち、源軍四萬、雷鼓して平軍を衝きぬ。角上の炬火、連ること星の如く、喊聲鼓聲、相合して南溟の衆水一時に覆るかと疑はる。平軍潰敗して南壑に走り、崖下に投じて死するもの一萬八千餘人、人馬相蹂み[やぶちゃん注:「ふみ」。]、刀戟相貫き、積屍陵をなし、戰塵天を掩ふ。維盛僅に血路をひらき、殘軍を合して加賀に走り、佐良岳の天嶮に據りて、再革命軍を拒守せむとしたるも、大勢の赴く所亦如何ともなすべからず。志雄山の平軍既に破れ、義仲行家疾馳して平軍に迫る、無人の境を行くが如く、安宅の渡を涉りて篠原を襲ひ、遂に大に征北軍を擊破し、勇奮突破、南に進むこと、猛虎の群羊を驅るが如く、將に長驅して京師に入らむとす。かくして、壽永二年七月、赤幟、洛陽を指して、敗殘の平軍、悉く都に歸ると共に、義仲は北陸道より近江に入り、行家は東山道より大和に入り、革命軍の白旗、雪の如く、近畿の山河に滿てり。
[やぶちゃん注:「白旄黃鉞」「はくばうくわうえつ(はくぼうこうえつ)」。旗の白毛の総と黄金で飾った斧。天子の軍が用いる。
「滔天」「たうてん(とうてん)」。天まで漲(みなぎ)ること。勢いが非常に盛んなこと。
「富樫入道佛誓」「とがしのにゆうだうぶつせい」。富樫泰家(とがしやすいえ 生没年未詳)は当時の義仲に従った武将。後に鎌倉幕府御家人となった。ウィキの「富樫泰家」によれば、富樫氏第六代当主。かの「義経記」の安宅の関の関守富樫介や能「安宅」の富樫の何某、歌舞伎「勧進帳」の『富樫左衛門に比定される』人物である。『富樫氏は藤原北家・藤原利仁を祖とする家系だといわれている』。寿永二(一一八三)年の『源義仲の平氏討伐に』対し、『平維盛率いる大軍と』、『加賀国・越中国国境の倶利伽羅峠にて対陣』し、『燃え盛る松明を牛の角に結びつけ、敵陣に向けて放ち、夜襲をかけ』、『この大胆な戦略が功を奏して大勝』(「倶利伽羅合戦」)。寿永三(一一八四)年に『義仲が』、『頼朝の命を受けた源範頼・義経に討たれた後は加賀守護に任ぜられ』ている。文治三(一一八七)年、兄『頼朝から追われ、山伏に扮して北陸道を通り、奥州平泉』『を目指していた義経一行を追及し、義経本人であることを確信しつつ、武士の情と』、『武蔵坊弁慶の読み上げる「勧進帳」に感心し、義経一行を無事に通過させたという』しかし、『そのことにより』、『頼朝の怒りを買い、守護の職を剥奪された。後に剃髪し』、『法名を仏誓とし、名を富樫重純(成澄)と改め、一族と共に奥州平泉に至り』、『義経と再会を果た』した。『その後』は『しばらく平泉に留まったが、後に野々市』(ののいち:石川県中部。現在、野々市市)『に戻り、天寿を全うした』という。
「燧山城」「ひうちやまじやう」。現在の福井県南条郡南越前町(ちょう)今庄(いまじょう)のここ(グーグル・マップ・データ)にあった火打(ひうち)城での戦い。ウィキの「火打城の戦い」によれば、『越前・加賀の在地反乱勢力とそれを追討すべく出撃した平氏との寿永年間における戦いのうちの緒戦である。火打城は燧城、燧ヶ城の表記もある』。『養和元年』(一一八一年)『夏頃、北陸在地豪族たちの反平氏の活動が活発化していた。それに対して平氏は平通盛・平経盛らが率いる軍を派遣するが、活発化した反乱勢力を鎮圧することができずに都に引き返した(養和の北陸出兵)』。翌養和二年は『養和の大飢饉の影響が深刻化したなどの要因もあり』、『鎮西以外への出兵はされなかった』が、寿永二(一一八三)年に入って『飢饉はようやく好転し、平氏は東国反乱勢力活動を再開する。その矛先の第一は兵糧の供給地たる北陸道の回復であった』。寿永二(一一八三)年四月十七日、『平氏は平維盛を大将として北陸に出陣』、四月二十六日『には平家軍は越前国に入った』。二十七日、『越前・加賀の在地反乱勢力が籠もる火打城を取り囲むが』、『火打城は川を塞き止めて作った人工の湖に囲まれており、そのため』、『平氏側は城に攻め込むことができなかった。数日間』、『平氏は城を包囲していたが、城に籠もっていた平泉寺長吏』(白山の別当寺であった天台宗霊応山平泉(へいせん)寺(現在の福井県勝山市平泉寺町平泉寺にある平泉寺白山神社)の総管理職)『斉明』(さいめい:越前の河合斎藤氏(芥川龍之介の「芋粥」に出る藤原利仁の後裔一流)の一族)『が平氏に内通』、『人造湖の破壊の仕方を教え』、『平氏は得た情報を元に湖を決壊させて』、『城に攻め入り、火打城を落とした』。『その後』、『平氏は加賀国に入った』。『なお、この寿永の北陸の追討の宣旨は「源頼朝、同信義、東国北陸を虜掠し、前内大臣』『に仰せ追討せしむべし」という内容であったということが』「玉葉」に『記されており、源義仲が当初から追討の目的であったという認識は当時の都の人々にはなかった』とある。この解説には「富樫入道佛誓」の名はないが、「平家物語」巻第七「火打合戦(ひうちがっせん)」の冒頭の義仲の命を受けた武将の中に、「平泉寺の長吏斎明威儀師(「威儀師」は法会の指揮役の職名)として彼の名がある。
「林六郞光明」(みつあきら)。北加賀で最も勢力を有した武士団林氏の棟梁で、やはり、前注の引用の途中に出た、斉明と同じく藤原利仁の後裔で、同じく「平家物語」巻第七「火打合戦(ひうちがっせん)」の冒頭の義仲の命を受けた武将の中に、「林の六郞光明」と彼の名がある。
「輕鋭」敏捷で強いこと。
「志雄山」「しをやま(しおやま)」。石川県羽咋(はくい)郡宝達(ほうだつ)志水町の東部にある宝達丘陵の別名。県境の臼ケ峰を越えて富山県氷見市へ向かう山道が通じる。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「礪波山」「となみやま」。富山・石川県境にある砺波山地。北方の宝達丘陵と南方の両白山地との間にあり、最高標高は二百七十七メートル。越中と加賀を結ぶ通路が開け、倶利伽羅峠は軍事の要衝でもあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「平右近衞中將」維盛。彼の最終官位は蔵人頭・右近衛権中将・従三位であった。
「鼓噪」「こさう(こそう)」。戦場で戦いの開始や士気を高めるために太鼓を鳴らすこと。
「黑坂」「源平盛衰記」の「屋 巻第二十九」の「礪竝山合戰事」冒頭(国立国会図書館デジタルコレクションのここの左ページ)に『木曾は礪竝山黑坂の北の麓、埴生八幡林より、松永、柳原を後ろにして、黑坂口に南に向かつて陣を取る。平家は倶利伽羅が峠、猿の馬場、塔の橋より始めて、是れも黑坂口に進み下つて、北に陣を取る』とあるので、現在の矢立山と砺波山の尾根筋の坂を謂うか。グーグル・マップ・データの矢立山を見ると、東北位置に富山県小矢部市埴生と同地区内に護国八幡宮があり、矢立山南下に松永の地名(矢立山自体が現在の富山県小矢部市松永である)を見出せる。現在、猿ヶ馬場が倶利伽羅古戦場・平家軍本陣跡とされている。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「倒瀾」(たうらん(とうらん):何もかも打ち倒すような大波)「を既墜」(きつい)「にめぐらさむ」筑摩書房全集類聚版注に、『傾いた大勢を元にもどす』とする。「墜」は「土を落とす」の意であるから、津波によって崩された陸を「既」(つまるところ)元に戻すの謂いであろうか。
「彼は、其夜猛牛數百を集め炬』(きよ(きょ):松明(たいまつ))『を其角に縛し、鞭ちて之を敵陣に縱ち、源軍四萬。雷鼓して平軍を衝きぬ。角上の炬火、連ること星の如く、喊聲鼓聲、相合して南溟」(南方の大海。但し、「南」とする意味は私にはよく判らない)「の衆水一時に覆るかと疑はる。平軍潰敗して南壑」(「なんがく」。ここは倶利伽羅山を指す)「に走り、崖下に投じて死するもの一萬八千餘人、人馬相蹂み、刀戟相貫き、積屍陵をなし、戰塵天を掩ふ」所謂、知られた「火牛(かぎゅう)の計」のシークエンス。「源平盛衰記」の先の次のコマ「67」の右ページの五行目から「70」コマ目まで続く(途中に挿絵有り)。但し、私はこれは事実ではないと考えている。何より、これだけの頭数(「源平盛衰記」には『四五百疋』(!)とある)の牛を現地で徴用することは無理だと思うからである。ウィキの「倶利伽羅峠の戦い」にも、『平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。大混乱に陥った平家軍』七『万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍』十『万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った』(この戦術は現実的で事実として受け入れられる)。『この戦いに大勝した源義仲は京へ向けて進撃を開始し、同年』七『月に遂に念願の上洛を果たす。大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた』と記すも、「源平盛衰記」には、『この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという、源平合戦の中でも有名な一場面がある。しかしこの戦術が実際に使われたのかどうかについては古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいからである。そもそもこのくだりは、中国戦国時代の斉国』(紀元前三八六年~紀元前二二一年)『の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられている。この元祖「火牛の計」は、角には剣を、尾には松明をくくりつけた牛を放ち、突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、尾の炎が敵陣に燃え移って大火災を起こすというものである』とある。
「佐良岳」加賀国宮腰佐良岳浜。恐らくは地勢から見て、現在の石川県金沢市金石(かないわ:犀川河口右岸。リンクはグーグル・マップ・データ)にあった砂丘状の小丘陵と思われる。ここ。
「安宅の渡」義経の北向のエピソードで知られる、現在の石川県小松市安宅町(あたかまち)の梯(かけはし)川の渡し。「勧進帳」の舞台とされた関所跡はここ(グーグル・マップ・データ)。
「篠原」筑摩書房全集類聚版注は『石川県加賀市片山津』とする。ここ(グーグル・マップ・データ)。安宅との位置関係からは問題ない。
「壽永二年七月」治承七年。一一八三年。この七月二十五日に平家の都落ちが決せられた。ユリウス暦八月十四日、グレゴリオ暦換算八月二十一日のことであった。]
此時に於て、平氏と義仲との間に橫はれる勝敗の決は、一に延曆寺が源平の何れに力を寄すべき乎に存したりき。若し、幾千の山法師にして、平氏と合して、楯を源軍につきしとせむ乎、或は革命軍の旗、洛陽に飜るの時なかりしやも、亦知るべからず。然れども延曆寺は、必しも平氏の忠實なる味方にはあらざりき。延曆寺は平氏に對して平なる能はざる幾多の理由を有したりき。平氏が兵糧米を山門領に課せるが如き、嚴島を尊敬して前例を顧みず、妄に高倉上皇の御幸を請ひたるが如き、豈其の一たるなからむや。反平氏の空氣は山門三千の、圓頂黑衣の健兒の間にも充滿したり。彼等は恰も箭鼠の如し、彼等は撫づれば、撫づるほど其針毛を逆立たしむる也。淸盛の懷柔政策が彼等の氣焰をして却つて、高からしめたる、素より偶然なりとなさず。今や、山門は、二人の獵夫に逐はれたる一頭の兎となれり。二人の花婿に戀はれたる一人の花嫁となれり。而して平氏は、其源軍に力を合するを恐れ、平門の卿相十人の連署したる起請文を送りて、延曆寺を氏寺となし、日吉社を氏神となすを誓ひ、巧辭を以て其歡心を買はむと欲したり。然れども山門は冷然として之に答へざりき。同時に義仲の祐筆にして、しかも革命軍の軍師なりし大夫坊覺明は、延曆寺に牒して之を誘ひ、山門亦之に應じて、明に平氏に對して反抗の旗をひるがへしたり。是、實に平氏が蒙りたる最後の痛擊なりき。山門既に平氏に反く、平氏が、知盛、重衡等をして率ゐしめたる防禦軍が、遂に海潮の如く迫り來る革命軍に對して、殆ど何等の用をもなさざりしも豈宜ならずや。かくの如くにして、革命の激流は一瀉千里、遂に平氏政府を倒滅せしめたり。平氏は是に於て最後の窮策に出で至尊と神器とを擁して西國に走らむと欲したり。龍駕已に赤旗の下にあらば又以て、宣旨院宣を藉りて四海に號令するを得べく、已に四海に號令するを得ば再天日の墜ちむとするを囘らし、天下をして平氏の天下たらしむるも敢て難事にあらず。平氏が胸中の成竹は實にかくの如くなりし也。しかも、機急なるに及ンで法皇は竊に平氏を去り山門に上りて源軍の中に投じ給ひぬ。百事、悉、齟齬す、平氏は遂に主上を擁して天涯に走れり。翠華は、搖々として西に向ひ、霓旌は飜々として悲風に動く、嗚呼、「昨日は東關の下に轡をならべて十萬餘騎、今日は西海の波に纜を解きて七千餘人、保元の昔は春の花と榮えしかども、壽永の今は、秋の紅葉と落ちはてぬ。」然り、平氏は、遂に、久しく豫期せられたる沒落の悲運に遭遇したり。
ふるさとを燒野のはらとかへり見て
末もけぶりの波路をぞゆく
[やぶちゃん注:最後の一首は一行ベタ書きであるが、ブラウザ上の不具合を考え、下句を改行して字下げで配した。
「嚴島を尊敬して前例を顧みず、妄に高倉上皇の御幸を請ひたる」治承四(一一八〇)年三月、高倉上皇は清盛の強い要請により、厳島神社へ参詣している(三月二六日御幸、四月八日還御)。『しかし上皇の最初の参詣は、石清水八幡宮・賀茂社・春日社・日吉社のいずれかで行うことが慣例だったため、宗教的地位の低下を恐れる延暦寺・園城寺・興福寺は猛然と反発した。三寺の大衆が連合して高倉院・後白河院の身柄を奪取する企ても密かに進行していた』とウィキの「後白河天皇」にある。
「箭鼠」「せんそ」。ハリネズミ(哺乳綱 Eulipotyphla 目ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae のこと。
「平門の卿相十人の連署したる起請文を送りて、延曆寺を氏寺となし、日吉社を氏神となすを誓ひ、巧辭を以て其歡心を買はむと欲したり。然れども山門は冷然として之に答へざりき」「源平盛衰記」の「摩 巻第三十」の「平家延暦寺願書の事」にかくある(国立国会図書館デジタルコレクション。左ページから。願書全文が載る)。
「大夫坊覺明」「たいふばうかくみやう(たゆうぼうかくみょう)」。「一 平氏政府」に出た「西乘坊信救」と同一人物。そちらの注を参照されたい。
「延曆寺に牒して之を誘ひ、山門亦之に應じて、明に平氏に對して反抗の旗をひるがへしたり」「源平盛衰記」の「摩 巻第三十」の「木曽山門牒状の事」から「覚明山門に語を語らふ事」と「山門僉議牒状の事」に続く三章に詳しい(国立国会図書館デジタルコレクション。牒状全文と受諾した叡山側の書状まで総てが載る)。
「至尊」安徳天皇。都落ち当時、満五歳にさえなっていない。壇ノ浦に入水した当時は、歴代天皇最年少の数え年八歳、満六歳と四ヶ月であった。
「法皇は竊に平氏を去り山門に上りて源軍の中に投じ給ひぬ」都落ちの意図を察知した後白河法皇はその当日七月二十五日の未明、秘かに二名の近習だけを連れて輿に乗り、法住寺殿を脱出し、鞍馬路・横川を経て、比叡山に登り、東塔円融坊に着御した(ウィキの「後白河天皇」に拠る)。
「翠華」「すいくわ(すいか)」。中国で天子の旗を翡翠(かわせみ)の羽で飾ったことから、 天子の御旗。
「霓旌」「げいせい」。羽毛を五色に染めて綴った旗。天子の儀仗旗。「霓」は龍の名、自然現象の虹を中国では古来、その雄が「虹」、雌が「霓」だとする。
「昨日は東關の下に轡をならべて十萬餘騎、今日は西海の波に纜を解きて七千餘人、保元の昔は春の花と榮えしかども、壽永の今は、秋の紅葉と落ちはてぬ。」「平家物語」巻第七「平家一門都落ち」の掉尾「福原落ち」の一節。
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平家、福原の舊里に一夜を明かれける。をりふし、秋の月は下(しも)の弓張(ゆみはり)なり。深更(しんがう)の空夜[やぶちゃん注:更けきった深夜の月の未だ出ぬ空。]、閑(しづ)かにして旅寢の床(とこ)の草枕、淚も露もあらそひて、ただもののみぞ悲しき。いつ歸るべきともおぼえねば、故入道相國(しやうごく)の造りおき給ひし、春は花見の岡の御所、秋は月見の濱の御所、雪見御所、萱(かや)の御所とて見られけり。馬場殿、二階の棧敷(さじき)殿、人々の家々、五條大納言邦綱卿の造りまゐられし里内裏(さとだいり)、いつしか三年(みとせ)に荒れはてて、舊苔、道をふさぎ、秋草(しうさう)、門(かど)を閉ど、瓦に松生ひ、垣に蔦しげり、臺(うてな)かたぶいて、苔むせり。松風のみや通ふらん。簾、絕えて、閨(ねや)あらはなり。月かげのみぞやさし入りけん。
明くれば、主上をはじめまゐらせて、人々、御船に召されけり。都を立ちしばかりはなけれども[やぶちゃん注:嘗つて福原京として離れた折りほどではなかったが。]、これも名殘は惜しかりけり。海士(あま)のたく藻の夕煙(ゆふけぶり)、尾上(をのへ)[やぶちゃん注:ここは播磨国加古郡高砂の尾上。]の鹿のあかつきの聲、渚々(なぎさなぎさ)に寄る波の音、袖に宿借(か)る月の影、千草(ちくさ)にすだくきりぎりす[やぶちゃん注:コオロギ。]、すべて目に見え、耳にふるること、一つとして、哀れをもよほし、心をたたましめずといふことなし。昨日は東山の麓に轡(くつばみ)を並べ[やぶちゃん注:出陣の用意を指す。]、今日は西海の波の上に纜(ともづな)をとく。雲海、沈々として、靑天(せいでん)、まさに暮れなんとす。孤島(こたう)に霧へだたつて、月、海上に浮かぶ。極浦(ぎよくほ)[やぶちゃん注:遠い浦。]の波を分けて、潮に引かれて行く船は、なか空の雲にさかのぼる。
修理大夫(しゆりのだいぶ)經盛の嫡子皇后宮亮(くわうごうぐうのすけ)經正、行幸(ぎやうがう)に供奉すとて、泣く泣く、かうぞ、のたまひける。
行幸(みゆき)する末も都とおもへども
なほなぐさまぬ波のうへかな
平家は、日數(ひかず)を經(ふ)れば、山川ほどを隔てて、雲井のよそにぞなりにける。「はるばる來ぬる」[やぶちゃん注:「伊勢物語」の東下りの章段の引用。以下もあれを踏まえる。]と思ふにも、ただ盡きせぬものは淚なり。波の上に白き鳥の群れゐるを見ては、「かの在原のなにがしが、隅田川にて言(こと)問ひし、名もむつまじき[やぶちゃん注:懐かしい。]都鳥かな」とあはれなり。
壽永二年七月二十五日、平家都を落ちはてぬ。
*
・「五條大納言邦綱卿」は藤原邦綱(保安三(一一二二)年~養和元(一一八一)年:この時既に故人)。文章生蔵人雑色(もんじょしょうくろうどざつしき)という低い身分であったが、関白藤原忠通に家司として仕え、周到な気配りで重用された。忠通死後はその息子の関白基実に仕え、蔵人頭・参議・右京大夫となり、その間、遠江権守を始めとして壱岐・和泉・越後・伊予・播磨・周防の国守などを歴任して財力を蓄えた。仁安元(一一六六)年、基実の死に当たっては平清盛の娘で基実の妻であった盛子に広大な摂関家領の大半を相続させるように計らい、自身は盛子の後見役となった。息子の清邦を清盛の猶子とし、財力を基盤に「清盛の片腕」として政界で活躍した。治承元(一一七七)年には正二位・権大納言に上りつめた。同四年の福原遷都にも携わった。清盛と同月に死去しており、同じ死因(熱性マラリア)かともされる(ここは主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
・「修理大夫經盛」(天治元(一一二四)年~文治元(一一八五)年)は平忠盛の三男で清盛の異母弟。平敦盛らの父。歌人としてはよく活動した。
・「皇后宮亮(くわうごうぐうのすけ)經正」既出既注。
「ふるさとを燒野のはらとかへり見て末もけぶりの波路をぞゆく」先の「平家物語」巻第七「平家一門都落ち」の「福原落ち」の前の「和歌述懐」に出る前注した平経盛の一首。
*
平家は小松の三位中將維盛のほかは、大臣殿以下、みな、妻子を具し、そのほか、行くも、止まるも、たがひに袖をしぼりけり。夜がれをだにも嘆きしに、後會(こうくわい)その期を知らず[やぶちゃん注:嘗つては夜の通いが途絶えることすら嘆いていたものが、今ではこの後、再会することが出来ることがどうかも判らず。]、妻子を捨ててぞ、落ち行きける。相傳譜代のよしみ、年ごろの重恩、いかでか忘るべきなれば、若きも、老いたるも、ただうしろをのみかへり見て、さらに[やぶちゃん注:少しも。]先へはすすまざりけり。おのおのうしろをかへり見て、都の方は、かすめる空の心地して、煙(けぶり)のみ心細くぞ立ちのぼる。そのなかに、修理大夫經盛、都をかへり見給ひて、泣く泣く、かうぞ、のたまひける。
ふるさとを燒け野の原とかへり見て
末もけぶりの波路をぞゆく
薩摩守忠度、
はかなしや主(ぬし)は雲井にわかるれば
あとはけぶりと立ちのぼるかな
まことに、故鄕(ふるさと)をば、一片の煙塵(えんぢん)にへだて、前途萬里の雲路におもむき給ひけん、人々の心のうちこそ悲しけれ。ならはぬ磯邊の波枕、八重の潮路に日を暮らし、入江こぎゆく櫂(かい)のしづく、落つる淚にあらそひて、袂もさらに乾しあへず。駒に鞭うつ人もあり、あるいは船に棹(さを)さす者もあり、思ひ思ひ、心々に落ちぞ行く。
*
・「薩摩守忠度」(ただのり 天養元(一一四四)年~元暦元(一一八四)年)は清盛の弟。「一ノ谷の戦い」で討たれた。少年期より藤原俊成について和歌を学んだ。「平家物語」の「忠度都落ち」で、平家一門の運命を自覚した忠度が都落ちに当たって今生の思い出として俊成に詠草一巻を託し、勅撰集への入集を乞うという執心の話はよく知られる。その中の一首、
さざ波や志賀の都はあれにしを昔ながらの山さくらかな
は「千載和歌集」に「よみ人知らず」として載る。]