譚海 卷之三 柳澤吉保朝臣の事
柳澤吉保朝臣の事
○柳澤甲斐守吉保朝臣、其家中興の人にて、和歌をも殊に好(このま)れ、靈元(れいげん)法皇の勅點を賜(たまはり)たるほどの事なり。其妾(しやう)は正親町(おほぎまち)大納言殿妹にて、和歌有職(いうそく)に達し、松陰日記(まつかげにつき)とて筆記せるものあり。甲斐守殿生涯殊寵(しゆちやう)、幷(ならびに)度々(たびたび)御成ありし事、致仕に至るまでをしるしたり、源氏物語りの體(てい)を模し、秀才の筆也。
[やぶちゃん注:「柳澤吉保」(万治元(一六五九)年~正徳四(一七一四)年)は上野国館林藩士の長男として江戸に生まれた。延宝八(一六八〇)年、館藩主徳川綱吉が第五代将軍となると、つき従って幕臣となった。元禄元(一六八八)年十一月には小納戸上席から、将軍親政のために新設された側用人に就任した。やがて老中となり、宝永元(一七〇四)年十二月に綱吉の後継として甲府徳川家の綱豊が決まると、甲府十五万石を領する譜代大名となった。後、大老(宝永三(一七〇六)年一月)。文治政策を推進したが、綱吉の失政の責任を一身に負わされ、綱吉死後は六義園に隠棲した。後代の実録本やドラマ等では悪辣な策謀家との風評が流布したが、綱吉に誠実に仕え、その意に従った側近であり、家中に荻生徂徠らの学者を召し抱えて、自らも北村季吟について古今伝授を受けた和歌好きであった。
「靈元法皇」霊元天皇(承応三(一六五四)年~享保一七(一七三二)年/在位:寛文三(一六六三)年~貞享四(一六八七)年)は歌人で能書家でもあった。譲位後の期間が長い。また、法皇となったのは正徳三(一七一三)年八月であるが、彼が史上最後の法皇となった。
「其妾は正親町大納言殿妹」ウィキの「柳沢吉保」によれば、『吉保の正室は、幕府旗本で柳沢氏と同じく甲斐源氏の一族であった曽雌』(そし)『氏の子孫である曽雌定盛の娘(曽雌定子)。側室は吉保生母・了本院(佐瀬氏)の侍女。飯塚氏(飯塚染子)、公家・正親町実豊もしくは正親町公通』(きんみち)『の娘(正親町町子』(延宝三(一六七五)年?~享保九(一七二四)年)『)がいる』とあり、ウィキの「正親町町子」には、『歌人』にして『文学者』という肩書を添えてあり、『出自については権大納言・正親町実豊と側室の田中氏との間の娘とする説があり、正親町公通の異母妹とされる。一方で』、『正親町公通を実父とし、公通と水無瀬氏信の娘の間の子とする説もある』。十六歳で『江戸に下り、将軍徳川綱吉の側近である柳沢保明(のち吉保)の側室となる。一大名の側室としては家格が高すぎるため、母方の姓である田中氏を名乗ったという。吉保との間に柳沢経隆・柳沢時睦の二男がいる』。『町子の実父を正親町公通にする説に立つと、公通は霊元天皇の使者として』、『たびたび江戸へ赴いており、柳沢吉保は霊元天皇から和歌の添削を受け、六義園十二境を定められ』、『参禅録の題を授けられるなど、霊元天皇は吉保に文芸面において影響を及ぼしている』。『また、この場合に町子の母となる水無瀬氏信の娘は新上西門院房子(鷹司房子)の侍女として「常磐井」を名乗り、房子の伯母にあたる浄光院殿信子(鷹司信子)が将軍綱吉の御台所として江戸へ下向すると、常磐井は「右衛門佐局」と改名して信子に従』って『江戸へ赴き、江戸条大奥総取締役を務めている』。『このため、正親町公通を町子の実父とする説に立つと、町子はこうした両親の縁を背景に吉保の側室となったとも考えられている』。『なお、享保末年』(二一(一七三六)年)『以降に成立した』「柳営婦女伝系」では、『町子の出自について、右衛門佐局』((う)えもんのすけのつぼね 慶安三(一六五〇)年~宝永三(一七〇六)年:江戸前・中期の大奥女中(途中で紀州家に務めとして移っていた時期がある)。貞享四(一六八七)年に江戸城へ戻り、綱吉付き筆頭上﨟御年寄として大奥の総取締を担った)『の養子となった浪人の田中半蔵(のちに桃井内蔵助と改名)が後妻の姪を養女にしたもので、実父も分からない妓女であると記述されている』。『町子は公家的な教養を』持った『文学者としても知られ、吉保一代の半生を平安朝の』「源氏物語」に『倣って記した日記文学』「松蔭(まつかげ)日記(松家気(まつかげ))」を書いている。これは『江戸時代から秘本として知られて』いて、『江戸時代における宮廷文化の残滓として注目されている。「松家気(松かげ)」は松と松に絡みつき』、『花を咲かせる藤を指し、天皇や将軍・吉保など一連の人物を』、『松の木と藤に』喩え、『繁栄を願った意図があると考えられている』とある。]