ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ 6 エピソード1 ワーシャの物語(Ⅱ) / ワーシャの物語~了
□17 走る列車の車内(昼)
満員。向うに車窓。手前にアリョーシャ、床に座っている。その奥の少し高い位置に片足の兵士(以下、兵士だらけで混乱するので、以降、彼を最後の方で愛称が呼ばれる「ワーシャ」で示す)。座席の端に座っている。
カメラ、反対側から。右手前に左手に松葉杖を持った空ろな表情のワーシャの頭胸部、中間にアリョーシャ、その向うに眼鏡をかけた老兵士がいる。
アリョーシャ(新聞紙を取り出して、ワーシャに)「喫いますか?」
ワーシャ、無言で首を横に振る(以下、映る際のワーシャの表情はずっと空ろである)。アリョーシャ、自分用に紙を切る。
カメラ、戻って、向かいの座席の端に座っている中年の元将官クラスらしい老軍人(エポレット(肩章)があり、胸には勲章が附いている)が、
老軍人「紙をくれ。」
窓側の兵士A「こっちにも。」
窓際の兵士B「俺も。」
彼らの頭上に薄板の棚がありるが、そこにも兵士が二人ほど登って横になっていて、彼らも手を出す。
カメラ、アリョーシャを中心にした位置で。
紙を貰った兵の一人「『敵を撃滅せよ』って書いてある。」
老軍人(笑って)「前線では出回ってるのか? 煙草の葉っぱは?」
アリョーシャ(笑って)「何でもありますよ。」
別な兵士(笑って)「何でもか、そりゃ、結構だな。」
上の棚に腹這いになっている兵士Cのアップ。
兵士C(笑って)「農家のおばさんを思い出すぜ。(唾で新聞紙を濡らして巻き煙草を作り)……『おばさん、水を飲ませて下さい』(前のアリョーシャ中心位置のショットに戻る)『腹も減ってるし、寝るところもないんです』……」(複数の笑い)
老軍人のバスト・ショットに切り替わり、その頭上の兵士Cに向かって、
老軍人「……そうして……お前は『おいしい』思いをしたんだろうな……」
兵士たちの爆笑のカット・バックで、二コマ目に兵士Cをやや離れて写し、
兵士C(笑って)「……いい女だったなあ……忘れられないぜ……」
兵士D(Cの後ろに頰杖えをして横になっている)「そんなに良かったんなら(Cの煙草を吸わせて貰い)、戦争が終わったら、結婚しろよ。」
兵士C「それがよ、もう亭主がいるんだって。」
ここでカメラは切り返され、右半分手前に空ろな眼の茫然としたワーシャの顔、奥にアリョーシャ。アリョーシャ、無邪気に笑う。
兵士E(反対側(ワーシャの真上)の棚から)「その旦那は、おめえみたいな痘痕面(あばたづら)か?」
兵士C「いいや、スベスベだってよ。」
兵士C、Eに煙草の火を移してやる。
老軍人(見上げるカット)「『スベスベ』より『痘痕』がいいってわけか!」
皆の爆笑。カメラ、兵士Cにティルト・アップして、
兵士C「旦那にはよ……何か、『からだのどっかに』欠陥があったんじゃねえか?」(C、爆笑。合わせて車内の皆の爆笑)
ワーシャとアリョーシャのショットに戻る。アリョーシャも一緒に大笑いしている。ワーシャ、目と口元に微かな笑みを浮かべる。
中景カット。右に老軍人、向うにすっかり笑っているワーシャ、中央に笑うアリョーシャ。
老軍人「君は友達の付き添いかね?」
アリョーシャ「いえ、一人旅です。」
眼鏡をかけた老兵士「公用かね?」(バスト・ショット)
真上の兵士E(奥に笑う兵士C)「部隊の転籍かい?」
カメラ、先の中景に戻り、
アリョーシャ(ちょっと周を見回して得意げに)「帰郷です。」
画面左の兵士F「ホントかよ!?」
アリョーシャ(しっかり得意げに少し声高く)「本当です! 戦車2台、やっつけたんです!」
大爆笑! 皆、本気にしないのである。
アリョーシャ(食ってかかる感じはなく、如何にもアリョーシャらしい素直さを以って)「通信兵だって戦いますよ!」
兵士F「通信兵は、平均、戦車2台、やっつけるのかい?」
老軍人「どうやってやったんだ?」
兵士C(笑いながら。兵士Eも手前で笑う)「受話器でやったんだって! ありゃ、筒口が二つもあるからな!」
カメラ、本シークエンスの最初の位置に戻る。ワーシャが元気そうに笑って、笑うアリョーシャに振り向く。
兵士F「俺は知ってるぞ! どうやったか!――前線で戦車を見つける――一台を叩き潰す!――そしてもう一台も!――そうして、そいつらを自分のポケットの中に、入れっちまったんだ!」
車内、大爆笑(アリョーシャから貰った紙の煙草を吸いながら嘲笑する兵士のカット・バック)。
途中でアリョーシャも笑っていたが、切り返したところで、アリョーシャは本気にしない彼らに遂に切れ、
アリョーシャ(やっきになって大真面目に)「本当のことだ! 将軍に呼ばれて……」
兵士E(向かいで兵士Cも嘲笑の笑みを浮かべている)「出鱈目言うなよ。」
老軍人「まだ子供のくせに。」
別な中年の勲章を附けた兵士G、アリョーシャの紙で作った煙草を銜えて大笑いするあおりのショット。右に口を尖らしたアリョーシャ。
アリョーシャ(完全に切れて)「なんだと! 寄こせ!」
と言いつつ、突如、兵士Gの銜えていた煙草を右手で取り上げる。
アリョーシャ「証拠を見せてやる!」
老軍人の右肩をなめたショットでアリョーシャとワーシャ。アリョーシャ、前に置いてあるワーシャの鞄の上でその煙草の火を右手の拳で「どん!」と叩き消す。ワーシャはその動作を真面目に見詰めている。
兵士G「どうしたんだ?」
アリョーシャ「待ってろ、待ってろよ。」
アリョーシャ「ほら! 見ろ!」
アリョーシャが鞄の上で、縦に裂けた二枚の新聞の断片を合わせたもののクロース・アップ。アリョーシャの写真である。鉄兜を被り、眉根を厳しく寄せたものだ(上部キャプションに「CBOИX」、その後の単語の頭は「Г」と、「е」の大文字であるが後の綴りは見えない。前は「仲間の」で、或いは後のそれは「гений」(天才的な・偉大な)かも知れない)。
兵士「確かに。……彼だ。……」
中景に戻る。
老軍人「大切な新聞を使っちまって! どうするんだ?」
アリョーシャ(気持ちのいい悪戯っぽい笑顔で)「まだ何部も持ってるんだ。」
ワーシャ、老軍人に向いて、白い歯を見せて、元気に笑い、そのままの笑顔でアリョーシャを見る。F・O・。
□18 走る列車の車内(夜)
さっきの多くの兵士は大分、降りたものか、向うの窓際に座って寝ているのは、女性・兵士一人・老人・子供である。皆、寝ている。カメラが彼らをなめつつ左にパンし、松葉杖の間から目覚めていて目を開けて暗い表情のワーシャで止まる。伏し目が上って正面を見詰める。また、伏し目になる。カメラ、少し左にパンして、彼の脇で寝ているアリョーシャで止まる。アリョーシャは何か夢を見ているのだろうか、ワーシャの體に寄せた左頰を子供のように擦り付けるのである。(初めから不安のテーマ音楽がかかっている)
[やぶちゃん注:この松葉杖のカットは美事である。ワーシャは有意に左右に揺れている。それは確かに車体の揺れなのだが、明らかに今も不安に揺らいでいるワーシャの心象風景であり、彼の左前からのライティングが、顔面を縦に分断している松葉杖の一部によって遮られ、顔の右半分が暗く、右眼だけが翳の中に光っているのも彼の心象風景を優れて象徴している。]
反対の右側からのワーシャのアップ。(ここで主題音楽に代わって)
老兵士(オフで)「あんまり考え過ぎない方がいい。」
ワーシャ、「はっ」として右を向く。
老兵士(半分オフで)「何とかなるもんだよ。」
語りかける老兵士のバスト・ショット。以下、二人のカット・バック。
ワーシャ、「いや」という感じに弱々しく顔を横に軽く振りつつも、
ワーシャ「……そうでしょうか?……」
と問う。
老兵士「私の娘は、結婚し立てで、未亡人になった。」
ワーシャ、再び、前に顔を戻して考え込む。
老兵士も伏し目になって、一つ、ため息をつく。
また、ワーシャにすりすりしている寝ているアリョーシャ。F・O・。(音楽はそのまま大きくなって流れ続ける)
[やぶちゃん注:この「老兵士」は昼のシーンの冒頭のショットでアリョーシャの向うにいた人物と同じである。但し、昼間の兵隊用コートの前を開けていて背広のように見え、赤軍の徽章附きの帽子も取り去っており、うっかり見ている観客は民間の老人と思う(或いは年齢的に見てすでに退役しているものと見てよい)。しかし、ずっと彼はそこでワーシャの様子を見守ってきたからこそ、彼の心中を見抜き、かくアドバイス出来るのだという点でこの誤認はアウトである。でなくては、ワーシャの心に以上の言葉が響くはずがないからである。なお、最後のシーンでワーシャがごく軽く頷いているように見えるのは車体の揺れであって、彼の言葉に相槌したのではない。]
□19 ボリソフ駅1
二人は既に降車している。背後にぞくぞくと人が乗ってゆく車両。二人はホームを見渡してワーシャを迎えに来ているはずの妻を捜している。しかし、いない。ワーシャ、松葉杖でホームに沿って歩き始め、妻を捜す。後を彼の鞄と自分の雜嚢を持ったアリョーシャが続く。それに気づいたワーシャは振り返って、
左手で、アリョーシャの左胸を押さえ、
ワーシャ(優しい笑みを浮かべ)「もうここでいい、ありがとう。」
と言うが、
アリョーシャ「付き合いますよ。」
と続いて歩く。カット。
ワーシャの背が右手前にあって、後から車体側をアリョーシャが過ぎたところで、ワーシャ、背後に気配を感じ、「はっ」として振り返り、数歩、カメラの方に歩み寄るが、人違いであり、諦めの表情が浮かぶ。
□20 ボリソフ駅2(ここは19の最後とオーバー・ラップで切り替えている)
ホーム。乗ってきた汽車はもう出て行ってしまった。しかし、アリョーシャはワーシャと一緒にホームに残っている。アリョーシャは煙草を吸いながら、まだ見回して捜しているけれども、ワーシャは両松葉杖で立ったまま、煙草をすって俯いて動かない。ホームには民間人の人影が右奥の駅舎側に数名、ずっと奥で左手の線路を越えてホームへ渡ってくる人々が見えるだけで、ある淋しさが漂っている(標題音楽がそれをさらに助長する)。カメラが二人に寄ってゆき、奥のアリョーシャが振り返り、哀しそうに右手前のワーシャ(バスト・ショット)を見る。何も言えない。ワーシャ、短くなった煙草の最後の一吸いをすると、ホームに投げ捨てる(ここで音楽、止まる。以降、台詞以外とワーシャの松葉杖と跫音以外の周囲の音声も同時に意図的に消されて失望感がSE(サウンド・エフェクト)で表現されているように感じられる)。アリョーシャの方を振り返り、無言で、身を返して、アリョーシャの左脇を抜けざまに振り向き、
ワーシャ「行こう。」
と声をかけて駅を奥の舎屋の方へと去ろうとする。アリョーシャは画面の奥のホームに置かれてあるワーシャの鞄を持ち上げてその後に従おうとした――
――その瞬間!
――「ワーシャ!!」
と叫ぶ女性の声がオフでかかる!!
振り返るワーシャ!!! 背と頭部のアップ!!! 驚愕するワーシャの顔!!!
右から左に移動するホームの乗客の流れの中を、たった独り、左から走って抜けてくる女性の姿!(ここで同時に雑踏の音が再生されて自然な現実空間となる)
走ってくる女性! ワーシャから二メートルほどの位置で立ち止まる女性(ワーシャの少し右手前ホーム縁にアリョーシャが立つ)!(ここは2ショットであるが、2ショット目は対面シーンの安定構図まで一気に撮った長回しである。私は舎屋側に撮影台車用のレールを引いて、最後をカーブさせて撮影したものと推定する)
彼女を見詰めるワーシャ(バスト・ショット)。
切り返して、右手にワーシャの左背側、中央奥に妻、ワーシャの背を舐めた奥に小さくアリョーシャのバスト・ショットが入り、ワーシャの妻がゆっくりとワーシャに近づいてゆき、面前で、一瞬、立ち止まり、見詰め、ワーシャの抱きつく。
ワーシャの妻「ああ、ワーシェンカ!(標題曲がここから入る)…………帰ってきたのね!……生きて!……」
彼女の無数のキス!
激しい吐息とともに彼女を抱きしめるワーシャ!(この直前までは二人から少し離れた奥に鞄を持ったアリョーシャが映る。以降も画面の左端にはアリョーシャの肩のごく一部が映ってはいる)
ワーシャ「……でも……足が……」
(切り返しで彼女をワーシャの右背後から撮る)を遮るように、笑みを浮かべて泣きながら顔を横に振り、ワーシャを抱きしめ、
ワーシャの妻「……生きてくれていれば! いい!……」
妻の右背後下方からあおりのショットで抱き合う二人。
□21 ボリソフ駅構内奥の線路
画面右手前から、奥の方の線路に停車している連結された貨物車両の方へ向かって行くアリョーシャ。一つの線路を越えたところで左方向をみて、また、渡って行くが、これは走っている車両を見つける動作のように私には感じられる(見る人によってはホームのワーシャらを名残惜しんでいると読む方もいようが、良く見えないが、表情にはそういったものは感じられない。寧ろ、そのウサギのような敏捷な動きには、休暇のロス・タイムを何とか挽回しなければ! という焦りを私は強く感じる)。しかし、見当たらないので、停車した貨車のある奥へと向かうのである。
□22 ボリソフ駅3(20の終りと同じワーシャとその妻の二人の場面に戻る)
ワーシャの顔をいとおしく両手の指で撫で、自分の乱れた髪とプラトークを直す妻。
ワーシャの妻(幸せな顔で)「これでも急いで来たのよ、バスもないし。」
ワーシャ、妻の右手の人差し指と中指に包帯が巻かれているのに気づき、それを無言で心配げに不審がる。
ワーシャの妻「大したことないの。今、兵器工廠で鉄材を扱ってるからなの。」
再び抱き合う二人。再会に夢心地となっている二人。あおりのアップ・ショット。
運転手「奥さん、自動車が待ってますよ。」
二人、思わず、離れる。カメラが引くと、右手に男の背。車のキーを左手で弄んでいる。
ワーシャの妻「ワーシャ、こちら、運転手さん。荷物は?」
二人の背後に置かれてある。
ワーシャ「ああ、あそこだ。」
運転手「運びましょう。」
ワーシャ「待ってくれ! 彼はどこだ?」
ワーシャの妻「誰?」
ワーシャ「戦車を2台撃破した英雄さ!」
運転手「行きましょう。私はもう遅れているんです。」
ワーシャ(清々しい笑顔とともに)「ああ、残念だ! 行っちまったか!」
前方で鞄を持った運転手がゆっくりと先導して(足の不自由をよく気に掛けている様子が見える)、ホームの奥に向かって帰って行く二人。妻、ワーシャの右手に優しく手を絡ませて支えて行く。向うから来た女性と少女が、片足のない彼と妻をずっと後から眺め続けている。ワーシャは、『大丈夫! 自力で支えられるさ!』といった感じで、ワーシャの右手の介添えなしで、力強く歩いて行く。
■やぶちゃんの評釈
シークエンス「20」の太字下線とした「振り返るワーシャ!!! 背と頭部のアップ!!! 驚愕するワーシャの顔!!!」のカットは映画史で忘れ難い1カットであると言ってよいと考えている。テツテ的に失望した男を救う「マリア」の声だ! その大胆な構図と、負傷兵ワーシャ役を演じたエフゲニイ・ウルバンスキイ Евгений Урбанский の強烈な〈顔力(かおじから)〉は、もう、神がかっているしか表現し得ない。――人が心底から救われる時の真に神聖な驚きの表情――謂うなら――非宗教的奇蹟を――私は彼のその演技に見るのである。
なお、エンディングの二人が帰って行く方向はここまでの展開上からは、かなり違和感があるが、それは今回かく分析してみてのことに過ぎぬのであって、過去、何十回も見てきた中で、そんな違和感は感動によって吹っ飛ん微塵も感じたことはなかったのである。ここで向きを物理的に辻褄合わせして戻すのは事実ではあっても、芸術的に美しくないからである。それは芸術上の意識の流れの精神的ベクトルとしてこの固定された前方奥へと収束する以外に正しい展開はないのである。私は、この「休暇」最初の、この大きな重いしかししみじみと感動させる第一エピソードの成功こそが、この映画のアリョーシャ的「英雄」の位置にあるとさえ考えている。この感動が作品の三分の一の時点で(本作は全八十四分である)このクライマックスを作って、以後、アリョーシャがどやって母のもとに辿り着けるか、観客のやきもきさせる関心をしっかりと攫むことに完全に成功しているからである。シューラとの絡みが本作のメインであることは言を俟たないが、しかし、この「ワーシャの物語」がなかったなら、ワーシャ役がエフゲニイ・ウルバンスキイではない別の役者だったら、私は「誓いの休暇」のここまでの成功や完成度は生れ得なかったとさえ言うことを憚らないものである。
以下、「文学シナリオ」の当該部を掲げておく。
*
客車のデッキ。扉の向こうに、駅のはずれの建物がちらついている。汽車は駅を離れて行く。
デッキの中、傷兵とアレクセイ。
――あなたは乗車しないと言った。
アレクセイは喜んでいる。
――私のために時間を無駄にさせて済まない、アリョーシカ。私のために四時間を費やさせた。
――何でもありません。取り戻します。道中は長いです。
アレクセイは答えると、女車掌に向かって質問する。
――いつボリソフへ到着するのですか。
――明日の朝です。
女車掌は答える。
傷兵は嘆息する。
――どうしました。
アレクセイは聞く。
――何でもありません。
――考え事をしないで、汽車の中は気楽に過ごしましょう。
……客車は人、トランク、荷物でぎっしり詰まっている。どの棚からも足がぶら下がっている。傷兵は通路をゆっくり歩いて行く。その後ろからアレクセイがトランクをぶら下げてついて行く。彼等の行く手を二つの大きな長靴が遮る。傷兵は止まる。足が上がる。傷兵はそれを避けて、その下を通って行く。
彼はさらに進む。彼の頭のところにあちこちの棚から足がぶら下がっている。長靴をはいている足、裸足の足、編上靴の足、運動靴の足、足、足、足……。
傷兵の瞳は進むにつれて、暗くなってくる。とうとう、彼は停止し、目を閉じる。
一人の中年の隊長が眠っている兵士達をゆり起こす。
――おい! 戦友達、もっとつめろ! この人に座らせてあげよう。
兵士達は、身体を寄せ合って場所を空ける。傷兵は松葉杖に頭をもたれかけて、座る。
――いかがですか。
身体をかがめて、アレクセイが彼に聞く。
――何でもありません。
――疲れましたか。
――ええ。
――慣れないからでしょう……。
兵士の誰かが言う。
アレクセイは傷兵と並んでトランクの上に座った。そして、ポケットから喫煙用に切断した新聞紙の束を取り出し、それを傷兵に差し出した。
――喫いますか。
傷兵は頭を横に振った。
――新聞紙をくれ。
向かいに座っていた隊長が申し出た。
――どうぞ!
やがて、数人の兵士の手が紙束に伸びた。束はたちまちなくなった。
――ところで煙草はありませんか。
アバタ面の上等兵がアレクセイに尋ねた。
――あります。
アレクセイは答えて、彼に自分の煙草入れを渡す。
――すばらしい煙草だ。
誰か感嘆の声を上げる。
――どこで買ったんです。
――戦場の酒保です。
――機関銃手ですか。
――私は通信士です。
煙草入れは手から手に渡る。
――ところで女はどうなんだい?
――それは、兵士が主婦に水をもらうように、〈おばさん、水を下さい。それから食べ物、ありませんか、どこか泊めていただければ有り難いんですが〉という具合に作るのさ。
アバタの兵士が発言する。
みんなが笑う。
――そうだ!……それがおまえの方法なんだな。マリウスでは、水を飲んでくると言って、三晩、行方を暗ませた。
再び笑い声が起こる。アバタの兵士は嘆息する。
――いい女だ。忘れることができない。
――何故忘れる。戦争が終われば、帰郷して結婚すればいい。
――馬鹿な、彼女には夫がいる。
――アバタ面のか。
――いや、すべすべしてる。
――それで、何故知ってるんだ。
――彼女が話した。
――女がすべすべした夫を、アバタのお前と取り替えたというわけか。俺は何故か知っている。……恐らく、彼には何か欠陥があるんだ。
みんながまた笑う。アレクセイは誰よりも大きな声で笑う。
――おい君、陽気な人!
上等兵が発言する。傷兵の方を頭を動かして指しながら、アレクセイに質問する。
――友達を送って行くのかい。
――いや、私は一人です。……私も家へ帰るのです。
――家へ。
上等兵は聞き返す。
――そうです。休暇です。
――分かった。もっと話を作ってごらん。
上等兵はみんなに目配せする。
――いや本当です……。私はタンクを二台やっつけたのです。信じてくれませんか。
――どうして。
――何で二台やっつけたんだね。
――電話器でかい! あれにも二つ筒口があるからね!
アバタ面が話すと、みんなが笑う。彼はさらに続ける。
――何しろ彼等は通信士だからな! どうしたんだろう! 彼は前線に出かけて行く。タンクを見る。……一台に平手打ちを食らわす。もう一台に平手打ちを食らわす。そして、袋に入れる……。
また、兵士達は笑う。
傷兵も微笑している。それを見て、アレクセイも明るく笑う。
夜。客車は眠っている。
バックにも垂れて、隊長が眠っている。頭を反らせて、アバタ面の若者が眠っている。大きい百姓の掌で顔を支えて、陽気な上等兵も眠っている。そして我々の兵士も微笑を浮かべて眠っている。
傷兵だけは眠っていない。松葉杖にすがって、陰鬱な思いに沈んでいる。
車輪は線路のつぎ目でカタカタと鼓動し、客車のグラグラした隔壁が軋む。
汽車は、ステップを驀進する。前方の空が、もう、赤みがかっている。
朝。ボリソフの駅。乗客が客車から降りて行く。客車の入り口のところに傷兵が現れる。彼は客車を取り囲んでいる群衆をかき分けながら、目で妻を探す。アレクセイはトランクをさげて、彼の後ろからついて行く。
群衆の中からやっとの思いで出た傷兵は、立ち止まってあたりを見回す。彼はプラットホームの上を行き交う人々を見つめる。妻はいない。
傷兵はホームに沿って歩く。アレクセイが彼に従う。しかしここにも彼女はいない。
……ガランとしたプラットホーム。汽車はでて行った。人影はない。ただ傷兵とアレクセイだけが残った。傷兵は、もうどこも見てはいない。首をうなだれ、悲しげに地面を見つめている。
アレクセイは嘆息しながら彼を見守る。
傷兵は頭を、持ち上げ、心をこめてアレクセイに言った。
――無駄です。出かけて下さい。
アレクセイは黙ってうなづいたが、どこにも行かなかった。
――あなたは行く必要があります。出かけて下さい。
――私は今……。
アレクセイは返答を渋った。煙草入れを取り出すと、それを傷兵に差し出した。しかし、彼がまた怒り出すのを恐れて、アレクセイは慌ててポケットに煙草入れをしまった。
――煙草を下さい。
傷兵はうつむいたまま言った。
……彼等はプラットホームに立っている。黙って煙草を喫っている。
アレクセイは傷兵を見守っている。すでに期待を捨てた傷兵は、悲しそうに遠くの白い鐘楼の街を眺めている。
再びプラットホームが人の波にうずまる。反対方向に行く汽車が到着した。シガレットは指先まで燃え切っていた。傷兵はそれを捨て、アレクセイの方を向いた。そして物静かに言った。
――さて! 兄弟!……私はこう考えた。行こう。
彼は駅の建物の方に行こうと向きを変える。すると、その時、構内のざわめきを突き破って、甲高い声が聞こえてくる。
――ワーシャ!
傷兵は動揺する。
――ワーシャ!
一人の婦人が群衆をかき分けて、彼のところに飛んできた。彼女は傷兵に駆け寄り、彼の胸に抱きついて泣いた。
――ワーシャ! ワーセニカ!
彼は動かなかった。彼女は、彼から離れると、目を見つめ、また彼を抱きしめた。
――帰って来たのね!…………生きて!……。
彼女はささやいた。
ワシリーの唇は震えていた。彼も妻を抱きしめた。
彼女はまた彼の顔を見た。彼は微笑で答えた。悲しそうな微笑であった。彼女はすべてを理解した。
――何でもないの……今は二人は一緒よ。
婦人は涙顔に微笑を浮かべ、ささやいた。
彼女は、彼の顔、髪の毛、肩と、汚れた包帯を巻いた手を撫でた。
――私はこれでも急いで来たのよ! バスはないの。
婦人は言った。傷兵は彼女の手を取り、食い入るように見つめる。
――こんなに金くずが……。
彼女は説明した。
――非常に重い鉄だったの。私は今工場で働いているのよ。……
手は擦り傷やみみず腫れで一杯だった。傷兵は妻を引き付け、掻き抱いた。
――奥さん、自動車に乗りませんか。私は行きますよ。
綿入れの上着を着た男が聞いた。
婦人は振り返った。
――はい、今行くわ……ワーシャ、運転手さんよ……行きましょう。
彼女は、ネッカチーフの下から垂れた髪の毛を直しながら言った。
ワシリーは妬ましそうに、好男子の運転手を眺めた。
……運転手はトランクを持ち上げる。うれしさにそわそわした妻は、夫の腕を取る。そしてせっかちな運転手の後について行く。
松葉杖が二人の邪魔になる。ワシリーは、注意深く妻から自分の手をどける。突然、傷兵が急に思いつく。
――待ってくれ。若者はどこだろう。
彼はアレクセイを目で探して、振り返った。
――彼はどこだ。
――どの若者?
妻は言った。
――野戦の兵士の人! 私と行かないか。アリョーシャ! アレクセイ!
彼は大きな声で叫びながら、あちらこちらを見回した。
アレクセイはプラットホームにいなかった。
*
シナリオより実際の出来の方が遙かによいことが、よく判る。
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