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2019/07/03

ブログ1240000アクセス突破記念 梅崎春生 紐 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二二(一九四七)年六月号『新小説』に発表されたもので、後、同年九月に発表したヒット作「日の果て」を標題にした第一作品集「日の果て」(昭和二三(二九四八)年思索社刊。作品集「桜島」(大地書房)は翌月の刊行)に収録された、戦後の前年に「桜島」(昭和二一(一九四六)年九月『素直』(創刊号)初出)を引っ提げて登場した梅崎春生の作家デビュー直後の初期作品の一つである。当時、梅崎春生三十二歳。一月に雑誌『令女界』『若草』の編集者であった山崎江津と結婚し、当時は豊島区要町に居を構えていた。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、十三年で、本ブログが今朝方、1240000アクセスを突破した記念として公開する。【2019年7月3日 藪野直史】]

 

   

 

 石で畳んだ廊下を靴で踏む堅い響きが、反響しながら次第に近づいて来た。そして房(ぼう)の前で止った。

「あ、これを!」

 そう言ったようだった。その声と一緒に鉄格子の間に、新聞紙にくるんだ小さな包みが押し込まれた。包みは鉄格子の横桟(よこさん)に二三度ひっかかりながら房の床にばさりと落ちた。

 壁に背をもたせてうつらうつらしていた鬼頭はその音でハッと眼が覚めた。その時鬼頭が見たものは床に落ちた白い紙包みと格子の外に立つ黒服の男の姿であった。男の腰には短い警察官用の短剣がキラと光った。鬼頭が思わず身を起しかけた時、男はへんに黄色い顔を格子の間からじっと鬼頭に向け、そしてその姿はあわてたように其処を離れた。堅い靴音は少し乱れながら、再び元の方向に戻って行った。理由の判らない不吉なものにふと鬼頭は怯えながら、身体を壁にずらして紙包みに手を触れた。湿気を含んだような柔軟な重みが指に感じられた。

(これは何だろう。何の為に投げ入れられたんだろう)

 指が少し慄えて紙ががさがさと鳴った。紙の中から出て来たものは、綺麗(きれい)にたたみこまれた一本の青い絹紐(きぬひも)だったのだ。

「紐が!」

 思わず叫びかけて鬼頭はあわてて口をおさえた。鬼頭の眼はその時、同房の向う側の壁に膝を抱いた男の視線とぴたりと合った。

 紐は鬼頭の指からすべって、膝から床に重く垂れくねっているのである。

 

 六車(と言うのがもー人の男の名であるが)は、紙包みの中から絹紐が生き物のように床に這い流れた瞬間、ぞっとする程の戦慄が背筋を奔り抜けるのを感じた。すべて直線で囲まれた此の狭い世界の中に、それは妖しく微光を放ちながら鬼頭の膝にまつわっているのだ。それはいきなり肉体に響いて来る不快な衝動をまじえていた。六車は乾いた唾を嚥(の)みこみながら、思わず手を伸ばしながらあえぐように呟いた。

「そ、それは何だね」

 彼は、鬼頭が瞬間の放心から覚めたようにぎょっと身体を堅くして、あわてて絹紐を拾い上げるのを見た。紐はその形で丸められたまま、鬼頭の懐(ふところ)に押込まれた。

「絹の紐だよ」

 鬼頭の顔は折檻(せっかん)を受けた幼児のような表情を浮べていた。そして片掌をしっかり懐の上にあてていた。そしてそれ切り二人は黙りこんだまま、探り合うようにお互の顔をみつめていた。房内の温気がこもるように高まって来た。

 暫(しばら)くすると鬼頭は急に頭を垂れて膝の間に埋めた。そして長いことそのまま動かなかった。

 泣いているのではないか。六車は神経質な眼を見はったまま、壁に背筋をぐりぐり押しつけながらそう考えていた。

 

 房の外では戦争の嵐が吹き荒れていた。

 しかし外界と此処とは、厚い混凝土(コンクリート)の壁と鉄格子で隔てられていた。ただ此の房の上の方に小さな窓が外にむいて開かれていた。

 それは人の背丈よりももっともっと高かった。そんな小さな窓にも頑丈な鉄棒が三本ほどはめられていた。そこからは区切られた青空が見えた。音が其の窓から入って来た。それは電車の軋(きし)る音でもあったし、万歳を叫ぶ人々の行列らしい音でもあったし、かけ忘れたラジオらしい音楽でもあった。それらの音が雑然と沈み込む暗い房の底で、二人の男は黙然(もくねん)と膝を抱いて向き合っていた。[やぶちゃん注:「かけ忘れた」「かけて切り忘れた」の意であろう。亡き母は何時もラジオをつけることを「ラジオをかける」と言っていたのを思い出した。]

 午後になると必ず六車は呼出されて房を出て行った。そして一時間程経って戻って来た。

 そんな時の六車の顔は汗いっぱいになり、眠が獣のようにぎらぎら輝いていた。房の床にくずれ落ちると、肩で荒い呼吸を支え、あえぐような呻(うめ)きを口から洩らしているのであった。その姿を見る度に鬼頭の胸にはある畏(おそ)れが突き上げて来た。

 鬼頭は此処に入れられて以来、一度も呼出されない。何時になったら取調べが始まるのか、数えて見るともう半月も経って、入房当初の剃刀(かみそり)をよく当てたすべすべした頰には、黒いちぢれた鬚(ひげ)が密生し始めていた。

 

 格子から投込まれた絹の紐を一目見た時、鬼頭はいきなり心臓をぐさと摑(つか)まれた気がしたのである。

 彼はある軍需会社の営業部の主任だった。突然ある朝刑事がやって来て彼を拘引した時、彼がさほどあわてなかったというのも、彼の会社での仕事というのが関係筋に付届けをする事であり、その関係筋というのが監督官や管理官や地方役人や、警察官だからであった。彼が口を割れば此の土地のそれらの人々は皆収賄の罪に問われる筈であった。彼はその朝おろおろと戸惑う妻に、何でもない直ぐ済む事だ、と一言残して拘引されて来たのである。妻の父も、此の土地で警察署長をやっていた。

 だから鬼頭は救いの手を信じて疑わなかった。その救いがどんな形で現われるのか、それを待って半月経った。

 あの時鉄格子に黄色い顔を押しつけてじっと彼を凝視したあの巡査は、彼が見覚えがない男だった。何時もの巡査とは違っていた。そして彼がふと脅えながら指に拾い上げたものがあの冷たいずっしりした絹紐の塊だったのだ。

(俺の口を割らせない為には、俺を救い出すよりも俺を殺した方が早いのだ)

 それがいきなり頭に来た。そして六車の神経的な鋭い視線に堪えながら、暫(しばら)く惑乱しようとするものを支えていた。そしてがっくり頭を落すと、瞼のうらにさまざまな人の顔が浮んで来た。入乱れた顔々の中に、思い詰めたような妻の顔がひとしお大きく浮び上って来た。

 

 その日も夕方近くになって、六車は呼出されて出て行った。暫くすると変に静まった通路の屈折を抜けて、呻吟(しんぎん)や叫喚(きょうかん)が幽(かす)かに此の房まで聞えて来た。それは毎日のことであったが、音が幽かであればある程、鬼頭には取調室の六車の姿がヴィヴィッドに思い浮べられるのであった。

(俺は死なないぞ。俺は死なないぞ)

 そんな事を呟きながら、鬼頭は懐の紐をしきりにまさぐっていた。

 やがて六車は汗みどろになって房にもどって来た。房に 入ると一時に気力を失うらしく、床にうずくまって犬のように荒々しくあえぎつづけていた。その細い肩や腺病質的な横顔を眺めながら、鬼頭は此の男を支えつづけている気力とは一体何であろう、とふと訝(いぶか)るのであった。そう訝かると直ぐ、彼は今日絹紐を見た時の六車の瞳のいろを想い出した。それは乾いてキラキラ光る瞳だった。それがまっすぐ彼にそそがれていたのだ。

(此の男はあの時、どんな事を感じていたのだろう~)

 鬼頭は六車から眼を外らすと、斜めに小窓を見上げた。昏(く)れかかった青空を切り取る三本の鉄棒が、浮き上るように彼の目にしみて来た。

 

 夜、うすい毛布にくるまって二人は寝ていた。消燈後のくらがりの中から、鬼頭は低い声で聞いた。

「お前は、政治犯なのか」

 うん、と暫くして六車の返事が戻って来た。鬼頭は更に問いを重ねた。

「毎日、何故打たれてるんだね」

 返事は無かった。長いこと沈黙がつづいていた。もう眠つたのかと鬼頭が寝がえりを打とうとしたとたん、六車のやや早口な声音が耳の側でした。

「俺が今白状すれば、皆駄目になるんだ。俺の白状が二日遅れれば遅れるだけ、すべてが有利になるんだ。俺はそう思って歯を食いしばって辛抱しているんだ。今日だって、俺がじっと堪えたばかりに、何人かが命をたすかっているのだ。何もかもうまいこと行っているんだ」

 急に烈しい呼吸(いき)使いが耳の側で乱れた。

「しかし――俺は白状してしまうだろう。明日か、明後日か、それは判らない。俺はあの苦痛には堪えられないのだ。声を立てまいとしても声が出てしまう。――頭がくらくらになってしまうのだ」

 声がとぎれ、深い溜息がそれにつづいた。鬼頭は毛布を顎(あご)にまで引上げながら、屈折した廊下を伝わって来る六車の苦痛の叫声を想い出した。

(此の男を白状から妨げているものは、彼自身の良心だ。ところが俺の場合、俺の口をつぐませようとしているものは――此の絹紐だ)

 鬼頭は汗ばんだ胸の膚にすべすべとからまる絹紐の感触を確めていた。

(しかし、此の紐で、どんなにして首をくくれというのだろう。どこにひっかければいいのだろう)

 

 暁方、鬼頭は夢を見ていた。何だかと格闘しているようなひどく苦しい夢だった。首を絞められて、鬼頭は夢の中で大声を立てていた。そして眼が覚めた。

 ぼんやりした朝の光が房の中にひろがっていた。髪を汗ばんだ額にへばりつかせたまま、鬼頭は起き上ろうとした。そして彼は、首の辺にしんなりとまつわる蛇のようなものを感じて、再び叫び声を上げて掌で払った。それはあの青い絹紐だった。紐は弓形にしないながら宙を飛んで壁に当った。

 鬼頭は異音な顔をしていた。

 その側で矢張り半身を起した六車が、薄く瞼を開いてじつと紐を見詰めていた。鬼頭の声に驚いて起き直ったものらしかった。六車もそして真蒼だった。紐はべたっと床に貼りついていた。その側に紐を包んでいた新聞紙が昨日の形のまま、小さく丸められてころがっている。……

 

 ――六車は昨日あの絹紐を一瞥(いちべつ)した瞬間から、紐が暗示する或る物へ、どうすることも出来ない牽引(けんいん)を感じ始めていた。

 その日もうつうつと膝を抱いて壁に倚りかかっていた。時々うすく瞼を開いて鬼頭の方を見た。その度に鬼頭は鬚の間から、暗欝な眼付を光らせて彼を見返した。

(此の男は何者だろう)と六車は考えた。

(此処に入って以来不敵な態度を保ちつづけていて、俺とも余り口を利こうともしない。それにしても、あの包みを開いた時の此の男の脅え方は何だろう?)

 あの絹紐が此の男にどんな意味を持つのだろう、そう思うと六車は直ぐ、床に貼りついたような不気味な紐の形を思い浮べた。

 壁が背のぬくみであたたまると、六車は身体をずらした。

 ずらした股のあたりに、何かがさがさしたものが触れた。ふと見ると、あの丸められた新聞紙であった。六車はそっと膝の間にそれを拡げた。

 ある記事がふと彼の心をとらえた。記事は次のような内容だった。

「何郡何村鬼頭利親(三四)は去四日朝贈賄の嫌疑で自宅から拘引された。背後関係に戦争を喰物にする某軍需会社を控え、官界各層や地方名士も連関あるらしく、成行を重視されている模様である。猶同人妻ハナ子(二三)は聖戦下に於ける世間体を恥じ……」

 新聞紙は其処で千切れていた。

 大車は二度その記事をゆっくり読み返した。そして音のしないように丸めると、床の上に落した。頭を膝の間に埋めるようにしながら、上目使いに鋭く鬼頭をぬすみ見た。

 鬼頭は頭を壁にもたせ、軽く眼を閉じていた。懐が少しふくらんでいた。紐がそこに入っているのである。

(紐の差入人は、此の記事を此の男に読ませたかったのだな)

 世間体を恥じて此の男の妻は何をしでかしたというのだろう。六車はそんな事を考えつづけながら、鬼頭の胸のふくらみから眼を離さないでいた。

 

 六車の神経的なまなざしが、ともすれば鋭く紐の在処(ありか)に走るのを、鬼頭ははっきりと感じ始めていた。眼を閉じていても、それは気配で判った。

(あの眼付は只の好奇心か?)

 いや、違う、と鬼顔は思った。そして彼は昨夜の六車の話を想い出していた。あれが入房以来交した最も長い会話であった。その時の六車の荒い呼吸はまるで泣声のようだった。

(そんなに辛けれは何故白状してしまわないのか?)

 しかし鬼頭はふと、あの紐を受取った時の自分の絶望に突当っていた。彼には白状する気はなかった。長い間救いを信じていた。もし彼が口を割れば――第一に傷つくのは妻の父にあたる隣村の警察署長だった。それが先ず彼に堪えられない事であった。彼は彼の若い妻を愛していたのだ。

(しかし誰があの紐を寄越(よこ)したのか?)

 鉄格子から覗いた巡査の黄色い顔が、嘔(は)きたくなるようなどぎつい鮮かさで彼の瞼のうらに浮び上って来た。彼は青ぶくれのした顔を大きく振ってその想念を追払いながら、向うの壁にうずくまる六車の姿に、ひととき眼を据えていた。

 昼過ぎになると六車は眼に見えて生気を喪いはじめるらしかった。瞼をふるわせて廊下を眺めたり、ぎょっとした風に聴耳を立てたりした。取調べの時刻が近づくのだ、と鬼頭は感じながら、何故か自分も一緒にいらだち始めている事に気がついた。

 彼は湧き上って来る衝動を嚙み殺しながら、陰欝な視線を六車の薄い肩のへんから暫(しばら)く動かさないでいた。

 

(今日こそは俺は白状してしまうかも知れない!)

 そんな暗い予感で、六車はじっと呼出しを待ちながら、背をしきりに壁に押しつけていた。そうしていらだたしく爪を嚙んだ。

 もはや彼の心の中では、外界の同志の記憶や運動の推移などは、実体的な形象を喪失し始めていたのだ。それは実体を失って、悪夢のような茫漠たるものになって、彼の心を遠くから取巻いているだけに過ぎなかった。昨夜ふと彼が激情にかられて鬼頭に口走ったことは、半分は真実だが、半分は嘘だった。白状が一日遅れれば、それだけ有利になる。この事を、彼は観念の中だけで計算し得たが、肉体ではもはや感じ得なくなっていた。

 肉体によって信じられるものは、あの堪え難い拷問の苦痛だけであった。それだけが真実の重さをもつて彼にのしかかって来た。

 彼が今辛うじて、その苦痛に堪えて口を割らぬのは、外界の情勢を思う故ではなかった。ただ彼の自尊心に外ならなかった。

(すべてが既に俺個人の問題だ)

 白状するという事は、もはや六車個体の敗北であったのだ。その敗北を自分に確認することが、救いようのない絶望に通ずることを彼ははっきりと予感していた。

(此の房に不用な物は一切あり得ないのだ)

 房の中に存在するものは総(すべ)て俺達の用に立てねばならぬ。六車は、敗北から逃れ得る唯一の可能な方法を、こんな形で思い詰めて居た。そんな時に六車の視線は、蛇のような執拗な力を帯びて鬼頭の胸の辺を走った。

 石畳の廊下を遠くから踏んで来る跫音(あしおと)を感じて、六車はぎょっと眼を見開いた。そして鬼頭の視線とひたと合った。鬼頭の眼も脅えたような光をたたえて、汗の玉が額から頰に幾筋も流れていた。

 

 六車が房を呼出されて独りになると、鬼頭は急に訳の判らない恐怖を感じた。鬼頭は思わず身体を壁に這わせてよろめき立ちながら、無意識に視線を小窓の明りに向けていた。懐の中で汗を吸って、絹紐はぐちゃぐちゃにかたまっていた。

 彼は切取られた青空に、大きな掌を幻影に見た。彼は視野の一部が錯乱して行くのを感じながら、一度それを確めようとした。するとその掌から、巨大なうねりを持った絹紐が垂れ下るのを感じた。

(死なないぞ。俺は死なないぞ)

 彼は心で呻きながら眼を外らした。そして房の中を見廻した。房の中には彼一人であった。すると彼は、六車がいないことに、言いようもない不安を感じた。彼は思わず脚をずらせながら、格子の所まで出て行った。

 石畳の廊下には人気がなかった。

 両掌で鉄格子を握り、無意識の中で彼は自分の背丈を鉄格子に合せていた。鉄格子は彼の顔より低かった。これではくくっても失敗する。そうぼんやり考えながら、彼はその事にぎょっと驚いていた。

(俺は何を考えているのだろう?)

 彼は顔を格子に押しあてて、じっと眼をつむった。瞼のうらに妻の姿を描き出そうと努力を集めた。しかし妻の顔も、彼の記憶から定かな形を薄れ始めるらしかった。――

 その時通路の彼方から、幽かに六車の叫声が屈折しながら流れて来たのだ。その叫声は笛のように断続しながら、切なく高まって来た。鬼頭のかたく閉じた瞼に、突然熱い涙があふれて来た。

 

 闇の底に沈み込んだ房の床に、うすい毛布にくるまって二人はじっと横たわっていた。

 六車は打たれた身体の節々が、今しんしんと疼(うず)き出すのに堪えながら、顔のすぐ近くで鬼頭の規則正しく動く厚い肩を感じていた。

(此の男は何も知らないのだな?)

 ふと六車はそう思ってみた。そして今日疲れ果てて房に戻って来た時、何故か鬼頭が甲斐甲斐(かいがい)しく介抱して呉れた事を考えていた。

(世間体を恥じて彼の妻は何をしたというのだろう。たしかハナコという名だったが)

 あの新聞紙は丸められたまま、まだ房の隅にころがっている筈であった。六車にとって世間というものは、感覚で到達出来ない遠離の彼方にあった。それは彼の心に痕跡を止めているだけであった。だから彼の前に横たわる鬼頭が、そんな世間と繫(つな)がっているという事が彼には極めて奇異に思われた。

(しかし此の男は、あの紐を受取ってからでも、まだ本当に絶望はしていない!)

 どこかの一点で彼が救いを賭けていることを、六車は漠然と感じていた。それはどの一点か六単には判らない。

 ただ昼間、鬼頭が彼を房に迎え入れた時、鬼頭は彼の耳に口をよせて一言、白状したのか、と鋭い声で訊ねたのだ。その声を今六車は胸が詰るような気持で手繰り寄せていた。それが此の房に生きる鬼頭の、真実の肉声だった。

 その声を六車は肉体でじかに受止めていた。その時六車はほとんど涙が出そうになるのを押えて、頭を振っていたのだ。此のような短い肉声を、単純な身振りを重ねて行けばどうなって行くのだろう。

(その時は俺達はもはや、此の小房に閉じこめられた二匹の昆虫だ!)

 六車はその時、今鬼頭を揺り起して新聞記事の内容を知らしてやりたいという強い欲望にかられていた。

「ちょつと――」

 彼は手を伸ばそうとして声を吞んだ。鬼頭の体が大きく身じろいだ、まだ眼覚めていることを示したからである。

 

 長い夜が明けて、また鈍色(にびいろ)の一日が始まった。

 六車の眼は赤く血走っていた。夜の間のまだ一日あるという幾分寛(ひろ)やかな気持が、寝覚めと共に暗い予感を伴って荒々しくいらだって来るのであった。身体の痛みは一夜を越えても既に恢復(かいふく)しなくなっていた。彼はもはや露骨なまなざしで鬼頭のふくらんだ懐をたじろがず眺めた。

(あの絹紐を執拗に隠し続けることこそ、此の男が絶望していない証拠だ)

 六車の刺すような視線を弾きながら、鬼頭は沈痛に膝を抱きかかえていた。

(昨夜は俺に何を言おうとしたのだろう)

 あの時鬼頭は眼覚めていて、全身でその言葉を聞いた。何か凝集した空気のまま言葉はそこで途切れたのだ。

(――あれは何か余程重大な事だったに違いない)

 鬼頭は大きく眼を見開いて床の肌理(きめ)を眺めていた。彼が今ぼんやり考えていることは、自分に自白する機会は永遠に来ないだろうという事であった。此の房を出る為には屍体となって出る他はないという想念であった。しかしその想念も、まだ彼にははっきりした現実感は無かった。

(俺は死なないぞ!)

 鬼頭は空虚な声で呟いた。しかし彼は心の中に、渦に次第に吸い寄せられる木片のようなものを、此の時はっきり思い浮べていたのである。渦の底には何があるのか。ただそのような擾乱(じょうらん)が彼の心いっぱいを満たしていたのだ。その擾乱が平衡を保って永遠に続いて呉れることを彼は必死に念願した。

 彼の姿をじっとみつめていた六車が、突然甲(かん)高い声で言った。

「お、お前に死ぬ必要があるのか?」

 鬼頭はぎょっと身体をすさり、暗欝な視線を上げた。

 

 午後になると房の中の気温が急に高まって来た。小窓が切取る空のいろは灰白色の雲影であつた。そして何時もの時間が近づいて来た。

 六車は午前中のあの毒々しい気色をすっかり無くして、蟹(かに)のように打ちひしがれた表情で、しきりに額の汗を拭った。鬼頭も黙りこくって頭を低く垂れていた。

 湿度に満ちた空気を伝って、石畳を踏む靴音が幽かにした。

 二人とも一度に頭を上げた。

 鬼頭は腰を浮かすようにして、早口で問いかけた。

「昨夜は、お前は何を言いかけたのだ?」

 六車は鬼頭の青ぶくれた鬚面の間からギラギラ光る眼の色をじっと見た。そしてゆっくりと床の隅の新聞を指さした。

「あれに書いてある」

 声はみじめにつぶれて聞き取れない程だった。

「――しかし、今は読むな。俺が戻って来るまで待て!」

 六車の眼は哀願の色を浮べて、青くまたたいた。跫音が房の外に止った。――

 

 鬼頭は鉄格子に全身をもたせかけ、掌でしっかり鉄棒を握っていた。掌と鉄棒の間にはあの紙片が押しつけられていた。

 通路の彼方の、長いこと続いていた六車の叫喚が急に止んだ。

 鬼頭は急いで身を離すと、紙片を慄える指で拡げて、光の方にかざした。食入るようにしてそれを読んだ。眠が一箇所に定まるとそれ切り動かなかった。

 むくんだ顔の青さから、やや血の気が落ちて行くようだった。しかし変化はそれだけであった。鬼頭は二本の脚の上に彫像のように動かないでいた。

 暫くすると、跫音が乱れながら石畳の通路を近づいて来るらしかった。それは段々反響を加えながら、此の房に戻つて来るらしい。

 

 狭いくぐり扉から床に崩れ込んだ六車は、荒々しく肩であえぎながら、汗で濡れて光る顔をようやく振りむけた。その眼は燃えるような色であった。そして鬼頭の顔を突通すように見た。

「――読んだか?」

 と六車はあえいだ。返事はなかった。が六車は真実を全身で感じ取った。そして鬼頭の低い声がゆっくり落ちて来た。

「自白したのか?」

 六車は子供のように首を振った。そして急に表情を歪めて上半身を起き直った。

「お、おれは、あと三十秒、あ、あの苦痛が続けば、口を割っていた。あ、あと三十秒だった」

 片腕を顔にあてると、六車は虫のように奇妙な声を立てて泣きじゃくり始めた。が、それも一分間経たぬ中に止んだ。六車はへんに乾いた眼で再び鬼頭を見上げていた。涙も涸れて流れ出ないらしかった。

 鬼頭の懐がゆるんで、青い絹紐が半分程だらりと垂れていたのである、六車の灼きつくような視線に気付くと、鬼頭もゆっくり顔をうつむけた。

 紐は淡い光を吸うて不気味にひかった。

 鬼頭はそのまま床にしゃがみ込んでいた。二人の視線がそろって光を求めるように小窓を見上げた。

「――俺もそう思っていたんだ」

 二人はそれぞれ踏台に、お互の背中の事を考えていた。鬼頭は六車の背に、六車は鬼頭の背に、そして青い絹紐を小窓の鉄棒にひっかける。――

 六車はまだ微かにあえぎながら、小窓の灰色を背景に浮出した三本の黒い鉄棒をにらんでいた。頸に始め柔かく、次の瞬間に烈しく食込む絹紐の感触を、ほとんど快よい戦慄と共に空想し始めていた。

 その六車の耳の側で、

「どうやって籤(くじ)をつくるんだ?」

 何か憎しみに満ちた鬼頭の声がした。

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