小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(66) 封建の完成(Ⅳ)
帝國の大部分を含む天領の内にあっては、普通の刑法の執行は、人道的であり、處罰は、普通の人の場合には、多くは其時の事情に依つたと信ずべき充分な理由がある。不要の嚴峻は、高等の武家法度では一の犯罪であつた。此高等の武家法度は、かかる場合、位官には何等の區別をもしなかつた。例へば、百姓一揆の張本人等は死罪に處せられるのであるが、領主の壓制が因をなして一揆を起こすに至らしめた場合、其領主は領地の一半或は全部を奪はれるか、位を落とされるか、或は恐らくは切腹を命ぜられるのである。日本の法律の硏究の結果として、最初此問題に光明を與ヘたヰグモア教授[やぶちゃん注:既出既注。]は、昔の法律適用方の精神に就いて立派な評論を吾人に具へてくれた。氏は、法の執行は近代の意味に於て『個人を認めない』やうな事は決してなかつた事、少くとも一般の人民の爲めには、小犯罪の場合融通の利かない法律は存在して居なかつた事を指摘して居る。法を柱げぬと云ふアングロオ・サクソンの觀念は、偏頗なく火の如き容赦なき司直の觀念である。法を破る者は何人たるを問はず、恰も火中に手を入れる者が苦痛を受けるが如く、正に確實に、其結果を受けなければならないのである。然るに古代の日本の法律の執行に於ては、犯罪の事情、犯人の理解力、教育程度、犯行以前の素行、動機、彼が受け忍んだ苦痛、彼の受けたる憤怒の原因等、あらゆるものを酌量したのである。そして最後の判決は、法律上の制定或は先例によるといふよりも、道德上の常識によつて決せられたのである。友人親族は、犯人の爲めに上告し、彼等の力に及ぶ限りの正直な方法で、彼を助ける事を許された。若し或る者が寃罪を蒙つて、吟味の上その潔白が分かつたならば、彼は溫言を以て慰藉されるのみならず、恐らく實質上の報償を受けるのである、そして、重大な吟味の終りには、奉行【註】は犯罪を罰するのみならず、他方に善行を褒賞するのが例であつたやうである……。一方起訴は役人の方からなるべく止めさせるやうにした。組合の仲裁で落着させるもの、或は妥協を附け得るものは、如何なる事件でも、なるべく法廷に持ち込まぬやうに、及ぶ限り手を盡くした。そして人民は法廷を出來る限り最後の手段としてのみ考へるやうに教へられた。
[やぶちゃん注:以下の注は底本ではポイント落ちで四字下げである。]
註 次に揭げるものは、有名な奉行大岡忠亮が、名高い刑事の吟味をした終りに下したといふ宣告の拔萃である、『武藏屋長兵衞及び後藤半四郞、其方共の行ひは尤も高い賞讃を受ける値がある。その褒美として各〻に銀十兩づつを賜はる……。たみ、其方の兄弟を助けたる事も賞むべき事である、それに對して、其方は金五貫文頂戴出來る。長八の娘こう、其方は兩親に從順なれば、それにつき銀五兩を褒美として遣はされる』……。(デニングの『曩日の日本』“Dening’s Japan in Days of Yore” を見よ)親孝行、勇氣、慈仁等の著しいものに褒美を與へる昔の風は、よし今日法廷で行ふ事は出來ないとしても、地方の政府では行はれて居る。その褒美は僅ではあるが、それが受領者に與へる公の名譽に至つては莫大である。
[やぶちゃん注:「大岡忠亮」西大平藩初代藩主で江戸町奉行・関東地方御用掛・寺社奉行を務めた大岡越前守忠相(ただすけ 延宝五(一六七七)年~ 宝暦元(一七五二)年)。平井呈一氏訳も「忠亮」とするが、彼は正しくは諱が忠義、後に忠相である。
「デニングの『曩日の日本』“Dening’s Japan in Days of Yore”」「曩日」は「なうじつ(のうじつ)」で「先の日・昔」の意。「デニング」はイギリス出身のキリスト教宣教師でジャーナリストのウォルター・デニング(Walter Dening 一八四六年~大正二(一九一三)年)。「英国聖公会宣教協会」に属し、マダガスカルに派遣された後、明治六(一八七三)年に長崎に赴任し、翌年、北海道に渡って函館で初めて伝道活動を行った。平取・札幌で伝道した後、函館に戻ったが、霊魂不滅に異を唱えたため、明治一五(一八八二)年にイギリス本部に呼び戻されて解任された。その後、再来日して東京で語学教師として慶應義塾・東京師範学校・成立学舎・学習院・海軍省等で教え、『ジャパン・ガゼット』紙(Japan Gazette)・『ジャパン・メイル』紙(Japan Mail)。『ジャパン・クロニクル』紙(Japan Chronicle)で報道活動に関わり、『ロンドン・タイムズ』紙(The Times)の通信員も兼ねた。後、明治二五(一八九二)年にオーストラリアに渡って農園を経営したが、三年後の明治二十八年八月には再び日本に戻り、翌九月より仙台市第二高等学校英語科教師となって、仙台に骨を埋めた(以上は主にウィキの「ウォルター・デニング」に拠った)。彼の著作の一つである「Japan in Days of Yore」(「往古の日本」)は明治二〇(一八八七)年から翌年にかけて博聞社から出版された挿絵入りの袋綴本で、古書店「えちご弘文堂」公式サイトのこちらで現物が見られ(売れたら、このページは消えるものと思われるのでご注意あれ)、その解説中に、『明治初期に来日した宣教師デニングは様々な日本人の評伝を残しましたが、その中でこれは江戸時代の武士と町人の歴史的な逸話を英語で紹介したもので、第1巻は「多様な状況における人間性」と題して大岡政談・後藤半四郎美勇伝の話をのせ 第2巻は「傷ついた誇りとその回復」と題して徳川家光とその小姓で後に老中となった阿部忠秋の話が入り、第3〜4巻には「宮本武蔵の生涯」がかなり詳しく紹介されています』。『この本は四つ目綴じの洒落た和本仕立てになっており、挿絵の版画は丁寧な彩色版で湖秀ほかの署名入りが数枚ありますが』、『大半は無署名です』とある。]
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