フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

« 木曽義仲深田入り込み状態 | トップページ | 芥川龍之介 義仲論 藪野直史全注釈 / 二 革 命 軍 »

2019/07/14

芥川龍之介 義仲論 藪野直史全注釈 / 一 平氏政府

 

[やぶちゃん注:本作は明治四三(一九一〇)年二月十日発行の『東京府立第三中學校學友會誌』第十五号に掲載されたものである。当時、芥川龍之介は東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校の第四学年の終わり(当時の旧制中学の修業年限は五年)に当たる。彼は三月一日生まれなので、満十八歳になる直前であるが、執筆は前年の十二月六日以前(龍之介は、当時、この雑誌の編集委員を務めており、この日に編集を終えていることに拠る)であるから、十七歳の若書きである。全三章から成る四百字詰原稿用紙換算で九十枚に及ぶ力作であり、龍之介自身が後に『一番始めに書いて出して見た文章』(「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」大正八(一九一九)年一月発行の『新潮』掲載)と名実ともに作家以前の作として自負する評論である。

 底本は一九七八年岩波書店刊の「芥川龍之介全集」第十二巻を基礎底本とした。但し、加工用データとして「青空文庫」版の新字旧仮名の「義仲論」(入力:j.utiyama氏/校正:かとうかおり氏/一九九九年一月三十日公開/二〇〇四年二月二十六日修正版。但し、そこでは標題が『木曾義仲論』となっている。これは現行の諸資料の「義仲論」という題名と齟齬する。当該電子データは底本が昭和四三(一九六八)年筑摩書房刊の「現代日本文学大系」第四十三巻「芥川龍之介集」を底本(底本の親本の記載なし)としていることに拠るものと思われるが、現在の正規の芥川龍之介の書誌では総て「義仲論」であり、これは甚だ奇怪と言わざるを得ない)を使用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。なお、一九九七年岩波書店刊の「芥川龍之介全集」第二十一巻(底本を私の拠った旧全集とするが、漢字は新字。但し、原稿及び初出及び芥川龍之介旧蔵の同誌(山梨県立文学館蔵)の書入れと校合した結果、三十五箇所の新たな校訂が行われている)によって一部を修正したが(煩雑になるので、一部を除き、その部分を指示はしていない。気持ちの悪い新字旧仮名の新全集を求められよ)、改行等、校訂リストに載らない疑問の箇所もあり、必ずしも総てに無批判に従ってはいない)

字配・ポイント落ち等もなるべく底本の旧全集に合わせてある。段落の冒頭字下げがないはママである。但し、注を附した関係上、見易くするために各段落の後(注がある時はその後)を一行空けた。

 本篇にはルビは全くない。一部難読漢字もあるので、各段落末で(一部、短い読みだけのものは文中に)私の躓いた箇所を中心に若い読者を意識しつつ、注を附した(但し、初出部に注した後に同語が出ても読みは一部の難語附さないのでそこで覚えて頂きいたい)。当初、「ストイックに注した」と書いたのだが、結局、第一章の半ばにあって、何時もの私の悪い癖で、あれもこれもとなって膨大な注になってしまったので書き変えた。但し、人物については知られた人物は概ね(本文との絡みで詳細に注した例外はある)注さないか、生没年のみにした。正直、後の文豪とはいえ、十七歳の若造の文章で判らないというのは自分が情けなくなるという内心がかくさせたものであることを自白しておく。そこでは一部、筑摩書房全集類聚版「芥川龍之介全集」第八巻(昭和四六(一九七一)年刊)の「義仲論」にある注を特に参考にさせて頂いた。但し、この注は既に古くなっており、誤りや誤認と思われる部分も散見される。不遜乍ら、一部ではそれをも指摘しておいた。【二〇一九年月日藪野直史】]

 

 

  義 仲 論

 

        平氏政府

 

  祇園精舍の鐘の聲、諸行無常の響あり。
  沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を現す。
  驕れる者久しからず、唯春の夜の夢の如し。

流石に曠世の驕兒入道相國が、六十余州の春をして、六波羅の朱門に漲らしめたる、平門の榮華も、定命の外に出づべからず。莊園天下に半して子弟殿上に昇るもの六十餘人、平大納言時忠をして、平門にあらずンば人にして人にあらずと、豪語せしめたるは、平氏が空前の成功也。而して平氏自身も亦其成功の爲に仆る[やぶちゃん注:「たふる」。]べき數を擔ひぬ。

[やぶちゃん注:新全集はここで改行していないが、従わない。冒頭の「平家物語」巻首のそれは底本では全文続いていて、全文二字下げ位置で示されているが、ブログ・ブラウザでの不具合を考え、かく改行した。

「曠世」「くわうせい(こうせい)」。世に稀れなこと。希代。

「驕兒」「きやうじ(きょうじ)」。驕(おご)り昂ぶった我儘な人間。

「平大納言時忠」(大治五(一一三〇)年~文治五(一一八九)年)は平時信の子で、清盛の妻時子及び後白河院妃建春門院滋子の兄。応保元(一一六一)年に妹滋子が生んだ憲仁親王(後の高倉天皇)を東宮に立てようと謀ったため、解官(右衛門権佐・右少弁・正五位下)され、出雲に流されたが、永万元(一一六五)年に許され、翌仁安元(一一六六)年に復位し、次第に昇進、同二年、参議正四位下、嘉応元(一一六九)年、権中納言へと昇り、清盛の側近として平氏政権を支える重要な役割を占めた。同年、院と平氏の微妙な対立から、再び流罪となったが、一月余りで召還され、承安元(一一七一)年には建春門院滋子の側近として活躍、寿永二(一一八三)年、権大納言となった。平氏滅亡後は壇ノ浦で源義経の捕虜となり、娘を薦めて身の安全を図ったが、頼朝によって能登に流され、そこで没した。

「平門にあらずンば人にして人にあらず」知られた文々であるが、これは「平家物語」の冒頭から直ぐの「禿童(かぶろ)」に(基本は昭和四七(一九七二)年講談社文庫刊の高橋貞一校注「平家物語(上)」(流布本底本)に拠るが、一部手を加えてある。以下同じ)、

   *

 かくて淸盛公、仁安三年[やぶちゃん注:一一六八年。]十一月十一日、歲五十一にて、病ひに侵され、存命の爲にとて、卽ち出家入道す。法名をば淨海とこそつき給へ。その故にや、宿病たちどころに癒えて、天命を全うす。出家の後も、榮耀(えいえう)は猶ほ盡きずとぞ見えし。おのづから人の從ひつくき奉る事は、吹く風の草木(くさき)をなびかすが如く、世の仰げる事も、降る雨の國土を潤すに同じ。六波羅殿の御一家(ごいつけ)の君達(きんだち)とだにいへば、華族も英雄も、誰(たれ)肩を雙(なら)べ、面(おもて)を向ふ者なし。又、入道相國の小舅(こじうと)、平(へい)大納言時忠の卿の宣ひけるは、「この一門にあらざらむ者は、皆、人非人なるべし」とぞ宣ひける。されば、如何なる人も、この一門に結ぼれんとぞしける。烏帽子のためやうより始めて、衣紋のかき樣に至るまで、何事も六波羅樣(やう)といひてしかば、一天四海の人、皆、これを學ぶ。

   *

とあるのに基づく。なお、ウィキの「平時忠」によれば、時忠は承安四(一一七四)年正月に建春門院の御給(ごきゅう)により従二位に叙せられたが、『平氏の栄華をたたえて「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」(現代語訳した「平家にあらずんば人にあらず」で有名な語)との発言をしたのはこの時期とされる』。『ただし、この「人非人」とは「宮中で栄達できない人」程度の比較的軽い意味だという説が有力である(当時の宮中人全般にとって、宮中人ではない下級武家や庶民が自分たちと同じ「人」ではないことはわざわざ言うもまでない自明の理であった)』とある。

「數」命数。運命。]

 

天下太平は武備機關の制度と兩立せず。生產的發展は爭亂の時代と並存せず。今や平氏の成功は、其武備機關の制度と兩立する能はざる天下太平を齎せり[やぶちゃん注:「もたらせり」。]。天下太平は物質的文明の進步を齎し、物質的文明の進步は富の快樂を齎せり。單に富の快樂を齎せるのみならず、富の渴想を齎せり。單に富の渴想を齎せるのみならず、又實に富の崇拜を齎し來れり。長刀短褐、笑つて死生の間に立てる伊勢平氏の健兒を中心として組織したる社會にして、是に至る、焉ぞ[やぶちゃん注:「いづくんぞ」。]傾倒を來さゞるを得むや。

[やぶちゃん注:「短褐」麻や木綿で作った丈の短い粗末な服。]

 

平氏が藤門の長袖公卿を追ひて一門廟廊に滿つるの成功を恣[やぶちゃん注:「ほしいまま」。]にせるは、唯彼等が剛健なりしを以て也。唯彼等が粗野なりしを以て也。唯彼等が菜根を嚙み得しを以て也。詳に云へば、唯彼等が、東夷西戎の遺風を存ぜしを以て也。彼等は富貴の尊ぶべきを知らず、彼等は官爵の拜すべきを解せず、彼等は唯、馬首一度敵を指せば、死すとも亦退くべからざるを知るのみ。しかも往年の高平太が一躍して太政大臣の印綬を帶ぶるや、彼等は彼等を圍繞[やぶちゃん注:「ゐねう(いにょう)」。]する社會に、黃金の勢力を見、紫綬の勢力を見、王笏の勢力を見たり。彼等は、管絃を奏づる公子を見、詩歌を弄べる王孫を見、長紳を拖ける月卿を見、大冠を頂ける雲客を見たり。約言すれば彼等は始めて富の快樂に接したり。富の快樂は富の渴想となり、富の渴想は忽に富の崇拜となれり。

[やぶちゃん注:「高平太」「たかへいた」平清盛の無位無官の少年時代(十四~十五歳)の「京童」(後出)のつけた蔑称。無粋な繩緒の「高」下駄を履いた「平」家の「太」郎(長男)の謂い。

「王笏」「わうしやく(おうしゃく)」。「笏」は「こつ」と読んでもよい。「笏」は束帯の際に威儀を正すために用いた長さ一尺二寸(約四十センチメートル)の板状のものであるが、ここはそれを持つ天皇以下の高級公家の喩え。

「拖ける」「ひける」。長紳(正装の際に附ける大帯)を後ろに「垂らして引いてゆく」ことを指す。]

 

海賊と波濤とを敵とせる伊勢平氏の子弟にして、是に至る、誰か陶然として醉はざるを得るものぞ。然り、彼等は泥の如くに醉へり。恰も南下漢人を征せる、拓跋魏の健兒等が、其北狄の心情を捨てゝ、悠々たる中原の春光に醉へるが如く、彼等も亦富の快樂に沈醉したり。於是、彼等は其長紳を拖き、其大冠を頂き、其管絃を奏で、其詩歌を弄び、沐猴にして冠するの滑稽を演じつゝ、しかも彼者自身は揚々として天下の春に謳歌したり。

[やぶちゃん注:「伊勢平氏」清盛の五代前の平安中期の武将平維衡(これひら 生没年不詳)が伊勢守となり、伊勢国に地盤を築き、伊勢平氏の祖となり、その子正度(まさのり)らの活動によって確固たる勢力を築いた。

「南下漢人を征せる、拓跋魏の健兒等」南下して侵略してくる漢民族を征討する北魏(三八六年~五三四年)の若武者たち。北魏は南北朝時代に鮮卑族(せんぴぞく:紀元前三世紀から六世紀にかけて中国北部にいた遊牧騎馬民族)の拓跋氏(たくばつし:中国北部からモンゴル高原にかけて勢力を持っていた鮮卑拓跋部の中心氏族。狭義には拓跋鄰の直系で、後に鮮卑を統一して北魏を建国した家系)によって建てられた。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。

「沐猴にして冠する」「もつこう(もっこう) にしてかん(或いは「かむり」)す」で、項羽が都とするのに適した関中の地を去って故郷に帰りたがったのを、ある者が「所詮、猿が衣冠をつけたようなもので、天下をとれる人物ではない」と嘲ったという「史記」の「項羽本紀」の「人言、楚人沐猴而冠耳、果然」に基づく故事成句。外見は立派でも内実がそれに伴わない人物の喩え、或いは、小人物が相応しくない任にあることを喩える。]

 

野猪も飼はるれば痴豚に變ず。嘗て、戟を橫へて、洛陽に源氏の白旄軍を破れる往年の髭男も、一朝にして、紅顏涅齒、徒に巾幗の姿を弄ぶ三月雛となり了ンぬ。一言すれば、彼等は武士たるの實力をすてゝ、武士たるの虛名を擁したりき。武士たるの習練を去りて、武士たるの外見を存したりき。平氏の成功は天下太平を齎し、天下太平は平氏の衰滅を齎す。

[やぶちゃん注:「野猪」基礎底本は「豪猪」(狭義にはヤマアラシ(哺乳綱齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ上科 Hystricomorpha のヤマアラシ科 Hystricidae 及び アメリカヤマアラシ科 Erethizontidae)を指す。強いイノシシの積りで記したものであろう)。芥川龍之介自身の書入れで訂した。

「白旄」「はくばう(はくぼう)」。白毛の旗の総飾(ふさかざ)りで、白旗を旗印とした源氏を指し、その「軍を破れる」で「保元・平治の乱」を謂ったもの。

「涅齒」「でつし(でっし)」。お歯黒。鉄漿(かね)で歯を黒く染めることで、当時の公卿の習慣。

「巾幗」「きんくわく(きんかく)」。本来は女性の髪飾り(一説では女性が喪中に被る頭巾)を指すが、ここは「女性的」の意。]

 

彼等がかくの如く、長夜の惰眠に耽りつゝありしに際し、時勢は駸々として黑潮の如く、革命の氣運に向ひたりき。あらず、精神的革命は、既に冥默の間に成就せられし也。

[やぶちゃん注:「駸駸」「しんしん」。原義は「馬の進みの速いさま」で、転じて「時間・歳月などの早く進みゆくさま」「物事の進行の早いさま」を謂う。]

 

平氏の盛運は、藤原氏の衰運なりき。法性寺關白をして「此世をば我世とぞ思ふ」と揚言せしめたる、藤門往年の豪華は遠く去りて、今や幾多の卿相は、平氏の勃興すると共に、彼等が漸[やぶちゃん注:「やうやく」。]、西風落日の悲運に臨めるを感ぜざる能はざりき。嘗て彼等が夷狄を以て遇したる平氏は、却て彼等を遇するに掌上の傀儡[やぶちゃん注:「くわいらい」。]を以てせむとしたるにあらずや。嘗て彼等が、地下の輩と卑めたる平氏は、却て彼等をして其殘杯冷炙に甘ぜしめむとしたるにあらずや。而して嘗て屢々京童の嘲笑を蒙れる、布衣韋帶の高平太は、却て彼等をして其足下に膝行せしめむとしたるにあらずや。約言すれば、彼等は遂に彼等對平氏の關係が、根柢より覆されたるを、感ぜざる能はざりき。典例と格式とを墨守して、悠々たる桃源洞裡の逸眠を貪れる彼等公卿にして、かゝる痛烈なる打擊の其政治的生命の上に加へられたるを見る、焉ぞ多大の反感を抱かざるを得むや。然り、彼等は平氏に對して、はた入道相國に對して、漸くに抑ふべからざる反感を抱くに至れり。彼等は秩序的手腕ある大政治家としての入道相國を知らず。唯、鎌倉時代の遊行詩人たる琵琶法師をして、「傳へ承るこそ、言葉も心も及ばれね」と、驚歎せしめたる、直情徑行の驕兒としての入道相國を見たり。權勢攝籙の家を凌ぎ、一門悉、靑紫に列るの橫暴を恣にせる平氏の中心的人物としての入道相國を見たり。狂悖暴戾、餘りに其家門の榮達を圖るに急にして彼等が莊園を奪つて毫も意とせざりし、より大膽なるシーザーとしての入道相國を見たり。是豈彼等の能く忍ぶ所ならむや。

[やぶちゃん注:「法性寺關白」「ほつしやうじかんぱく(ほっしょうじかんぱく)」。平安後期の公卿藤原忠通(承徳元(一〇九七)年~長寛二(一一六四)年)のこと。忠実の長男で摂政・関白。美福門院と結んで父及び弟頼長と対立し、「保元の乱」の起因を作った。但し、ウィキの「藤原忠通」によれば、本来、『対抗勢力である鳥羽法皇や平氏等の院政勢力と巧みに結びつき、保元の乱に続く、平治の乱でも実質的な権力者・信西とは対照的に生き延び、彼の直系子孫のみが五摂家として原則的に明治維新まで摂政・関白職を独占する事となった』とある。

「此世をば我世とぞ思ふ」「法性寺關白をして」は誤り。筑摩書房全集類聚版「芥川龍之介全集」の注によれば、『この歌は忠通ではなく、法性寺摂政、御堂関白と称した』遙か前の、かの『藤原道長の作である』。「小右記』(しょうゆうき)『」寛仁二』(一〇一八)年『十月十六日の条』や「大日本史」に出ている』とある。この時、道長の娘威子(いし/たけこ)が後一条天皇の中宮となり、その立后の儀の後、道長の自宅で酒宴が開かれた際に詠んだもので、一首は、

 この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば

である。この誤認は芥川龍之介にして、ちと、痛い。

「殘杯冷炙」「ざんぱいれいしや(れいしゃ)」。そっけない扱いをされ、辱めをうけること。 「殘杯」は「他の人が口をつけて残した酒」、「冷炙」は「焼いたあと時間が経って冷めてしまった肉」の意。

「布衣韋帶」「ふいゐたい」。無位無官の貧しく身分の低い人を指す。「布衣」は「粗末な木綿の布で作った衣服」、「韋帶」は野蛮な「鞣(なめ)し革で出来た帯」のこと。「漢書」の「賈山伝」による故事成句。

「傳へ承るこそ、言葉も心も及ばれね」「平家物語」巻頭の「祇園精舍」の中間部の一節。

「攝籙」「せつろく」。「籙」は「符」の意。天子に代わって籙を摂(と)るの意から、摂政関白のことを指す。

「狂悖暴戾」「きやうはいぼうれい(きょうはいぼうれい)」と読む。「狂悖」は「非常識で不道徳な言動をすること」、「暴戾」は「荒々しく、道理に反する行いをすること」。]

 

彼等が平氏に對して燃ゆるが如き反感を抱き、平氏政府を寸斷すべき、危險なる反抗的精神をして、霧の如く當時の宮廷に漲らしめたる、寧ろ當然の事となさざるを得ず。かくの如くにして革命の熱血は沸々として、幾多長袖のカシアスが脈管に潮し來れり。是平氏が其運命の分水嶺より、步一步を衰亡に向つて下せるものにあらずや。しかも平氏は獨り、公卿の反抗を招きたるのみならず、王荊公に髣髴たる學究的政治家、信西入道が、袞龍の御衣に隱れたる黑衣の宰相として、屢謀を帷幄の中にめぐらしゝより以來、寒微の出を以て朝榮を誇としたる院の近臣も亦、平氏に對する恐るべき勁敵なりき。彼等は素より所謂北面の下﨟にすぎずと雖も、猶龍顏に咫尺して、日月の恩光に浴し、一旦簡拔を辱うすれば、下北面より上北面に移り、上北面より殿上に進み、遂には親しく、廟堂の大權をも左右するに至る。かくの如き北面の位置が、自ら大膽にして、しかも、野心ある才人を糾合したるは、蓋又自然の數也。而して此梁山泊に集れる十の智多星、百の霹靂火が平氏の跋扈[やぶちゃん注:「ばつこ(ばっこ)」。]を憎み、入道相國の專橫を怒り、手に唾して一擧、紅幟の賊を仆さむと試みたる、亦彼等が位置に、頗る似合たる事と云はざるべからず。しかも彼等は近く、平治亂に於て、源左馬頭の梟雄を以てするも、猶彼等の前には、敗滅の恥を蒙らざる可からざるを見たり。七世刀戟の業を繼げる、源氏の長者を以てするも、亦斯くの如し。平門の小冠者を誅するは目前にありとは、彼等が、竊に恃める所なりき。名義上の勢力に於ても、外戚たる平氏に劣らず、事實上の勢力に於ても莊園三十余州に及ぶ平氏に多く遜らざる彼等にして、かくの如き自信を有す。彼等が成功を萬一に僥倖して、劍を按じて革命の風雲を飛ばさむと試みたる、元より是、必然の事のみ。試に思へ、西光法師が、平氏追討の流言あるを聞いて、白眼瞋聲、「天に口なし人を以て云はしむるのみ」と慷慨したる當時の意氣を。傍若無人、眼中殆んど平氏なし。彼は院の近臣の心事を、最も赤裸々に道破せるものにあらずや。

[やぶちゃん注:「カシアス」共和政ローマ末期の軍人政治家ガイウス・カッシウス・ロンギヌス(ラテン語:Gaius Cassius Longinus 紀元前八七年又は紀元前八六年頃~紀元前四二年)。所謂、シーザー、ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar 紀元前一〇〇年~紀元前四四年)を暗殺した首謀者の一人。

「潮し來れり」「てうしきたれり(ちょうしきたれり)」表面に表わし来った。

「王荊公」宋の政治家にして詩人・文章家の唐宋八大家の一人王安石(一〇二一年~一〇八六年)の尊称。儒教史上に於いて新学「荊公新学」の創始者であることに因む。

「信西」(しんぜい 嘉承元(一一〇六)年~平治元(一一六〇)年)は藤原南家貞嗣流の公家で学者・僧侶。信西は出家後の法名で、号は円空、俗名は藤原通憲(みちのり)又は姓を高階とも。正五位下・少納言。中世国家の国制を固めた人物。父(大江匡房の「江談抄」の筆録をした藤原実兼)が早く亡くなったため、受領の高階経敏の養子となって世に出た。苦労して幾多の学問を修め、やがて政治への意欲を深めたが、鳥羽上皇・待賢門院の判官代から日向守になった段階で出世の壁に突き当たり、そこで出家を望んで藤原姓に戻って少納言を最後として出家したが、逆にその身軽な立場を利用して政治の中枢へと踏み込んだ。法体(ほったい)の鳥羽法皇に接近を図り、妻の紀伊(藤原朝子)が後白河天皇の乳母となっていたことから、自身は乳父となってその皇位継承を求めた。近衛天皇が亡くなり、次の天皇が問題になった際、鳥羽法皇の寵妃美福門院が養子の守仁親王(後白河天皇の実子。後の二条天皇)を推したのに対し、摂関家の藤原忠通と謀り、父を差しおいて子が帝位につくのは不当と訴え、遂に後白河の即位を実現させた。だが、崇徳上皇の勢力もあり、皇位も間もなく譲らなければならない約束が美福門院との間にあったことから、ここで彼が政治的敏腕を発揮することとなった。 保元元(一一五六)年七月に鳥羽法皇が亡くなると、それを機会に源氏・平氏の武士を動員して、崇徳上皇と藤原頼長の勢力を破り(保元の乱)、長い年月停止されていた死刑を復活して(弘仁九(八一八)年の嵯峨天皇の「弘仁格」の発布以来、三百三十八年間もの間、本邦では公的な死刑は一切行われていない)、武士を斬首し、頼長の所領などを没収して天皇直轄領の後院領とすることで、少ない荘園所領から出発した天皇の経済的な基盤の拡充に努め、後白河天皇の立場を不動のものとし、「九州の地は一人の有(も)つところなり、王命の外、何ぞ私威を施さん」と、王権による日本国の支配を高らかに宣言して保元の新制を定めた。それに沿って記録所を置いて荘園を整理し、悪僧・神人(じにん)の濫行を取り締まり、京都の整備や大内裏の再興を果たすなど、天皇の支配権の下に新たな体制を実行に移した。古い行事や公事の復興にも努め、内宴を復活するなど、芸能も再興した。ここに中世国家の基本的な枠組みは整った。しかし、「保元の乱」後、数年にして政敵に倒される。美福門院が守仁親王の即位を求めてきて後白河が退位したのがその始まりで、やがて上皇になった後白河が院近臣の藤原信頼を寵愛したことを、中国の玄宗の長恨歌を絵巻にして諫めたものの、逆に信西によって近衛の大将の望みを拒否されて恨んでいた信頼の謀反によって「平治の乱」が引き起こされてしまう。信西は大和をへ逃げようとしたが、途中で発見され、自死に追い込まれた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「袞龍の御衣」「こんりゆうのぎよい」。天子の龍の縫い取りを飾った礼服。

「帷幄」「ゐあく」。謀り事をめぐらす本営。参謀本部。

「寒微の出」出自が貧しく身分が賤しいこと。

「勁敵」「けいてき」。強敵。

「咫尺」「しせき」。「咫」は周代の長さの単位で八寸(当時の一寸は二・二五センチメートルしかないので、十八センチメートル)、「尺」は十寸(二十二・五センチメートル)で「距離が非常に近いこと」から転じて、「貴人の前近くに出て拝謁すること」を謂う。ここは前の天子の顔を意味する「龍顏」があるから、まさに後者。

「簡拔を辱うすれば」「かんばつをかたじけのうすれば」。畏れ多くも特に選び出して登用戴いてからというものは。

「糾合」「きうがふ(きゅうごう)」。「糾」は「縄を縒(よ)り合せる」の意で、ある目的の下に人々を寄せ集めて一つに纏めること。

「自然の數」当然の成り行き。

「智多星」「水滸伝」中の呉用の綽名。ウィキの「呉用」によれば、『天機星』(星辰学の南斗六星(射手座の一部)第三星。知恵・精神・理想・認識・計画性・温厚などを属性とする)『の生まれ変わりで、序列は梁山泊第三位の好漢』。『天下に並びない智謀の持ち主で、軍師として神算鬼謀の限りを尽くした。しかし』「三国志演義」の臥龍諸葛亮孔明(一八一年~二三四年:後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家で軍師)の『ような神懸り的な人物ではなく、失敗もすれば』、『冗談も飛ばす人間的な人物である。戦略や謀略の才には長けているが、実践の戦術や兵法に関する造詣は次席の軍師・朱武に多少』、『劣る。また、鎖分銅の使い手でもある』とある。

「霹靂火」(へきれきくわ)は「水滸伝」中の秦明(しんめい)の綽名。ウィキの「秦明」によれば、『天猛星』(天罡(てんこう)星(北斗星)三十六の一つ)『の生まれ変わりで、序列は梁山泊第七位の好漢。渾名は霹靂火で、非常に短気で剛直な性分と、大変大きな怒鳴り声を稲妻に例えたもの』。『狼牙棒という六尺余りの鉄棒の先にサボテン状の多数の棘のある重りが付いた、敵を兜や鎧ごと叩き潰す武器を得意とする。剛直で短気な絵に描いたような猛将で、戦場ではその武勇と勇猛さで大いに活躍するが、その性格が災いして不覚を取ることも多い』とある。

「紅幟の賊」「こうしきのぞく」。赤旗に象徴される平氏を指す。

「源左馬頭」「みなもとのさまのかみ」。当代の源氏(河内源氏)の統領源義朝(保安四(一一二三)年~平治二(一一六〇)年)。

「梟雄」「けうゆう(きょうゆう)」。残忍で強く荒々しいこと。通常は主として悪者などの首領に言うが、ここはフラットな勇猛果敢な武士の統領の謂い。

「七世刀戟の業」「ななせいたうげきのげふ(たたせいとうげきのぎょう)」源氏の正統な濫觴とされる平安中期の六孫王経基の嫡男で多田源氏の祖である多田(源)満仲(延喜一二(九一二)年?~長徳三(九九七)年)から数えて義朝まで、七代に亙って武将の家柄であったことを指す。源満仲の三男源頼信(安和元(九六八)年~永承三(一〇四八)年)が河内国石川郡壺井を本拠地として河内源氏の祖となり、義朝はその嫡流六代後が義朝である。

「遜らざる」「おとらざる」。「劣らざる」。

「西光法師」(?~治承元(一一七七)年)は廷臣にして僧。俗名は藤原師光。もとは阿波国の在庁官人であったという。藤原家成の養子で藤原信西の乳母子。内舎人・滝口・院北面・左衛門尉。「平治の乱」に敗れた信西の死に際し、出家して西光と称した。出家後も院の倉預を勤め、後白河法皇第一の近臣と称された。治承元(一一七七)年、「鹿ケ谷の謀議」が発覚、六月一日、平清盛に捕らえら、法皇及び藤原成親ら近臣との謀議を白状し、その夜、斬首された。「平家物語」では西光の最期について「もとよりすぐれたる大剛の者」と評して、清盛と対決し、その経歴を罵倒する様子を描いている(ここは「朝日日本歴史人物事典」を参照した)。

「僥倖」「げうかう(ぎょうこう)」。思いがけない幸い。偶然に得た幸運。

「瞋聲」「しんせい」。激しい怒りの声。

「天に口なし人を以て云はしむるのみ」「天に口無し、人を以つて言はしむ」の句形で知られる。「天には口がないので何も語らぬけれども、その意思は人々の口を通して告げられるものである」の意。その故事成句の出典は未詳であるが、ここは「平家物語」巻第一の「淸水炎上(きよみづえんしやう)」(叡山延暦寺の僧兵達が対抗勢力であった奈良興福寺の末寺であった清水寺を焼き討ちした事件の下り)の一節の西光の台詞に拠る。流布本を参考に前後を示す。

   *

 淸水寺(せいすいじ)やけたりける朝(あした)、

『觀音火坑變成池(くわんおんくわけうへんじやうち)は如何に』

と札(ふだ)を書きて、大門(だいもん)の前にたてたりければ、次の日、又、

『歷劫(りやくこふ)不思議力(ちから)及ばず』

と、かへしの札をぞ打つたりける。

 衆徒(しゆと)歸り上(のぼ)りにければ、一院[やぶちゃん注:後白河上皇。]、六波羅より還御なる。重盛卿(しげもりのきやう)ばかりぞ御送りには參られける。父の卿は參られず。猶ほ用心の爲めかとぞ見えし。

 重盛卿御送りより歸られたりければ、父の大納言、宣ひけるは、

「一院の御幸こそ大きに恐れ覺ゆれ。かけても思し召しより仰せらるる旨のあればこそ、かうは聞ゆらめ。それにも猶打ち解け給ふまじ[やぶちゃん注:そなたもゆめゆめ心を許し申し上げてはならぬぞ。]。」

とのたまへば、重盛卿、申されけるは、

「この事、ゆめゆめ、御氣色(おんけしき)にも、御詞にも出ださせ給ふべからず。人に心つけ顏に、なかなか、惡しき御事なり。これにつけても、叡慮に背き給はで、人の爲めに御情(おんなさけ)をほどこさせましまさば、神明三寶(しんめいさんぼう)、加護(かご)あるべし。さらんに取つては、御身の恐れ候ふまじ[やぶちゃん注:そのように致せば、父上の御不安も生じますまい。]。」

とて、立たれければ、

「重盛卿はゆゆしく大樣(おほやう)なるものかな。」

とぞ、父の卿も宣ひける。

 一院、還御の後、御前に疎(うと)からぬ近習者達(きんじゆしやたち)、數多(あまた)候はれけるに、

「さても、不思議の事を申し出だしたるものかな。つゆも思し召しよらぬものを[やぶちゃん注:自敬表現。]。」

と仰せければ、院中(ゐんぢう)の切者(きりもの)[やぶちゃん注:切れ者。]に西光法師といふ者あり。折節、御前(ごぜん)近う候ひけるが、

「『天に口なし、人(にん)を以つて云はせよ』と申す。平家、以つての外に過分に候ふ間、天の御計(おんぱか)らひにや。」

とぞ申しける。人々、

「この事、よしなし。壁に耳あり。恐ろし恐ろし。」

とぞ、各(おのおの)私語(ささや)きあはれける。

   *

少し注する。

・札の落書「觀音火坑變成池は如何に」というのは、『「法華経普門品」には「観音の功徳は業火を吹き出す火の穴をも清浄な池に変ずる」とあるのにこの有様はどういうことなんや?』という揶揄で、返しの「歷劫不思議力及ばず」は表向きは『観音力(かんのんりき)の不可思議なることは深遠にして測り難きものしにして人知の及ぶところではない』の意であるが、しかしこれは前の落書を受けたもので、『観音力やら不思議やらもちいとも力が及ばなんだということやて』の含みであると私は読む。

・「大樣」は器量が大きいこと。

・後白河上皇の「さても、不思議の事を申し出だしたるものかな。つゆも思し召しよらぬものを」というのは、この「淸水炎上」の前の方で、『何者の申し出だしたりけるやらん、「一院、山門の大衆(だいしゆ)に仰せて、平家を追討せらるべし」と聞えしかば』とい流言飛語を指す。]

 

しかも、彼等の密邇し奉れる後白河法皇は、入道信西をして、「反臣側[やぶちゃん注:「かたはら」。]にあるをも知ろしめさず。そを申す者あるも、毫も意とし給はざる程の君也」と評せしめたる、極めて敢爲の御氣象に富み給へる、同時に又、極めて術數を好み給ふ君主に、おはしましき。かくの如き法皇にして、かくの如き院の近臣に接し給ふ、欝勃たる反平氏の空氣が、遂に恐るべき陰謀を生み出したる、亦怪むに足らざる也。此時に於て、隱忍、輕悍、驕妬の謀主、新大納言藤原成親が、治承元年山門の爭亂に乘じ、名を後白河法皇の院宣に藉り、院の嬖臣を率ゐて、平賊を誅せむとしたるが如き、其消息の一端を洩したるものなりと云はざるべからず。小松内大臣が「富貴の家祿、一門の官位重疊せり。猶再實る木は其根、必傷るゝとも申しき。心細くこそ候へ」と、入道相國を切諫したる、素より宜[やぶちゃん注:「むべ」。]なり。若し夫[やぶちゃん注:「それ」。]、唯機會だにあらしめば、弓をひいて平氏政府に反かむとするもの、豈獨り、院の近臣に止らむや。一葉落ちて天下の秋を知る。平治の亂以來、茲に[やぶちゃん注:「ここに」。]十八星霜、平氏は此陰謀に於て、始めて其存在の價値を問はむとするものに遭遇したり。是、壽永元曆の革命が、漸くに其光茫を現さむとするを徵するものにあらずや。

[やぶちゃん注:「密邇」「みつじ」。間近く接すること。

「反臣側にあるをも知ろしめさず。そを申す者あるも、毫も意とし給はざる程の君也」筑摩書房全集類聚版注には、九条兼実(記載当時は右大臣・内覧)の日記『「玉葉」寿永三年』(一一八四)『三月十六日、大外記』清原頼業(よりなり 保安三(一一二二)年~文治五(一一八九)年)『から聞いたこととして載せる』(これは過去の故信西の話を記載したもの。この年の七月二十五日には平家は都落ちしている)が、或いはこれは『他にも出典があるか』とある。

「敢爲」「かんゐ」。困難に屈することなく物事をやり通すこと。敢行。

「輕悍」「けいかん」。動きが素早く、気性が荒いこと。

「驕妬」「けうと(きょうと)」。嫉み深く、我儘なこと。

「藤原成親」藤原成親(なりちか 保延四(一一三八)年~安元三(一一七七)年)。当時は正二位・権大納言。「鹿ヶ谷の謀議」で西光の自白により安元三年六月一日に拘束され、一旦は助命されて備前国に配流されたが、食物を与えられずに崖から突き落とされて殺害された。

「治承元年」一一七七年。

「山門の爭亂」「白山(はくさん)事件」のこと。筑摩書房全集類聚版注に、『治承元年』『五月、西光父子』(西光の子には藤原師高・師経・師平・広長らがいる)『の讒言により天台座主明雲』(みょううん 永久三(一一一五)年~寿永二(一一八四)年:後の「平家都落ち」には同行せず、延暦寺に留まったが、翌寿永二(一一八三)年に源義仲が後白河法皇を襲撃した「法住寺合戦」の際、義仲四天王(他に今井兼平・樋口兼光・根井光親)の一人楯親忠(たてのちかただ)の放った矢に当たって落馬し、親忠の郎党に斬首された。義仲は差し出された明雲の首を「そんなものが何だ」と言って西洞院川に投げ捨てたという。在任中の天台座主が殺害されたのは明雲が最初であった。ここはウィキの「明雲」に拠った)『が伊豆へ流されようとしたのを、山門(比叡山延暦寺)の僧たちが取り返した』騒擾事件。これが『後白河法皇と山門の対立となった』とある。

「嬖臣」「へいしん」。お気に入りの近臣。

「小松内大臣」平重盛。

「富貴の家祿、一門の官位重疊せり。猶再實る木は其根、必傷るゝとも申しき。心細くこそ候へ」「平家物語」巻之二の「烽火之沙汰」の冒頭の、重盛が、後白河法皇を幽閉しようと計画する入道を袖を濡らしながら説得し続けるシークエンスの重盛の言葉の一節。

   *

「是れは君(きみ)の御理(おんことはり)にて候へば、叶はざらむまでも、院中(ゐんぢう)を守護し參らせ候ふべし。其の故は、重盛、敍爵より、今、大臣の大將(だいしやう)に至るまで、しかしながら[やぶちゃん注:総て。]君の御恩ならずと云ふ事なし。この恩の重(おも)き事を思へば、千顆萬顆(せんくわばんくわ)の玉(たま)にも越え、其の恩の深き色を案ずるに、一入再入(いちじふさいじふ)の紅(くれなゐ)[やぶちゃん注:二度も濃く染め上げた紅色。]にも猶ほ過ぎたらん。然(しか)らば、院中へ參り籠り候ふべし。其の儀にて候はば、重盛が身に代り、命(いのち)に代らんと契りたる侍(さぶらひ)ども、少々、候ふらん。これらを召し具して、院の御所法住寺殿(ほふぢうじどの)を守護し參らせ候はば、さすが以つての外の御大事(おんだいじ)でこそ候はんずらめ。悲しきかな、君の御爲めに奉公の忠を致さんとすれば、迷盧(めいろ)八萬の頂きより猶ほ高き父の恩、忽ちに忘れんとす。痛ましきかな、不孝の罪を遁れんとすれば、君の御爲めには既に不忠の逆臣となりぬべし。進退(しんだい)、惟れ、窮まれり、是非いかにも辨へ難し。申し請くるの所詮は[やぶちゃん注:詰るところは。]、ただ重盛が頸を召され候へ。その故は、院參(ゐんざん)の御供(おんとも)をも仕るべからず。かの蕭何(せうが)は、大功、かたへに越えたるに依つて、官、大相國(たいしやうこく)に至り、劍(けん)を帶し、沓(くつ)を履きながら殿上にのぼる事を許されしかども、叡慮に背く事ありしかば、高祖、重う警(いまし)めて、深う罪せられにき。かやうの先蹤(せんじよう)を思へば、冨貴と云ひ、榮華といひ、朝恩と申し、重職(ちようじよく)と云ひ、かたがた、極めさせ給ひぬれば、御運(ごうん)の盡きんこと、難かるべきにあらず。冨貴の家には、祿位、重疊(ちようでふ)せり。再び實(み)なる木は、其の根、必ず傷(いた)むと見えて候ふ。心細うこそ候へ。いつまでか命生きて、亂れん世をも見候ふべき。只だ末代に生(しやう)を受けて、かかる憂き目に逢ひ候ふ重盛が果報の程こそ、つたなう候へ。ただ今、侍(さぶらひ)一人(いちにん)に仰せ付けて、御坪(おんつぼ)[やぶちゃん注:院御所の御内庭。]のうちに引き出だされて、重盛が首(かうべ)の刎(は)ねられん事は、易い程の御事でこそ候へ。是れを、各(おのおの)聞き給へ。」

とて、直衣(なほし)の袖も絞る許りにかき口說き、さめざめと泣き給へば、その座に並み居給へる平家一門の人々、皆、袖をぞ濡らされける。

   *

少し注しておく。

・「迷盧(めいろ)八萬の頂き」「迷盧」は世界の中央に聳えるとする須弥山(しゅみせん)のこと。八万由旬(「倶舎論」などでは一由旬を約七キロメートルとするから、それで換算すると五十六万キロメートルになる)ある須弥山の頂上。梵語「スメール」の漢音写「蘇迷盧(そめいろ)」の略。

・「蕭何」(しょうか ?~紀元前一九三年)は秦末から前漢初期にかけての政治家で劉邦(後の後に出る漢の「高祖」)の天下統一を支えた三傑の一人。ウィキの「蕭何」によれば、漢の成立後、疑い深い劉邦も当初、『蕭何だけは信用していたため』、『功績により、臣下としては最高位の相国に任命され』た。『しかし』次第に『劉邦は蕭何にも疑惑の目を向け始めた。これについては楚漢戦争の頃からその傾向があったため、蕭何もそれを察し、戦争に参加出来る身内を全員戦場へ送りだし財産を国に差し出したりして、謀反の気が全く無いことを示していた。しかし、劉邦は皇帝となってからは猜疑心が強くなり、また韓信を始めとする元勲達が相次いで反乱を起こしたことで、蕭何に対しても疑いの目を向けたのであ』った。『長年にわたって関中を守り、民衆からの信望が厚く、その気になればいとも簡単に関中を掌握できることも、危険視される要因』と『なった』。そこで『蕭何は部下の助言を容れて、わざと悪政を行って(田畑を買い漁り、汚く金儲けをした)自らの評判を落としたり、財産を国庫に寄付することで、一時期』、『投獄されることはあったものの、何とか粛清を逃れることに成功した』(この辺りのことを重盛は言っているようである)。『劉邦の死の』二『年後、蕭何も後を追うように亡くなり、文終侯と諡されて、子の哀侯蕭禄が後を継いだ。蕭何の家系は何度も断絶しているが、すぐに皇帝の命令で見つけ出された子孫が侯を継いでいる』とある。

「一葉落ちて天下の秋を知る」「落葉が早い青桐(あおぎり)の葉が一枚落ちるのを見て秋の来たことを知る」の意から転じて、「僅かな前触れから将来の大きな動きを予知することが可能である」ことの喩え。「淮南子」の「説山訓」の「見一葉落、而知歲之將暮」(一葉(いちえふ)の落つるを見て、歳(とし)の將に暮れなんとするを知る」に基づく。

「壽永元曆の革命」ここは狭義に、栄華を誇った平家が滅亡に至った「治承・寿永の乱」の最後の戦いである元暦二/寿永四年三月二十四日(一一八五年四月二十五日)の中の「壇ノ浦の戦い」を指すと考えてよい。この二年前の寿永二年八月二十日、安徳の後を神鏡剣璽がないままに後鳥羽天皇が即位してしまい、「元暦」と改元された。この芥川龍之介の謂いは、平氏の側がこの改元を認めず、それまでの「寿永」の元号をその滅亡まで使い続けたことに拠る。]

 

かくの如くにして、平氏政府は、浮島の如く、其根柢より動搖し來れり。然れ共、吾人は更に恐るべき一勢力が、平氏に對して終始、反抗的態度を、渝へ[やぶちゃん注:「かへ」。]ざりしを忘るべからず。

[やぶちゃん注:「根柢」底本は「根底」であるが、ここは新全集に拠った。筑摩書房全集類聚版も「根柢」である。

「吾人」「ごじん」。一人称人代名詞。「私(わたくし)」、或いは一人称複数の人代名詞。「我々」。ここは後者。芥川龍之介は本作で何度も用いているが、中には前者の意味でも使用している。]

 

更に恐るべき一勢力とは何ぞや。曰く南都北嶺の僧兵也。僧兵なりとて妄に[やぶちゃん注:「みだりに」。]笑ふこと勿れ。時代と相容るゝ能はざる幾多、不覊不絆の快男兒が、超世の奇才を抱いて空しく三尺の蒿下に槁死することを得ず。遂に南都北嶺の緇衣軍に投じて、僅にその幽憤をやらむとしたる、彼等の心事豈[やぶちゃん注:「あに」。]憫む可からざらむや。請ふ再吾人をして、彼等不平の徒を生ぜしめたる、當時の社會狀態を察せしめよ。

[やぶちゃん注:「南都北嶺」強大な寺社勢力の内、特に強力であった奈良興福寺と比叡山延暦寺のことを指す。

「不覊不絆」「ふきふはん」。物事に束縛されることなく、行動が自由気儘であること。

「蒿下に槁死する」「こうかにかうし(こうし)する」。草の蓬(よもぎ)の下に枯れて死ぬ。

「緇衣軍」「しいぐん・しえぐん」「緇衣」は僧が着る墨染めの法衣を指し、転じて僧を意味する。ここはこの三字で僧兵のこと。]

 

平和の時代に於ける、唯一の衞生法は、すべてのものに向つて、自由競爭を與ふるにあり。而して霸權一度、相門を去るや、平氏が空前の成功は、平家幾十の紈袴子をして、富の快樂に沈醉せしむると同時に、又藤原氏六百年の太平の齎せる、門閥の流弊をも、蹈襲せしめたり。是に於て平氏政府は、其最も危險なる平和の時代に於て、新しき活動と刺戟とを鼓吹すべき、自由競爭と、完く兩立する能はざるアンチポヂスに立つに至りぬ。かくの如くにして社會の最も健全なる部分が、漸に平氏政府の外に集りたる、幾多の智勇辨力の徒が既に、平氏政府の敵となれる、而して平氏政府に於ける、位爵と實力とが將に反比例せむとするの滑稽を生じたる、亦宜ならずとせむや。此時にして、高材逸足の士、其手腕を振はむとする、明君の知己に遇ふ、或は可也。賢相の知遇を蒙る、亦或は可也。然れ共、若し遇ふ能はずンば、彼等は千里の駿足を以て、彼等の轗軻に泣き、彼等の不遇に歎じ、拘文死法の中に宛轉しつゝ、空しく槽櫪の下に朽死せざる可からず。夫、呑舟の大魚は小流に遊ばず。「男兒志願是功名」の壯志を負へる彼等にして無意義なる繩墨の下に其自由の餘地を束縛せられむとす。是豈彼等の堪ふる所ならむや。是に於て、彼等の或者が、「衆人皆醉我獨醒」を哂ひて佯狂の酒徒となれるが如き、彼等の或者が麥秀の悲歌を哀吟して風月三昧の詩僧となれるが如き、はた、彼等の或者が、滿腔の壯心と痛恨とを抱き去つて南都北嶺の圓頂賊に投ぜしが如き、素より亦怪しむに足らざる也。加ふるに彼等僧兵の群中には幾多、市井の惡少あり、幾多山林の狡賊あり、而して後年明朝の詩人をして「橫飛双刀亂使箭、城邊野艸人血塗」と歌はしめたる、幾多、慓悍なる日本沿海の海賊あり。是等の豪猾が、所謂堂衆なる名の下に、白晝劍戟を橫へて天下に橫行したる、彼等の勢力にして恐るべきや知るべきのみ。想ひ見よ、幾千の山法師が、日吉權現の神輿を擁して、大法鼓をならし、大法螺を吹き、大法幢を飜し、咄々として、禁闕にせまれるの時、堂々たる卿相の肝膽屢是が爲に寒かりしを。狂暴狼藉眼中殆ど王法なし。彼等が橫逆の前には白河天皇の英明を以てするも、「天下朕の意の如くならざるものは、山法師と双六の采と鴨川の水とのみ」と浩歎[やぶちゃん注:「かうたん(こうたん)」。]し給はざるを得ざりしにあらずや。

[やぶちゃん注:「相門」「さうもん(そうもん)」。大臣の家柄。ここは藤原氏を指す。

「紈袴子」「ぐわんこし(がんこし)」。「紈袴」は白練りの絹で仕立てた袴のことで、昔、中国で貴族の子弟が着用したことから、転じて「紈袴子」で「貴族の子弟」、特にその「柔弱な者」を指す。

「アンチポヂス」antipodes。対蹠(たいせき)地。「地球上で正反対の側にある二つの地点」「正反対の対象」の意。ギリシャ語で「~と正反対のところに足の位置する」「反対の足」の意が語源。英語の場合のカタカナ音写は「アンティパディーズ」が近いが、語源のそれからは「アンティポデス」で芥川龍之介の音写はそれに拠る。

「轗軻」「かんか」。「車が思うように進まないこと」の意から転じて、「世間に認められないこと・志を得ないこと」の意。

「拘文死法」役に立たぬ規則や法律。

「槽櫪」「さうれき(そうれき)」馬の飼い葉桶。或いは馬小屋。

「男兒志願是功名」「男兒の志願、是れ、功名のみ」か。筑摩書房全集類聚版は『出典未詳』とし、少しばかり調べてみたが、ぴったりと一致するものは見当たらなかった。

「繩墨」「じようぼく(じょうぼく)」法律・規則。原義は文字通りの「墨縄(すみなわ)」で、木材に真っ直ぐな線を引くために用いる墨壺に巻き込まれてある糸のこと。

「呑舟の大魚は小流に遊ばず」「舟を丸呑みするほどの大魚は、小さな川には棲まない」で、「大人物はつまらない者と交わったりはしないこと」「高遠な志を抱く者は小事には関わらないこと」の喩え。「列子」の「楊朱」の「呑舟之魚不游支流」(呑舟の魚は支流に游(およ)がず)に拠る。

「衆人皆醉我獨醒」筑摩書房全集類聚版は『出典未詳』とするが、これは解せない。高校の漢文の定番である「楚辞」の「漁父辞」の一節、

 衆人皆醉

 我獨醒

  衆人 皆 醉ひ

  我れ獨り 醒めたり

だぜ? 普通の高校生なら誰でも知ってるはずだけどな?

「佯狂」「やうきゃう(ようきょう)」。偽って狂気を装うこと。

「麥秀の悲歌」「史記」の「宋微子世家」で知られる「麦秀の嘆」のこと。「秀」は麦の穂が伸びるさまを指す。国が滅亡したことを嘆くことを指す。殷の紂王の暴虐を諌めた賢臣の箕子(きし)が、殷の滅んだ後、旧都の跡を通りかかったが、栄華の面影もなく、一面に麦の穂が伸びているのを見て、

 麥秀漸漸兮

 禾黍油油

 彼狡僮兮

 不與我好兮

  麥 秀でて 漸漸たり

  禾黍(かしよ) 油油(ゆゆ)たり

  彼(か)の狡僮(かうどう)

  我と好からざりき

と詠って嘆息したという故事に基づく。「漸漸」麦の穂の麦の秀でるさま。「兮」(音「ケイ」)は語調を整える助辞。「禾黍」稲や黍(きび)。「油油」潤いを以って艶やかに生えているさま。「狡僮」悪餓鬼。狡賢(ずるがしこ)い奴。紂王を指す。「不與我好」は「私とは折りが合わなかったな」の意。その彼が国とともに滅んだ感慨を強く含む。なお、ウィキの「箕子」によれば、武王が殷を倒して周を建国したが、武王は箕子を崇めて家臣とせずに朝鮮侯に封じた。箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、そこで礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また、「犯禁八条」を実施して民を教化し、箕子朝鮮を建国したとされる。

「圓頂賊」僧兵。

『明朝の詩人をして「橫飛双刀亂使箭、城邊野艸人血塗」と歌はしめたる』筑摩書房全集類聚版注では、『未詳。詩は倭寇を詠んだもの』として、『横飛する双刀、乱使する箭、城辺の野草』は『人血にまみ』れていった感じで注するが、調べて見た結果、明代の進士で官吏であった王問という人物の「彼倭行」という詩篇の一部であることが、石原道博氏の論文「明代の日本美術文化論(下):日中美術文化の交流・第四部」(『茨城大学五浦美術文化研究所報』(一九七五年八月発行・リンク先は「OSEリポジトリいばらき(茨城大学学術情報リポジトリ)」でPDF)で判明した。当該論文の二十一ページにこの二句が載る。

「慓悍」「へうかん(ひょうかん)」。素早い上に荒々しく強いこと。

「堂衆」筑摩書房全集類聚版注に、『本来は延暦寺三塔』(東塔・西塔(さいとう)・横川(よかわ))『に花を奉る役、転じて僧兵』とある。

「日吉權現」「ひえ」と読んでおく。現在の比叡山の麓の滋賀県大津市坂本にある日吉(ひよし)大社。最澄が比叡山上に延暦寺を建立した際、比叡山の地主神である当社を寺の守護神として崇敬したことから、延暦寺や朝廷の信仰が厚かった。

「大法幢」「だいほふどう」。僧兵の掲げた旗鉾(はたほこ)。但し、一般にこの語は「仏法」の比喩として用いられる。

「禁闕」「きんけつ」。禁裏・禁中に同じい。御所。「闕」は宮城の門のこと。

「白河天皇」(在位:延久四(一〇七三)年~応徳三(一〇八七)年)。当時、摂関家の勢力減退に乗じ、実権を伸ばした。第三皇子善仁親王(堀河天皇)に譲位するも、その後も上皇として院政を開始した。仏教に帰依し、永長元(一〇九六)年に剃髪して法皇となったが、依然として院政を執り、それは堀河・鳥羽・崇徳の三代にも亙った。法勝寺を始めとする多くの造寺造仏や鳥羽離宮などの大土木工事は、富裕な受領層の力によるところが多かった。その治世は通常、「天下三不如意」、則ち、「山法師、賀茂川の水、双六の采(さい)」として伝えられているが、これは当時の世相の混乱を示すものである(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。但し、この言葉、以下に示す「平家物語」以外には記載が見られないことはあまり知られていないと思うので、言い添えておく。

「天下朕の意の如くならざるものは、山法師と双六の采と鴨川の水とのみ」この場合は「平家物語」巻第一「願立(ぐわんだて)」冒頭の引用。

   *

『賀茂川の水、雙六(すごろく)の賽(さい)、山法師(やまぼふし)、是れぞ、わが心に叶(かな)はぬもの』と、白河院(しらかはのゐん)も仰せなりけるとかや。鳥羽院(とばのゐん)の御時、越前の平泉寺(へいせんじ)を山門へつけられけるには、當山を御歸依あさからざるによつて、『非をもつて理(り)とす』とこそ宣下せられて、院宣をば、下されけり。江帥匡房卿(がうぞつきやうばうのきやう)の申されしは、

「神輿を陣頭(ぢんどう)へ振り奉つて訴訟を致さば、君(きみ)、如何(いかに)御許(おんぱから)ひ候ふべき。」

と申されければ、

「げにも、山門の訴訟は默止(もだ)しがたし。」

とぞ仰せける。

   *

この「江帥」(ごうのそつ)大江匡房(まさふさ 長久二(一〇四一)年~天永二(一一一一)年:彼は大宰府権帥に二度就任している)の言葉は「源平盛衰記」によれば、寛治六(一〇九二)年に同僚の実務官僚藤原為房が、自身の下人が日吉神社の神人(じにん)を殺害したとの理由によって延暦寺の衆徒から訴えられ、阿波権守に左遷された事件(但し、翌年に赦されて帰京している)の折りのものとされるようである(新潮社「日本古典文学集成」の注を参照した)。

「浩歎」「かうたん(こうたん)」大いに歎くこと。]

 

然れ共、彼等の恐るべきは是に止らざる也。彼等は、彼等の兵力以外に、更に更に熱烈なる、火の如き信仰を有したりき。彼等は上、王侯を知らず、傍、牧伯を恐れず、彼等は僅に唯佛恩の慈雨の如くなるを解するのみ。然り、彼等は、より剛勇なるサラセンの健兒也。苟も、佛法に反かむとするものは、其攝關たると、弓馬の家たると、はた、萬乘の尊たるとを問はず、悉く彼等の死敵のみ。既に彼等の死敵たり、彼等は何時にても、十萬橫磨の劍を驅つて[やぶちゃん注:「かつて」。]、之と戰ふを辭せざる也。見よ、西乘坊信救は、「太政入道淨海は、平家の糟糠、武家の塵芥」と痛罵して、憚らざりしにあらずや。彼の眼よりすれば、海内の命を掌握に斷ぜる入道相國も、唯是剛情なる老黃牛に過ぎざる也。しかも彼等は、平刑部卿忠盛が、弓を祇園の神殿にひきしより以來、平氏に對して止むべからざる怨恨を抱き、彼等の怨恨は、平氏の常に執り來れる高壓的手段によつて、更に萬斛の油を注がれたるをや。所謂、靑天に霹靂を下し、平地に波濤を生ずるを顧みざる彼等にして、危險なる不平と恐怖すべき兵力を有し、しかも、觸るれば手を爛燒せむとする、宗敎的赤熱を帶ぶ、天下一朝動亂の機あれば、彼等が疾風の如く起つて平氏に抗するは、智者を待つて後始めて、知るにあらざる也。

[やぶちゃん注:「牧伯」「牧」にはもともと中国では古く「地方の長官」を指す意味があり、これも同義で、それを国字では転じて「大名」の意味に使用している。筑摩書房全集類聚版注では『諸侯』と注するが、これも国字としては大名の意である。しかし時代的に「大名」ではおかしいので、公家の中級の遥任国司或いは上級の武家豪族の内で任官(遥任・実務を含む)していた連中を総称して指していると考えてよかろう。

「サラセン」Saracen。ヨーロッパで、古代にはシリア付近にいたアラブ人の、中世にはイスラム教徒の総称。特に七世紀にアラビア半島に興り、八世紀まで広範な地域を領有したイスラム帝国の通称。ここは後者でよかろう。但し、「サラセン」は他称であり、そこにはイスラムに対する誤った理解が付き纏うとして、近年では殆んど用いられない。

「萬乘の尊」「なんじようのそん」。天皇のこと。「乗」は「車」で、周代、天子は直轄地から戦時に兵車一万台を徴発することが出来たことによる別称。

「十萬橫磨の劍」筑摩書房全集類聚版注に、『磨(と)いだ剣をつけた十万の兵士』とある。

「西乘坊信救」「さいじょうぼうしんきゅう(現代仮名遣)」は大夫房覚明(たゆうぼうかくめい)の別称(「覚明」は「かくみょう」、「信救」は「しんぎょう」とも読む)。生年不詳で仁治二(一二四一)年没か。源義仲の右筆。ウィキの「覚明」によれば、『元は藤原氏の中下級貴族の出身と見られ』、『俗名は道広といい、勧学院で儒学を学び、蔵人などを務めたが、発意あって出家し、最乗房信救と名乗った。最初は比叡山に入り、南都にも行き来していたという』。治承四(一一八〇)年の『以仁王の挙兵に際し、以仁王の令旨によって南都寺社勢力に決起を促されると、覚明は令旨に対する南都の返書を執筆し、文中で平清盛に対し「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」」と激しく罵倒して清盛を激怒させた。平氏政権によって身柄の探索を受けた覚明は北国へ逃れ、その過程で源義仲の右筆となって大夫房覚明と名乗』った。『その後』、『義仲の上洛に同道し、比叡山との交渉で牒状』(ちょうじょう:順に回して用件を伝える書状。回状)『を執筆するなどして活躍した』。義仲の没後は『元の名の信救得業を名乗り、箱根山に住んだ。鎌倉でも活動しており』、「吾妻鏡」によれば、建久元(一一九〇)年五月三日、『源頼朝・北条政子夫妻列席の下、頼朝の同母妹である坊門姫の追善供養を行い、足利義兼を施主とする一切経・両界曼荼羅供にも参加している』。一寸ブレイクする。「吾妻鏡」が出ては、凝っとしておれないのが私の悪い癖。

【「吾妻鏡」の記載は以下。

三日丙辰 於南御堂。爲一條殿追善。被修佛事。導師信救得業。被供養繪像阿彌陀三尊。二位家幷御臺所有御聽聞。前少將時家取導師被物。左衛門尉祐經引同馬云々。

○やぶちゃんの書き下し文

三日丙辰 南御堂に於いて、一條殿[やぶちゃん注:一条能保(よしやす 久安三(一一四七)年~建久八(一一九七)年)。後白河法皇に仕えたが、源義朝の娘で源頼朝の同母姉妹である坊門姫を妻に迎えていたことから、頼朝の信頼が厚く、朝廷と幕府のパイプ役として、敵も多かったが、よく活躍した。後代の幕府第四代将軍九条頼経は頼朝の同母姉妹であるこの坊門姫の曾孫であることを理由として将軍に擁立されたものである)。]の追善と爲(し)て、佛事を修せらる。導師は信救得業(しんきうとくごふ)。繪像の阿彌陀三尊を供養せらる。二位家[やぶちゃん注:頼朝。]幷びに御臺所、御聽聞有り。前少將時家[やぶちゃん注:平時家(?~建久四(一一九三)年)。先に出た権大納言平時忠の次男。従四位下・右少将。平家一門でありながら、源頼朝に味方してその側近として仕えた。但し、平家滅亡後に「信時」と改名しているのでこの「吾妻鏡」の表記(後に編集されたもの)は正しくない。]、導師の被物(かづけもの)を取り、左衛門尉祐經(すけつね)[やぶちゃん注:工藤祐経(久安三(一一四七)年?~建久四(一一九三)年六月二十八日)。頼朝の寵臣であったが、この三年後、曾我祐成・時致(ときむね)兄弟に父河津祐泰(かわずすけやす)の仇きとして討たれた。]、同じく馬を引くと云々。】

但し、建久六(一一九五)年十月十三日の条には、『頼朝により箱根神社への蟄居が命じられたことが記録されており、何らかの忌避に触れたものと見られる』。同前。

【「吾妻鏡」の記載は以下。

十三日乙丑 故木曾左馬頭義仲朝臣右筆有大夫房覺明者。元是南都學侶也。義仲朝臣誅罰之後。歸本名。號信救得業。當時住筥根山之由。就聞食及之。山中之外。不可出于鎌倉中幷近國之旨。今日被遣御書於別當之許云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十三日乙丑[やぶちゃん注:「甲子」の誤り。]故木曾左馬頭義仲朝臣が右筆に大夫房覺明(かくめい)なる者、有り。元は是れ、南都の學侶なり。義仲朝臣誅罰の後、本名に歸(き)し、信救得業(しんきうとくごふ)と號す。當時、筥根山(はこねさん)に住むの由、之れを聞こし食し及ぶに就きて、山中の外、鎌倉中幷びに近國に出づべからざるの旨、今日、御書を別當の許へ遣はさると云々。】

『文学的才能に長け、箱根神社の縁起を起草し』、「和漢朗詠集私注」を著している』。「沙石集」では『覚明について、その文才と舌鋒の鋭さによって各所で筆禍事件を起こしている様子が記されている』。ブレイクする。これは現行の通行する流布本ではなく、古本にあるもので以下。底本は一九六六年刊の岩波日本古典文学大系「沙石集」(渡邊綱也校注)の末に載る「拾遺」に拠った(その八十二項目)。踊り字「〱」は正字化した。

   *

ソノカミ東大寺法師ニテ、信救得業トテ、才覺ノ仁アリケリ。朗詠注ナドシタル物也。山法師ノ事ヲ、一卷ノ眞言ニツクリテ、陀羅尼ヲ說テ曰、唵山法師、腹黑々々、欲深々々、アラニクヤ娑婆訶トツクレリ。信救ゾシツラントテ、山法師イキドヲリフカヽリケレバ、本寺ヲハナレテ、田舎ニ住ケリトイヘリ。是ヲ思ニ、唵ノ下ヲトリカヘテ、ナラ法師・京法師・田舍法師モ、俗士モ女人モ、老少貴賤トリカへトリカヘ、カキ入ヌべキ世中也。

   *

文中の「唵」は「オン」と読み、梵語の漢音写。インドの宗教や哲学に於いて、神聖にして神秘的な意味を持つとされる発語。仏教でも真言や陀羅尼の冠頭に置かれることが多い。「帰命(きみょう)」(「南無」に同じ。本来は身体を屈して敬礼することを指し、特に合掌することを指すが、転じて「全身全霊をもって仏陀に傾倒すること」などと解釈されるようになった語)・「供養」・「仏の三身」を表わすとするなど、種々の解釈がある。また「娑婆訶」は原文の「蘇婆訶・薩婆訶」の誤記であろう。「そはか(そわか)」で、密教に於いて呪文の最後に附ける語。密教ではさまざまに解釈するが、元来は仏への感嘆・呼びかけの語である。

『覚明については謎と伝承に彩られており、その後についても、義仲の遺児にまつわる覚明神社(広島県尾道市向島)の落人伝説や、海野幸長と同一人物とする説、西仏と名乗って親鸞や法然に帰依したとの説もあるが、伝承の域を出ない』。なお、「平家物語」には『覚明著とされる願文などが複数収められている事から、物語成立への』彼の『関与も指摘されている』とある。

「太政入道淨海は、平家の糟糠、武家の塵芥」「淨海」は清盛の法名。「平家物語」巻第七「木曾の願書」の一節。私の好きなシークエンスでもあり、前の部分の途中の覚明登場のシーンから願書の提示部までを引く。

   *

大夫房覺明(だいふばうかくめい)を召して、

「義仲こそ何(なに)となう寄すると思ひたれば、幸ひに新(いま)八幡の御寶前(ごほうぜん)に近か付き奉つて、合戰を既に遂げんとすれ。さらんにとつては、且(かつう)は後代(こうたい)の爲め、且は當時の祈禱にも、願書(ぐわんじよ)を一筆(ひとふで)書いて參らせばやと思ふは如何に。」

覺明、

「尤もしかるべう候ふ。」

とて、馬(むま)より下りて書かんとす。覺明が爲體(ていたらく)、褐(かち)の直垂(ひたたれ)に黑革威(くろかはをどし)の鎧着て、黑漆(こくしつ)の太刀を帶(は)き、廿四、差(さ)いたる黑母呂(くろぼろ)[やぶちゃん注:鷲の「ほろ羽」(両の翼の下に連なる羽)で矧(は)いだ矢。]の矢負ひ、塗籠籐(ぬりごめどう)の弓、脇に挾み、甲(かぶと)をば脫ぎ、高紐にかけ、箙(えびら)より小硯(こすずり)、疊紙(たたうがみ)取り出だし、木曾殿の御前(おんまへ)に畏まつて願書(ぐわんじよ)を書く。あつぱれ文武二道の達者かなとぞ見えたりける。

 この覺明はもと儒家(じゆけ)の者なり。藏人(くらんど)道廣(みちひろ)とて、勸學院にありけるが、出家の後は、最乘房信救(しんぎう)とぞ名のりける。常は南都へも通ひけり。髙倉宮の園城寺(をんじやうじ)に入らせ給ひし時、山・奈良へつかはしたりけるに、南都の大衆(だいしゆ)如何思ひけん、その返牒(へんでふ)をば、この信救にぞ書かせたりける。『抑(そも)淸盛入道は平氏(へいじ)の糟糠(さうかう)、武家(ぶけ)の塵芥(ちんがい)』と書いたりける。入道、大(おほ)きに怒つて、

「何條(なんでふ)、その信救めが、淨海(じやうかい)程の者を、平氏の糟糠(ぬかかす)、武家の塵芥(ちりあくた)と書くべき樣(やう)こそ奇怪なれ。急ぎ、その法師め捕つて、死罪に行なへ。」

と宣ふ間、これに依つて、南都には堪へずして、北國(ほつこく)へ落ち下り、木曾殿の手書(てかき)して、大夫房覺明とぞ名乘る。

 その願書(ぐわんじよ)に云はく、

『歸命頂禮(きみやうちやうらい)、八幡大菩薩は、日域朝廷(じちいきてうてい)の本主(ほんじゆ)、累世明君(るいせいめいくん)の曩祖(なうそ)なり。寶祚(はうそ)を守らんがため、蒼生(さうせい)[やぶちゃん注:人民。]を利せんが爲めに、三身(さんじん)の金容(きんよう)[やぶちゃん注:法身(ほっしん:仏性)・報身(ほうじん:仏性の顕在的属性としての修行して成仏する姿)・応身(おうじん:仮に人として出現した釈迦)の三様態を具足した金色(こんじき)の尊い姿。別に八幡の本地を弥陀三尊とする謂いとも。]をあらはし、三所(さんじよ)[やぶちゃん注:八幡の祭神である応神天皇・神功皇后・姫大神。]の權扉(けんぴ)[やぶちゃん注:「權」は本地に対する垂迹のことを指す。]を排(おしひら)き給へり。ここに頃年(しきりのとし)[やぶちゃん注:近年。]よりこのかた、平相國といふ者あり。四海を管領(くわんりやう)し、萬民を惱亂せしむ。是れ、既に佛法の怨(あた)、王法(わうぼふ)の敵(かたき)なり。義仲、いやしくも弓馬の家に生(むま)れて、纔かに箕裘(ききう)[やぶちゃん注:父祖伝来の家業。]の塵(ちり)を繼ぐ。かの暴惡を案ずるに、思慮を顧みるに能はず。運を天道(てんたう)に任せて、身を國家に投ぐ。試みに義兵を起して、兇器を退けんとす。然(しか)るに鬪戰(たうせん)、兩家(りやうか)、陣を合はすと雖も、士卒、未だ一致の勇(いさみ)を得ざる間、區々(まちまち)の心、恐れたる處に、今、一陣、旗を擧ぐ。戰場にして、忽ちに三所(さんじよ)和光の社壇を拜す。機感(きかん)の純熟、明らかなり[やぶちゃん注:感応成就の機の熟せること、明白である。]。凶徒誅戮、疑ひなし。歡喜(くわんぎ)、淚(なんだ)翻(こぼ)れて、渴仰(かつがう)、肝(きも)に染む。就中(なかんづく)、曾祖父(ぞうそぶ)前(さきの)陸奧守義家(ぎかの)朝臣、身を宗廟の氏族(しぞく)に歸附(きふ)して、名を「八幡太郞」と號(かう)せしより以來(このかた)、門葉たる者、歸敬(ききやう)せずと云ふ事なし。義仲、その後胤として首(かうべ)を傾けて年久し。今、この大功を起こす事、譬へば、嬰兒の貝を以つて巨海を量り、蟷螂(たうらう)が斧を怒らかいて隆車(りうしや)に向ふが如し。然りと雖も國の爲め、君(きみ)の爲めにして、これを起こす。全く家の爲め、身の爲めにしてこれをを起こさず。志しの至り、神感、空(そら)にあり。憑(たのも)しきかな、悅(よろこ)ばしきかな。伏して願はくは、冥顯(みやうけん)[やぶちゃん注:ここはあらゆる神仏の意。]、威(ゐ)を加へ、靈神、力を戮(あ)はせて、勝つ事を一時(いつし)に決し、怨(あた)を四方に退け給へ。然(しか)れば則ち、丹祈(たんき)冥慮(みやうりよ)に叶ひ、玄鑑(げんかん)[やぶちゃん注:神仏の照覧。]加護(かご)をなすべくんば、先づ一つの瑞相を見せしめ給へ。壽永二年五月十一日源義仲、敬(うやま)つて白(まう)す。』

と書いて、我が身を始めて十三騎が上矢(うはや)の鏑(かぶら)を拔き、願書(ぐわんじよ)に取り添へて、大菩薩の御寶殿にこそ納めけれ。憑(たのも)しきかな、大菩薩、眞實の志し、二つなきをや、遙かに照覽し給ひけん、雲の中より、山鳩三つ飛び來つて、源氏の白旗(しらはた)の上に翩飜(へんばん)す。

   *

「老黃牛」「らうわうぎう」と音読みしていよう。訓ずれば、「おい」たる「あめうし」(「あめうじ」とも読んだ)で、飴色の毛色の牛。古くは体質が強健な上に暑さにも強く、農耕牛として貴ばれた。

「平刑部卿忠盛が、弓を祇園の神殿にひきし」清盛の父平忠盛(永長元(一〇九六)年~仁平三(一一五三)年)。これは久安三(一一四七)年六月十五日に起こった「祇園闘乱事件」。但し、矢を放ったのは忠盛(その場には彼ではなく、清盛がいた。以下の引用を参照)ではなく、彼の家の郎党である。ウィキの「祇園闘乱事件」によれば、この日は祇園社(の現在の八坂神社)臨時祭であったが、その『夜に平清盛は宿願の成就を祈って、田楽を奉納しようとした。田楽の集団には平氏の郎党が護衛として同行したが、祇園社の神人に武具の携行を咎められたことから小競り合いとなり、放たれた矢が宝殿に突き刺さり』、『多数の負傷者が発生する騒ぎとなった。しばらくは何事も起こら』なかったが、十一日後、『祇園社の本寺である延暦寺の所司が参院して』鳥羽法皇に『闘乱の事を訴えた。これに対して忠盛は先手を打って、下手人』七『人の身柄を院庁に差し出し、法皇はこれを検非違使庁に引き渡した』。『しかし延暦寺は納得せず』、二十八『日、大衆が日枝社・祇園社の神人とともに神輿を押し立てて、忠盛・清盛の配流を求めて強訴を起こした。法皇は大衆の入京を阻止するため、源光保らの軍兵を切堤の辺に向かわせて防備を固めた』。『大衆は徒党を組み、わめき叫ぶ声が洛中に響き渡ったという。法皇は側近の藤原顕頼を奏者として院宣を下し、三日以内に道理に任せて裁決すると約束したため、大衆は一旦』、『引き下がった』。三十『日の夕方、白河北殿に藤原忠通・藤原頼長・源雅定・藤原伊通・藤原宗能・藤原顕頼・三条公教・徳大寺公能・花山院忠雅らの公卿が集まり、祇園闘乱についての議定が開かれた。忠盛は事件に関知していないので責任はない、下手人を尋問すべきという意見が大勢を占める中、頼長は』「春秋左氏伝」の宣公二年(紀元前六〇七年)の『故事を引き合いに出し、本人が関知していなくても』、『山城国内にいて郎党が事件を起こしたのだから、責任を免れることはできない』、『と持論を展開』、『顕頼は議定の結果を法皇に奏上し、ひとまず』、『現場を検分する使者を出すという方針が定まった。その日の夜に検分の使者が祇園社に派遣され、延暦寺の所司とともに矢の突き刺さった場所、流血の痕跡、損失物などの調査を行ったが、大衆の主張と食い違う部分もあったという』。七月五日、『検非違使庁で拷問を受けた下手人が、田楽の集団の背後にいたところ』、『社内で闘諍があったので矢を射たと自白した』。同月八『日、延暦寺・祇園社の書状、検分による被害の調査報告書、検非違使庁の尋問記録に基づいて法家に清盛の罪名を勘申するよう宣旨が下った』。『一方、裁決の遅れに憤激した延暦寺の大衆は、再び強訴の態勢に入った。法皇は天台座主・行玄に大衆を制止するよう院宣を下し』、十五『日には北面武士を西坂下に、「諸国の兵士」(畿内近国の国衙の武士)を如意山路並びに今道に配備して、大衆の入京を断固阻止する姿勢を示した。武士は』三『日交替で厳重な警戒に当たり、洛中では大規模な閲兵と行軍が数次に渡って展開された』。二十三『日、再び議定が開かれるが』、『欠席者が多く延期となり』、二十四『日の議定も「諸説繁多」で結論が出なかった』。しかし『夜になって法皇が裁決を下し、清盛を「贖銅』(しょくどう/ぞくどう:実刑の代わりに罪相当額の銅を官司へ納入する罰金刑。「養老律令」の時代に最初に制定された)『三十斤」の罰金刑に処すことが決まった』。二十七『日、闘乱を謝罪する奉幣使が祇園社に派遣され』、八月五日には贖銅の太政官符に捺印の儀式があり、事件に一応の区切りがつけられた』。『延暦寺の大衆にとっては大いに不満の残る結末となり、怒りの矛先は強訴に協力的ではなかった寺内の上層部に向けられた。延暦寺では』十一『日から』十三『日にかけて、無動寺にあった天台座主・行玄の大乗房が大衆に襲撃される騒動が勃発し、以後』、三『ヵ月に渡って内紛が続くことになる。法皇は延暦寺の不満を宥めるため、翌久安』四年二月二十日に『祇園社で法華八講を修し、忠盛も関係修復を図って自領を祇園社に寄進し』ているとある。]

 

かくの如くにして、卿相の反感と、院の近臣の陰謀とは、疎膽、雄心の入道相國をして、遂に福原遷都の窮策に出で、僅に其橫暴を免れしめたる、烈々たる僧兵の不平と一致したり。しかも、平氏は獨り彼等の反抗を招きたるに止らず[やぶちゃん注:「とどまらず」。]、今や入道相國の政策の成功は、彼が滿幅の得意となり、彼が滿幅の得意は彼が空前の榮華となり、彼が空前の榮華は、時人をして「入る日をも招き返さむず勢」と、驚歎せしめたる彼が不臣の狂悖となれり。天下は亦平氏に對して少からざる怨嗟と不安とを、感ぜざる能はざりき。彼が折花攀柳の遊宴をにしたるが如き、彼が一豎子の私怨よりして關白基房の輦車を破れるが如き、將[やぶちゃん注:「まさに」。]彼が赤袴三百の童兒をして、飛語巷說を尋ねしめしが如き、平氏が天下に對して其同情を失墜したる亦宜ならずとせず。是に於て平氏政府は、刻々ピサの塔の如く、傾き來れり。

[やぶちゃん注:「疎膽」「そたん」。粗暴なる心。

「福原遷都」治承四(一一八〇)年六月、平清盛は京都から摂津福原(現在の神戸市兵庫区・中央区附近)に都を移した。以仁王と源頼政の挙兵(同年五月)等の政情不安や、寺院勢力の圧迫を避けるために行ったが、都城造営も進まぬうち、十一月には再び京に都を戻している。

「滿幅」ある限り全部。完全に総て。「全幅」に同じい。

「入る日をも招き返さむず勢」これは特に引用ではなく、擬古文でそれらしく見せたものであろう。ありがちな伝承表現である。

「不臣の狂悖」筑摩書房全集類聚版注はこれ全体で、『臣下として』狂い、『道にそむく行いをする』と注する。

「折花攀柳」「せつくははんりう」。女性を慰みものにすることの喩え。

「一豎子の私怨よりして關白基房の輦車を破れる」清盛の嫡男重盛の次男資盛(応保元(一一六一)年~寿永四(一一八五)年)が九歳の童子(「豎子」(じゆし(じゅし))であった嘉応二(一一七〇)年七月(或いは十月)、当時の摂政松殿基房(事件当時は満二十五、六歳)の一行が女車に乗った平資盛と出遭い、基房の従者が資盛の車の無礼を咎めて恥辱を与え、その後、資盛の父重盛の武者が基房の従者を襲撃して報復を行った「殿下乗合(てんがのりあい)事件」。ウィキの「殿下乗合事件」によれば、「平家物語」では、『報復を行った首謀者を資盛の祖父』『清盛(重盛の父)に設定し、「平家悪行の始め」として描いている』。「玉葉」、慈円の「愚管抄」、「百錬抄」(鎌倉末期に成立した編年体通史。現在は全十七巻の内、初めの三巻が欠落。著者不明であるが、鎌倉後期の公家と考えられる)等記載によれば、同年七月三日のこととし、『法勝寺での法華八講への途上、基房の車列が女車と鉢合わせをした。基房の従者たちがその女車の無礼を咎め、乱暴狼藉を働いた』。『その車の主が資盛であることを知った基房は』、『慌てて使者を重盛に派遣し、謝罪して実行犯の身柄の引き渡しを申し出る。激怒した重盛は謝罪と申し出を拒否して使者を追い返した。重盛を恐れた基房は、騒動に参加した従者たちを勘当し、首謀者の身柄を検非違使に引き渡すなど』、『誠意を見せて』、『重盛の怒りを解こうとした』。『しかし、重盛は怒りを納めず』、『兵を集めて報復の準備をする。これを知った基房は恐怖の余り』、邸内に籠り、『参内もしなくなっ』てしまう。『しかし、高倉天皇の加冠の儀には摂政として参内しないわけには行かず』、十月二十一日、その参内途上、『重盛の軍兵に襲われ、前駆』五『名が馬から引き落とされ』、四『人が髻』(もとどり)『を切られたという。基房が参内できなかったため』、『加冠の儀は延期されたとされている』。但し、二十四日には『基房と重盛は同時に参内しており、両者間の和解が成立したようである。また、同年』十二『月に基房が太政大臣に就任したのは』、『清盛が謝罪の気持ちで推挙したためとも言われている』。『だが』、「玉葉」では『報復した犯人の名前は書かれておらず、重盛と断定していない』。また、この報復が行われたその日、清盛は福原にいたことを以って清盛は犯人ではないとする説もあるが、こうした報復は、無論、『命令をして部下にやらせるのが常であり、重盛がやったと風聞する事』もまた、『幾らでも可能であり』、結局のところ、『実際の真犯人』(教唆犯と実行犯)『は不明と言ってもよい』。『資盛もこの件で昇進が止まる』結果と『なり、浮上は鹿ケ谷の陰謀後となる』。一方、「平家物語」の描写では同年十月十六日のこととし、『参内途上の基房の車列が』、『鷹狩の帰途にあった』『資盛の一行と鉢合わせをした』が、『資盛が下馬の礼をとらな』かった『ことに怒った基房の従者達が』、『資盛を馬上から引き摺り下ろして辱めを加えた』とする。『これを聞いた祖父の清盛は』十月二十一日に『行われた新帝元服加冠の儀のため』に『参内する基房の車列を』三百『騎の兵で襲撃し、基房の随身たちを馬から引き摺り下ろして髻を切り落とし、基房の牛車の簾を引き剥がすなどの報復を行い、基房は参内できず』、『大恥をかいた。これを聞いた重盛は騒動に参加した侍たちを勘当した他、資盛を伊勢国で謹慎させた。これを聞いた人々は平家の悪行を怒ると』ともに、『重盛を褒め称えた』とする。「平家物語」に於ける『記述は、清盛を悪役、重盛を平家一門の良識派として描写する、物語の構成上の演出のための創作であると考えられている』とある。「平家物語」巻第一の「殿下乘合(てんがののりあひ)」(「殿下」は当時は摂政・関白の敬称)当該部も以下に示しておく。

   *

平家も又、別して朝家を恨み奉る事もなかりしほどに、世の亂れ初(そ)めける根本(こんぼん)は、去(いん)じ嘉應二年十月十六日、小松殿の次男、新三位中將(しんざんみのちゆうじやう)資盛、その時は未だ越前守とて生年十三になられけるが、雪ははだれに降つたりけり。枯野の景色、誠に面白かりければ、若き侍(さぶらひ)ども三十騎斗り召し具して、蓮臺野(れんだいの)や紫野(むらさきの)、右近馬場(うこんのばば)にうち出でて、鷹どもあまたすゑさせ、鶉(うづら)・雲雀(ひばり)を追つ立て、終日(ひねもす)に狩り暮し、薄暮に及んて六波羅へこそ歸られけれ。

 その時の御攝籙(ごせつろく)[やぶちゃん注:摂政。]は松殿にてぞましましける。東洞院の御所より御參内ありけり。郁芳門(いうはうもん)より入御(じゆぎよ)あるべきにて、東洞院を南へ、大炊御門(おほいのみかど)を西へ御出(ぎよしゆつ)なるに、資盛朝臣(すけもりのあそん)、大炊御門猪熊(おほいみかどのゐのくま)にて、殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)に、鼻つきに[やぶちゃん注:出会い頭に。]參り合ふ。御(お)ともの人々、

「何者ぞ、狼藉なり。御出のなるに、乘物より下り候へ、下り候へ。」

といらでけれども[やぶちゃん注:苛立って叫んだけれども。]、餘りに誇り勇(いさ)み、世を世ともせざりける上、召し具したる侍ども、皆、二十(にじふ)より内の若者どもなりければ、禮儀骨法(こつぽふ)[やぶちゃん注:作法に同じい。]わきまへたる者一人(いちにん)もなし。殿下(てんが)の御出とも云はず[やぶちゃん注:であること自体を問題ともせず。]、一切(いつせつ)[やぶちゃん注:全く。]下馬(げば)の禮儀(れいぎ)にも及ばず、只だ驅け破つて通らんとする間、暗さは暗し、つやつや[やぶちゃん注:少しも。]入道の孫とも知らず、又、少々は知うたれども、そら知らずして、資盛朝臣を始めとして、侍ども、皆、馬(むま)より取つて引き下(おろ)し、頗る恥辱に及びけり。

 資盛朝臣、はふはふ、六波羅へ歸りおはして、祖父(おほぢ)の相國禪門にこの由訴へ申されければ、入道、大(おほ)きに怒つて、

「縱(たと)ひ殿下(てんが)なりとも、淨海があたりをば憚り給ふべきに、左右無(さうなき)う[やぶちゃん注:遠慮もなく。]、あの少(をさな)き者に恥辱を與へられけるこそ、遺恨の次第なれ。かかる事よりして、人には欺(あざむ)かるるぞ[やぶちゃん注:侮られることになるのだ。]。この事、殿下に思ひ知らせ奉らでは、えこそあるまじけれ。殿下を恨み奉らばや。」

と宣へば、重盛卿、申されけるは、

「是れは少しも苦しう候ふまじ。賴政・光基(みつもと)なんど申す源氏どもにあざむかれて候はんは、誠に一門の恥辱にても候ふべし。重盛が子どもとて候はんずる者が、殿(との)の御出(ぎよしゆつ)に參り逢(あ)うて、乘物より下り候はぬこそ尾籠(びろう)に候へ。」[やぶちゃん注:「光基」(別本では「時光」)は多田源氏の一流の人物らしいが、同定出来ないようである。]

とて、その時、事に逢うたる侍ども、皆、召し寄せて、

「自今以後(じごんいご)も、汝等、よくよく心得べし。誤まつて殿下(てんが)へ無禮の由を申さばやと思へ。」

とて、歸(かへ)られけり。

 その後、入道相國、小松殿にはかうとも宣ひも合はせず、片田舍の侍の、きはめてこはらかにて入道殿の仰せより外は、世に又おそろしき事なしと思ふ者ども、難波(なんば)・瀨尾(せのを)[やぶちゃん注:難波次郎経遠・瀬尾太郎兼康。孰れも清盛の近習。]を始めとして、都合六十餘人、召し寄せて、

「來(きたる)二十一日、殿下(てんが)御出(ぎよしゆつ)あるべかんなり。いづくにても待ち受け奉り、前驅(せんぐ)・御隨身(みずゐじん)どもが髻(もとどり)、切つて、資盛が恥、すすげ。」

とこそ宣ひける。

 殿下(てんが)是れを夢にもしろしめさず、主上(しゆしやう)明年(みやうねん)御元服(ごげんぶく)・御加冠・拜官の御(おん)さだめの爲めに、御直盧(ごちよくろ)[やぶちゃん注:摂政・関白の宿所。]にあるべきにて、常(つね)の御出(ぎよしゆつ)よりも引きつくろはせ給(たま)ひ、今度(こんど)は待賢門より入御(じゆぎよ)あるべきにて、中御門を西へ御出(ぎよしゆつ)なるに、猪熊堀川(ゐのくまほりかは)の邊(へん)に、六波羅の兵(つはもの)ども、直甲(ひたかぶと)[やぶちゃん注:全員が完全に鎧兜で武装していること。フルメタル・ジャケット。]三百餘騎、待ち受け奉り、殿下を中に取り籠め參らせて、前後より一度に、鬨(とき)を、

「どつ。」

とぞ、つくりける。前驅(せんぐ)・御隨身(みずゐじん)どもが、今日(けふ)を「はれ」と裝束(しやうぞ)いたるを、あそこに追つかけ、ここに追つつめ、散々に凌礫(りようりやく)[やぶちゃん注:辱めて。]して、一々(いちいち)に、皆、髻を切る。隨身十人の内、右の府生(ふしやう)[やぶちゃん注:近衛府の武官。]武基(たけもと)が髻も切られてげり。その中に、藤藏人大夫(とうくらんどのたいふ)隆敎(たかのり)が髻を切るとて[やぶちゃん注:「藤」は藤原姓。「玉葉」にはこの事件の時の前駆(まえがけ)として「高範」の名を記す。]、

「これは汝が髻と思ふべからず。主(しゆ)の髻と思ふべし。」

といひ含めてきつてげる。

 その後(のち)は、御車(おんくるま)の内へも、弓(ゆみ)の弭(はず)、突き入れなどして、簾、かなぐり落とし、御牛(おうし)の鞅(むながい)・鞦(しりがい)、切り放ち、かく散々(さんざん)にし散らして、悅びの鬨をつくり、六波羅へこそ參りたれば、入道、

「神妙(しんべう)なり。」

とぞ宣ひける。

 御車副(おんくるまぞひ)には、因幡の先使(さいづかひ)[やぶちゃん注:公卿が国守を兼帯している場合に在庁官人に訓示する文書を届けさせるための使者のこと。]、鳥羽の國久丸(くにひさまる)と云ふ男(をのこ)、下﨟なれども、さかざかしき者にて、御車をしつらひ、乘せ奉つて、中御門の御所へ還御なし奉る。

 束帶の御袖(おんそで)にて御淚をおさへさせ給ひつつ、還御の儀式のあさましさ、申すも、なかなか、おろかなり。

大織冠(たいしよくくわん)[やぶちゃん注:藤原鎌足。]・淡海公(たんかいこう)[やぶちゃん注:藤原不比等。]の御事はあげて申すに及ばず、忠仁公(ちゆうじんこう)[やぶちゃん注:藤原良房。皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた。また、藤原北家全盛の礎を築いた存在で、良房の子孫達は相次いで摂関となった。無論、基房は藤原北家である。]・昭宣公(しやうぜんこう)[やぶちゃん注:藤原基経。叔父であった良房の養子となり、摂政となった。]より以降(このかた)、攝政・關白のかかる御目にあはせ給ふ事、未だ承り及ばず。これこそ平家の惡行(あくぎやう)の始めなれ。

 小松殿、この由を聞き給ひて、大(おほ)きに恐れ騷がれけり。その時、行き向うたる侍(さぶらひ)ども、皆、勘當せらる。

「縱ひ入道、如何なる不思議を下地(げぢ)し給ふとも、など重盛に夢ばかり知らせざりけるぞ。凡そは、資盛、奇怪なり。『栴檀は二葉より香(かうば)し』とこそ見えたれ。既に十二、三にならんずる者が、今は禮儀を存知(ぞんぢ)してこそ振る舞ふべきに、かやうに尾籠を現(げん)じて、入道の惡名(あくみやう)を立つ。不孝の至り、汝獨りに、あり。」

とて、暫く、伊勢の國へ追ひ下さる。されば、この大將(だいしやう)をば、君(きみ)も臣(しん)も御感(ぎよかん)ありけるとぞ聞えし。

   *

私は若き日にここを読んだ時に如何にも嘘臭い話だと思った。理由は簡単だ。時刻は十月も暗くなってからだ(「薄暮」)。だのに何故基房はこんな時間に参内するのか? 参内は普通、御前の早い時間にするもので、こんな時間の参内などあり得ないのではないか? 火急の要件ならば、逆に非礼を咎めている(従者に咎めさせている)余裕などあろうはずものない(それこそ基房自身が非礼となる)と考えたからである。「平家物語」の諸本の注もこの部分は多くの不審を掲げてあり、前の引用でもある通り、脚色が激しい。あの時の私の何とも言えぬ違和感は正しかったわけだ。今、その時の文庫本は読み散らしてバラバラだが、今も手元で現役である。

「彼が赤袴三百の童兒をして、飛語巷說を尋ねしめし」所謂、清盛が組織したとされる私的な少年諜報組織「禿童(かむろ)」である。ウィキの「禿」によれば、「平家物語」には、『平清盛が実権を握った際、「禿、禿童」(かぶろ、かむろ)と呼ばれた多数の禿』(肩までで切り揃えた髪型)『の頭髪の童子(及び童形の者)を平安京内に放ち、市井の情報、特に平氏に対する批判や、謀議の情報などを集めて密告させた』。十四、五歳の童を三百人選んで、』『髪を』『かむろに切りまわし、赤い直垂を着せ、京の市中を徘徊させ、平家のことをあしざまにいうものがあれば、これを聴きだして、その家に乱入し、資財、雑具を没収し、当人をとらえて六波羅に検束した。市中のものはおそれて関わらないようにした。禿童は自由に宮中にさえではいりし、禁門をとおっても姓名をたずねる者さえなかった』とある但し、『同時期に編まれた』「玉葉」や「愚管抄」にはそれに関わる記載は見られないとするが、私は存在したものと信ずる。「平家物語」の巻第一「禿童(かぶろ)」から引く。

   *

 如何なる賢王賢主の御政(おんまつりごと)、攝政・關白の御成敗も、世にあまされたる徒者(いたづらもの)などの[やぶちゃん注:世間から受け入れられなかった社会的落伍者らが。]、かたはらに寄り合ひて、何(なに)となう誹(そし)り傾(かたぶ)け申す事は常の習ひなれども、この禪門世盛(よざか)りの程は、聊か、ゆるがせにも申す者、なし。その故は、入道相國の謀(はかりごと)に、十四、五の童部(わらはべ)を三百人、揃へて、髮を禿(かぶろ)に切りまはし、赤き直垂(ひたたれ)を著せて、召し使はれけるが、京中(きやうぢゆう)にみちみちて、往反(わうばん)[やぶちゃん注:往復。]しけり。おのづから平家の御事(おんこと)、あしざまに申す者あれば、一人(いちにん)聞き出ださるるほどこそありけれ[やぶちゃん注:たった一人の禿に聴きつけられただけだでも。]、餘黨(よたう)に觸れ廻はし、かの家に亂入し、資財・雜具(ざふぐ)を追捕(ついふく)し[やぶちゃん注:没収し。]、その奴(やつ)を搦めて、六波羅へ率て參る。されば、目に見、心に知るといへども、言葉にあらはれて申す者、なし。「六波羅殿の禿」といへば、道を過ぐる馬(むま)・車(くるま)も、皆、よぎてぞしける。『禁門を出入(しゆつにふ)すといへども、姓名を尋ねらるるに及ばず。京師(けいし)の長吏、これが爲めに目を側(そば)む[やぶちゃん注:(最下級身分の公的な捕吏である「長吏」でさえもこうした事実から、彼らのことを甚だ恐れて)見て見ぬ振りをする。]』と見えたり。

   *]

 

然れ共、平氏が猶其の覆滅を來さゞりしは、實に小松内大臣が、圓融滑脫なる政治的手腕による所多からずンばあらず。吾人は敢て彼を以て、偉大なる政治家となさゞるべし。さはれ彼は、夏日恐るべき乃父淸盛を扶けて、冬日親むべき政略をとれり。如何に彼が其直覺的烱眼[やぶちゃん注:「けいがん」。]に於て、入道相國に及ばざるにせよ、如何に彼が組織的頭腦に於て、信西入道に劣る遠きにせよ、如何に一身の安慰を冥々に求めて、公義に盡すこと少きの譏[やぶちゃん注:「そしり」。]を免れざるにせよ、如何に智足りて意足らず、意足りて手足らず、隔靴搔痒の憂を抱かしむるものあるにせよ、吾人は少くも、彼が大臣たる資格を備へたるを、認めざる能はず。彼は一身を以て、嫉妬に充滿したる京師の空氣と、烈火の如き入道相國との衝突を融和しつゝも、尙彼の一門の政治的生命を强固ならしめ、上は朝廷と院とに接し、下は野心ある卿相に對し、勵精、以て調和一致の働をなさむと欲したり。彼はこれが爲に、一國の重臣私門の成敗に任ずべからざるを說いて、謀主成親の死罪を宥めたりき[やぶちゃん注:「なだめたりき」。]。彼はこれが爲に、君臣の大義を叫破して法皇幽屛の暴擧を戒めたりき。彼が世を終る迄は、天下未[やぶちゃん注:「いまだ」。]平氏を去らず。入道相國の如きも、動もすれば[やぶちゃん注:「ややもすれば」。]暴戾不義の擧を敢てしたりと雖も、猶一門を統率して四海の輿望を負ふに堪へたりし也。彼若し逝かずンば、西海の沒落は更に幾年の遲きを加へたるやも亦知るべからず。惜むべし、彼は、治承三年八月三日を以て、溘焉として白玉樓中の人となれり。彼一度逝く、入道相國は恰も放たれたる虎の如し。其狂悖の日に募るに比例して、天下は益々平氏にそむき、一波先づ動いて萬波次いで起り、遂に、又救ふ可らざる禍機に陷り了れり。加ふるに、京師に祝融の災あり。飇風地震惡疫亦相次いで起り、庶民堵に安ぜず、大旱[やぶちゃん注:「だいかん」。]地を枯らして、甸服の外、空しく赤土[やぶちゃん注:「せきど」。]ありて靑苗[やぶちゃん注:「せいびやう」。]將に盡きなむとす。「平家には、小松の大臣殿こそ心も剛に謀も勝れておはせしが、遂に空しくなり給ひぬ。今は何の憚る所ぞ。御邊一度立つて麾かば[やぶちゃん注:「さしまねかば」。]天下は風の如く、靡きなむ」と、勇僧文覺をして、抃舞、蛭ケ小島の流人を說かしめしは、實に此時にありとなす。平氏政府の命數は、既に眉端に迫れる也。危機實に一髮。

[やぶちゃん注:「圓融滑脫」「物事を要領良く処理していくさま」或いは「言葉遣いや行動が自在で、相手の感情を刺激することなく応対して、争い事を起こさないこと」。「圓融」は「角立っておらずまろやかで滑らかに転がる」と意から「物事が停滞することなく進むこと」の喩えで、「滑脫」は「滞ることなく臨機応変に自由自在に変化する」の意から「失敗や間違いのない対処をすること」の喩えである。

「乃父」「だいふ」と読む。「乃」は「汝」の意で原義は、父親が自分の子に対して一人称で言う語。転じて「父」の意。

「輿望」「よばう(よぼう)」。世間一般の人々から寄せられる信頼や期待。

「治承三年八月三日」誤り。重盛は治承三年閏七月二十九日(一一七九年九月二日)に逝去している。享年四十二歳であった。なお、彼の死因は胃潰瘍を主説とし、他に背中に発生した悪性腫瘍や脚気衝心などとする説がある。

「溘焉」「かふえん(こうえん)」俄かなさま。多くは人の死去に用いる。

「祝融の災」大火。「祝融」は中国神話の火の神。炎帝の子孫と言われ、火を司るとされた。安元三年四月二十八日(一一七七年六月三日)から翌日にかけて平安京内で発生した「安元の大火」。ウィキの「安元の大火」によれば、「太郎焼亡」とも呼ばれる。同日亥の刻(午後十時前後)、『樋口富小路付近で発生』、『南東からの強風にあおられて北西方向へ燃え広がり、西は朱雀大路(幅約』八十四『メートル)を越えて右京にあった藤原俊盛邸が焼失し、北は大内裏にまで達した。皇居だった閑院(二条南、西洞院西)にも火が迫ったため、高倉天皇と中宮』『平徳子は正親町東洞院にある藤原邦綱邸に避難した。火は翌日』の『辰の刻(午前』八『時頃)になっても鎮火しなかったという』(「玉葉」同二十九日の条)。『焼失範囲は東が富小路、南が六条、西が朱雀以西、北が大内裏で、京の三分の一が灰燼に帰した。大内裏の大極殿の焼亡は』貞観一八(八七六)年・天喜六(一〇五八)年に『次いで三度目であったが、内裏』に於ける『天皇が政務を執り行う朝堂院としての機能はもはや形骸化しており、以後は再建されることはなかった』とある。

「飇風」「へいふう」。旋風(つむじかぜ)。「平家物語」は治承三(一一七九)年五月十二日のこととし、「源平盛衰記」は同年六月十四日とする。今回は所持する両方を示す。但し、この年の旋風発生は資料には見えず、以下の叙述は「方丈記」の治承四年四月に発生した旋風(こちらは藤原定家の日記「名月記」・内大臣中山忠親の日記「山槐記」・「百錬抄」に治承四年四月二十九日相当の箇所に旋風の発生が記されてある)の表現とそっくりな記述を見るので、両書のそれはその事実を前にずらした虚構の可能性が高い。最後に両書が参考にしたことが確実な「方丈記」のそこも示す。まず「平家物語」巻第三の「辻風(つじかぜ)」。底本は今までと同じく、昭和四七(一九七二)年講談社文庫刊の「平家物語(上)」。

   *

さるほどに同じき五月十二日の午の刻許り、京中に、辻風、夥(おびたた)しう吹いて、人屋(じんをく)多く顛到(てんだう)す。風は中御門(なかのみかど)・京極より起こつて、坤(ひつじさる)[やぶちゃん注:南西。]の方(かた)へ吹いて行くに、棟門(むねかど)平門(ひらかど)を吹き拔いて、四、五町、十町[やぶちゃん注:約四百三十七めーとるから一キロ九十一メートル。]許り吹きもてゆき、桁(けた)・長押(なげし)・柱などは、虛空に散在す。檜皮(ひはだ)、葺板(ふきいた)の類(るゐ)、冬の木の葉の風に亂るるが如し。夥(おびたた)しう鳴りどよむ音は、かの地獄の業風(ごふふう)なりとも、これには過ぎじとぞ見えし。只だ舍屋(しやをく)の破損(はそん)ずるのみならず、命を失なふ者も多し。牛馬(ぎうば)の類(たぐ)ひ、數(かず)を盡くして打ち殺さる。「是れ、只事(ただごと)にあらず、御占(みうら)あるべし」とて、神祇官にして御占あり。「今、百日の中(うち)に、祿(ろく)を重んずる大臣の愼み、別しては天下(てんが)の大事(だいじ)、佛法・王法(わうぼふ)、共に傾(かたぶ)きて、兵革(へひやうがく)相續(さうぞく)すべし」とぞ、神祇官・陰陽寮(おんやうれう)共に占ひ奉る。

   *

以下は「源平盛衰記」巻第十一の「旋風」。平成五(一九九三)年三弥井書店刊の松尾葦江校注「源平盛衰記㈡」に拠ったが、漢字を恣意的に正字化し、原文のカタカナをひらがなに代え、漢文部分は訓読し、読みも一部を外へ出して読み易く書き換えた。

   *

 六月十四日、旋風夥しく吹きて、人屋、多く顚倒す。風は中御門京極の邊より起りて、坤の方へ吹き以つて行き、平門・棟門などを吹き拂ひて、四、五町、十町、持て行きて、抛(なげう)となどしける、上は桁・梁・垂木(たるき)・こまい[やぶちゃん注:「木舞・小舞」。「壁の下地として縦横に組んだ竹や細木」或いは「垂木の上に横に渡して屋根裏板や杮板(こけらいた)などを受ける細長い材木」を指す。ここは後者。]などは、虛空に散在して、此彼(ここかしこ)に落ちけるに、人馬六畜[やぶちゃん注:牛・馬・羊・豚・鶏。当時の一般的な家畜類のこと。]、多く打ち殺されけり。屋舍の破損はいかゞせん、命を失ふ人、是れ、多し。其の外、資財・雜具・七珍萬寶の散失すること、數を知らず。「これ、徒事(ただごと)に非ず」とて御占(おんうら)あり。「百日の中の大葬、白衣の怪異、又、天子の御愼み、殊に重祿大臣の愼み、別しては、天下、大いに亂逆し、佛法・王法、共に傾き、兵革打ち續き、飢饉・疫癘(えきれい)の兆しなり」と、神祇官幷びに陰陽寮共に占申しけり。係(かかり)ければ、「去るにては、我が國、今はかうにこそ」と、上下、歎きあへり。

   *

この「白衣の怪異」、「びやくえのかいい」と読むか。意味不明。白衣を着た妖怪が都に出現するとでも言うのか? 識者の御教授を乞う。

 以下、「方丈記」。冒頭から少しいったところに出る。参考にしたのは一九八九年岩波文庫刊の市古貞次校注「新訂 方丈記」であるが、漢字を恣意的に正字化し、一部の表記を変えてある。

   *

又、治承四年卯月のころ、中御門・京極のほどより、大きなる辻風おこりて、六條わたりまで吹ける事、侍りき。三、四町を吹きまくる間(あひだ)に、こもれる家ども、大きなるも、小さきも、一つとして破れざるはなし。さながら平(ひら)に倒(たふ)れたるもあり、桁・柱ばかり殘れるもあり。門(かど)を吹き放ちて、四、五町が外(ほか)に置き、又、垣を吹き拂ひて隣りと一つになせり。いはむや、家のうちの資材、數を盡して空(そら)にあり。檜皮・葺板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るるが如し。塵を煙(けぶり)のごとく吹きたてたれば、すべて、目も見えず。おびたゝしく鳴りどよむほどに、もの言ふ聲も聞えず。彼(か)の地獄の業(ごふ)の風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる。家の損亡(そんまう)せるのみにあらず、是れを取り繕ふ間に、身を損なひ、片輪(かたわ)づける人[やぶちゃん注:身体が損傷した人。]、數も知らず。この風、未の方(かた)[やぶちゃん注:南南西。]に移りゆきて、多くの人の嘆きなせり。辻風はつねに吹く物なれど、かゝる事やある。「たゞ事にあらず、さるべきもののさとしか」などぞ、疑ひ侍りし。

   *

「地震」筑摩書房全集類聚版注は、元暦二年七月九日の大地震かとするが、元暦二年七月九日(ユリウス暦一一八五年八月六日)のそれは「壇ノ浦の戦い」の約四ヶ月後のものであり、この文脈ではおかしい。

「惡疫」筑摩書房全集類聚版注に、『養和元年』(一一八一年)『から二年にかけて、大飢饉に加え、伝染病が流行した』とある。ウィキの「養和の飢饉」によれば、『前年の』治承四(一一八〇)年『極端に降水量が少ない年であり、旱魃により農産物の収穫量が激減、翌年には京都を含め西日本一帯が飢饉に陥った。大量の餓死者の発生はもちろんのこと、土地を放棄する農民が多数発生した。地域社会が崩壊し、混乱は全国的に波及した』。「方丈記」には『「また、養和のころとか、久しくなりて、たしかにも覚えず。二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春・夏ひでり、秋・冬、大風・洪水など、よからぬ事どもうち続きて、五穀ことごとくならず」と述べて、「京のならひ、何わざにつけても、源は、田舎をこそ頼めるに、たえて上るものなければ」と記したように、京都は何ごとにつけて地方の農業生産に依存しているにもかかわらず、年貢のほとんど入って来ない状況となってしまい、市中の人びとはそれによって大きな打撃をこうむった』。「方丈記」の記載によれば、『京都市中の死者を』四万二千三百人と『記し、「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香』、『世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり」として、市中に遺体があふれ、各所で異臭を放っていたことが記されている。また、死者のあまりの多さに供養が追いつかず、仁和寺の僧が死者の額に「阿」の字を記して回ったとも伝える。こうした市中の混乱が、木曾義仲の活動』(一一八〇年挙兵、一一八三年上洛)『を容易にする遠因となっていたことも考えられており』、寿永二(一一八三)年五月の「砺波山の戦い」(「倶利伽羅合戦)まで『平氏・頼朝・義仲の三者鼎立の状況が』続いた『背景としても』、『この飢饉の発生が考えられる』。『こうした状況のなかで入洛した義仲軍は京中で兵糧を徴発しようとしたため、たちまち市民の支持を失ってしまった。一方、源頼朝は、年貢納入を条件にすることで、朝廷に東国支配権を認めさせた(寿永二年十月宣旨)』とある。

「堵に安ぜず」「とにやすんぜず」と読む。「堵」は「垣根」の意で民屋を指す。「人民が住居に安心して住む・安心して暮らして安心する」の意で、出典は「三国志」の「蜀書諸葛亮伝」。

「甸服」「でんぷく」。古代中国に於いて、王城を中心として五つに分けた地を「五服」と称したその一つで、王城の周囲五百里以内の地域を指すが、ここは平安京の周囲、則ち、畿内(京に近い山城・大和・河内・和泉・摂津の五ヶ国)を指す。

「平家には、小松の大臣殿こそ心も剛に謀も勝れておはせしが、遂に空しくなり給ひぬ。今は何の憚る所ぞ。御邊一度立つて麾かば天下は風の如く、靡きなむ」「平家物語」巻第五「伊豆院宣」の一節。

   *

 その後(のち)[やぶちゃん注:文覚(もんがく)はこの前の場面で、京の高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、源頼政の知行国であった伊豆国へ配流されていた。]、文覺をば、當國の住人近藤四郞國高に仰せて、奈古屋(なごや)が奥にぞ住みける。

 さる程に、兵衞佐殿(ひやうゑのすけどの)[やぶちゃん注:頼朝。]おはしける蛭が小島も程近し。文覺、常は參り、御物語ども申しけるとぞ聞こえし。或る時、文覺、兵衞佐殿に申しけるは、

「平家には小松大臣殿(おほいどの)こそ、心も剛(かう)に、策(はかりごと)も勝れておはせしか、平家の運命の末になるやらん、去年(こぞ)の八月、薨ぜられぬ。いまは源平のなかに、御邊(ごへん)程、將軍の相(さう)持つたる人はなし。早々(はやはや)謀反起こさせ給ひて、日本國(につぽんこく)、隨(したが)へ給へ。」

と云ひければ、兵衞佐殿、

「それ、思ひも寄らず。われは故(こ)池尼御前(いけのぜんに)に助けられ奉つたれば、その恩を報ぜんが爲めに、每日、法華經一部轉讀し奉る外は、また、他事(たじ)なし。」

とぞ宣ひける。

 文覺、重ねて、

「天の與ふるを取らざれば、却つてその咎(とが)を受く。時至たるを行なはざれば、却つてその殃(あう)[やぶちゃん注:禍(わざわ)い。]を受くといふ本文(ほんもん)あり[やぶちゃん注:「史記」の「准陰(わいいん)侯列伝」(劉邦の側近で張良・蕭何とともに漢の三傑の一人である韓信の列伝)に『蓋聞天與不取、反受其咎、時至不行、反受其殃』(蓋し聞く、「天の與ふるを取らざれば、反(かへ)りて其の咎を受け、時の至るを行はざれば、反りて其の殃を受く」と)に基づく。]。かやにう申せば、御邊の心をかなびかんとて[やぶちゃん注:ちょっと試しに惹いてみようと。]、申すとや思し召され候はん。その儀では候はず。先づ、御邊(ごへん)の爲めに志しの深い樣(やう)を見給へ。」

とて、懷より白い布に裹(つつ)んだる髑髏(どくろ)を一つ取り出だす。

 兵衞佐殿、

「あれは如何に。」[やぶちゃん注:「それは何か?」]

と宣へば、

「これこそ、わ御邊の父、故左馬頭殿の頭(かうべ)よ。平治の後(のち)は、獄舍の前なる苔の下に埋もれて、後世(ごせ)弔(とぶ)ふ人も無かりしを、文覺、存ずる旨ありて[やぶちゃん注:思うところのあって。]、獄守(ごくもり)に乞ひ、頸(くび)に懸け、山々寺々修行して、この二十餘年が間、弔ひ奉つたれば、今は定めて一劫(いちごふ)も浮び給ひぬらん[やぶちゃん注:地獄の気の遠くなる永い時間も幾分かは短くなられたことで御座ろう。]。されば、故頭殿(かうのとの)の御爲めには、さしも奉公の者にて候ふぞかし。」

と申しければ、兵衞佐殿、一定(いちぢやう)とはおぼえねども[やぶちゃん注:流石にその髑髏が本物とは思わなかったものの。]、父の頭(かうべ)と聞く懷しさに、先づ、淚をぞ流されける。

 ややありて、兵衞佐殿、淚を押へて宣ひけるは、

「抑(そもそも)、賴朝、勅勘を赦(ゆ)りずしては[やぶちゃん注:赦(ゆる)されない限りは。]、爭(いかで)か謀反をば起こすべき。」

と宣へば、

「それ、易い程の事なり。やがて上つて申し宥(ゆる)し奉らん。」

兵衞佐殿、あざ笑うて、

「わが身も勅勘の身にてありながら、人の事、申さうど宣ふ聖(ひじり)の御坊(おんばう)のあてがひ樣(やう)こそ[やぶちゃん注:請け合うと言うなんぞは。]、大(おほ)きに誠(まこと)しからね。」

と宣へば、文覺、大きに怒つて、

「わが身(み)の咎を赦(ゆ)りうど申さばこそ、僻言(ひがごと)ならめ、わ殿(どの)の事、申さうに、なじかは僻事ならん。これより今の都福原の新都へ上(のぼ)らうに、三日に過ぐまじ。院宣、伺ふに、一日(いちにち)の逗留ぞあらんずらん。都合七日(なぬか)八日(やうか)には過ぐまじ。」

とて、つき出でぬ。[やぶちゃん注:「つき」は強調の接頭語。或いは擬態語「つと」の誤記。]

   *

「文覺」(保延五(一一三九)年~建仁三(一二〇三)年)元武士で真言僧。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。かの名僧明恵は孫弟子。ウィキの「文覚」によれば、『摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが』、十九『歳で出家した』。既に前の引用中に注した通り、『神護寺の再興を後白河天皇に強訴した』結果、『伊豆国に配流され』、『そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺』『、高野山大塔、東大寺』、『江の島弁財天』『など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり』、『建物を修復した。また頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護』した。『頼朝が征夷大将軍として存命中は』、『幕府側の要人として、また』、『神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、頼朝が死去すると』、『将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり』、「三左衛門事件」(頼朝急逝直後の正治元(一一九九)年二月に一条能保・高能父子の遺臣が、権大納言土御門通親の襲撃を企てたとして逮捕された事件。「三左衛門」とは捕らえられた後藤基清・中原政経・小野義成が孰れも左衛門尉であったことに由来する)に『連座して源通親に佐渡国へ配流される。通親の死後』、『許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、さらに』、元久二(一二〇五)年には『後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した』。「玉葉」に『よれば、頼朝が文覚を木曾義仲のもとへ遣わし、平氏追討の懈怠や京中での乱暴などを糾問させたと言う』。「愚管抄」には、『乱暴で、行動力はあるが』、『学識はなく、人の悪口を言い、天狗を祭るなどと書かれ』、『また、文覚と頼朝は四年間朝夕慣れ親しんだ仲であるとする』。「平家物語」で『巻第五の「文覚荒行」、「勧進帳」、「文覚被流」、「福原院宣」にまとまった記述があり、海の嵐をも鎮める法力を持つ修験者として描かれている。頼朝に亡父源義朝の髑髏を示して蹶起をうながしたり、配流地の伊豆から福原京の藤原光能のもとへ赴いて後白河法皇に平氏追討の院宣を出させるように迫り、頼朝に』、事実、『わずか八日で院宣をもたらした。巻十二の「泊瀬六代』(はせろくだい)『」では頼朝に直接』、『六代助命の許し文を受け取りにいく。また後鳥羽上皇の政』(まつりごと)『を批判したため』、『隠岐国に流されるが、後に上皇自身も承久の乱で隠岐国に流される結果になったとする』。但し、『いずれも史実との食い違いが多く』、「平家物語」『特有のドラマチックな脚色がなされていると言える』。「源平盛衰記」は、『出家の原因は、従兄弟で同僚の渡辺渡(わたなべわたる)の妻、袈裟御前に横恋慕し、誤って殺してしまったことにあるとする』。この数奇な悲劇の出家譚は、後に芥川龍之介自身が「袈裟と盛遠」で小説化している。リンク先は私の古いテクストだが、末尾に、芥川が素材・参考としたと思われる「源平盛衰記」巻第十九の「文覚発心」も電子化(但し、新字)しているので、是非、参照されたい。

「抃舞」「べんぶ」。喜びのあまり、手を打って舞い踊ること。

「蛭ケ小島」現在の静岡県伊豆の国市四日町(グーグル・マップ・データ)。狩野川の右岸但し、資料では伊豆国に配流された記されたばかりで、「蛭ヶ島」という地名は後世の記述に出現するものであり、真偽のほどは不明である。]

 

天下の大勢が、かくの如く革命の氣運に向ひつゝありしに際し、諸國の源氏は如何なる狀態の下にありし乎。願くは吾人をして、語らしめよ。甞て、東山東海北陸の三道にわたり、平氏と相並んで、鹿を中原に爭ひたる源氏も、時利あらず、平治の亂以來逆賊の汚名を負ひて、空しく東國の莽蒼に雌伏したり。然りと雖も八幡公義家が、馬を朔北の曠野に立て、亂鴻を仰いで長驅、安賊を鏖殺したる、當年の意氣豈悉[やぶちゃん注:「あに、ことごとく」。]消沈し去らむ哉[やぶちゃん注:「や」。]。革命の激流一度動かば、先[やぶちゃん注:「まづ」。]平氏政府に向つて三尖の長箭を飛ばさむと欲するもの、源氏を措いて又何人かある。是平氏政府自身が恆に戒心したる所にあらずや。

[やぶちゃん注:「甞て」の漢字字体はママ。ここまでは「嘗」である。新全集・筑摩書房全集類聚版は「嘗」を使う。誤字ではないのであるから、底本を採った。

「鹿を中原に爭ひたる」「鹿」は覇権、「中原」は天下の喩え。

「莽蒼」「まうさう(もうそう)」。青々とした草木が生い茂っている原野。

「馬を朔北」(北方:「朔」自体も北の方角を指す語。「朔」は「一日(ついたち)」の意味がある通り、「始め」の意であり、十二支の「子(ね)」が「始め」でしかも方位では北となることに由る)「の曠野」(あらの)「に立て、亂鴻」(らんこう:飛ぶ雁の列が乱れること)「を仰いで長驅、安賊』(「安」は前九年の役で源頼義・義家父子と清原武則が滅ぼした安倍頼時・貞任・宗任父子のことであろう。しかし、「賊」はそれに加えて以下に示す「後三年の役」で最終的に滅ぼされた清原家衡・武衡を含めていると読まないと話が前後して上手くない)『を鏖殺」(あうさつ(おうさつ):皆殺しにすること)「したる」これは永承六(一〇五一)年から康平五(一〇六二)年まで続いた「前九年の役」と、その二十年後に勃発した(永保三(一〇八三)年から寛治元(一〇八七)年まで続いた)「後三年の役」を指す。源義家(長暦三(一〇三九)年~嘉承元(一一〇六)年)は孰れにも出陣しているが、「安」を除いて考えると、ここは「後三年の役」の説明でよかろうかと思われる(以下「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。出羽の豪族清原氏の内訌に乗じて、これを滅ぼした戦い。「前九年の役」で功のあった清原氏は、真衡の代になって、その異母弟家衡と母の連れ子清衡が、嫡子真衡と家督を巡って争い、内紛を生じた。永保三年に陸奥守として現地に入った義家は、真衡の要請に応じて家衡・清衡を制圧したが、真衡が病没したので、その所領を折半して二人に与えた。しかしその後、両人が対立して争うようになると、応徳三(一〇八六)年、義家は清衡を助けて家衡を討ち、翌年、これを平定した(清衡は養子であったので、清原氏はここに滅亡し、清衡は奥州藤原氏の祖となったのである)。この「役」を朝廷は私戦と断じて勧賞は勿論、戦費の実費も拒絶し、そればかりでなく、義家は陸奥守を罷免されてしまう。結果、義家は主に関東から出征してきた将兵に私財を投じて恩賞を出し、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後、源氏は東国に勢力を確立することとなったのであった。さても「亂鴻」はウィキの「午後三年の役」の「雁行の乱れ」の項から引いておく。義家『軍が家衡・武衡軍の籠もる金沢柵へ行軍中、西沼(横手市金沢中野)の付近を通りかかった。義家が馬を止め』、『上空を見ると、通常は整然と列をなして飛ぶ雁が』、『乱れ飛んでいた。それを見た義家は』、『かつて大江匡房』(まさふさ:既注)『から教わった孫子の兵法を思い出し、清原軍の伏兵ありと察知し、これを殲滅した。義家は「江師(ごうのそつ)』『の一言なからましかば』、『あぶなからまし」と語ったという』。嘗つて「前九年の役」の『後、京の藤原頼通邸で源義家の戦功話を評していた際、「器量は賢き武者なれども、なお軍(いくさ)の道を知らず」と匡房がつぶやいたということが、義家の家人を通じて義家本人に伝わり、怒り出すどころか』、彼は『辞を低くして匡房の弟子となったと伝えられている。また、匡房は義家の弟の義光に笙の笛の秘伝を教えたともいう。後に匡房の曾孫大江広元は鎌倉幕府創建に功をなした』。なお、「後三年合戦絵詞」の中では、『知識の多い老人である匡房から兵法を教わり、そのことがあったために伏兵を悟ったということになっているが、実際は大江匡房は義家よりも若いため、そのようなことはありえない。そのため』、『絵巻は匡房にたいして「老賢人」としてのイメージが出来上がってから描かれていることがわかり、この「雁行の乱れ」のエピソード自体が作られた話』か、若しくは、『もともとあった小競り合いに物語性を出すために匡房の話を付け加えたものである可能性が非常に高い』という『ことが言える』とある。

「三尖の長箭」「さんせんのちやう(ちょう)せん」鏃の尖端部が三角形に鋭く尖っており(当然の如く実戦用の中でも殺傷力が高い)、矢の箆(の:本体の棒部分)が非常に長い矢(それだけ強く引かねば射ることが出来ないから結果して飛距離が延びることとなる)。]

 

然り、源氏は眞に平氏の好敵手たるに恥ぢず。彼は平氏に對する勁敵中の勁敵也。賴義義家が前九後三の禍亂を鎭めしより以來、東國は其半獨立の政治的天地となり、武門の棟梁は、其因襲的の尊稱となれり。しかも平氏は、平氏自身の立脚地が西國にあるを知りしを以て、敢て其得意なる破壞的政策を東國に振はず。(恐らくは是最も賢き、最も時機に適したる政策なりしならむ)勇夫と悍馬とに富める、茫々たる東國の山川は、依然として、源氏の掌中に存したり。約言すれば、保元平治以前の源氏と保元平治以後の源氏とは其東國に有せる勢力に於て殆ど何等の逕庭をも有せざりし也。然りと雖も、彼等の勢力は未だ以て中原を動かすに足らざりき。駿河以東十餘ヶ國の山野は、野州の双虎と稱せられたる小山足利の兩雄、白河の御館[やぶちゃん注:「おやかた」。]と尊まれたる越後の城氏、慓悍、梟勁を以て知られたる甲斐源氏の一黨、はた、下總に龍蟠せる千葉氏の如き、幾多の豪族を其中に擁したりと雖も、霸を天下に稱ふるものは、僅に、所謂、周東、周西、伊南、伊北、廳南、廳北の健兒を糾合して八州に雄視する、上總の霸王上總介氏と、十七萬騎の貫主、北奧の蒼龍、雄名海内を風摩せる藤原秀衡との兩氏あるのみ。而して、此双傑の勢力を以てするも、猶、後顧の憂なくして西上の旗を飜すは、到底不可能の事となさざる可らず。何となれば彼等は、猶個々の小勢力なりしを以て、しかも互に相掣肘しつゝありしを以て也。遮莫[やぶちゃん注:「さもあらばあれ」。]、彼等は過飽和の溶液也。一度之に振動を與へむ乎、液體は忽に固體を析出する也。一度革命の氣運にして動かむ乎、彼等は直に劍を按じて蹶起するを辭せざる也。彼等豈恐れざる可からざらむや。然れども彼等は、未平氏に對して比較的從順なる態度を有したりき。請ふ彼等を以て、妄に生を狗鼠の間に偸む[やぶちゃん注:「ぬすむ」。]ものとなす勿れ。彼等が平氏に對して溫和なりしは、唯平氏が彼等に對して溫和なりしが爲のみ。嘗て、吾人の論ぜしが如く、平氏の立脚地は西國にあり。平氏にして、相印を帶びて天下に臨まむと欲せば、西國の經營は、其最も重要なる手段の一たらずンばあらず。さればこそ、入道相國の烱眼は、瀨戶内海の海權を收めて、四國九州の勢力を福原に集中するの急務なるを察せしなれ。西南二十一國が平氏の守介を有したる豈此間の消息を洩したるものにあらずや。既に平氏にして西國の經營に盡瘁す。東國をして單に現狀を維持せしめむとしたるが如き、亦怪しむに足らざる也。而して、自由を愛する東國の武士は此寬大なる政策に謳歌したり。謳歌せざる迄も悅服したり。悅服せざる迄も甘受したり。彼等は實に此優遇に安じて二十年を過ぎたりし也。然れ共今や平氏は完く其成功に沈醉したり。而して平氏の醉態は、平氏自身をして天下の怨府たらしめしが如く、亦東國の武士をして少からざる不快を抱かしめたり。嘗て、馬を彼等と並べて、銀兜緋甲[やぶちゃん注:「ぎんとうひかふ」。]、王城を守れる平門の豎子が、今は一門の榮華を誇りて却て彼等に加ふるに痴人猶汲夜塘水の嘲侮を以てするを見る、彼等の心にして焉ぞ平なるを得むや。切言すれば、彼等は、漸に其門閥の貴き意義を失はむとするを感じたり。嗚呼、「弓矢とる身のかりにも名こそ惜しく候へ」と叫破せる彼等にして、焉ぞ此侮蔑に甘ずるを得むや。加ふるに大番によりて京師に往來したる多くの豪族は、京師に橫溢せる、危險なる反平氏の空氣を、冥默の間に彼等の胸奧に鼓吹したり。而して、平氏が法皇幽屛の暴擧を敢てすると共に、久しく欝積したる彼等の不快は、一朝にして勃々たる憤激となれり。

[やぶちゃん注:「逕庭」「けいてい」。「逕」は「小径(こみち)」、「庭」は「広場」の意で、これで「隔たりの甚だしいこと・かけ離れていること」を謂う。「荘子」の「逍遙遊」を出典とする。

「小山」「おやま」と読む。藤原秀郷を祖とする小山氏。当時は第二代当主小山朝政(おともまさ 久寿二(一一五五)年)頃~嘉禎四(一二三八)年)下野国小山庄寒河御厨(さむかわのみくりや:平安末期は後白河院領であったが、仁安元(一一六六)年に伊勢神宮に寄進されて御厨となった)を本貫地とした豪族。後、頼朝直参の御家人となり、晩年まで幕府宿老として力を持ち続けた。

「足利」同じく藤原秀郷を祖とする下野国足利荘を本拠地とした藤姓足利氏。当代の当主は第四代当主足利俊綱(?~養和元(一一八一)年九月又は寿永二(一一八三)年九月)及びその子で第五代当主足利忠綱(長寛二(一一六四)年?~?)。ウィキの「足利忠綱」によれば、『同族である小山氏と勢力を争い』、『「一国之両虎」と称されていた』(これが芥川の謂う「双虎」)。「吾妻鏡」によると、治承四(一一八〇)年の以仁王の挙兵の際、『小山氏』は『以仁王の令旨を受けたのに対し、足利氏』には令旨が来なかった『ことを恥辱として平氏方に加わったという。忠綱は』十七『歳であったというが』、『一門を率いて上洛し、平氏の有力家人・伊藤忠清の軍勢に加わって以仁王と源頼政を追撃し』、後の「宇治川の戦い」では先陣で渡河して敵軍を討ち破る大功を立てた』。しかし、結果、開幕後は不遇であった(父俊綱は頼朝に追討され、追討軍が襲う前に身内に裏切られて殺害されている。忠綱は晩年には行方不明となり、その後の事蹟は不明である)。なお、この藤姓足利氏の宗家は早々に滅亡してしまったが、俊綱の代の広義の足利一門の多くは、それぞれに幕府に取り入り、御家人として存続し続け、鎌倉政権に組み込まれていった。但し、後の幕府後期に力を持ち、足利尊氏を出すそれは源姓足利氏であって、直接の密接な系流関係はない。因みに、「兩虎」は「吾妻鏡」の治承五(一一八一)年閏二月二十三日の条の一節に、

亦小山與足利。雖有一流之好。依爲一國之兩虎。爭權威之處。

(亦、小山と足利と、一流の好(よしみ)有りと雖も、「一國の兩虎」たるに依つて權威を爭ふの處、……)

とあるのに基づく。但し、「吾妻鏡」の一本では「兩虎」を「龍虎」ともする。

「城氏」当代は城資永(じょうのすけなが ?~治承五(一一八一)年)。ウィキの「城資永」によれば、『城氏は桓武平氏維茂流で、越後平氏と呼ばれた。平氏政権期において越後国を支配していた。資永はその棟梁として、保元の乱においても惣領家の平清盛に従』って『活躍し』、『都で検非違使を務めていたこともあり、北国における有力豪族の筆頭として、同族の清盛らの信頼は厚かった』。『清盛の死後の治承』五(一一八一)年、『後を継いだ平宗盛から信濃で挙兵した木曾義仲の追討を命じられる。自信に満ちた資永は「甲斐・信濃両国においては、他人を交えず、一身にして攻落すべき由」と平家に願い出たという』(「玉葉」治承四年十二月三日の条)。『平家の絶大な期待の』もとに『越後、会津四郡、出羽南部の軍兵一万を集めるが、出陣直前の』二月二十四日『に卒中を起こし、翌』二十五『日に急死した。資永の急死は』、『相次ぐ反乱の対処に追われる平家に大きな打撃となった』。『資永の後は弟の助茂(長茂)が継ぐが、平家の没落とともに徐々に衰退を余儀なくされた』とある。

「梟勁」「けうけい(きょうけい)」。既出既注の「梟雄」と同義。

「甲斐源氏」ウィキの「甲斐源氏」によれば、『甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門で、源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家のうち武田氏をはじめとする、甲斐を発祥とする諸氏族の総称』であるが、『「甲斐源氏」の呼称について』は、『治承・寿永の乱期の史料には一切見られず、甲斐源氏の一族を指す呼称には「武田党」などが用いられている』。しかし、鎌倉時代には「吾妻鏡」を始めとして「帝王編年記」(漢文編年体の歴史書。現存本は神代から後伏見天皇までの二十七巻。編者は僧永祐と伝えられるが、定かではない。成立は正平一九/貞治三(一三六四)年から天授六/康暦二(一三八〇)年の間と推定される)「日蓮遺文」『などにおいて「甲斐源氏」の呼称が用いられはじめ、軍記物語などにおいても頻出する』。『以仁王の令旨が東国各地に伝わると、武田信義・安田義定らが挙兵』し、治承四(一一八〇)年九月には『信濃諏訪郡に攻め込んで影響下に置いた(これによって信濃に安定した基盤を確保することが困難になった木曾義仲は、信濃平定を断念して北陸道に信濃に替わる基盤を求めることになる)。続く』「黄瀬川の戦い」では『平維盛らの平家軍と対峙の折』り、『源清光(逸見冠者清光)の子で甲斐源氏』四『代目の源信義(武田太郎信義)を棟梁とする武田氏はじめ』、『個々に独立勢力を張っていた甲斐源氏一族は、「一人の誉れよりは甲斐源氏として武勲をあげよう」と』、『一族結束して退却する平家に攻め入った』。『安田義定は』寿永二(一一八三)年に『源義仲とともに入京し、従四位下・遠江守に叙任されている』。但し、元暦元(一一八四)年一月には、『源範頼・義経の軍勢に安田義定・一条忠頼が加わり、粟津合戦において』同族である『義仲を滅亡させ』ている。『さらに同年』の「一ノ谷の戦い」では、『義定・武田有義・板垣兼信らが平氏追討に参加して』おり、『有義はさらに範頼の軍勢に属し』、『西国へ出陣している』。『一方、この頃には頼朝による甲斐源氏の粛清が開始され、同年には一条忠頼が鎌倉において誅殺されている』(一条忠頼は生年不詳。武田信義の子で甲斐源氏の嫡流。甲斐国山梨郡一条郷を領して一条氏を名乗った。治承四年の挙兵では父や安田義定とともに兵を挙げ、信濃国に出陣して平家余党を制圧、その後、駿河国に赴き、頼朝軍に合流、源義仲追討戦などで活躍したが、忠頼の勢力の強大さや、甲斐源氏の勢力拡大が頼朝の危惧するところとなり、同年六月、幕府御所にて宿老御家人が居並ぶ中、頼朝の密命を受けた小山田有重・天野遠景らによって殺された)。それでも甲斐源氏の多くは『治承・寿永の乱の軍功により』、『分家にも領地が与えられ、加賀美遠光を祖とする、南部氏や小笠原氏などの庶流が』、『やがて大名化していった』とある。

「千葉氏」下総国千葉郡の豪族。千葉国造流と桓武平氏良文流があるが、平氏流が有名で、この当時、千葉常胤(元永元(一一一八)年~建仁元(一二〇一)年)・上総(かずさ)(千葉)広常が出て、源頼朝の挙兵を援助した。二人は「石橋山の戦い」敗退後の頼朝を出迎え、完全にバック・アップしたが千葉常胤は幕府御家人の重鎮として終生重んじられたのに対し、広常の方は(但し、その遅参や尊大な態度は頼朝らに悪印象を与えており、後注で引く「吾妻鏡」を見て頂きたいが、驚くべきことにそこでは小説のように二心あることを一人称の心内語であからさまに記している)、後に頼朝から謀反の疑いをかけられ、密命を帯びた梶原景時によって、鎌倉十二所(じゅうにそ)の広常の館で景時と双六をしている最中、切り殺されてしまう。しかし、直後に謀反は晴れ、頼朝は広常を殺したことを後悔している。

「周東」(すとう)「周西」(すさい)は中世より前に上総国の南西、概ね小糸川流域にあった周淮(すえ)郡が中世に東西に分割された際の郡名(江戸初期には統合してもとの形で復活した)。周淮郡は現在の木更津市の一部・君津市の一部・富津市の一部に相当する。郡域は参照したウィキの「周淮郡」で確認されたい。

「伊南」「伊北」上総国夷隅郡内に中世に作られた荘園伊隅荘(いすみのしょう)のこと。ウィキの「伊隅荘」によれば(太字下線はやぶちゃん)、『鎌倉時代に入ると、全体としては伊隅荘と総称されながらも実際には南北に分割(地域的には南北ではなく東西)されて支配されていたため、それぞれ伊隅荘の北を伊北荘、南を伊南荘と称された』。『荘域は現在のいすみ市、勝浦市、夷隅郡大多喜町、同郡御宿町に跨る地域で、鎌倉時代に入ると、全体としては伊隅荘と総称されながらも実際には南北に分割され統治された』。『現在の研究では伊北荘の範囲は、現在の大多喜町及びいすみ市の一部に勝浦市北部を含んだ地域であり、伊南荘は御宿町・いすみ市の一部に跨る地域に相当すると考えられている』。『荘園領主は鳥羽上皇により創建された金剛心院』。『当荘の成立経緯は不明だが、旧夷隅郡がほとんどそのまま伊隅荘として立荘されたものと考えられる。治承年間には上総氏の支配下にあった。そして上総氏が滅亡した後は和田義盛が伊北荘を支配したが、和田合戦で北条方に敗れた後は三浦胤義がこの地を支配した。しかし、当荘が南北両荘に分割して支配されたことは南北朝時代に至っても変わらなかったことが覚園寺文書からわかっている』とある。旧郡域のだいたいの範囲はウィキの「夷隅郡」にある地図を参照されたい。

「廳南」(ちやうなん)「廳北」(ちやうほく)は現在の長生郡・茂原市、及び、いすみ市の一部・大網白里市の一部に相当する。旧郡域のだいたいの範囲はウィキの「長生郡」にある地図を参照されたい。

なお、この部分、芥川龍之介は「吾妻鏡」の以下の治承四(一一八〇)年九月十九日の条の頭を引いている。

   *

十九日戊辰。上總權介廣常、催具當國周東。周西・伊南・伊北・廳南・廳北輩等。率二萬騎。參上隅田河邊。武衞頗瞋彼遲參。敢以無許容之氣。廣常潛以爲。如當時者。率土皆無非平相國禪閤之管領。爰武衞爲流人輙被擧義兵之間。其形勢無高喚相者。直討取之。可獻平家者。仍内雖插二圖之存念。外備歸伏之儀參。然者。得此數萬合力。可被感悅歟之由。思儲之處。有被咎遲參之氣色。殆叶人主之體也。依之忽變害心。奉和順云々。陸奥鎭守府前將軍從五位下平朝臣良將男將門虜領東國企叛逆之昔。藤原秀鄕僞稱可列門客之由而入彼陣之處。將門喜悅之餘。不結肆所梳之髪。卽引入烏帽子謁之。秀鄕見其輕骨。存可誅罰之趣退出。如本意獲其首云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十九日戊辰。上總權介廣常、當國、周東・周西・伊南・伊北・廳南・廳北の輩等を催し具し、二萬騎を率して、隅田河の邊に參上す。武衞、頗(すこぶ)る彼が遲參を瞋(いか)り、敢へて以つて許容の氣、無し。廣常、潛かに以爲(おもへら)く、

『當時のごときは、率土(そつと)[やぶちゃん注:日本国中。]、皆、平相國禪閤の管領に非ずといふこと無し。爰(ここ)に武衞、流人として輙(たやす)く義兵を擧げらるの間、其の形勢(ありさま)、高喚(かうくわん)[やぶちゃん注:ここは「武士として注意を惹きつけるような技量」の謂いであろう。]の相(さう)無くんば、直(すぐ)に之れを討ち取り、平家に獻ずべし。』

者(てへ)れば、仍つて内には二圖(にと)の存念を插(さしはさ)むと雖も、外には歸伏の儀を備へて參ず。然(さ)れば、

『此の數万(すまん)の合力(かふりよく)を得て、感悅せらるべきか。』

の由、思ひ儲(まう)くる處、遲參を咎めらるるの氣色(きしよく)有り。殆(ほとほ)と、人主の體(てい)に叶ふなり。之れに依つて、忽ち、害心を變じ、和順奉ると云々。

陸奥鎭守府前將軍、從五位下平朝臣良將(よしまさ)の男(なん)將門、東國を虜領(りよりやう)して叛逆を企つるの昔、藤原秀鄕、僞りて、

「門客に列すべし。」[やぶちゃん注:御味方の一人にお加えあれ。]

の由を稱して、彼の陣に入るの處、將門、喜悅の餘りに、梳(くしけづ)る所の髪を肆(ゆ)はず[やぶちゃん注:解いてざんばらにしていた髪を髷に結うこともせず。]、卽ち、烏帽子に引き入れ、之れと謁す。秀鄕、其の輕骨(きやうこつ)[やぶちゃん注:軽はずみなこと。如何にも軽率なさま。]を見て、誅罸すべきの趣きを存じ、退出す。本意(ほい)のごとく、其の首を獲(え)たりと云々。

   *

「八州」関八州。関東の八ヶ国の称。相模・武蔵・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・安房・上総・下総(しもうさ)・常陸。現在の関東地方に当たる。但し、この謂い方は江戸時代のもの。

「上總介氏」千葉広常の通称。

「貫主」首領。

「蒼龍」五行説の四神の一つである青竜の別名。

「藤原秀衡」(保安三(一一二二)年?~文治三(一一八七)年)は奥州藤原氏第三代当主。鎮守府将軍・陸奥守。

「狗鼠」「くそ」犬と鼠であるが、ここは「下らない人間たち」の意。

「相印」「しやういん(しょういん)」宰相の印形(いんぎょう)。

「守介」「かみ」「すけ」。ともに国守を指す。

「盡瘁」「じんすい」。「瘁」は病み疲れる意で、自身の労苦を顧みることなく全力を尽くすこと。

「彼等は實に此優遇に安」(やすん)「じて二十年を過ぎたりし也」ウィキの「平氏政権」によれば、『平氏政権の成立時期については、仁安』二(一一六七)年五月の宣旨の(これは一般に『「六条天皇宣旨」と解されているが、実態は後白河上皇の院宣に基づいて発給されたものであった』と注がある)『を画期とする見解と、治承三年の政変』(一一七九年)『の時点とする見解とが出されている』とあり、『前者の宣旨は平重盛へ東山・東海・山陽・南海諸道の治安警察権を委ねる内容であ』るとあるので、この前段階で清盛は完全に力を有していたと考えられるから、「壇ノ浦の戦い」で平氏一門が滅亡し、安徳天皇が入水したのは元暦二年三月二十四日(ユリウス暦一一八五年四月二十五日/グレゴリオ暦換算:五月二日)で、この「二十年」というのは現在の歴史的見解から見ても、正鵠を射ていると言える。

「痴人猶汲夜塘水」「碧巌録」第七則の「頌(じゅ)」(「偈(げ)」(禅宗で悟りの境地などの宗教的内容を表現する漢詩)に同じ)の一節に、

超禪師當下大悟處、如三級浪高魚化龍、痴人猶戽夜塘水。

(超禪師の當下(ただち)に大悟せし處は、「三級の浪、高くして、魚の龍に化せる」がごとくなるに、「痴人、猶ほ戽(く)む、夜塘の水」と。)

とある。サイト「茶席の禅語選」のこちらによれば、「三級」は『三段になった滝のこと』とあり、入矢義高監修・古賀英彦編著「禅語辞典」には、『「竜門の三段の堰の高なみを上って魚はすでに竜となったのに、愚かものが魚を捕えようと、なお夜の淵の水をかい出している。言葉づらにとらわれて、勘所を押さえきれない愚かさを喩える」とあり、また、「禅語字彙」には、『「禹帝治水の時、龍門の瀧を切り開きて三段と爲せり。此三段の瀧を、春三月三日桃花の咲く時鯉魚が跳び越へると、火を發して尾を焦き角を生じて龍となるといふ。鯉魚が已に龍と化したのも知らずに、愚人は暗夜の池水を汲み干して鯉を探して居るは見るに堪へぬ」とある』とある。

「切言」「せつげん」。きっぱりと厳しく言うこと。

「弓矢とる身のかりにも名こそ惜しく候へ」私は「源平盛衰記」巻第三十一の「木曾、平家に與(くみ)せんと擬す竝びに維盛歎きの事」の清盛の三男で智将であった平知盛の台詞を切り詰めたものと思う。当該巻は所持しない(私は活字本は前半部しか所持していない)ので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像(明四五(一九一二)年有朋堂刊「源平盛衰記 下」)を視認して当該章全部を電子化してみた(読み易さを考え、漢文体の個所は訓読し、読みは一部に留め、一部は読みの一部を外に出した。読点・記号も増やし或いは変更した。改行もした。踊り字「〱」「〲」は正字化した)。当該部を太字で示した。

   *

 平家は、室山・水島、二箇度(かど)の合戰に打ち勝つて、木曾追討の爲に西國(さいこく)より責め上(のぼ)ると聞えけり。左馬頭(さまのかみ)義仲(よしなか)は、東西に詰め立てられて如何(いかゞ)せんと案じけるが、兵衞佐(のすけ)に始終中よかるまじ、今は平家と一に成つて、兵衞佐をせめんと思ふ子細を、讚岐の屋島へ申したりければ、大臣殿[やぶちゃん注:「おほいとの」で当時の平家頭領で凡才の平宗盛(清盛三男)のこと。]は大に悅び給ひけり。祈る祈りの甲斐有りて、帝運のかさねてひらけ、再び故鄕に御幸(ごかう)あらん事、目出たければ、申す處、本意(ほんい)に思し召し、

「御迎ひに參るべし。」

と宣ひけるを、新中納言の計らはれ申しけるは、

「都に歸り上らん事は實(まこと)に嬉しけれ共、木曾が爲めに花洛を攻め落とされ、今、又、義仲と一つにならん事、然るべからず。賴朝が存知(ぞんち)、思はん處、恥かしかるべし。弓矢取る身は後の代(よ)までも名こそ惜しけれ、十善の君(きみ)、角(かく)て御渡(おんわたり)あれば、冑(よろひ)を脫ぎ、弓を平(ひら)めて降人(かうにん)に参り、帝王を守護し奉るべしと仰せあるべしとこそ存ずれ。」

と宣ひければ、

「最も。此の儀、然るべし。」

とて、其の定めに返事せられけり。

 木曾、是を聞きて、

「降人とは何事ぞ、武士の身と生まれて、手を合はせ、膝をかゞめて敵に向はん事、身の恥、家の疵(きず)なり。昔より源平力を竝べて、士卒、勢を諍(あらそ)ふ、今更、平家に降(かう)を乞ふべからず。頼朝返りきかん事も、後代(こうだい)の人の口も面目(めんぼく)なし。」

とて降(がう)ぜざりけり。

 木曾、都へ打ち入りて後は、在々所々を追捕して、貴賤上下、安堵せず、神領・寺領を押領して、國衙(こくが)。庄園、牢籠(らうろう)せり。はては、法住寺の御所を燒き亡ぼして、法皇を押し籠め奉り、高僧・侍臣を討害(とうがい)し、公卿・殿上人を誡(いまし)め置き、四十九人の官職を止(とゞ)めなんど、平家、傳へ聞きて、寄り合ひ々々口々(くちぐち)に申されけるは、君も臣も山門も南都も、此の一門を背きて源氏の世になしたれども、人の歎きはいやましましなりと嬉しき事におぼして、興に入てぞ笑ひ勇み給へる。権亮(ごんのすけ)三位中將維盛[やぶちゃん注:故重盛の嫡男。この直後に脱走し、那智の沖で入水したとされる。]は、月日の過ぎ行く儘(まゝ)には、明けても晩れても故鄕のみ戀しく思(おぼ)しければ、假初(かりそめ)なる人をも語らひ給はず、與三兵衞重景[やぶちゃん注:「よさうびやうゑしげかげ」。]、石童丸[やぶちゃん注:「いしどうまる」。]など、御傍(そば)近く臥して、

「さても此人人は如何なる形勢(ありさま)にて、いかにしてか御座(おはしま)すらん、誰かは哀れ、糸惜(いとほし)共(とも)云ふらん、我身の置き所だにあらじに、少(をさな)き者共(ども)をさへ引き具して、いか計りの事、思ふらん、振り捨てて出でし心づよさも去る事にて、急ぎ迎へとらんとすかし置きし事も程經(ふ)れば、如何に恨めしく思ふらん。」

なんど、宣ひつゞけて、御淚(おんなみだ)せきあへず流し給けるぞ糸惜(いとほ)しき。

 北の方は、此の有樣(ありさま)傳へ聞き給て、

「只だ、いかならん人をも語らひ給ひ、旅の心をも慰め給へかし、さりとても愚かなるべきかは、心苦くこそ。」

とて、常は引きかづき臥し給ふ。盡きせぬ物とては、是も、御淚ばかりなり。

   *

なお、筑摩書房全集類聚版注では、これを『巻三十八にみえる新中納言知盛のことば』とするのであるが、巻三十八のそれは、恐らく一番近いのは、「熊谷(くまがへ)、敦盛の頸を送る竝びに返狀の事」の初めの部分(同じく国立国会図書館デジタルコレクションの画像)、かの知られた熊谷直実が敦盛の首を泣く泣く取った後のシーンで、熊谷の心内語として『弓矢取る身とて、なにやらん子孫の後(のち)を思つゝ』とあるもので、これを或いは誤認したものではないかとも思われる。万一、そこに知盛の台詞としてあるというのであれば、お教え願いたい。

「大番」「おほばん」。大番役(おおばんやく)のこと。平安後期から室町初期にかけて地方の武士に京(鎌倉時代には京と鎌倉両方)の警護を命じた時限の警備役職を指す。

「法皇幽屛」清盛が治承三(一一七九)年十一月十四日に起こしたクーデターにより、後白河法皇は同月二十日、法住寺殿から洛南の鳥羽殿に連行されて幽閉されたことを指す。]

 

しかも、天下の風雲は日に日に急にして、革命的氣運は、將に暗潮の如く湧き來らむとす。是に於て、彼等の野心は、漸に動き來れり。野心は如何なる場合に於ても人をして、其力量以上の事業をなさしめずンばやまず。泰山を挾みて北海を越えしむるものは野心也。精衞をして滄溟を埋めしむるものは野心也。所謂天民の秀傑なる、智勇辨力ある彼等が、大勢の將に變ぜむとするを見て、抑ふべからざる野心を生じ來れる、固より宜なり。既に彼等にして、其最大の活動力たる、野心と相擁す、彼等が天荒を破つて、革命の明光を、捧げ來る[やぶちゃん注:「きたる」。]日の、近かるべきや知るべきのみ。啻に[やぶちゃん注:「ただに」。]野心に止らず、平氏の暴逆は、又彼等をして、二十周星の久しきに及びて、殆ど忘れられたる源氏の盛世を、想起せしめたり。彼等は彼等が、旌旗百萬、昂然として天下に大踏[やぶちゃん注:「おほぶみ」か。]したる、彼等が得意の時代を追憶したり。而して、顧みて、平氏の跳梁を見、源氏の空しく蓬蒿の下に蟄伏したるを見る、彼等が懷舊の淚は、滴々、彼等が雄心を刺戟したり。彼等はかくの如くにして、彼等の登龍門が今や目前に開かれたるを感じたり。彼等は其傳家丈八の綠沈槍を、ふるふべき時節の到來したるを覺りたり。治承四年、長田入道が、惶懼、書を平忠淸に飛ばして、東國將に事あらむとするを告げたるが如き、革命の曙光が、既に紅を東天に潮したるを表すものにあらずや。

[やぶちゃん注:「泰山を挾みて北海を越えしむる」「太山を挾みて北海を超ゆ」。途轍もなく高く大きな太山(山東省泰安市ある泰山(グーグル・マップ・データ。その東北の遼東半島と山東半島の間にある湾状海域が渤海)。標高千五百四十五メートルで最高峰は玉皇頂と呼ぶ)を脇に抱えて、北海(渤海)を飛び越えること。「人の力ではどうにも出来ないこと」を喩えたもの。「孟子」の「梁惠王 上」の一節。

   *

曰、不爲者與不能者之形、何以異、曰、挾太山以超北海、語人曰我不能、是誠不能也、爲長者折枝、語人曰我不能、是不爲也、非不能也、故王之不王、非挾大山以超北海之類也、王之不王、是折枝之類也。[やぶちゃん注:以下略。]

(曰く、「爲(な)さざると、能(あた)はざるとの形は、何以(いか)に異なるや。」と。曰く、「太山を挾(わきばさ)みて以つて北海を超えんこと、人に語りて『吾れ能はず』と曰ふは、是れ、誠に能はざるなり。長者[やぶちゃん注:目上の人。]の爲めに枝(し)[やぶちゃん注:「肢」。手足。]を折ること[やぶちゃん注:手足を曲げて正しく礼をすること。]、人に語りて『我れ能はず』と曰ふは、是れ、爲さざるなり。能はざるに非ざるなり。故に王の王たらざるは、大山を挾みて以つて北海を超ゆるの類ひにあらざるなり、王の王たらざるは、是れ枝を折るの類ひなり。)

   *

「精衞をして滄溟を埋めしむる」「精衞」とは古代中国の女神女娃(じょあ)が変じたという化鳥(けちょう)の名。ウィキの「女娃」によれば、「山海経」の「北山経」によれば、天帝の一柱として『南方を守護する炎帝神農氏の少女(末女)で』あったが、『東海地方(推定』で現在の山東地方辺りの『黄海沿岸部)を遊歴中に海』で『溺死し、その恨みを晴らすべく』、『鳥と化して』、現在の太行山脈の中の、山西省にある『発鳩山(はつきゅうさん)』『に棲み、東海を埋めんと』、『周囲の山から木石を銜え運んで』は『海中に投下するようになったといい、化した後の姿は烏に似て』、『頭に文様があり』、『嘴は白く足は赤く、「セイエイ、セイエイ」と鳴く』ことから、『精衛(せいえい)と名付けられた』『という』とある。無論、「滄溟」(そうめい)=大海は遂に(というか今も)埋めることは出来ていないわけで、これ全体で「不可能」の喩えである。

「天荒を破つて」「破天荒」に同じ。前人の成し得なかったことを初めてやること。「前代未聞」「未曽有」に同じい。唐の時代、荊州の地からは、毎年、多くの人が科挙を受けに来たが、合格者が全く出ないため、この地方は「天荒」(原義は「未開の荒地」)と呼ばれていた。ところが、荊州の劉蛻(りゅうぜい)という者が始めて合格したため、「天荒を破った」と言われたことに由来するという。

「二十周星」これは「二十一紀」と同じで、中国の古天体学で歳星(木星)が天空を一周する期間を「一紀」=十二年としたもの。則ち、二百四十年。判り易く、の「壇ノ浦の戦い」(一一八五年四月二十五日)から機械的に逆算すると、天慶八(九四五)年前後となるが、まさに清和源氏の始祖とされる源経基(応和元(九六一)年?:「保元物語」によれば父は清和天皇の第六皇子貞純親王)がまさに生きていた時期で腑に落ちる。

「旌旗」「せいき」。旗や幟(のぼり)。軍旗。「旌」は旗竿の先に「旄(ぼう)」と称した旗飾りを附け、これに鳥の羽などを垂らした旗を指し、古く天子が士気を鼓舞するのに用いた。

「蓬蒿」「ほうかう(ほうこう)」。ヨモギ(キク目キク科キク亜科ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii)の生えた草叢。

「丈八の綠沈槍」一丈八尺の長大な、かの名槍「綠沈槍」のようなもの。蜀の名将姜維が持っていたという名槍の愛称。陸游の詩「隴頭水」に「壯士夜挽綠沈槍」(壯士 夜 挽(ひ)く 綠沈槍)と出てくる。漢詩サイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の同詩を見られたい。

「長田入道」義朝を騙し討ちにした長田忠致(おさだただむね ?~建久元(一一九〇)年?)。ウィキの「長田忠致」によれば、『長田氏は桓武平氏良兼流で』、「尊卑分脈」によれば、『忠致は道長四天王の』一『人とされた平致頼の』五『世孫にあたる。尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)を本拠地とし、平治年間には源氏に従っていたという。平治元年』(一一五九年)、「平治の乱」に『敗れた源義朝は、東国への逃避行の途中、随行していた鎌田政清の舅である忠致のもとに身を寄せる。しかし、忠致・景致父子は平家からの恩賞を目当てに義朝を浴場で騙し討ちにし、その首を六波羅の平清盛の元に差し出した。この際、政清も同時に殺害されたため、嘆き悲しんだ忠致の娘(政清の妻)は川に身を投げて自殺したとされる。また、兄の親致は相談を持ちかけられた際、その不義を説いていたが、前述のような事件が起きてしまい、乳母の生まれ故郷である大浜郷棚尾に移り住んだという』。『義朝を討った功により』、『忠致は壱岐守に任ぜられるが、この行賞に対してあからさまな不満を示し「左馬頭、そうでなくともせめて尾張か美濃の国司にはなって然るべきであるのに」などと申し立てたため、かえって清盛らの怒りを買い』、『処罰されそうになり、慌てて引き下がったという。そのあさましい有様を』、「平治物語」は終始』、『批判的に叙述している』。『後に源頼朝が兵を挙げると』、『その列に加わる。忠致は頼朝の実父殺しという重罪を負う身であったが、頼朝から寛大にも「懸命に働いたならば』、『美濃尾張をやる」と言われたため、その言葉通り』、『懸命に働いたという。しかし平家追討後に頼朝が覇権を握ると、その父の仇として追われる身となり、最後は頼朝の命によって処刑されたという。その折には「約束通り、身の終わり(美濃尾張)をくれてやる」と言われたと伝えられている。処刑の年代や場所、最期の様子については諸説があって判然としないが』、「保暦間記」によると、建久元(一一九〇)年十月の『頼朝の上洛の際に、美濃で斬首されたことになっている。また』、治承四(一一八〇)年十月に、「鉢田(はちた)の戦い」(武田信義・北条時政と駿河国目代橘遠茂・長田入道との間に起こった戦い)で『橘遠茂とともに武田信義に討たれたとする説』『がある。また』、『処刑方法も打ち首ではなく』、『「土磔(つちはりつけ)」と言って』、『地面の敷いた戸板に大の字に寝かせ、足を釘で打ち磔にし、槍で爪を剥がし』、『顔の皮を剥ぎ、肉を切り』、『数日かけて殺したという。刑場の高札には「嫌へども命のほどは壱岐(生)の守』(かみ)『身の終わり(美濃・尾張)をぞ今は賜わる」という歌が書かれていた』という。『その後、子孫は武田氏を頼って甲斐国へ逃げたという説もあり、山梨県に今でも長田家は存在する。また、徳川氏譜代家臣の永井氏や長田氏は忠致の兄・親致の後裔を称している』とある。なお、筑摩書房全集類聚版注は名を『長田忠政』と誤っている。

「惶懼」「くわうく(こうく)」。恐れ畏(かしこ)まること。恐れ入ること。恐懼。

「平忠淸」藤原忠清(?~文治元(一一八五)年)。平氏の家人。別名、忠景、伊藤五とも称した。伊勢を本拠とする平氏累代の家人の家に生まれ、「保元の乱」に参戦。治承三(一一七九)年の政変後には従五位下・上総介に任ぜられている。また坂東八ヶ国の侍を奉行したとされ、翌年の源頼朝挙兵の際、追討軍の大庭景親に指示を下している。「富士川の戦い」には副将として参戦したが、平氏の不利を察知し、総大将の平維盛に退却を勧めている。清盛の死後、出家し、平氏の都落ちには同道せず、京に留まったが、元暦元(一一八四)年、平田家継らの蜂起に参加したが、翌年、志摩で捕らえられ、京の六条河原で斬首された。一族とともに平氏軍制の中核を占めた家人であった(ここは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

 

今や熱烈なる東國武士の憤激と、彼等が胸腔に滿々たる野心と、復古的、革命的の思想を鼓吹すべき、懷舊の淚とは、自ら一致したり。若し一人にしてかくの如くンば一人を擧げて動く也。天下にしてかくの如くンば、天下を擧げて動く也。動亂の氣運、漸に天下を動かすと共に、社會の最も健全なる部分――平氏政府の厄介物たる、幾十の卿相、幾百の院の近臣、幾千の山法師、はた幾萬の東國武士の眼中には、既に平氏政府の存在を失ひたり。彼等の腦裡には、入道相國も一具の骸骨のみ。平門の畫眉涅齒も唯是瓦鷄土犬[やぶちゃん注:「ぐわ(が)けいどけん」。]のみ。西八條の碧瓦丹檐[やぶちゃん注:「へきぐわ(が)たんえん」。]も、亦丘山池澤[やぶちゃん注:「きう(きゅう)ざんちたく」。]のみ。要言すれば、社會の直覺的本能は、既に平氏政府の亡滅を認めたり。反言すれば、精神的革命は既に冥默の中に、成就せられたり。夫、燈は油なければ、卽ち滅し、魚は水なければ、卽ち死す。天下の人心を失ひたる平氏政府が、日一日より、沒落の悲運に近づきたる、豈、宜ならずとせむや。然り、桑樹に對して太息する玄德、靑山を望ンで默測する孔明、玉璽[やぶちゃん注:「ぎよくじ」。]を擁して疾呼する孫堅、蒼天を仰いで苦笑する孟德、蛇矛[やぶちゃん注:「だぼう」。]を按じて踊躍[やぶちゃん注:「ようやく」。]する翼德、彼等の時代は漸に來りし也。之を譬ふれば、當時の社會狀態は、恰も蝕みたる[やぶちゃん注:「むしばみたる」。]老樹の如し。其仆るゝや、日を數へて待つべきのみ。天下動亂の機は、既に熟したる也。

[やぶちゃん注:「西八條」清盛の邸宅があった場所。「平安京探偵団」のサイト「平安京を歩こう」によれば(地図有り)、現在の『梅小路公園とJR東海道線と山陰線の線路敷地にあたり』で、『梅小路公園の中には』『説明板が立てられてい』るとある。その地図から見ると、現在の京都府京都市下京区八条坊門町(グーグル・マップ・データ)とほぼ一致するようである。

「反言」「はんげん」。言い換えること。

「桑樹に對して太息する玄德」「玄德」は蜀漢の初代皇帝劉備(一六一年~二二三年)の字(あざな)。ウィキの「劉備」によれば、「漢晋春秋」に『幼い時に、家の前に生えている大きな桑の木を見て少年だった劉備は「僕も大きくなったら、天子の乗っている馬車に乗るんだ」と言った(天子の馬車は桑の木で出来ている)。その際、叔父の劉子敬(劉弘の弟)が劉備の口を塞ぎ』、『「滅多なことを言うでない、そんなことを口に出すだけで、わが一族は皆殺しの刑に遭うぞ」と叱責したという』とあるのに基づく。

「靑山を望ンで默測する孔明」「孔明」は蜀漢の政治家・軍師であった諸葛亮(一八一年~二三四年)の字。気象予報士松岡賢也氏の「新気象学(その四十二):レッドクリフ(赤壁の戦い)」(ワード文書でダウン・ロード可能)に、『諸葛孔明は普段からこの』赤壁の『地を散策し、四季において観察し、風の動き、雲の動き、山や河の地勢に通じ、観察による正確な科学的気象学の目を持っていたのではないかと考えられている。現在の我々気象予報士は数値予報による天気図、衛星画像、気象レーダー等を用いて前線の通過及び風向の変化を正確に時間単位で予想することができるが』、『今から約』千八百『年前にこれらの近代兵器を持たない孔明が』、『風向の変化を経験と五感(観天望気)で予知していた事が事実とすると』、『たいへんな優秀な隠れ気象予報士とも考えられる。祈祷師のような行動は単なる表面上のパーフォーマンスに過ぎないとも考えられる。現在、オカルト学者孔明科学者孔明の虚実両面の諸葛孔明観が浮かび上がってくるが』、『どちらが正しいかは今後の研究によってもっと明らかになってくるものと考えられる』と語られ(太字はママ)、当地の『「南屏山(なんべいざん)に祈祷のための七星壇(しちせいだん)を築いて結界を作ってください」と依頼した』こと、『軍議にて「暖冬の折りに、東の空が黒い気に覆われ、太陽の輝きが気に隠れている、という現象が重なると、長江沿岸の山が険しく川幅の広い』九『つの場所で穏やかな南東の風である陸湖風(りくこふう)が起こる」』(この部分引用原文では赤字)と述べこと、山と川との関係から川霧の発生を予見していたこと等が記されており、芥川の言うところとよく一致するように思われる。非常に興味深い論文なので、是非読まれんことをお薦めする。

「玉璽を擁して疾呼する孫堅」三国時代の呉を建国した孫権の父孫堅(一五五年又は一五六年~一九一年又は一九二年)。ウィキの「孫堅」によれば、「三国志演義」の第六回で、『孫堅は董卓の政略結婚による懐柔をそでにし、焼け落ちた洛陽の復興作業に着手して陵墓を塞ぐ。その最中、宮中の古井戸に身を投げた貴人の遺体から印璽を発見する。程普によって印璽が伝国璽だと判明すると、野心を胸に抱くようになり、発見した玉璽を隠匿する。その現場を目撃した者が袁紹に告げ口したので、孫堅は諸侯の前で釈明を求められる。孫堅はそこで「真実、私が玉璽を隠匿していたなら、命を全うすることなく戦禍によって死ぬ事になるだろう」』『と啖呵を切り、嘘をつき通したので、諸侯はその言葉を信用する。しかし、袁紹が証人を場に呼ぶと、孫堅は咄嗟に剣を抜き、切り捨てようとする。これら一連の行為によって分の悪くなった孫堅は、洛陽からいち早く陣を引き上げる。諸侯は疑心暗鬼に陥り、反董卓連合軍は解散』してしまい、『ますます疑いを深めた袁紹は、帰途にある孫堅を劉表に攻撃させ、玉璽を奪う事を画策する』とあるのに基づくものであろう。

「蒼天を仰いで苦笑する孟德」「孟德」は後漢末の武将で政治家の曹操(一五五年~二二〇年)の字。私は「三国志」に冥いので何とも言えないが、曹操の名言の一つである「英雄は天に先んず」辺りとの絡むか。

「蛇矛を按じて踊躍する翼德」後漢末から蜀の将軍で政治家の張飛(?~二二一年)の字。但し、本来は「益德」が正しい。バルカ氏のサイト内の「三国志」の「張飛の字は益徳か翼徳か?」に、『張飛の字(あざな)は、小説によっては「益徳」であったり、また「翼徳」であったり』するが、正史「三国志」の「蜀書」の「張飛伝」では『「益徳」とされているので、こちらが正解で』あるとされた後、しかし『元代の「中原音韻」という書』では、「益」と「翼」は同音とされており、『現代の中国語でも、「益」と「翼」はどちらも「yi(イー)」で同音で』、『古代の文献では、同音による誤字や当て字が頻繁なので、張飛の字』の誤用も『その例の一つ』であろうとある。「蛇矛」とはウィキの「蛇矛」によれば、「じゃぼう」とも読み、『柄が長く、先の刃の部分が蛇のようにくねくねと曲がっているため、そう呼ばれる矛』で、小説「三国志演義」の中で、『程普や張飛が使う武器で、劉備、関羽と義兄弟の契りを結び、義兵団を結成したとき(桃園結義)に、劉備の「雌雄一対の剣」と、関羽の「八十二斤の青龍偃月刀」と一緒に張飛がそろえさせたものだといわれている。小説』「水滸伝」に『登場する林冲も張飛になぞらえ、この武器を使っている』。『実際にこのような武器が生まれたのは、三国時代や北宋時代よりもさらに後年の』、「三国志演義」や「水滸伝」が掻かれた『明の時代であるといわれている。一丈八尺(』約四・四〇メートル、一説には六メートル『以上)で』、『敵を刺したときに、傷口を広げ』、『よりダメージを大きくさせることを目的としている』とある。ウィキの「張飛」にも、「三国志演義」には、張飛は身の丈八尺(約一メートル八十四センチ)もあり、『豹のようなゴツゴツした頭にグリグリの目玉、エラが張った顎には虎髭、声は雷のようで、勢いは暴れ馬のよう(「身長八尺 豹頭環眼 燕頷虎鬚 聲若巨雷 勢如奔馬」)』『と表される容貌に、一丈八尺の鋼矛「蛇矛(だぼう)」を自在に振るって戦場を縦横無尽に駆ける武勇を誇る武将として描かれている』とある。グーグル画像検索「蛇矛」をリンクさせておく。]

 

「外よりは手もつけられぬ要害を中より破る栗のいがかな。」しかも平氏が堂上の卿相四十三人を陟罰して、後白河法皇を鳥羽殿に幽し奉り、新院に迫りて其外孫たる三歲の皇子を册立せし橫暴は、更に、其亡滅の日をして早からしめたり。是に於て、小松内大臣の薨去によりて我事成れりと抃舞したる、十のマラー、百のロベスピエールは、平氏政府の命數の既に目睫に迫れるを見ると共に、劍を撫し手に唾して、蹶起したり。

[やぶちゃん注:「外よりは手もつけられぬ要害を中より破る栗のいがかな。」筑摩書房全集類聚版注に『出典未詳』とする。しかし、これ、例えば、新渡戸稲造の「自警録」(昭和四(一九二九)年刊。リンク先は「青空文庫」)の第三章の末尾、「己おのれに克かつものが世界に勝つ」の条の一節に、

   *

[やぶちゃん注:前略。]精神的勇気を養わなければ、真の強い人となることは出来ぬ。真に克(か)つ者は己(おの)れに克(か)つを始めとなすべく、しかして後に人に克つべし。しかるに往々この順序を逆にするから結果がおもしろくなくなる。

   外(そと)よりは手もつけられぬ要害を内より破る栗(くり)のいがかな

 栗(くり)のいがも強さを助くるものではあろうが、これが力であると思うは大間違いである。力は内にある確信と、この確信を実行するためにあらゆる障害に堪(た)える意志である、しかしてかくして得たる力が真に強き力である。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

と殆んど同じ狂歌が出るし、調べたところ、福成寺大仙述の「親鸞聖人 高祖聖人四幅御絵伝の御絵解(上巻)」(PDF)」の「第八段 入西観察之段」の「石を枕」(四十五~四十六ページ目)の絵解き文句の中にも、『要害を内から破る栗のいが』という相似内容の川柳染みたものが出るから、人口に膾炙したものであることは間違いない。但し、表現から見て江戸も中期以降のものではあろうと思われる。

「鳥羽殿」現在の京都市南区上鳥羽及び伏見区下鳥羽・竹田・中島附近。朱雀大路の延長線上にあった(平安京の羅城門から南に約三キロメートル)。敷地面積は百八十万平方メートルにも及んだ(以上はウィキの「鳥羽離宮」に拠った)。この鴨川と桂川の合流地点である中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「新院」元の高倉天皇応保元(一一六一)年~治承五(一一八一)年/在位:仁安三(一一六八)年~治承四(一一八〇)年三月(病死))。後白河天皇第七皇子。

「平氏が堂上の卿相四十三人を陟罰して」既に注した、治承三(一一七九)年十一月に清盛が軍勢を率いて京都を制圧し、後白河院政を停止した「治承三年の政変」の際に行った「陟罰」(ちよくばつ(ちょくばつ):官位を上げることと罰すること)。ウィキの「治承三年の政変」によれば、十一月十四日、『清盛は数千騎の大軍を擁して福原から上洛、八条殿に入った。京都には軍兵が充満し、人々は何が起こるか分からず』、『騒擾を極めた』。翌十五『日、基房・師家が解官され、正二位に叙された基通が関白・内大臣・氏長者に任命された。清盛の強硬姿勢に驚いた後白河は、静賢(信西の子)を使者として今後は政務に介入しないことを申し入れたため、一時は関白父子の解任で後白河と清盛が和解するのではないかという観測も流れた』が、十六日には『天台座主・覚快法親王が罷免となり』、『親平氏派の明雲が復帰』し、十七日、『太政大臣・藤原師長以下』三十九『名(公卿』八『名、殿上人・受領・検非違使など』三十一『名)が解官される。この中には一門の平頼盛や縁戚の花山院兼雅などが含まれており、この政変の発端となった越前守の藤原季能にしても清盛の次男の平基盛の娘が妻であった。諸国の受領の大幅な交替も行われ、平氏の知行国はクーデター前の』十七『ヶ国から』三十二『ヶ国になり、「日本秋津島は僅かに』六十六『ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり」(『平家物語』)という状態となった』。十八日、『基房は大宰権帥に左遷の上で配流、師長・源資賢の追放も決まった』(ここまでの解任者を数えると、ほぼ芥川龍之介の言う「四十三人」ほどになる)。『これらの処置には除目が開催され、天皇の公式命令である宣命・詔書が発給されていることから、すでに高倉天皇が清盛の意のままになっていたことを示している』。二十日の午前八時頃、『後白河は清盛の指示で鳥羽殿に移された。鳥羽殿は武士が厳しく警護して信西の子(藤原成範・藤原脩範・静憲)と女房以外は出入りを許されず幽閉状態となり、後白河院政は停止された。清盛は後の処置を宗盛に託して、福原に引き上げた。次々と院近臣の逮捕・所領の没収が始まり、院に伺候していた検非違使・大江遠業は子息らを殺害して自邸に火を放ち自害、白河殿倉預の藤原兼盛は手首を切られ、備後前司・藤原為行、上総前司・藤原為保は殺害されて河へ突き落とされた』。『後白河の第三皇子である以仁王も所領没収の憂き目にあい、このことが以仁王の挙兵の直接的な原因となった』とある。

「小松内大臣の薨去」既に注した重盛の逝去。「治承三年の政変」に先立つ三月半前の治承三年閏七月二十九日(一一七九年九月二日)。

「マラー」(Jean-Paul Marat 一七四三年~一七九三年)はフランスの革命家。「フランス革命」にあたって『人民の友』紙を発刊し、民衆の運動を賞賛。国民公会議員に選出後は、「山岳派」(Montagnards:フランス革命期の国民公会に於ける左翼系議員の集団を指す。議場内の高い位置にある座席を占めたのでこの名がつけられた)の指導者として活躍した。「ジロンド派」(Girondins:フランス革命期の立法議会・国民公会における党派の一つ。党名は指導者の内の三人がジロンド県出身の議員であったことに由来する。商工業ブルジョアジーを代表する穏健な共和主義派で、「ジャコバン派」(Jacobins:パリのジャコバン修道院内に本部を置いた、フランス革命期の急進的政治党派。マラー・ダントン・ロベスピエールらを指導者としてジロンド派と対立、一七九三年から独裁体制を執り、恐怖政治を行ったが、一七九四年の「テルミドールの反動(クーデタ)」(Raction thermidorienne)で瓦解した)と対立。一時は多数を占めたが、一七九三年、国民公会から追放された)没落後、支持者の女性に刺殺された。

「ロベスピエール」マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(Maximilien François Marie Isidore de Robespierre 一七五八年~一七九四年)はフランスの政治家。大革命期の一七九二年に国民公会の議員となり、「ジャコバン派」の中心人物として「ジロンド派」を追放し、「革命の防衛」の名の下に恐怖政治を強行、封建制の全廃などの諸改革を行ったが、「テルミドールの反動」によって処刑された。]

 

夫、天下は平氏の天下にあらず、天下は天下の天下也。平門の犬羊、いづれの日にか、其跳梁を止めむとする。

 

嗚呼、誰か天火を革命の聖檀に燃やして、長夜の闇を破るものぞ、誰か革命の角笛を吹いて、黑甜の逸眠を破るものぞ。果然、老樹は仆れたり。平等院頭、翩々として、ひるがへる白旗を見ずや。

[やぶちゃん注:「黑甜鄕裡」「こくてんきやうり(きょうり)」。「黑甜」は「昼寝」或いは「ぐっすりと安眠すること」。「昼寝心地よい夢の世界の中」の意。

「平等院」ウィキの「以仁王の挙兵」によれば、治承四(一一八〇)年に高倉天皇の兄宮である以仁王と源頼政が打倒平氏を掲げて挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発したが、計画の準備不足のために露見してしまい、逆に平氏の追討を受け、以仁王と頼政は「宇治平等院の戦い」で五月二十六日に敗死し、『早期に鎮圧された。しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である』「治承・寿永の乱」が勃発した。]

 

然り、革命の風雲は、細心、廉悍の老將、源三位賴政の手によつて、飛ばされたり。

[やぶちゃん注:「廉悍」毅然としてきびきびしており元気がよいこと。

「源三位」(げんさんみ)「賴政」(長治元(一一〇四)年~治承四(一一八〇)年)源仲正の長男で「平治の乱」では平清盛方につき、平家政権下で唯一、源氏として残ったが、最後に挙兵を図るも、破れて自死した。享年七十七歳。鵺(ぬえ)退治の伝説や歌人としても著名である。ウィキの「源頼政」によれば、彼は酒呑童子退治で知られる源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年:平安中期の武将。鎮守府将軍源満仲の長子で清和源氏第三代。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれる。異母弟に「大和源氏」の源頼親、後に義家・義朝・頼朝へ連なる武家源氏の主流となる「河内源氏」の源頼信がいる)『の系統の摂津源氏で、畿内近国に地盤を持ち中央に進出し、朝廷や摂関家近くで活動する京武士だった。摂津国渡辺(現在の大阪市中央区)を基盤とし、当地の滝口武者の一族である嵯峨源氏の渡辺氏を郎党にして大内守護(皇室警護の近衛兵のようなもの)の任に就いていた』。『頼政は平氏政権下で中央政界に留まり、源氏の長老の位置を占めた』。仁安二(一一六七)年、『従四位下に昇叙。頼政は大内守護として、嫡男の仲綱とともに二条天皇・六条天皇・高倉天皇の三代に仕え、また』、『後白河法皇の武力として活動している』。安元三(一一七七)年に、『院近臣の西光と対立した延暦寺大衆が強訴に攻め寄せた時には』、『平重盛らとともに御所の警護に出動している』。永く『頼政の位階は正四位下』であった『が、従三位からが公卿であり、正四位とは格段の差があった』。七十『歳を超えた頼政は一門の栄誉として従三位への昇進を強く望んで』おり、治承二(一一七八)年になって、やっと『清盛の推挙により念願の従三位に昇叙した』。「平家物語」巻第四の「鵺」では、清盛が『頼政の階位について完全に失念しており』、そこで頼政が、

 上(のぼ)るべき便り無き身は木(こ)の下(もと)に椎(しゐ)を拾ひて世を渡るかな[やぶちゃん注:「椎」に「四位」を掛けた。]

『という和歌を詠んだところ、清盛は初めて頼政が正四位に留まっていたことを知り、従三位に昇進させたという』。『史実でも』、『この頼政の従三位昇進は相当』な『破格の扱いで、九条兼実が日記』「玉葉」に『「第一之珍事也」と記しているほどである』(次の段で芥川龍之介が「未」だ「其」の「比」(ひ)「を見ざる」というのはそれを言っている)。『清盛が頼政を信頼し、永年の忠実に報いたことになる。この時』既に七十四『歳であった』とある。]

 

彼は、源攝津守賴光の玄孫、源氏一流の嫡流なりき。然れども、平治以降、彼は、平氏を扶けたるの多きを以て、對平氏關係の甚、圓滿なりしを以て、平氏が比較的彼を優遇したるを以て、平氏を外にしては、武臣として、未其比を見ざる、三位の高位を得たり。若し彼にして平和を愛せしめしならば、或は榮華を平氏と共にして、溫なる昇平の新夢に沈睡したるやも亦知るべからず。さはれ、老驥櫪に伏す。志は千里にあり。彼は滔々たる天下と共に、太平の餘澤に謳歌せむには、餘りに不覊なる豪骨を有したりき。彼は、群を離れたる鴻雁なれども、猶萬里の扶搖を待つて、双翼を碧落に振はむとするの壯心を有す。彼は平門の紈袴子が、富の快樂に沈醉して、七香の車、鸚鵡の盃、揚々として、芳槿一朝の豪華を誇りつゝありしに際し、其烱眼を早くも天下の大勢に注ぎたり。而して、彼は既に、平門の惰眠を破る曉鐘の聲を耳にしたり。彼は思へり、「平家は、榮華身に餘り、積惡年久しく、運命末に望めり」と。彼は思へり、「上は天の意に應じ、下は地の利を得たり、義兵を擧げ逆臣を討ち、法皇の叡慮を慰め奉らむ」と。彼は思へり、「六孫王の苗裔、源氏の家子郞等を、駈具せば天が下何ものをか恐るべき」と。胸中の成竹既に定まる。彼は是に於て、其袖下に隱れて大義を天下に唱ふべき名門を求めたり。而して彼の擁立したるは、實に後白河法皇の第二の皇子、賢明人に超え給へる、而して未親王の宣下をも受け給はざる、高倉宮以仁王なりき。見よ。彼の烱眼は此點に於ても、事機を見るに過たざりし[やぶちゃん注:「あやまたざりし」。]にあらずや。彼は近く平治の亂に於て主上上皇の去就が、よく源平兩氏の命運を制したるを見たり。彼は、朝家を挾ンで天下に號令するの、天下をして背く能はざらしむる所以なるを見たり。而して彼は、宣旨院宣、共に平氏の手中に存するの時に於て、九重雲深く濛として、日月を仰ぐ能はざるの時に於て、革命の壯圖を鼓舞せしむるに足るは、唯、竹園の令旨のみなるを見たり。然り、最も天下の同情を有する竹園の令旨のみなるを見たり。彼が以仁王を擁立したる所以は、實に職として是に存す。かくの如くにして彼の陰謀は、步一步より實際の活動に近き來れり[やぶちゃん注:「ちがづききたれり」。]。而して治承四年五月、革命の旗は遂に、皓首の彼と長袖の宮との手によつて、飜されたり。天下焉ぞ雲破れて靑天を見るの感なきを得むや。

[やぶちゃん注:「老驥櫪に伏す。志は千里にあり」「老驥(ろうき:老いた駿馬)櫪(れき:馬を繫いでおく横木)に伏す」とも「志」(こころざし)「は千里にあり」で、駿馬は老いて厩(うまや)に繋がれても、なお、千里を走ることを思うこと。「英雄俊傑の老いてもなお志を高く持って英気の衰えぬさま」の喩え。「曹操」の詩「碣石(けつせき)篇」の一節、

 老驥伏櫪

 志在千里

 烈士暮年

 壮心未已

「鴻雁」「こうがん」。雁(かり・がん)。「鴻」はここではガンの大きなもの。ガンについては「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」の私の注を見られたい。

「扶搖」「ふえう(ふよう)」。旋風(つむじかぜ)であるが、ここは「萬里の」とあるので、その強力なもの、台風・暴風の謂い。

「碧落」大空、或いは遠い場所。

「紈袴子」既出既注であるが、特別に再掲しておく。「ぐわんこし(がんこし)」。「紈袴」は白練りの絹で仕立てた袴のことで、昔、中国で貴族の子弟が着用したことから、転じて「紈袴子」で「貴族の子弟」、特にその「柔弱な者」を指す。

「七香の車」「しちかう(こう)のくるま」。種々の香木で拵えたような、優れて美しく飾った牛車(ぎっしゃ)。

「鸚鵡の盃」「あうむのさかづき(おうむのさかずき)」。オウムガイ(頭足綱四鰓(オウムガイ)亜綱オウムガイ目オウムガイ科オウムガイ属オウムガイ Nautilus pompilius)で拵えた酒杯。オウムガイは私の『オウムガイ(松森胤保「両羽(りょうう)博物図譜」より)』『毛利梅園「梅園介譜」 鸚鵡螺』を参照されたい。孰れも図有り。中国では古くから本種の貝殻を加工し酒の盃としたものが好まれた。中文サイト「中華酒文化」の「隋唐酒器:鸚鵡杯」で、明らかにオウムガイを用いた唐代の酒器「鸚鵡杯」の写真が見られる。また、同じものが載る中文サイト「每日頭條」の「鸚鵡螺杯,歐洲皇室的奢華器皿!」の、一九六五年に南京象山東晉王興の夫婦墓から出土した「鸚鵡螺杯」も、同種の外形をよく残した上(最初の隔壁の中央の水管部を封じてあるのであろう)、内部の隔壁を見せて飾りとして添えてあるもので、必見!

「芳槿」「はうきん(ほうきん)」。アオイ目アオイ科アオイ亜科フヨウ連フヨウ属 Hibiscus 節ムクゲ Hibiscus syriacus、或いはアサガオ(ナス目ヒルガオ科ヒルガオ亜科 Ipomoeeae 連サツマイモ属アサガオ Ipomoea nil)の別名。中国では古くは前者を指したものと考えられる。

『彼は思へり、「平家は、榮華身に餘り、積惡年久しく、運命末に望めり」と。彼は思へり、「上は天の意に應じ、下は地の利を得たり、義兵を擧げ逆臣を討ち、法皇の叡慮を慰め奉らむ」と。彼は思へり、「六孫王の苗裔、源氏の家子郞等を、駈具せば天が下何ものをか恐るべき」と』以上は孰れも、「源平盛衰記」巻第十三の「高倉宮廻宣」の、治承四(一一八〇)年四月九日、頼政が以仁王を訪れて挙兵の趣きをびしっと語り上げて、宣旨を受け取る中の、彼の語りの一節を引用或いは加工したものである。最初の「平家は、榮華身に餘り、……」の部分は、ここ(先に引いた国立国会図書館デジタルコレクションの当該部画像)の右ページの八~九行目(そこでは積惡年久しく」は「惡行年久成(なつ)て」)、次の「上は天の意に應じ、……」は同じ画像の左ページの(漢文体箇所になっている)四~五行目(画像を訓読すると、「上、天意に應じ、下、地の利を得たり、義兵を擧げて逆臣(げきしん)を討つて、法皇の叡慮を慰め奉り、」)、最後の「六孫王の苗裔、……」は、その次のコマの、六~八行目の挙兵に賛同して蝟集する面子をずらっと並べた最後に(末尾は義経である)、「此等は皆六孫王の苗裔、多田新發滿仲(ただのしんほつまんちゆう)が後胤、賴義義家が遺孫也、家子(いへのこ)郎等(らうどう)駈(かり)具せば、日本國に誰かは相從集らざるべき、」とあるのを圧縮して加工したものである。但し、「六孫王の苗裔、源氏の家子郞等を」は私はよろしくないと感ずる。「六孫王の苗裔、源氏と、其の家子郞等を」とすべきところであろうと思う。なお、「六孫王」とは、前に注した清和源氏の濫觴たる、清和天皇第六皇子貞純親王の経基王(源経基)のこと。皇籍にった頃は彼が自身を「六孫王」と名乗ったとされることに拠る(但し、当時の文献にこの自称・他称は見られないので怪しい呼称である)。

「成竹」「せいちく」。竹の絵を描く際、胸中にその構図をしっかりと描いた後に掻き始めるの意から、「前もって立てている計画・十分な見通し・成算」の意。蘇軾の画論「文與可畫篔簹谷偃竹記」(「篔簹」(うんとう)は大きくて節と節との間が長い竹の名)に基づく語。「胸中に成竹あり」とも言う。返り点のみの原文でよければ、国立国会図書館デジタルコレクションのここにある。私は歯が立たない。

「竹園」「ちくゑん」。皇族の異称。竹の園生(そのう)。漢代の梁の孝王が東庭に竹を植えて修竹苑と称したことに基づく。

「最も天下の同情を有する竹園の令旨のみなるを見たり。彼が以仁王を擁立したる所以は、實に職として是に存す」以仁王(仁平元(一一五一)年~治承四(一一八〇)年:享年三十)は。幼少より英才の誉れ高く、学問・詩歌・書・笛に秀で、母の実家は閑院流藤原氏で家柄も良いことから、皇位継承の最有力候補と見られていたが、弟(のちの高倉天皇)の母平滋子の妨害を受け、仁安元(一一六六)年には母方の伯父藤原公光が権中納言・左衛門督を解官されて失脚したことから、皇位継承の可能性がなくなり、彼は親王宣下さえも受けられなかった点で、芥川龍之介の謂うそれが腑に落ちる。

「治承四年五月」治承四年五月二十六日(一一八〇年六月二十日/グレゴリオ暦換算六月二十七日)。但し、既に述べた通り、事前に露見して追討されたもので、宇治平等院の戦いで二人とも敗死した(以下に示される通り、以仁王は討死、頼政は自害した)。

「皓首」「かうしゆ(こうしゅ)」白髪の頭。老人。]

 

然れ共、彼、事を南都に擧げむとして得ず、平軍是を宇治橋に要し、宇治川を隔てゝ大に戰ふ。劍戟相交ること一日。平軍既に鞭を宇治川に投じ流を斷つて、源軍に迫る。是に於て革命軍の旗幟[やぶちゃん注:「きし」。]頻に亂れ、源軍討たるゝ者數を知らず。驍悍を以て天下に知られたる渡邊黨亦算を亂して仆れ、赤旗平等院を圍むこと竹圍の如し。弓既に折れ箭既に盡く、英風一世を掩へる源三位も遂に其一族と共に自刃して亡び、高倉宮亦南都に走らむとして途に流矢に中りて薨じ給ひぬ。かくして革命軍の急先鋒は、空しく敗滅の耻を蒙り了れり。

[やぶちゃん注:「驍悍」「げうかん(ぎょうかん)」。気性が激しく力が強いこと。勇猛であるさま。

「渡邊黨」摂津国の「渡辺の津」(現在の大阪市及び~兵庫県南東部の湊(みなと))を拠点とした武士団。嵯峨源氏で、源頼光の四天王の一人渡辺綱を祖先とする(綱は武蔵国箕田の生れであるが、源満仲の婿源敦の養子となり、その縁で満仲の息頼光に仕えたとされる)。また、忠文(ただふみ)流藤原氏の武士遠藤氏も渡辺氏と姻戚関係を結び、「渡辺党」を形成した。渡辺氏は弓術の名手として滝口や衛門府官人となり、平安末期からは渡辺惣官職(そうかんしき)を相伝した。渡辺の地は淀川河口の要港で国衙所在地でもあり、また大江御厨(おおえのみくりや)の一部であったことから、魚介類の貢進や港湾政務が惣官の任務であった。また遠藤氏も摂津一宮坐摩(いかすり)神社長者職や四天王寺執行職)しぎょうしき)を相伝しており、「渡辺党」は摂津国の中枢を握る武士団として発展した。源平の争乱では、遠藤氏出身の文覚が頼朝に決起を催したり、ここに見る通り、渡辺氏も源頼政の郎等として「宇治合戦」に参戦して多くの戦死者を出すなど、源氏方として活躍した。鎌倉期は、「承久の乱」に於いて朝廷方について没落した家系もあったが、越後などに地頭職を得、発展した一族もあり、特に遠藤氏は北条氏に重用され、一時は惣官職も得た。後、一党は惣官職を争い、分立するようになり、南北朝の争乱では後醍醐方や足利方に分かれ、足利方についたグループは四国・九州や中国地方を転戦し、現地で領主化する場合もあった。渡辺氏の主流は天皇方として楠木氏に従い、惣官に補されたが、渡辺での勢力は失われていった(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。なお、およまる氏のブログ「ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて」の「摂津源氏とつながりの深い武士団 【渡辺党〔わたなべとう〕】」は渡辺党の展開を判り易く、しかも面白く書いておられる(例えば、彼らの諱が悉く漢字一字であるとか)。必見!]

 

さもあらばあれ、こは一時の敗北にして、永遠の勝利なりき。壽永元曆の革命は、彼によつて其導火線を點ぜられたり。彼は、荒鷄の曉に先だちて曉を報ずるが如く、哀蟬[やぶちゃん注:「あいぜん」、]の秋に先だちて秋を報ずるが如く、革命に先だちて革命を報じたり。あらず、革命に先だちて革命の風雲を動かしたり。彼は、ルーテルたらざるもヨハネスフツス也。項羽たらざるも陳勝吳廣也。彼の播きたる種子は少なれども、參天の巨樹は、此中より生じ來れり。彼は、彼自身を犧牲として、天下の源氏を激勵したり。彼は活ける模範となりて天下の源氏を蹶起せしめたり。然り彼は一門の子弟に彼の如くなせと敎へたり、而して爲せり。此時に於ては、懦夫も猶立つべし。況や、氏神と傳說とを同うせる、雲の如き天下の源氏にして、何ぞ徒然として止まむや。

[やぶちゃん注:「ルーテル」ドイツ宗教改革の指導的神学者マルティン・ルター(Martin Luther 一四八三年~一五四六年)。

「ヨハネスフツス」チェコ出身の宗教改革者ヤン・フス(Jan Hus 一三六九年頃~一四一五年:チェコ語「Jan Hus」は、フス自身が使い始めた彼の生誕地の略語であり、当初彼は「フシネツのヤン」(Jan Husinecký)、ラテン語で「Johannes de Hussinetz」として知られていた)。参照したウィキの「ヤン・フス」によれば、『ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖宥状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とし、プロテスタント運動の先駆者となった。カトリック教会はフスを』一四一一年に『破門し、コンスタンツ公会議によって有罪とされた。その後、世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された』とある。

「陳勝」(?~紀元前二〇八年)は秦末の農民反乱の指導者。字は渉。劉邦や項羽に先んじて秦に対する反乱を起こしたが、秦の討伐軍に攻められて、自身の馭者に裏切られて殺害された。

「吳廣」(?~紀元前二〇八年)は陳勝と並び称される反乱の指導者。字は叔。陳勝とともに反乱を起こしたが、秦軍に大敗し、部下に殺された。この死の辺りの反乱軍の崩壊は陳勝と絡みがあるので、ウィキの「陳勝」を読まれたい。

「彼の播きたる種子は少なれども」「少」は底本では「小」であるが、意味から見てよりよい、原稿に從った新全集のそれを採った。

「參天」天と並ぶように聳え立つこと。

「懦夫」「だふ」。意気地のない男。臆病な男。

「氏神と傳說とを同うせる」武家の守護神たる八幡神。鎌倉時代には既に神仏習合の中で応神天皇や聖武天皇八幡神と結合して祀られていた。則ち、十七歳の芥川龍之介はここで、当時の国家神道とそれを利用した軍産共同体としての日本軍部をも射程に入れて、近代に於いて完全に変質してしまう以前の、神仏習合の日本思想の永い蜜月時代を冷徹に見ている、と私は読むのである。大方の御叱正を俟つものではある。批判は結構だが、芥川龍之介が最期に際して、どのような文学的思潮的思想的窮迫の中に追い込まれて自死するかを、批判される方は、やはり射程に入れて私に反論して戴きたいということだけは言い添えておきたいのである。]

 

「花をのみまつらむ人に山里の、雪間の草の春を見せばや。」殘雪の間に萠え出でたる嫩草[やぶちゃん注:「わかくさ」。]の綠は、既に春の來れるを報じたり。柏木義兼は近江に立ち、別當湛增は紀伊に立ち、源兵衞佐は伊豆に立ち、木曾冠者は信濃に立てり。今や平家十年の榮華の夢の醒むべき時は漸に來りし也。

[やぶちゃん注:「花をのみまつらむ人に山里の、雪間の草の春を見せばや。」鎌倉時代の私家集「壬二(みに)集」(藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年:鎌倉前期の公卿で歌人)の詠草を寛元三 (一二四五) 年に前内大臣藤原基家が編纂したもの)の「上 後京極摂政家百首春草」の中の一首。「日文研」の「和歌データベース」の「壬二集」で校合確認した。

「柏木義兼」(よしかね 生没年不詳)は平安末期の武将。ウィキの「柏木義兼」によれば、『新羅三郎義光の系譜を引く近江源氏。父は山本義定。兄は山本義経(源頼朝の弟の源義経とは同名の別人)。治承・寿永の乱の初期に兄義経とともに近江国で挙兵した』。『出家して甲賀入道を名乗』った。治承四(一一八〇)年十一月二十一日、『諸国の源氏の旗上に同調して、兄の山本義経とともに近江国の勢多・野路で挙兵。義経と義兼は琵琶湖をおさえて北陸道からの年貢を止め、水軍をもって三井寺に討ち入り、寺々に押し入った。九条兼実の』「玉葉」は、『義兼は左右なく(京へ?)打ち入ろうと欲するが、甲斐源氏が使者を送って、無勢で攻め寄せても追い返される恐れがあるので、援軍が到着するまで暫く攻撃を止めさせている』、『という伝聞を記している』。十二月一日、『平氏方の平家継(平田入道)が近江へ攻め込み、源氏方の手嶋冠者を討ち、更に義兼の居城を落とした。美濃源氏の軍勢が義経・義兼の援軍に到着するが』、十二月五日に『平知盛を大将軍とする追討使に追い散らされる。義経・義兼は三井寺に拠るが、平氏軍がこれを攻めて落と』し、『義経・義兼は逃れて山本城に籠るが』、十二月十五日、『知盛・資盛の軍勢に攻められて落城』した。「玉葉」は、『討ち取られた首級に義兼の首があったとの噂を伝えるが、これは誤報であったと訂正して』いる。『この後、兄の義経は落ち延びて、鎌倉の源頼朝を頼っている』。「源平盛衰記」では、寿永二(一一八三)年、『義兼は源義仲の軍に加わり、信濃国、加賀国の住人とともに先陣の大将として越前国へ攻め込み、燧城を構えて』、『立て籠もって』健在であり、『義仲が平氏を逐って入京すると、義兼は兄の義経とともに京の警護に任じられた』(これは公卿吉田経房の日記「吉記(きっき)」にも記されているので、生きていたのは事実であろう)。『以後の消息は不明』とある。

「別當湛增」(たんぞう 大治五(一一三〇)年~建久九(一一九八)年)は当時の熊野三山の社僧(法体)にして第二十一代熊野別当。ウィキの「湛増」を見ると、『伊第十八代別当湛快の次子で、源為義の娘である「たつたはらの女房(鳥居禅尼)」は、湛増の妻の母に当た』り、『伝承では武蔵坊弁慶の父としても描かれている』。しかし、源氏の血を引いていたものの、「平治の乱」では、『父湛快』『が平清盛方につき』、『平氏から多大の恩顧を受けつつ、平氏政権のもと、熊野別当家内部における田辺別当家の政治的立場をより強固なものにし、その勢力範囲を牟婁郡西部から日高郡へと拡大していった。湛増もまた』、『平氏から多大の恩顧を受けつつ、若い頃から京都と熊野を盛んに行き来し』、承安二(一一七二)年『頃には京都の祇陀林寺周辺に屋敷を構え、日頃から』、『隅田俊村などの武士を従者として養い』『つつ、当時の政治情勢に関する色々な情報を集め、以前から交流のあった多くの貴族や平氏たちと頻繁に交わっていた』。承安四(一一七四)年には、『新宮別当家出身の範智が』第二十『代別当に補任されるとともに、湛増が権別当に就任し、範智を補佐』した。治承四(一一八〇)年五月、『湛増は、新宮生まれの源行家』(義朝の弟。新宮十郎。以仁王の挙兵に伴って諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起を促した人物として知られる)『の動きに気づき、平氏方に味方して』、『配下の田辺勢・本宮勢を率い、新宮で行家の甥に当たる範誉・行快・範命らが率いる源氏方の新宮勢や那智勢と戦ったが、敗退した』が、『すぐさま』、『源行家の動向を平家に報告して以仁王の挙兵を知らせた。しかし、同年』十『月、源頼朝の挙兵を知』るや、『それ以後、新宮・那智と宥和を図るとともに、熊野三山支配領域からの新宮別当家出身の行命や自分の弟湛覚の追放を策し、源氏方に味方した』(「玉葉」に拠る)。治承五(一一八一)年一月、『源氏方が南海(紀伊半島沖合)を周り、京都に入ろうとしたため、平家方の伊豆江四郎が志摩国を警護』したが、『これを熊野山の衆徒が撃破し、伊豆江四郎を伊勢方面に敗走させた』(但し、『大将を傷つけられたため退却した』)。元暦元(一一八四)年十月、湛増は』第二十一『代熊野別当に補任され』、『源氏・平氏双方より助力を請われた湛増は、源氏につくべきか、平氏につくべきかの最終決断を揺れ動く熊野の人々に促すため、新熊野十二所神社(現闘雞神社、和歌山県田辺市)で紅白の闘鶏をおこない』、『神慮を占ったとされる』(「平家物語」)。『学者の中にはこれを否定する人もいる』『が、長い時間の経過と』、『めまぐるしく変転する政局をめぐり、湛増を中心とした関係者側に』、『改めてこのような儀式をおこなう事情がありえたことを考慮すべきであろう』。而して元暦二(一一八五)年、源義経の』援助『によって平氏追討使に任命された熊野別当湛増は』二百『余艘(一説では』三百『艘ともいう)の軍船に乗った熊野水軍勢』二千『人(一説では』三千『人ともいう)を率いて平氏と戦い、当初から源氏方として』、「壇ノ浦の戦い」に参加、『河野水軍・三浦水軍らとともに、平氏方の阿波水軍や松浦水軍などと戦い、源氏の勝利に貢献した』。『これらの功績により』、文治二(一一八六)年、『熊野別当知行の上総国畔蒜庄地頭職を源頼朝から改めて認められ』、また、文治三(一一八七)年には、『法印に叙せられ』、『改めて熊野別当に補任され』ている。建久六(一一九五)年、『上京していた鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝と対面し、頼朝の嫡男源頼家に甲を献じ、積年の罪を赦された』。さて、筑摩書房全集類聚版注では、『ここは芥川の誤りで、湛増は平家重恩の身であり、源氏の新宮十郎義盛の居城を攻めて敗れたのである』とする。これは以上の通り、時制的史実的に正しい。後の源氏への寝返りの部分を芥川龍之介は遡及させて叙述してしまった誤認と言えよう。

「源兵衞佐」頼朝。

「木曾冠者」義仲(久寿元(一一五四)年~寿永三年一月二十日(ユリウス暦一一八四年三月四日/グレゴリオ暦換算:三月十一日:享年三十一。従兄弟の頼朝より七つ歳下)。ウィキの「源義仲」によれば、『河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。義賢は武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶るが、義仲の生母は遊女と伝えられる。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられる』。「平家物語」「源平盛衰記」に『よれば、父・義賢はその兄(義仲にとって伯父)・義朝との対立により』、「大蔵合戦」(久寿二(一一五五)年八月、従兄弟源義平が義賢の拠点であった大蔵館を襲撃し、義賢と秩父重隆を攻め殺した戦い。秩父氏の家督争いに源氏内部の同族争いが結びついたもので、「保元の乱」の前哨戦ともされる)で『義朝の長男(義仲にとって従兄)・義平に討たれる。当時』二『歳の駒王丸は義平によって殺害の命が出されるが、畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという』。「吾妻鏡」に『よれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。異母兄の源仲家は義賢の死後、京都で源頼政の養子となっている』。「源平盛衰記」に『よると「信濃の国安曇郡に木曽という山里あり。義仲ここに居住す」と記されており、現在の木曽は当時美濃の国であったことから、義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)という説もある』。『諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺』(かなさしの)『盛澄に預けられて修行したといわれている。こうした事とも関係してか、後に手塚光盛などの金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている』。この治承四(一一八〇)年に『以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかける。八条院蔵人となっていた兄・仲家は』、五『月の以仁王の挙兵に参戦し、頼政と共に宇治で討死している』。同年九月七日、『義仲は兵を率いて北信の源氏方救援に向かい(市原合戦)、そのまま父の旧領である多胡郡のある上野国へと向かう』。二『ヵ月後に信濃国に戻り、小県』(ちいさがた)『郡依田城にて挙兵する。上野から信濃に戻ったのは、頼朝あるいは藤姓足利氏と衝突することを避けるためと言われている』。翌治承五年六月、『小県郡の白鳥河原に木曾衆・佐久衆・上州衆など』三『千騎を集結、越後国から攻め込んできた城助職』(じょうのながもち:越後平氏)を「横田河原の戦い」で『破り、そのまま越後から北陸道へと進んだ。寿永元年』(一一八二年)、『北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示し、また、頼朝と結んで南信濃に進出した武田信光ら甲斐源氏との衝突を避けるために頼朝・信光の勢力が浸透していない北陸に勢力を広める』。寿永二(一一八三)年二月、『頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この』二『人の叔父を庇護した事で頼朝と義仲の関係は悪化する。また』、「平家物語」「源平盛衰記」では、『武田信光が』、『娘を義仲の嫡男・義高に嫁がせようとして断られた腹いせに』、「義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしている」『と讒言したとしている』。しかし、『両者の武力衝突寸前に和議が成立』、三『月に義高を人質として鎌倉に送る事で頼朝との対立は一応の決着がつく』とある。さても標題以降、驚くべきことに、ここに至って初めて本文に「義仲」の名が出るのである。則ち、ここまでは芥川龍之介「義仲論」のこれから後の義仲への論考への壮大な枕としての〈「平氏政府」前史〉なのである。]

« 木曽義仲深田入り込み状態 | トップページ | 芥川龍之介 義仲論 藪野直史全注釈 / 二 革 命 軍 »