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2019/07/23

甲子夜話卷之六 2 定家卿詠歌

 

6-2 定家卿詠歌

同上云。定家卿を世に歌人とのみ思へり。歌は其苴餘にて、志のありし人とこそ思はるれ。

 苔の下に埋れぬ名を殘すとも

      はかなの事や敷嶋の道

これを以て其懷抱おしはかるべきなり。杜少陵の、名豈文章サンヤ、官老病と云も、詩人の詩には非ず。近時袁倉山が、每ㇾ飯不ㇾ忘竹帛、立ルハㇾ名最小ナリ是文章など作りしも、亦其流亞なり。

■やぶちゃんの呟き[やぶちゃん注:2019年7月26日全改稿。]

なお、袁枚の詩の「唯」の「〻」は、底本では踊り字「〱」であるが、私の判断で「〻」に代えた。近代以前の踊り字は通用の統一的規則はないから、これは静山の好みのそれであったと判断する。

「同上云」「同上に云はく」。前条の「林子、古歌を辨ず」を指すので、話者は林述斎。

「苴餘」「しよよ(しょよ)」。見かけない熟語である。「苴」は当初、最悪の卑意である「塵・芥」かとも思ったが、それでは一世の歌人の彼にして自らかく比喩するのは、余りに哀しい。「詠草」と言うように、歌に草を掛けて「苴」の原義である「下草」の意で採るならば、謙遜としての「もて遊びの、詠み捨ての、価値のない、下萌えの雑草」、「余りものの、どうということのない戯れ、一抹の余技」というような意味ではないかと思われる(そう採っておく)。

「志のありし人とこそ思はるれ」ウィキの「藤原定家」の「政治家として」の項によれば、『定家は藤原道長の来孫(』五『代後の子孫)にあたる。だが、摂関家の嫡流から遠く、院近臣を輩出できなかった定家の御子左流は他の御堂流庶流(中御門流や花山院流)と比較して不振であり、更に父・俊成は幼くして父を失って一時期は藤原顕頼(葉室家)の養子となって諸国の受領を務めていたことから、中央貴族としての出世を外れて歌道での名声にも関わらず官位には恵まれなかった』。『定家自身も若い頃に宮中にて、新嘗祭の最中に源雅行と乱闘したことで除籍処分を受ける』『など』、『波乱に満ち』ており、『長年』、『近衛中将を務めながら頭中将にはなれず』、五十一『歳の時に』、『漸く公卿に達したが』、『それさえも姉の九条尼が藤原兼子(卿二位)に荘園を寄進したことによるものであった。それでも定家は九条家に家司として仕えて摂関の側近として多くの公事の現場に立ち会って、有職故実を自己のものにしていくと共に、反九条家派の土御門通親らと政治的には激しく対立するなど、政治の激動の場に身を投じた。定家が有職故実に深い知識を有していたことや』、『政務の中心に参画することを希望していたことは』、「明月記」などから『窺い知ることは可能である。そして』寛喜四(一二三二)年一月、『定家は二条定高の後任として』、七十一『歳にして念願の権中納言に就任する。当該期間の』「明月記」の記述は、『ほとんど現存しないものの、他の記録や日記によって』、『定家がたびたび』、『上卿の任を務め、特に石清水八幡宮に関する政策においては主導的な地位にあったことが知られている。また、貞永改元や四条天皇の践祚などの重要な議定にも参加している。だが、九条道家との間で何らかの対立を引き起こしたらしく』、『同年の』一二月十五日には『「罷官」(更迭)の形』『で権中納言を去ることになっ』でしまっている。『こうして、定家が憧れて夢にまで見たとされる』(「明月記」安貞元年九月二十七日の条)『藤原実資のよう』な『政治的な要職に就くことは』遂に『適わなかった』。『また』、二『代にわたる昇進に関する苦労から、嫡男とされた為家の出世にも心を砕いており、嘉禄元』(一二二五)年七月には、『同じく嫡男を蔵人頭にしようとする藤原実宣と激しく争って敗れている。だが、この年の』十二『月に実宣の子公賢の後任として為家が蔵人頭に任ぜられ、一方の公賢は翌年』一『月に父が自分の妻を追い出し』、『権門の娘を娶わせようとしたことに反発して出家してしまった。定家は自分も実宣と同じようなことを考えていた「至愚の父」であったことを反省している』。『その後は、為家を公事・故実の面で指導しようと図った。定家が歌道のみならず』、「次将装束抄」や「釋奠次第」など、『公事や有職故実の書を著した背景には』、『自身のみならず、子孫の公家社会における立身を意図したものがあったと考えられている』とあるのは、静山の意味深長な謂いが、決していい加減な憶測ではないことを物語っているように読める。

「苔の下に埋れぬ名を殘すともはかなの事や敷嶋の道」「拾遺愚草」の一五八三番(冷泉為臣編「藤原定家全歌集」一九七四年国書刊行会刊の番号)に、

 苔のしたにうつまぬ名をはのこすとも

    はかなのみちやしきしまの哥

とある。

「杜少陵」詩聖杜甫(七一二年~七七〇年:享年五十九)の号。

「名豈文章サンヤ、官老病」杜甫の五言律詩「旅夜書懷」(旅夜、懷(くわい)を書す)の頸聯。所持する岩波文庫版「杜詩」(第五冊所収)によれば、七六五年(数え五十四)の秋、忠州より長江を下った旅中の作とする。杜甫は先立つ七五八年に、宰相の房琯(ぼうかん)を弁護したことで粛宗の怒りを買い、華州(現在の陝西省渭南市。洛陽の西二百七十キロメートル)司功参軍に左遷され、同年末に洛陽に一時戻るが、翌年、洛陽を中心とした関中一帯が飢饉に見舞われたことから、遂に官を捨て、食を求めて秦州(甘粛省天水市)を経て同谷(甘粛省隴南市成(せい)県)に移るが、餓えますます甚だしく、橡栗(ドングリ)や黄独(山芋の一種)などを食って凌いだ。翌七六〇年、蜀の桟道を越えて成都に赴き、杜甫草堂を建てる。七六四年、厳武の推薦によって節度参謀・検校工部員外郎となったが、心楽しまず、暇を願い出て草堂へ帰った。翌年であるこの七六五年一月には職を辞し、五月には草堂を離れ、雲安へと至ったが、病いのためにそこに留まった。その後も各地を遍歴、七七〇年、飢えた一族郎党を連れ、襄陽・洛陽を経、長安に帰らんとしたが、湘江の舟中で客死した。岩波の「杜詩」の詩形で示す。

   *

   旅夜書懷

 細草微風岸

 危檣獨夜舟

 星垂平野闊

 月湧大江流

 名豈文章著

 官應老病休

 飄飄何所似

 天地一沙鷗

   旅夜に懷ひを書す

  細草 微風の岸

  危檣(きしやう) 獨夜の舟

  星 垂れて 平野 闊(ひろ)く

  月 湧きて 大江 流る

  名は 豈に文章に著(あらは)れんや

  官は 應(まさ)に老病に休(きふ)すべし

  飄飄(ひやうひやう) 何の似たる所ぞ

  天地 一沙鷗(いつさおう)

   *

静山の「名豈文章サンヤ、官老病」ならば、

名は 豈に文章に著さんや

官は 因りて老病に休す

と訓読しており、その意は(岩波「杜詩」を一部参考にした)、

私のような者がどうして詩文によって名声を得られようか。〈反語〉

私のような老病人は官職を退いて休むのが身分相応というものだ。

「云も」「いふも」。

「詩人の詩には非ず」「この謂いは、ただの文人趣味の御目出度い詩人、似非詩人の詩句、感懐表出ではない」という意であろう。中国文学は古代から一貫して「仕官の文学」であり続けた。そこでインキ臭い「載道」(道に載っとる)と交互に波形を描いた一方の思想的潮流は、また「言志」(志しを言ふ)でもあった。道家的で自由自在に見える李白や李賀の生涯を見ても、「仕官としての文学」がその出発点であることは明白な事実であり、その志しの大半の挫折が遊仙的思想へと赴いて行ったのであったのを考えれば、ここで静山が言っている意味も腑に落ちる。

「袁倉山」清代の文学者で、「随園食単」で食通として知られる袁枚(えんばい 一七一六年~一七九八年)の別号。浙江省銭塘の人。貧乏士族の出身であったが、一七三九年、進士に及第し、江蘇省の諸県の知事を歴任して治績を挙げた蛾、一七五五年、三十八歳の時、父の喪に遇って官を辞し、江寧の小倉山(しょうそう)に屋敷を手に入れ、「随園」と名づけた。以後、豪奢な生活を送りつつ、在野の詩人として活躍した。詩は真情の発露を重んじる性霊説(せいれいせつ:個性を尊重し、人の性は自由に流露するときにこそ霊妙な働きを持つとするもの。清新軽俊を詩風として掲げ、袁枚の在野の立場が反映し、広範な階層の間に行われた)を唱えて、格律を重んじる古文辞派の流れを継ぐ宮廷派(格調派)の沈徳潜(しんとくせん)と詩壇を二分した。文は古文・駢文(べんぶん)ともに優れた。人生半ばにして早々と官職を離れた彼ではあったが、静山は彼もまた、詩文というものの本質〈士大夫の詩〉を持ち続けた人物であったと静山は言っているようである。

「每ㇾ飯不ㇾ忘竹帛、立ルハㇾ名最小ナリ是文章」は、

飯(めし)每(ごと)に忘れず 唯(た)だ竹帛

名を立つるは 最も小なり 是れ 文章たり

静山の「〱」は「ただ」の「た」のただの繰り返しを示す踊り字と採った。いつも情報を戴くT氏の御指摘によって、「隨園詩話」の「巻一四」に以下のように出ることが判った(中文サイト「中國哲學書電子化計劃」のこちらに基づく(一部加工)。見出し№「134」条)。

   *

餘幼「詠懷」云、「每飯不忘惟竹帛、立名最小是文章。」。先師嘉其有志。中年見查他山贈田間先生云、「語雜詼諧皆典故、老傳著述豈初心。」。近見趙雲松「和錢嶼沙先生」云、「前程雲海雙蓬鬢、末路英雄一卷書。」。皆同此意。

   *

これを少なくとも静山は、「餘」=余(袁枚)が幼き時に詠んだ「詠懷」という詩の一節との謂いで採っている。「餘幼」を詩人の名とも取れるが、よく判らぬ。「竹帛」(ちくはく)は「歴史に名を残すこと」を意味する。中国では紙の発明以前、竹簡や布帛に文字を記し、書(特に史書)を記したことに拠る。なお、T氏は上記の「隨園詩話」のそれが「唯」ではなく「惟」であることに着目され、静山は「唯」と記したものの、この字でよいかどうか疑問であったために、「〱」を圏点として附し、後で確認するつもりだったのではないかという推理をされておられる。また、「惟」ならば「ただ」ではなく、

飯(めし)每(ごと)に忘れず 惟(こ)れ 竹帛

で強調限定となり、その方が腑には落ちる。

「流亞なり」『杜甫のその〈仕官の文学〉〈士大夫の心意気を忘れない詩人〉としての流れを「亞」(つ)ぐものである(無論、定家もまた)』の謂いか。

◆やぶちゃんの追記

 私は当初、全体の解釈の内、杜甫と袁枚を静山が貶めた存在として批判したというトンデモない解釈をしていた。T氏の情報とその解釈への疑問の指摘を受けて、以上を全面的に書き改めた。これは恐らく、私が激しい短歌嫌いであり、これまた、特に、現実の凄惨な俗社会と超越して乖離していることを当然の立場としていた藤原定家を激しい嫌悪対象としていることに始まった曲解であったことは明白である。T氏に心より感謝申し上げるものである。

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