小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(85) 官憲教育(Ⅰ)
官憲教育
幾世紀の訓練によつて國民性がどれ程まで固定したかといふ其の程度と、其の國民性が變化に抵抗し得る異常な能力の程度とは、國家の教育の或る結果によつて恐らく最も著しく示されるであらう。全國民は政府の助けを得て、ヨオロツパ式に基づいて教育を施されて居る。そして全部の科目の中には、ギリシヤ、ラテンの文學を除くの他は、西洋の學問の主なる科目は皆含まれて居る。幼稚園から大學に至るまで、全部の制度は外觀だけは近代風である。併し新教育の結果は、思想に於て又感情に於て、人が或は想像するより遙かに著しくないものである。此の事實は古來の漢學が必須科目の中に今猶ほ占めて居る大きな位置によつてのみ說明は出來ないし、また信仰の差異によつても說明は出來ない。それは目的を達する手段として見た教育に就いての、日本とヨオロツパの槪念の根本的差異に遙かに多くの原因をもつて居るのである。新式と新科目とを以てするに拘らず、全日本教育は、なほヨオロツパ式とは殆ど正反對の傳統的な仕組みを基礎として施されて居る。西洋の道德訓育では幼年時代から子供の行爲に制止を加へ始めるのである、ヨオロツパ若しくはアメリカの教師は、幼童に對して嚴格である。西洋では行爲の諸〻の義務――個人の義務の『可し』と『可からず』――とを出來るだけ早く懇に教へ込むのが重要だと考ヘて居る。後にはもつと寬大になるのである。充分に生長した男兒には、彼の將來は彼自身の努力と才能とに據る事を合點せしめられる。それ故に、必要と思はれる時だけは、戒飭[やぶちゃん注:「かいちよく(かいちょく)」と読む。人に注意を与えて慎ませること(自分でそうする場合にも用いる)。]なり警告なりして、大抵は獨りで自分の身始末をさせる。終には、將來有望な人格の高い大人の學生は、教師と親しくなる事もあらうし、都合の好い場合に廻はり合はせると、教師の友人とすらなり得る事もあらう。そしてその教師にはあらゆる困難の場合に相談を求めに行く事が出來るのである。そして精神上及び道德上訓育の全課程を通じて、競爭なるものは、期待されるのみならず、要求されるのである。併し少年時代から成人に入ると共に、規律は漸次緩められるに從つて、それは益〻要求されるのである。西洋の教育の目的は、個人の才能と人格の養成であつて、つまり獨立の精神に富んだ力の充實した人を造る事である。
處で日本の教育は外觀の如何に拘らず、大抵以上の西洋教育とは今迄常に反對の遣り方で行はれで來たし、今も猶ほ反對に行はれて居る。その目的は獨立の行動をなすが爲めに個人を訓育する事では決してなくで、共同的行動をする爲め、――卽ち、嚴重な一社會の組織中の一定の位置を占めるに適するやうに訓育する事であつた。西洋では抑壓は幼年時代に始まり段々に緩むが、極東の訓育はそれよりも後に始まり、其の後漸次引き締まつて行く、しかもそれは兩親または教師が直接に課する抑制ではない――此の事實が、今直きに述べるやうに、結果に於て非常な差異を生ずるのである。學齡――六歲で始まるとされて居るが――に達するまでのみならず、それよりもずつと大きくなる迄も、日本の子供は西洋の子供の受けるよりも遙かに大きな程度の自由を許される。勿論例外の場合は普通にある、併し通例、子供は若しその行ひが、彼自身にも或は他人にも、何等の害を與へる事がなければ、氣儘にさせて置かれるのである。彼は保護はされるが、抑制される事はなく、戒飭はされるが、强制される事は稀である。約言すれば、彼はいたづらの仕放題にさせて置かれるから、日本の俚諺にもある通り【註】『七つ八つは道傍の穴さへ憎む』といふわけになるのである。罰は絕對的に必要な場合にのみ行はれる。そしてかういふ際には、古來の習慣に從つて、家族全部――召使も誰れも彼れも――罪人の爲めに取りなしをしてやる。若し弟や妹などがある場合には、それ等が身代りになる事を願ふのである。打擲は極亂暴な階級の中にあるだけで、普通の罰ではない。罰としては灸が寧ろ用ゐられるが、それは嚴罰なのである。大聲にわめき叱つたり、こはい顏を見せたりして、子供を脅すのは、一般の意見では惡るいと認められて居る。總ての罰は出來るだけ靜かに加へて、處罰者は罰を加へながら穩かに訓戒する事になつて居る。子供の頭を打つのは、どんな理由があらうが、下品で物を識らぬ證據となつて居る。遊戲を抑制したり、食物を變へたり、慣れた慰みを止めたりして罰するのは普通ではない。子供の事は充分に耐へてやるのが道德上の法則である。學校に上がると訓練が始まる、併しそれも最初は極輕いもので、殆ど訓練とも云ヘない位である、教師は先生としてより寧ろ兄として行動する、そして大勢の前で訓戒を加へるより以外には罰といふものは無い。抑制といふ者があるとすれば、その級の共通の意見で其子供に加へられる。そして熟練な教師は其の意見を指導する事が出來る。また各級は人格と智慧の優れた點で選ばれた一兩人の小首領によつて名義上支配されて居る。そしていやな命令を與へなければならぬ時、それを與へる義務を委任されるのは小首領、卽ち級長である。(かういふ小さい細目も記すに足る價値がある、私は學校生活に於て、如何に早く意見の訓練と共通の意志の壓迫が始まるかを示す爲めに、まら此の政策が如何に完全に日本人種の道德的傳統と一致するかを示す爲めに、是等を引合ひに出したのである)。上級に進むと壓迫は少しばかり增加し、高等の學校では遙かに强くなる。その支配する力はいつも級の感情であつて、教師の個人の意志ではない。中學校では生徒は眞面目になる。中學の級の意見は、教師自身と雖も、それに從はなければならぬやうな力を得る。教師がそれを蹂躪せんと企てると、教師を排斥する事が積極的に出來る程のものである。各中學は選擧された役員を有つて居て、其者は大多數のものの道德上の規定――行爲の傳統的標準――を代表する。(此の道德標準は害を爲すものであるが、併しそれは或る程度までは到る處に殘存して居る)。鬪爭とか弱いものいぢめとかいふものは、此の程度の日本の學校にはまだ知られて居ない。それには明らかな理由がある、則ち一個人の怒を縱にする[やぶちゃん注:「ほしいままにする」。]事は、殆ど出來ないのである。また一樣な行爲の遣り方を强ふる訓練の下にあつて、一個人が怒を擅にし[やぶちゃん注:同じく「ほしいままにし」。]、又威勢を揮るはんとしても、それは不可能である。級の生活を整へるのは、多數の上に一人が支配をするといふことではない。それは一人を多數で支配する事で、その力は恐るべき强大なものである。自覺せるとせざるとを問はず、誰れでも級の感情を害するものは、獨り仲間外づれにされてしまふ、――絕對孤獨の狀態に陷らされてしまふ。彼が一同の前で陳謝せんと決心するその時迄は、校外でも誰れ一人彼と口をきく者もなく、彼の事を眼中に置くものもない。陳謝を決心した時すら、彼を許す許さぬは投票の多數決によるのである。
[やぶちゃん注:以下の註は、底本では本文分四字下げポイント落ちである。区別するために、前後を一行空けた。]
註 以前の習慣では、生まれた子供は一歲といつた。であるから此の場合の『七八歲の子供』は實は『六七歲』の意味である。
かかる一時的の絕交は恐れられるのも無理はない。それは學生社會以外でも恥と見倣されるからである。そしてその記憶は彼の公生涯中[やぶちゃん注:「公」は「こう」と読むしかない。聴いたこともないが、「公生涯」で三文字で熟語とするしかない。しかし原文の「rest of his career」を見ると納得出来る訳ではある。]いつまでも當人に附き纒ふであらう。その者が後年どんなに高官にならうが、どんなに立派に彼の職業で出世しようが、彼が一度級友の一般の意見で非難を受けたといふ事實は忘れられないであらう――彼が其の事實を轉じ自分の聲望となし得るやうな事情が起つたにせよ……。中學生が卒業後進んで行く大きな官吏學校では、級の規律はなほ一層峻嚴である。教師は大抵昇進を望んで居る官吏であり、學生は大學に行く準備をして居る者で、極僅少の例外を除くの他、官吏となる運命の成人である。此の靜かに冷たく秩序の立つた世の中には、靑年の喜悅を滿足させる餘地は殆どない、そして同情をひろげる機會も少い。集會や學會なども多いが、併し是等は實際的の目的で設備され或は設立されて居る、――主に硏究の特殊の部門に關して居るのである、面白く遊ぶ爲めの時は殆どなく、また遊ばうなどと云ふ氣は更に少い。あらゆる狀態の下に、或る形式的の外觀が傳統によつて强要される、――-如何なる公立學校よりも遙かに古い傳統である。あらゆる人があらゆる人を注視して居る、風變りとか奇態とかいふ事は、速に目をつけられて靜かに抑壓されてしまふ。或る學校で維持されて居るかうした級の規律の結果は、外國の觀察者には不愉快に見えるに違ひない。これ等の官立高等學校に就いて、私を最も感銘させた事はその險惡な沈默であつた。私が数年間教へた學校――全國で最も保守的な學校――には生命と精力が充溢して居る一千人の若者が居た。併し授業の合間とか、或は運動場や庭園や體操場に於ける運動時間の間の一般の沈默は、不思議に壓迫されるやうな感じを與へた。フツトボオルを行つて居る處を見たとしても、聞こえる音は唯だ球を蹴る音のみである。柔道場で柔道の試合を見るとしても、三十分間も話し聲の途斷える時がある。(柔道の規定では、沈默を要求するのみならず、觀覽者が感じを外に現はす事をも全然抑制すべきを要求するのは事實である)。此の抑制はすべて最初は私に非常に不思議に思はれた――三十年前には武士の學校に於ける訓練は、同樣の無表情と沈默とを强要したのを知つて居たけれども。
[やぶちゃん注:以下、一行空け。最後の体験談は、熊本の第五高等学校(現在の熊本大学の前身)での英語教師時代のそれ。勤務は明治二四(一八九一)年十一月から明治二十七年九月(推定)まで。
以下、一行空け。]
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