小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(69) 封建の完成(Ⅶ)/ 封建の完成~了
私は今まで日本の婦人の道德的魅力に就いてのみ話して來た。若しそれ見慣れない外國人の眼が彼女の肉體的魅力を識別するには時がかかるのである。我が西洋の標準に從ふと、此の人種には美が存在するとは云はれない、。――或いは、美は未だこれまで發達させられなかつたと云はうか? 西洋の美的標準を滿足させる顏面の角度を探しても得られない。あの肉體上の雅美の好例――力の節約の表現――ギリシヤ語の意味に於ての『優雅(グレイス)』と呼ぶ處のもの――にさへ出會ふ事は稀である。然も顏と姿の兩者の魅力――大なる魅力――がある、幼年時代の魅力――その眼鼻立のあらゆるものが、まだ軟らかな漠然たる輪郭を有つて居る、(或るフランスの畫家がいつも使つた言葉を藉りると艷けし(エフアセ)である[やぶちゃん注:「エフアセ」は「艷けし」に対するルビである。後注参照。])幼年時代――手足がまだ充分に伸びきらない幼年時代――讃嘆すべき小さい手足を有つた輕快と華奢がある、眼はアリアン人種のものとは似もつかず、そして襞筋が別種の拵へ方になつて居る、その眼ぶたの不思議さで、最初吾々を驚かす。併しそれ等には實に人を魅了する樣なのが屢〻ある。そして西洋の畫家は、その眼ぶたの線の特殊な種々の美を描き出す爲めに、日本や支那の美術によつて工夫された優雅な條件を翫賞しない譯には行かないのである。西洋の標準によつては美しいとは云へないとしても、日本の婦人は、正直に云つて、可愛らしいと云はなければならない――縹緻[やぶちゃん注:「きりやう(きりょう)」と読む。「器量」に同じい。]のよい子供のやうに可愛いのである。そして西洋の意味で優美である事は稀だとしても、彼女は少くともその獨得な風で、較べもののない位優美な者である、彼女のあらゆる動作、身振り、表情は皆獨自の東洋風に從つて完全なものである、――出來るだけ最も氣安い、最も優美な、最もしとやかな、遣り方で與へられる眼なざしである。古來の習慣によつて、彼女は街上にその優美を誇示する事を許されて居ない。彼女は下駄の音輕く、步んで行く時に、足を內輪にして、特殊な畏縮するやうな風に步かなければならぬ。併し彼女が自由にその美しさを見せる事の出來る家居の折の彼女を注目する事――彼女が家事を行ふ有樣、接客の有樣、花を生ける有樣、或は子供等と遊ぶ有樣分見るだけで――理解する頭があり、學ばんとする心を有つて居る人には、誰れにでも極東の美的觀念を了解せしむるよすがを與へるのである……併し、然らば彼女は一つの人爲的製產品ではないのか、――東洋文明の强制的產物ではないのかと問ふ人があるかも知れない。私は『然り』とも『否』とも二樣に答へ度いのである。あらゆる人格が人爲的產物であるといふのとただ同じ進化的の意味で、彼女は一の人爲的產物である、從つて彼女を形成する爲めには幾千年の歲月がかかつて居るのである。が一方また、彼女は、境遇が許せば、いつでも眞の自己を現はすやうに――或は、語を代へて云へば、氣持ちよく自然の儘であるやうに特に訓練されて居るのであるから、人爲的の型とは云へないのである。女性の古風な敎育は、本質的に女らしいあらゆる性質を發達せしめ、反對の性質を抑壓する爲めに向けられたのであつた。溫情、柔順、同情、心の優しさ、高雅――これ等のもの及び他の屬性が、敎養を積んで終に比類なき花と咲くやうになつたのである。『善き美しき乙女たれ、また賢からんと望むもよし、ひねもす、氣高き事を行ひて、只だそれを夢にのみ見る勿れ』――キングズリの此の言葉は、彼女の訓練に於ける中心觀念を實際に具體化して居るのである。かかる訓練のみで形作られた存在には、勿論社會が保護を加へなければならぬ。そして昔の日本の社會はその保護を加へたのであつた。例外は其の規則に何等の影響を與ヘなかつた。私の云はんと欲するところは、彼女は情緖的禮儀の或る制限內で、極めで安全に純粹に彼女自身を發揮し得たといふ事である。人生に於ける彼女の成功は、溫良、從順、溫情によつて、愛情を贏ち得る[やぶちゃん注:「かちうる」。勝ち得る。]その自力に依つたのである、――愛情といふのも、單に夫のそればかりではなく、夫の兩親、祖父母、義兄弟、義姉妹の愛情で、――約言すれば自己の生家でない一家の、あらゆる人々の愛情である。卽ちこの事に成功するには天使の如き善心と忍耐とが必要であつた。事實日本の婦人は少くとも佛敎での天使の理想を實現したのである。ただ他人の爲めにのみ働き、ただ他人の爲めにのみ考へ、力が他人を樂しくすることをしてのみ幸福を感じて居る一の生存――不親切をなし得ず、利己的であり得ず、正義に就いて自己が受け繼いだ觀念と反對な行爲をなし得ぬ一の生存――しかも此の柔和溫順にも拘らず、何時たりとも自己の生命を投げ出すことを辭せず、義務の爲めには萬事を犧牲にすることを辭さない生存、斯くの如きが則ち日本婦人の性格であつた。此の子供のやうな精神のうちに、溫良と力と、優しい氣持ちと勇氣とが結合されて居るのは極めて不思議な事だと思はれるかも知れない――併しこれを說明するには手間はかからないのである。妻としての愛情、或は親としての愛情、或は母としての愛情よりも、彼女の心に一段强く宿つて居たもの――如何なる婦人らしい情緖よりも際立つて强く宿つて居たものは、彼女の大きな信仰から生まれた道德的確信であつた。此の宗敎的性質をもつた性格は、西洋に在つでは唯だ修道院の陰の內にのみ見られ得るのであつて、其處ではあらゆる他のものを犧牲にしてそれを養成したのである。この故に日本の婦人は慈惠團の尼僧に較べられて來たのであつた[やぶちゃん注:「慈惠團」原文は「Sister Of Charity」で、これはカトリックの「慈善修道女会」のこと。平井氏は『慈善院』と訳しておられる。]。併し日本の婦人は慈惠團の尼僧よりも遙かに遙かに以上のものでなければならなかつた――嫁であり、妻であり、母であり、その上この三重の役目の多種多樣な義務を非難なく遂行しなければならなかつた。彼女は寧ろギリシヤ型の高尙な婦人――アンテイゴオネ、或はアルセスタイスに較べてよいかも知れぬ。昔の訓練によつて、作られたやうな日本婦人にあつては、生活の各動作は信仰の動作であつた。彼女の生存は一種の宗敎であつた、彼女の家庭は一の神社であり、彼女の言葉や思想はみな祖先祭祀の法律によつて定められたのである……此の驚異すべき型は、確に消滅する運命にはなつて居るけれどもまだ絕滅した譯ではない。彼女の心臟の各鼓動が義務であり、彼女の血の各滴が道德的感情であるやうに、かういふやうに神々と人間とへの奉仕の爲めに形作られた人間は、地獄の中の天使と同じく、競爭的利己主義の將來の世界に於てはその處を得ないものであらう。
[やぶちゃん注:これを以って第十六章の「封建の完成」は終わっている。
「若しそれ見慣れない外國人の眼が彼女の肉體的魅力を識別するには時がかかるのである」原文は「it requires time for the unaccustomed foreign eye to discern the physical charm.」であるが、戸川先生には失礼乍ら、どうも微妙に文が壊れていて気持ちが悪い日本語である。「それ」の後に「を」を補っても、文としては拙い。先生の訳に沿うなら、
「それを見慣れていない外國人の眼が、彼女の肉體的魅力を正しく識別出來るやうになる爲には、凡そ有意な時がかかるのである」
か。平井呈一氏は
『日本の婦人の肉体的な美しさは、これは馴れない外国人の目が識別できるまでには、よほど暇がかかる』
である。しかし、どうも私は、
「physical charm」を肉体的魅力と訳すのは生理的に受け入れ難い。寧ろ、ここは「見た目の総合的な身体的な美しさ」或いは単に「美貌」の方がすんなりと受け入れられるように思われるのであるが、如何であろう?
「優雅(グレイス)」「grace」は、もと、ラテン語の「恩恵」の意の「gratia」が語源であるが、これはギリシャ神話の「輝き・喜悦・栄えを象徴する優美なる三姉妹の女神」を指す「カリス」(Charis:単数形)のラテン語訳「グラティアエ」(Gratiae)から、英語「グレーシズ」(Graces)となって生まれたようである。
「艷けし(エフアセ)」原文は「effacé」で、フランス語で「消された・控え目な・出しゃばらない・目立たない・特徴のない・色が薄くぼんやりした」の意。
「『善き美しきこ女たれ、また賢からんと望むもよし、ひねもす、氣高き事を行ひて、只だそれを夢にのみ見る勿れ』――キングズリの此の言葉は」の引用部の原文は、
“Be good, sweet maid, and let who will be clever: do noble things, not dream them, all day long”
で、これは英国国教会司祭にしてキリスト教社会主義者・歴史家・小說家で、かの進化者チャールズ・ダーウィンの友人でもあったチャールズ・キングズリー(Charles Kingsley 一八一九年~一八七五年)が、成長した娘への、別れの言葉として贈った詩篇‘ A Farewell ’」の一節である。こちらの英文サイト(音読データ有り)にある電子データから転写する。
*
A Farewell
My fairest child, I have no song to give you;
No lark could pipe to skies so dull and grey:
Yet, ere we part, one lesson I can leave you
For every day.
I'll tell you how to sing a clearer carol
Than lark who hails the dawn or breezy down;
To earn yourself a purer poet's laurel
Than Shakespeare's crown.
Be good, sweet maid, and let who will be clever;
Do noble things, not dream them, all day long:
And so make life, death, and that vast for-ever
One grand, sweet song.
*
「アンテイゴオネ」アンティゴネ(ラテン文字転写(以下同じ):Antigonē)。ギリシア神話のテーバイ王オイディプスとその母イオカステとの間にできた娘。父オイディプスが自ら盲目となって国を出た際、彼女は父の手を引いて放浪の旅につき従い、彼がアテナイ近郊のコロノスで世を去るまで孝養を尽くした。その後、彼女は故国に帰ったが、兄の一人ポリュネイケースは、隣国の助けを借りてテーバイの王位を取り戻すべく、テーバイに攻め寄せた。しかし、闘い空しくポリュネイケースは弟エテオクレースと相討ちして戦死した。王位についた叔父クレオーンは反逆者であるポリュネイケースの屍を葬ることを禁じたが、アンティゴネーは自ら城門を出て、市民たちの見ている前で兄の死骸に砂をかけ、埋葬の代わりとした。そのため彼女はクレオーンに捕らえられ、地下の墓地に生きながら葬られた。アンティゴネーはそこで自害し、その婚約者であったクレオーンの息子ハイモーンもまた彼女を追って自刃した。以上は主にウィキの「アンティゴネー」に拠った。
「アルセスタイス」ギリシア神話で貞淑な女性として知られるアルケスティス(Alkēstis)。ウィキの「アルケースティス」によれば、『イオールコス王ペリアースとビアースの娘アナクシビアーの娘で』、『ペライ王アドメートスの妻となり』、『若く死ぬ運命にあった夫の身代わりになって死んだといわれる』。『父ペリアースはアルケースティスに大勢の求婚者が現れたとき、戦車に獅子と猪をつないだ者に娘を与えるとした。そこで求婚者の』一『人』であった『アドメートスに仕えていたアポローンが』、『戦車に獅子と猪をつないでアドメートスに渡し、アドメートスはそれをペリアースのところに持って行った。こうしてアルケースティスはアドメートスと結婚した。しかしアドメートスは結婚式のときにアルテミスのみ供犠することを忘れたため、アルテミスは新婚の部屋をヘビで満たした。そこでアポローンの助言に従ってアルテミスの怒りをおさめ、またアポローンはモイライからアドメートスが若くして死ぬ運命にあり、助かるには両親か妻がアドメートスの代わりに死ぬしかないことを聞き出した。アドメートスの両親がそれを拒んだとき、アルケースティスは夫の身代わりとなって死に、夫の命を救った。しかしペルセポネーはアルケースティスを地上に帰したとも、ヘーラクレースがハーデースと戦って取り返したともいわれ』ている、とある。]
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