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2019/07/05

「Blog鬼火~日々の迷走」開設十四周年記念《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) (私は十八年目の誕生日をむかへました。……) 芥川龍之介



[やぶちゃん注:かく書いても当時の年齢は数えであり、しかも桃の節句のシークエンスが過去形で書かれているから、芥川龍之介満十七歳の、明治四二(一九〇九)年三月三日以降に書かれたものと私は推定する。この当時、龍之介は東京府立第三中学校(現在の都立両国高等学校。本文末尾に出る通り、明治三八(一九〇五)年四月入学)の第四学年の終わりから最終学年である第五学年(当時の旧制中学の修業年限は五年)になった時期に当たる。彼の全集に載る優れた長文論考(四百字詰原稿用紙換算で九十枚)で、龍之介自身が『一番始めに書いて出して見た文章』(「小説を書き出したのは友人の煽動に負ふ所が多い」大正八(一九一九)年一月発行の『新潮』掲載。これは現在、電子化されていないので、今回、この次の記事で合わせて電子化した)と名指している「義仲論」リンク先は「青空文庫」版(新字旧仮名)。但し、そこでは標題が『木曾義仲論』となっている。これは現行の諸資料の「義仲論」という題名と齟齬する。当該電子データは底本が昭和四三(一九六八)年筑摩書房刊の「現代日本文学大系」第四十三巻「芥川龍之介集」を底本としていることに拠るものと思われるが、現在の正規の芥川龍之介の書誌では総て「義仲論」であり、これは甚だ奇怪と言わざるを得ない。近い将来、旧全集に拠って正字でオリジナル注も附して電子化しようと考えている)が書かれたのは、この年の十二月六日以前である(龍之介は、当時、この『学友会雑誌』の編集委員を務めており、この日に編集を終えているが、その当該号に彼の「義仲論」は掲載されているからである。但し、当該誌が発行されたのは、翌明治四十三年の二月十日である)。

 底本は一九六七年岩波書店刊葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」の『〔中学時代㈠〕』に載る『十八年目の誕生日……』に拠ったが、その後書き註で葛巻氏は、『この原稿は、半紙に墨で下書きされた二種類がある。いずれもが、ほとんど読めないほど、字が乱れている。――が、彼が知る筈のない生れた家と、其附近のことが出て来るので、出来るだけ判読してみた。もちろん、他の一つで他の一つをお互いに補い合いながらである。――』と記しておられる。則ち、この「芥川龍之介未定稿集」が未だにどこかで鬼っ子扱いされている主原因たる、葛巻氏による本文操作(結合や書き変え)が、本篇でもかなり有意に行われているものとして読まねばならないことは言うまでもない。標題も葛巻氏によるものと考え、採用せず、冒頭の一文にリーダを附して丸括弧表示とした(本文では示さない)。始めの一段落目と二段落目の初めの部分を除き、殆んど句読点なしであり、字空けは総てママである(字空けも葛巻氏による附加である可能性が高いが、これをカットすると甚だ読み難くなるので採用した)。後半部の行空けもママ。文中と文末の二箇所の『・・・』は葛巻氏の処理とも考えられるが、後の芥川龍之介も原稿でこれを使用するケースが見られたので、そのまま示した。〔 〕は葛巻氏が補った部分や注である。踊り字「〱〲」は正字に代えた。

 第二段落に引かれる英文の一句は、アメリカの詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow 一八〇七年~一八八二年)の代表的単詩篇の一つ、「人生の讃歌」(A Psalm of Life:一八三八年)の第三連の一行目、

Art is long, and Time is fleeting,

の後半部である。原詩詩篇全文と解説は英語のウィキの「A Psalm of Life」がよい。この原詩の一行は……しかし……まさに後の……かの夏目漱石の「こゝろ」(大正三(一九一四)年発表。リンク先は私の初出復元注の、後の「上 先生と私」パート相当部)の初版の見開きに捺印されたあのラテン語「Ars longa, vita brevis(リンク先は私の古い記事)の英訳と一致するのだ……私はこれを満十七歳の芥川龍之介の述懐の中に見出し……何やらん慄っとするものを……感じた……

 第三段落「私は築地の何とか云ふさびしい通で生まれた」とあるが、芥川龍之介(本姓新原(にいはら))の出生(明治二五(一八九二)年三月一日生まれ)地は東京市京橋区入船町八丁目一番地、現在、中央区明石町一-二五の聖路加国際大学の一角の「芥川龍之介生誕の地」の表示版が立つ(グーグル・マップ・データ)が、そこから一区画分南とする説もある。但し、葛巻氏が言っている通り、芥川龍之介がここでの記憶を持っていることはあり得ない。何故なら、十月二十五日頃、実母の突然の精神疾患発症によって、龍之介は急遽、フクの実家である本所小泉町十五番地にあった芥川家(現在の墨田区両国三-二二-一一。現在、「芥川龍之介生育の地」が立つ。グーグル・マップ・データ)に預けられたため、実際に龍之介がこの生家に居たのは生後八ヶ月間だけであったからである。しかも、新原家は翌明治二十六年に芝へ転居している。則ち、ここで語られるそれは、龍之介が後に想像した(芥川家から入船町の旧新原家跡は直線で四キロメートルほどしか離れていないから、ごく少年期の龍之介が旧跡を訪れて見た可能性は極めて高い)偽記憶である。或いは、既にして創作の確信犯をここに読むことも出来ると言えるのである。なお、本篇が書かれた当時もこの本所に龍之介はいた。

 同段の「低い腰掛が二かはに行儀よくならだ」というのは、或いは「低い腰掛が二」(ふたつ)「かは」(川)「に行儀よくなら」ん「だ」の意ではないかと想像した。入船町八丁目は芥川龍之介生誕八年前の「五千分一東京図測量原図(農研機構)Map in Tokyo Central (1883 (Meiji 17), 1:5000)」で見ると(検索ボックスで「中央区明石町」を検索し、東へ少し移動して現在の聖ルカ礼拝堂付近へ運んで少し拡小すると旧地図となり、そこに「入舩町八丁目」が見える)、南と西側が当時は有意な川幅の運河であることが確認出来る。

 第四段落の「父」とは、実父新原敏三ではなく、養父芥川道章(どうしょう)である。龍之介の正式な芥川道章との養子縁組は明治三七(一九〇四)年八月で、龍之介満十二歳、江東小学校高等科三年の時であった。

 「脩竹」は「しうちく(しゅうちく)」で「修竹」とも書き、長く伸びた竹のこと。

 なお、本電子テクストは、本ブログ「Blog 鬼火~日々の迷走」開設十四周年記念として公開するものである。【2019年7月5日 藪野直史】]

 

 

 私は十八年目の誕生日をむかへました。

 私の誕生日は三月の一日です。川やなぎの芽だちも白くなつて、桃もちらほら咲いてゐました。雛段の下で 姊に白酒をすゝめられた時に、私は ほのかな暗愁に胸を押されて 小さな盃を持つた手がふるへずにはゐられませんでした 障子に暖な日ざしがさして 時々鶯の零さへきこへる春の日の靜けさが身にしみる樣な日です 私は限りないなつかしい思出に醉ひながら「time is fleeting」と云ふ句を耳のほとりにさゝやかれる樣な氣がしていつか目がうるみました

 私は築地の何とか云ふさびしい通で生まれたのでした 家のうしろが小さな教會でこもりした柊の木立の間から 古びた煉瓦の壁が見えて 時々やさしい歌の聲が 其中からもれて來たのと 低い腰掛が二かはに行儀よくならだ 薄暗い部屋のつきあたりに黑い髮の女の大きな額がかゝつてゐたのとは 未だにはつきり覺えております 私は裏庭の日あたりのいゝ葡萄棚の下で鵞鳥に餌をやるのが 何よりも樂〔しみ〕でした 海は直 ちかくだつたので よく下女に負ぶさつて見に行きました あの鳶色の帆がしめつぽい風をうけて靜に海の上をすべツてゆくのや 勢のいゝ船歌や 黃色がかつた水がたぷたぷと石垣をなめてゐるのが 下女に舟幽靈の話や人魚の話をしてもらひながら 海の底にある國の事を考へてゐた幼兒に どな感じをおこさせたかは たしかに覺えてゐません

 いくつの時でしたか 本所へ住む樣になつて こゝから學校へかよひました 小學校にゐた私は 意氣地のない女々しい子供で 始終皆にいぢめられて 泣いてばかり居りました 庭の無花果(いちじゆく)の木の下でしくしくないてゐますと 父が「なくぢやないよ。」と云ひながら 無花果をとつてくれましたので 猶 悲しくなつて 大きな聲をあげてないた事もありました 今でも あの無花果の小暗い葉かげを見ますと 夕やけのした雲を眺めながら 泣きずすりをしてゐた瘦せた子供を思ひ出します

 其時分は家のうしろに――今の兩國停車場のあるところです。――廣い原があつて 低い灌木のしげみや 冬の鳥の眼をひく野いばらの實の色づいたのに野葡萄がからんだ脩竹のやぶや 蘆が白くうらがれては鴨が時々とび出した小さな沼や 野菊がさいた中に狐の穴の在つた岡が 私たちにとつては いゝ遊び場所でした

 蛇いちごの たくさん成つてゐた草の上で 相撲をとつた事もあります 空氣銃を持つて一日百舌をねらひくらして 榎の黑い枝ごしに 宵の明星を見た事もあります 蒲の一ぱいはえてゐた池で〔一字不明〕の石の中(あひだ)から大きな蛇をひき出して殺した事もあります其頃の事を考へると ツルゲーネフか誰かの「森のそゞろあるき」が胸に浮で 少年の日の悲しみがしみじみと心に・・・

 

 私は大がい内で 御伽噺をよだり 繪の具いじりをしてゐました 女の〔二字分欠〕樣な綾とりや〔数字不明〕をやつた事もあります

 白い小さい柳の花が ひつきりなしにおちる時分でした うすぐらい〔数字不明〕で 下女と二人きりで 草双紙の繪を見てゐた私は つくづくひとり法師(ぼつち)のさびしさが 胸にしみたやうに思はれます

 私が中學へはひつたのは 三十八年頃でした・・・



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