小泉八雲 蟬 (大谷正信訳) 全四章~その「一」
[やぶちゃん注:本篇(原題も“SÉMI”)は明治三三(一九〇〇)年にボストンの「リトル・ブラウン社」(LITTLE,BROWN AND COMPANY)から出版された作品集“SHADOWINGS”(「影」:来日後の第七作品集)の第二パートである“JAPANESESTUDIES”(「日本の研究」)の冒頭に配された作品である。同作の原文は、「InternetArchive」のこちらから初版の原本当該作画像が、活字化されたものは「TheProjectGutenberg」のここの“Sémi (CICADÆ)”(「(CICADÆ)」は改行で添題)で読める(“Æ”は中世ヨーロッパに於いてラテン語の“ae”の単母音化したものを合字“æ”で表記した古式、現在でも稀に合字が使われることがあり、小泉八雲はかなり好んで用いている“cicadae”は“cicada”(蟬:節足動物門昆虫綱半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ型下目セミ上科Cicadoideaのセミ類)の複数形)。
底本は「小泉八雲全集」第六巻(大正一五(一九二六)年十一月第一書房刊)の大谷正信氏の訳を用いた。私は同巻を所持していないが、「グーグルブックス」の無料の電子書籍のこちらをPDFでダウン・ロードし、その本文「245」ページ以降の「蟬」を視認した。本底本では原本の図版(全部で五葉)は省略されてしまっているので、上記「TheProjectGutenberg」の“Sémi (CICADÆ)”に添えられている画像を使用し、概ね、原本の位置に近い箇所に配し、キャプションは原文を添えた上、その後に拙訳を注で示した。本文中にルビのように打たれる「譯者註」及び小泉八雲の原「註」は適切と思われる個所(底本とは異なる)に上付き字で挿入した。原「註」(底本は全体が三字下げ)及び「譯者註」(同じく四字下げ)はポイント落ちであるが、本文と同じにし、行頭まで引き上げた。但し、底本画像はかなり粗く、ポイントの小さい字が潰れて見えない部分があり、また、読み込み画像の不具合で一部が読みにくくなっている。そうした部分も拡大して精査し、総て起こすことが出来た。但し、困ったのは、鍵括弧か二重鍵括弧かが、判別出来ない点であった。明らかに中抜けしている二重鍵括弧もある。さすれば、基本、本文での引用部は二重鍵括弧で、書名などは鍵括弧で統一し、ポイント落ちの全く判別不能の註記のそれらは総てを区別せずに鍵括弧で統一した。傍点「ヽ」は太字に代えた。なお、私は新字の「蝉」の字に生理的嫌悪感を持つ。ここでは仕方がない引用以外は、総て「蟬」で通す。
なお、大谷氏の訳者註は最後に纏めて附されているため、底本でも甚だ読み難い。そこで、それを適切と思われる位置に分配して配することとした。
大谷は本文では概ね「虫」を(最後の方では「蟲」になる)、注では総て「蟲」を使っている。恐らくは書名その他では仕方なく「蟲」を使っているが、大谷自身は「蟲」の字が嫌いだったのではないかと私は密かに推測する。例えば、芥川龍之介のが「蟲」の字嫌いの一人だった。
また、本篇は私が文学的にも博物学的側面からも特に偏愛する一篇であることから、黙ってはいられない。小泉八雲のリズムを壊さないように禁欲的に途中に注を附した。
なお、加工用データとして、「野次馬集団」氏提供のサイト「βάρβαροι!」(バルバロイ!)の中の「インターネットで蝉を追う」の『特別付録 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)「蝉」』を使用させて戴いた。ここに謝意を表する。これは、今まで、本作の本訳を恐らくネット上で最初に電子化された先駆的なデータなのであるが、如何せん、作成されたのがかなり以前であるため(ソースを確認したところ文字コードはEUC-JPである)、標題の「蝉」でお判りの通り、正字(旧字)体にしきれていない漢字が多数あり、脱文・誤字・衍字も散見される。また、訳文中に多量に存在する訳者の注も省かれている点で、私の以下のテクストとは自ずと異なることを申し添えておく。
訳者大谷正信氏については、「小泉八雲 燒津にて 大谷正信譯」の私の冒頭注を参照されたい。
なお、パート標題“JAPANESESTUDIES”のページには、原本では以下の添え辞があり、
*
...Lifeerelong
Cameonmeinthepublicways,andbent
Eyesdeeperthanofold:DeathmetItoo,
Andsawthedawnglowthrough.
—GEORGE GEMEREDITH
*
底本では、恐らくは大谷氏による訳で(分担訳であるため、本冒頭の担当者と推定した)、「日本硏究」の「究」の字の中央の高さまで全体をインデントしたポイント落ちで(太字は傍点「ヽ」)、
*
……………………生は久しき前に
あからさまにわれに來りて、昔に優して
深く眼を向けぬ。死にもわれは逢ひ、
曙の輝きわたるを見たり。
ジョージ・メレディス
*
とある。ジョージ・メレディス(George Meredith 一八二八年~一九〇九年)はイギリスの小説家で詩人。]
蟬(シカダ)
聲にみな泣きしまふてや蟬の殼 日本の戀の歌
一
日本文學では陸雲譯者註一といふ名で知られて居る有名な支那の學者が、次に記載する珍奇な蟬の五德譯者註二といふものを書いた。
[やぶちゃん注:以下は全体が二字下げであるが、ブラウザでの不具合を考え、行頭まで上げた。底本では二行目に亙る場合も一字下げ(頭の二重鍵括弧のみが三字目にあり、以下は総て四字目から)であるので注意されたい。以下、同様の個所は同じ仕儀とし、注さない。]
『一、蟬は頭に或る模樣か註徽號かがある。これはその文字、文體、文學を現はして居る。
二、蟬は地上のものは何も食はず、ただ露だけ吸ふ。これはその淸潔、純粹、禮節を證明して居る。
三、蟬は常に一定の時期に出現する。これはその誠忠、摯實、正直を證明して居る。
四、蟬は麥や米は受けない。これはその廉直、方正、眞實を證明して居る。
五、蟬は己が棲む巢を造らぬ。これはその質素、儉約、經濟を證明して居る』
註 日本の蟬の一種がその頭の上に有つて居る妙な模樣は、魂の名を示す文字だと信ぜられて居る。
譯者註一 一飛の蟬說の中に「さればこそ陸雲も五德をあげて之を賦し」とあり、田中友水の「百蟲譜」の中にも「陸雲が爲めに五つの德に稱せられしは一代の譽なり」とあり。漢書には陸士龍とあり。
譯者註二 この五德の條は「和漢三才図會」に載り居る文を材料とせしもの。同書には「……蟬に五德あり。頭に緌あるは文なり。露を飮むは淸なり。候に應じ常に有るは信なり。黍稷を享けざるは廉なり。處巢穴せざるは儉なり。實に卑穢に舍とりて高潔に趨る者なり……とあり、陸士龍の「寒蟬賦」には「夫頭上有緌則其文也含氣飮露則其淸也黍稷不享其廉也處不巢居則其儉也應候守節則其信也加以冠冕則其容也君子則其操可以事君可以立身豈非至德之蟲哉云々」とあり。
[やぶちゃん注:「徽號」「きがう(きごう)」で、これは「旗印・旗章・徽号(きごう)」を意味する。原文は“signs”であるから、単に「記号」「符号」でよいと思う。
「一飛の蟬說」「一飛」が邦人の名で、「蟬說」(ぜんせつ)がその人物の書いた書名(章題)であろうが、不詳。識者の御教授を乞う。
「陸雲」(二六二年~三〇三年)は三国時代から西晉にかけての政治家で文学者。支龍は字(あざな)。かの優れた詩人にして政治家・武将であった陸機(二六一年~三〇三年)の弟。呉の滅亡後、洛陽に入ったが、政争に巻き込まれて兄とともに一族皆殺しにされた。以上は彼の「寒蟬賦」の一節(「寒蟬」とは「秋に鳴いている蟬」で、現代中国語では節足動物門昆虫綱有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目頚吻亜目セミ型下目セミ上科セミ科セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属ツクツクボウシ Meimuna opalifera を指す。本邦の辞書では先に蜩(セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ属ヒグラシ Tanna japonensis)を挙げている。ヒグラシは中国にも分布するので問題はないが、現代中国語ではヒグラシは「日本暮蟬」で、ヒグラシ属 Tanna を「暮蟬屬」とするので「寒蟬」は恐らく多くの中国人にとってはツクツクボウシである可能性が高い)。中文繁体字ウィキのこちらで全文が読める。その一節に(一部表記を変えた)、
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夫頭上有緌、則其文也。含氣飮露、則其淸也。黍稷不食、則其廉也。處不巢居、則其儉也。應候守節、則其信也。加以冠冕、則其容也。君子則其操、可以事君、可以立身、豈非至德之蟲哉。且攀木寒鳴、負才所歎。余昔僑處切有感焉。興賦云爾。
(夫れ、頭上に緌(ずい[やぶちゃん注:冠の垂れ紐。「蟬の口」の意もある。])有るは、則ち其の文なり。気を含み、露を飮むは、則ち、其の淸なり。黍稷(しよしよく)[やぶちゃん注:元は「糯黍(もちきび)」と「粳黍(うるちきび)」、又は「きび」と「粟(あわ)」。転じて「五穀」を指す。]を食はざるは、則ち、其の廉なり。處(ゐ)るに巢居(さうきよ)せざるは、則ち、其の儉なり。候に應じて節(せつ)を守るは、則ち其の信なり。冠冕(くわんべん)[やぶちゃん注:冕板(べんばん:冠の頂につける板)をつけたかんむり。天皇・皇太子の礼服に付属する。]に加へらるるは其の容を戶取ればなり。君子、其れ操(さう)に則れば、以て君に事(つか)ふべく、以て身を立つべし。豈に至德の蟲に非ずや。且つ、木に攀ぢて寒鳴するは、貧才の歎く所なり。余、昔、僑處(けうしよ)[やぶちゃん注:仮住まいすること。]せしに、切(しき)りに焉(これ)に感ずること有れば、賦を興して爾(しか)云ふ。)
*
とある。大谷の引用には一部に異同があるが、文意には問題がない。なお、佐藤利行氏の論文『陸雲「寒蟬賦」について』が非常に詳しく、PDFでダウン・ロード出来る。
「田中友水の百蟲譜」【2019年8月31日改稿】当初、『詳細は判らぬが、これは所謂、栗本丹洲の「千虫譜」のような博物学的虫譜ではなく、俳諧随筆と思われる』旨の注を記したが、各種テクストでいつも情報を寄せて下さるT氏よりメールを頂戴した。それによれば、やはり所謂、狂文(俳文・戯文の類い。後述)であった。まず、田中友水(生没年未詳)は、田中則雄氏の論文「初期読本の研究」(一九九六年京都大学・PDF)によれば、『田中友水子』(これで「ゆうすいし」の合と判る)教訓本(「世間銭神論」(安永八(一七七九)年刊)等を手掛け、『また狂文『風狂文草』(延享二』(一七四五)『年刊)を物したことで知られる大阪の町人学者で』、『宝暦三』(一七五三)『年序の実録体小説『銀の簪』』『に、町人学者として高宮環中』・『半時庵淡々』らの人々とともに『名を連ねている』とあって、また、『俳諧叢書『名家俳文集』に収める『風狂文草』の解題には、友水子は淡々の他、青年時の秋成と繋がりのあった紹簾・白羽等の俳人とも交誼があったとされて』おり、『生没年未詳』乍ら、『元文末年』(六年で一七四一年)『頃既に五十歳をこえていたとの』そこでの『推定』『に従えば秋成より四十余歳年長であろうが、秋成と同様』、『大阪の町人学者たちの文化圏内にあった人物であることは確かである』とあった(引用元論文にはさらに詳しい事蹟が記されてある)。しかも、この友水の「風狂文草」は、平凡社「世界大百科事典」の「狂文」の解説中に登場するほど、著名なものであった。それによれば、『和文体の狂文は俳文を卑俗滑稽に崩すという形で始ま』り、『江戸の山崎北華の』「風俗文集」(延享元(一七四四)年)や、翌年刊のこの『大坂の田中友水子の』「風狂文草」は、『俳文集ではあるが』、『風雅に縁遠い卑俗な素材をふざけた調子で記述する文章に託して』、『知識人らしい強い自我を表しており』、『通常の俳文の枠を越えている。これらの作品が先駆となって』、『和文体の狂文が定着し』、『やがて平賀源内の』「風来六部集」(安永九(一七八〇)年)『のような』、『自虐と社会批判に満ちた作品が生まれた』とある。而してその「風狂文草」の「百蟲譜」は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像を視認することが出来ることもT氏から教わった。以下にその冒頭に配された蟬の狂文を電子化する(句読点を変更・追加し、総ルビだが、パラルビにした。踊り字「〱」は正字化した)。
*
○蟬は仙人の氣象あるものなり、五穀を喰(くら)はず、風をすひ、露をなめて、夏山の木立に棲みわたり、世美(せみ)世美とおのが名をよぶは、妻をこふ聲にも非(あら)ずして、美くし、よし、と聞こゆるは、女郎花(おみなへし[やぶちゃん注:ママ。])のなまめく、姿を讃(ほめ)のゝしる風情(ふぜい)にいひなせし、万葉の古言(ふること)に本(もと)つける俊賴の感情なるべし。これが虛脫(ぬけがら)は仙人の尸解(しかい)にひとし。何處(いづく)に去(さつ)てか、衣類のみを殘しけむ。陸雲が爲(ため)に五門の德に稱ぜられしは一代のほまれ也。式部が源氏の卷に入(はいり)しは万代(まんだい)の手柄なり。脫捨(ぬぎすて)の古着も故弊買(ふるてかい[やぶちゃん注:ママ。])の手に落入(おちいら)ず、藥店(くすりや)の手にわたり、醫者にもてなされ、不意の効(こう)をあらはして人を救ふめり。猶、人がらのなつかしきかなとよまれしは、空蟬(うつせみ)の身をかへし、跡の名殘を思ふ言葉の種なりけり。
風吹渡外山松蔭 暫囘頭欲問汝樂
*
最後の漢詩風の二句は訓点に従ったものを書き下すと、
風吹き渡る 外山(とやま)の松蔭
暫(しばら)く頭-囘(こちらむ)け 汝が樂しみ 問はんと欲す
である。
「『和漢三才図會』載り居る文……」私は幸いにして「和漢三才図会」の「蟲類」を総て既に電子化注している。「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蟬」を見られたい。しっかり注してある(但し、そこで作者寺島良安はこれを陸雲のものとは名指してはいない。これは良安の「本草綱目」の引用のためで、時珍は同書の巻四十一の「蟲之三」の「蟬花」の中で陸雲のそれであることをちゃんと記している中文ウィキソースの「本草綱目」のここを見られたい)。但し、この時珍の記載は、「花」で臭ってくるように、蟬の一種の記載ではなく、恐らく、冬虫化草の一種、現在の菌界ディカリア亜界 Dikarya子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱ボタンタケ亜綱ボタンタケ目オフィオコルディケプス科 Ophiocordycipitaceae オフィオコルディケプス属セミタケ Ophiocordyceps sobolifera を指しているように思われる。]
我々は之を二千四百年前に書かれたアナクレオン譯者註三の蟬への美しい話掛と比較することが出來よう。一箇處どころか多くの點に於てこの希臘の詩人とこの支那賢者とは全然一致して居る。
[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体がポイント落ちで三字下げ。以下も特に言わない場合は同じ仕儀とし、注さない。]
『蟬よ、我等はいましを幸(さち)あるものと思ふなり、王者の如く、纔かの露のみ吸ひて、木末に樂しく囀ることとて。いましが野原に眺むるもの總て、四季がもたらすもの總て、皆いましが物なれば。されどいましは――人を害ねん[やぶちゃん注:「そこねん」。]ものは何物をも取ること無く――土地を耕す者共の友にてあるなり。いのちある人の子等は夏を知らする嬉しの先驅といましを尊み、ミユーズの神はいましを愛で給ふ。フイーブス譯者註四もいましを愛で給ひて、淸き鋭き歌をいましに與へ給ひぬ。また年老ゆるもいましが身は衰へず。あゝ天賦すぐれしいましや、――地に生まれ、歌を好み、苦をのがれ、肉あれど血の無き――いましが身は、神にさも似たるかな!』
註 希臘詩選集からのこの引用も今後の引用もすベてバアゼズの英譯に據つた。
譯者註三 アナクレオンは殊に戀愛詩に名高き希臘の敍情詩人(紀元前五六三――四七八)
譯者註四 フイーブスはアポロの通り名。アポロは文藝(ミユウズ)九神の主長にて日の神。
[やぶちゃん注:「アナクレオン」(ラテン文字転写・Anakreōn/英語(小泉八雲もこの表記):Anacreon 紀元前五七〇年頃~紀元前四八〇年頃)は古代ギリシアの抒情詩人。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、紀元前五四五年頃、ペルシアの侵入により、テオス市民たちとトラキアに逃れ、アブデラに植民した。彼自身は定住せず、サモスのポリュクラテス、アテネのヒッパルコスなど、各地の僭主たちの宮廷に招かれ、テッサリアの王宮にも滞在した。彼の詩は酒や恋を歌った軽い遊戯的なものが多く、彼の用いた多種多様な詩形の中には「アナクレオン詩句」と呼ばれる単純明快な韻律があり、文体も簡潔だったため、多くの模倣者を生み、「アナクレオンテア」(Anakreontea)という後世の模作集が現存する。彼の詩集はヘレニズム時代に抒情詩(メロス)のほかに、エレゲイア・イアンボス・エピグラムなどを含めて六巻が編まれたようだが、現存するのは断片百数十のみであるとある。
「フイーブス」小泉八雲の引用原文では“Phœbus”(現行は“Phoibos”で英和辞典では「フォイボス」と音写しているが、ネイティヴの発音を聴くと「フィィバス」。意味は「太陽」)。ギリシア神話の神アポロン(ラテン文字転写:Apollōn)の別名とされる(但し、彼とは別神格として存在した可能性もあるという)。「ブリタニカ国際大百科事典」によれば、ゼウスとレト女神の子で、アルテミスの双子の兄弟。デロス島で生れ、極北のヒュペルボレオイ人の国に行って、一年間そこにとどまったあとで、デルフォイに至り、大地女神ガイアの神託を守護していた悪竜ピュトンを退治した。絶世の美男子で、弓矢と竪琴を携え、予言とともに音楽・医術・牧畜なども司り、また、病の矢を放って人や家畜を殺す恐ろしい疫病神としての一面も持つ。コロニスと交わって医術の神アスクレピオスを生ませたほかに、ニンフや人間の女或いは美少年との間に多くの恋愛譚が伝えられるが、何故か、その大半は悲劇的結末に終っている。後に太陽神と混同された、とある。なお、平凡社「世界大百科事典」の「蝉」の解説には、『中国では副葬品として含蟬と称するものがあった。ギリシアでは〈黄金のセミ〉がアポロンの持物であり,また日の出とともに鳴き始めるので暁の女神エオス(ローマではアウロラ)の持物ともされる』とあった。
「バアゼズの英譯」原文“Burges' translation'”。これはインド生まれのイギリス人古典学者でギリシャ学の碩学であったジョージ・バージェス(一七八六年~一八六四年)の“The Greek anthology”(「ギリシア詞華集」一八五二年刊)であろう。ハーンの旧蔵本(富山大学「ヘルン文庫」所蔵)に英語版とフランス語版がある。これに就いては、中島淑恵氏の論文「ラフカディオ・ハーン旧蔵書『ギリシア詞華集』仏訳版の書き込みについて―昆虫譚と幽霊妻をめぐって―」(二〇一七年)と、同氏の「ラフカディオ・ハーン旧蔵書『ギリシア詞華集』英語版の書き込みについて②―セミとキリギリスに関する詩を中心に―」(二〇一八年)という本篇を学術的に精読検証出来る恰好の論文(孰れも『富山大学人文学部紀要』所収。ともにPDF)をダウン・ロード出来る。必見。]
PLATE I.
1-2, Young Sémi.
3-4, Haru-Zémi, also called Nawashiro-Zémi.
[やぶちゃん注:訳す。
第一図版。
1-2 幼生の蟬。
3-4 「ハルゼミ」、一名「ナワシロゼミ」とも呼ぶ。
「ハルゼミ」春蟬。セミ亜科ホソヒグラシ族ハルゼミ属ハルゼミ Terpnosia vacua。ウィキの「ハルゼミ」によれば、ヒメハルゼミ属 Euterpnosia と合わせて二属三種でそれにヒメハルゼミ E. chibensis に三亜種がいる。『成虫の体長はオス28-32mm、メス23-25mmで、ヒグラシを小さく、黒くしたような外見である。オスの方が腹部が長い分メスより大きい。翅は透明だが、体はほぼ全身が黒色』から『黒褐色をしている』。『日本列島では本州・四国・九州、日本以外では中国にも分布する』。『ある程度の規模があるマツ林に生息するが、マツ林の外に出ることは少なく、生息域は局所的である。市街地にはまず出現しないが、周囲の山林で見られる場合がある』。『日本では、セミの多くは夏に成虫が現れるが、ハルゼミは和名のとおり4月末から6月にかけて発生する。オスの鳴き声は他のセミに比べるとゆっくりしている。人によって表現は異なり「ジーッ・ジーッ…」「ゲーキョ・ゲーキョ…」「ムゼー・ムゼー…」などと聞きなしされる。鳴き声はわりと大きいが生息地に入らないと聞くことができない。黒い小型のセミで高木の梢に多いため、発見も難しい』とある。私は十数年前、群馬県利根郡みなかみ町永井にある一軒宿「法師温泉」で、その大群の鳴く松林を歩いた。不思議に幻想的であった。You Tube の paraチャンネル(pararira18)氏の「ハルゼミの声」をリンクさせておく。異名「ナワシロゼミ」は言わずもがな、「苗代蟬」(但し、歴史的仮名遣では「なはしろぜみ」)。「環境庁」製作の「第五回 緑の国勢調査」と名打った一九九五年度の「身近な生きもの調査」のセミのデータはなかなかにしっかりしているが、その「地方名」に、『私たちの暮らしに身近なセミは、古来から地方ごとにいろいろな名称で呼ばれてきました。たとえば、神奈川県では、ハルゼミの地方名の一位は「マツゼミ」で十二例、二位が「マツムシ」で三例、以下一例ずつで「タウエゼミ」「アワビムシ」「カイダリムシ」と続く。同データの「ハルゼミ」の脱け殻分布図もリンクさせておく。異名とするそれは「苗代蟬」農事の暦と関連づけた、このハルゼミの鳴き声で苗代を拵える時期を知るもので、何としても残しておきたい民俗名である。]
そして我々は、奏樂虫類を詠んだ日本文學の詩歌に匹敵するものを見出すには、必らず希臘の古代文學に遡らざるを得ぬ。蟋蟀を詠んだ希臘韻文中の最も美はしいのは、恐らくはミリエヂヤ譯者註五の『戀の思ひをさまよはしむる、聲音の糸を織り成して……眠(ねむり)鎭むる、いましこほろぎ』といふ詩であらう。……が、蟋蟀の囀りを詠んだもので、感念の微妙さ、殆ど之に讓らぬ歌が日本に澤山ある。そして此の小歌人に報ゆるに新しい菲[やぶちゃん注:原文は“fresh leek”。大谷は「韮」(にら)のつもりでこの字を選んでいると思われるが、本漢語「菲」には「ニラ」の意味はなく、カブの一種で、国字としてのニラの用法もない(他に「薄い・粗末な・つまらない」の他、反対に「芳しい・香(かぐわ)しい」の意はある。但し、本邦の作家や中国でもしばしば「韮」を「菲」と誤記するようである)。英語の“leek”(リーク)は最近よく見かける地中海沿岸原産のネギの一種であるリーキの栽培品種「リーキ」(ポロネギ・ニラネギ・セイヨウネギとも呼ぶ。単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ亜科ネギ属リーキ Allium ampeloprasum var. porrum)のことである。因みに、「韮(にら)」は Allium tuberosum で、同じネギ属ではある。]を以てしよう、『ちさくきざみし露の玉』を以てしよう、といふミリエデヤの約束の言葉は、奇妙に日本風にきこえる。それからアニテ譯者註六が書いたとされて居る、自分の祕藏の蟬と蟋蟀とに墓を建ててやつて、『說けど語れど聽き容れぬ』ヘイデイズ譯者註七が自分の玩具を奪って行つたのだと言つて泣いて居るミロといふ小娘を詠んだ詩は、日本の兒童生活には有りふれた一經驗を叙述して居るのである。今日の日本の小さな女の子が、記念碑の用にとその上へ小石を置くのと丁度同じ樣に、ミロ孃は――(二十七世紀の後の今日、その淚の玉は猶ほ如何に新しく輝くことであるか)――その祕藏の虫に『よせ墓』を造ったことと自分は想像する。然しもっと利發な日本のミロ孃は、その墓に向つて佛敎の祈禱の文句を口ずさむことであらう。
譯者註五 ミリエヂヤは紀元前一世紀の央に希臘に其名高かりし警句詩家。
譯者註六 アニテ(タゲアの)は紀元前三百年頃の有名な女詩人。
譯者註七 ヘイデイズは陰府下界の王プルウトオ。
[やぶちゃん注:「ミリエヂヤ」原文“Meleager”。Meleager of Gadara。彼は紀元前一世紀に現在のヨルダンにあったガダラに住み、官能的な作詩や諷刺的散文を書いた詩人で、五十人の詩人の警句を集めた「ガダラのメレアグロス」というアンソロジーの名で知られる。
「アニテ」原文“Anyté”。Anyte of Tegea(Anýtē Tegeâtis)紀元前三世紀前半のアルカディアの女流抒情詩人(古代にかく呼ばれた事実はあるが、彼女の確かな抒情詩は現存しない)。
「ヘイデイズ」原文“Hades”で所謂、ギリシア神話の冥府の王「ハデス」である。但し、実際の英語の発音は「へィディーズ」で大谷の音写は正確。地下の鉱物資源の守護神でもあり、「プルートーン」(Plūtōn:「富める者」の意)とも呼ばれ、後にローマ神話に取り入れられて冥界の王「プルートゥ」(Plūtō)ともなった。]
古代の希臘人が虫の曲調を愛したことを告白して居るのを見るのは、殊に彼等が蟬を詠んだ歌に於てである。その證據に、蜘蛛の係蹄[やぶちゃん注:「けいてい」。元来は、中国で縄や糸を輪にし、その内に動物の体の一部が入ると、締めつけて捕える括(くく)り罠を指す。]に捕へられて、詩人が外づしてやるまで、『か弱き械[やぶちゃん注:「かせ」。罪人を自由にさせないための道具。]に悶え泣き』して居た蟬を詠んだ、名詩選集中の詩句を詠んで見給へ。――また「仰げば高き木の上に、夏の暑きに暖たまり、女の乳にさも似たる、露を啜りつ』して居る、この『道行く人に歌きかす、酬も受けぬ旅樂師』を描いて居る、タレンタム譯者註八のレオニダス譯者註の詩を讀んで見給へ。――或はまた
『聲明朗らの蟬の君、露を啜りつ花の上、鋸(のこ)の齒なせる脚踏まへ、いましが黑き膚よりぞ、妙なる琴の音出づる』
の詞で始まつて居るミリエヂヤの風雅な斷片を吟じて見給へ。……或はまた、エヹヌス譯者註一〇が夜鶯(ナイテインゲール)に與へて詠んだ、次記の微妙な文句を誦して見給へ。――
『蜜に育てる汝(なれ)アテイカの少女よ。囀りつ汝(な)は囀れる蟬を捉へて、翼なき汝(な)が幼兒へ持ち去りぬ、――囀り巧みなる汝(な)が、囀り巧みなるものを――外人(よそびと)たる汝が、その外人を――夏の子たる汝が、その夏の子をば! 放ちやらずや早く。歌にたづさはる者が、歌にたづさはる者の口に滅びんは正しからねば、理に悖れば』
譯者註八 タレンタムは南伊太利の古名。今はタラント。
譯者註九 レオニダスは紀元前二百七十五年頃盛名を馳せし希臘詩人。その百篇に近きエピグラム傳はり居り文學愛好家の賞讚を博し居れり。
譯者註一〇 ヱヹヌスは紀元前四百五十年頃の希臘パロスの詩人。ソオクラテスは此人に就いて詩を學びたりと稱せらる。
[やぶちゃん注:最後の引用の「その夏の子をば!」の後には底本には字空けがないが、特異的に私が補った。
「タレンタム」“Tarentum”。タレントゥム。「靴」の踵の内側上部、イタリア共和国のプッリャ州南部にある都市ターラント(Taranto)(グーグル・マップ・データ。以下同じものは示さない)。ウィキの「ターラント」によれば、この地の『歴史は古代ギリシアの植民地が置かれた紀元前8世紀まで遡る。スパルタからの植民者は、この町を神話の英雄ターレスにちなんでターレスと呼んだ。古代ギリシア時代には、都市は半島の位置にあり』、『東はネクロポリスであった。 現代の都市はそれらの上に拡張されている』。『紀元前3世紀初頭、マグナ・グラエキアのギリシア人たちは、北方から勢力を拡大するローマ(共和政ローマ)と対立した。紀元前282年、ターラント湾を航行するローマ船団への攻撃を理由として、ローマはターレスに宣戦を布告した。これに対し、ターレスはエペイロスのピュロス王に支援を要請。ピュロス王は大軍をイタリア半島に送り込み、ピュロス戦争(紀元前280年 - 紀元前275年)が展開された』。『紀元前272年、ターレスはローマによって占領された。ローマ人は、ローマからアッピア街道をこの町まで延ばし、この町をタレントゥムと呼んだ』。『二つの湾があるため、ターラントは二つの海の都市とも呼ばれることがある。マーレ・グランデ(大きな海の意)の商業港は、イオニア海のターラント湾に面し、西にあるサンピエトロ島とサンパオロ島という2つの小島に守られた位置にある。反対側のマーレ・ピッコロ(小さな海の意)の港は古い都市により発展し、漁業が盛んである。マーレ・ピッコロにある軍港は戦略的に重要なため、19世紀の終わりに港に戦艦を入れるための運河が半島を横断して掘られて、古代ギリシア人の町は島になった』とある。
「レオニダス」“Leonidas”(生没年未詳)。古代ギリシアの詩人で、紀元前三世紀前半に活躍し、この時代を代表する詩人の一人。タレントゥムの出身で、貧窮のまま各地を放浪し、老いて異郷で没したという。現存する百篇ほどのエピグラム(epigram:本来は狭義のそれは“epigramma”で、古代ギリシア・ローマの詩の一種。元は「碑文」の意で、墓碑銘や奉納物に刻む言葉には詩形、特に「エレゲイア」が用いられ、この意味でのエピグラムの代表詩人はシモニデスであった。ヘレニズム時代には、折々の気分や感想を歌う短い詩をも指すようになり、種類も奉献詩・恋愛詩・風刺詩等々に分れた)は、ほとんど奉献詩と碑銘詩である。同時代のアスクレピアデスとは異なり、恋愛や飲酒を歌う作品がなく、貧しい庶民に言及する作品が多いのも特徴とする。高度に完成された詩句は、装飾的で修辞学の色彩が強く、新造語や難解語が目だつ。その影響は大きく、ローマのプロペルティウスやオウィディウスに及んでいる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「汝(なれ)アテイカの少女よ」“Thou Attic maiden”。「アテイカの」の「アテイカ」は「アッティカ(Attica)」で、ギリシャのアテネ周辺を指す地域名。或いはアッティカの首都である「アテネ(Athens)の」の意。]
之に反して日本の詩人は、セミの聲よりも蟋蟀の聲を遙か多く賞讃する傾向のある、のを我々は認める。セミの詩は無數にあるが、その歌ひ聲を褒めて居るのは極めて少い。固よりセミといふのは希臘人の知って居た蟬(シカダ)とは餘程異つて居る。眞實音樂的な種類のものも少しはあるが、大多數は驚く許りに騷々しい、――そのメンメンと鋭く叫ぶ聲は、夏の大苦惱の一つに思はれて居る程に騷々しい。だが蟬を詠んだ日本の韻文幾百萬の中から、上に引用したエヹヌスの詩句に匹敵すべきものを探索するは、無益の勞であらう。實際が、鳥に捕られた蟬といふ題で自分が發見し得た日本の詩は、ただ次記の一つであつた。
あなかなし鳶にとらる〻蟬の聲 嵐雪
[やぶちゃん注:詩歌引用は底本では三字下げで、句の後も三字空けで作者名「嵐 雪」であるが、ブラウザの不具合を考えて総て圧縮した(以下、同じ仕儀の部分では注さない)。なお、ここには一行空けがないが、設けた。
「嵐雪」服部嵐雪(承応三(一六五四)年~宝永四(一七〇七)年)は芭蕉(寛永二一(一六四四)年~元禄七(一六九四)年)の高弟。淡路出身の武家。延宝二(一六七三)年か翌年頃に蕉門に入った最古参で、其角と並ぶ江戸蕉門の重鎮となった。但し、業俳で点料稼ぎに走ったり、「かるみ」を代表する撰集「別座鋪」(元禄七(一六九四)年刊)を批判したりして、最晩年の芭蕉の怒りを買ってもいる。それでも師に対する敬慕の念は終生変わらなかった。但し、芭蕉没後は黄檗済雲老師に参禅して法体となり、俳諧一筋ではなくなった。この句は嵐雪が初めて担当した四季撰集「其袋」(元禄三(一六九〇)年刊)の「夏之部」。
蟬
あなかなし鳶にとらるゝ蟬の聲
如何なる情報によるものか不明だが、ネット上ではロケーションは六本木とする。]
或は『子供にとられる』と此詩人は述べてもよかつたことであらう―――あの哀れな啼き聲を出す原因は、此の方が餘程餘計なのだから。ニキアスが蟬に代つて嘆いた句は、日本の多數のセミの輓歌の用を爲すことである。
[やぶちゃん注:「ニキアス」“Nicias”不詳。知られたそれはペロポネソス戦争の時代に活躍した古代アテナイの将軍で政治家のニキアス(紀元前四七〇年~紀元前四一三年)だが、彼のことかどうかは私には判らない。前後の流れから考えれば、先のジョージ・バージェス「ギリシア詞華集」に載る同名の詩人ととるべきであろう。]
『疾(と)く動く、翅に音(ね)をば放ちつつ、樂しまむこと早絕えぬ、綠の蔭にやすらへる、我を圖らず捉へたる、男の子が無慙の手に在れば』
序に此處へ書いてもよからう、日本の子供は通例鳥黐を尖端へ着けた紬長い竹竿でセミを捕る。捉まつた折或る種のセミが放つ聲音は實に可哀想である、脅された折に鳥が放つ聲ほどに可哀想である。その折の音は、人間が用ひる『聲』といふ意味での苦痛の『聲』では無くて、特殊な發達を爲し來たつた體の外側に在る膜の所作であると、かう合點するのが困難な位である。捕まった蟬が斯んな啼き聲をするのを聞いて、或る虫類の發聲器は一種の樂器と考ふべきものでは無くて、言語の一機官[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。“organ”。器官。]と思ふべきもの、そしてその發達は鳥の音聲もさうのやうに――非常な相違は虫はその聲帶を躰の外部に有つて居るといふことで――單純な情緖と密接な關係を有つて居るのだ、と斯う全く新規な確信を近頃自分は抱くやうになつた。然し昆虫世界は全く妖魔神仙の世界である。我々がその用を發見し得ない機官を有ち、我々がその性質を想像し得ない官能を有つて居る動物が居る。――幾萬といふ眼を有つたり、背中に眼を有つたり、鼻や角の尖端で動き𢌞る眼を有つて居る動物が居る。――腹や脚に耳があつたり、腰に腦! があつたりする動物が居るのである。だから或る種の昆虫が、偶〻身體の内部でなくて外部に聲を有つて居ても、誰れもその事實に驚く理由(いはれ)は無いことである。
[やぶちゃん注:「腦!」の後には底本では一字空けはない。特異的に挿入した。]
自分は日本の韻文で、蟬の發聲器に言ひ及んで迨んで[やぶちゃん注:「およんで」。]居るものは――そんな韻文が存在して居さうなものとは思ふが――まだよう一つも見出し得ないで居る。日本人は、確に自國の啼く虫の特性に就いて、數世紀の間馴染になつて居る。然し自分は日本の詩人が、蟋蟀の或は蟬の『聲』というて居るのは不正確だ、と今言はうなどいふ考は無い。虫は音藥を奏するにその翅と脚とを以てす、と現に說いて居る古昔の希臘詩人も、斯くと知つては居ながら、――日本の詩人が使ふと正(まさ)しく同樣に――『聲』とか、『歌』とか、『囀り』とか言つて居る。例を擧げればミリエヂヤは蟋蟀へ斯う言ひかけて居る。
『聲音するどき翅を有ちて、身は自(おの)づからなる七絃琴の、いましこほろぎ我が身の爲めに、聲なす翅を脚もてたたき、歌ひきかせや樂しき節(ふし)を!……』
[やぶちゃん注:「七絃琴」原文は“lyre”(発音は「ラィアー」)古代ギリシャの竪琴(ハープ)である「リラ」。所謂、「ハープ」で想起するあの「Ω」を逆さにしたあれ。弦の数は時期によって異なり、地域によっても異なっていた可能性があるが、概ね四・七・十弦のものが好まれた。
なお、ここで紹介しておくと、加工用データとして使用させて貰っているサイト「βάρβαροι!」の『特別付録 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)「蝉」』には、丁度、この部分に興味深い検証が行われている。以下に引用させて戴く。
《引用開始》
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)においては、英語"cicada"と日本語"Sémi"とは、ほとんど同義と解してよいが、その心裡においては、日本の"Sémi"は彼の解する真の"cicada"からは、やや外れていると考えていたのかもしれぬ。それが証拠に、彼は、日本の"Sémi"には"Japanese cicada"という限定詞をつけて呼ぶのに対し、ギリシアの蝉にはそういう限定詞をつけていないのである[やぶちゃん注:ここに英文ヴァージョンへのリンクがあるが、略す。但し、それ(正確には“Japanese cicadæ”)が出るのは、原文のこの後の「Ⅲ」パートのここ(原本画像。右ページの“A very large number of Japanese poems…”と始まる本文の五行目)である。]。
彼がギリシアの蝉をじっさいに知っていたかどうかわからぬ。もし知っていなかったとしたら、彼にとっては、古代ギリシアの詩歌の対象となっていた蝉こそが、"cicada"と呼ぶにふさわしいと思っていたのであろう。たとえ実物を知らなかったとしても、ギリシアの蝉は全体におとなしい鳴き方をしたと考えられる。
ヨーロッパに一般的な蝉は、学名"cicada orni"と呼ばれる小型の種類である(左上図)[やぶちゃん注:リンク先に写真有り。]。その鳴き声はいたっておとなしい[やぶちゃん注:ここに「AU format sound」の音声ファイルのダウン・ロード・リンクがある。そちらで落とされたい。]。
もう少し大型でよく鳴くのは、学名"cicada plebeia"と呼ばれる種類で(右下図)[やぶちゃん注:リンク先に写真有り。]、その鳴き声は[やぶちゃん注:同じくここに「AU format sound」の音声ファイルのダウン・ロード・リンクがある。]。古代ギリシアの詩人たちを魅了したのは、こちらの蝉であろう。
それにひきかえ、日本の"Sémi"はいかにも「音楽的」である。そのことがハーンを引きつけたらしい。しかし、彼が認めるのはツクツクボウシとヒグラシぐらいまでで、それ以外はいかにもやかましいと思っていたようだ。
次章で、ハーンは、日本の詩人たちは「蝉で無い昆虫の名にセミの語を用ひさへして居る」というのだが、残念ながら根拠が示されていない。何をさして云っているのか、知りたいものである。
《引用終了》
引用文中の“cicada orni”は和名はない。同種の英文ウィキはここ。“cicada plebeia”も和名はない。なお、小泉八雲(Patrick Lafcadio Hearn)は一八五〇年(嘉永三年相当)六月二十七日にギリシャのイオニア諸島の一つであるイギリス保護領であったサンタ・モウラ島(イタリア語:Santa Maura。現在のレフカダ島(Lefkada)。一八六四年六月二日にギリシャに帰属した。「ラフカディオ」の名はこの島の名から採られたもの)で生まれたが、二年後一八五一年に、父の西インドへの転属により、この年末、母と通訳代わりの女中とともに、父の実家アイルランドへ向けて出立し、途中、パリを経て一八五二年八月に父の実家があるダブリンに着き、そこで幼少時代を過ごし、後の日本に至るまでの波乱万丈の半生の間も、故郷ギリシャに立ち寄ることは遂に、なかった。従って、彼がギリシャのセミの声の記憶を持っている可能性は残念ながら限りなくゼロに近い。]