諸国因果物語 巻之六 貪欲のもの人魚にむまるゝ事
貪欲(とんよく)のもの人魚(にんぎよ)にむまるゝ事
出羽の國百合の里、ぬけ戶口に、橫山文左衞門といふものあり。
[やぶちゃん注:秋田県由利本荘市(ゆりほんじょうし)東由利舘合(ひがしゆりたてあい)板戸口(いたとぐち)・東由利舘合岩井戸口(いいわとぐち)の地名があり、東由利舘合はここ(グーグル・マップ・データ)。但し、後に出る「關濱」は同市内には現在見当たらない。]
宝永二年の比、周波和尙とかやいふ僧、比國に來り給ふ事ありけるに、此文左衞門、諸事を世話にし、その邊(へん)近鄕のものへ勸(すゝめ)、
「おのおの血脈(けちみやく)をうけ給へ。」
と、いひわたりけるまゝ、文左衞門をたのみて、我も我もと、心ざしをはこび、布施を持參し、血脈をうくる事にぞありける。
[やぶちゃん注:「宝永二年」一七〇五年。
「周波和尙」不詳。
「血脈」この場合は、在家(ざいけ)の受戒者に仏法相承の証拠として与える法嗣の系譜図。]
あるひは、鳥目百文、二百文より、一貫、二貫にいたり、または、金子五十疋、百疋より、壱兩、二兩と、心々につゝみて、文左衞門に渡しけるを、おもふさま、取こみ、高(かた)〆(しめ)て百四、五十兩あてもありけるを、ことごとく聊留(かくりう)し、周波和尙へは、わづかに鳥目(てうもく)百文づゝに積りて渡しけるば、欲の程、終にかくれなく、かたはし、ひそひそと取沙汰あしくなりて、
「此文左衞門は欲こそ多けれ、佛法のすゝめを請(うけ)んため、僧にたてまつりし物をおさへて、我ものにしける科(とが)輕からねば、此世こそ榮花はするとも、定(さだめ)て後生(ごしやう)にはぢごくのたねにこそあらめ。」
などゝ、女・わらべまで、陰口に爪(つめ)はぢきして、そしり、おもひけるを、聞(きゝ)つゝも、
「何ほどのことかあるべき。見ゑ[やぶちゃん注:ママ。]もせぬ後生より、さしあたりての此世こそ案ずべけれ。日本の内、あらゆる神のやしろ、佛の寺につきそひ、此かげにて身を過るもの、いづれか欲をせぬもの有べき、たとへ、日本(につぽん)のためとて、大分(だいぶん)の金をうけとるとも、纔(わづか)、日に一盃の飯(めし)をたてまつりて、その外は身をやしなひ、命をつなぐたよりにする也。我も、まんざら、橫取したらばこそ初尾(はつお)は、みなみな、和尙にやりたれば、神佛をうりて過る者とおなじ事。我は出家の德を賣(うり)て隙(ひま)入たる手間賃(てまちん)を取たるなり。何時(なんどき)にても、かゝる人あらば、我、また、一まふけのたねにすべしとおもふ也。」
などゝ、口ひろく、いひのゝしり、何の氣もなき顏つき、いよいよ、村中にも疎(うと)み、にくみたりしに、その年の秋より、文左衞門、ふらふらと煩ひ付て、臥(ふし)たり。
[やぶちゃん注:「聊留(かくりう)」漢字表記はママ。「ゆまに書房」版は『柳留』と判読しているが、意味が解らぬので採らない。但し、「聊留」でも「かくりう」とは読めないし(読もうなら「れうりう」)、それらしい漢字を私は当てただけではある。より適切な判読(読み・意味も含めて)が出来るとならば、お教え願いたい。ここである(左頁二行目)。
「鳥目百文、二百文より、一貫、二貫にいたり、または、金子五十疋、百疋より、壱兩、二兩と、心々につゝみて、文左衞門に渡しけるを、おもふさま、取こみ、高(かた)〆(しめ)て百四、五十兩あてもありける」「疋」は鎌倉時代から江戸時代にかけて用いられた銭貨の数え方(通貨単位ではない)で、百疋をもって一貫とした。本作が刊行された一七〇〇年代で金一両は銀六十匁で銭四貫文(四千文)であった。同時代(江戸中期の初期)の一両を六千文ほどとして現在の約七万五千円とするデータが別にあるから、百五十両は最大一千百二十五万円相当となる。対して文左衛門が周波和尚に小出しに渡していた、「百文」は僅か千二百五十円から千六百七十五円相当となる。
「爪(つめ)はぢき」指弾。非難すること。
「初尾(はつお)」初穂(その年に最初に収穫した穀物などの農作物を神仏に差し出すこと。また、その代わりとする金銭)に同じ。]
醫者をよびて見するに、何のわづらひともしれず。
六脈は常にかはらずして、たゞおびたゞしき熱ありて、食物(くひもの)は、すこしも咽(のど)にいらず、たゞ、水をこのみけるゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、天目(てんもく)に汲てもち行(ゆく)に、井の水は吞(のま)ず、池の水のにごりたるに、鹽をさゝせては吞(のむ)事、日に、四、五斗ばかりなり。
[やぶちゃん注:「六脈」(ろくみゃく)は漢方で脈拍の六種の状態を指す。「浮」・「沈」・「数(さく)」・「遅」・「滑」・「渋」の総称。鍼灸ブログ「一鍼堂」の「東洋医学メモ【脈診】祖脈」に詳しいので参照されたい(調べて見たが、「渋脈」はリンク先の「濇脈(しょうみゃく)」と同じである)。]
「いかゞしたる事ぞ。」
と、妻子もかたはらをはなれず、祈禱をたのみ、佛事をなし、さまざまのことをすれども、終に本復(ほんぷく)なくて、霜月のすゑにいたりて、いよいよ煩ひおもくなり、あがき死(じに)にしけるを[やぶちゃん注:孰れかの「に」は或いは衍字かも知れない。]、隣鄕(りんがう)のものども、聞(きゝ)て、
「さこそあるべけれ。」
「佛罰(ぶつばち)なり。」
「なを、あきたらず。」
などゝつぶやきけるに、明(あく)る年の二日[やぶちゃん注:宝永三年一月二日。グレゴリオ暦一七〇六年二月十四日。]に、關濱(せきはま)といふ所の海より、あやしき魚を網にかけて引あげたり。
[やぶちゃん注:「なを、あきたらず。」「かく死んでも、まだ、その罰は充分とは言えねえな。」であろう。さればこそ、以下なのである。]
則(すなはち)、本庄(ほんじやう)の御領分(れうぶん)也ければ、御吟味をうけゝるに、長さ六尺、橫二尺ある魚にて、頭ばかりは男の首、肩さきより肱(かいな)まで、なるほど、人にかはらず、背筋より腹尾さき迄、鱗(うろこ)ありて、鯉(こひ)のごとし。
[やぶちゃん注:「肱(かいな)」肩から肘(ひじ)までの二の腕。或いは、肩から手首までの腕全体。挿絵は鱗が生えているものの左右の上肢は人間のように着いている。本文も挿絵も、首から下はしっかり巨大な魚そのものであり、モデル事実があったとしてもそれは、所謂、中・大型の海生哺乳類の誤認である可能性は全くない。]
背の鰭(ひれ)もとに、文字(もじ)のやうに黑きうろこありけるを、博學の人に見せ、これを、
「古文字(こもじ)・梵字(ぼんじ)などか。」
と、寫させてよませけるに、慥(たしか)に
「『橫山文左衞門』といふ書付(かきつけ)なり。」
と、よまれしにこそ、人、みな、舌をふるひておどろきけるとぞ。
[やぶちゃん注:人魚伝説は私のフリークな守備範囲なのであるが、このような因果応報によって人魚となるというのは、ちょっと聴いたためしがない。しかも、証拠の書付までその身に記されてあるというトンデモ・リアリズムは前代未聞の人魚奇譚である。
「本庄(ほんじやう)の御領分」冒頭に注した通り、ここが現在の由利本荘であるとして、ウィキの「由利本荘市」によれば、同『市中心部(旧・本荘市)は、出羽国が設置された』八『世紀から、交通の要衝として栄え、子吉川河口付近には、出羽国府の出先機関である「由理柵(ゆりのさく・ゆりのき)」が置かれた』。『源頼朝による奥州合戦ののちは由利氏が本領を安堵されていたが、和田合戦を期に大井氏が地頭として入部し、大井氏の霜月騒動連座による失脚後は北条氏が地頭となり』、『小早川氏が地頭代となったと考えられている。軍記物には応仁の乱のころに、信濃国佐久地方から由利十二頭が配置されたとされており、以後彼らが地頭として由利地域に割拠した』。『関ヶ原の戦いのあと、由利地域は、最上氏が治めることになり、その家臣・本城満茂が、現在の由利本荘市尾崎に本荘城を築いたことによって、本格的な城下町としての機能を持つようになった』。慶長一八(一六一三)年頃、『本城満茂が本城城を築き』、十『年間居城した後、元和』八(一六二二)年、『最上氏』は『改易によって退去した』。『その後』、一『年間』、『宇都宮城主本多正純が減転封されたが、この間に城は取り壊され』、『その後、本荘城には常陸国から六郷氏が入部し』、二『万石の大名として本荘藩を立藩。また、亀田には、岩城氏が亀田城を築き』、二『万石の亀田藩となった。さらに、矢島には、讃岐国高松藩の藩主だった生駒氏が生駒騒動により』、一『万石で移封され、ここに、由利地域は、本荘・亀田・矢島の』三『藩による統治が行われることとなった』とある。海浜であるから、そのままこれを六郷氏本荘藩藩領と考えるのが妥当であろう。事実に即すなら、第四代藩主六郷政晴の治世となる。先に示した東由利舘合からは石沢川が東流し、下って子吉川に合流し、子吉川は本荘市市街を抜けて、日本海に流れ込んでいるから、この「關濱」というのも、この子吉川河口の南北の砂浜海岸のどこかにあったと考えてよかろうかと思う。]