諸国因果物語 巻之五 目録・舍利の奇特にて命たすかりし人の事
諸國因果物語卷之五
舍利の奇特(きどく)にて命たすかりし事
願西といふ法師舍利の罰(ばち)を得し事
美僧は後生の障(さはり)となる事
男の一念鬼の面(めん)に移る事
正直の人蝮(うはばみ)の難を遁るゝ事
諸國因果物語卷之五
舍利の奇特にて命たすかりし人の事
津國瀨川の宿(しゆく)待兼山(まちかねやま)のほとりに、甚之丞といふものあり。そのかみ、荒木津守(あらきつのかみ)が伊丹籠城のおりふし、數度(すど)の高名ありて、感狀なども多く、攝津守、つゝがなく在世なれば、瀨川・本町・櫻塚、そのあたり廿鄕ばかりの押領使なりければ、天晴、よき武士となるべかりしに、伊丹沒落の後、やうやう居屋敷ばかりになりて、牢浪の身たりしが、今にいたりて三代、終に家の名を起さず、然も土民の數に入ながら、農業をしらず、心にもあらぬ隱逸の身なりなどゝ、人も問(とは)ぬむりを語り、身を高(たか)ぶりて、年ごろを過(すぐ)すもの、あり。せめてのとりへには、人に無心がましき事いはず、損かけず、何を所作(しよさ)する体(てい)もなけれども、見事、人なみに木綿衣裳さつぱりと着こなし、年に二度ほどは、近所の衆(しゆ)を呼(よび)て、碁(ご)・將棊(しやうぎ)にあそびなど、いかさま、天道、人を殺さぬためし、かゝる事にこそと、人もいひあへりける。
[やぶちゃん注:「津國瀨川の宿(しゆく)待兼山(まちかねやま)」現在の大阪府箕面市瀬川の千里丘陵西端にある小山(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。標高七十七メートル。西国街道沿いの景勝地で歌枕として知られ、かの「枕草子」の「山は」の〈山尽くし〉の章段にも「まちかね山」として出る。大阪府豊中市待兼山町も山麓に接する。
「甚之丞」後で姓を「山中(やまなか)」と出すが、不詳。
「荒木津守(あらきつのかみ)が伊丹籠城」安土桃山時代の武将で「利休七哲」の一人とされる摂津伊丹(有岡)城主荒木村重(天文四(一五三五)年~天正一四(一五八六)年)の織田信長との籠城戦。初め池田氏、後に三好氏に属し、天正元(一五七三)年には織田信長に仕えた。同二年、伊丹城を乗取り、四方の諸城に一族を配して摂津一円を治めたが、同六年、信長に背いて籠城(天正六(一五七八)年七月から翌天正七年十月十九日)、攻められては妻子を見捨てて居城を逃れ、毛利氏を頼って落ち延び、尾道に隠棲した。後に剃髪して「道薫」と号し、茶人として豊臣秀吉に仕えた、如何にも厭な奴である。
「感狀」戦さで立てた手柄を讃えて主君や上官が与える書付。
「攝津守、つゝがなく在世なれば」時制上は逆転したおかしな謂いである。
「瀨川」上記の豊中市瀬川の北で大阪府箕面市瀬川も接するのでそこも含むと考えるべきであろう。
「本町」大阪府豊中市本町。待兼山の少し南東に当たる。
「櫻塚」同前の南地区に「桜塚」地区が接して広がっている。
「押領使」暴徒鎮圧・盗賊捕縛などに当たった職。]
其隣鄕(りんがう)、宮(みや)の森の邊(へん)に、重太夫とて、甚之丞とは無二の友なりけるあり。是は庄屋にて、餘程、下人などもめしつかひ、手まへ、冨裕の者なりしかば、隙(ひま)あるにまかせて、常にそのあたり、心やすき方に行かよい[やぶちゃん注:ママ。]、殊に甚之丞も遊び好(ずき)なると、悅びて、たがひに朋友のまじはり、淺からずぞありける。
[やぶちゃん注:「宮(みや)の森」不詳。但し、一つ、待兼山の西直近の大阪府池田市石橋に「宮の前遺跡」(弥生中期から古墳時代)の名を見出せた。]
ある朝(あした)、用の事ありて、多田の方へ行けるに、大和河(やまとがは)の端(はた)に高札(たかふだ)を立たるあり、讀てみるに、
當月十二日の夜此河の端にて金子
三百兩入たる打替壱つ幷黑塗の箱
封付壹つ捨申し間覚ある御かたは目
祿御持參有りし引合候て本主へ相
わたし申上候以上
瀨川の客 山中甚之丞
と、しるしたり。
[やぶちゃん注:高札(ここは単なる私的な告知を書いたもの)の内容は高札らしく漢字のみで示した。以下に整序・訓読したものを示す。
*
當月十二日の夜(よ)、此河の端(はた)にて、金子三百兩入たる打替(うちがへ)壱つ、幷[やぶちゃん注:「ならびに」。]黑塗(くろぬり)の箱〔封付(ふうつき)〕壹つ、捨(ひらひ)申し間、覚ある御かたは、目祿(もくろく)御持參(ごじさん)有り、し引合候て本主(ほんじゆ)へ相(あひ)わたし申上候。以上。
瀨川の客(きやく) 山中(やまなか)甚之丞
*
先にこの高札の注をしておくと、「三百兩」は既に示した一両(六千文)を現在の約七万五千円とする換算なら、二千二百五十万円という莫大な額に相当する。「打替(うちがへ)」は「打飼袋(うちがひぶくろ)」の略。これは本来は、文字通り、鷹・猟犬・馬などの食糧を納めて携行する容器を指したが、後に転じて、旅人の携行する食糧の容器を言う。時には貨幣や鼻紙の類も納めた(軍陣の際、歩卒が一食分の食糧を納めたものを点々と結んで肩に掛けた細長い袋のことを特に「数珠打飼(じゅずうちがい)」と呼んだ。以上は小学館「日本国語大辞典」に拠る)。「目祿」とはここでは、紛失物についての、より細かい形状その他の事蹟・特徴を記したもので、当該物と同一であることを証明するためのものである。「し引合」「仕(し)引き合ひ」ととった。その目録の内容ととくと比較対照して吟味することを言っていよう。
「大和河」不詳。現行の大和川水系は大阪府のずっと南部寄りで、上記ロケーションとは重なる部分がない。地図では幾つかの無名の小流れはあるので、それらのどれかととっておく。
「多田」兵庫県川西市の多田地区か。直後で「有馬行」という語が出るのと合わせると、自然な位置であると私は思う。]
往來の旅人、有馬行の駕籠の者など、是を見て、
「誠に此札は遠く京海道まで立をきたり。上枚にて始て見たり。」
と、いふに付て、
「我は櫻井にて見たり。」
と、いふもあり、あるひは、
「郡山・芥河・高槻(たかつき)の邊にありし。」
[やぶちゃん注:「上枚」大阪府高槻市神内(こうない)の阪急電鉄京都本線の「上牧(かんまき)」駅のある附近か。
「櫻井」大阪府三島郡島本町桜井か。先の上牧の東北部に接する。
「郡山」大阪府茨木市郡山か。後の「高槻」の南西。
「芥河」大阪府高槻市芥川町或いはその西端を流れる「芥川」。JR京都線「高槻駅」はこの住所内である。
「高槻(たかつき)」狭義の現在の大阪府高槻市高槻町はJR京都線「高槻駅」南に当たる。]
など、口々にいふを、重大夫、つくづく聞て、感じ、
『誠に。甚之丞ならずば、かゝる高札も立まじ。さりとは、無欲の仕かた、此ごとく、所に札をたつる程の事を、我に何の沙汰せざりけるも。何とおもひて、語らざりけるぞ。』
と思ふ内にも、欲は、きたなき物かな、
『いで、此高札に付て、何とぞ、似つかはしき事を取繕ひ、自然、手にもいらば、德分よ。』
と、おもひけるより、引返して、甚之丞かたへ行、彼(かの)高札の事を問聞て、いふやう、
「我、手まはりの者、此ほど、池田へ屆(とゞく)る酒代を預り、大坂より歸りしが、荷物、何かと大分の擔(にな)ひものありしゆへ、此打かへをくゝり付しに、しやらとけして、落しを知らず、不念のいたり、其もの、夜前(やぜん)も承りしに、難義に及ぶよし。幸の事也。我に渡し給るべし。」
との挨拶、甚之丞、聞とゞけ、
「然らば、それに僞もあるまじ。殊に貴殿と某(それがし)の中なれば、早速も渡すべし。けれども、ケ樣の事には念入たるが互のため也。其人の口づから、箱の中の色品。上書[やぶちゃん注:「うはがき」。]の樣子、金子は封印に何とありけるぞ、目彔[やぶちゃん注:「目錄」に同じい。以下同じ。]を以て、引合せ、渡し申べし。」
との事也。
[やぶちゃん注:「しやらとけて」しゃらっと(「軽くさらっと」。オノマトペイア)ほどけて。]
重太夫、聞て、
『是は。心もとなき。目彔、何とあるべしや。』
と、おもひしかども、内に歸り、似合しき案文(あんもん)をしたゝめ、持參せしに、二、三日過て、甚之丞方より、
『成程、目彔に相違なし。但、箱の内は封印のまゝなれば、何とあるも存(ぞんぜ)ざれども、今晚、相渡し申べし。』
との使(つかい[やぶちゃん注:ママ。])、うれしく、早速、うけ取に行けるに、
「金子三石兩封のまゝ。」
と、彼(かの)箱とを、渡しぬ。
重太夫方より當座の礼として、金子百兩持參しけるを、甚之丞、堅く辭退しけれども、やうやうに渡し、酒など吞(のみ)かはし、夜ふくる迄、語り居て、歸りぬ。
明(あけ)の日は、早天(さうてん)より起(おき)て、先[やぶちゃん注:「まづ」。]、此金子に灯明(とうめう[やぶちゃん注:ママ。])など奉り、重太夫、心に人しれぬ笑(ゑみ)をふくみ、氏神を幾度か拜みて、扨、かの封を切けるに、三百兩ながら、悉(ことごとく)眞鍮(しんちゆう)にて作りし似せ小判、壱文が物にもならず。
「こは、いかに。」
と、大に化轉(けでん)し、其まゝ、此金を引さげ、甚之丞が方へ行き、いろいろと穿鑿しけれど、却(かへつ)て、重太夫、言かけ者のやうになりて、樣子あしければ、
『一代の不覚也。』
と、肝をつぶして、歸りぬ。
[やぶちゃん注:「化轉(けでん)」「怪顚」とも書く。吃驚すること。
「言かけ者」理屈に合わない言いがかりをつける輩。]
元來、跡かたもない事なけれども、此似金(にせがね)[やぶちゃん注:金子に似せた贋金。]は、甚之丞の工出(たくみいだ)して、渡世の元債(もとで)となしける也。
かゝる橫道をたくみて、人の金銀を手もぬらさずして取こみしかば、今まで樂々と過しけるに、此事のせんさく有けるより、何とやらん、ひそひそと、村中の取ざた、あしく、人まじはりも疎(うと)くなりしかば、此ほど、住なれたる家も纔(わづか)の金に代(しろ)なし、右の百兩に合て[やぶちゃん注:「あはせて」。]、大坂に下り、元鞚錦(うつぼにしき)丁に、少の由緣(ゆかり)あるを賴み、しばらく、付食(つけめし)に身を隱し、折ふし、北濱の米市(こめいち)に端(はた)を仕(し)て、少々の利分を窺(うかゞひ)けれども、始の程こそ、德分も付つれ、後々(のちのち)は、餘程の蹴込行(けこみゆき)て、次第に下りを請、よろづに心のまゝにとあらぬ矢先、此宿の亭主、ある夜、妻子を道修(だうしう[やぶちゃん注:ママ。])町なる親もとへ遣し、只ひとり、居間に寢もやらず、夜半のころまで、留守を守りて居たり。甚之丞は、其夜、谷(たに)町邊(へん)に用の事ありとて、出たりし跡なり。
[やぶちゃん注:「橫道」「わうだう(おうどう)」。「人としての正しい道に外れていること・邪道」或いは「不正と知りながら行うこと」。
「元鞚錦(うつぼにしき)丁」不詳。前に出た大阪府大阪市西区靱本町辺りか。次の「北濱」は、東北直近で、ごく近い。
「付食(つけめし)」賄い付きの居候か。
「北濱」大阪府大阪市中央区北浜。船場の「北」の「浜」(大阪では河岸(かし)を指す)の意。
「米市(こめいち)に端(はた)を仕(し)て」米の小売りに手をつけ。と言っても、これまでの甚之丞の様子から見ても、誰かを雇ってやらせものであろう。
「蹴込行(けこみゆき)て」舞台の蹴込に落ちるように、がっくりと儲けがなくなり。
「下りを請」「くだりをうけ」。赤字となって、であろう。
「道修町」大阪市中央区道修町(どしょうまち)。江戸時代からの薬種問屋街で、現在も製薬会社が並ぶ。北浜の南直近。
「谷(たに)町」大阪府大阪市中央区町。]
比は元祿十五年[やぶちゃん注:一七〇二年。]の秋、もはや名月にちかき空、俄にかき曇り、時ならぬ夕立、一通り降(ふり)て、物さはがしくすさまじき折から、庭の沓(くつ)ぬぎの下より、人音して、立出(たちいづ)るもの、あり。
『こは、いかに。盗人にこそあるらめ。』
と思ふより、平生(へいぜい)、物おぢする人なりければ、憶病神(おくびやうがみ)[やぶちゃん注:ママ。]にひかされ、ちつともはたらかず、一念に大悲觀世音の名号をとなへ、
『所詮、此家にある程の宝、たとへ丸剝(まるはぎ)にして行たりとも、命さへあらば。』
と觀念し、他念なく念佛したりける後(うしろ)より、慥に[やぶちゃん注:「たしかに」。]、一(ひと)太刀、きり懸(かけ)つる、と覚けるが、其後、夢中(むちゆう)のやうになりて、前後をしらず。
盗人は、
「仕(し)すましたり。」
と、急ぎ、とゞめをさすべき心に成て、切つけし刀を引に[やぶちゃん注:「ひくに」。]、何に切つけしにや、有無(うむ)に[やぶちゃん注:どうしても。]、切込し所より、ぬけず。
「こは、いかに。」
と、心せきて、大汗(おほあせ)になりて、
「ゑいや、ゑいや。」[やぶちゃん注:「ゑ」はママ。]
と引ける内、あるじの女房、手代などに送られ、歸りけるが運のつきとて、表の戶をしめざりける儘に、程なく、みなみな、門、一入[やぶちゃん注:「かど、ひとしほ」。]、音(おと)しければ、刀を捨(すて)て迯(にげ)んとせしが、何とかしけん、踏(ふみ)はづして、我着物の裾の破れに足を引かけ、
「どう。」
と、仆(たふ)れけるを、手代ども、見付て、やにはに、とらへて見れば、甚之丞也。
「扨は。きやつが手にかけ、旦那を殺しけるにや。」
と、切こみし刀を引ぬきて見しに、亭主には、露ばかりも疵つかず、持仏堂の戶を切割(きりわり)て、中なる舍利塔(しやりたう)に切先(きりさき)をきりこみて、ありける。
かたじけなくも、此舍利は、和州法隆寺より申うけて、年比、侘心したりし、生身[やぶちゃん注:「しやうしん」。]の仏舍利にてありしとぞ。
[やぶちゃん注:「侘心」「わびごころ」か。心から静かに祀り拝んできたことを謂うか。
「生身の仏舍利」私も諸寺で見てきたが、高名な寺院のそれ、本物の仏舎利と称するものは、概ね、水晶であった。]
亭主も此奇特に、性根(しやうね)も付かゝる不思議を得たりし悅に[やぶちゃん注:「よろこびに」。]、甚之丞が命をたすけるに、甚之丞も此瑞現(ずいげん)より、心ざしをあらため、其場にて髻(もとゞり)を切、すぐに道心の身となり、今に玉造(たまつくり)の邊にありとぞ。
[やぶちゃん注:「性根(しやうね)も付かゝる」心底をぶすりと突かれたような、の意でとっておく。
「玉造」大阪府大阪市中央区玉造。個人的には私なら、こんな近くに居てはほしくないね。]